第5話 異常



 七恵には居場所がない。それは、両親の不仲だとか、学校内で虐めを受けた経験だとかそういった単純明快な原因に依るものではなく、本当はただ単に彼女が人と合わすということが出来ないためだった。

 可能であるのならばしている。それが出来ないのであるのならば、能力の不足であり劣っているということだ。故に、七恵はついつい自分に気をつけて、独り言をしてしまう。


 そうまでして、窮屈に生きるのは辛い。だからこそ彼女は没個性的にもありふれた善人という単純そうなものになろうとした。だがそうすることで余計に、無理せず自然に生きていられる、不通な自分とは大違いの普通の人間に惹かれてしまうのだ。彼女の人間観察とは、嫉妬の目で見つめるものであった。

 当人は気づいていないが、彼女にとっての普通の人間というものは居場所のあるものである。そして居場所のない同種の人間に知りあえていないために、彼女にとって自分だけが普通ではない存在なのだ。孤独、故に居場所を求めてさまよい続けなければならない。そんな答えに気付けないのは、認めたくないからであって、故に七恵は逃避のために普通という題目についてばかり悩み続ける。


 そう、今のようにそれどころではない状態に陥らない限り。本当の普通ではない、に触れない限りは。



「あれ、ここど……ひっ! う、あああっ」

「やれ、やっと起きたか。もう少しで遅れるところダ」


 七恵が起きると、目の前には気絶するまで自立呼吸が乱れてしまうほどに恐怖を及ぼした男がいた。開いた口々から溢れる声までが起き抜けにでも恐ろしい。二つもある唇の中で、呟く奥まった口がことさら赤く映った。

 だが、そんなモノにすら注目できずに、最悪な目覚めの視線は定まらない。


「何、ここ、どこ……どこなの、いやぁ……」


 そう彼女は赤い男に驚いたのではない、赤い部屋に息を詰まらせたのだった。


「ここは僕の部屋だよ。まあ、内装の、みたいに雑には扱わないから安心してほしいナ」


 赤は停止の意を含んでいて、そして少し暗くすれば血の色そのままだ。そして、この場は薄暗いその色で覆われていた。

 鼻孔を塞いでいたのは、むせ返るような血の匂い。肺が働くたびそれは濃くなっていく。光源も見当たらないのに部屋が明瞭なまでに見通せるのはどういうことか。暗い赤色が湧き出る元は直ぐに理解できた。そう、亡骸から溢れた雫は最早滂沱のようだ。

 もし血の池地獄があったとしてもきっと、この部屋よりは清潔であるのではないだろうか。何しろ、撒き散らかされた臓腑や肉体の一部は片付けられずに、そのままにしておいてあるのだから。その手抜きぶりが人間臭くて、余計に気持ちが悪い。


「どうして、どうして、どうしてこんな、ことが……」


 異常、その程度よりもはや汚いばかりのグロテスクがどこを向いてみても広がっていて、それを見ないように脳内のレッドアラートは指示する。だがそれに従わない、怖いものから目をそらすことの出来ない瞳を閉じられずに、彼女はその視界を涙と赤く濡れた手のひらで覆った。

 途端に頬に触れるのは、ぬちゃり、とした生乾きの血の感触。随分と、空間を埋め尽くすくらいに繰り返し殺戮が繰り広げられたというのにその滑りは新しく熱すらもっていて、まるでこの中では惨劇が置きてから時間が止まっているようだ。


「起き得ることはどこかで起きる、というか僕が起こしたかっただけだけれど。ほら、こんな部屋もどこかにないとは言えないだろう? そう、誰かが想像したせいで、あるのさ。悪いキミなら分かるはずダ」

「そんな……ことは、ない。私は、私はこんな悪夢を想像したことなんてない!」


 七恵は耳障りが最悪な、バケモノの断言に首を振る。しかし、どこかで悪意に押しつぶされてしまいそうになった時に、みんな動かなくなってしまえばいいと、どこか自分の知らない場所でみんな亡くなってしまえばいいなどと思ったことは本当にないといえるだろうか。そして七恵には、経験があった。ぶんぶんと、頭を振って否定すればそれだけ、余計な記憶が頭の中から落ちてくる。

 彼の言葉は魅力が皆無であるが、どんなにうかつであっても答えてしまうような魔力があった。応じたくなかろうが、否応なく記憶の蓋の奥の汚いものは答える。果たして、封じられたものが一度溢れ出せば、堰を切ったようになるのが普通だった。


