第3話 絶佳/入江青磁

 起き上がると、身体のあちこちが痛んだ。窓からは柔らかな光が差している。いつのまに朝が来たのだろう。せっかく上等な布団が敷かれていたのに、椅子に座ったまま眠ってしまっていたようだった。身体が痛いのは当たり前だなと苦笑しながら伸びをすると、ばきばきと骨が鳴る。

 昨晩チェックインした旅館は物音ひとつせず、静かだ。自分以外に泊まっている人間はいるのだろうか。

 備えつけの風呂でシャワーだけ浴びて紺地のセーターに着替えると、よくやく頭の中がすっきりした。暖房はついているのに、底冷えするような寒さだ。髪を乾かしながらふと、伊砂いさのことが頭をよぎった。彼女はあの土地で、寒さに身を縮めていないだろうか。毛先だけを綺麗な緑に染めた伊砂の後ろ髪をすでに懐かしく感じて、俺は振り切るように、濡れた頭をタオルで拭いた。


 伊砂に連絡をしないまま、ここまで来てしまった。もっとも伊砂は——彼女は俺にさして興味を持っていないから、たった数日家を空けたところでなんの問題もないだろう。

 港から船で三時間ほどのこの島はほどよく発展していて、ほどよく何もなかった。幼い頃に住んでいたあの島よりも、ここの方がなにもかも切実で、すべてを忘れてしまいそうなほどに寒かった。だからだろうか、初めて来たこの島に、何故かすぐに馴染める気がした。


 山が多く日が当たらないため、景観はあまりよくありません。よって星ひとつ。

 ここに来る前にネットで見たそんな情報は、真っ赤な嘘だった。ここ数日一気に冷え込んで、雪が降ったのがよかった。島じゅうが眩しいほどの白で染められていて、海のむこうにそびえる山たちはあざやかな銀色に包まれている。


 観光客が少ないのも、いまの自分にとってありがたかった。だれにも会いたくなかったからだ。寒さの厳しい時期に、わざわざここを選んでやって来るような物好きはそれほど多くはないのだろう。

 じっさい、島に着いてからこの旅館までの道中で会ったのはたったの二人だった。身を寄せ合いながら、それでもどこかよそよそしかったあの二人は、もしかしたら人目を忍んでここまで来たのかもしれない。たしかにこの島は、いろんなことを隠してくれそうだ。やましいことも苦しいことも、抱えこんでいることも、なにもかも。

 彼らの揃いのベージュのコートが、幻影のように頭に浮かんでは消えた。



 旅館の窓から望める景色はどれも眩しく、現在の自分にはどこまでも遠い存在に感じられる。遠くにあるからこそ美しいという言葉を聞いたことがあるが、その通りだと思う。近くにあるといけない。あまりの激しさに惑わされてしまう。

 ふいに、自分はずっと孤独なのかもしれないという錯覚に襲われて、ずるずると壁にもたれた。この際だ。どうなってもいい身上だ。俺は半ばやけになって、机に置いていた薄っぺらいスマートフォンを手に取った。だれかに話を聞いてほしい。一人になりたくてここまで来たくせに、身勝手なものだ。友人にはこんな姿を見せたくない。そうなると、もうあの人しかいなかった。


 連絡先リストにならんだ『入江いりえ由利ゆり』という四文字を親指でたどる。いつ登録したのかも忘れてしまった。折りたたんだ布団の上に胡座をかいて、息を吐く。 


 大丈夫だ。今なら、話せる。


 受話器ボタンをタップする。呼び出し音が鳴って数秒後、はい、という懐かしい声が聞こえた。


『もしもし、え、マジで青磁せいじ?』


 少しだけ上ずった声。俺はもういちど深呼吸して、答えた。

「ご無沙汰してます、マジで青磁です。朝早くにすみません」

『ほんとに青磁か! すげえ!』

 彼の声のうしろで電車の音がする。駅のホームにでもいるのだろうか。ごおお、という震動をすぐそばに感じ、俺は思わずくらくらして額を抑えた。 


「由利さんの電話で合ってますかね」

『おお、おお、由利さんであってるあってる。おまえから電話来てすげえびっくりしてるよ。いま買ったコーヒー落とすとこだったわ。いやあ、今年いちうれしいな。いま仕事に向かってんだけど、いざとなりゃあ、投げ出しても大丈夫だから』


 大げさなところは相変わらずだなと笑ってしまう。それにしても、この人はなんだか本気で会社を休みかねない。早めに電話を切り上げようと「いま、玻璃島はりしまにいるんだけど」と切り出すと、案の定スマートフォンから「はあ!?」という素っ頓狂な声が耳を貫いた。この人は地声がでかいから余計に響く。


『青磁、しかしなんでそんな辺鄙なとこ来てんだ、おもしろいやつだな。なに、ストライキでもきめてきたの?』

「まあ、ちょっといろいろあって。俺のところは、由利さんの職場とちがってホワイトだからな。ちゃんと休暇もらって来たよ」

 俺が濁すと、由利は嘘っぽい溜息をひとつ吐いた。


『いやほんと、うちのとこはブラックだからなあ。でもあれだわ、突然すぎだわ。身投げでもする気か? なんかあったら相談してくれよ』

「どっちもしねえよ。どんな心配だ」

 

