青の激情

淡島ほたる

第一章

第1話 光/透野伊砂

 わたしはひとりでいました。ずっとひとりで、息苦しくて、そんなときにあのひとに出会いました。傷つけられることはざらでしたけれど、わたしはだからこそ、清い生活を送っているのだと信じていられたのです。ただひたすらにむごい気持ちを封じこめて独りぼっちだったあのころよりも、いまのわたしは、ずっとひらかれた場所にいます。わたしのからだにある傷や、痣は、あのひとにすくわれたしるしです。だからどうか、わたしに身勝手な同情をして、なにも知らないくせにあのひとを詰っている方たち、記者のみなさん、もうやめてください。わたしは断固として、あのひとのそばをはなれる気はありません。



 藍沢千紘あいざわちひろから「ゆるせないけれど、ぜんぶ受けとめられるくらいにはなりました」と手紙がきたのは、まだ呼吸の浅い冬のことだった。ゆるせないけれど。彼女がそう付け加えるのは、過程から考えるならば至極当然のことだった。それでも私は傷ついてしまった。完膚なきまでに彼女は、私がしたことを受けいれていないのだと気づいてしまったから。



 まだうす暗い午前四時、柔らかな毛布にくるまった青磁せいじが私の踝に触れた。彼の冷たい指先にとりはだだつ。

 この人は私を好きではないはずだ。

 私はそれを強くつよく思い返しながら、彼を抱きしめかえした。私はどこかで青磁を軽蔑していたし、青磁も私を軽蔑していただろうと思う。

「さむいよな。お湯張ろうか。伊砂いさ、風呂入るだろ」

 眠そうな目をして青磁が言う。私が頷くと、彼はもそもそと布団から這い出た。そのすがたが、冬眠あけの熊に似ているといつも思う。でも、それを言ったところで彼はきっと笑わないだろうから、言わない。かんたんなことだ。窓の外はうすいむらさきで染まっている。



 彼とはじめて話したのは、喧騒と熱気のこもる真夜中の居酒屋だった。店の照明はやけにあかるくて、それなのに厨房の蛍光灯ひとつだけが切れかかっていて、私は妙にそわそわした。ひとけのない道端に建っているその店は、常連客とみうけられる人びとでにぎわっていた。私たちは入り口にいちばん近いカウンターに座っていたから、客が入ってくるたびにつめたい風が流れ込んできた。私たちの頭上に吊るされたテレビからは大きな音量で野球中継が流れていて、うしろのテーブル席にいる男性たちが一喜一憂を繰り返している。そのなかで青磁の低い声を聞きとるのはなかなかに骨が折れる作業だった。

「俺、沖縄出身なんだ。親が転勤族だったから、途中からはいろんなとこ転々としてたけど」

 あたたかな湯気の立ちのぼるモツ鍋をつつきながら彼がそう言ったとき、私はすぐに納得した。

 がっしりとした体格と黒く焼けた肌をみて、きっと子どものころから海で育った人なのだろうと予想していたからだ。私がそう言うと、彼は砕けた氷で薄まったジンジャーエールを飲みほしてから、「そうでもないよ」とさしておもしろくなさそうに答えた。

「小さいころはわりと病弱で、本ばかり読んでた。なにかあるたびすぐ倒れて、修学旅行なんかも前日に熱だして休んで。思い返すと我ながら不憫だな。なまじ体がでかいぶん頑丈だと思われちゃうだろ。いろいろと損だよ」

 彼はそう言うと、へらりと笑みを浮かべた。


「笑わなくていいのに」

 思わず私がこぼすと、彼は苦笑した。

「あ、ほら、また」

「癖なんだよ。伊砂さんはひとが悪いな」

 こんどこそ青磁は憮然とした表情でつぶやいた。青磁の手首あたり、そこで眩しくひかる文字盤の大きな腕時計をみながら、「あー、終電なくなっちゃったよー」という知らない女性の声を聞いた。嘆いているようでちっとも残念そうには聞こえない、むしろうれしそうだ。女性は私たちとふたつ離れた席にいた。一緒に来ていた男性にしきりに名残惜しいという雰囲気を出していたから、彼女が終電までいられてよかったと勝手に思う。

