第6話 夢のはじまり

 涙がこめかみをつたう。その温みで目が覚めた。

 視界の半分は小屋の張り出した屋根。半分には星が褪せてゆく、白みはじめの空が映る。耳に聞き慣れた波の音。

 わたしはゆっくりと身を起こし、立ち上がる。ヤスの小屋の外縁だ。

 小屋を見ると、確かに引き剥がしたはずの扉の打ち付けは、ボロボロのまま固く扉を閉ざしている。

 まるで、何も起こらなかったかのようだ。

 潮風がゆるく体をなぶる。服を脱いで泳いできたので、今は下履き一枚の姿だ。腕も脚も、胸も腹も朝の青い空気に触れて、少し肌寒い。小さな子どものように頼りない気持ちで、目元をこする。

 何かをなくしてしまった、と思う。なくしたものの名前は分からなかった。

 縁側を軋ませて歩き、小屋の周りを周る。海は遠くの方から太陽に光り始めている。

 足元を見て、花が、と気づいた。小屋の外縁の波をかぶる場所に、いくつもの花が流れ着いて引っかかっている。まだ鮮やかな色形を保つものもあれば、すっかり色あせ、こびりついているものもある。小さな魚たちが、戯れるように花の骸をつつき、ひらひらと身を隠す。祖母の花だ。数え切れぬ明け方に、祖母が流した花が、波間を越えてここへたどり着くのだ。きっとこの静かな朝にも。

 なんども夢見た、カホ、と呼ぶ声を、もう思い浮かべることはできなかった。

 この小屋は呼び続ける。サホの名を。この小屋の主が、幾度もそうした通りに。

 なくしたのは、わたしの幼い夢?

 サホとカホをとりちがえた、小さなわたし?

 おおーい、カホ、と呼ぶ声が耳に届いて、首を巡らす。まだ青白い夜明けの桟橋に、カガイがいた。そちらに手を振ると、カガイは迷いなく海に飛び込む。

 冷たい潮を危ぶんだが、カガイは何の苦もなく、波をなめらかに切って泳いでくる。まるで海の獣のようだ。わたしはそれを、立ち尽くして待つ。わずかに冷たい潮風になぶられながら、わたしに向かって泳ぐ、<ヤス>でないカガイを待つ。太陽の光がここまで届いて、海面が輝き出す。

 カガイが泳ぎ着いたら、どんなふうにその名を呼ぼうか、と夢想した。すこし甘い気持ちになった。

 波の音のように呼べるだろうか。穏やかに、ひそやかに、いつまでも耳に残るように。

 カガイが足元に泳ぎ着いて、つやつやと光る上半身を縁側に乗り上げ、子犬のように首を振って水気を払う。飛沫がかかって、わたしは声を上げて笑う。

 夜明けの青がうすらいで、だんだんと朝の、金色の光があたりを満たす。

 カガイ、と呼ぶために、くちびるを開く。

 ここから、わたしの夢が始まる。

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ヤスの島 @yukitorii

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