後編
翌日。
沙衛門はるいに支度をさせている間、先日から感じていた、ある気配を辿り、森の端の崖の上にいた。
彼は常人には聞こえぬ音域で声を発し、呼びかけた。
「
過去はよく知らないが、名のある道場の跡取だったという話を聞いた事がある。それがどうして夜盗の頭などをしているのか、沙衛門には分からなかった。
何度か膝を交えて話した事があるが、昔話になると口をつぐむ。
ただ一度、彼はこう言った。
「流派の為に刀と無関係の人間が死ぬなんてそんなアホな話があるか? そう思ったらやってられなくなったのさ」
そう言って彼は遠くを見た。何かをなくした絶望に打ちひしがれた目だった。
……それだけだ。
時々顔を見かけては生きている事を確認し、心の何処かで安心する。悪い奴ではないのだろうが、団結して生きて行こうと思えるほどよく知っている訳でもない。
それが二人の距離をある所から近付けさせずにいたのだ。そして今回の追跡に恐らく名留羅も噛んでいる。
彼の集団の者とも一応は顔見知りだ。敵とうまくぶつけ、るいに及ぶであろう危険の度合いを下げたかった。
……名留羅からの返事はない。
(俺も臆病になったな)
と沙衛門が心の中で苦笑すると、子供の泣き声が聞こえた。ここは廃村だ。子供などいる訳がない。しかしそれはすぐ近くから確かに聞こえるのだ。
(馬鹿な……罠か)
……それなら自分から飛び込んで食い破らねばならない。彼は茂みをかき分け、そちらを覗いた。
そこに彼は大変なものを見た。野犬に少年が犯されている。
背中に爪を立てられ、かきむしられ、荒い息を耳に吹きかけられ、振動がもたらす苦痛に泣き喚いている。そしてうつ伏せになっている少年の涙に濡れた顔の何と美しい事か。
彼は一瞬、童女かと己の目を疑った。
沙衛門は間合いを詰めると腰の太刀を一瞬で抜刀し、犬の首をはねた。血の軌跡を描いて飛んで行く犬の首には目もくれず、少年の体から犬の身体を引き剥がした。早く消毒しないと大変な事になるだろう。
「大丈夫か、小僧」
助け起こした沙衛門は刹那、後ろに飛び退いた。少年の後ろ殴りの懐剣が喉目掛けて迫ったからだ。
きびすを返した少年が懐目掛け飛び込んでくるのを半身でかわし、その首筋に手刀を振り下ろそうとした彼は右目に異常を感じた。
「……ぐっ!」
ぶすぶすと白い煙を上げ、彼の右目が見る見る内に焼け爛れていく。その場を去ろうと跳躍の姿勢に入った沙衛門の首筋にうなりを上げて一本の丸太が叩き付けられた。
意識を失う直前、
「たわけめ。俺の汗は触れたものを焼くのさ」
とせせら笑う少年の声が彼の耳を掠め、消えて行った……。
昼を大分過ぎた森の中。あばら家の壁に打ち込まれた標に括られた文を見て、駆け付けて来たるいがそこに見たのは、後ろ手に縛られて転がされた沙衛門と、恐らく敵の首領と思われる男、そして、髪を高い位置で縛った美童であった。
沙衛門は口に猿轡を噛まされているらしく、くぐもった声しか出せない様だ。しかしそれより気になるのは、彼の顔の右目を覆う様に巻かれた包帯だった。
るいは木の影に立ち、後ろ手に大鎌を引き抜きながら訊ねた。
「うぬらの望みは何じゃ」
「簡単な事だ」
背の高い、恐らく追っていた五月雨と睨んだ、顔中包帯でぐるぐると巻いた男が口を開いた。
「ここでお前とこちらの仲間が立ち合い、お前が勝てばこの男を放そう。俺は逃げるが、追って来るなり、出直すなり、好きにすれば良い」
「それだけか」
「ああ、それだけだ」
男はそう言って不敵に、恐らく包帯の下で笑った。
奇妙な事になった、とるいは思った。目の前の少年は恐らく忍びだろう。相手の話が本当なら奴が自分と目を合わせた途端にけりが着く。何時もの様に焼き尽くしてやるだけだ。
だが、沙衛門は、るいは、その手の内も分からぬ五月雨を前に、眼前の小僧を倒す瞬間、本当に無事でいられるか。彼が自分達の意のままに操る黒縄・霧雨で拘束を断たぬ理由も恐らくはそれだろう。
るいからその事が、冷静さを奪っていた。
少年が口を開いた。
「あの男が俺の犬を殺した。だから俺もあの男の犬であるお前を殺すよ」
るいの視線がきつくなった。
二人は同時に横へ駆け出すと、突然方向転換し、地を蹴ってぶつかり合った。鉄棒同士を叩き付ける様な音、そして濡れた布ではたく様な音が同時にしたが、すれ違った二人は全くの無傷であった。
……いや、るいの手甲から白い煙が上がっている。
すれ違う刹那、
……その汗は触れたものを焼き、掌は触れたものを凍結させる。
