5
夕暮れに近づいてきたと知ったのは、来澄君のお母さんが帰宅したからだった。
凄い剣幕で二階に上がってきて、
「凌! あんた学校で何したって!」
勢いよく部屋のドアを開けたところで私の存在に気が付き、
「あら、ゴメン。お友達?」
お母さんは目を丸くした。
「ま、益子、怜依奈、です。初めまして」
私も緊張して、とりあえずの自己紹介。涙はすっかり引いていたけれど、目も鼻も赤かったかもしれない。泣いていたのがわかったらどうしようとドキドキしていると、来澄君は私たちの会話を遮るようにすっくと立ち上がった。
「今から家まで送ってくとこ。学校の話は、帰ったらちゃんとするから」
「どこまで送るの」
「まっしの家。駅の近くだって」
「あらそう。気をつけて行ってらっしゃい。怜依奈ちゃん、だっけ。また来てね」
「ありがとうございます」
私もランドセルを背負って、来澄君と部屋を出た。
帰り道も、来澄君は私に気を遣い通しだった。
「俺と歩いてるのを見たら、嫌がらせされるかも」
言いつつ、なるべく人目につかない小路を選んで歩いてくれる。
薄暗くなってきた景色はいつもより霞んで見えた。
「なんで」
来澄君の一歩後ろをついていく私は、無意識に声を上げていた。
「あのとき、急に怒ったの」
来澄君はしばらく無言で、私の前をスタスタと歩いた。
夕暮れ時の住宅街には、いろんな匂いが充満していた。焼き魚の匂い、お味噌汁の匂い、カレーの匂い。そして、来澄君ちの匂い。私にも、来澄君ちの匂いが少しだけ染みついていた。
「あいつら、まっしの悪口言った」
「――え?」
来澄君は立ち止まる。
私は急いで来澄君の隣まで進む。
「まっしが、誰かのことを『気持ち悪い』なんて言うような嫌なヤツだって思われるだろ、あれじゃあ!」
来澄君の答えは、あまりにも意外だった。
自分のことをどんなに言われてもグッと堪えていた彼の、堪忍袋の緒がどこで切れたのか、それを知ったとき、私は益々彼が――好きに、なった。
枯れたと思っていた涙が、またポロリポロリと落ちてくる。
来澄君はびっくりして、
「ゴ、ゴメン! 変なこと言った?」
ハンカチを取り出そうとしていたみたいだけど、生憎それは来澄君の部屋で私が涙で濡らしてしまって置いてきた。私は袖口で涙を拭って、
「うれし涙。うれし涙だから」
あのあとどうやって家まで帰ったのか。
私はよく、覚えていない。
六年生で、急なクラス替えがあった。
転出者が多く、一クラス減が決まって、私と来澄君は別々のクラスになった。
教室が離れたこともあって、以後殆ど会話を交わすこともなく卒業した。
中学に入ると直ぐに両親は離婚。私の苗字は母の旧姓の“須川”になる。もう、“まっし”じゃなくなってしまった。
来澄君のことは、中学に入ってもずっと忘れなかった。
不器用で、つっけんどんで、でも本当は凄く凄く優しい彼のことは、私の中だけの宝物。誰が彼を誤解しても、私は彼のことを信じていようと胸に誓った。
高校に入り彼と再会したとき、私がどれだけ喜んだか。来澄君は知らないだろう。背が伸びて、益々精悍になった彼を、私は窓際の席からじっと見つめる。
少しだけ彼は、変わった。
誘われて一緒に帰る友達もできたみたいだし、やたらと来澄君にちょっかい出してくる女子もいるみたい。
あの頃とは違う彼に、私は話しかけることもない。
来澄君はもう、忘れただろう。冴えない女子が励まされたこと、救われたこと。
「また、友達になれたら良いな」
私は今日も、窓際の席から彼を見つめる。
あの日の感謝を胸に秘めて。
隣の席の来澄君。 天崎 剣 @amasaki_ken
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