大正めりくりフルーツポンチ
青星明良
許嫁は成長期
大正十三年(一九二四)十二月二十四日。クリスマス・イヴの朝。
「
居間の椅子に腰かけて居眠りしていた
大学教授の父が教え子から譲ってもらったドイツ製のユンケルストーブは、人間を堕落させてしまう恐ろしい暖房器具だ。
こんな物が家にあったら、猫のように暖をとりながら眠ってしまうのは仕方ない。
大がつくほど寒がりの柳一は心の中で自分にそう言い訳をしたが、自分の健康を心配してくれている許嫁にそんなことを言ったら怒られそうなので、素直に謝ることにした。
「すまない、
柳一は寝ぼけまなこをこすりながら、自分を起こしてくれた許嫁の少女の顔を見た。……つもりが、彼女の胸元に視線が行っていた。
別に、許嫁の胸の成長具合を確認したわけではない。つい数か月前までは、だいたいその目線の高さに彼女――
(成長したなぁ……桜子。
三重県四日市の貿易会社の令嬢である桜子は、柳一よりも三歳年下の十四歳である。二年前、十二歳の時に飛び級して東京の女学校に進学した。そして、いとこで許嫁である柳一の家で生活することになったのだ。
上京したての頃の桜子は、同級生の女の子たちより一歳年下だということもあって、とても幼く見えた。いや、近所の小学生たちと遊んでいる姿を見かけた時も、
(俺の許嫁は、顔は可愛いがちんちくりんだなぁ~……)
と思ったものだ。なにせ、桜子はこの当時の小学六年生の平均身長(一三〇センチ前後)よりもずっと小さかったのだから。
二年前にはすでに五尺七寸(一七五センチ)あった柳一と並ぶと、恐ろしい身長差でとても許嫁同士には見えなかった。仲のいいご
しかし、今年の春頃から急激に成長期に入って年相応の身長に伸び、美しく成長した今の桜子をちんちくり扱いする人間は(昔はさんざん身長をからかっていた柳一を含めて)誰もいないだろう。
「……柳一さん? 私の顔に何かついとるん?」
柳一が許嫁の成長を感慨深く感じながら見つめていると、桜子はわずかに頬を染めて恥ずかしげにそうたずねた。
「あっ、いや、別に……」
自分が桜子をまじまじと凝視してしまっていたことに今さら気づいた柳一は、桜子と同じように顔を赤らめて口ごもった。
恥じらっている桜子の表情や仕草がやけに艶っぽく見える。女とはたった二年でこんなにも変わるものなのだろうか……?
「あ~、暑い、暑い。ストーブが効きすぎているのかしら? 何だかとっても暑いわぁ~」
「げっ、
知らぬ間に、妹の菜々子が柳一の背後にいて、じと~とした目で兄を見下ろしていた。
「可愛い妹に向かって『げっ』とは何ですか! 『げっ』とは! 毛虫が出たみたいに言わないでください。これでも私、花も恥じらう十五歳の乙女なんですからね!」
「み、耳元で叫ぶな。鼓膜が破れる」
柳一は眉をしかめて片耳を手で塞いだ。
菜々子は小さい頃から子犬みたいにキャンキャンとうるさく、精神的に全く成長していない。一歳年下の桜子と比べると、かなり落ち着きがなかった。その性格が災いしているのか、顔は可愛らしいのに今のところ良い縁談が一つも来ていない。本人は、「別に嫁げなくても、この家で桜子お姉様と一緒にいられるからそれでいいもん。むしろ嫁いだら負けだと思ってる」などと言い、ぜんぜん気にしていない様子だが……。
「とにかく、朝っぱらから私の前で桜子お姉様とイチャイチャしないでください。不愉快です」
「い……許嫁同士なのに理不尽な……」
柳一は小声で不服を言ったが、菜々子は兄に対して二十四時間三六五日理不尽なので、どうしようもない。
この我がままで甘えん坊の妹は、お母さんみたいに面倒見がよくて家事が完璧な年下の義姉(予定)のことを「桜子お姉様」と呼んで慕っていて、彼女の愛情を独占したがる傾向があった。
母親を幼い時分に病で亡くしているから母性愛に飢えているのかも知れないと思い、柳一は菜々子の甘ったれぶりに何も言わないが、それにしても、兄が許嫁と見つめ合っていただけでヤキモチを焼くのはちょっとひどい。
「菜々子さん。あんまりお兄様を困らせたらあかんよ?」
「……はぁ~い」
そう言いつつ、桜子に抱きつく年上の義妹・菜々子。
今は同じくらいの背丈になっているから姉妹っぽく見えるが、桜子がちんちくりんで菜々子のほうがずっと背が高かった頃は、事情を知らない人には「妹に甘えるダメダメなお姉ちゃん」にしか見えなかったはずだ。桜子さんが成長期を迎えてくれて良かった、と父の
