*



 寮へと戻る帰り道、最後の練習をしたいと言ったのはりつかだった。教えてくれる? と訊くと、ぎんせは無言でうなずいた。

 ふたりで〈塔〉のてっぺんに立ち、手をつないで静まりかえった運動場を見渡す。上層を流れる重たい雲のベールはしだいに崩れはじめていて、ハトロン紙のように薄くなった部分から、淡い月明かりが漏れていた。

「コツがあるの。見えている景色を頭の中で逆さまにして。落ちてるんじゃなくて、上昇しているんだって自分を騙すの。そうすると、恐怖が少しやわらぐから」

 ぎんせの言葉に耳をかたむけながら、りつかはまだ気持ちの整理をつけられずにいた。ずっとこのままでいたい。好きなものも嫌いなものも、これ以上も以下も必要ないから、ずっと曖昧なままがいい。だが、夜明けの気配は彼女のすぐそばまでやってきて、窓がひらくのを今か今かと待っていた。

 りつかが指に力を込めると、ぎんせも握り返してくれた。

「だいじょうぶ?」

「だいじょうぶ」

 震える足を止めたかった。うつむくと、ぎんせの足も震えていた。

 ふいに、りつかは気がついた。

(わたしたちはみんな、魔法の鍵を持っているんだ)

 でも、と彼女はいぶかしむ。鍵穴はどこにあるんだろう? ひらくべき扉はどこに? これからふる広いひろい下界のどこか──たとえば、地下深く張りめぐらされた蜘蛛の巣のような水脈の中に、クジラの唄にあわせて揺れる珊瑚の腕と腕の隙間に、オーロラを浴びてまどろむ氷山の裂け目の奥に……今夜のような聖なるものを、わたしは見つけられるのだろうか?

 重ねたてのひらから伝わる熱は、りつかを勇気づけてくれた。せーの、の合図でふたりは同時に闇に跳んだ。教師も、雲も、月も、夜も、だれもその瞬間を見なかった。

 彼方から近づいてくる朝だけが、目映い光を背中に隠して、やさしくふたりを見守っていた。

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ふるまえに 柊らし @rashi_ototoiasatte

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