母と息子


一人の女が吊られている。

苦労か寄る年波か、安らかそうに眠るその顔には皺が目立つ。齢にして50といったところであろうか。


門下には野次馬が溢れ、あれやこれやと無粋な推察に花を添える。

それがこの女に手向けられたものでは無いことくらい私にも分かる。


慌ただしく役人達が駆けつけてきた。


事態の収拾にと野次馬たちを散らし、女を地に下ろす。

きっと後半日も経てば誰もかれもが忘れてしまうだろう。


そんな些細な出来事で、一人の人間の生き死になど、それほど珍しいお話でもない。


だがしかしである。


名前も何も知らない女ではあるが、

最後に確かに託された。


それが感謝でも願いでも、恨みつらみに何であろうと。

請け負うのが我が責務である以上、私は忘れるわけにはいかないのだ。


役人たちの手慣れた事後処理を眺めながら、私は事の顛末を振り返る。

それは昨晩、いや始まりはきっと七日前にも遡る。今日と同じくらいに肌寒い朝だった。


門下では二人の男女が忙しなく動き回っている。

男は齢20前後、女は齢50といった所であろうか。


二人の立ち振る舞いから推察するに、夫婦というより親子といった方がしっくりくる。


女は甲斐甲斐しく男に世話を焼き、男は面倒くさそうにもそれを邪険に扱う。

傍目にもどれだけその女に取ってその男が大切な存在なのかは十二分に伝わってくる。 


どの時代、人に寄らず母親とは心配性なものである。

やれ「昼飯は持ったか」だとか「峠を超える際は足元に気をつけるんだ」とか「野党が出ても無駄に抵抗せず、命だけは大切にしろ」だとか。


楼から眺めている私でさえも少し辟易してきたところではあるから、

その対象となっている男が痺れを切らすのも致し方ないと思われる。


「母上、ではそろそろ出立いたします」


これでもかと続く母親の話を遮りつつ、男は口を開いた。


「このままでは向こうに着いたときには、日が暮れてし舞います。」


母親は少し残念そうに、まるで尽きない不安を自身の内におしとどめるように。 


「そうかい」

 

と一言だけ呟いた。


男は「では」と母親に背を向け、門外に歩を進める。

母親はその背仲を不安そうに見送る。


その不安を感じ取ったのか、はたまた自身の大人気無さを恥じたのかは定かではないが男は急に足を止め振り返る。 


「この品が全部売れたらこの冬も何とか越せるはずです。市では母上の好きな茶が並ぶとも聞きました。あまり沢山にとはいきませぬが、少し土産に買ってまいります。」


母親の頷く姿を確認し、男はゆっくりとまた歩を進める。

先程に比べて足取りはしっかりと。

私の気のせいなのかもしれないが、そう見えた。


それ以降、男が振り返ることは無かったが、

母親は男が見えなくなるまでその背中を見守った。


それから毎日、私はこの母親を見かけている。

いや、見かけるなんて程度の話ではなく殆ど朝から日が暮れてもなお、門下の石垣に腰を掛け門より外側の世界を眺めている。


終いには心配した町民に連れられて、毎晩この門下を後にする。

特に事情も何も知らない私ではあるが、大体は想像につく。


それが3〜4日も続いた日。

門外より戻ったある男と、件の母親が何か神妙な面持ちで話をしている。


すると突然、母親は膝から崩れ落ち、

衆目も気にせずに大声で泣き喚きだした。


どうやらその男の話によると、峠を超えるその手前の山道で、足を滑らし谷に転げ落ちた男が居たそうで。

齢にして20前後であり、件の母親によく似ていたそうだ。


そして、あれではあの男は恐らく助かっていないだろうと。


いつまでも泣き喚く母親と、その傍らで慌てふためいている男に見かねたのか、

幾人かの町民が母親に手を貸した。

それから幾ばくか後、肩を抱えられた母親は門を後にした。


遠く離れて母親の姿は見えなくなったが、

それでも母親の泣き声が聞こえるようだった。


翌朝、昨日と変わらず母親はこの門に姿を現した。

石垣に腰を掛け、佇んでいる。


時折天に祈りを捧げ、急に石垣に突っ伏して衆目も気にせず泣き喚く。


そして見かねた町人に肩を抱えられて門を後にする。


それを毎日のように繰り返し、丁度あの息子が旅立って7日目の朝だった。


毎日朝から晩まで門下に佇んでいた母親が今日に限っては姿を現さない。

それは昼になっても日が暮れても変わらなかった。


私も特別に気にしたわけでもなかったし、今日はそういう日だろうと。

月明かりが雲の影に隠れた丁度そのとき、私は眠りに着こうとした。


後、半刻ほど早ければ私を意識を手放していたであろう。

だがそうはいかなかった。


じゃりっと土を踏む音が聞こえ、私は慌てて門下に視線を向ける。


そこにいたのは件の母親であった。

あいも変わらず泣きはらして腫れぼったい目をしてはいたが何処か昨日までと雰囲気が違う。


何か達観したかのような落着きと、諦めにもにた哀愁を感じさせる。

その目には生への執着など微塵も感じさせない。


母親はふと視線を上げる。

楼に潜む私に気づいたのかとも思ったがそんなはずはない。


確かに私はそこに存在するが、人がそれを視認することとはまた別のお話である。

きっとその視線は私を超えて、もっと先の何かに対するものに向いているのだろう。


どこを見ているか分からない、定まらない視線のまま母親は一人独白を始める。 


「私は未だに息子が死んだなんて思ってはいません。


もしかしたらそう思いたくないだけなのかもしれませんが。

ある日ひょっこり帰って来るのでは、そう感じてなりません。


ですが私は耐えられそうに無いのです。

あの子が帰って来るのか来ないのかを待ち続ける日々を。


それに許せそうに無いのです。

いつか風化して普通に暮らし続けてしまう自分を。


ですから私は今日ここで、命を絶ちます。


ただ一言、最後に許されるのなら。

生まれて来てくれてありがとう。

あの子にそう伝えたかった。」


話し終えた母親のその後の行動は早かった。

手にした縄を楼に掛け、自身の首にかかった縄をそのままに踏み台を蹴る。


一瞬の躊躇いも感じさせず母親は旅立った。 

残されたのは亡骸と伝えられなかった感謝の言葉。


掛けるべき言葉など持ち合わせてはいないが、

この季節には似合わない暖かい風で母親の頬を撫ぜた。


既に役人ともども母親の亡骸も既に無く。

時刻は夕暮れで。


朝の喧噪も既に風化し、いつもの日常宜しくといった空気に満たされてる。


物語の最後を飾るのは悲しみではなく喜びであって欲しい。

そう願ったところで、私に何ができるわけでもなく。


それに。


この物語にこれ以上何かを付け加えたところで、どうせ何も変わりはしない。

ただただ悲しみが続くだけだ。


こんな風に。


ある男がこの門をくぐる。

体中あちこちに傷を負い、身なりはボロボロで。 


足取りも重く今にも倒れそうではあるが、その目には力強い生への執着を感じる。


その手に小さな茶袋を握りしめて、

引きずる足で家路を目指す。

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羅生門の鬼 まなぶ @fumn

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