第14話 月やあらぬ/藍沢千紘


「だから、話そうよ。あのころの話をしよう」


 わたしは伊砂の隣に座ると、ようやくまともに彼女を見つめた。カウンター席の向かいには広い窓がある。きらきらと光の粒がテーブルを照らして、思わずその眩しさに目を細めた。

 肩のあたりでゆるやかに巻かれた髪、くっきりと浮かびあがった鎖骨に、懐かしく胸がうずく。かすかに不安げな瞳をした彼女に、言いようのない苛立ちをおぼえた。


 ――あなたは、そんなひとじゃなかった。


 そんな思いを抱いたまま、わたしは群青色のカップに入ったコーヒーを意味もなくかたむける。

「なんで、千紘がここにいるの」

 彼女はもういちど、状況が飲み込めないようすで訊ねた。わたしは平静をよそおって、「伊砂が、いるんじゃないかと思って」と答えた。

「そっか。私もだよ」

「え?」

「さっきね、あなたがここにいるような気がしたの」

 優しい声音だった。もう、その手には乗らない。わたしはきつく目を閉じる。

「あなた、なんて。使わなくてもいいよ」

 そっけなく言うと、彼女はなぜかためらったあと、「なまえで呼んでいいの?」と不思議そうに訊いた。

「べつに、いまさら気なんて遣わないで」

「……ちひろ」

 伊砂に微笑まれると、わたしは弱い。あのころに戻ってしまう心地がする。

 伊砂にすべてを委ねたくないという気持ちと、あずけてしまいたい気持ちがかさなって、どうしようもなく情けなくなる。いとおしくなる。

 ああ、わたしはずっと、彼女のことを慕っていた。だからいまでも、無条件にあなたを信じてしまいそうになる。それを、ようやく理解する。

 何度もおなじ過ちをかさねて、いくつもの傷をつくって、そうしてわたしはここに立っていること。苦しみを与え続けてきたくせに、微笑みかけてきたあなたのこと。わたしはゆるせないはずで、この痛みはもう拭えないはずで、なのにいつだって、陽だまりのような記憶ばかりを思い出してしまう。


 わたしは心底、伊砂だけを拠り所にしていた。


 目の前の空はあきれるほど青く澄んでいて、胸の奥が柔らかくゆるんだ。

 伊砂はさっきの笑顔が嘘のように、静かに目を伏せた。そんなに緊張しなくてもいいよ、と思う。いまさらいくら言葉を積まれたとしても、もう関係は修復できないから。

「あなたがわたしを忘れるとして、それはどうしても許せなかった」

「私、そんなに強くないよ」

 困ったように、それでいて毅然とした声で言う彼女にひるんだ。

「あなたには、強いままでいて欲しかったのに」

 わたしが言うと、彼女はこわばった表情を隠すように、窓のほうを向いた。それから、わたしの手におそるおそる触れる。きらいだ。そんなあなたなんて、大嫌いだ。

「私は、千紘の見てくれていた私は、強かったのかな」

 彼女がぽつりとこぼす。うなずくしかなかった。


 夕陽に燃える教室で、伊砂がわたしを殴って、ふるえる手で抱きしめたとき。スカートのポケットから細い彫刻刀を出して、わたしの首にあてがったとき。だれよりも千紘が好きだと、わたしにむかって微笑んだとき、「あなたは、確かに強い存在だった」

 伊砂は弱いわたしを守る盾であり、同時にわたしを傷つける剣でもあった。


 客たちが、わたしと伊砂を交互にみくらべては足早に通り過ぎてゆく。

 あれほどわたしを傷つけた伊砂は、世界の理を知らないまっさらな子どものように、清らかな目をしている。

 わたしは、あのころからずっと、伊砂の瞳ばかりを見ていた。

 晴れた日の空を映すとうつくしい薄青さを孕み、冬の朝、椿の植わる庭をあるけば紅に滲む瞳が、本当にどうしようもないくらい、すきだったのだ。

 憐憫を伴ったときのまなざし、それすらも。

「わたしは伊砂に、ぜんぶ打ちあけたかった。それを伊砂が、拒んだの」

「……そんなの。拒んでいたなんて、嘘でしょう」

 伊砂が語気を荒げ、そのあと、我に返ったように「ごめん」とか細い声で謝った。

「拒んだのと、おなじか。私がしたことは」

 伊砂はわたしを何度でも許して、壊した。嫌いだと罵って、大切だと言って、私がいるから大丈夫だと髪を撫でた。いじめられていたわたしに何度だって手を差し伸べた。笑いかけた。優しい声で呼んだ。どんなときもふたりであろうと言ってくれた。嫌いだ。好きだ。好きだ。わたしは、翻弄されて、そして彼女に応えた。

 彼女がわたしを拒む日はあっても、わたしは彼女を拒まなかった。

 結局は、わたしも伊砂とおなじだったのだ。

 彼女が好きで、嫌いで、どうしようもなかった。いま現在もだ。

「私は千紘に、詰ってほしかったのかもしれない」

 伊砂はモーニングセットには手をつけないまま、水の注がれたグラスを取った。からんと氷を鳴らして、息を吐く。

「いつか、千紘とふたりで、閉じこめられたでしょう」

 伊砂はしんとした目でわたしを捉えた。おぼえている。

「うん。寒くて凍えそうだったことだけは、おぼえてるよ」

 嘘だ。わたしは、きっと彼女以上に、その日のことを強く記憶している。

 雪の降る日、終業式の朝、わたしたちは社会準備室に閉じ込められた。埃っぽいあの準備室には、筒状の地図や地球儀以外にも、おおきな段ボールや箒で埋まっていた。古びたちいさなソファにすわり、ふたりで身を寄せ合ってすごした。伊砂が隣にいることが、抱きしめてくれたことが、うれしかった。いくら傷つけられても、愛されている証だと信じて疑わなかった。

「わたしといなかったら、伊砂は平穏だったんだよ。なのにわたしに近づくなんて馬鹿なこと、するから」

 彼女がかぶりを振った。

「私は、あなたが必要だったんだよ」

 伊砂は、わたしは、愚かだ。

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青の激情 淡島ほたる @yoimachi

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