空の海 海の月

音崎 琳

空の海 海の月

 名前を呼ばれた気がした。

 夕暮れ時の少し混んだ電車の中、紗矢はうつむけていた顔を反射的に上げる。たまたま正面に立っている人がおらず、向かいの座席が見えた。眠りこんでいるスーツの男の人と、携帯をいじっている若い女の人の間に、少女がひとり座っている。この電車でよく見かける、紗矢の母校の制服を着て、黒い髪を二つに結んでいる。少女は紗矢と目が合うと、眩しいような顔でふわりと笑った。紗矢はぎこちなく、形ばかりの笑みを返した。

 知らない子だ。紗矢を呼んだのが、その子のはずはない。名前を呼ばれたと思ったのも気のせいだったのだろうか。たしかに聞こえたのに。

 少女はまだ、眇めた目で紗矢のことを見ている。だんだん、心の奥が波立ってくる。知らないと思ったその子の顔は、どこか懐かしいような気がした。

 電車の速度が落ちる。車掌が次の駅名を告げる。人の波が動いて、少女が見えなくなる。次に紗矢の視界が開けたとき、正面に彼女の姿はなかった。

 いや、それどころか、目を覚ましてあたりを見渡す男の人と、あいかわらず小さな画面に熱中している女の人の間には、そもそも誰かが座れるような隙間はなかった。紗矢の目が、無意識に少女を探す。

 ――いた。

 窓の向こうに見えた後ろ姿は、すぐ人混みに紛れてしまう。気づいたときには、紗矢は、電車に乗りこむ人の流れに逆らってホームに降り立っていた。

 すぐにホームからは人気がなくなる。紗矢は途方に暮れて、肩に掛けた鞄の紐を握りしめた。生温い夏の風が吹きつける。降りるべき駅は、まだ幾つも先だった。

 少女を追いかけるという考えはいかにもばかげていた。知らない子だったのだ。名前を呼ばれたと思ったのも、きっと勘違いに違いない。それなのに、まだ視界の端にはあの子のまなざしがちらついていて、やっぱり知っている顔のような気もするのだ。

 何を、やっているんだろう。

肩を落とす。ふと見上げると、薄青い空に、白い月が浮かんでいた。

 このまま改札を出てみようか。

 唐突に浮かんだその思いつきは、半ばやけっぱちだった。けれど、電車の中のあの声がまだ呼んでいるような気がして、白い月に誘われるまま、紗矢は改札へと続く階段を降りていったのだった。



 海沿いのこの駅で降りるのは、ずいぶんと久しぶりだった。とっくに卒業した高校の最寄り駅。もっと懐かしく思ってもいいはずだが、紗矢が大学生の間に構内も周囲も様変わりしていて、まるで初めて来る場所のように親しみがなかった。紗矢は、かつての通い慣れた道ではなく月のある方へ――海へ向かって、歩きだした。

 広いロータリーを抜けてしばらくすると、歩道橋にさしかかる。この辺りは街並みが計画的に整備されていて、大きなビルとビルをつなぐように、歩道橋が縦横に走っている。きっと歩道橋を辿っていけば、海のそばまで行けるだろう。

とんとんとんとリズムよく階段を昇っていくと、そのぶんだけ月が近くなる。

 高校時代にはめったに訪れることのなかった場所を歩いているから、まるで知らない街に来たようだ。海風に髪をなぶられながら、紗矢は、沈んでいた心が少しだけ浮き上がってくるのを感じていた。

 ビルの合間に見える右手の空は、淡い黄に染まりつつある。太陽を隠している薄墨の雲のふちが、橙色に輝いていた。正面には半分の月。紗矢の靴音が、誰もいない歩道橋の上に響く。

 ――否、ずいぶん先を、誰かが歩いていた。紗矢と同じ、海の方へ向かっている。

 紗矢はじっと前方に目を凝らした。半袖のブラウスに膝丈のプリーツスカート、紺のハイソックス。肩から鞄を下げている。ひょっとして。

 紗矢が足を速めると、人影は、こちらをふりむいて立ち止まった。二つ結びの髪が風に揺れる。電車の中で目が合った、あの少女だった。

 追いついた紗矢に、少女は再び笑いかけた。

 ――久しぶりだね。

 紗矢は首を傾げる。

「私を、知っているの?」

 記憶を探ってみても、高校生の知り合いは思い当たらない。だが紗矢の返事に、少女はひどく悲しそうな顔をした。

 ――うん、よく知っているよ。紗矢も、私のことを知っている。

「え?」

 少女は紗矢に答えず、歩きだした。紗矢も慌てて後を追う。

 一度歩道橋のつきあたりで地面に降り、そのまましばらく歩いて、もう一度歩道橋を渡った先は海沿いの公園だった。少女は方向を変えず、まっすぐ公園をつっきる。防風林になっているのだろう木立の隙間を抜けると、視界の先に海が広がっていた。

