塔の姫君と地獄の王子

望月あん

塔の姫君と地獄の王子

 森が啼く

 森が泣く


 花が散るように

 風が去るように

 わたしもここから消えてしまいたい

 神様どうかわたしを殺して

 愛しいあの人に逢わせてくださいな

 みずから絶てぬこの命

 まるで解けない呪いのようよ


 * * *


 灰色の塔がぽつりと建っていた。

 まばらに蔦が巻きつき、遠目には一本の大樹のようにも見えた。森から突き出たてっぺんには鷹と見まがう鴉がとまり、首をめぐらせ獲物を探していた。

 教会の窓から見える塔は、輪郭や存在がひどく曖昧で、そのために誰もが気味悪がった。近づいた者は呪われて、蔦にされてしまうと恐れられもした。隣町へは森を通るのが近道だったが、誰もが遠回りをして街道を行った。

 しかし子どもらは、塔の最上階には、あまりの美しさゆえに王妃から妬まれた姫君が、幽閉されているのだと噂した。

 おとならは、それを鼻であしらいながら、どこか遠い目をする。なぜなら彼らが子どもの頃にも、同じような噂があったからだ。

 はたして、塔の最上階にはたしかに姫がいた。姫には、この塔へ来るまでの記憶がひとつとしてない。わかるのは、塔で初めて目覚めてからの日没の数だけだった。

 円形の部屋に、姫はひとりきりで暮らしていた。

 天井には薄布がかけられ、光があたると塔のてっぺんの裏側が透けて見えた。ざらざらとした床には蜂の巣のような目地があり、それは壁の中ほどまで繋がっていた。濡れた鼠のような色をした塔の内側は、蔦もなく、冷たく、暗い場所だった。

 それほど広い部屋ではなかったが、姫は不自由を感じることはなかった。身の回りのものは揃っていたし、井戸からの汲み上げ水で体を洗うこともできた。

 毎夜、食事を運んでくるものがいる。月明かりのなか差し出される手は、若い男の手だった。大きく節くれだっており、姫は郷愁にも似た親しみを抱いていた。だが姫はついぞその男の正体を知らない。

 以前の姫はこの手を、この男のことを知っていたのかもしれない。そう思うといっそう、あたたかく大きな手が気になった。

 あなたは誰、私のことを知っているの。

 何度もそう問いかけようとして、姫はそのたびに口をつぐんだ。

 記憶のない姫は、自分の心を口にする勇気すらも失っていた。ここがどこなのかわからない。自分の名すらわからない。鏡がないので顔を見ることもできない。

 かろうじて言葉は覚えているようだったが、ひとりで暮らしていて必要になることはなかった。ふと浮かぶ言葉も、掴みとろうとした瞬間に形を失い、空に浮かぶ筋雲がすぐに千切れてしまうように消えていった。

 塔には、高いところに窓がある。尖った天井を見上げると、朝日の射す方角にひとつ、夕日が洩れ入る方角にひとつ、四角い穴があいている。足場を作って懸命に腕を伸ばせば、淵に手が届き、指先に風が触れた。

 外の景色が見てみたいと思う。だが姫は外へ出たいとは思わなかった。望みを抱く隙間もないほど窓は小さく、また小さな空に憧れるほど塔での生活は不幸でもなかった。

 ある日のことだった。

 いつもと変わらない朝が訪れ、いつもと変わらない一日の始まりに、姫は不思議な幻を見た。小さな窓の淵に、人の手があったのだ。姫は驚き、目をこすって再び窓を見上げた。

「あら」

 しかし人の手と見えたものは、青黒い蛇の頭であった。姫はひとまず胸をなでおろした。

 蛇は体の半分を宙に浮かせて部屋の中を見下ろしていたが、姫の姿をみとめると潔く床に落ちた。窓から床まではほどほどに高さがある。蛇のことはよくわからないが、無事では済まない気がした。