 いつも通りに、全てを自分のせいにして。何しろ、頭のなかの反省会場には、己しかいないのだから。ずらりと、同じ顔が並び、七恵を睨んでいる。


「私はこんな子じゃない! 私は悪くない! こんな、こんな、大嫌いな他人なんて全部まとめてグチャグチャにしてからどこかに隠してしまえれば楽だなんて、そんなこと考えたこともない……ない、はず!」

「でも、想像という助走がなければ早々に認識へと達しもしないものさ。早くにコレがソレと気づけたのは、キミが一度はこういう妄想をしていたためだよ。そう、物語なくては怪物が現れることだってない。たとえその正体が枯れ尾花だとしてもネ」


 そんな七恵の自問自答とすり合わせているかのような、赤い男の話は続く。今も、反省会場に押し入って、この場に来てしまったのはお前のせいだと語りかけている。


「私には関係ない!」

「ここにだって僕が選んで連れてきたわけではないんだよ。三つの色の中からどれがいいか、キミの心に尋ねた。赤が良かったんだろう? 君は何時だって、誰かの静止を求めている。そう、ここはキミが知らずに望んだ色だ。だから、ここはキミのせいでもあり、誰のせいでもある。ま、大体が僕のせいなんだけどネ」


 自分の心等分からない。ただ、誰のせいなのか、それだけを自白する男の声が耳に入った。


「そうだ、お前のせい、お前のせいだ。人を何だと……うぇえ」


 いくら耳を澄ましても、頭がない遺体の集団は怨嗟の声をあげることもなく、故に塞ぐための手のひらは、赤い全てを見ないようにするためだけに働けた。しかし、血の臭いで嘔気を催すのは止めようがなく、ただ七恵は目玉を圧迫するほど顔を両手の平で強く押さえながら、闇の中で止めどなく四方八方から発される男の声に反応する。


「人は怪人の生みの親だ。最初は、誰かが望んだからここが出来たんだよ。悪しき想像ばかりを受け取ってこうなった怪人に対しての責任を取ってくれるのは誰なのだろうね。どうでもいいけれド」

「だから、何、言ってるのよっ!」


 しかし、暗中模索の最中では、見えない相手の意図など掴めるはずもない。不惑で不埒な輩の言葉は独語となって、宙に消える。しかし、ただ一つだけ、怪人という単語を受け取り、そこにばかり七恵は納得していた。だから、僅かに勢いも出る。

 こんな存在、化け物以外なら怪人だ。それ以外、こんな悪夢のような現状には似合わない。


「――と、まあ何時か望まれて生まれた怪人がココに居たんだよ。そして、それに成り代わったヒトが僕ダ」

「え?」


 だがしかし、そんなことはなく、ただの事実に思わず七恵の気は抜けた。


「徹底的に、変わったんだ。そうだね、彼の名残はこの赤いマントくらいだヨ」

「怪人、じゃないの? じゃあ、アンタ、何? 何なの?」


 気のままに、手が落ちてしまったことにより、真っ赤なウソのような現実が目の前に開かれる。相変わらず、不気味を超えて憎悪すら喚起させる不一致な二重の顔が赤グロい宙に浮いているが、そんなことには最早七恵の意識にはなかった。その奥が、ただ気になったのだ。こんな迫真の狂気をヒトが纏えうるものなのか、そう疑問に思うことすらあまりに否定したいものであって。


「だから、キミと同じ人だよ。物語に触れられるようになっただけの、ね。強いて言うなら、怪人を演じることに八十年ほどハマっている人サ」

「何、それ、人じゃ、ない」


 言葉を鵜呑みにするなら、血溜まりと臓腑を踏み躙るコレは怪人ではなく人。それに、更に歳が重なる。

 果たして、八十を超えてなお、こうもおぞましい人間がいるだろうか。まして、朗々と衰え知らずに言葉を吐き散らし、その語尾を滴らせる老人なんて、あまりに存在を認めがたい。それ以前に、この無残な部屋に適応しているコレが人である事実が最も不可思議であるが。

 常識的に考えてすら、あり得ないのだ。目の前で顔を突き合わせながらも、一枚の皮で真意を把握することを塞がれている七恵には、更に理解することなど不可能であった。


「信じられないかナ?」

「当たり前、よ……」

「なら、それでいいんだ。それが一番僕にとって好ましイ」


 そう言って、赤マントの男は頷きながら少し七恵の方へと寄った。一歩ずつに八十年以上の恨みを帯びた鮮血は彼にまとわり付いていくが、そんな程度のものでは彼の深い呪いに関わることすら出来ずに、結果暗い色をしたスラックスに包まれた太もものあたりで赤色は剥がれていく。


