夕暮れに近づいてきたと知ったのは、来澄君のお母さんが帰宅したからだった。

 凄い剣幕で二階に上がってきて、

「凌! あんた学校で何したって!」

 勢いよく部屋のドアを開けたところで私の存在に気が付き、

「あら、ゴメン。お友達?」

 お母さんは目を丸くした。

「ま、益子、怜依奈、です。初めまして」

 私も緊張して、とりあえずの自己紹介。涙はすっかり引いていたけれど、目も鼻も赤かったかもしれない。泣いていたのがわかったらどうしようとドキドキしていると、来澄君は私たちの会話を遮るようにすっくと立ち上がった。

「今から家まで送ってくとこ。学校の話は、帰ったらちゃんとするから」

「どこまで送るの」

「まっしの家。駅の近くだって」

「あらそう。気をつけて行ってらっしゃい。怜依奈ちゃん、だっけ。また来てね」

「ありがとうございます」

 私もランドセルを背負って、来澄君と部屋を出た。



 帰り道も、来澄君は私に気を遣い通しだった。

「俺と歩いてるのを見たら、嫌がらせされるかも」

 言いつつ、なるべく人目につかない小路を選んで歩いてくれる。

 薄暗くなってきた景色はいつもより霞んで見えた。

「なんで」

 来澄君の一歩後ろをついていく私は、無意識に声を上げていた。

「あのとき、急に怒ったの」

 来澄君はしばらく無言で、私の前をスタスタと歩いた。

 夕暮れ時の住宅街には、いろんな匂いが充満していた。焼き魚の匂い、お味噌汁の匂い、カレーの匂い。そして、来澄君ちの匂い。私にも、来澄君ちの匂いが少しだけ染みついていた。

「あいつら、まっしの悪口言った」

「――え?」

 来澄君は立ち止まる。

 私は急いで来澄君の隣まで進む。


「まっしが、誰かのことを『気持ち悪い』なんて言うような嫌なヤツだって思われるだろ、あれじゃあ!」


 来澄君の答えは、あまりにも意外だった。

 自分のことをどんなに言われてもグッと堪えていた彼の、堪忍袋の緒がどこで切れたのか、それを知ったとき、私は益々彼が――好きに、なった。

 枯れたと思っていた涙が、またポロリポロリと落ちてくる。

 来澄君はびっくりして、

「ゴ、ゴメン! 変なこと言った?」

 ハンカチを取り出そうとしていたみたいだけど、生憎それは来澄君の部屋で私が涙で濡らしてしまって置いてきた。私は袖口で涙を拭って、

「うれし涙。うれし涙だから」

 あのあとどうやって家まで帰ったのか。

 私はよく、覚えていない。



 六年生で、急なクラス替えがあった。

 転出者が多く、一クラス減が決まって、私と来澄君は別々のクラスになった。

 教室が離れたこともあって、以後殆ど会話を交わすこともなく卒業した。

 中学に入ると直ぐに両親は離婚。私の苗字は母の旧姓の“須川”になる。もう、“まっし”じゃなくなってしまった。

 来澄君のことは、中学に入ってもずっと忘れなかった。

 不器用で、つっけんどんで、でも本当は凄く凄く優しい彼のことは、私の中だけの宝物。誰が彼を誤解しても、私は彼のことを信じていようと胸に誓った。

 高校に入り彼と再会したとき、私がどれだけ喜んだか。来澄君は知らないだろう。背が伸びて、益々精悍になった彼を、私は窓際の席からじっと見つめる。

 少しだけ彼は、変わった。

 誘われて一緒に帰る友達もできたみたいだし、やたらと来澄君にちょっかい出してくる女子もいるみたい。

 あの頃とは違う彼に、私は話しかけることもない。

 来澄君はもう、忘れただろう。冴えない女子が励まされたこと、救われたこと。

「また、友達になれたら良いな」

 私は今日も、窓際の席から彼を見つめる。

 あの日の感謝を胸に秘めて。

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隣の席の来澄君。 天崎 剣 @amasaki_ken

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