第5話 流離・波の花/透野伊砂


「おかえり」


 しんしんと雪の降る火ともし頃に、青磁は帰ってきた。

 窓辺に置かれた卓上カレンダーを確認すると、彼の不在はわずか三日のことだったらしい。私はこの人がいないあいだ、なにをしてたんだろう。会社に行って、電車で帰って、寝て、それだけだ。青磁がいるときと、さして変わらない生活。部屋の温度が、青磁ひとりぶん低かったくらいだろう。


 彼の肩には、うっすらと雪が積もっている。青磁はなぜか上がろうとしなかった。私は彼の雪を、上がり框からわずかに背伸びして払う。私をみとめると、青磁はひどく疲れた表情で、それでもかすかに笑みを見せた。

 彼のまとう空気が、ひやりと冷たい。きっと外気のせいだろうと思いながら、それだけではないような気もした。


「うん。ただいま」


 彼はかすれた声で言うと、足許に黒い旅行鞄を置いて、私の横を通り過ぎてゆく。玄関に脱ぎ捨てられた靴たちは、わかりやすくそっぽを向いていた。 

 はやくお茶を淹れなければと思った。このひとが風邪を引いてはいけない。彼は私の恋人なのだと、反芻する。定期的に思い返さないと、ふいにそのことを忘れてしまいそうだった。

 彼の重い足音がやんで、後ろから「ごめんな」と声が聞こえた。なにが、とは訊かず、私はただ、うんと答えた。


 

 お湯を沸かす。ほうじ茶を二人ぶん淹れてリビングに運ぶと、青磁の匂いがした。ふだんなら、好ましい匂い。けれどいまは吐き気がする。秋の匂いに似ている。甘くて淋しい、独特の匂いだ。つわりとはもしかしたらこんなものなのだろうかと、あるはずもないことを考えた。


 いま帰ってきたばかりなのに、もうこのひとは馴染んでいる。戻ってきている、と思う。私は彼のそばにしゃがんで、お盆をそっとテーブルに置いた。

 彼は橙色のソファにぐったりと身体をあずけている。しずかに目を閉じた彼からは、すうすうとかすかな寝息が聞こえた。

 私の気配に気づいた青磁は起き上がって、ありがとうと湯呑みを受けとった。湯気が立ちのぼったほうじ茶をひとくち飲むと、彼は思い出したようにソファの隣に置いてあった淡い水色の紙袋を引き寄せた。


「これ。あげる」


 そのときだけ、彼のまわりの空気が柔らかくほどけたみたいだった。白い包みが手のひらに載る。どうしたの、と驚いて訊くと、青磁は「いいから開けろよ」と小さく笑った。彼の、耳と頬と鼻のあたまが紅く染まっている。寒かったんでしょうと訊くと、それはもう、と青磁は私の鎖骨あたりに手の甲を押しあてた。こんなの、ひとの体温じゃない。ほぼ雪だ。つめたすぎてわかんないよ、と抗議しつつ暖房の温度を上げる。彼の向かいに腰を下ろして、私はあらためて包みをほどいた。


「……なにこれ、きれい」


 包みからは、白いガラスに点々と淡い水色の粒が施された、美しい盃があらわれた。澄んだ青と白は波濤を連想させる。窓から入る陽の光に反射して、盃の縁にあしらわれた金彩がやさしく光っている。


「びいどろっていうガラス細工なんだ。ひとつひとつが職人の手仕事だってみやげ物屋の主人に聞いて、なんか惹かれてさ。綺麗だよな。そういや、波の花って名前がついてたよ」

「……波の花?」


 なんだか知っているような気がした。記憶をさまよっていると、「ああ。冬の荒波が、岩場にぶつかるときに生まれる白い泡のことらしいよ。まあこれも店の人の受け売りだけどな」と青磁が笑った。


 そのあとしばらく、食事の支度も忘れて、彼のすごした三日間の話をきいた。

 島に降る雪はすばらしく綺麗だったこと、由利さんが遠路はるばる青磁のところまでやって来て、彼を驚かせたこと。由利さんと酔っ払った夜、悪ふざけでふたりして冬の海に飛び込んだら、鮮やかな走馬灯を見たことなんかを。



