青ではなく、藍

吉津安武

青ではなく、藍

 白い壁が突然、出来ていた――いや、壁ではない、淮海路で見たのと同じような白い覆いが、ぱっと見た限りでも趙丹(ジャオ・ダン)の家の左隣の家と、斜めむかいの家、奥の角にある家、そのむかいの家の四軒を覆っていた。

 淮海路に出かけて戻って来るまで一時間ほどしかたっていなかったが、その間にどうしてこのような作業が完了できたのか、趙丹は甚だ理解に苦しんだ。それぞれ工事現場によくある足場ができ、その周りに白い網目の布が張り巡らされている。だが職人などはどこにもいず、四軒ともいやにしんとしていた。

 いったいどうなっているのか。趙丹は自宅の左隣の方家に行って事情を尋ねることにした。主人の方宜(ファン・イー)は中学の国語教師をしている。映画俳優の趙丹とは本来ならまったく異なる人種であったかもしれないが、近所でもあり、たがいに本好きでもあったので、それぞれの職業を意識することなく親しくしていた。

「どうもこんにちは。あの、ちょっとお尋ねしたいんですが、家の近所がみんな白い布で覆われてますけど、これはいったいどうしたことでしょう?」

 いつもとは異なり、少し不安げな表情で方宜は答えた。

「・・・・・・それは・・・・・・」

 そのとき、ちょうど誰かが玄関のベルを鳴らした。

「・・・・・・帰ってください」

 なぜかひどくうろたえたようすの方宜に、趙丹は追い出されたかたちでその場を後にした。仕方なく他の三軒も訪れたが、結果は同じだった。

 こうした異変について、趙丹は家から歩いて三十分ほどの距離にある鄭君里(ジェン・ジュンリ)を訪れて話し合ったが、新しいことはなにもわからなかった。

 そこで二人で映画協会の建物を訪れたが、日曜日のせいか閉まったままで収穫はなかった。ついでに昨日錦江倶楽部に姿を見せなかった気になる二人――脚本家の魯漠(ルー・モー)と、プロデューサーの夏雲湖(シャ・ユンフー)の自宅をバスに乗って訪れてみたが、両方とも留守だった。




 一九六五年七月三日土曜日。中華人民共和国、上海。

 映画『河魂』の授賞式に呼ばれたベテラン俳優趙丹は妻とともに茂名南路の錦江倶楽部を訪れたが、会場である二階の大ホールに入るなり唖然とした。

 誰もいないのだ。

 天井の蜂を思わせるアールデコの照明が、冷房のきいた室内に琥珀色の光を薄ぼんやりと落としているばかりである。

「場所も時間も合ってるわよね?」

 妻で共演者の黄宗玲(ホワン・ゾンリン)が言った。二人で訝しげに辺りを見回す。授賞式というからには当然あるべきはずの舞台もマイクも用意されていなかった。テーブルと椅子は並んでいるが花も名札も置かれておらず、授賞式の看板さえどこにもない。

「おかしいわ、開始十五分前なのに。変更があったら連絡があるはずでしょう?」

 二人は困惑して顔を見合わせた。結婚して二十年近く、たがいに信頼し合っている夫婦である。

「明かりはついているわけだから、とりあえず三時まで待ってみよう。僕らは徒歩で来たが、どこかで交通事故でもあって、みんな遅れているのかもしれない」

「そうね」

 夫婦はひとまず手前の椅子に腰を下ろした。共産党体制下だけに二人とも地味な人民服を着ているが、その容貌にはさすがに華がある。黄宗玲はきらめく目と艶やかな唇を、趙丹はさわやかな笑顔の似合う顔をそれぞれ五十代になる今まで維持し、かつ年を重ねた分の滋味を加えていた。

「ああ、涼しい、この部屋」

 今日もどんより垂れ込めた梅雨空を窓から眺めて黄宗玲が言った。

「冷房があるとは。さすが高級幹部用の倶楽部だけあるな」

 一九六〇年代、冷房は科学技術の進んだアメリカでもまだ珍しかった。まして技術の遅れた中国ではなおさらで、映画俳優とはいえ一般人民と同じ暮らしをしている夫妻には縁のない代物だった。

「まあ、ここは涼むにはちょうどいいわね」

 そのとき、ふいにドアが開き、ひとりの男が入ってきた。

「趙丹。やあ、奥さんも」

 呼ばれてふりむいた趙丹はほっとした顔になって言った。

「君里、来たか」鄭君里は『河魂』の監督で三十年来の親友である。

「ああ、少しギリギリになったが」

 鄭君里は額のぬけあがった、いかにも賢そうな顔をむけ、信じられないといったようすで言った。

「・・・・・・君たちだけか?」

「そう、ご覧の通りだよ。どこかで事故があったようなことを聞いてないか?」

「いや。バスで来たが道路は普通だった。そうか、みんなまだか」

 『河魂』のメンバーはあと四人ほど招待されていた。

 その後、撮影技師の王春泉(ワン・チュンチュアン)と映画音楽担当の譚友五(タン・ヨウウ)の二人は到着したが、脚本家の魯漠とプロデューサーの夏雲湖は開始時刻の午後三時が過ぎても来なかった。それどころか授賞式を主催する側の人間すら一人も現れていない。

「どう考えても変よ。この時間になっても、私たちしかいないなんて」

「そうだな。授賞式には報道陣や批評家連が大勢つめかけるはずなのに、一人もいないのはおかしい」

 五人は顔をつき合わせて言い交した。皆三十年来の仲間だから言葉に気は使わない。

「こうなったら、誰かに聞くしかないな」

 そう言って皆でホールから廊下に出ると、すぐに制服を着た服務員(フーウーユアン・・・従業員)が目に飛び込んだ。五人に背中をむける形で雑巾を持ち、手すりを磨いている。

「すみません。今日三時からそこのホールで映画協会の授賞式が行われると聞いて来たんですが、間違いないですか?」

「・・・・・・」

 趙丹の問いかけに対し、服務員は答えるどころか、振り返りもしない。

「あの、聞こえてますか、服務員」

 肩を叩くと、四十歳前後の服務員はぎょっとした顔になり、脅えた口調で、

「私は服務員ではありません。ギャルソンです」

 そう言って走り去った。

「なんだあいつ」撮影技師の王春泉があきれたようにつぶやいた。

「ギャルソンだと? どう見ても中国人だが」

「そうよね。租界時代じゃあるまいし、今どきギャルソンなんて言ったら政府に目をつけられるでしょうに」

「租界か。上海の中心部はほんの数十年前まで外国の租借地だったっけ。フランス租界のほかにイギリスとアメリカの共同租界があったな」

「そうそう、租界では外国人が行政権を握っていた。思い出したくもない」

「だが清朝の半ばまで一漁村でしかなかった村を開港し、国際都市上海を作り上げたのが彼らってのは事実なんだよな」

「わかってるさ。おい、みんな、歴史の話なら後でしよう」

 趙丹が口をはさんだ時だった。階下から音楽が聞こえてきた。

「ピアノとヴァイオリンだ・・・・・・」

 音楽担当の譚友五がいち早く耳にとめて言った。

「一階のレストランの方からするようだが」

「あら本当。さっきまでは聞こえなかったのに。生演奏?」

 一同は耳をそばだてた。音楽に混じってグラスの重なる音、談笑するような声も聞こえる。

「党幹部が集まってパーティーでも開いているんだろうか」

 鄭君里が言うと、

「あるいは授賞式だったりして」王春泉が言った。

「だがみんな授賞式の会場は二階だと聞いているよな」

「ああ、でも本当は一階が会場だったとしたら? 主催者は俺たちを驚かせるために二階だと嘘をついたのかもしれないぞ」

 王春泉が明るい顔になって言った。

「きっとそうだ。俺たちが授賞式はないと思ってしょげて帰ろうとする所に、映画協会の会長が出てくる手筈にちがいない」

「でも天下の映画協会ともあろうものが、そんな悪戯めいたことすると思う?」

「とりあえず降りてみよう」

 趙丹を先頭に一行は一階のレストランの前まで移動した。音楽はたしかにそこから聞こえ、アーチ形の入口を覗くと、店内にはたくさんの人間がいるのが見えた。

「これはなんなんだ、いったい・・・・・・」

 趙丹は驚愕して目を見開いた。レストランにいる客が、英語やフランス語を話す白人だけだったからだ。つづけて覗きこんだ譚友五も開いた口がふさがらないといった顔で言った。

「白人しかいないなんて、信じられない。そもそも今の中国に資本主義国の白人がいること自体、ありえないはずだ。一九四九年に中国が共産主義国家になって以降、アメリカやイギリス、フランスの領事館は閉鎖され、外国人はこの国に自由に出入りできなくなったんだから」

「そうだ」鄭君里もうなずく。

「外国人が消えると同時に、ブルジョワ的な物は町から一掃されたはずだ。なのに、この店の中ではフランス人とおぼしき女性が音楽にあわせて華麗なドレスをひらめかせ、タキシードを着た伊達男とフォックストロットを踊っている・・・・・・」

「ソ連人かもしれない」譚友五が言った。

「ソ連は中国と同じ共産主義国で国交がある」

「それならわかるが、ロシア語らしき言葉は聞こえない。英語とフランス語ばかりのようだぞ」

 王春泉はたまりかねたようすで受付の中国人女性に聞いた。

「お姐さん、ちょっとお尋ねしたいんですがね、このレストランはどうして白人だらけなんですか?」

 女は国を代表する俳優や監督に囲まれても愛想笑い一つ浮かべず、むしろ見下すような顔をして答えた。

「当店はいつも白人のお客様でにぎわっております」

「またまたあ」王春泉は笑って言った。

「錦江倶楽部はそんな場所じゃないよねえ?」

「ここは錦江倶楽部ではありません。フランスクラブです」

「え、フランスクラブ? それ、昔の呼び方じゃない。懐かしいな。僕たちが若かった頃、たしかにここは世界一のコスモポリタン・クラブとしてもてはやされていたよ。アメリカ領事や蒙古の王女なんかが会員でね。でもこの建物は十年前に共産党に引き渡されて以来、党幹部の利用する錦江倶楽部になったはずだろう?」

