字を食す、字を愛す

 目を閉じ、息を吐く。

 吐いて、吐いて、肺だけではなく、体の血管という血管から酸素がなくなったと思った瞬間、目を開いて、一気に息を吸う。

 そのまま硯に浸してあった筆を持ちあげ、真白な半紙に向かって飛びこむ。

 純白の世界に、漆黒の痕跡が浮かぶ。

 筆を引くと、それまで秩序だっていた世界に断絶と汚染が訪れ、それが文字になっていく。

 息は吐かない。息は儚い。

 無垢だった世界を惜しみながら、文字で無垢を穢していく。

 まるで、言葉が世界を汚染していくように。 

 風が吹くように、滑らかに、軽やかに筆が動く。

 動きは一切止まらない。

点と点を線で結ぶのではない。宙に浮いている線をただただなぞるように筆が走る。

最後に、ぐっと汚染を深く刻印し、払ってまた筆が宙に浮く。

その流れを殺さずに、筆はゆっくりと硯へと戻っていった。

純白の海の上に、「愛」という文字が生まれた。

その一連の様子を食い入るように見つめていた妻が、両手をぱん、と合わせた。

「いただきます」

 妻は左手を伸ばして、「愛」の一画目の入りのところを親指と人差し指でちょいとつまむ。そのまま、ゆっくりゆっくり手を上に持っていき、半紙から「愛」をぺりぺりと剥がしていく。

本来「愛」という字は点などが離れているが、微妙に墨を残しながら書くことによって全ての部品が一つに繋がっている。 

妻の左手に従って「愛」は半紙と独立していく。

しまいには、ぺろんと「愛」という漆黒の世界だけが宙に現れる。

そのまま左手を高くあげ、妻は顔を上に向ける。そして、大きく口を開いた。

 妻は「愛」の最後の払いの部分を、はむ、と唇で挟む。

 大きな生ハムを食べるように、妻は器用に唇を動かしながら「愛」を口の中に入れていく。

「愛」が完全に口の中に入ると、ゆっくりと咀嚼をする。僕の「愛」が妻の歯や唾液によって分解され、妻の血肉となっていく。

 じっくりと咀嚼してから、ごくんと「愛」を飲み込む。

「どうでしたか」

 僕は聞く。うーん、と妻は考える。

「概ね良いお味だけど、中の『心』の味が雑かも。ハネを疎かにしたな」

 妻の品評はいつも厳しい。

「明日はもっと甘い文字が食べたいな」

「『糖』とか?」

「甘い言葉が甘いとは限らないぞ」

「世界で君が一番綺麗だよ、とか?」

「それはもはや甘いっていうか気障っていうかダサい」

 妻は笑う。僕も笑う。

 明日は、どんな文字を召しあがってもらおうか。

 僕は、明日穢される純白のことを考えながら、土曜日の昼の日差しに目を向けた。

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