第9話 終夜/藍沢千紘
かすかな振動が心地よく、わたしはそっと目を閉じた。ここはなんだかゆりかごのようだと思った。あるいは、おだやかな胎動。
暗闇のなかでぼんやりと光が浮かびあがるのを感じて目を開けると、真っ青なフロントガラスが飛びこんできた。窓の外をながれる景色は冴え冴えとした夜の空気を孕んでいて、ひとり取り残されたみたいだ。思わず子どものころのような感覚に陥って、どこ、と掠れた声でつぶやくと、すぐ隣で見慣れない男が「おはよう」と笑った。まだ夢なのかも知れない。
「誘拐なんて、案外あっけないものなんだね。まあ、こんなこと当事者の君に言っても仕方ないかな」
男の横顔は青白い光に照らされて瞬いている。薄い唇は鮮やかな赤色をしていた。は、と男がまばたきをした。その一瞬、たった一瞬に、なにかに傷んだ表情をみて、わたしはいっぺんに胸をうたれた気持ちになる。
「君がひとりだったから、攫ったんだよ」
おぼろげだった記憶に、すこしずつ輪郭が与えられてゆく。頭は即座に容量いっぱいになった。
そうだ、わたしは、教室にいた。息苦しい空気にいやけがさして、それでも帰れなくて、ひとりでいた。
眩しい午後の日差しと、窓外で絶えず鳴りひびくクラクション、クラスメイトたちの笑い声、廊下の足音、喧騒。それらがきこえる教室に、わたしはいた。
「……攫った?」
つぶやく。そこに感触はなかった。自分のことだとは、どうしても思えなかった。
「そう。僕と同じだと思ったんだ。だれにも見つけられずに、ぜんぶなげうった顔をしていたから」
ハンドルを切る手をわずかに緩めながら、男はわたしを見た。
「なにか要望があれば、高速を出たら停まるけど」
男の言葉をほとんど聞かないまま、わたしは訊いた。
「わたしを、殺すの」
彼の瞳がすこし、あかるい光を帯びてみえた気がした。君は、と言いかけて、男は考えるように口をつぐんだ。
「君はやけに物騒なことを思いつくんだな」
「だって、誘拐っていったらそれでしょう?」
「一概には言えないよ。それが目的じゃないやつもいるさ」
男はかすかに笑った。三日月が夜道を照らしている。ふっと男がシートに深くもたれた一瞬、こうこうとした光が車内を満たした。男の手許があかるんで、すこし傷んだハンドルのぜんたいがあらわになる。この男とわたしが過ごしてきた時間には、あきらかに差があるのだと思い知らされた。
「そうだ。眠くなる薬を飲んでもらったんだけど、頭痛はない?」
「うん。なにも」
「そう。なら、行こうか」
わたしはおそろしいくらいに落ち着いていた。手首に片手を添える。ど、ど、ど、ど。
脈がはやくて、不思議だ。心はこんなに穏やかなのに、身体は急いている。壊れているのかもしれない、と思う。わたしは、もうなにに対しても動揺しなくなってしまったのかもしれない。かなしくもつらくもなかった。それはただ事実として、自分の中に定着していた。
ラジオからは音質のわるい歌謡曲が流れていて、わたしはぼうっとその歌詞を追った。ざざざ、ざざ、と音をたてる砂嵐にまぎれて、透きとおった低い声がきこえる。
濡れた歩道を……ただひたすらに……ひきかえせない、ふりむきもしない。
口ずさんでいると、「昔の歌をよく知っているな」と感心したように言われたので、「一番のくりかえしだったから」と答えた。
静かな歌だった。遠い陸地に置き去りにされたような声だと思った。
「君は、なにを望んでいるのかな」
「なにも。考えても、しかたがないから」
「それは、なんで」
男の声はひどく小さかった。わたしは淡々と答えた。隠すのもめんどうだった。
「もうなにもないから。一度そうなっちゃったら、望みなんて果てるんだよ。知らないの」
男はふいに喉を鳴らして、わらった。
「知らなかった。夜みたいだな」
そうだね、と答える。ほんとうだ。ちょうど、この夜に似ている。なんにもない、からっぽな、がらんどうの夜だ。
■
歓がすぐそばにいる生活は、絶えず激しい波に打たれているみたいだった。一瞬引いたかと思えば、また押し寄せてくる。拒む一切の余地はなく、ただ一方的に訪れるそれを受け容れることしかできない。
終わったあと、わたしはかならず外に出た。身体じゅうの熱はいっぺんにひいて、冷たく吹きあれる風が心地よかった。
そんなときはいつだって、このまま死ぬことさえも素晴らしいことのように思えた。
「君は、だれにも愛されていない」
彼は口癖のようにそう言った。でも、それによってわたしの心が苦しめられることはなかった。
事実だったからだ。愛されていないことなど、わたしがいちばん知っていたからだ。
あるとき、歓が「欲しいものはない?」とわたしに訊いた。蒸し暑い夏の日の、火ともし頃だった。わたしは、ないよ、と答えてから「待って」と言った。
「……あの、音楽が欲しい。歓に」
連れ去られた車で、流れていた曲。
そう言おうとして、やめた。いま思い出そうとするには、互いにとってあまりにも重く、遠い記憶だったからだ。
「そう。分かった」
遠ざかる歓の背中を見て、わたしは「さようなら」と告げた。
いつもいつも、歓が出かけるときは、帰ってきますようにと願ってしまうのだ。そうして、わたしは馬鹿だと深く思う。逃げてしまえばいいのに、逃げられないのだ。
きょうもまた、夜が迫ってきている。甘さをふくんだ雨の匂いがする。わたしは、待たなくてもいいはずの人を、今夜も待っている。
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