ぬくぬくフルーツポンチ

 その後、桜子と柳一は、メイデン友愛女学校の冬木ふゆき教頭とバッタリ遭遇しかけて、慌てて三越から逃げだした。


 「ガミガミおヒゲ」と女学生たちからあだ名をつけられている冬木教頭は、男性とランデブーをしている教え子を街で見かけると、


「若い娘が外で男性と肩を並べて歩くなんて、はしたない!! たとえ許嫁同士でも慎みを持つべきです!!」


 とガミガミ怒るのだ。


「あ~、危なかったぁ~。……教頭先生、私たちに気づいたやろか」


「こっちを見ていなかったし、たぶん大丈夫だろ。クリスマスにこっそりランデブーしている生徒がいないか、見回りをしていたのかもな」


「さすがはガミガミおヒゲ。恐ろしい執念や……」


「また遭遇するとまずいから、そろそろフルーツパーラーに行こうか。ああいうお洒落しゃれなところにはきっと来ないだろう、あのおじさん」


 というわけで、二人は銀座千疋屋せんびきやのフルーツパーラーに向かった。




 銀座千疋屋は明治二年(一八九四)、銀座八丁目に創業された果実専門店である。大正に入って店を三階建てに新築し、一階を普通の果物売り場、二階をフルーツパーラーにした。これがフルーツパーラーの元祖である。


 銀座千疋屋は、フルーツパフェやフルーツサンデー、フルーツアラモードなどの女性たちが喜びそうなメニューを次々と生み出していったが、昨年(1923)に新たに考え出した新メニューがフルーツポンチだった。


「いらっしいませ。こちらのお席にどうぞ~」


 柳一と桜子が銀座千疋屋の二階にのぼると、フルーツパーラーのウェイトレスが明るい笑顔で出迎えてくれた。まだ十代と思われるそのウェイトレス(女給という言葉が一般化するのは昭和以降らしい)は、着物の上に洋風の白いエプロンを着ている。


「あの……このチラシを見せたら、フルーツポンチが三割引きになると聞いたのですが」


「あっ、はい。三十銭が二十一銭になりますよ。お二人様で四十二銭です」


「では、フルーツポンチを二人分お願いします」


 ちなみに、この時期は蕎麦やうどんが八~十銭、コーヒー一杯が十銭ぐらいだった。高級品だった果物をふんだんに使っているのだから、フルーツポンチが少々お高くなるのは仕方ないだろう。


「……で、結局、フルーツポンチの『ポンチ』って、いったい何なんだろうな」


「女学校の友達から聞いた話やと、ポンチ絵(当時の政治風刺漫画)から名前をとっとるらしいですよ。温かくて、体がぬくぬくになる飲み物だとか」


「ぬくぬく……? フルーツだから冷たい印象があるのだが……」


 そう言いつつ、寒がりの柳一は懐中に手を入れて、かじかんだ手を懐炉かいろで温めた。窓際の席に案内されてしまったため、寒いのだ。


 桜子は寒さなんてぜんぜん平気なのか、キラキラと輝くシャンデリアをうっとりとした表情で見上げている。


 やがて、フルーツポンチが運ばれて来た。


「お待たせしました。フルーツポンチです」


 ウェイトレスが運んで来てくれたフルーツポンチを桜子と柳一は「おお……」とちょっと感動しながら見つめる。


 脚の長いグラスに注がれている飲料は何なのか分からないが、たくさんの果物が刻まれてたっぷりとグラスに詰め込まれている豪華さは目を見張るものがあった。


「まるで、果物でできたクリスマスツリーみたいなやなぁ~!」


 たくさんの果物が光り輝くフルーツポンチは、クリスマスツリーのように桜子には見えた。


 桜子が感動して目をキラキラさせていると、ウェイトレスがニコリと微笑みながら説明してくれた。


「メロンは静岡の温室メロンを使っております。こちらの美しい黄桃は岡山産です。リンゴはスターキングという新種でして、とても美味しゅうございますよ。オレンジとレモンは地中海産。バナナとパイナップル、パパイヤは台湾産でございます」


 いつでもお客に説明できるようにオーナーから教育でもされているのか、ウェイトレスはスラスラとフルーツポンチの説明をしていく。ただ一つ、グラスに注がれている飲料が何なのか説明することを忘れていた。桜子と柳一もフルーツポンチの美しさに感動している最中なので、何の飲み物なのかなんて気にしていなかった。


(桜子がすごく喜んでいる。こんなにもはしゃいでいる桜子を見るのは、久しぶりだ。一緒に来て、正解だったな)


 桜子は幼い子供のように「わー、すごい! すごいなぁ~!」と大喜びである。そんな許嫁の無邪気な姿を見て、柳一は何だかとても懐かしいと思った。彼女がちんちくりの女の子だったのは、ついこの間のことだったのに……。


「いただきます!」


 桜子は手を合わせると、パクパクとフルーツポンチを食べ始めた。柳一も桜子の笑顔を鑑賞しながらスプーンで謎の飲み物を口に入れた。


「もぐもぐ……。う~ん! とっても美味しい!」


「ああ。すごく美味いな。ふふふ」


「それに、友達が言っていた通り、体がぬくぬくしてきました」


「うん。この飲み物、飲むとポカポカするな。くっくっくっ……」


「これはまるで……」


「酒を飲んでいるみたいだな! あはははははは!!」


 というか、酒だった。


 グラスに入っているのは、ヨーロッパで人気の飲料「パンチ」。数字の「5」を指すインドのサンスクリット語「パンチャ」が言葉の由来で、水、酒、レモン、香料、砂糖の五種類を混ぜた飲料である。


 冬場になると、フルーツパーラーは客足が遠のく。寒いのにフルーツなんて食べていられないからだ。そこで銀座千疋屋が考え出したのが、食べたらお酒で体が温まるフルーツポンチだった。ただ、名前がフルーツ「パンチ」だとそのまますぎて面白くないので、当時流行っていたポンチ絵から名前を借りて、フルーツ「ポンチ」としたのである。


 もちろん、水と混ぜ合わせて薄めているので、メインターゲットである若い女性たちが食べてもたいして酔っ払わなかったとは思われる。二年前(一九二一年)に成立したばかりの未成年者飲酒禁止法はまだ取り締まり体制がゆるゆるだったし(厳しくなるのは戦後)、桜子たちのような学生が酒入りフルーツポンチを食べても、この時代には怒られなかっただろう。


 ただ、酒にめっぽう弱い人間が食したら大変なことになったかも知れない。今の柳一のように……。


「ぬくぬくだなぁ、フルーツポンチはぬくぬくだなぁ、桜子も抱きしめるとぬくぬくだぁ~。フルーツポンチは桜子なんだなぁ~」


「り……柳一さん!?」


「うっ……ぐすん、ぐすん。桜子ぉぉ……」


 柳一は愉快そうに笑っているかと思ったら、今度は泣き出した。


「柳一さん! 公衆の面前で抱きつかんといてぇ~!! お、重いぃぃぃ!!」


 桜子は、自分の許嫁が酒にめちゃくちゃ弱いことを知ったのであった……。

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