「どういうこ……う、いゃあああ!」


 足音はなかったが、故に、ぴちゃり、ぴちゃり、と滴る音に七恵は顔を持ち上げ、目とは最早言いにくいそれ以上の働きを持った異常な部位と、彼女は視線を合わせてしまった。

 皮と肉の隙間に埋まった黒々と悪意ばかりを湛える泉。常のままでは理解不能の視覚情報を眼球から取り入れた頭の中は狂って痛む。目、どころかそれこそ頭が腐るという表現がピタリと当てはまるような痛苦を七恵は味わった。


「素直ではない他人が語った怪談こそ、半信半疑で受け容れられる。やれ、迷い込んだキミが白痴ではない孤人で良かったヨ」

「いや、いやっ! これ以上近寄らないで……っ痛、いたああ! 痛いいいっ」


 苦しみのあまり話を聞くことも出来ずに反発し、そして思わず出てしまった右手は、その小さな手のひらが目の前の理不尽を退ける前に、赤マントの男に当たる感触を受けるはずだった先端から喪われた。暖簾に腕押しを味わう前に、手のひらの皮を全てあちらへ持って行かれてしまった七恵は、返って来た痛みにその身を丸ませる。

 赤く、その身を露わにした新たな体表に、痛みのあまり触れることも叶わず、対の手で七恵は手首を圧えた。しかし、赤身より濃い色が体内深くから溢れ出るのを止められずに、口からも絶叫が止めどなく溢れる。


「あーあ、仕様がないな。異常な僕に普通な君が触ろうとするからそうなるんだヨ」


 二人の間には見えない断絶があって上から下にしか通れずに、常人では触れることも叶わないのだ。そんなこと、普通であっては分からない。いやいやと、七恵は頭を振って泣き叫ぶ。


「いやあっ! もう何、私悪くないのに、何もしてないのに、痛い、う、うぇええ」

「ああ、涙で見えなくなってしまうというのは、都合がわるいな。仕方ない。泣き終わったら、連れて行くからネ」


 少女にとって、あまりに辛い痛みと恐怖の連続で、何時からか泣けなくなっていたはずの七恵もとうとう涙腺を決壊させた。しかし落涙は、彼女の慰めにもならなければ、この場の誰の心にも響かない。涙を流して充血し赤くなる瞳に、痛みに震えて血だまりを決壊させる掌はどこか似ていた。時が経てば治まってしまうという部分も、また。


「うっ、なんで、どうして、私なの」

「要因はいろいろいろあるだろう。僕の気まぐれもその一つ。ただ、一番はキミと彼に接点があったからだヨ」

「うう……彼?」


 この四角く天井まで赤いばかりの地面が滑る以外にバリアフリー過ぎる部屋にはカケラと二人以外に誰彼も存在しない。そんなものは、自分の声以外にうめき声すらない事実から七恵は気づいていた。

 しかし、たった今疑問に周囲をそっと覗き見たことによって把握できた事実が一つ。ここには出口も入り口すらも見当たらなかった。


「彼とは、足立勇二と言う少年だよ。嫌でも忘れていないだろウ?」

「あだち、君……が、どうしたの」


 足立勇二。その名は昨日に思い出したばかりである。何時だって羨ましかった、みんなの内の一人の名だ。

 その体も顔も、引きずられるかのように思い出していく。脂で跳ね放題の茶髪に、膝を中心としてアスファルトの黒いシミで薄汚れた衣服、そしてくたびれ果てた顔に際立って目立つ血走った瞳。それらが、自分ではなく誰かのための努力の跡であるという驚きは、大事なものなど自分以外にない七恵にとっては、忘れがたいほどに大きかった。

 だが、その程度、見知っているだけというのが接点であるのは解せない。憧れても届かない異なったものと、どうして繋がっているというのだろう。

 しかし、そんな七恵の反発心などどうでもいいといわんばかりに、赤マントの男は疑問に爆弾発言をつなげた。


「もうすぐ彼は死ぬから、その始終を見て欲しいんダ」

「え?」


 信じがたいが積み重なって、七恵の思考は一瞬止まった。しかし、化け物のような人間は嘘を言っていないと、もうすぐに七恵は知る。


 待望していたはずの普通のことが、残酷にも起きるのだから。



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