『
るいの手甲の下では、急激な温度低下と上昇により皮膚が崩れていた。
文字通り焼け付く様な痛みを微塵も見せず、彼女は我楽を睨みつけた。
「面白い……伊賀者か」
「お前は甲賀のくノ一か」
……源平の昔より互いに憎み合い、一族滅ぼすまで戦わんとした二つの流派。それぞれに属する二人の血が喜びに震えた。
「先ほどお前は私を犬と言った。私は口の悪いだけの子供は大嫌いじゃ。そして伊賀者と聞けば、これは命が果てるまで折檻してやらねばならぬなあ。
来や、伊賀の毒虫。焼き潰してくれる」
「行くぞ、甲賀の畜生牝。犯し尽くしてまたぐらをざくろの様に引き裂いてくれるわ」
二人は再び相手に向かって走り出した。
るいの鎌が我楽の首を横薙ぎに斬り飛ばそうと風を切り裂いた刹那、しゃがみ込んだ少年は下から懐剣を突き上げた。るいがそれを鼻先でかわしながら後ろに飛んで反動を付けると、そのまま我楽の懐に飛び込み、すれ違いざまに上に伸び切った相手の脇腹を深く叩き斬った。
次の瞬間、返り血を浴びてしまったるいが顔を押さえて悲鳴を上げた。押さえた手の間から立ち昇る白い煙。
我楽の『忍法 無残絵』が焼き尽くすのに使用するのは汗ばかりではなかったのか。
沙衛門が開いた方の目を見開き、猿轡の奥から声を振り絞った。口から血を吐きながら我楽が大声で笑った。
「甲賀の……畜生牝。顔を焼かれてはあの男はもうお前を抱こうとはするまい。
狂い死、ね……?」
きびすを返して五月雨の所へ戻ろうと、よろめいた彼の裾をうつむいたままのるいが掴んだ。喉を鳴らして笑う声が彼の耳を嬲る。
「……毒虫。敵に背を向けるとは正気か?」
るいと我楽の姿を炎が包み込み、静かに宙に舞い上がって行く。燃え盛る溶岩の奥で、るいに抱き付かれた我楽が声を上げた。
「熱い! 離せ、くノ一!! 俺は女が嫌いなんだ!」
髪の奥でるいが呟いた。
「……死に際くらい……静かにしろ、毒虫……」
それでも尚喚こうとした彼の口をるいの唇が塞いだ。
彼女の手の温度と同じ数千度の灼熱のマグマと化した唾液が我楽の喉に流れ込み、舌を、喉仏を、食道を、気管を焼き尽くし、彼は目玉を白く沸騰させ、悶死した。
溶岩の中から、こちらを見上げている沙衛門を見下ろして、るいは微笑を浮かべた。
彼と別れる辛さと、自分の姿をこれ以上見せずに済むという安堵の入り混じった涙を流し、微笑した。
(沙衛門様……きっと見守っていますからね……)
途端に溶岩の気球は爆裂し、かき消えた。
日が暮れ始めた。沙衛門の縄を刀で断ち切ると、五月雨右月は言った。
「これでようやく邪魔が入らずに貴様と殺し合える」
沙衛門はそれには答えず、ゆっくりと立ち上がるとうつむいたまま、ただ一言言った。
「……今、俺と立ち合え」
「駄目だ。お前とやるのはこの村に入る橋、あの上だ。
今夜、あそこで待っている」
五月雨がそれを言い終わらぬ内に沙衛門の太刀が横薙ぎに彼の首を寸断しようとしたが、五月雨はとんぼを切って宙を舞い、高笑いと共に夕闇に消えて行った。
黒縄を弾き飛ばす事無く、沙衛門の手から太刀が転がり落ちる。
がっくりとその場に崩れ、地に手を付くと、彼は声を押し殺して、ただただ涙をこぼした。
「……る、るい……」
夜になった。
るいと過ごしたあばら家の中で、支度を終えた沙衛門は太刀を帯にぶち込み、立ち上がった。視界の奥にるいと過ごした日々が流れて消えて行った。
決して楽ではない暮らしの中で、彼女の存在だけが彼の支えになっていた。
出会ってから何時の間にか十年の月日が流れ、彼にとって彼女の存在はなくてはならないものになっていた。
それが……かつて死んだ仲間の戦列に加わってしまった。
何処までも一緒に手に手を取って行くつもりだった。それは彼女と共に紅蓮の炎に焼き尽くされてしまった。
(済まぬ……手を取って引っ張ってもらっているのは俺の方だったのだな。
……るい……)
不意に彼は指先を切り、人差し指と中指にそれを伸ばすと、左頬に二本の線をぴっ、と引いた。それは彼の頬に染み込み、血の鮮やかな色合いを残したまま、入れ墨の様に残った。
(『
目の前にいなくとも、
沙衛門は家の中をぐるりと見回し、それから自分の両頬を、気合を入れるべく両手で勢いよく叩いた。右目に巻かれた包帯を解き、むんずと両の袖を掴んで引き裂き投げ捨てると、彼は勢いよく外へ飛び出し、走り出した。
橋のたもとに五月雨右月は立っている。音もなくその前に鬼岳沙衛門は太刀を引っ掴み、現れた。
