こんにちは、溝会いの一読者です。
前々からこの作品を追いかけ、作者様公認で二次創作もしている私ですが、この度、溝会いが完結したとの報を聞いてこのレビューを書いています。
溝会いこと「溝の口で会いましょう」は一言で言うならシャブです。麻薬です。噛めば噛むほど味が出るのでかむかむこんぶなのかもしれません。
まず、所長の西萩昇汰。こいつがやべぇ。やばさの塊です。
西萩は作中ではあたかも真人間かのように描かれています。しかしそれは西萩のある一面にすぎないのです。
あいつの別側面は「人でなし」。人間のくせに人でなしなのです。
それはほんの些細な仕草だったり、反応だったりから見え隠れします。
例えば、同僚のことを平然と「こいつ」呼びしたり
例えば、二日酔いをしている同僚の隣で平然とミネラルウォーターを飲んでいたり、
例えば、例えば、例えば……
割とあります。探してみてください。
だけどこれやばいのはその表向きの性格と見た目なんです。
人畜無害。
それが西萩なのです。
人畜無害の怪異の見えないただの人間のくせに人でなし。なんというギャップ。
この男はお前たちの性癖を踏み荒らしていくことでしょう。
次に所員の舩江鶸。こいつもやべぇ。やばみが溢れます。
舩江は西萩とは正反対に怪異が見える人間です。
しかし正反対というのは怪異だけの話ではありません。
西萩が人でなしなのに対して、彼は心の奥底が優しすぎるのです。
一件仏頂面で暴力的なこの男が、誰よりも人間的!
もはやお前たちの性癖は轢殺されて塵も残っていないでしょう。
そんな正反対の二人が主人公の溝会いですが、この物語は忙しない日々を送るお前たちのための物語だろうと私は確信しています。
溝会いの中の人間たちは生きています。それこそキャラクターという言い方が不適切であるぐらいには。
個性的な彼らは(前で語ったように本当に個性的です!)、それぞれの信条を持ち、思い思いの行動をし、その結果として物語が動いていく。
物語が彼らを動かすのではなく、彼らが物語を動かしているのです。
そんな溝会いの根底に流れているのは、どこにでもある日常とどうしようもない不条理です。
詳しくは言及を避けますが、溝会いとは二人が日常を過ごしながら、徐々に忍び寄ってくるどうしようもなさと戦うという物語なのです。
これは私たちの日常に似ているものではないでしょうか。
日々を送りながら、不条理と戦う。それはまさに現代社会に生きるお前たちと同じ構図をしているのでしょう。
ただし溝会いの中の不条理は、はっきりとした形で我々の前に立ちふさがってくるものです。これが現実と違うところです。
我々は現実と同じ形をしているこの物語にダイブし、自分をシンクロさせることができるはずです。
そして、現実では倒せない不条理を、事務所組の二人が懸命に倒していく姿に自分を重ねることができるでしょう。
それは確かに我々とお前たちの救いになるはずです。
最後に一つだけ。
溝会いはいいぞ。読むんだ。