第6話 天の火もがも/浅石菊深

藍沢千紘あいざわちひろ……は、いないか。えーじゃあ、次、浅石。百五ページ読んでくれ」


 またかよと思いつつ、「はい」と返事をして、あたしはしかたなく立ち上がった。あと一分で六時間目が終わるこのタイミングであててくる先生、ありえない。加えて、藍沢千紘はいじめが原因で、もう数週間も学校を休んでいる。どんだけ生徒に興味ないんだよ、とも思う。しかも毎回毎回「出席番号順にあてる」というルールを崩さないせいで、早い番号の人間はほぼ毎時間あてられるという忌まわしきシステムだ。やってられない。


「……君が行く、道の長手ながてを繰りたたね」


 けだるさにあふれたあたしの声に、軽やかなチャイムの音が重なった。先生は参った参ったとでも言うように白髪を掻きながら、「ああすまん、次回に持ち越しだな。次は浅石から、と」と言って手元の教科書にメモしはじめた。さいあくだ。無限地獄だ。

 


 授業が終わると、皆は早々に帰ってしまった。来週から中間テストだし無理もないか。

そう思って、あたしはのんびり帰り支度をはじめた。ゆっくりと日が落ちてゆく教室で、ゆらゆらと無為に舞う埃をながめる。陽にあたって、埃までもがなんだか綺麗に見えてくるからふしぎだ。自分もこの埃も似たようなもんだ。掃きだめみたいなこのクラスで所在なく漂っているところなんか、そっくりで泣けてくる。

 風流だなあとばかなことを考えていると、「浅石さん」という聞きなじみのない声が聞こえた。慌てすぎてうっかりペンケースを落としてしまった。限界まで物を詰め込んでいたペンケースは、がこん、というどうしようもなく情けない音をたてて床を転がる。あたしが取るよりも早く、「はい」とその子が拾ってくれた。


「ごめん、驚かせちゃったね」


 彼女は静かな声で淡々と言った。

 たしか、おなじクラスの子だ。肩口で切りそろえられた髪、意志の強そうな大きな黒目、長いまつげ。要らないものはなにもつけてません、というかんじがする。無添加無加工。藍沢千紘のいじめに加担していない稀な人間のひとりだ。まあ私もだけど、と頭のすみで思う。

 

「なにしてんの、ええと」

 あたしが訊くと、「浅石菊深あさいしきくみさん、だっけ」と逆に尋ねられた。調子が狂う。

「ああ、うん。そうだよ。浅石菊深」

「ごめん。私、あんまりひとの名前とか、覚えられなくて。あってるか不安で。でもあなたのは覚えてた。美しい、じゃなくて、深い、て書くんだよね」


 なんでそんな詳しいんだ。こっちは本気でみじんも覚えていないのに。


「うん、うん、そう。えっと、それで、」

透野伊砂とうのいさ。伊豆の伊に、砂って書く」

「んあ、そっか。透野さん」

 名前を訊くつもりだったのがばれていたらしい。たしかに、トウノ、というめずらしい名字は聞き覚えがあった。


「このクラスで私を伊砂って呼ぶのはひとりしかいないから、名前知らなくてもふつうだよ」

 あれ。なんかあたし、言っちゃいけないこと言ったのかな。一瞬のあいだで冷や汗をかいたけれど、だいじょうぶなはずだ。あたしはただ、名字で呼んだだけだ。


「そういえば、透野さんて、藍沢千紘……と、たまに会ってたよね」


 呼び方に迷ってしまった。透野さんが彼女と親しくしているなら、「友達」のことを、とくに親しくもない他人が呼び捨てにしているのを聞くのは嫌だろうと思ったからだ。けれど、わざとらしくさん付けをするのもなんだかはばかられて、けっきょくいつもの言い方をしてしまった。

 ふいに、思い出したのだ。放課後の中庭で、何度か彼女たちが話していたことを。あたしはすこし、ふたりの背中に見惚れてしまった。


「焼き滅ぼさむ、天の火もがも」


 透野さんが、まるで呪文でもとなえるみたいにぽつりとそう言った。彼女のことばは、夕闇に流れ込んで、さらさらと融けていってしまう。

「なに、それ」

 思わず訊き返すと、え、と彼女はびっくりしたように漏らした。


「浅石さんが、さっきあてられて読んでたやつだよ。万葉集の歌」

 きみがゆく、みちのながてをくりたたね。

 透野さんは、あたしが読んだところをそっくりそのまま、言った。


「あなたが行く配流はいるの地への長い道を手繰り重ねて、焼き尽くすような天の火がほしい」

「なにそれ」

 あらためて訊くと、透野さんは「なんでもないよ」とすこしほほえんで、言った。柔らかい表情にびっくりする。こんなに、優しい顔をする人なのか。


 そろそろ帰ろうか、と、ごまかすように彼女は笑った。透野さんは教室の鍵をつかんで廊下に出た。秋のしんとした空気にふれて、ひやりとする。夜の気配がひたひたと迫ってきて、足首を撫でる。逃れるように、あたしは聞いてしまいそうになる。

 透野さんは、藍沢千紘のことが、すきだったの?


 透野さんは、あたしの先を歩く。振り向かずに、たしかに、歩く。


「藍沢千紘は、配流の道をえらんだ。だからあたしは、その道を、ぜんぶ燃やしたかった。粉々にしたかったの」


 透野さんはこちらを見ないまま、まっすぐな声で話した。あたしはただぼうっと、夢に殴られたような心持ちで、彼女を見ていた。


「ねえ、私、正解だったのかな。間違えた気がするの。戻れないような気がするんだよ」


 透野さんは、もうあたしに語りかけてはいなかった。孤独な場所にいて、ただずっと遠い昔を手探りでみつけようとしているみたいに見えた。


「透野さん、かえろう。帰ろうよ」


 彼女の横顔は、なにかを耐え忍んでいるようで、息苦しそうだった。あたしは彼女をここから連れ出さなければ、と思う。透野さんはゆるく頷いて、あたしの隣を歩いた。ゆっくりゆっくりと、思い出すみたいに、歩いた。


 配流の道。流罪の道。

 彼女は藍沢千紘を救おうとしているようでもあったし、滅ぼそうとしているようでもあった。透野伊砂は、深い湖の底に、たったひとしずくの雨粒を落とすように言った。


「私、まだ、夢の中にいたい」


 あたしはそれを、否定できない。

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