 由利の言葉に笑いながら、もうどれくらいこの人に会っていないのだろうと考える。連絡をくれるのはいつも由利で、こちらから積極的に電話やメールをしたことはなかった。

 なにが起きてもこの人は、真昼の海のようにおだやかだった。ほんとうの兄弟ではない俺に、彼はいつもきちんと優しかった。


「……あれだよ。一人になりたかったんだよ」

『心に傷を負ったティーンエージャーか、おまえは。後生だからリストカットとかすんなよ、やるなら無難に刺青にしとけ』

「どこが無難だ。狂ってんのか」


 俺が突っ込むと、由利はなんの翳りもなく笑った。曇った窓ガラスのむこうで、音もなく雪が降っている。部屋の外からいくつもの笑い声が重なって聞こえた。まだ小さな子供と父親の声だ。今日泊まりに来たのだろう。平和でいいな、と思う。なにもなくて、なにかある状態。


 これではだめだ。

 気を紛らわすために近くにあった旅館の案内図を引き寄せる。マップにはおすすめスポットをあらわすいくつもの星印があり、旅館の敷地外には矢印が引っぱられてあった。

「こちらには百年前に丹精を込めてつくられたやしろがあります。そばの庭園は、梅、山紫陽花、牡丹、椿など、季節ごとにたくさんの花を咲かせます。お散歩の際、ぜひお立ち寄り下さい」とある。それを見て、ふと由利の趣味を思い出した。


「由利さんは、ここ来たことねえの? たしか写真撮るの好きだったろ、こういう島とか、神社仏閣巡りとかさ。彼女……じゃないわ、ほら、友達とか、同僚の人とかと来ればいいのに」

 由利には一切浮いた話がなかったのを思い出して言いよどむと、彼は「ああっ」と電話のむこうで顔を覆った。多分。


『人の心をいたずらに抉るのはやめろ、泣くぞ、おれは。たとえ今年で三十路を迎えようともだ!』


 ととのった顔立ちのわりに女性慣れしていない由利は、中高の六年間を男子校で過ごした過去を持っている。面倒見の良いこの男を好きになる女の一人や二人いてもおかしくないと思うのだが、俺はそれを一度も言ったことがなかった。絶対に調子に乗ると分かりきっているからだ。


「ごめん。ていうか由利さん二十九か、おめでとう。生きてるうちにはできるだろうから大丈夫だよ、長い目で見よう、来世にはきっと」

『めちゃくちゃ抉ってくるな、なんだおまえ、いま流行りのサイコパスか?』

 由利の声を聞きながら、俺は首の後ろを掻いた。上がったり下がったり、ジェットコースターみたいな人だ。

「それは知らねえけど。……多分そろそろ電車来るよな。話、付き合ってくれてありがとね」

 俺が言うと、由利は電話越しにしのび笑った。 

『いいってことよ。じゃあな、また会いに行くからな。ひさしぶりに声が聞けて、うれしかったよ。なんかあったら、なくても、かけてこいよ』

「ああ。じゃあ、気をつけて。また」


 電話を切って、布団に転がった。話せて良かった。相変わらず由利は向こう見ずで、掛け値なしに優しかった。ただ、いまの会話で体力をすべて使い切ってしまった。朝から由利のテンションは高すぎる。

 朝食を済ませたら外にでも出てみようかと、俺はルームキーと財布を摑んで立ち上がった。



 日がすっかり暮れた頃、島を散策し尽くしてフロントに戻ると、「あの、入江様」とスタッフの女性に呼びとめられた。

 なにかあったのだろうかと立ちどまると、「入江様に、どうしてもお目にかかりたいという方がいらっしゃって。あちらでお待ちです」

 彼女はゆったりとほほえんだ。彼女が手で示した先には、見覚えのある男がいた。

 いやな予感がする。大理石の柱に寄りかかっていた男はこちらに気づくと、ひらひらと手を振った。しっかりと見なくても分かる。やけにデザインの古い眼鏡をかけた、ひょろりと背の高いあの男は、由利だ。


「朝ぶりだな、青磁。来ちゃった」


 由利がそう言うと、「それでは、ごゆっくりどうぞ」と女性は奥に引っ込んでしまった。俺が彼女に会釈をすると、由利も慌てて「ありがとうございます」と頭を下げた。なんなんだ、こいつは。


「……来ちゃった、じゃねえよ。なんでだ」

 俺が声をひそめて訊くと、由利はにこにこと笑って話し始めた。彼の身につけている上等そうな黒いコートは雪で白くなっている。


「いやあ、大雪で仕事になんなくてさ。すばらしいことに、退社してくださいってなったんだよ。で、これもしかして飛ばせば青磁のところ行けるんじゃないかなーと思ったら、意外と行けたよね、車で。六時間。なんなんだよ。いますぐ俺を寝かせてくれ」


 この男は六時間もかけてわざわざこんな僻地まで来たのか。頭が痛くなってきた。


「馬鹿だろ。馬鹿だろ」

 俺がそう言っても、ちっとも懲りたようすはない。「いいところだなあここは。きれいだし。死ぬほど寒いし」と由利はしきりに言っている。この人にはなにを言っても無駄なのだったと、いまさら思う。

「さあて、今日は一緒に飲むぞお」


 そんな宣言にすでに疲弊しながら、俺は由利のコートについていた雪を払った。

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