 青黒い蛇の体は、日陰にもかかわらずてらてらと光っていた。まるで蛇の内側から体液が染み出しているようだった。鞭のようにしなる体は長く細く、姫が両腕を開いても足りないほどだった。

 だが何より姫を釘づけにしたのは、蛇の瞳の色だった。まるで滴る血のように紅い目をしている。姫は蛇の血も紅いのだろうかとぼんやりと思った。

 紅い目を見開いたまましばらく動かない蛇を眺めて、姫はやがて落着きを失った。毒蛇であるかもしれない。不用意に近づくのは危険だ。しかしもう死んでしまったかもしれない。姫は息をつめて、蛇を見おろした。

 やがて、姫の動揺を嗅ぎ取ったように、蛇はおもむろに頭をもたげた。小刻みに体を震わせ、腹を床とこすり合わせて音を出す。姫は驚いて後ろに身を引いた。

 灰色の床に蛇の瞳のような紅い血が広がっていく。蛇の腹が裂けていく。姫は小さく悲鳴を上げた。

「怖がらないで」

 どこかから声がした。姫は部屋の中を見渡したが、誰か人がいるはずもない。いるのは自分と、蛇だけだ。

 姫は床で身悶える蛇を今一度見つめた。

「あなたなの」

「そう。怖がらないで」

「でも……」

「すこし待っていて」

 蛇はそう言うとまだしばらく床に体をこすりつけた。姫は床に座り込んで、覗きこむようにして蛇の背中を見つめていた。

 床に広がった血が、姫のスカートににじり寄る。

「いや……」

 姫は立ち上がりかけて、眩暈に襲われた。倒れる。そう思ったときに、背中を強く抱きとめられた。

 顔をあげると、見知らぬ青年が姫の体を抱きしめていた。彼は内から輝くような黒い髪をもち、彫像のように美しい顔立ちをしていた。姫は彼を見て、息をのんだ。

「あなたは」

 姫の呟きに、青年は小さく微笑んだ。

 青年は、滴る血のような紅い瞳をしていたのだ。

「あなたは、さっきの蛇なの」

「これが本当のぼく。あれは仮の姿だよ」

「どうしてそんなことを」

「しつこい女に追われているんだ」

 抱きとめていた体をやや離して、青年は腰をかがめて姫と視線を合わせた。そのときになってようやく、姫は青年が一糸まとわぬ姿だということに気付いた。

「あ、あの」

 目のやり場に困り、姫は顔をそらした。青年は構わずに姫の顔を覗き込んだ。

「匿ってくれないかな。今度はナイフに姿を変えよう。持っていてくれ。そして女に聞かれたらこう答えるんだ。蛇は殺した、と」

 遠くで、口笛のような鳥の鳴き声がした。青年は姫の手をとって、甲に口づけた。

「そのまま、怯えていて」

 彼は熟れた果実のような瞳を細めて笑った。姫の脳裏には青年の美しい頬笑みが焼きついた。からんと音がして、見遣ると足元に蔦の意匠が見事なナイフが落ちていた。柄は脂を塗りこんだように青黒く、刃先は蛇の体のように鈍い光を湛えていた。

 真上で鳥の声がした。姫はナイフを胸に抱いて、窓を見上げた。そこにとまっていたのは、一羽の燕だった。

 あれもきっと人なのだろう。いや、動物や鳥の姿をとれるのだから、普通の人ではない。ではきっと神か、悪魔か、天使か、精霊か。

 姫はナイフを持つ手に力を込めた。この青年も、きっと人ではない。

 燕は矢のような角度で窓から飛び立つと、床に降り立つ手前で素早く回転し、やがて女の姿になった。女は褐色の肌の上に、淡雪のような薄布をまとっていた。豊かな金髪をかきあげて、胸の前で腕を組んだ。

「蛇がここへ来たでしょう」

 女にしては低い声で彼女は言った。姫は肩を震わせ首を振った。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの。わたしはただ、訊いているだけよ。蛇は――」