 王春泉はからかうように言ったが、女はそれには答えず、五人の中高年男女を胡散臭そうに眺めている。

「あなたがたはフランスクラブの会員ではないようですが、どうやってこの建物に侵入したのですか?」

 これにはさすがの王春泉も心外といった顔をした。

「ちょっと、いくらなんでも侵入は言い過ぎだな。僕たちは授賞式に招待されたんだよ。ほら、これを見てごらん」

「この招待状にある日付・・・・・なにかの間違いですよね?」

「どうして、『一九六五年七月三日』がなにかおかしいかい? 今日の日付じゃないか」

 王春泉がそう告げたとたん、女はひきつけでも起こしそうな顔をして言った。

「警備員を呼びますよ」

「ちょっと、どうして」

「今すぐ、あなたがた全員、この建物から出てください」

 五人は納得がいかないまま、建物から出て行くはめとなった。

「やれやれ、わけがわからんな」

「まったくだ。招待状を見せて犯罪者扱いされるとは」

「どうしてこうなったんだかな。受賞者としてもてなされるはずが」

「会場の錦江倶楽部は、この建物で間違いないはずだよな?」

「間違いないとも。それをフランスクラブだの、ギャルソンだの――」

 王春泉の言葉を黄宗玲が遮って言った。

「ねえ、警備員が来たわよ」一同は建物の玄関を振り返った。

「本当だ。さっきの姐ちゃんが知らせたか。おっと、守衛もこっちを睨んでる」

「一刻も早くここから立ち去れってことかね」

「悪いことをしたわけでもないのに悔しいな」

 五人はそう言いつつも門を出た。すると、

「おい、あれ見ろよ」王春泉が道路の標識を指さした。

「道路名の標示、さっき俺が通ったときは『茂名南路』だったのに。今は『Route Mercier・爾西愛路』に変わっている・・・・・・」

「あら本当。あれって、租界時代の呼び名よね・・・・・・」

 一同はしばし言葉を失った。『Route Mercier(中国名・爾西愛路)』は、彼らが今立っている道路がフランス租界に属した頃の呼び名だった。

「あの標識といい、フランスクラブといい、まるで三〇年代に戻ったみたい」

「いったい、どうなってんだ・・・・・・」五人は青い顔を見合わせる。

「俺たち、知らない間に時間移動しちまったとか?」

 王春泉が冗談めかして言ったが、鄭君里が即座に否定した。

「ここは一九六五年だ。人や車道を見たら一目瞭然」

 たしかに標識を除いては、一見すべていつもどおりだった。男も女も痩せた体に画一的な人民服を着、ほとんどが疲れた顔をして自転車をこいでいる。自転車のおかげで歩道はそれなりに人が多いが、車道は閑散としていて自家用車などはほとんど見かけず、公共バスやトラックがときおり過ぎていくばかりだ。すべてが共産党支配下の貧しい現代らしく、地味で野暮ったく下手に整然としている。おまけに所々に国家公安部に所属する人民警察官が直立不動の姿勢で立ち、監視している。

「とりあえず淮海路まで出て、むこうの標識が変わってないか、みんなで確かめに行かないか」

「そうしよう、それがいい」

 五人は交差点で、またも目をむいた。

「この道路も名前が変わっている・・・・・・」

『淮海路』の標識もいつのまにか『Avenue Joffre・霞飛路』になっていた。

「まったく、どうなってる」

 五人は辺りを見回した。

「ひょっとしたら・・・・・・これは党の僕たちに対する嫌がらせかもしれない」

 譚友五が言った。

「しっ。こんな所で滅多なことは口にするもんじゃないわ」

「そうだ、どこで誰が聞いているかわからない」

「大丈夫だよ、小声だし、周りを見ても誰も聞いていない。とにかく僕らは知る必要があるとは思わないか。錦江倶楽部に入ってからの、この環境の微妙な変化がなんなのかを。少なくとも授賞式がなぜ突然なくなったのかは知らなければならない」

「おまえはさっき、俺たちへの嫌がらせと言ったが、どういう意味だ?」

「当局は『河魂』人気を警戒して俺たちを潰そうと思っているのかもしれない」

「当局がなぜ『河魂』の人気を警戒する。『河魂』は反体制的な映画ではない。国民党時代に強制収容所に監禁された革命家が獄中で闘いつづける、という話なんだぞ」

「たしかに」鄭君里が同意した。

「『河魂』の制作に携わったというだけで、僕たちが当局の標的になったということは考えづらい」

「そのとおり」王春泉も加勢する。

「第一、俺たちに嫌がらせするために、錦江倶楽部をフランスクラブにしたり、道路を三〇年代の名前に戻したりするか?」

「すると当局はいったいなんのために共産主義社会にあってはならない租界時代の遺物を復活させるんだろう」

「ああ、わからん。いったいなにがどうなっている」

「俺たち以外の人間が標識を見てもちっとも驚かないのも疑問の一つだ」

 一同で首をひねっていると、趙丹が言った。

「思いきって直接聞いてみよう。そうしたらなにかわかるかもしれない」

 道行く人びとは声をかけてきたのがベテラン俳優の趙丹だと気づくと一瞬驚いた顔をしたが、なぜかすぐに脅えたような表情を浮かべ、質問をされる前に逃げて行った。

「これは絶対おかしい。いったい皆、なんに脅えているのか。なにが起きているというのか・・・・・・こうなったら直接当局に聞くしかない」

「え。当局に?」四人はぎょっとした顔になった。

「そうだとも。このままじゃ割りきれない。みんなだってそうだろう?」

「そりゃまあそうだが・・・・・・」鄭君里が困惑顔で言った。

「当局に直接当たる前に、まずは授賞式の件について映画協会に問い合わせるのが妥当だろう」

「それなら君たちは映画協会に当たってくれ。その間に僕は市公安局に行く」

 黄宗玲があわてて、

「ちょっとあなた、ひとりで公安局に行って道路の名前が変わった理由を聞くつもり? そんなことをしたら間諜扱いされて牢屋に放り込まれるのが落ちよ」

「奥さんのいうとおりだよ」鄭君里たちもなだめにかかったが、

「僕がいったん言い出したら止まらないのは知ってるだろ」

 趙丹はきかなかった。

「わかった。趙丹がそこまで言うなら僕も行く」

 鄭君里も覚悟を決めたようすだった。

「それなら俺も。監督と主演俳優が行く場所に撮影技師が行かないわけにゃいかない」

 王春泉が言うと、譚友五が、

「おい、カメラを持って行くなんて言うなよ。もちろん僕も行く。王が二人の邪魔するといけなから監視しないとな」

「こいつ。監視されるのはおまえの方だ」

「皆、ありがとう」趙丹はうれしげに言った。

「四人で行こう。宗玲、映画協会への問い合わせは君に任せる」

「わかったわよ。本当に仕方のない人たちね」

 黄宗玲は憤慨したようだったが、それ以上はなにも言わなかった。引き留めても無駄だと思ったからでもあり、どんなときも夫の意志を尊重することを信条としていたからでもあった。

 趙丹たち四人は公安局を訪れたが、やはりまったく相手にされなかった。

 黄宗玲は映画協会に電話しても応答がなかったので、淮海路にある協会の建物に行ってみたが、土曜の夕方のせいかドアが閉まっていて中に入れなかった。

 趙丹は諦められず、日曜日である翌朝、映画協会に問い合わせるために自宅の電話をとった。ところが受話器からなんの音も聞こえない。故障と思い、とりあえず電話業者に連絡するため、近所に借りに行った。ところがその家も同じ状況だった。

 淮海路に出ても、電話はどこも不通だった。ここ十年で一度もない事態が起きたにもかかわらず、誰も騒いでいない。どこで聞いても、「電話など、そのうち直る」と木で鼻をくくったような返事を返すばかりだった。


 明くる月曜日、趙丹夫妻の不安はさらに増幅した。

 いつもなら隣の方家からにぎやかな子どもの声が聞こえ、方夫人が馬桶(モードン・・・腰かけて使用する木製の便器)を外に出して洗う時刻になっても、その朝はなんの物音もしなかった。ただごとではないと感じて外に行った黄宗玲は、自宅に戻るなり夫に告げた。

「方さんのお宅、どうしたのかしら。ベルを鳴らしても誰も出なかったし、人のいる気配がまったく感じられないのよ。遠方の親族が急に亡くなったりして一家全員で夜のうちに出かけたのかしら」

「それだったら、置手紙でもあるんじゃないか」

「そう思って私、方さんの家と我が家の門前、両方探したけど、手紙らしき物はどこにもなかったわ」

「近所の誰も聞いてないのか?」

「それがさっき、むかいの家の奥さんたちに会って話したんだけど、みんな変なの。『そうね、方さん、いないわね』って言うだけで・・・・・・なんて言うのかしら、その話題は避けようとしてる感じだった」

「本当か。方さんの家に昨日急に足場ができたことといい、うちだけがなにも知らないってことは?」

「わからない。それで念のため昨日足場が出来た他の三軒の家も尋ねてみたら、びっくりしたわ。三軒とも人っ子一人いなくなっていたのよ。ね、変でしょ?」

「たしかに変だ」趙丹も不安な表情を見せて言った。

「足場が出来た四軒からそろって人が消えたなんて、なにかある」

 夫婦が話していると突然、

「方さんの家、どうしたの?」娘の声がした。

「苑玲・・・・・・」

 娘の苑玲は十八歳で二週間後の七月二十四日に高校を卒業する。両親の血を継いで美人だが、教師になるのが夢で上海教育大学を受験して合格、九月から進学する予定だった。

「苑玲、いつのまに二階から下りて来た」

 父と母は努めてなにごともなかったように言った。

「おはよう」

「今朝は早いわね」

「小莉たちは、どこ行ったの? 隣、朝から誰もいないんでしょ。私、変だと思ってたんだ。昨日学校で小莉、一見元気そうに振る舞ってたけど、なにかいつもとようすがちがったから。ねえ、隣の家、どうして急に変な覆いで囲まれたりしたの? ・・・・・・私、小莉ともう会えないの?」

 泣きそうな顔になった苑玲に母は近寄り、肩にそっと手を置いた。

「きっとみんなで、どこかに出かけただけよ。すぐに帰ってくるわ」

 娘をそうあやしながらも、夫と二人きりになると宗玲は言った。

「私、方一家は二度と帰って来ないんじゃないかって気がするわ。あの足場はあのままだし、家はもしかしたら壊されるんじゃないかしら」

「僕もいやな予感がする――」

「なに?」

「・・・・・・いや、なんでもない」

 趙丹は昨日の朝、方家を訪れたときに見た郵便配達員のことが気になっていた。午前中の配達は普段いつも十一時前後だが、あのときはまだ午前八時前だった。しかも配達員が届けに来た封筒は四通とも真っ赤な色をしていた。手紙が郵便受けに入るサイズで、書留用の封筒でもないのに、配達員がわざわざベルを鳴らして玄関に届けに来たことも気にくわない。趙丹は謎を解くべく、鄭君里を誘って自分たちが所属する芸術映画公司の社長に昨日からの疑問をぶつけてみたが、社長は脅えたような表情を見せただけで、なにも答えようとしなかった。


 収穫が得られず肩を落として自宅付近に戻った趙丹の目に、行くときにはなかった物が飛び込んだ。方家の門前にいつのまにか人民警官が怖い顔をして立ちはだかっていたのである。工事現場の警備にしては仰々しすぎる。もしかしたらうちの監視が目的かもしれない、と趙丹は勘ぐった。一昨日公安局に行って、街の変化についての疑問をぶつけたからだ。要注意人物と思われた可能性は高かった。思いきって警官に質問しようかと思ったが、威嚇するように睨まれたのでやめておいた。

 趙丹一家は誰にもなにも知らされないまま、不安な状態で七月五日の夜を迎えた。三人で夕食を終えた時、表で人が激しく言い争う声が聞こえた。男の声で、中国語ではなくロシア語を話しているようだった。妻と娘が脅えたのもあり、趙丹は外にようすを見に行った。すると道の奥の方で大きな体をした白人らしき男が二人、今にも取っ組み合いをはじめそうな様相でむかい合っているのが見えた。罵り合う声はますます大きくなっている。数百メートル離れた場所にいる趙丹にもはっきり聞き取れるぐらいだから相当の大声だ。これだけ派手に騒いでいれば、近所の人はたいてい出てくるのだが、今夜はなぜか誰もいなかった。方家の前にはまだ警官が立っていたが、目と鼻の先で外国人が大騒ぎしているというのに駆けつける気配がないどころか、直立不動のまま見むきもしていない。だが趙丹は正義漢だけに喧嘩を放っておく気にはなれず、外国人の方へ近づいて行った。すると、

「驚きますよねえ」

 いきなり後ろから声をかけられた。ふりかえると、細い目の眼鏡をかけた小柄な男が立っている。男は近所の里弄(リーロン・・・上海特有の長屋風民家)を間借りして一人で住んでいる、三十代半ばの工場技術者・楊拓(ヤン・ター)だった。楊拓はベテラン俳優趙丹に媚びるような口調で言った。

「うるさいですよねえ、あの男たち」

「そうですね」

「外国人みたいですが、どこから来たんですかね」

「あれ、ご存じないんですか」

「二人とも夕方、角の家に引っ越して来たみたいですよ。一人は通りの北側の家、もう一人はそのむかいの南側の家ですが。早速喧嘩されたんじゃ迷惑ですね」

「え、あの奥の二軒に新しい人が? それじゃ董さん一家と曹さん一家が今朝からいなかったのは、引っ越したからだったんですか?」

「僕は董さんたちとは付き合いがなかったので、引っ越したかどうかはわかりませんが」

「二軒とも昨日から足場が組んであったのは知ってますよね。気になりませんでした?」

「両方ともロシア料理店になるそうですよ。それでおたがいライバルになるんで険悪になったのかもしれませんね」

「え、今どきロシア料理店ですか。じゃあの人たちはやっぱりソ連人?」

 趙丹が今では目の前に見える白人に視線をやって言うと、楊拓が答えた。

「そのようですね」

「当局がよく許可を出しましたね、外国人に店を――」

 そのとき一際高くなった喧嘩の声が、趙丹の声をかき消した。

「いったいなにを怒鳴り合ってるんだろう」

 趙丹がつぶやくと楊拓は白人二人の声にじっと耳を傾け、しばらくしてから言った。

「どうやら、お店のことだけじゃないようですね」

「え、楊さん、ロシア語がわかるんですか?」

「大学時代、先端技術をソ連の技術者に教わっていたことがあったので」

 楊拓はそう言って小鼻をうごめかした。

「そうですか。で、あの人たちはなにを言ってるんです?」

「ナチスを支持するかどうかで、もめているみたいです」

「え、ナチス? それって第二次大戦で滅びたドイツの政党のことですよね。ずいぶんと時代錯誤の話題のようですが・・・・・・」

「ええ、でも今聞いていると、背の高い方はロシア革命に追われたロシアの貴族でナチスの肩を持つと言い、背の低い方はユダヤ人で妻と子どもとポーランドから逃げて来たと言ってナチスを罵倒しています」

「あの、ちょっと待ってください。二人ともまだ三十代ぐらいに見えますが。ロシア革命は五十年も前だし、ナチスがユダヤ人狩りをしたのも三十年近く前の話だから年齢が合いませんよね?」

「でも僕はちゃんと聞きました」

 楊拓は自分のロシア語の能力を疑われたと思ったのか、気を悪くしたようすで、

「彼らに直接確認してもいいですよ」

 そう言うと大胆にも喧嘩中の外国人に近づいて行った。

「ちょっと楊さん」

 趙丹は一人で行かせては危ないと思い、自分も後を追った。たちまち外国人二人が頭に血がのぼった顔のまま、楊拓と趙丹に視線を投げた。そのとき、人民警官が二人、角を曲がってやって来た。それを見たとたん、楊拓はなぜか踵を返してサッと逃げ出した。

「あれ、楊さん」

 楊拓は趙丹が呼ぶのも無視して闇に紛れこんでいった。すると、

「おい、なにをしている」

 人民警官が声をはりあげた。喧嘩中の外国人に言ったのではなかった。

「こんな所でなにをしてるのかと聞いてるんだ」

 二人の警官の険しい目は趙丹を真っ直ぐ見すえていた。うち一人は方家の門前に立っていた警官だった。趙丹は驚きつつも堂々と答えた。

「そこの外国人の騒ぎが気になったので見に来ただけです」

 すると警官二人は趙丹の体を突然後ろから押さえつけ、両腕に手錠をはめ、

「おまえを連行する」そう宣言した。

「なぜです。ちょっと待ってください」

「抵抗するな。大人しく来い」

「僕はただ喧嘩を見ていただけですよ」

「趙丹」警官はいきなり名前を呼び、厳格な口調で言った。

「我々がここ数日のおまえの不審な行動に気づいていなかったとでも思っているのか」

 やっぱり目をつけられていたか。そう思ったが趙丹は毅然として言った。

「不審なのはあなた方だ。方一家はどこへ行ったんですか。土曜日から僕の周りで起きている変化はいったいなんですか。教えてください」

「おまえは人民警官を侮辱する発言をした。許されない」

 警官二人は趙丹の両脇を固めて無理やり歩かせようとした。

「待ってください。いったん妻と娘に会わせてください」

「だめだ」

「せめて二人に僕のことを知らせてもらえますか?」

 人民警官は答えなかった。趙丹はパトカーで拘置所に連れて行かれ、一室に閉じこめられた。


 一か月後、看守が趙丹の独房の鍵を外し、言った。

「釈放だ」

「・・・・・・え?」

 床に座っていた趙丹は無精髭ののびた顔をあげ、ドアから差し込んだ懐中電灯の光に目をしばたたかせた。

「なん年も出られないという話じゃなかったんですか」

「急に決まった。だが勘ちがいするな。おまえは完全に自由の身になったわけではない」

「どういうことですか」

「いいから、立て!」

 趙丹は痩せた体を起こした。一か月もの間、五十歳の体を硬い床で寝起きさせていたので足腰がひどく痛み、少しふらついた。それでも趙丹は明るい顔になって言った。

「家に帰れるんですか?」

「ああ、だがおまえ一人では帰れない。俺たちがパトカーに乗せて連れて行く」

「パトカー? なぜです」

 警官は答えなかった。釈放と言っても完全な釈放ではなく、自宅軟禁になるのかもしれない。趙丹は思った。なんにしても家族に再会できるならうれしい。宗玲も苑玲も無事だといいが・・・・・・。

 外は日が暮れて暗く雨が降っていた。パトカーが拘置所を出て南京路に入ってまもなく、車窓を見た趙丹は瞠目した。まず目に飛び込んだのは、夜空に数多の電球を燦然と輝かせたクリスマスツリーのような四つの塔だった。塔はそれぞれ六階から十階建ての洋館の屋上から伸びており、ネオンを光らせている。それらの文字を読んで趙丹は思わず、

「永安、先施、新新、大新だ」つぶやいて、警官に聞いた。

「ビッグ・フォーですよね?」

「ビッフォ?」

 趙丹より十歳以上年下と見られる警官は顔をしかめて聞き返した。

「四大デパートですよ。旧英米租界時代、一番街・南京路の名物だった」

 趙丹は興奮気味にまくしたてる。

「手前の建物は、一九一〇年代香港の郭兄弟が出資して創業した永安デパートでしょう。むかいのは、ほぼ同時期に広東出身の黄氏が開業して永安と壮烈な商戦を競い合った先施デパート。どれも思い出があるんですが、特に三軒目の新新デパートには当時最先端のガラス張りのラジオスタジオがあって僕も呼ばれて番組に出たりしましてね。その関係で付き人が、一階の高級万年筆売り場の『派克(Parker)皇后』と呼ばれた女性店員に夢中になったはいいものの、ふられて大変でしたっけ。それで一番奥の大新デパートに連れて行ったんです。中国初のエスカレーターに乗せて元気づけてやろうと思いましてね。いやあ、四店とも共産党政府成立後は閉業してたのに、また復活したんですか」

 警官は答えるかわりに、

「渋滞だ」そう言って運転手の後輩警官に怒鳴った。

「サイレンを鳴らしてつっ走れ」

 趙丹は車の前方に展開されていた光景を見て驚いた。目を疑うことに道路は三〇年代型の自動車、市電で埋め尽くされ、それらの間を縫うようにフランス人がプスプス(pousse-pousse)、英米人がリキシャー(Rickshaw)、中国人が黄包車と呼んだ人力車が幾台も走っている。

 どう見ても、ついこの間までの一九六五年の光景ではなかった。

「なにをじろじろ見ているんだ」

 警官に叱られ、趙丹は窓から目をそらすことを余儀なくされた。信号を無視して飛ばして来たパトカーはすでに淮海路に入っていた。趙丹が隙を見て窓の外を眺めると、一か月前にはなかったロシア系のレストラン、カフェ、ベーカリー、ブティックの看板が目を引いた。午後八時を過ぎていたが、どこも明かりがついて煌々としている。上海市第二食品商店だった建物には『DD's Night Club & Cafe Restaurant』のネオンが光り、店の前ではかごを下げた娘が、水兵の制服を着た若い白人に花を売りつけていた。人間も一九三〇年代に逆戻りしたかのようだ。この変化はどうしたことだ。妻と娘は無事なのか、趙丹は不安になり、祈るような思いで窓を見つめた。パトカーはいつしか旧フランス公園脇を通過し、右折して趙丹の家がある道に入っている。標識が『皋蘭路』から『Rue Colneille・高及依路』と租界時代の名称に変わっているのが見えた。どの家も真っ暗だ。一軒だけ足場が組まれている家があると思ったら、それが趙丹の家だった。門の前には人民警官が立っている。一か月前の方家の状態にそっくりだった。趙丹は不安を隠せずに警官に聞く。

「妻と娘は家にいるんですか?」そのときパトカーが停車し、

「よし、降りろ」

 警官は言った。またしても趙丹の質問は無視された。

「あの、僕一人で降りて行っていいんですか?」

「あれは、おまえの家だよな。行かないのか?」

「いえ、もちろん行きます」趙丹はあわてて降車した。

「一か月間、お世話になりました」

 だがパトカーは発車せず、そのまま停車していた。僕を監視するつもりか? 警官なら門にもいるのに。やっぱり自宅軟禁なのか? 疑問符は消えなかったが、それよりも趙丹は家族の無事を確かめたい思いでいっぱいだった。動悸をさせて玄関のベルを鳴らすと、趙丹がなにも言う前にドアが開いた。

「あなた!」

 妻と娘はあらかじめ趙丹の到着を伝えられていたのか、飛び出して来た。

「お父さん!」

 趙丹は二人を無言で抱きしめた。おたがいに前よりもやつれてはいたが、顔は再会の喜びに輝いていた。

「二人とも無事だったか」

「うん、お父さん、私、高校卒業したよ」

「そうか、よかった。お父さんも卒業式に出たかった。宗玲、心配かけたな」

「あなた、思ったより元気そうでほっとしたわ」

「警察から僕のことをなんと聞いていた?」

「なにも。どういう理由で、どこに拘束されたかを聞いても教えてもらえなかった。授賞式の後に公安局に行ったりしたことで睨まれたんだと想像はついてたけど」

「その想像はあたってるよ。当初は三年は出られないという話だったが、今日いきなりなんの説明もなく出されたんだ」

「私も、二時間前にあなたが帰って来るって表の警官に聞いたばかりよ」

「そのことだが、あれはなんなんだ? 帰ったら、家がいつかの方家みたいに足場で囲まれていて、門にあんな警官が立っていたから、ぎくりとしたよ」

「しっ。あまり大きな声で言わないで。聞かれてるかもわからないから」

 黄宗玲は脅えた目を玄関にむけた。

「それじゃ外の警官はやっぱり、うちを監視するためにいるのか?」

「表にいるあの人はね、昨日、足場ができた後に来たの」

「昨日?」

「そうなのよ。でもその話は後。それより久々に家族三人で食卓を囲みましょうよ。私、大急ぎで準備したんだから」

 夕食のとき、一家は現実を思い出させる話題を避け、楽しいことだけを話して笑いあった。娘が自室に戻ると、黄宗玲は一か月間こらえていた思いがどっとこみあげたのか、

「会いたかったわ。私、ずっと怖かった・・・・・・」

 そう言って目に涙を光らせた。趙丹は妻の肩を優しく抱き寄せた。

「心細い思いをさせてすまなかった。僕はずっと君たちが無事で暮らしているか心配だった」

「生活はなんとかなった。貯金があったし、私も舞台の仕事があったから。仕事と言えば、今月から撮影が始まる予定だったあなたが主演の映画は、制作中止になったわ」

「そうか、やっぱり・・・・・・皆に迷惑をかけたな」

「それがね、あなたの作品だけじゃなく、芸術映画公司で撮る予定だった映画はすべて制作中止になったのよ。当局から圧力がかかったとか」

「圧力って、どんな?」

「それがわからなくて。詳しいことはなにも」

「会社に電話する」

「無駄よ。制作中止の知らせがあった翌日から芸術映画公司には誰も出社していないみたいだから」

「え、営業も停止させられたのか?」

「そうではないみたいなんだけど、社長も職員も姿を消して連絡がとれなくなったと鄭さんが言っていたわ。その鄭さんとも一昨日から連絡がとれない。鄭さんどころか映画仲間の誰とも・・・・・・」

「どういうことだ?」

「私、鄭さんのお宅を訪ねてみたけど、一家でいなくなっていたの。今は知らない人が住んでいるわ」

「なんだって! 鄭君里までもが・・・・・・」趙丹は頭をかきむしった。

「街が変わったと思ったら、そんなことになってるとは。みんなどこに行ったんだ」

「わからない。この辺の家もみんな順番に足場で囲まれて朝になったら一家全員消えてて、昼には知らない人が引っ越して来るということが繰り返された。残ったのは、うちだけ」

「せっかく家に戻れたと思ったら・・・・・・外にいる警官にどういうことなのか問いただしてやる」

「やめて、あなた。聞いたりしちゃだめ。すでに政府から発表があったんだから」

「発表って、なんの?」

「新しい――」

 黄宗玲が言いかけたときだった。玄関のベルがつづけざまに鳴った。黄宗玲はびくっとして口をつぐんだ。

「なんだ、警官か?」趙丹は眉を寄せたが、

「出なくちゃ」黄宗玲は強迫観念に襲われたように立ち上がった。

「いや、僕が出る」

 ためらう妻を置いて趙丹は玄関にむかい、ドアを開けた。そこに立っていたのは警官ではなく、郵便配達員だった。趙丹は気勢をそがれつつも訝しげな目をむけて言った。

「こんな時間に配達ですか」

 時刻は午後十時をまわっていた。郵便配達員の手には赤い封筒が三通あった。いつかの方家で見たのと同じで封筒なのに気づいて趙丹はぎょっとした。郵便配達員は挨拶もなしに家のなかを覗きこみ、居間に妻がいるのを確認してから言った。

「ご家族は奥さんと後一人、娘さんがいますよね?」

「なんなんですか」

 趙丹が警戒して聞いても、配達員はなにも答えず、横柄な口調で言った。

「娘さんを呼んでください」不安を感じた妻が、奥から言った。

「もう寝てますけど」

「この三通の手紙は、ご家族全員がそろわないとお渡しできません。娘さんが寝ているのなら、起こしてください」

 口調は丁寧だが反対を許さない感じだった。黄宗玲は仕方なく娘を呼んだ。配達員は家族がそろったのを確認すると、もったいぶったようすで宛名を読みあげながら赤い封筒を一人ずつに手渡した。

「この手紙の内容については一切の口外が禁じられています。違反した場合は、家族の生命に危険が及ぶ恐れがありますのでご注意ください」

 脅迫めいた言葉を事務的に告げて配達員は去っていった。蒼白になった両親に、苑玲が怪訝な顔をむけて言った。

「この赤い手紙、誰から?」三通とも差出人は書いてなかった。

「さあな。中を見たらわかるかもな」

 趙丹は努めて明るい口調で言いつつも、動悸を感じながら自分宛の封筒を開けた。文書が二枚入っていた。一枚目は以下のような文面だった。

〈当家はこの後、午前三時に移動を開始するものとする。人民警官が当家の人間を一人ずつ、別の場所に連れて行く。たがいの行き先を知ることはできない。知ろうとすれば罰せられる〉

 妻と娘の封筒にも同じ文書が入っていた。

「私たち、離れ離れにさせられるの?」

 二人とも悲鳴に近い声をあげた。

「夜中の三時に移動って? ねえお父さん、みんなどこに連れて行かれるの?」

「わからない・・・・・・」

 趙丹はそう言って二枚目に目を走らせた。そこにはただこう書いてあった。

〈現在・・・趙丹、五十二歳〉

〈変更後・・・阿三、五十三歳〉

「変更後ってなんだ?」

「私のにも書いてあるわ」

 妻の封筒に入っていた二枚目の文書には次のように書いてあった。

〈現在・・・黄宗玲、五十一歳〉

〈変更後・・・陳香春、五十五歳〉

「陳香春ってなんなのかしら。役名じゃあるまいし。苑玲、あんたのはなんて書いてある?」

「私のは変更後の名前が書かれていない」苑玲が見せた文書には以下が書かれてあった。

〈現在・・・趙苑玲、十八歳〉

〈変更後・・・  、十九歳〉

「本当だわ。あんただけ変更後の名前の部分が空白になっている。どうしてかしら。というより、そもそもこの変更後とはなにを意味するの?」

 黄宗玲が甲走った声で言うと、趙丹は思考をめぐらしながら独り言のように言った。

「なにを意味するか・・・・・・方家が赤い手紙を受け取った翌日にいなくなったことから推測するに、僕たちはバラバラにどこかへ連れて行かれた後、ここにある変更後の名前と年齢に変えさせられて、別人として生きさせられるのかもしれない」

「まさか、別人にさせられるなんて、いやよ、ちがうわよね。第一おかしいわよ、変更後の年齢が実年齢より高く設定されているなんて、理屈に合わないわ」

「僕だって信じたくない。でも一枚目にははっきり書いてある。少なくとも僕たちがこれから引き離されることは、たしかのようだ」

「そんな。どうしたらいいの」

「どうすべきか・・・・・・」夫が言葉を失うと、妻は言った。

「きっとみんなも、こうやって悩んだのね。赤い手紙を渡された後」

「せっかくお父さんが戻ってきたのに、また別れるなんて・・・・・・」

 娘が涙を浮かべると、趙丹は抱き寄せ、しばらくなにやら黙考にふけっていたが、やがて決意したように言った。

「警察に勝手な真似をさせてたまるか。午前三時だと? それまでにみんなで抜け出そう」

「あなた」妻が驚いて言った。

「無茶言わないで。抜け出そうとなんてしたら、ただじゃすまない。私たちは逃げられないのよ」

「じゃ君は、家族が離れ離れになるのを大人しく待てと言うのか」

「それが家族の命を守ることになるんだったら、仕方ない」

「どうしてだ。僕のいない間になにがあった? 宗玲、さっき言っていた政府の発表とはどんな内容だ。教えてくれ」

 黄宗玲が答えようとした瞬間、複数の警官がドアから押し入って来て家族三人を取り囲んだかと思うと、一人ずつ引き離し、それぞれ別の部屋に閉じこめた。


 午前三時、三人の人民警官が趙丹の家族を一人ずつ別々に外へ連れ出した。身の回り品の携行は一切、許されなかった。趙丹についた警官は拘置所からついて来た警官ではなく、門前に立っていた、中年のいかにも融通のきかなそうな男だった。

 家の外には黒い自動車が三台止めてあり、趙丹はそのうちの一台に乗せられ、家族に別れを告げる暇も与えられずに移動させられた。どこへ行くのかと聞いても、むろん返事は得られなかった。淮海路も南京路も相変わらず真夜中とは思えない明るさだった。だが車道はさすがに空いていて、自動車はすいすいと進んだ。窓を見ると叱られて頭を押さえつけられたので、趙丹は下を見ることしかできなくなったが、やがて自動車が左折すると汽笛の音が聞こえたので、外灘(ワイタン)に入ったのがわかった。外灘とは黄浦江に面した上海の港通りのことである。自動車はその通りに入って少し北上すると、すぐに止まった。警官はなにも言わずに趙丹を降ろし、自分も降りると、いきなり言い渡した。

「おまえの名は今日から阿三。年齢は五十三歳。職業、物乞いとして生きることを命じる」

「え、物乞い? ちょっと待ってください」

 警官は趙丹の言葉を無視して一方的に宣告した。

「今後、おまえは趙丹と名のることは許されない。のみならず、ただ今より元の職につくこと、元の仲間、元の家族に接触すること等、元の名に結びつく一切の行動を禁ずる」

「そんな、無茶な」

「おまえは常に見張られる。違反をしたり、当局に刃むかう行動をとれば、おまえのみならず妻と娘も罰を受けることになる」

「・・・・・・」

 趙丹は喉がつまった顔になった。すると警官は空き缶を投げつけ、

「ほら、受けとれ。おまえは今日から物乞いとしてそれに喜捨を乞うんだ。ちゃんとやらなければ、痛い目にあうのは自分だけではないぞ」

 そう言って勝手に号令をかけた。

「わかったら、はじめろ!」

 趙丹は蒼然として手にとった空き缶を見下ろし、言った。

「はじめってこの真夜中にですか。僕は寝ることもできないんですか?」

「後で路上に寝るのは勝手だが、その前に物乞いになったことを証明して見せなければ、違反したとみなす」

 勝手なことを。妻と娘も今ごろ途方に暮れているはずだ。二人は物乞いをやれなどと言われていなければいいが。警察に隠れて連絡をとろうにも、苑玲にいたっては新しい名前もわからない。いつかつき止めるためにも、今は大人しく警察に従うしかないのか。趙丹は臍を固めて辺りを見回した。喜捨を乞うと言っても夜中の三時過ぎに人がいるはずがない。そう思ったが、沿岸は明るかった。桟橋に電球がつらなり、宝石の粒のように光っている。三〇年代によく見かけた桟橋の電飾がいつのまにか復活していた。

 光にむかって歩いて行くと、大きな汽笛が聞こえた。黄浦江の下流から大型船舶が沿岸に波を打ち寄せながら近づいて来ていた。

 淮海路や南京路同様、租界時代に戻ったとしか思えない光景が広がっている。舷灯に照らし出された国旗は、なんと星条旗だった。資本主義国との国交は断絶しているはずなのに、なぜ・・・・・・。見ると沿岸には大型客船が所せましと停泊し、三色旗やユニオンジャック、日章旗などの国旗を掲げている。

 汽笛の合間に話し声が聞こえた。木陰に旗袍(チーパオ・・・チャイナドレス)姿の白人女が立っていて、水夫の制服を着た酒臭い白人男たちと戯れている。人を見つけたからには、物乞いの真似をして喜捨を乞うべきなのかもしれない、と趙丹は思った。警官が背後で自分を監視しているのを先ほどから痛いほど感じている。しかし得体のしれない白人たちだ。そう思ってためらっていると、突然後ろから上海語で声をかけられた。

「なにをうろついている?」

「誰ですか」そう言って振りむこうとすると、

「この野郎っ」

 いきなり怒鳴りつけられ、背中に硬い物が押し当てられたのを感じた。銃口のようだった。人民警官は助けに来ようともしない。

「動くんじゃねえ」

 男は趙丹の背後にぴたりとつき、脂臭い息を吐いて言った。

「この間から俺たちのブツをくすねてたのは、おまえだな?」

「ちがいます、いったいなんの話ですか」

「とぼけやがって。さっさとブツを出しやがれ。でないとこいつをぶっ放す」

 この男はマフィアか?――いや、そんなはずはない。マフィアもまた共産党時代になって一掃させられたはずだ。

「あなたはなに者です」

 趙丹はひるまずにそう言ってふり返った。まず男の長衫(チャンサン・・・男物の中国服)が目に入り、つづいて角刈りにした頭と額が見える。

「あっ・・・・・・」

 趙丹は思わず叫んだ。男の顔には見覚えがあった。男も趙丹に気づいてハッとした顔になった。

「方さんじゃないか」

 以前よりもやつれてはいるが、今趙丹に拳銃をつきつけている男はまぎれもなく隣家の方宜だった。国語教師だった彼の変わり果てた行動に趙丹は驚きを禁じえず、

「方さん、どうしてこんなことを・・・・・・」

 趙丹がそう言うと方宜はばつの悪そうな顔をして視線をそらし、

「君とは思わなかった。忘れてくれ」

 そう言って趙丹の背中から拳銃を離し、駆け去った。

「方さん、待って! 方宜さん!」

 追いかけようとする趙丹の前に警官が立ちふさがった。それを突破すれば自分のみならず家族にも害が及ぶと判断した趙丹は、断念してその場に踏みとどまった。するとすぐそばの桟橋から人が近づいて来た。先ほどの星条旗の貨物船が停泊し、タラップを降ろして乗組員を吐き出したらしい。この機会を逃せば喜捨を乞う機会はなくなるかもしれないと考えた趙丹は覚悟を決め、両手で空き缶を捧げ持ち、桟橋の出口にむかって行った。煙草をくわえた立派な体格の白人が桟橋を渡って来る。外国人がなぜ中国に上陸できるのかという疑問を振り払い、趙丹は当たって砕けろと思いながら、空き缶をつき出して、知っている英語を口にした。

「Mr, please.」

 それで通じるとも、そう簡単にお金を落としてもらえるとも思わなかった。ところがその白人は気前のいいことにコインを一枚入れてくれ、おまけに笑顔で、

「Good Luck.」

 そう言って激励するように肩を叩いて去って行った。その背中に向かって趙丹は、

「Thank you very much.」叫ぶように礼を言った。そのときだった。

「うるせえなあ」

 上海語で言う男の声が耳に入った。趙丹を非難しているように聞こえたが、周囲には警官以外、趙丹を見ている中国人の男は見当たらない。にもかかわらず、再び同じ声がした。

「やっと寝た所だってのによ」

 声はどうやら近くの自動車からした。沿岸にはたくさんの自動車が黄浦江と並行して駐車していたが、いずれも人は乗っていないようだ。おかしいと思って辺りを見回していると、

「いってえなんの騒ぎだ」

 また声が聞こえた。と、目の前の自動車の下から男がなん人か這い出して来た。頭が三つ持ち上がり、周囲のようすをうかがいだす。街灯に照らし出された顔はそれぞれ十代、二十代、三十代らしい。と、二十代の男が趙丹に気づき、

「おい、あいつを見ろよ」

 そう言って指さした。十代と三十代の男が趙丹を見て驚いた顔をした。はじめは映画俳優であることに気づかれたかと思ったが、そうではないらしく、三人は世にも険悪な表情になって立ち上がった。

「おめえ、そこで今なにやってた」

 三人は趙丹に近づいて来る。いずれも上半身裸で穴だらけのズボンをはき、裸足である。警官は例によって顔色ひとつ変えず黙って見ているだけだ。

「俺たちに黙って仕事してたんじゃあねえだろうな、え?」

 三人はあっという間に趙丹を取り囲んだ。

「僕は今夜物乞いにさせられて、今はじめて仕事したところだよ」

 すると一番凶悪な相の二十代の男が眉を吊り上げて言った。

「なんだと。誰に断ってやった? 俺たちの縄張りってことを知らねえのか?」

「まあまあ」趙丹は笑顔で言った。

「君たちお芝居上手だなあ。僕らは仲間だろう?」

「この親父、馬鹿にしてんのか」二十代の男が叫んだ。

「引っ剥がしてやれ」

 抵抗する間もなく、三人は趙丹の体をおさえつけて缶を奪うと、慣れた手つきで人民服を脱がしにかかった。それを見て警官は止めるどころか、なぜか満足げな顔をしてその場から立ち去って行った。

「ざまあみやがれ」

 二十代の男は奪った人民服に唾を吐きかけ、裸に剥いた趙丹を眺めて嘲笑した。屈辱と怒りで趙丹はさすがに顔色を変え、怒鳴った。

「返してくれ、僕の物だ」

「このクソ親父が、誰にむかって言ってんだ」

「いいから返すんだ。君たちは人の物を奪った。許されない」

「この野郎、まだわかんねえのか。やっちまえ」

 三人の汚い男たちは趙丹を自動車と自動車の間に連れて行って地べたに転がし、外から見えないように輪になって袋だたきにした。拘置所で痛めた趙丹の腰に激痛が走る。この男たちは本気だ。こんな仕事をやらされているうちに心が荒んでしまったのだろう。このままでは僕は起き上がれなくなってしまう。そうなったら妻子を見つけることもできない。

「わかったわかった、やめてくれ」

 地べたに両手をつき、頭を下げた。

「お願いだ。僕が悪かった」

「悪かった『です』だろ?」

 二十代の男が趙丹の首を足で押さえつけ、楽しむように言った。暴行をやめる気配はない。そのとき、

「おっほん、えっへん」

 輪の外から呼びかける声がした。見ると、やたら横幅のある肥った小男が三人を見て「ちちちち」と舌打ちしながら、よちよちと近寄って来ている。趙丹を囲んでいた三人はたちまち後ずさりした。小男は、いつの間に拾ったものか、右手に持った木の枝で、地べたに転がされている趙丹をつつき、間のぬけた声で言った。

「生きてるかいなア」

「ちょっと、なにするんです」

 趙丹は手で枝を振り払い、男の顔を見上げた。見たところ小男の年は四十代半ば。周りの三人同様ボロをまとい、肌は真っ黒に汚れていたが、他にはない特徴があった。頬に銅貨ほどの大きさの真っ黒なほくろがあり、その中心から毛が数十本まとめて生え、釣り糸のように腹の下まで垂れていたのである。しかもそれは三つ編みに結われていた。趙丹はびっくりしたが、じっと見ては悪いと思い、すぐに視線をそらした。だが小男は趙丹を憐れっぽく見下ろして言う。

「かわいそうになア。うちの者が悪いことしたと詫びてやりたいのは山々じゃが、ちょいとムリじゃわいなア。あいにく物乞いには物乞いの決まりがあるて。他人の縄張りを黙って侵したら、これくらいの目にあうのはやむをえんわい、もし」

 どこの出身なのか、各地の方言がまざったような言葉使いで言った。

「決まりってなんですか。僕はなりたてでなにも知らないんです」

「なりたてと言ったかいなア?」

 小男は肥満体型と不釣り合いな変に高い声を出した。趙丹は周りに警官がいないことを確認してから言った。

「僕はつい三十分ぐらい前に連れて来られたばかりで右も左もわからない状態なんです。あなたたちも無理やりさせられたはずだから、わかりますよね?」

「オホホホホ」

 小男はなにがおかしいのか、たっぷりの贅肉とほくろの三つ編みを連動させて笑い、

「たしかに嫌々なったやつは多いわなア。おかげで上海には二万人もおるわい。じゃから物乞い組という組織がある。組織に入らんやつは仕事ができんでな」

 体をかがめて、趙丹の反応を覗きこむように見た。ほくろの毛の先がもう少しで趙丹の唇に触れそうになる。

 この男は冗談を言っているのか? 上海に物乞いが二万人? 租界時代にはそれくらいいたかもしれないが、今の上海にそんなにいるわけがない。趙丹の不審げな顔を見て、肥った小男は諭すように言った。

「汝は、本当になにも知らんのかいな。物乞い組は上海を独自に区分して番号をふり、組員を各地に振り分けて仕事させておるのじゃ」

 口調は変だが、この男の声には説得力があった。もしかすると演技のプロで、警官のかわりに僕を監視するためにつかわさたのかもしれない。とにかく民警(ミンジン・・・人民警察の略)に物乞いになったと思わせるためには、加入するしかなさそうだ。趙丹は意を決して言った。

「僕も組に入れてもらえますか?」

「なんだと? 誰がてめえみたいな親父を」

 二十代の男が口をはさんで趙丹に蹴りを入れようとしたが、小男が制して言った。

「一、二日ようすを見て見込みがありそうじゃったら、入れてやってもいいわな」

「ありがとうございます」趙丹は米つきバッタのように頭を下げた。

「見習い期間中は食べ物は与えるが、儲けは全額上納金になる。よう覚悟することじゃ」

 それくらい家族を思えばなんでもない。

「ご指導よろしくお願いします」

「よろしよろしイ」

 小男は急に上機嫌になったようすで、ほくろの毛をぶらぶら揺らして言った。

「朝になったら仕事じゃわいなア。汝らはひと眠りすることじゃてエ」

「あの、ひとつ聞きたいのですが」

 顎にかゆみを感じた趙丹は、無意識に無精ひげをさすりつつ言った。

「外国船がなぜ停まっているのか、ご存じでしょうか」

 その瞬間、小男の形相が鬼のように変わった。と思うと、なにかが飛んで来て、趙丹の頬にビチャッと生温かい、ねばねばしたものが付着した。見ると、小男が口をすぼめて唾を飛ばしている。唾は趙丹の頬、首、胸だけでなく、周りの物乞いたちにも次々とむけられた。

「なにするんです」

 趙丹は言ったが、返事はなかった。と、後ろにいた眼鏡の男が、

「イタッ」いきなり叫び出し、

「ああ痛、ああ・・・・・・」

 唾のあたった肘の辺りを押さえて、うずくまった。

「大丈夫ですか、どうしたんです」

 駆け寄る趙丹を無視し、眼鏡の男は苦痛に顔を歪めつつも小男に尊敬の眼差しを投げて言った。

「さすがあなたの唾、凄まじい威力です」

「唾が凄まじい? どういう意味です」

「わしのは普通のとはちがう。人呼んで七色の唾」

「まさしくそうです。非常好(フェイチャンハーオ・・・すばらしい)、非常好!」

 二十代の男が呼応して叫び、猛烈に拍手をしながら言った。

「あなたさまさえその気になれば、唾を玉と変え、突風の勢いで飛ばし、人体を打ち砕くことも可能。今回は手加減していただいて、ありがとうございます」

 小男は表情をゆるめ、

「わかればよい。皆の者、さあ明日に備えて早く寝るのじゃ」

 そう言うと、趙丹の問いに答えることなく去って行った。手に持った木の枝に唾を飛ばし、ビチャッビチャッと音をさせながら――。

「あの人はどこへ行くんです」

「あの人は寝ねえんだ。おめえ、いちいちうるせえんだよ。よけいなことまでしやがって」

「え」

「おかげでこっちは殺される寸前だったじゃねえか」

「なんの話ですか」

「あの人の前では二度と髭をさするんじゃねえ。髭という言葉はもちろん、髭を連想させる仕草もいっさいご法度だ。それを犯して一度殺されかけたやつがある。わかったか?」

「殺されかけた? ではさっき唾が『人体を打ち砕くことも可能』とか言っていたのは・・・・・・?」

「つべこべ言わずに『わかった』と言やいいんだ」

「わかりました、わかりましたって」

「それとな、あの人の機嫌にはよく注意しろ。機嫌が悪い時、よけいなことをされたら、俺らが迷惑するから」

 二十代の男の言葉に、眼鏡の三十代の男が付け足した。

「あの人は感情を表情に出すから、見分けるのは簡単だ。機嫌が悪いときは顔が『×』の字になる」

「『×』の字?」

「逆ハの字になった眉と、への字になった口がつながって見えるから『×』の字だ。機嫌がいいときは『一』の字。眉が一本につながって見えるんだ」

「へえ」

「忘れんなよ」

 二十代と三十代の男は口をそろえて言った。十代の男は話の間じゅううつむいて、前髪で顔を隠し、趙丹を見ないようにしていた。

 趙丹は三人の男と一緒に自動車の下に入って、地べたに寝ることになった。中央の一番奥に入れられたので身動きがとれなかった。おまけに服を返してもらえず裸のままだったので夏とはいえ肌寒く、皮膚も足腰も痛むし、十代の少年が隣で「狭い」とつぶやくのが耳に入るしで、まるで落ち着かず、疲れていたにもかかわらず、ほとんど眠れなかった。

 数時間後、朝日が差した。

「皆の者、起きろ、早くせんと客船が到着するわいなア」

 知らない間に戻って来た小男の掛け声とともに、四人の男は自動車の下から這い出して身支度をはじめた。小男は四十代半ばのはずだが、全く睡眠不足を感じさせない顔である。五十代の趙丹は全身がだるかったが、映画撮影で徹夜には慣れており、年の割に体力はある方だったから元気そうにふるまうことはできた。陽光を浴びた物乞いたちの顔が、今はじめて趙丹の目にはっきりと見えた。それぞれ十代、二十代、三十代、四十代と見られる男たちは、よく磨かれた自動車の車体を鏡に、髪を整えるのではなく、わざと乱していた。もっとも四十代の小男だけは、ほくろから伸びた毛をていねいに三つ編みに結いあげ、それが終わると立ち上がって、

「ピヨピヨ、あ、ピーヨピヨ」

 そう言って両手を大きな尻の上でひらひらさせた。三十代以下三人の男たちは見て見ぬふりをしていたが、趙丹はたまりかね、小男の表情が『×』になっていないのをたしかめてから思いきって聞いてみた。

「あの、なにをしてるんですか」

「見ての通り、鳥の真似じゃ」朗らかな声が返ってきた。

「朝の導引(ダオイン・・・体操)でな。気を循環させておるのじゃよ」

 この男のすることは、まったく奇妙だ。昨日の唾の件といい、どういう人間なのだろう。不審な気持ちが伝わったのか、小男は表情をかたくした。

「それより汝はまだ準備をしておらんのか」

「ええ、服がないもので。お願いです、僕の服を返してもらえませんか。裸で仕事をするのは、さすがにまずいと思うんですが」

「まずいことはない。この暑さじゃから、半裸は普通じゃ」

「僕は半裸ではなく全裸です」

「全裸なら、なおけっこう! この暑さにはぴったしじゃ」

「しかし――」

 趙丹が執拗に服を要求しようとすると、小男はいきなりほくろの毛を振り回しはじめ、

「うるさい暑い!」別人のような口調で怒鳴った。

「暑いのは大っ嫌い! もうやってらんないっての! ハアハア、そりゃ体操したせいなのはわかってるけどさ、ハアハア」

 犬のように舌を垂らして喘ぎ、脂肪でぶよぶよの体から汗がだらだら流れるに任せながら、どこかへ歩き出した小男を見て、あの男、普通の言葉もしゃべるんじゃないか? やっぱり演技をしているのか? と趙丹は思った。

「おい」二十代の男の声が横から飛んで来た。

「おっさん、おい。今度あの人を怒らせたら、ただじゃすまねえからな」

「でも褌一枚では人前に立てませんから」

「いいかげんにしろよ。肝心なのは服を着てるかどうかじゃねえ、物乞いに見えるかどうかだ」

 二十代の男はそう言って趙丹に炭を渡した。

「そいつで面を汚せ」

 趙丹は仕方なく言われた通りにすることにした。そのとき、足もとに新聞が落ちているのを発見した。なに気なくとりあげて見たとたん、その上の文字に目が釘付けになった。

 新聞の日付が〈一九三一年八月六日星期四(木曜日)〉となっているのだ。今日は一九六五年の八月六日星期五(金曜日)のはずだ。誰かが昔の新聞を処分して捨てたのが飛んで来たのか? その割には紙が新しかった。不審に思いつつ記事に目を走らせる。一九三一年の八月にはどんなことがあったっけ。懐かしい気持ちも手伝って見出しを読んだ趙丹は、瞳孔を開いた。記事の内容が明らかに歴史的事実とは異なっていたのだ。三一年八月と言えば、日本軍が満州事変を起こして満州国を建国する約半年前だったはずだ。ところがその見出しにはこう書かれてあった。

〈日本軍、満州から完全に撤退。共産軍勝利〉

 これはおかしい。当時の共産軍は日本軍を相手に戦って満州から追い出したことなどなかった。第一当時の共産軍は戦力に乏しく、蒋介石率いる国民党軍の攻撃をかわすだけで精いっぱいだったし、一方の日本軍は戦力旺盛で満州における勢力範囲拡大を狙って蠢動していた。

「いったいどうなってる」

 趙丹は思わず声に出してつぶやき、新聞を音たててめくった。どの記事も史実とは異なる内容のようだ。天下の『中国日報』がこんなデタラメを? 待てよ、『中国日報』は共産党体制下で生まれた新聞だ。一九三一年にはまだ存在していなかった・・・・・・。この新聞は真新しい紙とインクの匂いからわかるとおり、印刷したてのようだ。ということは『中国日報』が今日一九三一年八月六日の日付で史実とは異なる記事を載せた新聞を発行したことになる。そんなことがあり得るだろうか。僕が拘置所に入っていた間に政府がなにかを発表したと宗玲が言っていたが、もしかしたらそれと関連しているのかもしれない。宗玲は「新しい」と言った後に、なにを言おうとしたのか。

