第4話 ヒロコさん 後編

 床に寝かされる間も、服を脱がされる間も。

 私はアキラに抵抗できず、されるがままだった。

 アキラの行為が早く終わればいいとそれだけを考えていた。

 必死で目を閉じて耐えた。

 私より大きな身体が乗る恐怖に、私は凍りついたように動けなかったのだ。




『ねぇ……良かった?』


 気がついたら、アキラが不安げな顔で私を見下ろしていた。

 良いも悪いも分からなかったけど、私は小さく頷いてみせた。


 良かった、とアキラはホッとしたような顔で応えた。

 それからもすぐにアキラは私の胸に顔を埋め、愛撫し始めた。今度は私の身体も感じ始めた。


 アキラはリョウちゃんよりはるかに手慣れていた。

 リョウちゃん以上に私に手間をかけるアキラの抱き方を私は意外に思った。



 ――その夜から三日間、私はそのことが頭から離れなかった。

 処女じゃないんだから、と私は自分で自分を突っ込んだ。

 アキラになぜかもう一度抱かれたいと強く思った。そんな自分を知らない人間のように感じた。


 次から私はアキラのアパートに頻繁に通うようになった。

 言い訳にしたいからだろうか。

 アキラとの行為を大したことじゃないと私は強く思いたかった。

 そう。これは風俗と同じ。

 私が快楽を感じるためだけの行為で。

 アキラはそのための道具と一緒。

 アキラを好きなわけじゃない。利用しているのだ。


 リョウちゃんとは決してしないこと。

 何故かアキラ相手だと、なんでもできた。まるで娼婦のようだと自分でも思った。快楽を確かに感じていながら、私の中のもう一人の自分がそんな自分を冷めた目で見ていた。

 アキラは行為の最中、私に目を開けるように何度も言ってきたが、私は無視した。

 私は何故か目を開けることが出来なかったのだ。


 アキラは上手だったのだろうと思う。

 とても良かった。

 初めて私が上になった時、経験がないことを白状すると、驚いて笑って。

 教えてくれた。

 私が知らないことを次々に優しく教えてくれた。


 リョウちゃんとも変わらずに会っていたが、私はアキラとの行為と比べるようになっていた。

 リョウちゃんとのセックスは癒しだった。

 アキラとの行為は快楽の追求だった。


 私は当初の目的がなんだったか分からなくなり始めた。

 何かに取り憑かれたようにアキラとの身体の関係に耽っている私は一体なんなのだろう。


 アキラはもう私以外の女とは寝ていなかった。

 私しか抱いていなかった。

 抱き方を見るに、私に溺れているように見えた。


 アキラを傷つけるなら今がその時期なのだろう。それでも私はそんな気が起きなかった。



 ******



 あるとき、抱き合った後、アキラが私を見つめてきたことがあった。

 その頃になると、私は随分とアキラを下に見るようになっていた。アキラは私に決して逆らわないことがわかったからだ。

 意地の悪い感情がふとこみ上げ、聞いてみた。


『もっと小さくて可愛い子としたくならないの』


 アキラは首を振った。


『ヒロコが、いいから』


 私の手をつないで握りしめて、アキラは私を見て微笑んだ。


『昔の俺も知っているのはヒロコだけだから』


 アキラの手の温かさを感じて、私は不思議な気持ちになった。そのとき、私は初めてアキラを憎い相手、または快楽の相手以外の男として見た。


 もしかして、アキラは私に一番近い人間なのかもしれない。

 小学生のあの頃、私たちは同じコンプレックスを持って生きていた。


 男のくせにチビのアキラと。

 女のくせにデカい私。


 私たちはお互いの気持ちが分かりすぎるほど分かる特別な関係なのかもしれない。リョウちゃんでは埋められない隙間をアキラとなら埋められるのかもしれない。


 分からなくなっていた。

 アキラと過ごす私と、リョウちゃんと過ごす私。


 どっちが嘘でどっちが真実なのか。

 どっちが本当の私なのか。


 私は二つの自分で日々を生きていた。



 ******



 アキラと外で会った時、ショッピングモールを歩いたことがあった。

 その一角の靴屋で。

 私は動けなくなった。


 棚に置いてある、とびっきりヒールの高い真っ赤な一足のピンヒール。

 どこかで見たような気がして、視線が釘づけになったのだ。


 アキラはそんな私を見て、私が靴を欲しくなったと思ったのだろう。

 笑って、買えば、と言った。

 残念ながらその靴は私の足のサイズには合わなかった。

 私は陳列棚の中から一足のピンヒールを選び出した。

 私の足のサイズの、8センチ高さのシャンパンピンクのピンヒール。


 試着して立つと、アキラが笑った。

 その笑顔はちょうど私の目の高さにあった。

 これを履いて、やっと私はアキラと目が合うのだ。

 自分が小さい女の子になった気がして、私は思わず笑ってしまった。


 その途端、アキラが抱き締めてきた。

 私は身体が崩れそうなほどの安心感と陶酔を感じた。