 彼はほうじ茶を飲み終わって、二杯目のコーヒーに移っていた。すっかり冷めてしまったほうじ茶の入った湯飲みを、私は意味もなく傾ける。雪は私たちの外側で、かかわりのない場所で、音もたてずに降りつづけている。玻璃島の雪はもっと凄まじいものなのだろうかと、私は思いを馳せた。


 青磁が切り出した話は、遅い夕方にとつぜん訪れる、雷のようだった。


「なあ、伊砂。藍沢千紘って名前、知ってるか?」

 

 胃の奥が、かっと熱くなった。吐きそうだ。私はかろうじて身体の中の逆流を押しとどめて、「知らない」と言った。

 彼は「あなたは嘘をつくとき、いつもそうやって袖を引っ張る」と私の手元を一瞥して言う。

 びゅおおお、と激しい風が窓を叩く。じきに嵐が来そうだ。洗濯物は全滅だなと、どうでも良いことを考える。どうでも良いことを考えていなければ、いまにも数歩先の台所から、包丁を取り出してしまいそうだった。

 むろん、自分自身を葬り去るために。



「……なんで、青磁が」


「知ってるよな」

 青磁の声は、身体の奥で渦巻く大きな波を、どうにか堰きとめているみたいだった。


「伊砂。おまえはあの人に、なにしたんだよ。なあ。数年前、事件になったよな。十九の女の子が監禁されてるって。なに? あれに、伊砂は関係してるわけ? なんなんだよ。俺はもうずっと、ずっと考えてるけど、わからないんだ」


 氷だらけの海に突き落とされた気がした。ロープで首を縛られているようだ。なにも、声が出ない。やめて。言わないで。思い出させないで。


「玻璃島からの帰りの船に乗ってたら、彼女に会ったよ。伊砂、俺のこと、あの人に話してたんだな。知らねえけど、写真も見せたんだろ。青磁さんですねって言われたよ。笑うよな。なあ。あの人、俺に、なにしたと思う。狂ってるよ。彼女はおかしい。あの人をあんなにさせるまで、おまえは、なにした」


 青磁のから発せられる声は、しずかな氷柱のように私の胸を刺した。心が、ずぶずぶと冷たい水で濡れていく。彼の吐きだす言葉は、怒りであって、怒りではなかった。もっと心の奥底で眠る、激しい感情のように思えた。


「……おかしいのは、青磁のほうだよ。あの子は、藍沢千紘は、狂ってなんかいない。あなたは、疲れてるんだよ。なんで青磁といるのか、なんで私といなきゃいけないのか、お互いわからなくなったってことでしょう。必要がないなら、もうそんなの、やめにすればいい」


 彼女が青磁になにをしたのだろうと思いながら、私には彼女を擁護するしかなかった。

それが、唯一の正解だったからだ。私にはそれしかないからだ。


「……伊砂はずっと、俺に会ったときから、俺を必要としてないだろ」

「青磁は私のこと、あざ笑ってるだけだよ。信じたことなんて、ないでしょう」

「伊砂は俺を、一度でも信じたことあるのかよ。信じて、愛そうと思ったことは? ないだろう」

 青磁はせせら笑った。ひどくおそろしかった。私は一瞬にして、前も後ろも見えなくなってしまった。

 はるか遠くの絶望に、私は沈んでいる。なのに不思議と心は軽かった。本来ならばこれが正解だったのだ。私は、青磁に拒絶されるはずの人間だった。



 海に浮かぶ夕陽はやがて沈んで、波間に溶けて消え行くだろう。私は何度も、その光景に恋焦がれた。もうこれ以上私は、青磁といるのは無理だ。どちらかがどちらかを激しく責めて折るまで、きっと百年先であろうと解決は見込めない。訪れない。 理解しようだなんて、分かってもらおうだなんて、どだい無理な話なのだったのだ。それならば、もっと早くに処置していれば、こんなことにはならなかった。もっと水温むようにほどけるように、この関係を終えることができたらよかった。



 私は、藍沢千紘に会わなければいけない。私はだれにも知られずに、彼女を葬り去る必要があった。青磁の心に、私はきっともう触れることさえゆるされない。青磁のくれた盃は始まったばかりの夜の淡い闇に浮かんで、どこまでも美しいかたちを保ちつづけている。

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