「蛇は、わたしが殺しました」

「殺した、ですって」

 女は姫へ一歩踏み出して、顔を歪めた。おもむろに床を見る。そこには乾きはじめた蛇の血が散っていた。

「これね」

「ごめんなさい。あなたの蛇だったのでしょう」

「わたしの蛇? まさか。あれはわたしの主人の蛇よ」

「そうですか」

 姫はナイフを背中に隠す。

「ねえ、あれは本当に蛇なの」

「そうよ。妙なことを訊くのね。蛇以外に見えたかしら」

「いいえ、そんなことは」

 必死に首を振って、姫は女から視線をそらした。もう何も言わないでおこうと決める。

 背中に隠したナイフの刃の部分を、手さぐりでそっと撫でてみる。青年の引き締まった腕に触れた気がして、姫は胸を高鳴らせた。

「殺したのならしかたないわ。人のやったことだもの。きっと主人も許してくれるでしょう」

「あなたの主人って」

 立ち去ろうと背中を向けていた女が、姫の声に振りかえる。

「地獄の王よ」

 女は艶やかな唇を舐めて微笑むと、再び燕の姿になって窓から飛び立った。

 塔には、いつもの静寂が戻った。

 燕が去っていった小さな窓を見上げ、姫は胸をなでおろした。

「よかった」

 ほっと息をつくと、背中から腕が伸びてきて抱きしめられた。青年の汗の香りが姫を包む。

「ありがとう。助かったよ」

 背中に青年の体が伝わってくる。筋肉が張り詰めていて、熱い体だ。収まりかけていた鼓動が、忙しない楽隊のように暴れ出す。

「あの、あなたは」

「ぼくはさっきの女の主人にこき使われている、奴隷みたいなものだよ」

「主人って……」

「地獄の王さ」

「だったらあなたは地獄の人なの」

「そうだね」

 青年は姫から離れると手近にあった布を腰に巻き、寝台に腰かけた。

「ぼくが怖い?」

 長い脚を組み、その上に頬杖をついて、青年は姫を見上げた。姫はくちびるを噛みしめ、一度だけ首を振った。

「いいえ」

 顔をあげて青年に歩み寄る。

「怖くない。怖くないわ」

「なら、ぼくと一緒にいてくれるかな」

 姫の前に手が差し伸べられる。青年の手は、毎夜食事を運んでくる男のものとは違って、すべらかでしなやかで、思わず触れたくなるような手指をしていた。

 触れたい。だが同時に触れられたいと願ってしまう、淫靡な指先だ。

 姫は硝子細工に触れるように、彼の手のひらにそっと指を置いた。青年は姫の手をとって、指をからめた。

「美しい姫君。ぼくに囚われて」

 青年の頬笑みは、底なし沼のようだった。魅せられれば、もう抜け出すことができない。その美しさは世界中の宝石を集めても足りない。太陽の輝きも、月の囁きも、星の瞬きも、彼の足元には及ばない。きっと神ですらひざまずく。

 姫は、蜜の香りに吸い寄せられる蝶のように膝を折り、青年の内腿に頬を寄せた。



 姫は海を見たことがない。見たことがあるとしても、記憶にない。海とは、見渡す限り大地が水に覆われ、押し寄せてくるのだという。そして時に、船乗りを呑み込んで素知らぬ顔をする。海に呑まれて溺れては、助からない。

 姫にとって青年との日々は、まるで海に溺れる水夫の心地だった。

 抱きしめられ、耳元で甘い言葉を囁かれ、首筋に口付けられると、姫は水の中に放り出されたように、手足の力を失った。彼の指が肌をなぞり、そのあとを舌が追いかけ、優しく噛みつかれると、手足だけではなく、思考の自由も奪われた。何も考えられないということを、姫ははじめて体感した。

 青年と出会ってから、五つの日没を数えた。

 毎夜、姫の元へ運ばれていた食事は、あの日から途絶えていた。だが食事に困ることはなかった。それはすべて青年が用意してくれた。新鮮な肉や野菜だけでなく、摘みたての果物などもあった。青年はそれを手ずから姫に食べさせた。

