ⅷ
*
寮へと戻る帰り道、最後の練習をしたいと言ったのはりつかだった。教えてくれる? と訊くと、ぎんせは無言でうなずいた。
ふたりで〈塔〉のてっぺんに立ち、手をつないで静まりかえった運動場を見渡す。上層を流れる重たい雲のベールはしだいに崩れはじめていて、ハトロン紙のように薄くなった部分から、淡い月明かりが漏れていた。
「コツがあるの。見えている景色を頭の中で逆さまにして。落ちてるんじゃなくて、上昇しているんだって自分を騙すの。そうすると、恐怖が少しやわらぐから」
ぎんせの言葉に耳をかたむけながら、りつかはまだ気持ちの整理をつけられずにいた。ずっとこのままでいたい。好きなものも嫌いなものも、これ以上も以下も必要ないから、ずっと曖昧なままがいい。だが、夜明けの気配は彼女のすぐそばまでやってきて、窓がひらくのを今か今かと待っていた。
りつかが指に力を込めると、ぎんせも握り返してくれた。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ」
震える足を止めたかった。うつむくと、ぎんせの足も震えていた。
ふいに、りつかは気がついた。
(わたしたちはみんな、魔法の鍵を持っているんだ)
でも、と彼女はいぶかしむ。鍵穴はどこにあるんだろう? ひらくべき扉はどこに? これからふる広いひろい下界のどこか──たとえば、地下深く張りめぐらされた蜘蛛の巣のような水脈の中に、クジラの唄にあわせて揺れる珊瑚の腕と腕の隙間に、オーロラを浴びてまどろむ氷山の裂け目の奥に……今夜のような聖なるものを、わたしは見つけられるのだろうか?
重ねたてのひらから伝わる熱は、りつかを勇気づけてくれた。せーの、の合図でふたりは同時に闇に跳んだ。教師も、雲も、月も、夜も、だれもその瞬間を見なかった。
彼方から近づいてくる朝だけが、目映い光を背中に隠して、やさしくふたりを見守っていた。
ふるまえに 柊らし @rashi_ototoiasatte
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