織り織る織られるあゝかひぶ

神楽坂

死にゆく今日にピアノを

 どうした、少年。

 旋毛の上から声が降ってきたので顔をあげると大きな荷物を背負った人が立っていた。

 座っている僕を、その人はじっと眺めている。その人は黒い衣服と黒いハットを身につけていて、真夏の影のように黒かった。

 泣いているのか、少年。

 静かな声。風で揺れる木々が擦れる音で掻き消されそうになるほど、その人の声は静かだった。

 泣いてない。僕は強がった。

 どうしてこんなところで座ってるんだ。じきに夜になるのに。山の中にいたら危ないだろう。

 帰りたくないんだ。

 どうして。

 僕は黙った。昨日、鼻の頭にできたばかりの真っ赤なにきびがじんじんと痛む。

 まぁいい。時折帰りたくなるのが家というものだ。吾輩もそういう年頃があったような気もする。

 よいしょ、と言ってその人は背負った荷物をずしんと降ろした。

 そういうときは無理矢理帰らない方がいい。安心しろ。吾輩がついている。

 その人は、どこからともなく取り出した丸椅子に腰かけた。

 その荷物はなんなの。

 とても大きい、木製の箱。隅には細かい模様がつけられている。

 あぁ、これか。気になるか。

 小さく頷く。 

 その人は、くるりと箱の方を向いた。箱の一部分をぱかりと開く。

 白と黒の鍵盤が並ぶ。ピアノだった。

 どうして、ピアノを背負っているの。重くないの。

 重くない。生きている子どもを背負うのと死んでいる子どもを背負うのでは全然重さが違うだろう。それと同じだ。全然重くない。

 僕には何が同じなのか全くわからなかった。僕は死んだ子どもを背負ったことはない。この人は、死んだ子どもを背負ったことがあるのだろうか。

 良い夕暮だ。太陽の光が空に滲んで、夜の冷たさが迫ってくる。吾輩はこの時間が好きだ。今日が死にゆく、この瞬間が。

 その人は、鍵盤に手を置く。すっと鼻で息を吸ったかと思うと、音がぽつりと聴こえた。

 最初の音につられて、ぽろぽろと音が引きずり出てくる。一つ一つの音が、丸くて、可愛らしい。それぞれの音が、木の葉に反射して、散ってはまた降ってくる。

 その人は、流れるようにピアノを弾いた。体の動きは滑らかで、細い腕はしなやかに鍵盤を撫でている。閉じられた目はひそやかで、慎ましい唇はわずかに綻んでいる。ハットからわずかに零れる前髪が、腕がしなる度に、揺れる。

 息を吸え、少年。音を吸うんだ。

 その人の声がする。僕は口で大きく呼吸をした。たくさんの空気が入ってきて、肺を満たす。肺の中で、音符がぱちぱちと弾ける。目を見開いて、僕は見る。

 風が吹く。木々が揺れる。風の音と、木々の音がピアノの音たちを繋いでいく。木々の揺れと、その人の体の揺れが同調する。僕の体も、自然と動き始める。

 混ざる。混ざる。どんどん混ざっていく。僕と、その人と、ピアノと、光景が。

 最後の音がぱちりと弾けたときには、もう夜が空を満たしていた。どれくらい時間が経ったのだろう。その人の体も、半分は夜の中に溶け込んでいた。でも、ピアノの暖かさは、そこにほんのりと灯っている。

 ありがとう。

 僕は言った。それしか、言葉が出てこなかった。

 いいんだ、言葉なんて。その人は言った。

 そろそろ帰ろう。お前には、帰る家があるのだから。

 おじさんにはないの。

 吾輩は、これが家だ。

 そっと鍵盤に手を置く。

 その中に入って寝るの。

 おもしろいことを言うな、お前は。その人は笑った。

 留まるだけが家ではない。営めば、そこが家になるんだ。

 その人は丸椅子から立ち上がって、鍵盤の蓋を閉じた。

 今の曲、なんていう曲なの。

 音楽に名前などない。強いて言うなら、音楽という名前だけあれば十分だ。

 よいしょ、とその人はピアノを背負う。

 ではな、少年。立派になれ。

 その人は、僕に背を向けて、山を登っていった。

 まるで、ピアノが一人でのしのしと歩いているように見えた。

 もう一度、深く息を吸ってから、山をゆっくりと下り始めた。

 ごめんなさいと言おう。

 僕の心の中には、いつまでも音符がぱちぱちと弾け合っていた。

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