 青磁は「おひらきにしようか」と時計を見ることもなく伝票を取った。


 ほとんど灯りのうしなわれた道をふたりで歩く。振り返ると、さきほどまでいた居酒屋からは黒く汚れた煙が吐きだされていた。ヒールの踵が側溝にひっかからないか、そればかりが心配だった。ほんのすこし気を抜いてしまえば、したたかに酔った身体は宙を舞って、いまにもアスファルトの暗闇に吸いこまれそうだ。そんなことを思っていた矢先、ぐらりと上半身が傾いだ。瞬間、青磁の大きな手が私の肩を支えた。触れられた場所が熱い。びっくりして彼を見ると、青磁が大きく息をついた。

「あぶないな。そんなふらふらじゃ歩けないだろ。どっか座る?」

「ありがとう、きょうはちょっと飲みすぎたかも。でも、大丈夫だから」

 となりを歩く彼の横顔をちらりと盗み見る。彼は口を結んだまま短い黒髪をごしごしと掻くと、左の方角を指さした。

「ほんとかよ。……あなたの駅、あっちだよな? もうちょっと歩くから、しんどかったら言って」

 目じりはわかりやすく弧を描いていて、そのせいかいつも笑っているようにみえた。鼻筋がすっと通っていて、唇が厚くて、首のあたりがごつい。鎖骨にははっきりと窪みができている。なにより肩幅がおおきくて、ぶつかったらひとたまりもなさそうだと私は不躾に思った。

 彼のまとっている、ぜんたいの雰囲気がつかめなかった。表面は健康的で、なのにどことなく歪んでいるようにみえる。たとえば彼の、ふっと無表情になるときの冷静さ。親指を口にあてて考え込む仕草。些細なことだけれど、私と彼は、なにかが絶対的にたがっているようだった。精神的な部分。それよりも、もっと根源的なところかもしれなかった。



 だから、ある昼下がり、「なあ、俺、苦手なんだよね」と陽射しの強いリビングで彼にそう言われたときは、ひどく動揺した。


 かすかに震えた手が蓋を開けっぱなしにしていたマニキュアの壜にぶつかって、ひと呼吸ぶんの早さでこぼれてゆく。テーブルには粘りけのある赤い液体がじわりと広がっていった。数秒遅れで事態を飲み込んでからあわててごめんと口にすると、彼はうろたえた私を見て、なんで謝るの、とうすく笑った。目はぎらぎらと光っていて、唇の端だけがわずかに上がっている。


 猛禽類みたいだ。まっすぐに強くてするどくて、武器を持たない私はあっけなく食べられてしまいそうだ。

 もう一度ごめんねと謝ってから、私は布巾を取りに台所へむかった。彼はもう無言で、さっきまで読んでいた本に目を落としている。


 私はそのときはっきりと、彼のことをおぞましいと思った。それなのに、何が、と問われれば答えられないような気もした。

 心配してくれなかったこと、だろうか。 

 いや、心配してほしかったわけじゃない。それとも、「あなたのことじゃないから大丈夫だ」と、やさしく言ってほしかったのだろうか。手当たり次第に考えながら、そうではない、と思った。そうではなくて、笑ったこと、ではないか。そうだ。あの瞬間、あんなふうに笑うのはおかしいはずだ。私は青磁に言いがたい恐怖を抱いているのだと気づいてしまった。

 あの日、あのおだやかな陽射しに見守られたリビングで、私だけが異質だった。異質なのはきっと青磁にちがいないのに。そう思いながら、私は布巾を握りしめたまま立ちすくんでいた。心に大きな石を抱えたまま、私はうっすらと死んでゆくようだった。

 


 思い返す。

 青磁はたしかに、私の向かいに座って本を読んでいた。彼は窓側にいて、私は彼の顔が光に照らされるのを不思議に思った。光にあたっているのに、青磁の顔はけして明るくはなくて、むしろ彼のもつ翳りが濃くなっていくようにみえた。

 青磁はよく本を読んでいたけれど、それが小説やフィクションだったことは一度もなかった。その日も、本の表紙には担架で運ばれる兵士の姿がうつっていた。


 青磁の本棚には、レイプされた女性をめぐる裁判過程だとか、ひどいいじめの末に整形手術をした人の告白だとか、虐待された子どもの生涯だとか、凄惨な殺害事件の全貌だとか、そういったものばかりが並んでいた。その日に彼が読んでいたのは、いつかどこかでおこなわれた戦争のルポルタージュだった。誰々が死んで、誰々が生きて、頸を撃たれて、頭を撃たれて、あの国が勝って、どこそこが負けた。つらい過去を、ひとの負の感情を、悲しい歴史を、わざわざ知らなくてもいいじゃないか。やり場のない感情が胸のなかを黒く塗りつぶした。言いようのない反発心を覚えて、私の心はにわかにささくれだった。


