蒼と蜂蜜

音崎 琳

1.

 ぎい。

 扉を押し開けると、ふわりと埃が舞った。少女は、籠を握る左手にぎゅっと力を込める。籠は一抱えほどもある大きなもので、真っ白な布巾が中身を覆っていた。

 洋館の中は薄暗く、床や天井の隙間から、白い光が筋になって射し込んでいた。

 少女は恐るおそる足を踏み入れる。背後で、扉が軋んで閉じた。耳を澄ませるが、人のいる気配はない。ただ、分厚く埃の積もった床に、幾つかの足跡が道を描いている。少女はその道標に従って、そろそろと歩み出した。

 小さな玄関ホールの正面には、螺旋階段が二階へと続いている。どうやら階上は明るいらしく、光がホールまで零れていた。足跡は、そこを辿っていた。少女は籠を両手で持ち、忍び足で上っていった。

 二階には光が溢れていた。それもそのはず、屋根の大部分が、とうの昔に失われてしまっているのだ。壁もあちこちが崩れ去り、まるで戸外にいるようだった。少女は薄曇りの白い空を見上げて、眩しさに瞳を細めた。

 螺旋階段を上りきったその正面、大きく崩れた壁の向こうに、小さな四角い影が見えた。

 少女は注意深く瓦礫を避けながら、その影に近づいていった。影は、奇跡的にほとんど原形を留めているバルコニーに立っていた。

 声を掛けるのにどうにか足りる距離で、少女は足を止めた。影はもう影ではなく、一心にカンバスに向かう少年だった。くたびれた白いシャツと、継ぎの当たった焦げ茶の吊りズボンの後ろ姿。カンバスには、白い鳥が羽ばたいていた。

 少女は息を吸い込んだ。

「あの」

 パレットの上で絵の具を混ぜ合わせていた少年の筆が、ぴくりと止まった。少年はゆっくりとふりむく。雲が切れて、初秋の太陽が澄んだ茶色い瞳を照らした。

「貴方が、あの蒼い絵を描いた人ですよね? はじめまして」

 少女はぺこりと頭を下げた。少年は目をまるくして、少女を見つめた。風が、ふたりの髪を揺らした。

「えっと……貴女は?」

 少年は尋ねた。少女は顔を上げる。

「貴方が描いた絵を買ったのが、私の父なんです」

 少年は、ああ、と声を漏らした。脳裏に、この町の名士だという紳士の姿がおぼろげに浮かんだ。

 少女はしばらく、もじもじと籠の持ち手をいじっていたが、やがてその籠を掲げてみせた。

「その、よろしければ、一緒にお茶しませんか? 貴方と、お喋りしたいんです」

 少年は再度目をまるくする。なんて物好きなひとなんだろう。

 けれど、断る理由はなかった。



「この家には、家具が一つもなくて……。どこでお茶したらいいかな」

 少年はきょろきょろとあたりを見回した。いつの間にか、青い空がふたりの上に広がっている。

「そうだ、じゃあ、あの階段に座りましょう」

 少年は、少女が上ってきた螺旋階段を指した。この洋館の中では最も埃が少ない場所だろう、という少年なりの配慮である。

 決めるなり、少年はすたすた歩き出した。少女は慌てて後を追う。服を汚してはいけませんよ。ばあやの声を、少女は頭の中から追い払った。

 少年がすとんと腰を下ろす。間に持っていた籠を挟んで、少女も同じ段に座った。被せてあった布巾を取り上げる。中には、大振りのポットとマグカップ、そして、さらに布巾が掛けられた小ぶりの籠が入っていた。

 取り上げた布巾で階段を拭ってから、少女は二つのマグカップを並べた。布巾が真っ黒になったのには、気づかないふりをする。ポットから紅茶を注いでから、そのポットも階段の上に置いた。残った小ぶりの籠は、外に出すのはやめにして、布巾を取った。中にはスコーンが山盛りになっていた。

