第2話 夢の夢こそ/藍沢千紘


 わたしのなかで起きたできごとを風化させないために、記憶の断片を残しておくために、この日記を書いています。

 そうでなければ、あのひとにわたしはなにもかも粉々にされてしまいそうだから。それはわたしが望んだことにちがいありませんが、ほんのすこしだけ、自分自身のことを顧みてもいいのではないかと思ったのです。



 天涯孤独かと思われたわたしの手をひいてくれた人が、わずかながら、たしかに存在します。ひとりは、あたりまえだけれど、真白歓ましろかんという男。もうひとりは、美鳥多汲みどりたくみというとっても物好きな……女性かな。きれいで聡明な、女のひとでした。多汲さんも、そのほうがいいよね? 



 多汲さん。わたしはもしかしたら、もうあなたに会えないかもしれません。いやだな。あなたのことを思わない日は、なかった。あなたに訪れるすべての夜が安息でありますようにと、いつだって祈っています。祈ればきっとあなたのいる場所まで届くなんて夢かもしれないけれど、それでも。





「ね、千紘君。およそあらゆる理解は愛を通してのみ我等にいたる、ていうのは、相手を愛するがゆえに深く理解して、深く理解させるってことらしいよ」

「なにそれ、むずかしいよ」 

「真実はね、むずかしいものなんだよ」


 多汲さんは、頬を白いテーブルにあずけたまま話している。冬のコインランドリーは暖房がひかえめについていて、ちょうどよくあたたかかった。多汲さんの発言はいつも唐突なうえに難解で、わたしはしばしば、彼がなんの話をしているのか分からなくなるときがある。

 

「いま読んでる本のこと?」

 わたしが訊ねると、そうそう、と彼はうなずいた。多汲さんは文庫本をぺらぺらめくるだけで、およそ読む気はなさそうだ。

「ワーグナーって奴のことが書かれてんだけどね。なんかね」

「させる、て、ごわごわする。やな言葉だ」

 わたしが言うと、「ね、なんか、ほっこりしないよねえ」と多汲さんは同意するようにほほえんだ。ほっこりしない。とつぜん投げ込まれたおおざっぱな言葉に、思わず笑ってしまった。多汲さんには、ほかの大人のような邪な部分がなくて、すきだ。


「千紘君、またお城を脱走したんだって? 十二歳のお姫さま、君はまったくおてんばだ」


 荒れてるねえとうれしそうに言う彼に、わたしは「だって」と口をとがらせた。

 「彼」といっても、多汲さんを構成するもののほとんどは女性だ。「あたしは便宜上、男なんだよ」と多汲さんはけらけら笑う。こんなに可憐なひとが男性だなんて信じられなかった。きょうだって、柔らかそうなニットの白いワンピースを身につけている。下はうすい黒のストッキング。寒くないのかなと思うけれど、上着はたしかバイク用のぶ厚いジャンパーを羽織っていたから、大丈夫なのかもしれない。真っ赤で生地がごつくて、ととのった繊細なコーディネートを軽々とぶちこわしていて、なんだかそこだけがおかしかった。


 こつ、こつ、と多汲さんはテーブルを指で叩く。きざまれている、と思う。 

 コインランドリー内は時間が止まっているようで、わたしはこの空間がすきだった。多汲さんといる時間がすきだ。ごうんごうんと回転をつづけるおおきな機械の音を多汲さんとふたりで聴いていると、やさしくなれるような気がする。


「だって、いやなんだもん。あのひとのところにいるほうが、教室や家にいるよりも、ずっとたのしいから。学校にいてもつまんないよ」


 多汲さんが買ってくれたココアをひとくち飲むと、濃い甘さが胸をしめつけた。紙カップを通じたてのひらが、じんとあたたかい。やめてほしい。こんなにおいしくてかなしくて、離れがたいのは、いやだ。やっとの思いでつぶやいた「おいしい」という言葉は、はからずも涙声になった。でしょう、と多汲さんは得意げに胸を張る。心が熱くてなんだか苦しくて、さまさなければと思って、わたしは大きく息をすった。


「彼のすきなところをさ、おしえてよ」


 多汲さんのくりくりした大きな目は、きりんの瞳に似ている。好奇心にあふれているわりにおだやかで、いろんな激しさからはかけ離れている。

 やすらぎ。多汲さんにはきっと、そういう言葉が似合う。わたしはふと、多汲さんをだきしめたくなる。


「たくさんあるけど、はずかしいよ」

 そう言いながら、わたしの頭には、いくつも彼のすきなところが浮かんだ。


 遠くをみているときの横顔が、群れをはぐれた狼みたいにさびしそうになるところ。コーヒーをいれるのが得意なところ。マッチをたったの一回でつけられるところ。アルコールランプの火がこわくないところ。読み聞かせがじょうずなところ。詩をいっぱい知ってるところ。声がきれいで、女の人の歌がうまいところ。


 思いつくままに話す。ひとつひとつを挙げるたびに、わたしはどんどん歓をすきになっていった。けれどその行為は多汲さんから離れていくようでもあって、わたしはどうしようもなく心細くなってしまった。



「そっか。いいところばっかりだなあ」


 多汲さんは、頬杖をついてわたしに笑いかけた。白くてなだらかで、ほそい手だ。薄くて骨ばっている。爪は、すっと美しくながい。こういうところは、男の人の名残なのだろうかと思った。


「そんでもって千紘君は、いいところをたくさん見つけられる人なんだな。誇れよ」


 多汲さんがやさしくわらう。そのせりふ、小学校の先生みたいだよ。わたしが言うと、多汲さんは「まじで? 光栄だなあ」とわたしの頭をわしわし撫でて、わらった。


 本当にほんとうに、うつくしい笑顔だ。わたしは多汲さんを見るたびに、よく泣きそうになる。かなしくなんかなくても、とつぜんあまりに愛おしくて、涙が出そうになるのだ。

 この人を失望させたくない、というやわらかな気持ちがしゅんしゅんとわき上がる。やさしくてまぶしくてあたたかくて、春の朝にきらきらひかる湖みたいだ。



 歓がこのんで履く年季の入った黒い革靴に、こっそり足を入れるのがすきだった。彼のすう、むせ返るような煙草の匂いをかぐのがすきだった。歓の硬くておおきな掌で首をぐっと押さえつけられるのはちょっといやだけど、でも、がまんできる。



 だけど、それらを言ってしまえば多汲さんにきらわれるかもしれないと思って、言えなかった。言いたくなかった。そんな後ろめたさを抱えているのもいやだった。多汲さんに隠しごとはなにひとつしたくないのに、嘘をつかないといけない自分が、すごくすごく、いやだった。


「はー、そろそろ仕上がったんじゃない、千紘君のせんたくもの」


 多汲さんが立ちあがると、ふわりとワンピースのすそがなびいた。わたしはその瞬間、もしかするとこのやさしい人と会うことはもう一生ないのかもしれないと、思った。


 雨の音が耳をかすめるコインランドリーで、多汲さんはあかるく「できあがったよー」とわらっていた。多汲さんの紙コップに残った口紅のあとがあざやかな形を保ったまま、頭からはなれなかった。





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