第三章
第13話 結ぶ手の/透野伊砂
午前二時半、私たちは一等客室に戻った。それぞれ布団に入り、電気を消し、おやすみとだけ言いあう。テーブルと椅子のほかにはベッドがふたつあるだけの簡素な部屋は、なにも干渉してこない親しい友人のようで安心する。
真っ暗闇の部屋で、私はしんとした心持ちになった。足のさきはひんやりと冷たい。さっきあんなに取り乱したのが嘘のようだ。
ゆっくりと目をつむると、彼女のすがたが濃く鮮やかに浮かびあがってきた。
大丈夫、だいじょうぶだ。
幾度もとなえるたび、心は言葉に反比例するように急いて脈打つ。
海の音は遠く、それでも伝わってくる波の声に耳を澄ませた。そちらに心を向けているうちに瞼は重くなる。さきほどまでの口論とも呼べないような口論で、知らないうちに疲弊していたらしい。
泥のように眠り、朝方に目を覚まして、また数時間ほどうつらうつら眠った。体力を回復しなければ彼女に会うことはできないと、まるで自分自身に忠告されているようだった。
「
昨夜よりもいくぶん穏やかな青磁の声に、私はうすく目を開ける。おはようと返した自分の声はなぜかとても低く、青磁に「まじかよそれ」と笑われた。
青磁は身支度をすっかりととのえて、さわやかな顔をしている。グレーの上着の下に薄い水色のワイシャツを身につけた彼は、私よりもいくらか年上のように思えた。
白のニットとモスグリーンのスカートに着替えて洗面台に立つと、鏡に映った自分の顔色があまりにも彼と対照的で、なんとなく愉快だった。いつもより念入りに化粧をして、最後に口紅を引く。顔がふだんの血色に近づいたのを確認し、ようやく胸をなで下ろした。
「オムレツ食べたいな」
朝陽のまぶしい廊下を歩きながら、そう軽やかに希望を口にしている自分に驚く。青磁にたいしての無意識な確執のようなものは、日ごとにぽろぽろと剥がれ落ちているようだった。
「オムレツか。そんな洒落たメニューあんのかな」
「あるんじゃないかな。オレンジジュースも飲みたい」
「あれだな、それならお子さまランチ頼んだほうが早いな」
彼の軽口に笑ってから、そうだねと返す。大きな窓ガラスから降りそそぐ冬の光はとても強くて、私は何度もまばたきをした。
すぐとなりで、ちいさな通知音が鳴った。
青磁のスマートフォンだろう。おなじ速度で歩いていた彼の足がふいにとまった。振り向くと、端末の画面を見つめる青磁がいる。どうしたのと訊ねる間もなく、ぽんと軽く背中を押された。あたたかくて優しいてのひらだ。
直後、彼が申し訳なさそうに笑った。
「……ごめんな、煙草きれたわ。先に行っててくれる?」
「なにがあったの」
青磁のあいまいな微笑みに、私は後ろ髪を引かれる。嘘をつくのがへたな人だと思う。
「終わったら、すぐに行くから」
じゃあ、と
彼のすがたがすっかり見えなくなってから、私はようやく歩きはじめた。
まだ早朝だというのに、店はほどよく混んでいる。列にならんでモーニングセットを受けとると、迷わずカウンター席へむかった。青磁はすぐに戻ってこないだろうという気がしていたからだ。
軽いプラスチック製のお盆を置いてすぐ、足を絡めとられるような既視感に襲われた。
「となり、いいかな」
頭上から降ってきたのは、もう数えきれないほど反芻した声だ。
振り向かなくても、私はその声を理解していた。
重いジャスミンの香り。意識ごとさらわれてしまうような強い香だ。急速に記憶が巻き戻される。ぐわんぐわんと視界が揺れて、喉は熱くなる。
「……なんで、
ようやく発することができたのは、凡庸な問いかけだけだった。
「なつかしいね」
私の目の前にいる千紘は、あの日とおなじ純度で笑っている。彼女に会うためにここまで来たはずなのに、実際にそのすがたを目にするとくらくらした。
「あなたがこんなところまで来てくれるなんて、わたし、思わなかったな」
あまりにも素直な声で言われて、そのまま受けとってしまいそうになる。そういえば、あのころから彼女はそうだった。
振り返らずに、私の言葉を信じる人。
私にはそれが眩しくて、痛かった。
少女のような雰囲気は変わらないまま、けれど今ここにいるのは紛れもなく、私とおなじだけ歳をとった千紘だった。
「本題に入るまえにひとつだけ。青磁さんなら、
言わない約束だったんだけど、あなたがあんまり不安そうな顔をしてるから。
――でも、だいじょうぶだよ。
そうつぶやいて、彼女は私の手をとる。
「だから、話そうよ。あのころの話をしよう」
千紘は私のとなりに腰を下ろすと、まだ熱い湯気が立ちのぼるコーヒーを置いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます