第4話潮風に乗せた声
チェックアウトの朝、私は朝食会場にて初めてスタッフに話しかけてみた。
「お世話になりました。ありがとうございました」
緑茶やご飯、味噌汁まで温かい状態で提供してくれたのだ。お礼を言うのは当然のことだった。
それでもスタッフにとっては驚くことなのだろう。
二回ほど瞬きをし、慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
清算の際もフロントにも礼を言った。
「素晴らしいご滞在になったようでございますね」
さすがはフロント、突然の変化に動揺などしていない。領収書を手渡す動作に落ち着きがありスムーズだった。
ホテルを去ると、駐車場に絢子さんの車があった。
「息子は今日仕事でね。よろしくって言っていたわよ。たびら平戸口駅まで送っていくけん、乗って」
「では、お言葉に甘えて。でもその前に寄りたいところがあ……」
「よかよ」
絢子さんの高い声が私の語尾を掻き消した。
「おお、いつぞやの旅の方! 今日も来てくれたということは、うちのカスドースば気に入ってくれらしたとばいね」
二日前と変わらず乾いた声を張った。さとやの店主は私の来訪を想像以上に喜んでくれた。名前こそ教えなかったが、顔を覚えていてくれた。
「ま、まあ……」
正直に言うと、カスドースはブラックコーヒーと合わせても甘さが残るほど濃厚なので私の好みではない。
それでも私は五個入りのカスドースを購入した。
これを口に含むと、福岡市に戻っても平戸にいる感覚を味わえるのかもしれないと期待したからだ。
「さとや」の前に留めていた車に乗り、私と絢子さんはもう一軒の店を目指した。
海岸沿いではなく、西洋風の街灯が並ぶ町の中を走った。
足湯と反対側の通路に駐車すると「うるしや」の奥さんが外を覗いていた。
奥さんはこちらに向かって店を飛び出した。
「あら! あらあらあら! 万田屋さん、どうしたと? 久しぶりねぇ」
「漆屋(うるしや)さんこそ、元気にしとる?」
どうやら絢子さんと「うるしや」の奥さんは目が合ったようだ。助手席に座っていた私ではなく。
無理もないことだった。町の中を走り海岸に向かって駐車すれば、私は運転手の絢子さんに隠れてしまう。
世間話が長引き、電車の発車時刻に遅れるかなと思っていた。ため息をこぼすと「うるしや」の奥さんが私の存在に気付いてくれた。
「あら、あなたは一昨日の! もしかして、今日が出発ですか? あ、でもどうして万田屋さんと一緒に……?」
不思議そうな眉尻を下げても、奥さんの声は高かった。
誰か高音を低温に変える機械を開発してくれないかと思うほどだった。
私は頬に手を当てるふりをして、人差し指の腹で耳の穴を塞いだ。
「それがね、漆屋さん。こん人、うちの親戚だったと! ほんと、驚いたばい」
両手で片耳を塞ぎたくなる日が来るとは思いもしなかった。
それほど、絢子さんの声も高温に同調していた。
「あ、あの……」
私は世話になったお礼を言うためにここまで連れて来てもらった。それなのに、私は言い出せずにいた。
それほど、中年女性同士の会話は間に入り込みにくい。
腕時計を見ると、この場に駐車して十分は経過していた。平戸大橋を渡り電車に乗るまでに十分な時間の余裕はあった。それでも私は交通渋滞のことを考えてしまう。長閑な町に住んだことがないからかもしれない。
何か打開策はないものかと思った矢先だった。「うるしや」の奥さんが私に声をかけてくれた。
「ごめんなさいね、話し込んで。平戸ってね、車が中心の生活だからご近所でもなかなか会わないのよ」
「はあ……」
「それにしてもこうしてまた会えてうれしかですね。ご出発の前に明るい表情に変わっているのだから、なおさら」
「明るい? 私がですか?」
意外な言葉に、人差し指の腹が耳の穴から離れた。私はもう一度尋ねた。私が明るいのかと。
すると「うるしや」の奥さんは骨が折れそうなほど大袈裟に首を縦に振った。
「言っちゃ悪いけれどね、この前のあなた、死人みたいだったじゃない。平戸に何を求めていらしたのかしら、って気になっていたんですよ」
たった一度会っただけの旅人を、ここまで想ってくれるのかと、目頭が熱くなった。
口を開くと涙が溢れるかもしれない。私は何も言わず、車内で頭を下げた。
「大丈夫?」
絢子さんが肩を軽く叩いた。私はやはり何も言えず、繰り返し首を縦に振った。
「またいらしてね」
「うるしや」の奥さんが手を振ってくれた。
そのとき、店内に控えていた「うるしや」の主人が外に出てきた。
徐行で少しずつ店から離れていく車を、見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
「どうしたの? 具合でも悪くなった?」
店を離れても項垂れる私を、絢子さんまで心配してくれた。
「……ち、違うんです。ただ、すごく嬉しくて」
「そう? ならばよいけれど。あとは寄るところはない? 平戸大橋に向かいましょうか」
「はい」
顔を上げると、涙が頬に伝った。堪えきれなかったようだ。
涙を指先で拭い、日の光とともに最初に見えたのは、女性をかたどった石造だった。
「あれね、知っとる? じゃがたら娘の像といって、正面の海の向こうにインドネシアの首都、ジャカルタがあるらしいの。知っていると思うとけど、じゃがらら娘の追放先のことね」
「じゃがたら娘……」
私は見たことのない女性ではなく、若いころの祖母の後姿を想像した。
母が生まれてからも、その前、アメリカ人男性と別れたばかりのころも田平町まで出向いたのではないかと。
何も知らなかった私と違い、祖母は生涯故郷に戻ることができなかった。実在するじゃがたら娘のように。
「さあ、ほんとに行きましょうか」
絢子さんは時速四十キロに加速した。
瞬く間に祖母の姿は遠くなった。いよいよ現実に戻るときが来た。
私はこれから福岡市で人生をやり直していく。
再就職をするかもしれないし、あるいはフリーランスで働くかもしれない。
どちらにしても、私は何度でも立ち上がってみせる。祖母のようにたくましく。
大丈夫、私はできる。
祖母の生涯を綴った布手紙がある。
「さあ、平戸大橋を渡るよ」
「はい」
情熱の朱色のアーチをくぐると、晴れ空が一層眩しくなった。
同じ橋なのに、最初の印象からここまで変わるなど、想像もしていなかった。
平戸大橋の長さ、四百六十五メートルを通り過ぎるのも速く感じた。
印象だけでなく、私自身も変わりつつある証拠だ。
「また、来(く)っけん」
わざと、絢子さんに聞こえるように言ってみた。案の定、聞き返された。
「え? なんて?」
「いえ、何でもありません」
「そう? 今、ようやくのり代さんの口から長崎弁が聞こえてきたとばってん」
絢子さんはしっかりと聞いていたようだ。
車の運転だけに神経を囚われていないところから、さすがに鳴れていると思った。
「気のせいですよ」
「そう?」
笑って見せたとき、私の涙はすでに乾いていた。頬の熱が引いたことで分かった。助手席のサイドミラーで確認するほどではない。
絢子さんは一秒だけ横目で見た後、再び前方に視線を戻した。
私も、視線を車窓に移した。
大きな渦を巻く平戸瀬戸の海がキラキラと輝いている。窓を開けると、潮風が身に染みた。
三泊四日の旅は、貿易港の声で締めくくられた。
平戸コイシヤコイシヤ。
貿易港の声 加藤ゆうき @Yuki-Kato
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