 無意識に独り言をつぶやいていると、横の三人がじろじろ見てきたので、

「この新聞、変だと思いませんか」

 と趙丹は尋ねた。すると二十代の男は、

「俺、字読めねえんだ」

 そう言ってつき放した。長い髪を脇に垂らして顔を隠している十代の少年は、無反応。三十代の男は字は読めたが、なにも感じないようだった。趙丹は史実とちがうことを説明したが、途中で遮られた。

「騒ぐほどのことか。わかりきったことだろうが」

 三十代の男はそう言い、他の二人と目を合わせて笑った。

「どういう意味ですか?」

 趙丹が聞いても、誰も答えなかった。

 朝を迎えた外灘は汽笛の音に加え、工場のサイレン、ごみ拾いたちの叫び声でにぎやかだった。それにまじって「エンホ、アンホ」というかけ声が聞こえる。男たちが貨物船に荷を積んでいた。半裸の体に麻袋をかつぎ、貨物船と桟橋をつなぐ板の橋を渡っている。苦力だ、と趙丹は思った。苦力(クーリー)とは固定的な職業や収入のない、単純肉体労働で生活する下層労働者のことで、一九三〇年代には十万人前後いた。現代では激減し、今見ているような光景はまず見かけないはずだった。だが目の前の桟橋には苦力たちが昔のままに隊列を組んで荷揚げをし、黒い中国服を着た監督たちに鞭で叩かれている――。ひょっとしたら政府はこの国を一九三一年に戻したのかもしれない。突拍子もない考えが趙丹の頭に浮かんだ。

 だとしても狙いはなんだ。冷戦中なのに資本主義国の人間に出入りをさせている意味もわからない。朝日に光る黄浦江には西側諸国の国旗を掲げた軍艦や商船、貨物船が堂々と行き来している。

「もし」ふいに四十代の小男に声をかけられた。

「なに物珍しそうに見ておる」

 先程は逆上して思わず現代風の言葉使いが出たようだが、今はまた芝居がかった口調に戻っている。

「あ、さっきは服のことで失礼しました」

「気にせんでええ。今度わしを暑がらせたら、わし特製の鞭で鞭打ちの刑に処するでな」

 小男は顎をつきだし、ほくろの毛の三つ編みを、ぶるんと鋭く振って見せた。

「わしらの今日の標的はイタリア行きの豪華客船じゃ」

「豪華客船ですか」

「おっさん、なにも知らねえな」

 二十代の男が横から馬鹿にした口調で言った。

「出航前は狙いどきだ。金のある客が中国を出る前に、海外で使えねえ小銭を落としていってくれるんだよ」

「出航は八時じゃ。今は六時前。よし、行くぞよ」

 小男が体をだぶだぶ揺らして歩きだすと、一行は後につづいた。イタリア客船の前の桟橋は早朝にもかかわらず、すでに入れ代わり立ち代わり停車する自動車と人でごった返していた。信じられないことに、客船にむかう人間のほとんどが白人だった。いったい現代上海のどこにこんなに白人がいたのか、と趙丹は改めて不思議に思わざるをえなかった。

「もし、ぼうっとしとらんで、ほかの者の働きぶりを見るのじゃ」

 四十代の小男は十代半ばの物乞いを指して趙丹に教えた。

「十六歳の花旗(ホワチー・・・アメリカ)は桟橋の横に立ち、子連れの上流婦人の袖をつかまえては『哀れな身の上』を訴えておる。あやつは本来人見知りで中国語だと吃るんじゃが、英語なら人前でも普通にしゃべりおる。上海にいたアメリカ人の養子だったからの。もっとも二年前、育ての親が母国に帰るに際して道連れにされるのを嫌がって船に乗らずに逃げ出したが。要するに身の上話はデタラメじゃ。生みの親は貧しいあまりにあやつを売ったが農村で生きておるし、姉も嫁に行って立派に家庭を築いておる。じゃが、あのあどけない目で憐れみを乞われると、善良な婦人たちはころっとだまされてしまう」

 花旗が狙った婦人は次々と金を落としていた。

「二十三歳の老鴉(ラオヤー・・・カラス)は対照的なやり方をしおる」

 今指さされた老鴉は、花旗とは反対側の橋のたもとに立って、冷酷そうな目を凄ませ、

「金をくれ。くれねえと血ぃ流すぞ」

 叫んで腕まくりをし、自分の皮膚にナイフの刃をあてて見せていた。

「老鴉は気弱そうな紳士淑女をつかまえてはああ言って脅し、相手が払わんと見ると自分の皮膚を本当に切って血を流し、無理にでも払わせる」

「そんなことをして警察の目を引かないんですか」

「租界警察は見て見ぬふりじゃ。手を出せん」

「え、租界警察? 人民警察の間違いじゃないですか?」

 昨日自分を外灘に引っぱって来た警官が埠頭の周りで見張っているのに趙丹は気づいていた。だが四十代の物乞いは趙丹の問いを露骨に無視し、駐車場になっている場所を指さして言った。

「三十七歳の石頭(シートウ)は手堅いやり方で売っておる。到着する自動車に寄っては荷物運びを買って出て、それで金をもらっておるのじゃ。――汝はどのやり方がよいか?」

「ええっと、僕には花旗さんと老鴉さんのやり方は難しいかと。あなたはどんなやり方をするんですか?」

「なんじゃろな。ちなみにわしの渾名は玉子(ユーズ)じゃ。皆は別の呼び方をするが、それについてはじきわかるはず。さあ、早くあの三人のどのやり方にするか言わんかい」

「荷物運びにします」趙丹が言うと、

「ならば石頭につくがよい」

 玉子はそう言って不可解な笑みを浮かべた。

 趙丹は石頭に邪魔者扱いされた。仕方なく石頭から離れた場所で客を探すことにしたが、裸なので変質者と間違われ、荷物を運ばせてもらえるどころではなかった。出航時刻が近づくと、あわてて船に乗り込む人が増えたため、どさくさにまぎれて仕事にありつけたが、荷物を持ったとたん、腰に激痛が襲ったので早足で歩けなくなり、客の顰蹙を買い、結局一銭ももらえなかった。イタリア客船が出航して辺りに落ち着きが戻ると、石頭が趙丹に尋ねた。

「おまえ、いくら稼いだ?」

 趙丹の褌に硬貨が一枚もたまってないのを見てとると、

「使えないな」

 石頭は吐き捨てるように言った。老鴉も寄って来て馬鹿にする。

「この分だと、おっさんは組には入れねえな」

 趙丹は思わずムッとして言った。

「稼いでないのは僕だけではないでしょう。玉子さんは見てただけだ」

「おめえ、よくも・・・・・・」老鴉は怖い顔をして言った。

「物乞い組に入ってもいねえ分際で、頭(かしら)を渾名で呼んだな」

「頭?」

「そうだ。あの人は例外だ」

「それはどういう意味ですか。あの人は今姿が見えないようですが」

「そりゃ簡単には姿を見せねえよ。現れるも消えるも自由自在。あの人は玉子の化身だからな」

「玉子の化身・・・・・・?」

「そうさ、とにかくすげえんだ。あの人は食事と睡眠をとらなくても生きられるし、時には呼吸を止めて、なん日も経ってから動きだすということもできる。おい、なんだその顔は、おっさん、おめえだって玉子って神仙は知ってるだろ?」

「聞いたことはありますけど・・・・・・たしか周の時代の伝説で、そういう仙人がいたことになっているとか」

「伝説じゃねえ。実際にいたんだ。玉子は息を吹けば突風を起こして屋根をめくり樹木を折り、雷雨雲霧を起こすこともできれば、分身の法で百人千人にもなれ、河や海を歩いて渡ることもできたという。頭はその玉子の化身だ。七色の唾で石頭の肘を傷つけたことからもわかるだろう」

「おいおい老鴉、おまえ・・・・・・すべて本気で信じているのか?」

 石頭があわてたような声で口をはさんだ。

「信じているのか、だと? 石頭おめえ、頭を侮辱する気か?」

「いや、そうじゃない。ただな、俺の肘は傷つていないんだ」

「でも痛えって言って、うずくまったじゃねえか」

「あれは頭のご機嫌を取り持つために、唾の威力にやられたふりをしただけさ。頭は仙術を使う真似をしたときは、俺たちに合わせてほしいんだ」

「使う真似だと? じゃ、おめえは頭が本当は仙術を使えねえと思っているのか」

「そうは言わないが、頭は睡眠も食事もとっている。でなかったら、あんなに肥ってるもんか。れっきとした人間だ」

「おめえ、よくも・・・・・・頭に告げ口してやるぞ」

「おまえこそ、陰で時どき頭のことを玉子(ユーズ)じゃなく胡子(フーズ・・・髭)って呼んでるじゃないか。告げ口していいのか」

「ま、ままま、またいつものがはじまったよ」

「なんだよ花旗、落ち着いてしゃべってくんねえと、なに言ってんのかわかんねえ」

「う、うっさい。ふ、二人ともこれ以上言い合いするなら、俺が今聞いたこと頭に言う」

「おっと、そりゃ困る」老鴉と石頭はあわてて言った。

「言わないでくれよ。静かにするから」

「あの、石頭さんに聞きたいんですが――」趙丹が口をはさんだ。

「なに」

「玉・・・・・・頭は、ふだん演技をしているんですか」

「ふざけたこと聞くんじゃねえ」老鴉が毒づくと、

「みんな」石頭が話題を変えようとして言った。

「次は十時に北の匯山碼頭(マトウ・・・埠頭)から日本郵船の客船が出る。日本人も金持ちが多い。稼ぎに行くぞ」

「今の上海には日本人もいるんですか?」

「いちいち質問するなって言ってんだろ。置いていくぞ」


 石頭以下四人の物乞いは午後九時過ぎにようやく一仕事終えた。

 皆で沿岸の路上駐車場に戻って自動車の前に座っていると、腹をすかせた花旗が、どこかでごみを漁って食べかけの焼き鳥と油条(ヨウティアオ・・・小麦粉をひも状にして揚げたもの)を見つけて持ってきた。それをおすそわけしてもらい、空腹をわずかに満たしていた趙丹は、今朝見かけた一九三一年の新聞がまだあるのを見つけ、再び取り上げて街灯を頼りにじっくりと読んだ。史実とちがう記事が載っているのは一度見たとおりだから驚かない。だが朝は気づかなかった広告に目をとめたとたん趙丹の目は見開かれた。