「来たか……何か言いたそうだな」
「……」
「おいおい、俺はお前のお荷物をなくしてやったのだぞ?」
「……何だと?」
「考えてもみろ。子供が出来たらどうする気だ?それでなくとも女など何処までも連れて歩けるものではない。
間違いなくお荷物……俺にくっついていたあのガキもな。それでお前の女にぶつけた」
沙衛門の瞳が深紅に染まった。
「黙れ……! 俺はるいがいれば他はどうでも良かった」
「……聞く耳は持たぬか」
その刹那、五月雨の抜刀した小太刀の切っ先が逆袈裟に薙ぎ上げられ、間髪入れずに袈裟懸けに斬り降ろされた。沙衛門の姿はそこにはなく、五月雨の腕には二本の苦無が深々と突き刺さっている。
「ちっ」
それを引き抜くと同時に彼は横へ転がった。五月雨のいた橋の欄干の内の一本に沙衛門の手から飛んだ銀線―霧雨―が絡まっていたが、それはきゅん、と音を立てて瞬時に彼の手の中へ消え、欄干の一部がガラガラと崩れ落ちた。
起き上がった途端に迫る背後からの殺気を、そちらを見ずに右にかわした五月雨は、腱を切断された方とは逆の、右腕に逆手に小太刀を持ち替え、顔の前で刃を立てて構えると、不敵に微笑んだ。
『
沙衛門を見据えた五月雨の顔が、ゆっくりと沙衛門の顔に変わって行く。彼は相手の姿を見て瓜二つに己を変える。その状態で自分を傷つけると相手にそれが同じ様に伝わるのだ。
そして、同じ姿をした敵に討たれても死ぬ事はない。
……だがその耳に沙衛門の血が塗り付けられた霧雨が風を切る音が届いた。
そして彼の呟きも。
「『
五月雨の前に浮いている、彼の血で描かれた長方形。鏡と化したそれに沙衛門は躊躇なく裏拳を叩き込み、振り抜いた。
五月雨の顔に異常を察知した恐怖の色が浮かぶも、それは粉微塵に砕け散った。
きらきらと月の光をはね返しながら鏡の破片が闇に消えて行く。その向こうから冷徹な視線を飛ばす沙衛門の姿が現れた。
一緒に写り込んでいた橋も共に崩れ、轟音と水飛沫の中、黒い水の底に沈んで行った……。
岸の上に一人、夜風に吹かれながら沙衛門は立っていた。
「……お前がどう化けようと俺の術は元のお前の姿しか写さん。
中身まで変われるものか。無駄よ……」
晴れた日の朝。
るいが左月を、彼が五月雨を倒した事で務めは果たした。雇い主へそれを告げるべく、布に包んだ五月雨の首をぶら下げ、人のいない水田を左手に、沙衛門は編笠を被り、一人行く。その背に声をかけた者がある。
……名留羅だった。
着物の前に描かれた、赤い格子窓の奥でこちらを見返し、髪を振り乱す逆さ磔の花魁が何時にも増して毒々しい。色白の優男が肩に載せた野太刀の鞘に括られた紐を握り直し、腰の帯にぶち込んだ片手剣の柄をぱしっと叩くと言った。
「今日は俺一人だよ」
沙衛門は重く口を開いた。
「お前の軽口を聞く気分ではない」
「俺達に追手が差し向けられてる」
「何?」
「五月雨が持った書状は紛い物だったって事さ。たまたまだけどな。
本物を持った奴はもう城から向けられた刺客に殺された。その刺客も口を封じられたみてえだな。城から出て来たって話を聞かねえんだ」
苦い目を地面に落とす名留羅。
「早く教えていればるいさんを死なせねえで済んだんだ。
……悪かった」
「……それで丸く収まったから、きゃつらは俺達も口封じか」
「ああ、知らぬ存ぜぬで通すつもりだぜ。来てるのは
で、結果俺はこうして一人になっちまった」
髪を総髪にした根来の忍法僧が自分達に迫っている。
すぐそこに……気配。
沙衛門の口元が不敵に歪んだ。紐を解いて投げ捨てた編笠が転がって行く。
「で、ものは相談なんだが……」
名留羅は野太刀を引き抜くべく、肩から下ろして鯉口を切ると、不敵に微笑した。
「舐められっ放しじゃこっちも商売上がったりだ。そいつらを返り討ちにしてやらねえか?」
るいの笑顔が眼の奥で浮かび、消えて行った。
……黒い影が木の天辺にそれぞれ姿を現した。空が曇って行く。
殺気を感じたのか、鳥達が一斉に飛び立った。
それを見上げた沙衛門は、それから深紅に瞳を染め上げて黒い影を睨みつけると、
「面白そうだな」
と、そう呟いた……。
忍法 無残絵(にんぽう むざんえ) 躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ) @routa6969
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