第二章

第8話 長き夜の遠の睡りの/入江青磁

 玻璃島から帰る道中、朝まで付き合えなどと言っていた由利ゆりがすぐにつぶれてしまって、仕方なく介抱した。飲んだら泣き上戸になる性質たちならはやく言えよなと、疲れきった気持ちで毛布をかけてやる。

 由利はいびきをかいて眠ってしまった。この人はどこでも眠れるみたいだ。たった数杯の酒で顔を赤くして「俺はいいから飲め」と笑っていた姿を思い出す。もしかしたら由利は、ただ俺と話したかっただけだったのだろうか。


 雑魚寝をする人たちでひしめく二等客室をあとにして、去就に迷った。

 やることがないからといって寝る気にもなれない。塗装の剥げかけた広い天井を見上げると、埃を被った記憶がよみがえってきた。昔っから、修学旅行でもなんでも、寝つくのが遅かった。同級生たちが寝静まった和室の静けさは、なんとなく心細かった。

 年季を感じさせるぼろい蛍光灯は瞼のうらを刺激するように幾度となく瞬いて、伊砂と出会ったころに二人で訪れた居酒屋を思い出した。あのときの彼女は終始落ち着かない様子で、俺を見ていた。それは今現在も変わらない。

 あいつが俺といることで和らいだりすることは、もう一生ないのではないだろうか。



 一服するため、まだ薄暗い甲板に出た。

 空気は冷たく澄んで、朝が来るまえの淡い闇にぽっかりと自分だけが佇んでいる。灰色のダウンジャケットから煙草を取り出して長く細い煙をすうと吐くと、永遠に朝が来ないような寂しさに駆られて、ふいに小さな笑いが込み上げてきた。

 なにを感傷的になってんだ、俺は。 

 船のむこうで揺れる波を見つめる。船から吐き出されるように生まれるそれは、青く静かだ。たとえばここで俺がなにかを叫んだとして、だれも来ないだろう。


「——入江青磁さん、ですよね」


 やけに芯のある声に、身体ごととらえられた。

 前方から吹きすさぶ潮風が、乾いた頬を撫でる。振り向くと、薄桃色のコートを身につけた女性が、静かにこちらを見据えていた。強い決意に衝き動かされたような瞳は、心なしか赤く充血していて痛々しかった。

 長く吐いた煙を目で追う。逃げるように遠くへ遠くへと向かっていく。


「透野伊砂から、あなたのことを聞きました」


 伊砂の名前が出たことで、ほんの少し肩の力が抜けた。彼女の交友関係はほとんど知らないが、知り合いだろうか。それにしてはあまりにも挑戦的な気配が滲みすぎているように思える。

