家定
林檎殺人事件のことを語るのに、忘れてはいけない男がいる。警視庁鑑識課に所属する、監察医の
三十路の手前か、ひとつふたつは越したあたりか。剣持や太一郎と、年の頃は変わらない。
普段、遺体としか会わないためか自身の見た目を厭わない男で、腰まである長髪に無精髭を生やし、三十路のワリには昔懐かしのロイド眼鏡を愛用している。「メシを三度喰っている時間があるなら細胞の研究に費やした方が良い」というくらい、食事に頓着しないから、背は高いが非常に痩せていて、顔色も悪い。
だが、家定にはひとつ、不思議な魅力があった。
手がとても綺麗なのだ。顔はすぐに忘れてしまう剣持だが、家定の手には何か忘れられない、忘れてはいけないと思わせる魅力があった。
「剣さん」
家定にそう呼びかけられると、剣持は決まってはじめに「誰だ」と尋ねる。
「イヤだな剣さん、アタシですよ、家定です」
家定の方も、剣持がヒトの貌を覚えられないことを知っている。だから少しばかり呆れながらも、剣持に自分の右手を見せてやる。
「ああ、家定か」
剣持はその美しい手を見て、その血液で汚れた白衣を纏った長髪の男が家定だということをやっと思い出す。
この一連のくだりを、この二人は会うたびにやっている。
「……いい加減、顔のほうを覚えちゃくれませんかね……」
最低でも月に二回はこのくだりを演じていて、そろそろ飽きないのかと家定は呆れる。だが、剣持の方は演じるだなんてとんでもない。いたって大真面目に毎度毎度、家定の顔も名前も忘れている。
「いちど、剣さんのお脳のほうをかっぴらいて、検査させていただきたいもんでござんす」
家定はそう言いながら、懐にしまっていたタバコを剣持に勧める。
「医者のくせに、タバコかい?」
剣持は笑いながらも、遠慮せずに家定が差し出したタバコを口にくわえた。家定も微笑みながら、剣持に火を差し出す。
……自分の指をすりあわせて着火した灯火を。
「……器用なこった」
「なあに、こんなものはただの手品でござんすよ。あんたのところのおじいさま方に着けてもらったこの手のおかげで、あたしゃあ、いまや神の手を持つ名医でになれました。ああ、尤も……運ばれてきた遺体を切り裂くだけの検死医ですがね」
半ば自嘲気味に微笑みながら、家定は自分もタバコを口にくわえ、自らの手で着火した。
警視庁の、15階建てのビルの屋上。
安全フェンスの上に立ち、遙か地面を見下ろすのが、剣持と家定のお気に入りの場所である。下から突き上げる強風に、剣持の古びたトレンチコートと家定の一つに結んだ腰まである長い髪、それに血でいくらか汚れた白衣がたなびく。
地上を歩く通行人は安全フェンスの上に立つ2人を見上げて一瞬は「やれ、自殺か!?」と驚くが、その出で立ちから剣持と家定であることがわかると、「またか」と興味なさげに呟いて、まるでなにごともなかったかのような表情で帰路につく。
「捜査一課のくせに、なんであんた、詐欺事件なんかにまわっちまったんです」
帰宅する通行人を遙か足下に眺めながら、家定が剣持に尋ねた。
「相棒を死なせてしまったからだろう。それに新しい相棒は新人だ。殺人事件なんかに関わらせるわけにもいかねえ……」
「ここしばらく、あんたが
「詐欺事件じゃあ、殺人にも怪我人にも当たらんからな」
「ウッカリ、自分で事件を起こそうかと思ったくらいです」
「馬鹿野郎、警察の人間が……」
そう言いかけて、剣持は言葉を止める。
この家定という男なら、本当に爆破事件の二つや三つ、起こしかねない。
警察に所属する医師でありながら、家定のこころの中には善と悪の区別はない。あるのはニンゲンという
そもそも、家定はニンゲンという
剣持の相棒である小野寺は、この風変わりな医者を「マッドサイエンティスト」と呼び、近くに寄ることも嫌がっていたが……。剣持はこのやせっぽちの医師にどこか、祖先である運国斎、執国斎に似た雰囲気を感じていた。
「剣さん。林檎殺人事件の
不思議なことを、家定は剣持に尋ねる。
「誰って……」
「
「なんだって?」
家定は曇天を見上げてタバコを吸いながら、剣持の厳つい顔を見つめる。
「だいたい、拳銃で被害者を撃ち殺すなんていう安直な事件を、大東京府警察が数年、数十年もかけて
家定の言葉に、剣持は家定の細くて青白い顔を見つめ返す。
「剣さん。あたしはねぇ。
「何言ってんだ」
剣持が、家定の言葉を遮る。
「捜査一課が殺人事件を追わないなんて……」
そういいかけて、止める。
剣持が林檎殺人事件から離れて数年……ただの一度でも、その話が会議に上がってきたことはあったか?