 私より高いアキラに感じた怖いような感情はヒールを履いてしまえば、なんなく消えた。

 私はそれからアキラと出歩くときは、そのピンヒールを履いた。


 答えの出ない問いを、私は自分自身に問い続けた。

 私とアキラの関係はなんというものなのだろうか。

 嘘から出た真、ということはあり得るのだろうか。



 *****



 リョウちゃんにばれた。


 私の友達がリョウちゃんに告白したらしい。その子は以前アキラと付き合っていた子だった。


 私はリョウちゃんの前の『ヒロコ』で対応するつもりだった。


 もう潮時だ。

 元通りのヒロコに戻ろう。

 リョウちゃんだけしか知らずに。

 優しいリョウちゃんと穏やかに過ごすことに満足していたヒロコに。


 でも、怒りにまかせて私を非難するリョウちゃんの前に現れたのはもう一つのヒロコだった。


『アキラくんに告白されたの。昔から……小学生の時から私のことが好きだったって。ちょっとでいいから、僕と会ってくれないかって』


 リョウちゃんを傷つけるだけなのに。何故私はこんなことを言うのだろう。


『男の子って、好きな子をいじめたくなるんだって。だから、私に嫌なことを言ったんだって』


 どっちが本当の私なの。

 これが本当の私なの。


『そんなわけない。あいつはお前がいない時に僕たちの前で、お前のことを死ねばいいのに、て言ってたんだぞ』


 そのとき私に返したリョウちゃんの言葉に、私はひどく傷ついた。


『嘘』


 私は泣いていた。


『嘘。リョウちゃん、どうしてそんなに酷いこというの?』


 私は泣いていた。

 馬鹿な女の子みたいに。

 アキラに捨てられて女子トイレで泣いていた、あの女の子のように。


 信じられなかった。

 アキラはあの頃そこまで私を憎んでいたのか。


 思わず顔を覆う私を置いて、リョウちゃんは部屋を飛び出した。



 ******




 アキラのアパートに行くと、リョウちゃんの姿はなく、部屋のドアが開いていた。ドアから廊下に向けてアキラの脚が覗いていた。

 部屋の前に立って、私は立ち尽くした。




 倒れた血だらけのアキラ。


 赤い血。


 ピンヒール。




 その光景を見た途端、私の身体の奥底に封じ込めていたものが蘇り、記憶の鍵がこじ開けられるのを感じた。




 思い出した。










 私は全てを理解した。




 何故、背の高いアキラと歩くと恐怖を感じたのか。

 アキラに触れられて身動きできなかったのか。 

 どうして、娼婦のようにアキラとの行為に耽ったのか。





 今まで疑問だったことの辻褄が全てあった。









 眼裏に浮かび上がった光景と目の前の光景を私は照らし合わせた。


 赤い血。

 真っ赤なピンヒール。













 私はアキラに近づき、足元のアキラを目だけで見下ろした。


 アキラは静かに死んでいた。


 ああ、この男はもう私を抱けない。


 悪い夢から覚めたようだった。

 冷たく横たわった血だらけの綺麗な顔をした背の高い男。

 この男が私を抱けないのなら、私にはもうそれが木偶にしか見えなかった。

 なんだ。私は今までただ色欲にとらわれていただけだったのだ。




「私もあのとき思っていたわ」


 私はアキラに足を伸ばし、白目をむいたアキラの顔を靴で軽く蹴った。

 ごろん、と横を向いたアキラの片目にはピンヒールが見事に突き刺さっていた。


「あんたみたいな虫ケラのチビ男は死ねばいいのにって」






 ――――――――――






 思い出したのだ。



 修学旅行先のホテルの夜。

 大部屋での夕食が始まった際、生理になったことに気づいた私は途中で席を立ったのだ。

 鍵が閉まっていて自分の部屋に入れなかったから、あわてて夕食会場である大部屋に戻ってきたとき、


『ヒロコ、あいつ、死ねばいいのに』


 襖の向こうでアキラがそういうのが聞こえた。


 私は廊下に飛び出した。

 すれ違った先生に、気分が悪いから部屋に戻ります、とだけ伝えて逃げるように去った。

 涙が後から後から出てきて、泣きながら走った。自分の部屋に戻りたくなくて、階段を上って違う階に行った。

 泣き止むまで、そこで落ち着こうと思ったのだ。


 すると、昼間、私に話しかけてきた高校生のお兄さんたちが廊下にいた。

 泣いている私に気がつき、どうしたの、何故泣いてるの、 と近づいてきた。

 私は泣きじゃくるだけで言葉が出なかった。

 お兄さんたちは私の手を取り優しい声で、こっちにおいで、と言った。

 私は泣きじゃくりながら頷いた。



 そのまま、部屋に引っ張り込まれた。




 怖くて声なんか出なかった。

 自分より大きなお兄さんたちに囲まれて殺されるんじゃないかと思った。

 押さえつけられて、早く終わればいいとずっと目を閉じていた。





 部屋から廊下に放り出された私は、トイレを探した。

 早くトイレに行かなきゃ、それだけを考えていた。


