不完全な女の子
自動販売機のホットコーヒーには売り切れの赤い文字が灯る。横に並ぶ温かいお茶にも、同様に赤い文字が浮かぶ。別にコーヒーなんて飲みたくないけど、かじかむ掌を溶かすためにどうしても欲しかった。1月の夜の下なんて、人間が生存できる環境じゃない。一刻も早くお風呂にざぶりと浸かりたい。一秒でも早くお布団にくるまって眠るように泥になりたい。でも、電車が来ないんじゃ帰れない。こんな日に運転見合わせになるなんて、本当ついてない。
「美空、生きてる?」
駅のホームで取り残されている私たち。ベンチに座っている美空に声をかける。美空の白すぎる肌に、ちかちかと点滅する蛍光灯の青白い光が反射して、白さに拍車をかけている。その白い肌と対照的に濡れるように黒い髪の毛が重力に従ってまっすぐ下に伸びる。寒さのせいか、長い髪の毛の先がふるふると震えている。
「生きてる心地なんてしない」
「同じく。このまま凍え死んだらどうしよ」
「トルストイじゃないんだから」
「誰それ。日本史選択に横文字使わないでくれる」
「トルストイは一般教養だよ」
「こんな寒空の下で美空先生の教養教室はやめてよね」
美空は大きい目をアスファルトに向けて、私には向けない。大きな鞄には参考書がこれでもかと詰め込まれている。はぁ、と息を吐く。息が白い。私の息が見える。普段、こんなに二酸化炭素を吐きながら生活をしているのか。そりゃあ温暖化もするよね、今は寒いけど。
「もーさ、卒業じゃん」
「センター試験すら終わってないのに卒業のことなんて考えられないよ」
美空は物憂げに言う。
「いやいや。常に人間は終わりを意識しながら行動しなきゃだめなのだよ」
「終わりって、卒業のこと?」
「いかにも」
そこで美空は私を見る。
寒さに潤んだ二つの瞳が私を捉える。うるうると輝きを持ったその瞳は、大きく、深く、そして澄んでいる。
「卒業したら、何が終わる?」
「高校生活」
「高校生活が終わったら、何が始まる?」
「大学生活じゃない。受かってれば、の話だけど」
美空の瞳は微動だにせず私に向けられ、まばゆい視線は蛍光灯の光と共に乱反射しながら拡散して、私をどっぷりと包む。短いスカートから伸びる儚く白い足が、つ、と動くのと同時に、瞳も動いて、正面を向いた。
「私はさ、まだ不完全なんだと思うんだ」
美空はぽつりと言った。
「不完全?」
「そう。不完全」
「美空も完全体になりたいのか」
「そりゃあそうだよ。だって、不完全のまま生きていくのって苦しいことじゃない? できないことがたくさんあって、解決できない問題が山程あって、拭えない苦しみがしこたま沈殿しながら生きていくのって、すっごく不合理だと思うんだよ」
「ふむ」
「自分の存在がどういうものかもわからずに生きていくのってすごく辛いと思う。アンパンマンの歌でも言うじゃない。わからないまま終わる、そんなのは嫌だって。でもさ、私はこのままだったらなんにもわからないまま終わる。それは本当に嫌だし、何もわからないままだったら、生きてる意味なんてないと思う」
「それは言いすぎでしょ。美空も受験勉強でなかなか参ってるな」
「昔から考えてたことだよ」
「昔って?」
「小学校4年生」
「そんな長い間あっためてた不安をここで披露しますか」
「結愛にしかこんな話できないから」
どきり、と胸が鳴る。
「でもさ、不完全なのであって、失敗作ではないはずなんだよ」
風が吹く。スカートの間から体の中を冷気が駆け巡る。凍えるほど寒いはずなのに、その寒さが気にならない。
「私はまださなぎの中にいるんだ」
「さなぎ?」
「そう。さなぎ。私たちが行ってる学校っていうのはさ、さなぎなんだよ。集合住宅みたいに、一つのさなぎのなかにいろんな女の子と男の子が入って、完全になるためにじっくりと過ごしてるんだよ。その中にいる私たちっていうのは、卵から生まれた体がばらばらになって、どろどろになって再形成されていく途中なんだと思う。触れ合ったり、離れたり、誰かを貶めたり称えたり、キスしたりセックスしたり、喧嘩したり仲直りしたりして、結合して、離反して、また結合して、分裂して、増殖する。そうやって私たちは完全になる。だから、私はまだ不完全んだよ。この体だって、まだどろどろの液体なんだ」