「噛んで」

 言われるまま、果実の中ほどで噛み切る。姫の顎と青年の指に、つと果汁が流れる。姫は青年の眼差しを受けて、彼の手を濡らす薄桃色の果汁を舐めとった。

「おいしい?」

 青年の問いに、姫はうなずいて答える。

「ぼくにも食べさせてよ」

「まだ半分残ってるわ」

「そうだね」

 青年は笑いながらそう言うと、手に残っていた果実を姫の口に押しつけた。姫は思わずくぐもった声をあげた。その間に、青年は果実ごと姫のくちびるにしゃぶりついた。二人の間に、歯形のついた果実が落ちる。生ぬるい感触が姫のふくらはぎを転がっていく。膝をずらすと果汁のべたつきが気になった。けれど姫は青年の首に腕をまわして、さらに口付けを求めた。与え、奪われ、貪りあった。

 舌先を行きかうのは、果実の甘さなどとは比べ物にならないほどの、甘い熱情だった。溢れだす吐息すら、手放すのが惜しく感じられる。それでもさらなる悦びを求めて、舌をのばした。

 彼は、こぼれる果汁を舐めとるように、姫の舌に吸いついた。姫はたまらず寝台に倒れこんだ。上に青年が覆いかぶさる。

「なんて美しい亜麻の髪。なんて美しい樹海の瞳」

 耳をくすぐるように囁いて、青年は姫の肩に口付けを落とした。

「わたしの目はどんな色をしているの」

「深い森の色だ。まさか知らない?」

 青年の驚いたような問いに、姫は顎をひいてうなずいた。

「だってここには鏡がないもの」

「水に映してみたらいい」

「光が足りないわ」

「それもそうだね」

 部屋を見渡して、青年は肩をすくめた。

「じゃあ、ぼくを見ていて」

 青年はそう言って姫の上からしりぞくと、寝台の上に足を揃えて座り、顔を撫でた。額から鼻筋、鼻筋から顎までをなぞっていく。

 姫は瞬きも忘れて青年に魅入った。

 青年の輪郭はみるみるほっそりとして、紅い瞳はみどりに染まり、くちびるは皮を剥いた果実のようにみずみずしく、濡れた羽のように艶やかだった黒髪は明るく映えた麦穂のように揺れた。

 青年の手はさらに首から胸へ、腹から脚へとのび、やがて彼は女の姿になった。

「もしかして……」

 姫は口を開いて、青年を見つめた。否、目の前の美しい女を見つめた。女は目を細めて微笑んだ。

「どう。美しいでしょう」

 青年は姫の口調を真似ておどけたが、姫には聞こえていないようだった。姫はおもむろに身を乗り出すと、女の頬におそるおそる手を差しのべた。

「これが、わたし」

 絞り出した声は震えていた。

 目の前に悠然と座る女は、とても美しかった。触れた頬はやわらかく、恥じらいに染まっている。長いまつげに縁取られた瞳は物憂げで、うっすらと開かれたくちびるはもの欲しそうに濡れている。まさかこれが姫自身であるとは、信じがたい。

 視線を首から下に向けると、胸元に見知ったほくろがあった。乳房にかかる髪をかきあげ、自分と見比べる。やはり、同じだ。

 興奮の吐息がこぼれる。

「ああ、これがわたしなのね」

 すぐそばまで寄って、姫は女の髪をなでた。指で梳くと花のかおりが立った。鼻先がこすれあう近さで、視線が交わる。

「ぼくの言葉を信じて」

 女の声で紡がれる青年の言葉には、春の夜明けのような色香があった。暗緑の眼差しがやわらいで、くちびるが掠めるように触れる。口付けと呼ぶにはあまりに儚い。

「感じる? やわらかなくちびる。ぼくの大好きなくちびるだ」

 くちびるが触れ合ったまま、青年は姫の瞳を覗き込んで笑った。言葉の質感が歯を包む。姫はゆっくりと瞬きをして、青年の問いに答えた。青年は女の姿のまま姫を強く抱きしめ、深くくちびるを重ねた。やわらかな体が押し合って、二人は鞠のように寝台を転がった。

