第4話 風に眩む/真白歓

「終わりにしないか」


 僕は千紘の前に、壊れた青いライターを放った。落書きだらけの床に青の塊が音をたてて転がる。彼女は腕を縛られたまま、じっとその光景を見ていた。僕はどこまでも静かな気持ちで、彼女の前にしゃがむ。不思議と心は凪いでいた。

 

「点けろよ。点ければ、ぜんぶ終わるんだ。千紘、君も僕も終わりだ。だから」

 

 彼女は宙を仰いでから僕に視線をうつすと、しずかな声で訊ねた。

「なんでおわりにしたいの?」

「嫌だからにきまってる。こんなところで、生きてるのに死んでるみたいに過ごすのは、君も嫌だろ」

「いやじゃないよ」


 荒れ果てた野原に吹く、遠い風のような声だと思った。

 埃と熱ばかりに埋もれた、空気の澱んだ夏の倉庫で、千紘だけが水を抱いているように涼しげだった。彼女は「ここに冬は来るの?」と、ぼんやりした目で僕に問うた。それには答えず、僕はスニーカーの底でライターを踏み潰す。がしゃ、と脆い音がする。残骸がぱらぱらと足許に散らばった。彼女は、細いほそい息を吐いた。



「君と会ってから僕は、掻き乱されることが多くなった。良い面と悪い面の、両方で」


 彼女が十九の誕生日を迎えた朝、僕はそう言った。彼女はこちらを向いて、つやつや光るレモンゼリーを掬う手をとめると、ほんのすこし首をかしげた。そうして「歓、終わろうとしてるの」と、ひどく幼い声で言った。

 僕は、そうだよと答える。彼女の襟もとに施された白いレースが、秋風に吹かれてひらひらとなびいた。手が震えた。彼女はいつだってされるがままだ。これが夢ならばどんなにかいいだろうと思う。僕はあの頃からずっと、あるはずもない現実を手繰りよせてばかりいる。


「夢であればいい」と「現実であればいい」は、きっと同義だ。



 


「先生、自我っていうのは、だれにでも存在するものなんでしょうか」


 窓を締め切った美術室は、湿度が高く蒸し暑い。雨のよく降る、夏の終わりだった。吹奏楽部もコーラス部も老人ホームの慰問会に駆り出されていて、いつも聞こえてくる音楽がないのは、やけに虚しいものだと思った。

 遮光カーテンで覆われた教室には、僕と蘇芳先生しかいない。彼女はことしの春の終わり、美術教師としてやってきた。  


 十九のころに失踪したの、と彼女はよくそう言った。遠い昔のことを話すような口振りで、それは彼女の胸に灯る一種の幻のようでもあったけれど、僕はひそかにそれを信じていた。

 蛍光灯、ふたつ切らしてるから転ばないように、と先生はすこやかに笑う。蘇芳先生は真新しい草色のスカートを履いていたので、汚れないだろうかと心配だった。

 しばらく無言でパレットに色を載せていた先生は、思いついたように顔を上げて「あるでしょう」とやけに自信にあふれた声で、言った。


「たとえば、あたしが失踪しようって思ったのだって、自我なんだよ? 真白歓。あなたが、じぶんの身体に絵を描いてほしいってあたしに言ってきたのも、りっぱな自我だよ」

「そんなものですか」

「そうよ」


 先生は僕の腕に水色でゆらゆらと線を引く。自分の身体に、ゆっくりと時間をかけて色が増えていく。花弁がひらくように、僕の世界は柔らかくひらかれていくようだった。


「……あなたよりすこし多く生きてるからわかることも、すこし多く生きてるせいでわからないことも、あるんだよ」

 先生はそう言うと、筆を持つ手をとめた。


「生きるのが下手くそで嫌になります、僕は」

「季節の匂いが分かる人は、生きるのが下手だって言うよ」

「僕は季節の匂いは、よく分かりません」

「すぐに気づきそうなのに」

「生きるのが下手なのに、季節の匂いが分からない。なんか、矛盾してますね。ああでも、分からないほうが優しくできるから、意図的にそうしてるのかもしれません」


 僕が淡々と答えると、先生は「どういうこと?」と不思議そうに首を傾げた。急に恥ずかしさに襲われて、弁解するようにつづける。


「……知らないほうが、優しくできます。知ってしまったら、終わりなんです。僕は、大きな風車のまわる草原で死にたい。忘れ去られた世界で生きたい」


 自分でも、なにを言っているのかわからなかった。滅茶苦茶だ。でも、ほんとうの気持ちだった。

 なにも知らないままのほうが、きっとだれにも優しくできる。自分の感情を閉ざして未練なく思いを手放した方が、きっと簡単に生きていける。

 先生は、美術室の壁に敷きつめられたステンドグラスの、あざやかな色を受けて光っていた。彼女の白い頬は、柔らかな橙色に染まる。先生は僕をしずかに見据えたあと、「そうだね」と、さみしそうにほほえんだ。



 先生が死んだのは、それから数日後のことだ。燃えるような赤い夕焼けが流れ込んでくる夏の美術室で、僕は恥ずかしげもなく泣いた。先生とすごした時間はたったの一年足らずだったのに、こんなに涙があふれてやまない。僕はとんだ偽善者だと、自分自身を浅く呪った。


 色とりどりの花を手向けに、僕は先生の墓に足を運んだ。ごくたまに、彼女の墓前には母親らしき人の姿があった。彼女は果たして、まだ若い娘の死を哀しんでいたのだろうか。白髪のぽつぽつと生えた髪と花柄のセーターが風に吹かれるのを見るたび、僕は不思議な気持ちにとらわれた。


 十九のころになにも言わず失踪した娘を、彼女は素直に偲ぶことができるのだろうか。先生は、蘇芳葉子というひとりの娘として、母にふたたび会えて幸せだろうか。


 どれもこれも、どんなにつきつめたところで愚問だ。彼女は、僕に憎しみを抱いてはいないだろうか。僕を愛してはいなかったのだろうか。

 

 どんな弔われ方がよかったのだろう、どんな花が好きだったのだろう。それが風葬であればいいなと、僕は思った。彼女は、風のような人だったから。

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