少女と果物泥棒

納戸丁字

蜜柑

「つまり、例の被覆材とやらは素手で剥ける程に脆い素材でできている、と?」

 隣を歩く技師は、俺の問いに頷き、その通りです、と答える。広告などで頻繁に露出している特徴的な外装は内容物を覆うカバーに過ぎず、遮蔽性は布製のカーテンにも劣るのだそうだ。

 壮麗なる伽藍船の最深部まで足を踏み入れることのできる人間は、そもそもがごく限られている。他ならぬ俺自身、途方もなく煩雑かつ執拗な各種の手続きを繰り返してようやく大理石の廊下を歩く権利を勝ち取った(表向き禁止されているが、どうせ身辺調査もされている事であろう)。言うまでも無くセキュリティは厳重さにおいては最高峰の代物である。そこここにさり気なく──しかし確実に目に留まるよう──配されたセンサー群からも、なまじっかな国家機密じゃあ歯が立たない程のコストを費やしているのが容易に想像できた。


 ──何より顧客の皆様と来ましたら、最後の、あるいは最初の工程を自らの御手でもってやりたがるものなのですよ。なので、老人であろうと容易く手で裂けられる脆いポリマーを態々使っておる訳です、と技師(そして、この深部における水先案内人も兼ねている)は言い、口元がわずかに引き攣れる。まさか今のは笑顔のつもりだろうか、などと考えながら最後の曲がり角を越え、磨き上げられた強化セラミックの扉が前方に現れる。


 我々が今居るフロアには、実のところたった一室しか配されていません。そのたった一つがあの扉の先に有る『フルーツ』の格納庫なのです。通路で接続こそされていますが、構造体としては船とは独立しており、部屋そのものが内容物を真に防護する外殻を担っております。宇宙船一隻を丸々新造可能なグレードの機材、そして三隻は製造可能な金銭がこの一室に費やされています。内部は柔らかくしなやかな恒温性ポリマーの泡で満たされ、『フルーツ』は床、壁、天井の6面全てに接することなく中心に浮かんでいます。今この瞬間にミサイルがこの艦に撃ち込まれてもクッション材に包まれた『フルーツ』は疵ひとつ無く、多少ひしゃげたケージと共に新鮮さを保ったまま宇宙を千年だって漂うのです(我々は艦ごと木っ端微塵になりますがね)。そのような万が一、億分が一の事象が発生しても貴重な果実を失わないための、これは保険でも有る訳ですが。


「このケージは熱や放射線、まして切断や衝撃では決して破れないと言いたいのかな」

 ええ、ええ、物理的に破壊するのはほぼ不可能と言っていいでしょう……少なくとも、ヒトが単身で持ち込めるサイズの物ではね。建築重機でも持ち込めば話は別でしょうが。

「違いない。でなければ『あらゆる破壊に耐えうる素材をどうやって加工したのだ』という大いなる謎が発生する」

 技師がひゃひゃ、と引き攣った喘ぎ声を立てる。笑った訳では無い。俺の左手指が彼の頚部をえぐり取ったのだ。

 致命的な大血管は避け(大量の返り血を浴びるのはぞっとしない)、まず声帯を破壊してから慌てず騒がず右手で彼の顔面を掴んで、ほんのわずか力を込める。みし、ぎしと音が立ち、技師の喉の、ついさっきまで声帯が収まっていた部分から絶望感の乗った細く長い呼気が漏れる。

「恐らく察しているだろうが、君は死ぬ。しかし今すぐじゃあ無い。あの扉のロックを外すキーは君の生体認証か、それに近い何かなのは全ての状況証拠が物語っている。なら、あの戸を開けるまでは生きていて貰った方がハッキングより手っ取り早い」

 技師が血走った眼をして右手を懐に突っ込んで銃を取り出す。俺は右手で銃を叩き落とし、ついでに彼の右前腕を叩き折る。男の喉からひぃひぃと音が漏れる。

 技師が左手で隠しセンサーを叩き壊す。即座に照明が剣呑な赤い光を発し、けたたましい警報が鳴り、しかし0.8マイクロパーセクも航行せぬ内に全解除され、即座に平常時のモードへ復旧する。男の喉から驚愕によってだろう、ごひゅうと息を呑む音が立つ。この伽藍船、つまり見てくれだけ整え屋上屋に次ぐ屋上屋の増築を繰り返した張りぼての輸送船のネットワークシステムは実体相応に御粗末でバックドア仕掛け放題ウィルス仕込み放題の有り様だった、このフロアに限って言うなら遡る事72時間前にはシステムの全掌握が完了している。セキュリティーシステムという料理は立派でも、それを乗せている皿が雑巾並みの代物では話にならん。システム提供元の某大手綜合警備傭兵派遣業者も慙愧の念に堪えぬことであろう。

