番外
番外話その一 七恵の不思議①
それは幾年かの昔。普通と不通は、少し前に並んでいた。
そう。中学生活も半分を過ぎたそんな最中、四つのクラスのお隣さんとして、足立勇二と高橋七恵は交わらずに暮らしていたのだ。
方や愛を知って、隣人と語り。方や愛を知らずに、隣人を騙り。沢山の中で埋もれる彼と、沢山の中に潜ろうと窮屈にしている二人は対照的だった。
幸せと辛さ、片一方ばかりを受け取って生きていた彼らに大なり小なり破綻が訪れるのは、目に見えていたこと。しかし、そんなことに気付くものすら一人としていなかったのは、きっと二人にとって不幸なことだったのだろう。
「楽しそう」
真意など、周囲の誰にも通じない。であるならば、それは独り言と相違ないだろう。
人の群れの中で独語を呟く七恵は、良く分からない馴染みの少女に見当違いの声をかけられた。
「七恵、ああいうのって馬鹿みたいっていうんだよ。男子ったら何時もああじゃん。ほら、健太とかあの中に頭から突っ込んでったよ。危ないねー」
「そうだね」
七恵は頷き、どうでもいい人の言葉を聞き流す。隣で愛想のために作られた笑みが、醜悪な歪みに見えた。不細工な偽物の感情を無視して、彼女は再び前を向く。
「……でもやっぱり、楽しそう」
七恵が見つめるのは、発端が不明な男子の喜色の折り重なり。その身で喜びを表し、ぶつけ合う彼らを理解できず、だがそのために彼女は目を逸らせなかった。
時折彼らの口から発される女の子の名前、そしてそれを塞ぐ手。友情の肉団子の中の誰かが女の子と仲良く、もっと言えば交際に至った、その喜びと照れ隠しのためにふざけあっているという真相が七恵にも予想できた。
だからといって、それを上手く飲み込めるわけでもないのだが。そんなに恋愛は喜ばしいものなのか、七恵には不明だ。
「よしちゃん、って言ってるね」
「きっと、二組の
「そうかな?」
格好悪い。それが、もっと気持ちの悪いものを家で帰って直ぐに見続けている七恵には判らなかった。あれなど、程よい砕け方ではないだろうか、と。人間らしい見窄らしさの男の子を、彼女は悪く言う気などない。
「……そうだよー。七恵ったら相変わらず不思議系ねー」
むしろ七恵は、不通を察して去っていく、彼女の足の太さの方が余程不細工だと思う。どすどすと、そんなオノマトペを想起して、この場で一番に綺麗な少女は薄く笑んだ。
七恵は、一番自分に擦り寄ってくる、先の小太りの少女が言っていた悪口を知っている。
「人の気持ちが分かってないんじゃないの、か」
今度は間違いなく誰にも届かないことを知って、七恵は独りごちた。その薄い笑みの形を変えながら。
同意協調こそ人間の大事、ということは七恵も知っている。とはいえ、全く理解できないものに愛想を見せるのは、流石に気持ちが悪いものだった。
そう、高橋七恵には幸せな人達の思いが解らないのである。
「確かに、分からないなー。どうすればいいのだろうね。明確な基準があれば、やりやすいのだけれど……」
七恵は先の彼女のニキビに荒れた肌ばかり思い出しながら、そっと思う。あの少女は、確かに他理解が出来ているのだろう。己の尺度を確りと持ち、それで人を計って友と繋がる。出過ぎず、引き過ぎずに。
つまるところ、それは空気を読むということに違いない。皆の中では合わせていてばかりの七恵に、それは苦手分野だった。
「空気……その場で温度に色が変わってしまうものに、皆よく寄り添えるものだよね」
人の群れの中で孤独な七恵には、条理が足りていない。そこから多くを知るべき家族との不通。参照機会が少なすぎれば、周囲のルールを解しきれなかった。
だから、少女は主に、一人で喋る。あまりに近寄ることで他人の気分を害したくはなくて。
「悪くしたくは、ないな」
何しろ、七恵の目標は、いい人に成ることだった。他人を刺激せず当たり障りのない、何かが理想的。そうなれば、傷つけられることはきっとないだろうから。
それは結局のところ、不明が臆病に縮こまっているだけなのだが、七恵がそのことに気付いてはっちゃけるのは、随分と後のことになる。
「ああ、私は見ているだけでいいのに」
日々に疲れ、七恵がそう呟いてしまうのも仕方のないことか。居るだけで目立ち、端役になれない少女は、触れ合いに疲れている。