美空の体がどろどろと溶けていく。蛍光灯が消えて、また灯るたびに、美空の体は崩れて、ベンチを穢す。ぱち、ぱち、とアニメーションのように、美空が緑色の液体になっていく。
私の右手も、どろどろに。
「でも気がついたんだ」
また美空に視線を戻すと、そこにははっきりとした輪郭線を持った美空の体があった。
「私は、高校っていうさなぎから羽化しても、また新しいさなぎに入るだけなんだよ」
美空は徐に立ち上がる。
「私はどろどろのままさなぎから這い出して、別のさなぎに入って、またどろどろと不完全のまま、さなぎの中で蠢き続ける」
一歩、前に足を踏み出す。
「小学校っていうさなぎから出て、中学校っていうさなぎから出て、もうすぐ高校っていうさなぎから出ても、私は完全にはならない。これから大学っていうさなぎに入る。でも、大学っていうさなぎから出たら? 私はどうなるんだろう。そのときにどろどろのままだったら、私はいつ完全になるの?」
一歩、一歩。
「この社会だって、さなぎそのものかもしれない。私は一生さなぎの中で、どろどろと蠢くことしかできない。そのまま死ぬまで、私はどろどろに溶けた液体のままなんだ」
駅のアナウンスが私たちしかいないホームに響き渡る。
「だったら、ここで羽ばたくべきなんだよ」
アナウンスが響いても、美空は足を止めない。
「私は社会っていうさなぎから、羽化しなきゃいけない」
遠くから、激しい光がこちらに向かってくる。美空は、か弱い足を進め続ける。
「飛ばなきゃいけないんだよ」
アナウンスと、向かってくる眩い光が、美空の体の向こう側で混ざり合う。
「私は、もう、さなぎなんかじゃない」
電車がホームに侵入する。美空はホームを蹴る。
「美空っ」
これまでに感じたことのない負荷が、私の右足首にかかる。
これまでに出力したことのない瞬発力が、右足から生み出される。
これまでに経験したことのない速さで、右腕が伸びる。
私の右腕は、どろどろになった美空の右腕を、しっかりと掴んだ。
「飛ばないで」
右腕を引き寄せて、美空の体を抱きとめる。
どろどろなんかじゃない、不完全なんかじゃない、明確な身体を、私は両手で抱きしめた。
音が止む。電車は停車し、駅員のお詫びの言葉と共にゆっくりと扉が開く。
呼吸が苦しい。目が大きく開いてる。胸が痛い。
美空の体も、震える。
「ふ、ふ」
震えが、だんだんと大きくなる。
「ふふ、ふ、ふ」
美空も、私の体をぎゅっと抱きしめ返す。
「ふは、あはは、あははは」
美空は、大きな声で笑った。
「なに」
笑う美空を見ながら、私は美空から腕を話した。
「あは、ごめん、なんか、結愛がおセンチな感じになってたから、からかっちゃった、ごめんね」
そう言って、またきゃらきゃらと笑う。
「てめーこのやろ」
私はスカートが翻るのも無視して美空に飛び蹴りを食らわす。蹴りをまともに食らった美空はぎゃっと叫んで、また笑った。
「まさかホームで抱きしめられるなんて思ってなかった」
「ほんとに、ホームから飛び降りちゃうと思ったから」
「そんなに迫真の演技だった?」
「うるさい。黙って」
「ごめんねぇ。許してたもれよ」
「許さない」
「ね−ぇ」
私は鞄を持って到着した電車に乗り、がらがらの座席にどっかりと座った。美空も私に続いて隣に座る。
「でも、不完全っていうのは本当」
正面の窓ガラスにうつった美空の顔は、笑顔だったけど、どこか寂しさが混じっていた。笑顔の向こう側では、白々しく蛍光灯が点滅している。
「いつか、完全になるときはくるのかな」
美空はぽつりと呟く。
「一人で不完全だったら、私たち二人で完全になればいい」
私が言うと、美空はこちらに振り向いた。
美空の顔からは、寂しさは拭われた。
潤んだ瞳が私に向けられる。
電車の扉が閉まり、がたんと動き始める。
不完全で完全な私たちを乗せて、電車は温かな世界へと誘っていく。
織り織る織られるあゝかひぶ 神楽坂 @izumi_kagurazaka
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