昨日の夜の出来事
見下ろしたのはほんの少しの気まぐれで、
特別に理由がある訳ではなかった。
見えるものはいつも同じ風景。
変わることといえばその門下で繰り広げられる人の世の泡沫の物語。
二度も同じ物語はないのだが、何故か有り触れて記憶の隅にも残らないようなものばかり。
それを詰まらないだとか飽きただとか言うつもり毛頭なく。
それより面白い物を私は知らないし、それより詰まらないものも知らない。
変わらない風景と、決して登場人物にはなれない、ただ繰り広げられる物語を眺める以上の事を私は知らない。
それが全てである。だからその瞬間に楼から見下ろした事に理由なんか存在しない。
時刻は丑三つ時より一つ二つ早い。
かと言って人が往来するような時刻ではなく、まして「鬼が出る」場所に寄り付く輩は大概にしてワケありかならず者が相場と決まっている。
門下に並ぶ石垣に腰を据える人影が一つ。
時折、雲の隙間より覗く月明かりが照らすその横顔は白く透き通り。
齢にして17、8の娘といった所であろうか。
この時勢にしては頬の肉付きもよく、身なりにもそこそこに纏った気品は確かな何かを感じさせる。
ならず者の備える無粋さとは対極にあろうかと言うその佇まいと、この場所との不釣り合いさは彼女がワケありであること示す何よりの証左であろう。
とはいえ、現実は小説より奇なりなどと宣うが、それはその希少性がゆえ。
不釣り合いな存在と不釣り合いな場所の邂逅は案外に俗世に塗れていても不思議ではない。
有り触れた三文小説のようで、決して結ばれない男女のせめてもの抵抗と逃避といった所であろうか。
要するによくある話なのである。
誰かを待つような彼女の所為と、その小さな体には不相応な大きな荷物のそれが、私の無粋な推察の背中を更に押す。
時より夜空を見上げるその顔には、何とも言えない表情が浮かぶ。
暖かく優しかった父母への罪悪感か、愛する人ととの未来への期待からか。
昨日への退屈と安定、明日への刺激と不安を天秤に乗せてなお揺れ動くその身心を、推し量りかねているかのようである。
どちらにしても私には分からない。
それこそが、人が生きるということなのだと言われれば、
人足り得ない人外の私が理解しようとすることこそ、不毛なのである。
だが、そんな私でもはっきりと分かることがある。
それはつまり客観的な事実に依る遷移。
先程までとは明らかに異なる状況。
新たに現れた人影と、
それが、決して彼女が望んだ待ち人ではないと言うことくらいは。
どうやら私が思案に耽っている間。
つまり彼女に対して下賎な推察を行っている間である。
それほど長い時間ではないはずではあるが、門下に吹き抜ける風のその有様はガラリと表情を変えている。
張り詰めた空気の中心には先程の娘と、無粋が服を着たような輩が二人。
この門に寄り付くのはワケあり、もしくはならず者のどちらかで。運が悪ければその両方ということだって珍しくもなんともない。
「こんな時間にこんな場所。年頃の娘が何の用だっていうんだろうねぇ相棒。」
大柄の無粋が口を開く。
「確か、この門には鬼が出るらしいではないか。であるならば、人か妖かしか確かめなきゃいけないなぁ。」
怪異に対する恐怖も勇猛さも微塵に感じさせない声色は、強いて言うなれば獲物を狙う狼が如くの獣臭さを感じさせる。
「とりあえずまぁ、人か妖かしか。そこの娘、命が惜しければ無駄な抵抗はするんじゃねえぞ。」
大柄な無粋に比べて、細身で長身の無粋が、「ククク」と卑屈めいた笑いを押し殺しながら娘に問いかける。
意識か無意識か、娘が一歩後ずさる。「ヒッ」と息を飲むような悲鳴と砂利の音が暗闇の中で助けを乞う。
二人組の輩はジリジリと娘との距離をなおも詰める。
それから幾ばくか。
どれほどの時間が過ぎたかは分からない。
それはほんの一瞬のようで永遠にも迫る一刻。
ただ、先程まで抗いようの無い恐怖に支配された娘に、少しばかりの覚悟を与えるのには十分な時間だったようではある。
「わっ、私は決して怪しいものでは御座いません。訳あって待ち人が来るのをこの門で待ちぼうけていただけで御座います。」
突然の釈明に二人のならず者はお互いの顔を見合わせる。
多少の驚きをはらみながらも、この後の算段の最終確認を取るように。
そんな二人の機微を読み取る余裕も時間もない娘は更に口を開く。
しかし先程までとは打って変わって過細く今にも泣きそうな声だった。
「ですから。・・・どうか見逃しては頂けないでしょうか。」
二人組はニヤリと笑い、小さく頷く。
ジリジリと詰め寄るその足を止め。
先ほどまでの張り詰めた空気が少し緩む。
吹き付ける風は少し穏やかに。
その空気に当てられてか、娘の顔に少しの安堵が浮かぶ。
「わ・・・分かって頂けたよ・・・」
言い終わるか終わらないか。
状況は突然、娘に命の宣告を告げる。
そこにあるのは奪うものと奪われるもの。
娘は悲鳴を挙げる猶予さへ与えられず。
ならず者は娘を押し倒し、全てを奪い尽くすだろう。
娘は全てを失い奪われるだろう。
自分を押し倒した者の首筋から覗く月明かりに、
娘は一体何を思うのだろうか。
一筋涙を流し、その瞳を閉じるその一刻。
その瞳はこの門を見据えてこう言った。
「許さない」
それが一体何にむけた言葉なのかは分からないが、
その言葉は確かに門に託された。
私にとってはそれが全てで。
それからの事はもはや記憶の片隅にも残らない。
すべてが終わり門下に静寂が訪れる。
私は傍らに転がったていたボロ切れを掴み、虚空に投げ捨てる。
以前、行く宛の無い下人が数日の寝床としてこの楼を使っていたころの名残だ。
風に舞ったボロ切れは、横たわる娘に優しく覆いかぶさった。
別に同情したわけでも憐憫を感じたわけでもない。
そのような人の感情などあいにく持ち合わせはなく。
門下を見下ろしたのが全くの偶然であるように、自身のその所為もただの気まぐれに過ぎないのだから。
門下には冷たい夜風が吹き付ける。
これで今晩の物語は終わりとでも言いたいように。
私はそれを合図に眠りについた。
これでこの出来事はお終い。
もはやこのお話に続きなどなく。
だからその後に、この門下で起きた出来事など全くの余談である。
静穏が訪れたその門下に一人の人影が佇む。
先ほどこの暗闇をかけてきた齢20ほどの青年である。
何処かそわそわと、まるで誰か待ち人が暗闇より現れるの願うかのように落ち着かない。
時折吹き付ける夜の冷たい風が、容赦なく青年をさらう。
それでも青年は待ち続けた。
それからどれくらい時間が流れたかは分からないが、
もう夜の帳はすでに降りきって。
あとはゆっくりと朝日が登るのを待つばかり。
青年は抱えていた膝を解き、すっと立ち上がる。
少しの躊躇いを振り切りつつ門外へと歩をすすめる。
そこから数寸。
振り返ることのなかった青年は一度だけ振り返り、この門に一瞥をくれる。
青年の行方は誰も知らない。
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