 彼は徹底的に虚構というものを嫌っていた。遠ざけていた、というのが正しいかも知れない。彼自身が言明していたことはなかったけれど、それはあきらかだった。本が好きという彼は、いつも事実に即したものばかりを見たり聞いたりしていた。あの、真剣な目つきで。なにも怖れないみたいな顔で。

 事実ばかり吸収する青磁は、疲れないのだろうかと思った。真実ばかりに囲まれるのは、自分なら疲弊してしまう。事実は善悪よりも、もっとずっと前の段階にあるように感じるからだ。綺麗なことも汚いものもなにもかも含めて、ぜんぶ差しだされてしまう。私には脅威だった。


 私と青磁がおなじ家に住むようになったのは、甘ったるい恋愛の過程からでも、ましてや損得勘定からでもなかった。ただ、互いが互いを遠いところから見ていた。私は彼を、いまの自分をゆるしてくれる唯一の相手として選んだ。彼のほうは私を、たんなる淋しいやつだと思っているのかもしれなかったけれど、私にはどうでもよかった。体中渇ききった砂漠で水を与えられたら、だれだって受け取るはずだ。私たちはなまぬるい生活のうちで、そんなふうにあいまいな均衡を保ちつづけていた。



 カーテンを開けると、重く冷たい空気が身体を覆った。窓の外には薄曇りの空がひろがっている。

 きょうは青磁がいない。きのうもおとといも、電話もメールもなにもなかった。どこに行ってしまったのだろうと思いながら、さして切迫した気持ちはなかった。いなくなってしまったのなら、それはそれでいい。着替えている途中、裸足の爪先がつめたくて、私はすぐに靴下を履いた。

 夜明けのしんとした街で、歩くたびに吹く向かい風は強くて寒くて、私は紺のマフラーを口元まで引き上げた。トートバッグに入れた手紙を取りだす。きれいな藤色の封筒だ。家で読む気にならなくて、外に持ってきてしまった。封を切る手がかじかんで赤い。見慣れた封筒には、けれど普段よりもずっと筆圧の強い文字がならんでいた。


 端正な字だ。透野伊砂さま。でかでかと書かれた自分の名前を小さくつぶやく。あいかわらずはねの部分が必要以上に大きくて、意志の強さをあらわすような筆跡だなと思う。いつもはその強さに伴わないうすい字だったのに、今回は違った。思いがそのままにじみ出ているように濃い。

 一枚のまっ白な便箋にはただひとこと、「だからもうあなたと対峙することができます」と震える字で書かれていた。だから、って、なに。彼女は私とたたかう気なのだろうか。


 部屋にもどってストーブに灯油をそそぎながら、私は爪先にからだの全神経を集中させた。寒いとつい爪先立ちをしてしまう。首元でやさしく揺れる、萌黄色の柔らかなスカーフが邪魔だ。

 それは彼女が、藍沢千紘がくれたものだった。ちひろ、と私は呼んだ。雨の音ばかりが強く響く、あの廊下の記憶がこぼれてくる。私の意識は、やわらかにあのころへと引き戻された。



 七分袖のブラウスからのぞく彼女の手首は、あやういほどに細い。水仙の茎のように、柔らかに手折ってしまえそうだった。瞳はいつも潤んでいて、右目の下には泣きぼくろがある。柔らかそうなくちびるは薄桃色をしていた。わらうと赤く染まる彼女の目元はなんだか泣いているようにみえて、私はいつも不安になった。肩口で切りそろえられた黒髪は彼女が動くたびかろやかに揺れる。それらはすべて、彼女の白い肌によくなじんでいると思った。

 藍沢千紘はなにに対しても自信がなさそうだった。国語の時間に朗読をあてられても声がちいさくて聞き取れないし、昼休み、だれかにわざとぶつかられてもなにも声を上げない。

 彼女はきっと話すのが苦手で、いつも教室の隅でひとりだった。さらさらと流れる髪を結ぶ彼女の後ろ背にむかって、私はなんども声をかけようとした。彼女のやわらかな輪郭は、私のこころをなんども刺した。

 彼女は細くてたよりなくて、あの雨が強い日、その勢いに圧倒されて死ぬんじゃないかと思ったのだ。


 だから私は藍沢千紘を、すくおうとした。傷つけようとした。

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