 彼女は伊砂よりも随分と背が低かった。夜と朝のあわいに浮かぶ茜色の頬や、幼さの残る顔立ちに、子供のような印象を受けた。

 容赦なく吹く向かい風に視界を奪われながら「君は」と訊いた。彼女は少しかすれた声で「藍沢千紘といいます」と答えた。

 その名前に、殴られた気がした。

 ニュースで、新聞で、幾度となく見た名前だ。


「……少女監禁事件の被害者の名前と一緒だな。同姓同名か」

「本物ですよ。よくご存じですね。まあ、そっか。数年前のことだし、まだ覚えてくれてても不思議ではないかな」

 まあわたしは高校には通ってませんでしたけど、と彼女はたいして面白くなさそうにつけ足した。

「よくわかんねえけど、本物なら、こんなとこにいない方がいいんじゃないの」

「野次馬精神に欠ける人ですね。面白くないな。まさか、信じてないんですか」

 彼女は俺の横を通り過ぎると、潮風に濡れた白いベンチに腰かけた。彼女の後ろで、揺らめく橙の漁火が見える。

「煙草ください」

「吸えんの? 法に触れるだろ」

「言っときますけど、わたし、あなたと同い年ですよ」

「ああそうか……いいよ」

 煙草を口にくわえて息を吸った直後、彼女はげほげほと咳き込んだ。

「慣れないことしようとするからそんなんなるんだろ」

「なんでも、慣れてしまったら終わりでしょう」

 彼女がふと顔をそむけた。

「……こんなものなんですね。ちっとも美味しくなんかない」

 背中をさすろうとすると、大丈夫ですから、と手で制された。行き場を失った手を持てあましていると、「彼女は、元気ですか」

と訊かれた。

「俺が知ってる限りでは、少なくとも元気じゃないな」

 ふ、と彼女が笑った気がする。

「ね、わたし、透野の友達なんかじゃないですよ」

 唐突にそう切り出されて、俺は二本目の煙草に火を点けるのをとめた。

「友達じゃないなら、何」

「なにものでもありません。ただわたしは、彼女を苦しめたいんです。わたしが彼女にされたくらい、同じだけ」

「どういう文脈であなたが伊砂をうらんでいるのか、俺には分からないんだ。あいつが君に、なにをしたの」

「黙れ」

 すべてを拒絶したような声にひるんだ。彼女は海を見て、息を吐いた。

「あなたにわかることなんて、なにもないでしょう。伊砂のことだって、なにも、なにも知らないくせに。さらうだけさらっておしまいだなんてそんなの、わたしは絶対にゆるさない」

 藍沢千紘が、俺の手をきつく掴む。彼女の桜色の爪が手の甲を引っ掻いて、思わず手を離した。

「約束してください。彼女を追い詰めて、壊して、わたしとおんなじにして。わたしは透野伊砂に傷つけられて、真白歓に壊されたから」

「なんで俺のところに来たの」

「伝えてもらうためです。伊砂に、伝えて下さい。わたしはあなたを、忘れない。一生、一生、ゆるさないって。そういうことを」

 これは、呪いだ。赤く腫れて熱を持った手の甲を見ながら、思う。


「残酷な現実のほうが、ずっとなぐさめになることだって、あるんだ」

 気付いたら口に出していた。

 しらないよ、という彼女の言葉が、甲板に落ちる。


「しらない、そんなの。残酷なほうがいいだなんてそんなの、絶対に信じない」


 彼女はひどく傷ついた顔をしていた。俺はどうすることもできないまま、彼女の言葉を聞いた。

「見返りなしに、掛け値なしに人を好きになれたら、どれだけ幸福だろうと思います。でも、できないから。だから、嘘でもいいから」

 藍沢千紘の目は、重なる夜の闇をとらえていた。ふっと、揺らぎそうになる。

「伊砂のこと、幸せだと思いますか」

「俺はあいつじゃないから」

「幸せなわけが、ないでしょう」

 軽い真綿を押しつけるみたいに、彼女は言った。彼女の顔は、静かに白んでいく空に照らされて、どこか眩しそうだった。

「……うしなうばかりしてきた彼女を、あなたはきっと救えないと思います。二人が重なることは、ぜったいにないの。あなたと伊砂は、どうしたって、一人と一人のままだから」

「どういうこと」

「わたしは、彼女の孤独を知っています。そして、知られたの」

 消え入りそうな声だった。

「だから同罪だなんて、わたしは思っていません。決定的にわたしを貶めて傷つけたのは、彼女のほうだから。あの日は、溺れるような夕暮れでした。透野がわたしを連れ出しました。風があんまり強くて。呼吸が、うまくできなくて」


 藍沢千紘はゆっくりと俺に近づいた。石鹸の匂いがふっと顔をかすめて、この人はいま幸せなのだろうかと、ぼんやり感じた。

「歓は優しいから、なおさら人を傷つけてしまうんです。あの人には理屈があるから。わたしを傷つける権利があるから」

「そんなの、あるわけないだろ。権利を主張する人間が、常に正しいとは限らない」

 俺の言葉に、藍沢千紘はかなしそうな目をした。


「さなかにいるとね、狂ってることすらわからなくなるんです」


 そう言い残すと、彼女は踵を返した。

 引きとめてほしかったのかもしれないと気づいたのは、後になってからだった。俺はただひたすら、彼女の後ろ姿を見ていた。朝が降りてくる。やがて訪れた燃えるような陽光に圧倒されていると、耳鳴りのような時間は消えて、藍沢千紘はもうどこにもいなかった。

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