 細い道路とコンクリートの堤防の向こうに砂浜があり、波が打ち寄せている。紗矢はふらふらと道をよこぎり、胸の高さの堤防に身をのりだした。強い風に乗って、海の音がぶつかってくる。

 いつの間にか少女も、紗矢の隣で海を眺めていた。重そうな通学鞄を堤防の上に預けている。二人は長い間無言だった。そのことが全然、気にならなかった。

 青かった空はいつの間にか藍色がかり、西の空は茜に変わっていた。傾きはじめた月はほんのりと金に光っている。ふと気づくと紗矢は、鞄の中のノートに思いを馳せていた。

 ここで、捨てちゃおうか。

 胸の内で呟くと、きりきりと身体の芯が疼いた。それを無視して畳みかける。

 だって、もうずいぶん、まともなものも書いていないし。

 書きたいものも、わからなくなってしまったし。

 誰かが、読んでくれるわけでもないし。

 身体じゅうが、痛い。

 ――ねえ。

 少女が静かな声で尋ねた。

 ――これ、もう要らない?

 どきりとする紗矢にはお構いなしに、少女はがさがさと通学鞄を漁る。取り出したのは、コピー用紙の束だった。びっしりと字が印刷されている。紗矢は困惑してそれを見つめた。

 ――あなたが要らないなら、ここに、捨てちゃおうか。

 少女は切ない笑みを浮かべて、言葉とは反対に、紙の束を抱きしめる。

「何を言っているの?」

 取り返しのつかない話をしているような気がして、紗矢は不意に泣きそうになる。

 ――捨てるなら、一緒に来て。

 少女は紙を右手で握りしめたまま、弾みをつけて堤防によじ登った。そのままひらりと砂浜に降りる。紗矢は夢中でそれに続いた。

 通学鞄を置き去りに、少女は海へ向かって歩いていく。少女の革靴の跡が、浜辺に点線を刻む。

 波打ち際まで来ても、少女は立ち止まらなかった。靴を履いたまま、波が引いたあとの湿った砂の上を進む。波がうちよせ、少女の足首を洗う。紗矢も、何も考えずに少女の隣に立っていた。波は紗矢の靴も濡らしていく。

 少女が、胸に抱えていた束をそっと捧げ持つ。手を離そうとした瞬間、紗矢の手がそれをつかまえていた。

「だめ、捨てないで」

 大声で叫ぶ。

 ――どうして?

 紗矢を仰ぎ見る少女もまた、泣きそうな顔をしていた。問いかける声が、波に攫われそうだった。

 答えを探そうとして、唐突に気づく。目の前の少女が誰なのか。この紙が、何なのか。

「これは……私の話だから」

 私が書いた、物語。

 ――そうだよ。

 少女の顔がいっそう歪む。

 ――でももう、要らないんでしょ。

「それは……」

 そうだけど。そう答えようとしたのに、言えなかった。紗矢は幼い子供のようにかぶりを振った。

「違う、要らなくなんか、ない」

 誰かを納得させられるような理由なんてない。それでも、捨てられない。

 鞄の中のノートを思う。気づいた頃にはもう、物語を綴るのが習い性で、ノートを持ち歩くのが癖になっていた。高校で文芸部に入って、パソコンで清書するようになってもそれは変わらなかった。けれど、めっきりノートを開く回数が減った近頃は、その僅かな重みが心にずっとのしかかってくるのだった。

 ならば捨ててしまおうか。それは、先ほど紗矢が心の中で転がしていた言葉だ。

答えが口をついて出る。

「必要なの……」

 今はまだ、他の誰にも必要とされていなくても、私には。

 ――じゃあ、捨てない?

 少女の真剣な目が紗矢を見すえる。紗矢は紙の束を抱えて、大きく息を吸った。

「うん、捨てない」

 少女の顔に、花が咲いたように笑みが広がる。紗矢もつられて笑みを零した。



 紗矢はそれから、ひとりで帰った。駅まで歩く間に、海水に浸ったはずの靴はすっかり乾いてしまった。染みも、塩も、浜辺の砂すらついていない。まるで海になど行っていないかのように。

 それでも紗矢の鞄の中には、あの紙の束がちゃんと入っていた。紗矢が、初めて人に読んでもらった物語。主人公は、書いたときの紗矢と同じ、高校生の女の子だ。

 髪を二つに結んだ制服姿の少女。名を、海月みつきという。

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