「まるで」

 青年は呟いて、起き上がった。姫を見おろして、元の姿に戻る。

「神をも惑わす妖婦だ」

 紅い目が姫の体を優美に慈しむ。

 自分のことすらわからない姫には、何かを信じる核がない。だが、青年の言葉には確からしさが感じられた。彼がいてくれるなら、たとえこのまま塔の中でも、世界の美しさなど知らずとも、自分が誰であるかなどわからずとも、生きていたいと思えた。青年と出会う前の自分は、なんと哀れな女だったのだろう。こんなに素晴らしい悦びを知らずに、さほど不幸ではないなどと、本気で思っていた。いまの姫には、もう考えられないことだった。

「あなたも人を狂わす悪い悪魔だわ」

 姫は青年の髪に手をのばして、吐息交じりに彼をなじった。青年は顔をあげ、冷めた目をした。

「ぼくは悪魔なんて下等なものじゃない」

「そうなの」

 氷のように冷たい眼差しを受けて、姫は心が震えた。恐怖がないわけではない。だがそれを上回る彼の魅力に抗えなかった。彼の踏み込んだ場所を全身で感じ取ろうとする。彼が与えてくれるものは、吐息のひとつだって手放したくなかった。すべて、欲しかった。

 青年はなめらかな指で姫のくちびるをこじ開け、中をまさぐった。姫は彼を欲しがって、なめらかな指に吸いついた。血の滴りそうな紅い瞳が細くしなる。

「ぼくは地獄の王子だよ」

 天使のように美しい青年は、思いつきの叙事詩を詠むように囁いた。



 翌朝、小さな窓から光が差し込み、姫は目を覚ました。しかしここ数日、隣にあったはずのぬくもりがない。

 姫はけだるい体を無理やり起こして、部屋の中を見渡した。青年の姿はなかった。

 どこから出たのだろう。やはり窓だろうか。しかしふたたび蛇の姿になったとしても、塔の外側とは違って蔦がない。這い上がるすべがない。それとも燕の女のように、彼もまた鳥に姿を変えられるのだろうか。

 姫はふと思考をとめた。

 なぜ自分は塔の外に蔦が巻いていると知っているのだろう。

 青年が言ったのだろうか。それとも女が。思い出そうとするが、頭の中は靄がかかったようになって、昨日の記憶すら判然としない。

 仕方なく服を着て、姫は寝台へ腰かけた。そこから小窓を見上げる。心が、体が、青年を求めてはちきれそうになる。姫は胸の前で手を組み合わせて、息をもらした。

 そうやって一日が過ぎていき、やがて日没のときになった。

 窓から月は見えなかったが、小さな夜空には月明かりが広がっていた。

 姫は寝台からずっと動かずに、ただただ彼が戻ってくるのを待っていた。彼を待ちわびた体は疲れ果て、心は今にも泣き崩れてしまいそうだった。会いたい。会って抱きしめられたい。抱きしめられてその手の中で壊れてしまいたい。

 これが愛でないのなら、何が愛だろうか。姫はそう思って気持ちを繋いだ。

 鉄製の扉が強く叩かれ、姫は驚きに身を震わせた。腰かけていた寝台から離れ、扉からも離れる。扉は何度も何度も叩かれ、耳障りな音を響かせていた。

 うっすらと部屋に残っていた明かりも、やがて失せていき、塔の中には夜が訪れた。

 その頃になってようやく扉は静かになった。姫はそろりそろりと扉に近づき、冷たい鉄扉に手をかけた。引いても押しても、開く気配はない。裸足の親指に何かが触れた気がしてしゃがみこむと、どこから入ってきたのか、一枚の葉が落ちていた。拾い上げて、月明かりに透かしてみる。だが葉は光を遮り黒くなるだけで、緑なのか赤なのかすら判別できない。

