それが恋文になるまで
上質なジャケットとワイシャツを纏った
俯いた顔には影が滲んでいる。角ばった眼鏡の位置をゆっくりと直し、また手を膝の上に戻した。その姿をダイニングの灯りが照らす。
「砂糖は入れますか?」
「いや、必要ない」
低い声が静謐な室内にこぼれる。時計は二二時を周り、窓の外はどっぷりと暗い。
「夜分遅くに申し訳ない」
「いえ、とんでもない」
敦路はコーヒーを口に含み、どうにか仕事の疲れを誤魔化す。
「それで、和泉さんに関するお話というのは」
敦路が切り出すと、和泉の父親は顔を俯けたまま、一瞬唇を噛んだ。
「すまない。どこから話せばいいか、整理ができていないんだ」
もう一度、眼鏡を直す。
「和泉が死んだ」
唐突ではあったが、敦路の頭の中には現実的な選択肢としてすでにその言葉は用意されていた。できるだけ表情を変えずにコーヒーを飲む。
「驚かないのか」
「最悪のことは考えていました」
「手紙が途絶えたからか」
「えぇ。忙しい時期は一ケ月に一通ほどの頻度になることはありましたが、それ以上手紙が絶えることはありませんでした。もう文通など流行らないことに興味を失ったのかな、と希望的観測を持ってはいたのですが」
「そうか」
そこで初めて父親はマグカップを手にした。
「私と和泉の関係はどこまで知っている」
「深くは知りません。ただ、一度だけあなたに対して言及していた記述がありました。『父はいません。私は、父を捨てました』と」
「捨てた、か」
「僕もその記述が気にはなりましたが、深くは追求しませんでした。別に、お互いの人生を暴くために文通をしていたわけではありません」
「そもそも、なぜ君と和泉は文通を始めたんだ。文通など、時代錯誤とも言えるのに」
「和泉さんが持っていた僕からの手紙は読んでいないのですか?」
「あぁ。君の住所を見ただけで、中身は見ていない」
「きっかけはネットの文通掲示板でした。文通をしたい人がそこに書きこんで、相手からの返事を待ったり、こちらから興味のある人に話しかけて文通を申し込む、そんな場所です。僕は学生時代から
「それで、返事を寄こしたのが和泉だったというわけか」
「そうです。和泉さんとの文通のほとんどは惟徳についての対話です。簡単な自己紹介は交わしましたが、お互いの身の上話を長々とすることはありませんでした」
「直接、和泉と会ったことは?」
「ありません。お互い、会うことを目的として交流していませんでした。交流のほとんどが文学の話で占められていましたから」
「そうか」
父親は、コーヒーを一口飲み、咳払いをする。そして、顔を上げた。
「和泉は一四年前に私たち夫婦の元から姿を消した」
眼鏡の奥に見える父親の瞳には、ただならない輝きが秘められた。何かを渇望する、輝き。その輝きが敦路の瞳を捉えて離さない。
「和泉は、私の知人の長男と結婚することが決まっていた。それこそ、大正昭和の時代だったら当たり前だろうが、親の決めた縁談だった。私も北海道でちょっとした商売を営んでいてね。その主要な取引先でもあったんだ。さらに事業を拡大していく上ではその知人との関係を深めておくべきだったし、何より娘の生活が保証できた。だが、結婚式の一週間前、娘は忽然と姿を消した。なんの兆候もなかった。いつもと同じ朝だった。いつまでも部屋から起きてこないから家内を部屋にやったときには、すでに部屋はもぬけの殻だった。服が僅かになくなっていただけで、その他のものはほとんどそのままだった」
敦路は父親の話を聴きながら、和泉が記した文章を思い返していた。
和泉の文章は常に美しかった。惟徳の文学に対する分析も的確であり、その分析をはっきりと文章におこすことができた。書き手である和泉と、読み手である敦路の間に齟齬などないように敦路には感じられた。
「当時は娘が失踪した理由は一切わからなかった。娘が歩むべき人生は華やかなものに間違いなかったのに。裕福な暮らしの中で、子どもをもうけ、家庭を築いていく。その華やかな未来を捨てて、私たちの前から姿を消すだけの合理的な理由がまったく考え付かなかった」
和泉の文章に、父親から姿を消さざるを得ないほどの影を見出すことは、敦路にもできなかった。和泉の人生と、和泉の文章がうまく重ならない。
「しかし、失踪から一年、二年と経つうちに徐々にわかってきたんだ。失踪するまでの二四年間のことを考えてたらな。幼稚園から大学まで、全ての進路は私が決めた。付き合う友人にも口出しをした。異性交遊などもってのほか。大学で学ぶ学問も、就職先も、人生の伴侶も、全て私が世話をした。私は娘のためを思って動いた。娘が幸せになるためには、私が全ての道標を示すべきだと思っていた。しかし、それは娘にとっては桎梏にすぎなかった。娘は、私から解放されたかったんだ。そう考えれば、全ての説明がついた」
父親は、淡々と話した。視線も動かさず、抑揚もつけず、懺悔する様子もなく、ただ話し続けた。
「三ケ月前、警察から連絡があった。娘さんが、病院で息を引き取りました、と。乳癌だった。あとから主治医に聞いた話だと、癌が見つかったときにはもう手の施しようがなかったらしい。葬儀も終わり、遺品整理をしているときに、君との手紙が大量に出てきたんだ。何通も何通も。最初は恋人と交わした手紙かとも思ったが、それにしてもやはり時代錯誤だ。なんらかの理由があると思ってね。だから、差出人の住所をたどってここまで来たんだ。娘自身が選んで交流をしていた人間が、どんな人間なのかを見たくてね。思っていたよりも若かったな。娘よりも年下だろう」