偶々、美しく生まれて育ったばかりで、得意が多いというだけで、彼女はあまり放って置かれなかった。
「高橋さん、どうかした?」
「何でもない」
七恵は頭と共に、憂いを払ってから、声を掛けてきた空気に逆らうことを格好いいと思っている少年、自愛の気のあるよく磨かれた子供を目に入れる。
どうにも自分を物語の主人公と思い込んでいるような彼はスポットライトが七恵の側にあると誤認しているようで、よく絡んでくるのだった。
「そうは思えないけれどな。アイツらがうざかったら言ってよ。黙らせて来るから」
「うざいとか、そんなことはないよ。むしろ楽しそうだな、って」
話しかけてくる少年の身振り手振りの大きさにこそ内心うざったさを覚えながら、七恵は答える。しかし、その返答に彼は気を悪くした。口を尖らし、言う。
「高橋さんは優しいね。でもオレはあんなガキ達にもその優しさを向けるのはどうかと思うけれど……」
「そうそう。七恵はちょっと皆に優しすぎだよねー」
「っ、吉田か」
「名字呼びはフレンドリーさに欠けるなぁ。
子供が同学年を下に見る滑稽さを眺めていた七恵の、その横からまた違う少女が現れた。同時に男の子の塊に向けられていた視線が、七恵等の元へ集まって来ていることに気付く。
斎藤俊だけですらその見目から注目されるのにそこに更に一人、人気者が集えばそうなるのも当然であるのだろう。
会話に乱入してきた吉田美袋という少女は愛らしく明るい性格で、そして開けっぴろげに俊のことが好きだった。
本人が隠しているつもりでもあからさまな、俊が七恵に向けている恋慕の情と相まって、見た目だけは良いこの三人が揃えばどうしようもなく目立ってしまう。
「その他大勢の呼び方なんて、どうでもいい。オレは今、高橋さんと話をしてるんだよ」
「ひどーい。俊君ったら、美袋ちゃんを除け者にして、七恵にばっかり懐いちゃって。そんなに、皆の前で怒って貰ったのが嬉しかったの? 俊君ったら、ド・エ・ム」
「吉田!」
恋愛沙汰に子供が興味をもつのは、当たり前だと、七恵は知識で知っている。そして、皆が七恵らに期待しているのは俗に言う、三角関係というもの。
幼稚な恋は、きっと傍目からは面白いものなのだろう。二回目の年次にて、仲を噂される彼女等が一つクラスに揃って関わりを辺り構わず披露する様子は同級の皆にとって良い見世物だった。
「二人共、落ち着いて。喧嘩はなしだよ。私達、お友達でしょ?」
「……分かった」
「はーい」
「良かった。お友達なら、仲良くしないと」
だが、七恵は恋愛の展開を望む、周囲の期待を無視する。恋慕の情も、ライバル心すら、同じ言葉で包んで放った。彼女はわざと過剰に、自分たちは友達であると口にして牽制を続けるのだ。
「それで、優しい優しいお友達の、七恵さん。明日の午後はお暇ですかな? それらしく、一緒にショッピングに興じてみたいのですけれども」
「土曜日は……ごめんね。塾があるんだ」
つい、七恵は嘘を吐く。生まれてからこの方問題を過半も間違ったことはないために、学校以外の学びを必要としなかった彼女は、本当は学習塾というものを詳しく知らない。
七恵は自分を恋敵と思っているだろう相手と二人きりになるのは流石に嫌だったから咄嗟に口から出まかせを吐いたわけであるが、よく考えると例えばどこの塾であるなど訊かれれば困窮してしまうのは目に見えていることで。
彼女は内心焦りを覚えていたが、しかし意外にも納得をした美袋が疑問を持つことはなかった。
「おぅ。流石、偏差値七十さんは違いますなー」
「だな。中身スカスカの吉田とは大違いだ」
「保健体育と他の学科の平均の差が五十点もある男の子とも、違いますなー」
「てめえ、どうしてそのことを!」
「きゃー。エロエロドエムさんにぶたれるー」
「まだ言うか……つうか、エロ二つ増やしてんじゃねえよ!」
「二人共……」
悪く言えば、見てくれる。そんな美袋の思う通りの展開によっていちゃつく二人に、蚊帳の外の七恵は困った様子を見せる。
どう考えてもお似合いで、自分の入る余地なんてないのに、どうしてこの子達はつまらない自分の側に居たがるのだろう、とまでも彼女は思った。大抵のことを受け容れてくれる、その包容力に二人が惹かれていることを知らず。
