口が裂けてもいえないこと
茶蕎麦
第1話 はなこ
「おにーいさん。ね、私キレイ?」
入道雲が雄々しくそびえ立つ空の下、少女は誰かに向かって、そう尋ねる。
二人には、近いようで遠い距離があった。自然、返答には間ができる。
「ほらほら、私を見てよ。どう思う?」
そんな間隙を許せなくて、少女は体を動かし、多くの自分を見せ付ける。白いブラウスの下で赤いスカートは大きく円を描き、ふわりと、ボブカットの黒髪が風にたなびいて揺れた。
ステップは軽く、誰かの視線はつられて上下する。そうして、次には左右に動いて焦点を失った。
「ねえ、私が分からない?」
何時しか舞は止まり、しばし浮ついたままに時が経つ。つい先ほどまで晴天だった空に焦がされたアスファルトが、少女の足元を熱気で揺らがせていた。
陽炎は、揺らいで真実を曲げる。少女の言葉は届かずに、蜃気楼は消えていった。
そうして、ついに辺りには何も残ることはない。
目の前には誰の姿もなく。まるで何もなかったかのように、通じ合っていたという幻は、跡形もなく消え去っていた。
「あっはは! ついに、私まで見えなくなったのね、人間って!」
そんな孤独もなんのその。
少女は笑う。カラカラと、空空と。聞き手のいない笑い声は、むなしく響き渡っていった。
「あはは……はぁーあ。つまらないの」
やがて、飽きてしまった少女の口角は落ちこむ。
唇からさらに長く伸びた口の端が垂れる様は、どうにも道化じみていた。がま口のように開かれぬよう、余分な口は白い糸で縫われて閉じているが、その裂け目は多くの目を引くものだろう。
しかし、人目がないために、その端正な顔を損ねる口元を少女はマスクで覆うことすらなくなっていた。イタズラ心で見知らぬ人をおびえさせていた過去が、今となっては懐かしいものである。
「私の役目はもう直ぐ終わってしまうのかしら。ああ、平和な日々が愛おしい。おぞましさに目を向けるような暇な人も、もう居ない」
問いかけることでおびき寄せ、その開いた口を見せ付けることで驚かす怪異が、たそがれる。
小さな怪人は、大きく体を伸ばして青空を味わう。そうして、傷跡の残る口を指先でなぞってから、ため息を吐いた。疎ましくも、大切なそれに触れることで、少女の心はさざなみ立って暇を忘れる。
「ねえ、私はキレイなの?」
そう、少女は口裂け女だったのだ。
怪談、というものを聞いたことのない人は、まずいないことだろう。
その言葉で百物語を想像するのもよし、または隙間に忍び込んでいる怪人の話を思い出しても構わない。著明な本の題名を思い起こす人も多いだろう。まあ、そういった恐ろしい話が世の中には沢山転がっているということだけは、分かってもらえると信じている。
そんな怪談たちの中でも比較的近年に出現した有名なものに、口裂け女の噂があった。
ごく大雑把にその内容を語ってしまうと、裂けた口を隠した女がその美醜を問いかけてきて、美しい、醜い、そのどちらを答えたとしても、女がその過分に開いた口を見せ付けて襲ってくる、といったものである。
仔細に違いはあれども大体において、これは理不尽極まりのない話だと感じるだろう。口の裂けた狂女と関わり合いになりたいという者はいないだろうに、それがこっそりと有無を言わさずに近寄り襲ってくるなんて。そんな事態は誰も想像したくないに違いない。
後になって思えば、口裂け女は、妙にリアルで時代に合った恐ろしい話であったのが、多くの者に受けとめられた秘訣であったようだ。現実に則しただけ、怪異の牙はことさら異形に見えてしまうのだろう。
出会いたくない、恐ろしい。しかし、実は捕まってしまったその後にどうなってしまうのか今一定かでないということが、何よりも恐ろしいところではないだろうか。
死者に語る口はない。だからこそ、一体全体それからどうなってしまうのか、誰にも分からないのだろう。それこそ、当の本人以外には。
さて、そんな口裂け女の少女は、空が紅く染まった頃合いになってもまだ、街をさまよい歩いていた。
逢魔が時の街は、常に人で溢れている。少女の体は小さなもので、一度人に埋もれてしまえば容易く見つかるものではないだろう。
しかし、そんな街は今やがらんどうの、まるで人気のないものとなっていた。影がなければ一体全体が静止画のようで。そんな無人のコンクリートジャングルを歩む少女の姿は、一点の赤色となって酷く目立つ。
これは、明らかに常ではない状況である。異常な世界が広がって、街を支配していた。そこに留まって異界に馴染むことをよしとしない少女は、居もしない人を探し続けている。
ただ、その顔に疲労の色がないのは幸いなのだろうか。良くも悪くも、少女は徒労に慣れていた。
「ゴミ捨て場は、相変わらず寂しいわ。人肌恋しいなんて、久方ぶりの経験ね」
けろりと、しかしどこか強張った表情をして、少女は独り語ちる。
言葉が口の端から漏れてしまったのは、口を縛る糸が緩んだからというわけでもないだろう。
この場所は、何かがずれている。建物も、車も、道も、ただそこに捨て去られているかのように鎮座しているだけ。
肝心な人間は、そこにあったという名残ばかりで姿形も消え去っていた。まるで最初から何もなかったかのように、静寂が降りている。
「でも、聞こえてくるわ。気持ちの悪い泣き言が。ああは、なりたくないなぁ」
しかし、忘れ去られた言葉がその小ぶりな耳朶には届いていたようで、少女も長くは黙っていられなかった。
「こっちにおいで、助けて、死ね、恨めしい――――そんなのばっかり。ピアノの音色だけは悪くないけれど、もう少しアッパーな曲を選んでほしいものね。わざとらしい荒い息づかいも、耳障りだわ」
それらの音は、少女の幻聴ではない。空間には人間の気を引かせるために立てられた音がひしめいている。ただ、普段ならばそれらの場違いな全てが幻聴として切って捨てられているというだけ。気を逸らしてしまえば聞こえてくるものなんて、幾らでもある。
そう、人の姿なんてからっきしない街の隙間はよく分からないもので埋まっていた。音の全ては、そいつらの蠕動である。幾多の怨念が、少女の眉を歪ませていた。
「でも。そう、かぁ……目を皿のようにしているだけだから足りないのかも。もっと耳をそばだててみよう」
そして、少女は隠者の声から希望を見出す。知らない間に止まっていた足は、リズム良く音を刻みだした。
「ほっぷ、すてっぷ、じゃーんぷ」
少女のスキップは軽く、高い。一つ跳んで路を蹴り、二つ跳んで屋根を踏み、三つで飛んで空を舞う。
ニュートンをあざ笑うかのように、その足取りは縦横無尽で重力にすら縛られることがない。百メートルを三秒で走りきるという口裂け女の足腰は、恐ろしいほどに強靭だった。
そして少女は目を瞑りながら、空に集まる音を聞く。すると、空っぽの街から溢れた喧騒の内の一つが、取り分け心地よく響いてきた。
「――なこ、はなこー」
「私の名前、呼んだ?」
少女には、誰かが誰かを求める声が聞こえたのだった。
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