ミハルとユウコ

クラン

ミハルとユウコ

 大好きな人のお嫁さんになりたいです。


 小学校で将来の夢を発表する授業があった。みんな歌手だとかスポーツ選手だとか答えるなか、ミハルはそう答えたのだ。前時代的で、けれども真剣な夢。あまりにデリケートで、だからこそ突っつきやすかったのだろう。彼女の柔らかな想いは、クラスメイトからあれこれとはやされるなかでどんどんしぼんでいってしまった。


 ミハルは思う。こじつけに違いないけど、私の内気さはそのときの経験によるものではないのか、と。

今年で二十五歳になった彼女は冬の街路を辿たどりつつ、そんな行くあてのない追憶を浮かべた。




 世のなか、世知辛い。


 昨今では女性の待遇たいぐう改善だとかハラスメント防止だとか叫ばれているけれど、ミハルにはなんのことやら分からなかった。相変わらず職場ではお茶みにシュレッダー、書類のコピーだとか誰でも出来る雑務は女性に割り当てられていたし、産休を取った先輩を笑い飛ばす男性社員もいる。そういうのは暗黙の了解で、結局消えてはくれないのだ。


 電柱に貼られた猥雑わいざつな広告を横目に、そもそも、とミハルは考える。そもそも、私には女性優遇なんて興味ない。個人的に大好きな人を愛せればいいのだ。世間に認められるとか許されないとか、知ったことじゃない。

 けれど、ちょっぴり哀しくもなる。子供の頃の夢――そして今でも大切に温めている夢――大好きな人のお嫁さんになりたい、という願望は決して叶えられない。


 吐いたため息が白いもやになって、夜の街を一瞬だけおおう。ストッキング越しに感じる冷気と、かじかむ手。去年の冬から、ミハルは手袋をつけるのをやめたのだ。理由はちゃんとある。


 片手にバッグ、もう片方の手にはビニール袋。マフラーを巻いていても顔は守れない。ミハルはすんすんと鼻を鳴らしながら、どんどん進んだ。

 想像するのは、温かなリビング。ガンガンにいた暖房。そして、同居人――ユウコのことである。彼女の深いえくぼを思って、ミハルは口元をゆるめた。




「ただいま」


 玄関に入ると、ミハルは首を傾げた。ユウコの返事もなく、リビングの電気もついていない。いつもならルームシェア相手である彼女がリビングでごろごろしているのだ。こんな日に出かけたのだろうか。よりにもよって……。

 リビングの電気をつけると、びくっ、とミハルの身体が震えた。ユウコが床に横たわっていたのである。そして――頭のあたりに真っ赤な血が広がっていた。荷物を取り落とし、頭が真っ白になっていく。どうして、とか、なんでユウコが、とか、当たり前の疑問が胸に訪れては去っていった。


「ユウコ! ユウコ!!」


 彼女の身体を揺さぶる。ミハルの手に温かな感触が伝わり、まだ血を流してからそう時間は経過していないことに思い至った。


「救急車――!」


 スマートフォンを取り出そうと鞄に伸ばし手が、ぎゅっと掴まれた。


「いっ、えっ!?」


 ミハルの口から漏れた叫びがリビングに反響する。彼女の腕を掴んだのはほかならぬユウコだった。


「ん~、おかえりぃ」


 ユウコは目をごしごしとこすりながら、明らかに寝起きのとろとろした口調で呟いた。そして、大きなあくび。ミハルは脱力し、呆然ぼうぜんと彼女の顔を見つめた。その姿がどんどんにじんでいく――。




「ごめんって~」

「絶対に許さない」


 ミハルは頬を膨らませ、ソファで三角座りをしていた。ユウコは死んでいたわけでもなく、ましてや怪我をしたのでもなかったらしい。彼女いわく『ミハルをビックリさせようと思って死んだフリをしてたら寝ちゃいました』とのことだ。本気で心配して損した、とミハルは口を尖らせるばかりである。


「ミハルっち~、許してよぉ。せっかくのクリスマスじゃんか~」

「せっかくのクリスマスにイタズラするなんて、酷い」


 どうせならクラッカーを鳴らす程度のサプライズにしてほしいものだ、なんてミハルは思う。こんな心臓に悪いことはごめんだ。


「ほら、いつもの」と、ユウコはミハルの手を取った。「ミハルっち、いつも手が冷たいよね~」


 ミハルは黙ってされるがままにしていた。ユウコの手は、温かい。冬の日に返ってくるといつもこうして温めてくれるのだ。やがて温度が移っていき、ひとつになる。ささくれた心を落ち着かせてくれる、不思議な感覚。


「血のりなんてどこで用意したの?」

「えへへ~。クレムソンレーキ6号と洗濯のりだよ~」


 クレムソンレーキ、というのはきっと絵の具のことだろう。絵に関することとなると、ユウコはいつも専門用語をズバズバと遠慮なく言う。そんな彼女の性格を、ミハルはかえって羨ましくも感じていた。あけすけに物を言えない自分にとって、まるで自由の象徴のように思えるのだ。


「分かった分かった。早くお風呂場でクレムリンを落としてきなさいよ」

「クレムソンレーキだよ~?」

「分かったって」


 ミハルが苦笑すると、ユウコはへらへらと笑って見せた。吸い込まれそうな深いくぼみ。ミハルは、ほっとため息をついた。




 絵描きとルームシェアする。誰が聞いてもしかめつらをするだろう。経済的に大丈夫か、とか、人格に問題があるんじゃないか、とか、そんなステレオタイプな声が実際にミハルを困らせたこともある。けれど、ユウコと一緒でなければ嫌だった。