「どうぞ、めしあがれ」

「いただきます」

 紅茶の香りが鼻をくすぐる。少年はマグカップを手に取った。じんわりと温かさが手にしみて、なぜか一瞬視界が緩んだ。目を閉じて、カップに口をつける。

「おいしい」

 それを聞いて、少女はにこりと笑んだ。

「貴方は、絵描きさんなんですよね。いつからこの町に?」

「ついこの間です。絵を買ってくれる人を探しながら、あちこち旅をしているんです」

「じゃあ、この洋館は」

「捨てられた家だと思ったので、勝手に借りています」

 少女は栗色のお下げの先を指に巻きつけながら、月光に浮かぶ洋館を想像してみた。町には、森のそばにあるここに、夜になってから近づく者など誰もいない。

「怖くないんですか?」

 少年はきょとんとした。

「でも、夜露も風もしのげます。晴れた夜は星が綺麗ですよ」

 少女は紅茶を口に含んだ。砂糖を入れてきたから、甘い。

 浮かんできたもう一つの問いは、訊けなかった。その問いの答えを、少女は既に見ていた。

「この町に、どのくらいいらっしゃるのですか?」

「気の向いている間は。あるいは、絵を買ってくれる人がいる間は」

「父はきっと、貴方の絵を買いつづけると思います」

 少女は熱心に言った。少年はスコーンを手に取りながら、微笑した。

「ありがとうございます」

 いきなり何を、と思われたかしら。少女は少年から目を逸らして、自分もスコーンに手を伸ばした。

「あの蒼い絵は、どこで描かれたんですか?」

「前にいた街で描き上げました。あの絵のための画材でお金を使い果たしてしまったので、買ってくれる人を探しに来たのです」

「そこにも、こういう家があったのですか?」

「古い倉庫の隅っこにいました」

 少女はスコーンを小さくちぎった。若草色のスカートの上に、きつね色の細かいかけらが散らばる。頭の中で、赤い煉瓦の壁の奥、大きな木箱や幾つもの麻袋に囲まれてカンバスに向かう少年の黒い髪に、金色の日が当っていた。

「この町は、どうですか」

「ぼくはまだ、あまりこの町を見ていないので。どこか、見るべきところはありますか?」

 少女は大きく頷いた。ごくん、とスコーンを呑みこむ。

「鐘楼から見る夕焼けが、本当に綺麗なの。今度、一緒に見に行きませんか?」

「ええ、ぜひ」



 少女は、軽やかな足取りで屋敷に帰ってきた。少女の家は町外れにあり、あの洋館にも近かった。

「おかえりなさいませ、お嬢さま」

 出迎えたのは少女のばあやだった。落ち着いた灰がかった薔薇色のドレスに、真っ白な前掛けを締めている。灰色の混じった白髪は、いつものようにぎゅっとひっつめにしていた。

「ただいま、ばあや」

 ばあやは目敏く、少女のスカートの汚れに気がついた。

「お嬢さま、服を汚してはいけませんと、いつも申し上げているでしょう」

「ごめんなさい。あのね、それよりも」

 ばあやに籠を渡しながら、少女は花のように笑った。

「あの子は喜んでくれたみたいだったわ。今度、一緒に鐘楼へ行く約束までしたのよ。夕焼けを見せてあげるの!」

「それはようございましたね」

 ばあやは紫の目を細めた。少女が物心つく前から、ばあやが亡き母の代わりだった。

「お父さまにも、この事をお話ししてくるわ」

 少女は父の書斎へ向かって駆け出した。

「お嬢さま、お屋敷の中を走るものではありませんよ」

 ばあやの小言は、少女の耳には届かなかった。

 書斎の扉の前で、少女は軽く息を整えた。扉を叩く。

「どうぞ」

 静かな声で返事がある。

「失礼します」

 書斎の壁は、ほとんどが棚と本棚で覆われていた。一面だけほぼ空いており、そこには数枚の絵が掛かっている。入り口の向かい側には細長い窓があり、日の光が射し込んでいた。その窓の手前に、入口に向かう形で机が置いてあり、少女の父がペンを走らせていた。

 扉を開け部屋に入るなり、少女は紅潮した頬で報告した。

「お父さま、あの子に会ってきました!」

 買ったばかりの絵を食いいるように眺めている少女に、それを描いたのは同じ年頃の少年で、今はあの洋館に住んでいるから会ってみてはどうかと勧めたのは、少女の父だった。

 父は仕事の手を止めて、優しく少女に問いかけた。

「そうか。どうだった?」

「とっても良い子でした。私が行ったとき、あの子は絵を描いていました。でもそれを中断して、一緒にお茶を飲んでくれたんです。おいしいと言ってくれました」

「それは良かったね」

「はい! 今度、鐘楼で夕焼けを見る約束もしたんです。それに、別れ際に明日も来ていいですかって訊いたら、『また明日』って言ってくれました」

 ひとしきり少年の様子について語ってから、少女は壁の一角に寄っていった。

 そこに掛かっていたのは、小さな絵だった。

 雨に濡れそぼった灰色の猫が、空を見上げている。青みがかってはいるものの、全体の色調は灰色だ。それでも少女は、この絵を蒼いと思った。

 この絵に、魅せられた。

「そんなにその絵が好きなら、お前の部屋に飾ろうか」

「いいえ、お父さま」

 少女はかぶりを振った。

「見たいときは、ここに来ます」

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