第12話 潮満てば/入江青磁

 港に着いて船に乗ってから、伊砂いさは放心したようにじっと黙っていた。俺もそれに倣う。互いに話しかけようとはしなかった。


 夜が訪れた展望デッキには、もうほとんど乗客の姿は見えない。淡い照明だけがちらちらと光を落としていて、窓に近いカウンター席を選んでふたりで腰を下ろすと、外を見ていた彼女がふと「視界がふさがれてるみたい」と小声でつぶやいた。


「ほんとだな」


 彼女の言うとおり、真夜中の海はどこまでも黒く、ひと繋がりの闇となって目に飛び込んでくる。


 はあ、と息を吐く。なにから話そうか。なにから話せばいい。

 しばらく逡巡したのち、「なあ、なんか喉渇かねえ?」と声をかけた。一拍遅れて、そうだねと返事がくる。そのことにほんの少し安堵した。


「伊砂、何にする?」

「お酒がいい」

 いっさいためらいのない答えに虚を突かれて、思わず「え」と声が漏れる。日頃そんなに酒を飲むわけでもない伊砂が、このタイミングでアルコールを所望するなどあり得ないことのように思われた。

 なんで。そうたずねる間もなく、伊砂は柔らかく微笑んだ。

「酔ってるくらいじゃないと、たぶん正気が保てないから」

「ああ……なるほどな」

 

 酔うことで正気を保つ--その言葉は矛盾しているようでおそらく正しい。たしかに、いまの彼女はひどく不安定だ。酒が入ったほうが、むしろ心の均衡が保てるのかもしれない。

 分かったと答えて財布を取ってから、なんとなく胸騒ぎがした。足もとに冷たい水が押し寄せてくるような、ひやりとした感触。

 唐突に、伊砂がどこかへ行ってしまいそうな気がした。遠くに漁り火が見えて、ふいに異国の地に投げだされたような錯覚を起こす。


「すぐ戻ってくるから、ここで待ってて。ひとりでふらふら歩くのはなしだからな」


 念押しのようにそう言うと、伊砂はおかしそうに肩を揺らした。

青磁せいじ、どうしちゃったの? 心配症だね。なんだか急に、子どもみたいだよ」

「俺のどこがだよ。あなたのほうがよっぽど--」

 子どもみたいな目をしてるよ。

 その言葉は自分の中に留めて、じゃあ行ってくる、と小さく片手を上げた。


 自販機は案外はなれた場所にあった。節電なのか、灯りは最小限に抑えられている。缶ビールをふたつ抱えてデッキに戻ると、伊砂はうつらうつらしていた。考えごとが絶えないのだろうから、体力が消耗するのも無理はなかった。


 寝かせとくか。そう思いつつ髪を撫でると、ぴく、と彼女の頬が小さく痙攣する。

「……おやすみ」

 伊砂の安心しきったような寝顔を見たら、こちらまで眠気に襲われた。大きく欠伸をする。俺と伊砂は、おなじ速度でぬるい微睡みに落ちていった。


「青磁」


 穏やかな眠りの中、声がした。何度も心許なく呼ばれる。問いかけにも似たその声に、聞き覚えがあった。

 暗闇の内側で、水滴に濡れたビールの缶だけがきらりと眩しく光る。俺は、「なに」とかすれた声で聞き返す。どうした、伊砂。

 

「……わたしは千紘に、」


 いつもは絶えず俺をどこか怖れているような視線を向けていたが、いまはそうではなかった。幻だろうか。彼女はまっすぐこちらを見つめている。


「会って、話し合うんだよな、藍沢千紘と」


 頬杖をついたまま確認の意味を込めて訊くと、彼女はおだやかに相槌をうった。


「はなしあう、か。いまさらだね」


 初めて会ったときよりも随分長くなった髪を、伊砂はふわりと結びながら言う。纏めきれず、彼女の白い頬をさらさらとすべる髪の束。それらは朧気に洩れ出る月の光に照らされて、息をのむほどに美しかった。


「……いまさらだから、もういいんだよ」

 彼女はそう吐き捨てると、どんな反応をも遠ざけるように「あのね」としずかに切り出した。

 たったその一言で、調子が狂ってしまう。 いつも伊砂は、こんなに優しい声をださない。もっと淡々と、さげすむみたいな温度のことが多かった。伊砂のほうはきっと無意識だろう。俺が勝手に棘を感じているだけだ。


「青磁は、千紘と会うの、いいの」


 神妙な顔でたずねる伊砂に、なにを、と投げやりに返しそうになる。「いいの」も何も、そのために来たはずだ。


「もちろん、いいにきまってるだろ。あなたたちのことは、会わないと始まらないよな」

「そうかな」

「伊砂は解決したいんだよな、あの子とのことを。そしたら」

「……解決?」

 心底おかしそうに伊砂が笑った。

「私と千紘が解決? ふふ。むりだよ」

「伊砂」

 ふ、と彼女の意識が途絶えた気がしたのだ。だがそれは杞憂だったらしい。

「青磁は、やっぱり心配症だ」

 伊砂はなおも笑みをみせた。


「きれいだね」

 彼女の言葉につられて、広い窓の外を見遣る。

「そうだな」

 ほとんどなにも見えないけれど、だれもいない静かな夜の景色は美しかった。


「……青磁はどう思う?」

「え?」

「青磁は、どう思った?」


 伊砂の目の中には、もう景色など映っていなかった。燃えるような色をした瞳だけがそこにある。きれいだな、と思った。海なんかよりももっときれいだ。


「私は千紘の、よくない噂をいっぱい流した。彼女が、自分以外の人たちにきらわれるように仕向けた。もともといじめに遭っていた彼女を、さらに追いつめた」


 そう言って、伊砂は苦しそうに息を吸った。

「自分は、なによりも汚いと思う」

 うなるような低い声だ。目の奥には、一瞬の揺らぎが見える。


「この期に及んで青磁にきらわれたくないんだよ、私。馬鹿みたいだよね」

 ビールにはまだ手をつけていないというのに、胃の中がひりひりと熱い。

「やめろよ」

 声を荒げた自分に驚いて、それから、刺されたような表情をみせる伊砂に動揺した。目を伏せた伊砂を直視できない自分が、情けなかった。


「やめない。これ以上一緒にいたら、青磁までほんとうに傷つけてしまいそうになるんだよ。私はそれが、どうしようもなくいやなの」

 震えて頼りない彼女の声には、けれど芯があった。だったら俺も応えるのみだ。冷たい空気をゆっくりと吸い込む。


「俺は、あなたといることを決めたあの日から、共犯になる覚悟はできてるよ」


 --そうだ。

 あの日に何度戻ったとしても、おなじ目をした伊砂を放って生きていくことは、きっとないだろう。

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