ばあさん
記憶の断片にある君の笑顔は、光に照らされてよく見えなかった。
丁度、区切りよくなるのだろうか。時計の針が十二を周り、止まることなくまた回る。
今から七十年前、私は天国に居た。人生と言う一つの曲が終わって新しいレコードを用意するための時間。天国と呼ばれる世界で、静かに穏やかに日々を過ごしていた。中々に良い物だった。最初のうちは、だが。
私には長年付き添った妻が居た。もう、ばあさんと呼ぶような年齢になってしまったが二つ年下の気丈な人であった。私と妻の間に子供は居らず、それもあってか私の母は彼女に厳しかった。肩身も狭かっただろう。それでも彼女は大丈夫ですよと微笑み、私を気遣うような心の優しい
天国では、世界を一望出来た。それはもう、飽きることもなく、毎日が過ぎていく。友人や親戚、関わってきた人々を見守っていた。もちろん、ばあさんのことも見守っていくつもりだった。
しかし、ばあさんだけが見当たらないのだ。
「何故ばあさんだけいないのですか。もう、ばあさんもいないのですか」
彼女の安否が気になって尋ねたことがあった。すると、ある人が答えてくれた。私よりも先にここへ来たらしい。
「一番大切な人は見えないんだってよ」
「……見えないとは」
「言葉の通りさ」
男は呆れたように肩を竦めながら話し始めた。
「俺にはカミさんが居ない。でも、心に想う人は居た。他の男と一緒になっちまったあの女を憎いと思ったこともあったが、俺の中では一番大切らしい。そいつのことだけ見つけられないんだから、笑っちまうよな……」
「そうでしたか」
「幸せそうな顔でも拝んでやろうかと思ったのにな」
「……きっと、笑っていますよ」
「それはそれで癪に障るな」
「まあまあ、いいじゃありませんか」
それから私はその男と話すようになった。生きている間のあれやこれを語り合い、生まれ変わったら何をしたいか、想う人にもう一度会いたいなどと夢のような話までした。他愛もない会話は絶えず互いに打ち解けて来た頃、彼の順番が回って来て私はまた一人になった。
暫くして、私にも回って来た。
この世に生を受けた時、私はばあさんと入れ違いになったらしい。ばあさんは、居ない。
「……ばあさん」
月明かりを頼りに、夜の道を歩く。あれから七十年近く経ってしまった。一人で過ごすのはどうにも長く感じてしまう。他の人と一緒になることなど考えられず、私はずっと独り身であった。寂しくはない。時々、空を見上げて彼女を想うその時間だけは彼女が隣で寄り添ってくれている気がするからだ。
この歳になると朝が早くなる。特にすることもないが、布団から起き上がり窓を開けた。夜と朝の間。静寂が、消えていく。向こうの世界とここが繋がっているのではないかと偶に思うことがある。そんな時は空に向かって問いかけてみるのだ。
ばあさんにも私は見えていないのかい。
優しく在りたい 二條 有紀 @yukinote07
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