「私じゃなくてもいいと思うのだけれど……」
だから、七恵は一人でそう呟いてしまう。家族に愛された覚えのない彼女は、自分が愛されるべきものだと思っておらず、群の中で優れようとも自己評価はずっと低いまま。そして、向けられた愛を理解することもできなかった。
故に、二人から幾ら信頼を寄せられようとも、孤は続く。
「聞こえたぞー。七恵はぼっち体質だなぁ。……アンタ以外、誰がこんな絡み方をする私に一々構ってくれるかっての」
「ん? どうした急にシリアスっぽいこと口にして」
「お尻が良いの?」
「っ、ふざけんじゃねえよ!」
急に向けられた美袋のスカート越しの臀部に、俊は怒る。少しの間そこから視線を離せなかった自身の不甲斐なさも含めて中々に。だから、彼が七恵の弱音に気付くことはなかった。
「……ありがとう」
流石に理解できたその気遣いに、七恵は感謝をする。
勿論、俊と美袋が優れている部分ばかりを認めて、自分と同等と見ているから寄っているという七恵の想像も間違ってはいない。代わりに同じ美人で自身を認めてくれるような人がいれば、二人はその人間の元で安堵していたことだろう。
だが、まかり間違っても、彼女が自分の代わりになるだろう優しい人ということで想起していた半端な少女達では駄目であるだろうが。
人の縁は、奇遇の連なり。結局の所、何よりその時そこに居てくれることこそ、大事なのだ。もしも、を考えてしまう意味はない。肝心な時に隣に誰か居てくれた試しのない七恵にそれを理解するのは難しいことだったが。
「あ、チャイムだね」
「げ、昼休みもう終わりかよ。殆ど吉田の相手してばかりだったじゃんか。そのせいで、高橋さんと殆ど喋れなかったー」
「美袋ちゃんは有袋類だからね!」
始業を伝える音が響く中、美袋が自信満々にした謎の発言で七恵と俊の動きは停まる。二人の再起動には一拍の休みが必要だった。
「は……どういう意味だ?」
「多分……名前のことを言っているんじゃないかな」
「七恵の正解! 美袋ちゃんは美しきカンガルーということ。そりゃ、俊君が夢中になってしまうのも仕方がないね」
「何言ってんだコイツ」
「前は、母方のお婆ちゃんが住んでいた地名から取ったとか言ってたけれど……」
「もう、皆ノリが悪いなぁ!」
美しきカンガルーさんは二人の白けた反応に、ぷりぷりと怒り出す。だが怒りのポーズのあまりの演技臭さに、七恵は苦笑いを見せ、俊は呆れ返る。
「直ぐ授業始まるぞ。ノッてる場合か」
「あいたっ」
教師の気配は未だなくとも、同級の皆の着席は殆済んでいた。そのため急ぎ、疾く行われたデコピンは思ったよりも痛いものになったようで、途端に美袋は涙目になる。そして、彼女は去っていく彼を恨めしげに見つめた。
「美袋さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよー。七恵、慰めて!」
「ごめんね。時間がないよ。席に着かなくちゃ」
「酷い!」
抱きつかんと近づいてくる美袋を持ち前の運動神経でさらりと躱し、七恵は真ん中の自分の席へと急ぐ。数多の色をした瞳の追跡を、嫌いながら。
「吉田。なーに立っているんだ」
「か、香川先生!」
そして案の定、まごまごしていた美袋が間に合うこともなく、慌てて教師の目の前の席へと向かおうとし始めたばかりの彼女は教師の目に留まった。
「お前、今日の朗読係な」
「いやー」
そして、美袋は苦手な国語の朗読を一時間させられる羽目になる。クラスの殆どは、こぞって彼女の無様を面白がった。だが、そのほぼ全ての中に、七恵は居ない。
こんなに際までふざけていたのは、美袋がギリギリまで周りを楽しませたかったためであるのは知っていた。ここまで醜態を見せるのは、二人の笑顔が見たいからと、そういうことであることにも、七恵は気付いている。
だがしかし、七恵は最後まで皆の中で微笑むばかりで、心から笑うことは出来なかった。
そこまでする理由がよく、判らなかったから。ただ、七恵は不明なものばかりに囲まれ生きる辛さに心軋ませる。
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