 姫は寝台へ戻って腰を下ろすと、葉を鼻先に押しつけた。青々とした木々のにおいがする。

 知っている。このにおいを知っている。

 姫は息苦しさを覚えて、胸を押さえた。

 そうだ、これは森の葉だ。この塔のまわりを取り囲むようにして広がる森のにおいだ。

 そしてこれは、姫自身だ。

 姫は自分が森の姫であったことを、はっきりと思い出した。

 深く息を吸い込んで、森のにおいを体にためこむ。自分自身が補完されていくような、懐かしい感覚が体の先にまでよみがえる。

 取り戻した記憶は、美しい景色に彩られていた。森の輝き、湖の静けさ、土の芳しさ、花々の色めき。そのどれもが姫には愛しく、また誇らしくもあった。

 だが、何かが足りない。記憶の中の愛しさには、何か大切なものが足りない。

 嗚呼、彼が足りない。

 姫は昼間もしていたように、夜空を切り取る小窓を見上げた。花びらを撒き散らしたように星が煌めき、世界を濡らしている。

 息を求めてもがくように、夜の森の美しさを心の中に描く。しかしそれでも癒されない。心も体も、ただ彼だけを待っているのだ。

 この、灰色の塔で。

 樹海の瞳から、宝玉の揺らめきをした涙がこぼれる。あとからあとから、流れて落ちる。手のひらに乗せていた葉の上には、姫の涙が朝露のように玉になった。溢れて、夜に沈んでいく。

「泣かないで、姫」

 葉の囁きが耳に届く。だが姫は首を振ってやり過ごした。

「はやくぼくらのところへ帰ってきてよ。姫がいないとみんな寂しいよ。満月の夜にみんなで踊ろうよ。街の子どもをさらってきて、みんなで遊ぼうよ。ねえ、姫。美しくて芳しい、ぼくらの姫君」

「いやよ、いやよ」

 手のひらの葉をつぶさないようそっと握り、姫は体を折って突っ伏した。

「森へ帰っても、彼には会えない」

「地獄の王なら、またきっと来てくれるよ。だって姫はこんなにも美しい」

「え。地獄の王? 王子ではなくて?」

「なに言ってるの。ずっと姫を愛してくれたのは、地獄の王だよ。地底の神様だよ」

「どういうこと」

 足首に、不意に冷たい風が触れた。

「王が来てくれなくなって、姫はすっかり拗ねていただろう。だから姫はここへ閉じこもって王を困らせていたんじゃないか。食事だって僕たちが姿を変えて頑張ったんだ。僕らは姫と違って一度姿を変えてしまうと、一晩で死んでしまうからね。なのに、どうして忘れて……ぎゃ」

 葉の囁きがひねりつぶされる。

「おとなしく待っていられないなんて、姫はずいぶんお行儀が悪いんだね」

 顔をあげると、目の前に青年が立っていた。夜のともし火の中、紅く濡れた瞳が笑う。

 姫の手の中に握られていた葉は、青年が触れて粉々に砕け散った。青年は追い打ちをかけるように、砕けた葉を息で吹き払った。

「そんなに怖い顔をしないで、森の姫君」

「どういうこと。あなたは誰」

「言ったはずだよ。地獄の王子だって」

「王は、王はどうして来てくれないの」

「あれはもう、他の女に気が変わったみたいだ」

「そんなの嘘だわ」

「すごい自信だな。だけどそう言う姫はどうなの」

 姫は言い返せずに、黒い服に身を包んだ青年を見上げた。彼は姫の髪をひとふさ手にとって、くちびるを寄せた。

「姫が待っていたのは、ぼくだろう」

「ちがうわ、わたしは……」

 言葉は彼の口付けに呑みこまれて、やがて快楽にかき消えた。強引に彼の腕の中に抱きかかえられ、慈悲もなく繋がりあう。動くたびに青年の剣が寝台にぶつかって嫌な音を立てた。