 ようやく女子トイレに入っても、どうしていいかわからず呆けたように座り込んでいた私の前に、宿泊客のお姉さんが現れた。


 とても小柄な可愛らしいお姉さんで、びっくりするような高さの真っ赤なピンヒールを履いていた。

 お姉さんは私に気がつき、折れそうに歩きながら近づいてきた。

 太ももが血だらけの私を見てお姉さんは誤解した。


『大変。始まっちゃったのね。私のをあげるわ』


 部屋に戻って、お姉さんは自分のショーツと生理用ナプキンを貸してくれた。

 濡れたおしぼりで呆然とする私の脚を拭きながら、


『大丈夫よ、スカートにも付いているけど黙っていれば誰にも分からないわ』


 と優しく言った。


 着替える私を、お姉さんは少しいやらしい目で見て最後に言った。


『最近の子は発育が良いのねえ。羨ましいわ。小学生のくせにそんな身体してるなんて』



 ――――――――――



「忘れていたのに」



 すっかり忘れて、私は幸せだったのに。

 リョウちゃんと二人で私は幸せだったのに。


 私はアキラを見下ろした。


 あんたのせいで思い出した。

 


「折角、忘れていたのに」



































「もう僕に会いに来なくていいよ。ヒロコ。早く、他の人を探しなさい」



 厚いアクリル板の向こう側で。

 灰色の服を着て髪を五分刈りにしたリョウちゃんはいつもそう言う。


 ううん。


 私は首を振る。


 リョウちゃんをずっと、ずっと待ってる。

 私にはリョウちゃんだけだから。


 私がそう答えると、リョウちゃんは疲れたように微笑んで。

 それから何も言わない。


 その繰り返し。


 私だけが私の近況を報告し、リョウちゃんは相槌も打たずに静かにそれを聞き、そのうちに面会時間が終わる。

 リョウちゃんはあっさりと私の方を振り向かずに、刑務官に連れられてドアの向こうに消えていく。


 リョウちゃんは模範囚だ。

 昔からリョウちゃんは真面目で優しくて優等生だったもの。

 大丈夫。早く、出てこられるようになるわ。



 私は、塀の高い建物の中から外へ出た。

 高い秋の空の青が眩しくて、目が痛くなる。

 私は目を細めて、塀の側に咲く風に吹かれる秋桜を見やる。


 私は、可哀想じゃない。



 バッグの中で、私のスマホが震えた。

 私はスマホを取り出して送られてきたメールを確認した。

 三日前からやり取りを始めた相手からだった。


 身長175〜180の男性。

 私はそう掲示板にはっていた。


 今日、これからその男と駅で待ち合わせる予定だった。

 メール文を読んで、私は唇を歪める。


『こういうの、僕、初めてで。緊張します。』


 よく言う。

 こういうことを言ってくる男に限って、気立てのいい奥さんと可愛い子供が何人もいたりするから、笑える。

 日頃、愛妻家や育メンを気取っていて、私と会った後も何食わぬ顔をしてその生活にいけしゃあと戻るのだ。


 でも、そういう男の方が上手い。





 私はバッグにスマホを入れると歩き出した。

 コンクリートの舗道にヒールの底があたるカツカツ、という乾いた音が響く。

 5センチのヒール。

 それを履くと私の身長は178センチになる。

 175〜180センチの男はこの靴に合う。




 大日本帝国軍人は、制服に身体を合わせたという。

 そんなこと出来るわけない。

 自分を合わせる必要はない。

 履きたい靴を毎日選ぶように、自分の隣に立つ男も選べばいいのだ。


 私のお父さんはよく言っていた。


 若い頃は年上の女房で、中年では同級生の妻で、年をとったら若い奥さんを手に入れる。それが一番幸せな人生だ。


 それと同じ。


 若い時は高身長の男で。

 今は同じ背の高さの男。

 年をとったら、私を見上げる優しい王子さまと暮らす。



 なんて幸せな人生。



 私は頬をくすぐる秋風を心地よく感じ、笑みを浮かべた。

 顔にかかる髪を振って、空を見上げる。


 私は、可哀想じゃないわ。



 澄み切った青空はどこまでも高い。




















  毎夜、私は夢を見る。



 顔の見えない男に私は夢の中で抱かれてる。

 目を開けているのに、男の顔だけが霞みがかったように見えないのだ。


 起きた時はいつも枕が濡れている。

 私は目覚めていつもこう思う。


 もう、私はあのように抱かれることは二度とないだろう。

 あんな風に私を抱く男はもう決して現れないだろう。



 夜中、夢を見ながらそんな風に泣くのも、この私だ。







 健気に王子様を待ち続ける悲劇のヒロインも。


 何人もの男と次々に寝るのも。


 今はもういない男を想って無意識に泣くのも。



 その、どれもが。




 この私。








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