第7話 君の旧り行く/不在 

 知らないうちに眠っていたようで、目を開けると美しい茜色が空を満たしていた。圧倒されるような色彩にぐらりと重い痺れを覚えてカーテンを閉めると、ようやくほっとした気持ちになった。化粧を落とさないまま眠ったせいで、顔が昨夜のままかたまっているような気がする。

 時計の針は夕方の五時を指していた。はやくお風呂に入らないと。そう顔を上げたところで、枕元に見覚えのない紙を見つけた。なんだろうと手に取ると、そこには『遅くなります』という青磁の悪筆があった。スマートフォンがあるのだからメッセージ機能を使えばいいのに。不思議に思ってなんとなくメモを裏返して、短く息を呑む。

 あなたの気持ちに寄り添えなくてごめん、そんな走り書きだった。

 やめてよ、と反射的につっぱねたくなる。「あなたの気持ち」だなんて。私自身がわかっていないのに、どうしようもない。

 泣きたいような思いで、私はそのメモを破った。指先がふるえる。

 ぴりり、とちいさな紙を手でちぎるたびにぞくぞくと背中が粟立って、手のひらほどの快感に浸っている自分自身がおそろしかった。はっとした気持ちで床に落ちた紙くずをながめながら、これはゴミだ、と念じる。これは、不要なものだ。

 きのうの晩に青磁と言い合ったことが、夜の川を流れ落ちる枯れ葉のように、静かに頭に浮かんだ。瞬間、ゆるい目眩が起こる。

 言ったこと、言われたこと。ぜんぶ直視したくなかった。青磁、きょうは何時に帰ってくるんだろう。

 気まずいし会いたくない。とっさにそう思ったけれど、結局は倦怠感が勝って、出かけるまでにはいたらなかった。

 泥にも似たけだるさで上体を起こすと、お腹の下のあたりがじんと淡い熱を帯びて痛んだ。いやなタイミングだ、とつぶやいてベッドから下りる。こんな日は思い出してしまう。夕陽に照らされてうつくしく滲む手首の傷が、まぶしい。




「ねえ、死なないでよ」


 青磁と出会うまえの、夏の終わりのことだ。ひどく雨が降った日の旅行先で、美島はそうこぼした。

 いつか「殺したい」と言ってきた相手がそんなことを言うのは矛盾していると思いながら、私はただ黙っていた。

 綺麗な畳のうえに正座している彼は、自分よりもいくらか年上のはずなのに、親とはぐれた幼子のようにたよりなく映る。どこか心細い匂いを漂わせているわりに、ふとしたタイミングではっきりした物言いをする彼のことを、私は正直もてあましていた。美島の白い横顔と長い睫毛を見つめて、唐突にこの人を倒したいと思った。

 その気持ちを遮断して、私はしかたなく「生きてるよ」とほほえむ。ばかみたい、と心のうちでつぶやいた。ばかみたいだ。

 だって死にそうな顔してるよ、と美島は唇をとがらせる。小学生みたいな感想だね。私が布団にもぐりこんで言うと、僕はきみのことをよく知らないから、と彼は不思議そうに応えた。この人には直球しか通じないんだった、と思い出す。なにも話したくない。雨は激しさを増して、窓を強く叩いている。

 惰性のように旅行誌をめくる彼が「そんなに気分わるいの? なんでだろうね」と笑った。月にいちどやってくる女特有の現象を、美島はまだ心の底から信じていないようだった。


「しんどいなら、浴衣から着替えたほうがいいんじゃない? 着慣れないもんずっと身につけてたら疲れるでしょ。楽な格好に着替えてさ、寝てたら治るよ」


 頭がうずく。

 あくまでのんびりとした調子の美島に、私は何も言えなかった。暗闇ばかりを映していたテレビから、ぱ、と光がこぼれる。どばどばどば、身体がなまぬるい光にまみれてゆく。冗談みたいなうるささの笑い声に、かえて、と思わず声を荒げた。あわてて真っ黒なリモコンを操作する美島の手首の細さを見て、女子だ、と思う。美島といると、自分の性別を忘れてしまう。一瞬のうちに居心地の悪さを覚えて、身体は「吐きたい」と訴えていた。