 姫は眉を寄せて苦しげに声を上げた。だがそうしながらも、離れようとする青年の腕を必死に引きとめた。

「この手は、なに?」

「やめないで」

「ほら、やっぱり」

 青年は悪戯をした子どものように笑った。姫は青年の端正な顔を両手で包みこみ、さらに近づこうとして体を揺らした。

「お願い。もうどこにも行かないで。わたしはここから離れられない。森からは出られないの。だからお願い。もうひとりにしないで」

 溢れる涙は頬を滲ませ、塞いだくちびるは懇願に震えた。

 青年は暗がりに頬笑みを隠し、姫の胸に噛みついた。

「森から、出られるよ」

「え」

「姫が死ねばいい」

「あなたが殺してくれるの」

「まさか。これでもぼくは神の系譜だ。地上のものを手にかけるなんてできない。姫がするんだ」

 青年の甘い声に、姫の心は大きく揺れる。それでも姫は懸命に首を振った。

「無理だわ。みずから命を絶つことは禁じられているもの」

「なんだ。姫の想いなんてその程度」

「ちがう。そんなことない」

「だったら、死んでみせて。大丈夫。ぼくは地獄の王子だから。こちら側へ来てくれたなら、ずっと一緒にいられるよ」

「でも、みずから命を絶てば、わたしはこの姿を保てない」

 森の姫君は、森にとどまり森を見守り続ける責務を負っていた。その対価としての人の姿だ。自刃は役目からの解放と同時に、人の姿を放棄することにもなる。

 姫にとって、森は揺り籠のような場所だ。美しい森の安らぎは、母の温もりでもある。だが今の姫にとっては、人の姿を保てなくなることの方がつらかった。

「それも心配しないで。ぼくがなんとかしてあげる」

 青年は姫の耳元で囁いた。彼の吐息が姫の理性を摘みとっていく。

「ほんとうに?」

「ああ。この愛に誓うよ」

 青年は姫の胸元に残した噛み痕を撫でて、紅い瞳を伏せた。

「ほんとうにずっと一緒にいられるの」

「こんなに美しい姫君を、どうしてひとりきりにできる」

「あなたは突然いなくなったわ」

「だけどこうして戻ってきた」

 姫の首筋に浮いた汗を舐めとって、青年は頬をすりよせた。姫には、それだけでもう充分だった。

「姫、これを置いていくよ」

 青年は姫と繋がっていた体を離し、やや小振りな剣を姫のかたわらに置いた。

「地獄で待ってる。必ずおいで」

 彼が残した口付けは、それまでのどんな口付けよりも甘美で優しいものだった。



 目を閉じると、瞼の裏には森の輝きが広がった。だがそれはもう、遠い過去のことに思えた。森はいつだって姫を迎え入れてくれるだろう。しかしそれは姫だけに限られたことではない。森は誰にも厳しく、そして優しかった。姫は自分だけを愛してくれる誰かを求めていた。

 青年が残していった短剣に、手さぐりで触れる。鋼の冷たさは、かえって青年の体の熱さを思い出させた。さきほどまで一緒にいたはずなのに、もう寂しくて心細くてしかたない。体に残された彼の欠片は、姫の孤独を助長する。

 姫は声をあげて泣いた。胸元に残された噛み痕に爪を立て、姫は体を丸めて泣いた。彼を知ってしまったからこそ、寂しさにさいなまれる。だが姫は、彼に出会わなければよかったとは、たとえ強がりでも言えなかった。