「今年で三一になります」
「七つも下か」
父親は、そこで視線を敦路の瞳から外した。
「この一四年間、娘は幸せだったのだろうか」
少なくとも、敦路には和泉は幸福の中にいるように感じられた。惟徳の文学だけではなく、和泉は幅広い文学を嗜んでいた。現代のミステリを読んでいたかと思えば、『讃岐典侍日記』のような平安日記文学にまで手を伸ばすときもある。様々なジャンル、時代の文学から得たものを、また惟徳の文学に援用し、比較し、そして新しい惟徳の像を見つける。その極めて実証的な方法からは、活き活きとした姿が想像できた。会ったこともない和泉が図書館で、喫茶店で、自室で文学を楽しんでいる姿を、敦路はいつも手紙を読みながら思い浮かべていた。
「僕も、わかりません。たぶん、和泉さんにしかわからないことだと思います」
「私を、今でも恨んでいたのだろうか」
「それも、わかりません。ただ、お父さんへの恨みの念は、文章の中からは全く読み取れませんでした。それは確かです」
「そうか」
「手紙、読まれますか」
父親は、少しの時間を置いて小さく頷いた。
空になったマグカップを手に持って立ち上がり、キッチンに片づける。そのまま寝室のクローゼットに入っている手紙の束を手に取った。百通にも及ぶ様々な手紙は、ずしりとした重みを掌に感じさせる。
ダイニングに戻り、父親の前にそっと置いた。
「これが全てです。最初の手紙から、最後の手紙まで、全て保管してあります」
父親は目を見開いて、その手紙の束を見た。そして、束ねてあった紐をほどき、一番上の手紙を手に取る。
「読んでも、いいですか」
敦路は小さく頷く。
ごつごつとした手で、ゆっくり封筒を開き、中から便箋を取り出す。和泉はいつも和紙で出来た縦書きの便箋を好んで使っていた。万年筆で書かれた文字は、美しさの中にどこか可愛さを感じさせる。流れながらも、丸みを帯びた字。父親は、和泉の遺した文字に視線を落とす。
秒針が進む音だけが部屋に響く。時は容赦なく進む。容赦なく進む時の中で、父親はその時計の針をぐるぐると過去へと戻そうとする。敦路の目には、そう映った。
「娘の字だ」
父親はぽつりと呟く。それまでの重みのある声とは違い、か細く、震えるような声。
「娘の言葉だ」
便箋を持つ手が震える。
「娘の、心だ」
じっと、手紙を見つめる。
「和泉」
父親は、娘の名を一度呼んだ。俯いた頬に、一つ滴が流れた。
それから、父親はひたすらに手紙を読み続けた。上から順番に手に取っては、開いて読み、また新しいものを繙く。時折眼鏡を外し、ジャケットの袖で目を拭いながら。敦路はリビングのソファに移動して、ビューティフルハミングバードのアルバムを小さな音量で流した。優しい歌声と、夜の静謐さが混ざり合う。父親の体は、ここに来たときよりも縮んだように見えた。ただ、父親の中はそれとは逆の状態になっている。敦路は夜に耳を傾けながらその光景を眺めていた。
時計の長針が二周したところで、父親は手紙の束から顔を上げた。そして、息を大きく吸う。
敦路は音楽を止め、またダイニングへと戻った。
「君には礼を言わなければならない」
父親の目は赤くなってはいたが、声はまた重みのあるものへと回復していた。
「不思議だ。ただ文字を追っていただけなのに、娘とたくさん話をしたような感覚になった。こんなに娘の話を聞いたのはこれが初めてだ。それも、君のおかげだ。ありがとう」
「僕はただ、文通をしていただけです」
「君がよければ、是非この手紙を私に譲ってほしい」
父親は真っ直ぐ言った。
「娘はもう戻って来ない。だが、この手紙の中には娘が確かに存在する。娘の心を、是非とも近くに置いておきたいんだ。頼む」
父親は、頭を下げる。
もちろんです。娘さんを、家に帰してあげてください。
敦路は二つ返事でそう言うつもりだった。
しかし、口が動かない。声を出そうとしない。
頭を下げている父親に心から同情しながら、手紙を手離そうとしない。
「申し訳ありません」
父親は、顔を上げる。
「手紙は、お渡しすることはできません」
敦路ははっきりと言った。
もう、和泉からの手紙が届くことはない。
惟徳の文学について、議論することはもうない。
図書館の中で本を漁る和泉は、この世にはもういない。
この手紙を手離したら、僕の元から、和泉がいなくなる。
それらの言葉が敦路の頭に駆け巡った。
「和泉さんを、手離すわけには、いかないんです」
手紙にはありふれた言葉しなかった。
文学に対するひたむきな想いだけが綴られていた。
しかし、その交流はいつしか、敦路にとってはなくてはならないものになっていた。
和泉の言葉が大きくしたものは、父親の体の中だけではなかった。
「申し訳ありません」
僕は、和泉に恋をしていたんだ。
目の前にある恋文の束を見ながら、敦路は思っていた。
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