 偶然入ったカフェの二階で絵画の個展をやっており、気まぐれに覗いたら心を鷲掴わしづかみにされたのだ。ユウコの描く絵はどれも、巨大な背景の中心か、少しずれた位置に人が独りで立っている構図だった。夜景の中心で、あるいは都会の雑踏の中心で、あるいはなにもない草原の中心で。

 ミハルはなにひとつ言葉にすることができなかった。ただ漠然ばくぜんと感動を覚えただけである。学生時代に旅行先でアンコールワットを見たときと似た感覚。言葉を吹き散らしてしまうようなエネルギー。

 たまたまそこに居合わせた作者――ユウコに出会い、長く話し込んだ。語彙ごいを蹴散らされたミハルはただただ「すごいです」と繰り返したのだが、ユウコはニコニコと頷くばかりだった。


 話が少し下世話な方向に転じたとき、ユウコが住む場所のことをぽつりと持ち出したのである。彼女ほどの実力があっても食っていくのが難しいのが絵画の世界らしい。決して同情からではなく、ミハルは頭を下げるような勢いでルームシェアを申し込んだのだ。押し問答のすえに折り合えたのを、ミハルは今でも幸せに感じている。




「クリスマスっぽいね~」

「でしょ?」


 ふた切れのショートケーキを前に満面の笑みを浮かべるユウコを眺めて、ミハルは充実感を覚えた。こんな時間がずっと続けばいいのに、と考えて少しだけ寂しくなる。毎日クリスマスを繰り返せば楽しいだろうか。ありがたみがないな、それじゃ。


「イチゴって、悩ましいね~」


 ゆるゆるした口調でユウコは言う。ミハルが首をかしげると、少しだけうつむいて彼女は続けた。


「いつ食べればいいのか、いっつも悩んじゃうから」


 好きなときに食べればいいのに。正解なんてないんだから。ミハルはそんなふうに思いながらも、正解がないから悩んじゃうのかな、と呟いた。


「かもね~。ごちそう様~。ケーキくれたミハルっちはサンタクロースだよ~」

「あはは……」

「ミハルっちにはいつも感謝だよ~。ありがとね~」

「どういたしまして……」


 ミハルは、二人分の食器を手にして立ち上がった。最後に食べたイチゴの酸味が口に残っている。ひりひりと、いつまでも舌に残るすっぱさだった。甘さはすぐに消えてしまうのに、なんだかズルい。




 ミハルが独りベッドで横になっていると、ドアの開く音がした。ちらりと時計を見ると深夜二時を回っている。今日はあまり集中出来なかったんだな、と思って複雑な気持ちになった。

 ユウコがベッドにもぐり込むと、ミハルは寝ぼけたフリをして何度か唸った。そして薄く目を開ける。ユウコはやっぱり、泣きらした目をしていた。


 絵を描くときに泣くのだ、ユウコは。昔はこうじゃなかった、と語ってくれたこともあるが詳しいことまでミハルは知らない。今では絵を描くときに泣いてしまうこと。筆を何本も折ってしまうから、安物しか使わないこと。色使いが単調になったこと。独りで眠ることが出来ないこと。このくらいしか知らない。


 ユウコを抱き寄せると、彼女は普段通りの口調で「ミハルっちは優しいな~」なんて言う。


 ミハルはなにも答えず、ただぎゅっと抱いた。こうすることが優しいのなら、いくらだってする。この日々が永遠に続いてくれるのなら、どんなに残業をした日でもこうして彼女を抱き締めてあげたい。ユウコが絵で幸せと苦しみの両方を味わっていることには、決して踏み込めないから。


 ユウコはとっくに気付いてるかもしれない。ミハルはきつく目をつむった。私と暮らしはじめてからユウコは個展をしていないし、あのとき見せつけられた圧倒的な世界を描くことも出来ていない。日々おとろえ、それでも苦しみながらもがいている。私と一緒にいるから――あるいは、誰かとこうして暮らしているから――モノにならないのだと。


 それでももがき続けているユウコに、いったいなにをしてやれるだろう。ミハルは声を上げて泣き出したい気持ちに駆られながら、それでもユウコを抱いた。私がサンタクロースなら、なにもかも与えようとするだろう。けれど現実には、ストレスをかかえて生きるひとりのOLに過ぎない。即物的ななにかで解決する問題なら、胸を裂かれるような気持ちにだってならない。


 だからせめて、とミハルは腕をゆるめる。せめてユウコを、あるがままでいさせてあげよう。私の想いなんて、奥の奥、鍵をかけた場所にしまっておけばいいんだ。もしユウコが一人暮らしに戻りたいと言ったら、笑顔で送り出して、それから一人分身軽になった部屋で思い切り泣けばいい。永久に別れるわけじゃないんだ。ときどき遊びに行けばいい。多分、今とは全然別の関係になってしまうけれど、それでもいい。ユウコが選んだのなら、それでも。


 クリスマスだからといって、奇跡なんて起こらない。ただの冬の一日。けれどもミハルは、それでよかった。特別じゃない日々を二人で重ねていく。笑いながら、すれ違いながら。それでいい。


 窓の外で綿雪わたゆきが降り始めたことを知らないまま、二人は眠りに落ちた。

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