 目を開けて、剣をすぐそばに見る。起き上がって鞘を払うと、いつか青年がなってみせたナイフのように、内から深い輝きが染み出していた。

 鼓動が大きく打った。

 月明かりを吸い込んで、刀身は美しく照り輝いた。指先で触れると、鋼が凛と啼いた。

 彼が呼んでいる。

 姫は短剣を逆手に握り、鋭い切っ先を喉元へ突きつけた。痛みが全身を駆け巡り、ほんのわずかの躊躇いがうまれる。

 小さな窓から夜空を仰ぐ。夜空は彼の髪の色によく似ていた。深い闇と澄み切った青が混じって、輝きの黒になる。

 夜空にひときわ明るい星が瞬いた。ほんのり赤いその星が、姫にはもう彼の瞳にしか思えなかった。

 彼が見ている。彼が待っている。

 行ってあげないと。

 彼が寂しがるといけないから。

 姫は腕に巻きついた躊躇いを振り払って、白く細い首に剣の鋭いきらめきを埋めこんだ。



 気がつくと、姫は赤土の上を歩いていた。空は地面を写し取ったかのように赤い雲に覆われている。

 細い道の両側は奈落になっていた。覗きこむと風が強く吹き上げて、体が飛ばされそうになった。

 ああ、彼に愛された体がある。

 姫は喜びにうちふるえた。

 道はまっすぐ伸びて、空まで届きそうな大きな門へと繋がっていた。振りかえってもただ道が続いているだけで、他には何もない。姫は門を目指して歩いた。

 森以外の場所を歩くのは初めてだった。空気は淀み、空は重く、道は乾いて草のひとつもなかったが、それでも姫の心は華やいだ。

 この先にはきっと彼が、地獄の王子が待っているのだと思うと、何も怖いものなどなかった。荒れ果てた赤土の道も、虹色に輝く。

 やがて道幅が広くなり、目の前に門扉がそびえたった。姫は大きく首を反らして門のてっぺんを見上げたが、雲で霞んで見えなかった。

「来てくれたんだね」

 青年の声がして、姫はあたりに目を凝らした。彼は門の向こう側に立っていた。

「会いたかった!」

 姫は門まで駆け寄って、柵を掴んだ。

「お願い。はやくそこまで行かせて。こんなままでは切ないわ」

「ねえ姫。会いたかったのは、ぼくでいいの」

「もちろんよ」

「王がね、やっぱり森の姫がいいって言いだしたんだ」

 柵の間から、地獄の王子の手が差し出される。姫はその手を両手で握った。求めていた熱が、そこにはあった。

「いまさらだわ。わたしはずっと待っていたのに」

「王は姫の死をいたく悲しんでいる。もしもここで引き返すなら、なかったことにしてもらえるよ」

 青年は、逆に姫の手を握りかえした。

「また森の姫として生きていける」

 指をからめあって、引き寄せあう。姫は俯いて首を横に振った。

「いやよ。森に帰ってしまえば、もうあなたには会えないわ」

「姫。もしもこのまま門をくぐったら、王は深い嘆きに囚われて、地獄の王としての務めを果たせなくなるかもしれない。そうすれば王は王でいられなくなる。地底の神でもなくなる。おそらく、存在そのものが泡のように消えてしまう」

「わたしには関係ないもの」

 姫は門に縋りつき、涙を見せた。王子は幼子にするように姫の頭を撫で、腰をかがめて視線を合わせた。

「それでも、ぼくがいいの」

「あなたに会いたくて、そのために怖い思いをしたわ。お願いだからひとりきりにしないで。約束したじゃない。ずっと一緒にいるって」

「そう。姫が選んだことなら、王の嘆きはきっとずっと深かろうね」

 王子は姫の瞳に浮かんだ涙を指で払いのけ、手を離した。

「開門!」

 短い一声で、待っていたように門が開いていく。両側に開かれていく門を見て、姫は王子に迎え入れられたのだと強く感じて、また泣いた。

 だが涙は頬を流れなかった。

 姫が門をこえて足を踏み入れたそのときに、姫は人の姿を失った。

 王子は足元に落ちたものを拾いあげ、赤い空にかざした。それは螺旋状に巻いた、ひとふさの蔦だった。

 ひときわ強い風が吹き、王子の指先が蔦をとり落とした。空に舞い上がった蔦は、やがて奈落へと吸い込まれて、王子の視界から消えた。

 地響きとともに、門が閉ざされる。

「さあ、ぼくが王になるときだ」

 王子が立ち去る足元には、千切れた蔦の葉が転がっていた。

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