第11話 君ならで/藍沢千紘
あなたは、うまくやれていた。
あの教室で浮いていたのはじつのところ私のほうで、あなたはおそらくそれを危惧していた。あなたは私の手をとる。親しみをこめて、私の名を呼ぶ。
そういう夢を、今さらになってみるのです。もう永遠に幻想は幻想のままだと悟りながら、なのに私はずっと、夢にとらわれているような気がしてなりません。浅薄で幼かった私のことを、どうか夢のなかだけでもさんざんに傷つけてくれと、あなたを身勝手に求めています。
繋ぎとめられるほどの強度を持ちあわせていなかったのに、私はあなたを引き留めた。
■
ていねいに破りすてる。
白い紙くずたちはいっせいに飛びたつ。はらはらと風に吹かれゆくのを、わたしは真新しい気持ちで見つめる。
藍沢千紘さま。一瞬、だれだろうと思う。すこし遅れて、ああわたしのことだと理解が追いついた。ちいさく千切って千切って、手を風上にさらした。うんと遠くに、見つからないところへいってしまえ。わたしがいた証など無価値だ。
薄桃色のスカートがなびく。風は勢いをまして、ばたばたばた、大きな音をたてる。それが、なぜだかひどく心強かった。
たとえば、と仮定する。いまここで背中を押してくれる人がいるとして。そうすればわたしは果てを迎えられる。やさしい終焉だ。
むなしいな。あなたも、わたしも。
返事は書かなかった。書く必要さえないと感じたからだ。そんなものが来たところで、あちらとしても戸惑うばかりだろう。
わたしは伊砂を知らない。
細い腕を、年のわりに憂いを帯びた頬を、間近で見ていたいと切迫して焦がれた時期があった。彼を、欠けた月のようだと思っていた。彼が不完全な人間だというのはひと目でわかった。なのに惹かれてしまった。不完全だったから、なのかもしれない。それとも、とにかくここでない場所に導いてくれる人なら誰でもよかったのかもしれなかった。ほんとうのところは、自分にも明らかではないのだ。
いつでも苦しそうなのに、瞳のなかで揺れる火だけは、ごうごうと強く燃えていた。ふらふらしているようで、しんじつ、真剣なまなざしをする人だった。わたしはそれに惑わされた。引きあわされた、というのが適当な気がした。
たまに感じる。彼はほんの少し、あのひとに似ている。
「……歓。たぶん、来るような気がするの」
ねえ、歓。
呼びかける。彼はじっと目を閉じていた。眠っているのか起きているのか死んでいるのか、どれでも通じるような目もとだった。疲れきって、なにものからにも逃げきれなかった表情。朝陽が、なにもないわたしたちのあいだを通りすぎてゆく。地面には光の湖がゆらいでいる。途端にあかるくなったり、影をつくったり、さまざまだ。
「わたしは、あなたには、なにもないね」
そっと彼の髪を梳いた。そこだけが透きとおるような赤だった。光のあたり具合だろうか。自分の指が想像していたよりもずっと脆そうで驚いた。爪がやわらかい。
穏やかにふれた彼の頬が、かすかに熱を持っている。この人にも血がながれている。それはひとしくわたしにも与えられたものだ。自分ひとりで生きているような顔をして、生かされている。その事実にどうしようもなく打ちのめされてしまう。頼ることを嫌いながら、わたしは寄りかかるしかないのだ。
ねえ、歓。わたしたちはどうして、ここにいるんだろうね。答はだれも教えてくれない。冷徹だ。歓でさえも気づかないことを、わたしが理解できるはずもなかった。
もういっそ、と自棄になる。伊砂でもいい。彼女が来てくれたなら。遠ざけたくせに、いまさら近づくことをのぞんでいる。暗いばかりの海も空もその果ても、燃えて灰になったその瞬間がいっとう美しいだろうと、わたしは信じてやまない。
彼女がいまここにいるような気がして、しかたがなかった。
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