「……そういえば、冬休みなのにどうして制服を着ているんだ? 今から学校に行くのか?」
柳一は桜子が制服姿であることに気づき、そう言った。
桜子が身にまとっているセーラー服は、この秋から学校指定となった制服のため、まだ真新しい。
濃紺の生地が上品なセーラー服は、いかにもお嬢様学校の制服といった感じだ。
欧米文化が一般市民にまで浸透した大正時代においても、女性たちの外出スタイルは和服が多く、外では洋服を着ている男性ですら家の中では着物を着ていた。
しかし、昨年の関東大震災を経験して以降、日本の女性たちもだんだんと身動きがとりやすい洋服を着るようになって、セーラー服の女学生が増えつつあった。
そんな時代の流れに遅れまいと、桜子と菜々子が通うメイデン友愛女学校でも洋装の制服を採用したのである。経済的に余裕がない家庭にとっても、着物や袴を何着も揃えるよりもセーラー服を冬服と夏服の二着作るほうがいいだろうという意見があり、桜子ら開明的な学生たちの制服洋装化運動も功を奏して、セーラー服導入が実現したのだ。
ただ、学校側が和装と洋装のどっちでもいいとしていたため、今のところは袴姿とセーラー服の女学生が混在している珍しい時期でもあった。
「ええ。女子青年会の方たちに呼ばれとるんです。ささやかなクリスマス・パーティーを催すからぜひ来て欲しいって。我が家でもクリスマスのごちそうを作らへんとあかんし、午前中だけちょっと顔を出して来ようかなと思いまして」
女子青年会とは慈善活動を行なう女性たちの世界的なキリスト教団体のことで、メイデン友愛女学校でも寮生たちを中心に加入者がいた。桜子はキリスト教徒ではないし寮生でもないため加入はしていないが、女子青年会がこの冬に開いた
「お昼ご飯までには戻りますから、安心してください」
安心してください、というのは、花守家では料理をまともに作れる人間が桜子しかいないからである。奉公人の少女スミレも桜子の教育の賜物で多少の料理はできるが、根っからの粗忽者なので失敗が多いのだ。
「ああ。気をつけてな。……外は寒いから
「マフラーと手袋をしていくから大丈夫ですよ。……スミレさん、柳一さんがうたた寝せんように見とってくださいね」
「はい。お任せください、桜子お嬢様」
桜子は、自分のマフラーと手袋を持って来てくれた奉公人のスミレにそう言うと、出かけていった。
「桜子は元気だなぁ。これが若さか……」
「お兄様が
「……それを言うなら、お前だってぶかぶかの丹前を着こんで
「な、何ですってぇ~!?」
「本当のことじゃないか」
「ぐぬぬぬぬぬ」
「ぬぎぎぎぎぎ」
睨み合う、似た者同士の兄妹。花守家のいつもの光景である。
「二人とも。今日はクリスマス・イヴなのですから、少しは仲良くしてください」
居間に入って来た父の仙造が呆れ気味に言い、兄妹をなだめた。仙造は子供たちにも丁寧語で話す穏やかな人物である。
「だって、菜々子が!」
「だって、お兄様が!」
「はぁ……。やれやれ……」
仙造がため息をついていると、玄関の外まで桜子を見送っていたスミレが戻って来て、「旦那様。桜子お嬢様はお出かけになりました」と、仙造に報告した。
すると、仙造は「そうですか」と頷き、
「それでは、今から花守家臨時家族会議を行います……!」
高らかにそう宣言した。
「家族……」
「会議……?」
睨み合っていた柳一と菜々子は驚き、仙造を見つめる。家父長の威厳は皆無で女たちの発言権がやたらと強い、かなりゆるゆるな花守家では家族会議など一度も行われたことがないのだ。
「何を話し合うんですか、父さん。家族会議なら桜子がいる時にしたほうが……」
「あなたと桜子さんのことで、桜子さんを抜きにして話し合いたい大切な議題があるのです」
「え……?」
「その議題とは……柳一がいかにして桜子さんとロマンチックなクリスマス・イヴを過ごせるかについてです!」
「ロマンチックなクリスマス・イヴって、具体的にどんな……」
「決まっているではありませんか! ランデブーですよ、ランデブー!」
若い男女の逢瀬などはしたないと大人たちが眉をひそめたのが、この時代である。そんな時代に息子にランデブーをしろと父親が言う花守家は、やはりゆるゆるな家なのだろう。
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