「それでも、さっき君が得々と語ってくれた通り、あのケージだけは本物だ。あらゆる回路は外部から閉じられて手の出しようが無かった。卵の殻にどれだけ細工をしても、黄身を弄る事は出来ないのと一緒かな。だからこうして現地まで足を運び、鍵も現地調達する必要が有った」

 その様な事情を解説してやりながら、万策尽きた様子の技師の男を半ば支えるように歩かせて扉の前に到達する。

「やあ、やっぱり」

 基盤を覗き込み、予測が的中したのを俺は知る。何通りか想定した中でも、だいぶ方の奴だ。

「ホラこれ。開錠はDNA認証だけど、要求量が成人男性1名のほぼ全血相当だ」

 本人はあらかた瞳孔や指紋認証システムなどと聞かされていたのだろう。俺が彼の肩をぐいと押しやると、『いまコイツは何を言ったんだろう』といった顔のまま高さ180cmほどのスリットに吸い込まれていった。恐らくはケージ一基ごとに対応したコードを有した、文字通りの生体鍵として共に納品されたのであろう、哀れな培養ヒューマノイドがひゅうひゅう音を漏らしながら壁の向こうへと去り、即座にシャッターが閉まる。地響き。かすかな唸り。ポリマー泡が回収されるひたひたとした気配。ややあってランプが赤から青に変わり、扉が音も無く開いた。



 ──くぐもったぷちぷち音が微かに届く。それが聞こえたことで、私は今まで無音の真っ暗闇の中で微睡んでいたのだと理解する。自分が、なにか、ものを考えたり感じたりできる事に初めて気付いた。そのくらい、今の今まで完璧な『何もない』のただ中に居たのだ。

 気付いてしまったら、何か今までとは別のことをしなければならないのだと私は悟る。けれど、身じろぎもできない。そもそも『動く』って何だろう? 私は、本当に、何も知らないのだ。それが、私が最初に得た知識だった。

 私を包む『何もない』の向こう側から届くぷちぷちも暫くすると止んでしまい、再び無音に戻る。そして、全身に『何もない』の重みがのしかかって来た。後で考えたら本当に僅かな、それこそ豆を一粒乗せられた程度の重みに過ぎない筈なのだけど、何しろそれまで脳に届くべきあらゆる外部情報が本当にゼロだったので、私の脳と精神はすっかり圧倒されてしまったのだ。掛け値なしに、あの時点ではタオルケットより薄っぺらな被覆材が生きてる内で一番重い物体だった。

 その後はあらゆることがいっぺんに起こった。扉が開いたことで静止状態だった空間に気流が生じ、更に誰かが踏み入った事で渦巻く奔流のようになり、更には反響する靴音、息遣い、足取りが刻む規則正しい、けれど生物故に自然と揺らぐリズム、それら全てが私を取り巻いて、それきり『何もない』はどこかへ行ってしまい、きっともう帰ってくることは無い。

 そして、左斜め上の辺りから真っ暗闇に亀裂が走って光が視界になだれ込んできた。狼狽した私は、それでもこの絶え間なく変化する状況から心を閉ざすことがどうしてもできず、とうとう被覆材の破れ目から覗き込んできたあの人と目が合った。


 素裸のまま起き上った私を見て、ぎゅっと眉を寄せたと思ったら、あの人は自分の上着を貸してくれた。見よう見まねで羽織ったら、産まれたてにしては賢い奴だ、と呟いて前を閉めてくれる。

 手を貸してもらって立ち上がり、床に踏み出す(なんて冷たいんだろう。そして、なんてしっかりしているんだろう!)。手を引かれるままにぺたぺたと歩き去って行く最中、私は、一度だけ振り返る。

 そこには、艶々とした明るいオレンジ色のシートがくしゃくしゃになって残されていた。



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