「ごめん、動くのも億劫だから」

 浴衣の袖を軽く揺らして言う。じっさいのところを言うと、濃紺の浴衣が痛みを呑み込んでくれるような気がした――のだけれど、言ったところで軽く笑われて終わりだろう。


「そう。じゃあ僕、出かけるけど、いいね」


 念を押すかのような口調に、うん、とほとんどため息のような返事をした。美島は黒い革財布をつかむと、ほんの一瞬だけ振り返った。


「なにか欲しいものがあったら、携帯鳴らしてくれたらいいから」


 がちゃり。ためらいなく鍵をかける音がする。

 つかれた。冷えきった足がじいんと痛む。皺ひとつない羽毛布団はやわらかくて厚くて、なんで私はあの人とここにいるのだろう、という思いがふいに頭をもたげた。彼のことをそんなにすきじゃないのかもしれない、とも思う。窓の外側で生まれては消えてゆく雨粒を見つめ、ふと死にたくなった。

 おまえなんか死ねばいいよ、と軽やかに言った美島の声が耳から離れなくて、喉が焼けるように熱い。ぜんぶ終わりになればいいのに、と、身体を曲げて願う。がらんどうの部屋で私はまた、銀色に光るカッターを取り出している。




「おーおー、目ぇ腫れてんぞ」 


 それはまぎれもなく青磁の声だった。

 静かな寝室。ああ夢だったと安堵して、そのあと、美島の気配をもういちど思い出した。彼の細い体躯や獰猛な目つきが脳裏に浮かんで、はあ、と息を吐く。

 熱のこもった身体と部屋の冷たい空気、そのふたつの温度差で風邪を引きそうになった。外はもう真っ暗で、ということは、まる一日眠っていたことになる。

 頭が重い。ぼうっとして青磁をながめた。黒いスーツと、すこし伸びた前髪。どうした、と静かに言って、青磁は首をぐるぐるまわしている。答えを必要としていない質問にほっとした。

 はーさむさむ、と青磁がなんの迷いもなく私の背中に手をつっこんだ。もはや凶器だ。声にもならない声が出て、口のかたちだけで私は「バカ」と言う。


「ていうかあなた、ずっとここにいたわけ。暖房もいれないでさあ、死ぬよ。馬鹿じゃん」

「生きてるよ」

 私は笑った。

「知ってるよ。死んでてこんなにはきはき物言うやつ見たことないからな。つーか、こんな暗闇でなにしてんの。まあ……泣いてたのか」

 私の顔を見た青磁があきれたように言って、あくびをする。その遠慮のなさがうれしかった。言ってなかったな、と思い出して、おかえり、とようやく言う。

「うん、ただいま。で、あれか? 泣くほどのアレがあったか」

「あの。美島が、夢に出てきて」

「あ? ああ……忘れた方が身のためだぞ」

 青磁は白い絨毯に腰を下ろすと、こめかみを掻いた。

「うん」

「ビールでも飲む?」

「うん」

「あれだ、寝るか」

「うん」

「どっちだよ」

「どっちでもいいんだよ」

「生きろよ」

「生きてるよ」

 私の言葉を聞いた青磁が、ふと笑った。しずかに目を伏せる。

「なあ、伊砂」

 さっきよりもすこしだけ力を込めて、うん、と答える。

「藍沢千紘のところへ、行こう」

 へ、と間抜けな声が出た。そんなの、と言った声がかすれる。

「行く意味が、」

 あるだろ、と断言されて言葉に詰まった。青磁は私の手をとって、まっすぐにこちらを見つめている。

「あるんだよ。俺はきっと……俺もきっと、知らなきゃいけないことだろ」

クラクションの音がする。開けっぱなしのカーテンから、夜の闇を裂くような光がこぼれた。私は、「わかった」と答えた。決意でもあきらめでも贖罪でもなかった。終わらせるための義務で、手段だ。

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