第5話 ポーンとして生きる

 僕はポーン。とある町の古い映画館で働くしがない映写技師だ。


 しがないといっても、ただの映写技師ではない。上映中も『探偵学入門』を読みながら日々勉強をしている、シャーロック・ホームズもびっくりの探偵志望の映写技師だ。

 ときどき居眠りしてしまうこともあるけれど、それは仕方がない。何しろ探偵としても映写技師としても修行中の身なのだ。少しくらい居眠りだってしたくなる。


 いつだったか、田舎町にあるこの映画館で、映画業界を巻き込むほどの大騒動が起きたことがある。

 そのころ毎日のように映画館に通う女性がいたのだけれど、彼女はいつもの席に腰かけて、いつものように好きな映画スターを探しては、いつもの映画を夢中になって見ていたっけ。

 彼女がそのころ夢中になっていた映画はたしか……そう、『カイロの紫のバラ』


「伝説にある“カイロの紫のバラ”を探しに来た。ファラオがお妃に贈ったバラが墓の

中で咲くって」


 主役の探検家トムはたしかそんな台詞を言っていた。

 ところが問題はそのあとだ。なんとトムはスクリーンという見えない壁をやすやすと飛び越えてきてしまった。僕も観客も目を疑った。こんなことあるわけないって。中には失神するお客さんもいたほどだ。

 探検家トムはスクリーンの中から突然女性に向かって話しかけたんだ。


「君、この前も来ていたね。そんなにこの映画が好き?」

「私のこと?」

「そうだよ。これで5回も観てる」


 きみと話したい、とトムはスクリーンから飛び出して、彼女の手をひいて駆け出した。のはいいんだけど……。


 あぁ、あのときは大変だったなぁ。もうしっちゃかめっちゃか。でもいまになって思えばなんだか懐かしい。


「あなたは夢の世界の人なの。夢には惹かれても、現実を選ぶしかないの」


 彼女はいつかそう言っていたけれど、それでも僕は最後に見た彼女の瞳の輝きが忘れられないんだ。

 彼女の瞳に映る、きらきらした、楽しげで、夢のような世界。それを見つめる彼女がいたのは、どこにでもある照明の落ちたうす暗い映画館の観客席だったけれど。

 うす暗い世界で銀幕のむこうを見つめる彼女の瞳には、ぽっとあかりが静かに灯ったような、どこか力強いたしかな輝きが、見えた気がしたんだ。――



 僕はポーン。探偵志望のしがない映写技師だ。でも、本当は知っている。僕はただのその辺の猫だってこと。そしてこれが、僕の夢の世界だってことも。


 僕はポーン。よく夢を見る。でも本当は知っている。現実は残酷だ。平気で夢を打ち砕く。どんなに美しい夢であろうとも、最後にはくっきりハッキリした現実が、あいまいで夢見心地な気分を一瞬で追い払ってしまう。それでも夢を見るのはなぜだろう。それでも世界が美しく見えるのはなぜだろう。


 僕はポーン。他の誰でもない。夢は覚めると知りながら、それでも僕は夢を見る。

 なぜなら僕は、生きているから。


 どこか憎めない、この愛すべき世界で僕はいま生きている。いいとこばかりでないことは知っている。光と闇のいりまじる場所であることを知っている。それでも、一歩さがって見わたせば、光しか知らなかった淡い世界よりはるかに色鮮やかに見えるんだ。


「ポーン、ポーンてば……」


 ほら、誰かが僕の名前を呼んでいる。そろそろ夢から覚めなくちゃ。

 あの愛すべき懐かしい世界が僕を待っているから。

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ポーンの『探偵学入門』 数波ちよほ @cyobo1011

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