第10話 沢の蛍も我が身より/透野伊砂

 かん、かららん、と軽い音がした。

 私の指からするりと滑り落ちたそれは、逃げるように通路のほうへと転がっていく。


「伊砂、待って。電車とまってからな」


 それを拾おうとすでに手を伸ばしていた私を、彼が柔らかく諭した。うなずいて、ゆっくりとシートに身体を戻す。


「……あなたは、なんだか自然に危険なことをするから」


 青磁がわずかに強い口調でそう言ったことにたじろいで、私は身を固くした。

 もしもいま、「これくらい大丈夫だよ」と冗談交じりに言ったとしたら。

 もしもこれから、彼の言葉を聞き入れなかったら。それを考えるのが、私は怖いのだ。馬鹿みたいだと思いながら、やめられないでいる。


 人のまばらな夕方の電車は、気が楽だった。車体は静かな音をたてて、滞りなく進んでいる。


「空いてるな、座ろうか」

 

 そう言った彼の目線が向かい合わせの座席を捉えたとき、私はすこしだけ緊張した。彼と出かけた経験はそういえば数えるほどだったと、不思議な気持ちになる。

 夕陽のオレンジが射す。白い床が、じょじょに色を宿していく。

 目の前に青磁がいるのは、やっぱり落ち着かなくて、なんらかの故障のようだった。だってこれまで、こんなことはなかった。隣に座るほうがまだ正常を保っていられる。かすかに感じる体温にどきりとすることはあるけれど、面と向かって青磁を見なくてすむ。

 


 電車が人を吐きだしたタイミングで指環を拾った。いつものように右手の薬指に嵌めると、やっと落ち着いた。ふだん身につけているものが失くなると、そわそわしてしまう。

 いつかの誕生日に青磁がくれたその指環は、淡い桜色をしていた。輪っかの中央にあしらわれた銀色の石は、暗がりで見ると、月明かりのようにやさしく光った。それを眺めるたび、心がぐわりと揺さぶられる。


 私には、これを貰う資格がない。


 眠るまえにはずすとき、このまま窓から投げ棄ててしまおうかと考えてしまって、私はひどいやつだと思う。この世界でだれよりも悪人だと感じる。



 電車の床にしゃがみ込んだままの私を、青磁が不思議そうに見た。ふいに、静脈の浮きでた彼の腕にそっと触れた。それはきっと、確かな衝動だった。彼の手が一瞬、痙攣したように動く。


 私はほとんど懇願に近い声音で、「眠れないね」とつぶやいた。彼が軽くまばたきをすると、ながい睫毛がゆっくりと上を向いた。

 青磁は「そうだな」とこちらにまったく興味がないそぶりで答えてから、「あなたが、」と切り出した。


「あなたが望まないなら、俺もずっと、望まないから」


 彼の目は冷めていた。そしてそのぶんだけ優しかった。だから甘えた。こうして私は一生、ほんとうのことを言えないままなのだと悟った。


 電車が動き始めたその瞬間、私は立ちあがる。迷いなく彼の首に手をまわす。抱きしめるとふたりぶんの心臓の音がかさなって、大きな爆弾をかかえたまま、水の底に沈み込んだみたいだった。青磁は苦しそうに顔をゆがめる。


「……私は、ずっと後ろめたかった」

「うん」

 私は力をゆるめなかった。離したくなかった。この思いが永続的に続くものではないと、分かっていたからだ。いつ消滅してもおかしくないと、すでに感じていた。


「青磁を大切に思うことは、ずっとないだろうって思ってた」

「うん」

「なのにいまは、そうじゃないの。おかしいよね。なんでかな……なんでだろうね」


 彼の肩に顔をうずめると、あたたかかった。青磁は「つめてえよ」と笑う。

 私と彼はその瞬間だけ、世界から隔絶されていた。

 私たちはたしかに、無敵だったのだ。

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