自分にそう、問いかける。
――林檎殺人事件の
家定の声が、剣持の頭の中をこだまする。
「……誰?」
思い出せない。
――いや、それは俺が顔と名前を覚えない病気だから……。
じゃあ、林檎殺人事件の話を、誰かから聞くことはあったか?
思い出せない。
――いや、だがそれは……。
いやだがそれは。
いやだがそれは。
いやだがそれは。
「剣さん」
剣持の思考を止めたのは、家定の声。
「剣さん。あたしはね。あんたこそが、林檎殺人事件を追うべき……林檎殺人事件を終わらせなきゃいけない刑事だとおもってござんす」
「……俺が?」
「剣さん。林檎殺人事件……あんたが追っちゃあ、くれませんか」
「俺が……林檎殺人事件に……? ふ……ふふふ」
笑いがこみ上げてきた。
「なにがおかしいんです」
家定は、至極まともな問いかけをする。
だが、何がおかしいということはなかった。警視庁捜査一課の剣持昭夫警部補は、目の前にいる痩せこけたロイド眼鏡の医師の貌をまっすぐに見つめ……ただ、笑っていた。
涙が、こみ上げてくる。剣持は笑いながら……泣いていた。
「……剣さん……アンタ……」
――頭ぁいかれちまったんじゃねえんですかい?
そういいかけて、止める。
家定は、泣きながら大声で笑う剣持をただ、じっと見つめていた。
「自分の相棒ひとり、救えなかった男だぞ、俺は」
「高須さんですかい? 高須さんを救えなかったのは、あんただけじゃありやせん。あたしだって、そうですよ。だから、あんたが気に病むこたぁござんせん」
「だが、お前は救急医じゃあないだろう」
「ええ、ただの検死医です。神の手を持つ……ね」
そんなことを呟きながら、家定は剣持の曾祖父である山中執国斎が与えたという右手を優しくなでさする。
「死んだばっかりの、たったふたりの人間すら救ってやることが出来なかった出来損ないの神様が……あたしですよ。高須さんだって、奥方だって……あたしがもっとしっかりしてりゃあ……生かしてやれたかもしれない」
低空から吹きすさぶ風の音で、家定の震えるカスレ声は剣持には届かない。
「え?」
聞き返す剣持に向かって家定はにこりと微笑み、フェンスから屋上の床に飛び降りた。
「剣さん。事件のことは抜きにしても、たまには小野田を連れて、監察に遊びに来ておくんなさいよ。美味いもつ鍋、ご馳走しますから」
「監察局の中でもつ鍋喰うのかよ」
「ええ。そうですよ。
家定はにんまりと微笑み、長い髪をなびかせて踵を返し、屋上から姿を消す。
剣持は自分の両目から無尽蔵にあふれ出る涙を、汚れたトレンチコートの袖で拭いた。
なぜ、涙が出るのかわからない。だが、林檎殺人事件の話を聞くと、心が震え、涙が流れる。
失った記憶の中に、その答えがあるのか……?
剣持は、自らに問いかける。
だが、いつも……その答えは出ない。
闇蜘蛛(仮) TACO @TACO2016
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