 それは一九三〇年代に人気映画を数々制作した摩登電影公司(ディエンインゴンス・・・映画会社)の広告で、新作映画の主演女優選考会を告知するものだった。映画の題名は『銀花』。主演女優のみ一般から募集するとのことで、一次選考日は一九三一年八月十五日土曜日と書かれてある。趙丹は心中で首をかしげずにはいられなかった。『銀花』などという作品は聞いたことがない。職業柄、映画には詳しいが、一九三一年はもとより今まで一度もそんな作品は公開されていないと断言できる。にもかかわらず、その映画の主演俳優は「趙丹」と書かれていた。さらに趙丹の写真まで載っている。現在の五十代の趙丹ではなく、一九三一年の広告だけあって二十歳の頃の写真だった。だがよく見ると、それは趙丹ではなかった。若い頃の趙丹によく似た顔ではあったが、微妙に異なる別人の顔だった。

 これは、どういうことだ。この新聞が最近発行されたものだとすると、この写真の顔は、若い頃の僕に似た誰かの顔ということになるが・・・・・・。穴のあくほどその写真を見つめていると、卵を食べ終えた花旗が長い髪をかきわけて覗きこみ、言った。

「そ、その広告、『銀花』だ」

「君はこの映画を知ってるんですか?」趙丹が聞くと、花旗は、

「もちろん。頭の娘が選考会を受けると言っていた映画だから」

 吃らずに言った。関心のある話題なら滑らかに話せるらしい。

「え、頭の娘が? 選考会は、これからあるんですか?」

「ここに一次選考は八月十五日と書いてある。十五日が九日後ってことぐらいわかるだろ?」

「一九三一年の八月十五日じゃないですか。今は一九六五年ですよ」

「はあ? この間抜けが。今は三一年だ」

 老鴉が横から新聞をとりあげ、趙丹の頭を叩いて嘲笑った。花旗も笑っている。人見知りでも、老鴉や石頭とは打ち解けているらしい。

 若者二人は笑いながら食糧を再び漁りに行ったが、趙丹は依然として首をひねっていた。どうも納得がいかない。いつのまにか今年は一九三一年ということになっていて、一九四九年に廃業したはずの摩登電影公司が復活しており新作映画を作ることになっていて、自分にそっくりな趙丹という名の男が主演俳優に抜擢されているとは・・・・・・。

 趙丹は途方に暮れ、沿岸に並ぶ洋館群を見上げた。それらルネサンス様式やアールデコ様式の建物は租界時代に大班(タイパン・・・支配人)と呼ばれた西洋人たちによって、ホテルや銀行、商社として建てられたものだが、共産党の手に落ちてからは政府の建物になっていた。それが今、往時さながら煌々と灯火をともしており、玄関から背広姿の白人たちを排出していた。外灘がバンドと呼ばれていた頃、そのままの光景である。いったいどうなっている。胸の中で叫んでいると、

「おまえ、本当になにも知らないのか?」

 ふいに後ろから石頭が聞いた。

「え」

「今は俺とおまえしかいない。誰にも言わないから、正直に答えても大丈夫だ」

 石頭は小声で言った。その言葉を趙丹は信じていいかわからなかったが、なにも隠すつもりはなかったので、警官が声の届かない場所にいるのを確認すると言った。

「上海がなぜ変わったのか、僕は本当にわからないんです。この一か月、監獄に入れられていたものですから」

「そうか・・・・・・そういうことなら俺が教えてやろう」

「本当ですか?」

「みんなには俺が教えたと言うなよ」

「言いません、約束します。お願いです、どうか話してください」

「よし」石頭は声を一段と低くして話しはじめた。

「二週間前、政府から発表があった。暦を一九六五年から一九三一年に改め、一九三一年をやり直すというのだ。『新一九三〇年代化政策』と呼ばれるもので、施行は八月五日に決まった」

「八月五日というと昨日ですね・・・・・・いったいなぜ共産党政府が資本主義に支配されていた一九三一年をやり直すなどと?」

「政府はこう言っている――『歴史では三〇年代は中国が国民党と外国に支配された時代ということになっているが、そのような歴史は改められねばならない。我々は暗い歴史を書き換える必要がある。我々は三〇年代を新たにやり直さねばならない』と」

「それだったら資本主義と帝国主義の遺物を復活させるのは変ですよね?」

「政府の言い分はこうだ――『市民に租界時代を再体験させ帝国主義の欠点をあぶりだす必要がある』。だが、俺は信じていない」

「と言いますと?」

 趙丹が詳しく聞き出そうとした瞬間、石頭が前を見て言った。

「おっと、話はここまでだ」

 すぐ近くにキャデラックが停車し、人が出て来そうだった。果たして運転席が開き、中国人運転手が降りて来て後部座席のドアを開いた。朝から似たような光景をなん度も見ていた趙丹は、また白人が出てくるのだろうと思ったが、現れたのは中国人だった。これまた一九三〇年代風に白いスーツと靴できめている。ただし小男ででっぷり肥っている上、顔から好き放題に生え伸びた髭が腹まで垂れているので、なんとも見苦しい。おまけに背の低さをごまかすためか、頭に細長い白の帽子を乗せているので、本人は洒落のめしているつもりでも、全身真っ白のコックにしか見えないというありさまだった。

 その男にむかって石頭が頭を下げて言った。

「頭、お疲れさまです」

 頭? この男はもしかして玉子か? でもほくろと例の毛がない。趙丹が首をかしげていると、

「バア! わしじゃよ」玉子が両手を顔の横で広げて笑った。

「立派な服装と付け髭じゃろ。おどけたくもなるわい」

 なるほど、玉子の特徴のほくろと毛は付け髭で隠されていたのか。

「驚きました。そのキャデラックは・・・・・・?」

「わしがなぜこんな高級車に乗ってるかって? オッホ、オホホホ、これで驚くのは早いわなア。わしゃこれでも救済事業に寄付もしておってな。物乞いの収入はばかにならんちゅう、チュウチュウ、Hey, you、ユーズ(玉子)かいなア、ハ!」

 拳をつきだしてポーズを決めた。

「ま、なんといっても、わし、玉子は物乞い組の頭じゃ」

 趙丹は先ほどの石頭の話を思い合わせると、物乞い組なるものが本当に存在するかどうか疑わしいと考えたが、

「二万人いるという組の頭は玉子さんなんですか?」

 そう聞いた。すると玉子は得意げに、

「今ごろ知ったか」そう言って胸をそらした。

「人呼んで物乞い皇帝とはわしのことじゃ。昼間は顔を汚して物乞いをするが、夜ともなれば正装して遊びに行く」

 当局が監視しているのに、そんなことが許されるのだろうか。あるいはキャデラックに乗るのも、物乞い組とやらの頭になることも、当局が命じたことなのかもしれない。

「頭、今夜はどちらへ?」石頭が尋ねた。

「四馬路の方じゃ」玉子はそう言ってニヤリとした。

 四馬路と言えば租界時代には色街として有名だった通りである。

「悪いが老鴉たちに、今日の上りは明日受けとると言っておいてくれ。そいじゃっ」

 玉子は肥った体をくるりと回転させてキャデラックにむかおうとしたが、その瞬間頭から白い帽子がポロリと落ちた。

「なんだよこのシャッポは。せっかくポーズを決めたところだったのによ!」

 玉子は顔を「×」の字にし、別人の口調になって罵った。

「いったい何回落ちりゃ気が済む。今夜はもう四十九回目だ。縁起が悪いんだよ。暑いしやってらんねえ、ハアハア」

「頭、その帽子よりも、こちらの方がよろしいのでは」

 石頭が後ろから差し出して言った。

「花旗が拾ってきたやつですが、これなら頭から落ちることはそうありますまい」

 玉子は気をとり直したと見え、元の口調で言った。

「まことか? ちと変ではないかの」

「ちっとも」

 玉子が女物のリボンのついた麦藁帽子を頭にちょこんと乗せると、

「とってもお似合いです」石頭は言った。

「そうか」

 玉子は車体に自らの姿を映して確認している。怒りだすのではないかと趙丹はハラハラしたが、

「よし、これで行く」

 ご満悦のようすで言い、キャデラックに乗りこんで発車した。

「はああ、おだてんのも楽じゃないよ」

 石頭がつぶやいた直後だった。キャデラックが急停車し、車窓から玉子が顔を出して言った。

「石頭、今回は帽子に免じて許すがの、あまりよけいな話をすると、汝の首がふっとぶぞ」

 先程趙丹に内緒話をしていたことを見抜かれていたのか。石頭は水を浴びせられたような顔になった。


 玉子を乗せたキャデラックは旧英米共同租界で二番目に華やかだった福州路、別名四馬路(スマロ)の手前で停車した。玉子はそこで降りると周囲を警戒し、目立つこと極まりない格好でいながら目立たないよう背中を丸め、大勢の通行人にまぎれるようにして四馬路に入った。

 四馬路もまた新一九三〇年代化政策の施行にともない、少なくとも外観はある程度、当時のままに復元されている。通りの西側には妓楼の看板が所せましとどぎつく光り、赤い燈籠があちこちに吊り下げられ、共産党が一掃したはずの野鶏(ヤーチー・・・街娼)らしき派手な旗袍を着た娘たちが、手絹(ショウジュアン・・・ハンカチ)をゆらして客引きをしていた。

 しかし玉子はそちらではなく、まず東側に行き、開明書店と古籍書店で本を物色してから、普通のホテルである呉宮飯店の食堂で食事をとり、それからようやく西側の妓楼街に足を向け、なん度か角を折れ曲がり細い路地に入って尾行されていないことを確認してから、桃色の燈籠の吊り下がった一軒の店に入って行った。『杏花楼』の看板が掲げられている入口を入ると、

「いらっしゃいまし」

 銀色の首飾りと耳環を下げた中年の妓女がやって来た。その顔を見るなり玉子はどきりとし、妓女が自分の格好を見て笑いをこらえたのにも気づかなかった。

「香春と申します。よろしくお願いします」

 折り目正しく頭を下げた女を見て、玉子は驚きを隠せないようすだったが、平静を装って言った。

「はじめて見るな。新人か」

 香春は新人にしては年をとりすぎているが、若々しく綺麗な顔だちで、ぴったりした旗袍を着こなした体も魅力的だった。

「それじゃ今日はあんたについてもらおうか」

 玉子は頬を染めて言った。趙丹たちといる時とはまったくちがう口調である。

「ありがとうございます」

 香春という名のこの妓女は、趙丹の妻・黄宗玲であった。妓女を侍らせて席に座り、酒の入った玉子は、

「ああ残念だ、いい女がいても眺めるしかできないんだからな」

 そう言って体を寄せそうな気配を見せた。黄宗玲はあわてたようすでかわした。

「そんなことありませんよ。こうしておしゃべりだってできるじゃないですか」

「そうだが、下手にしゃべったりするから、毎回欲求不満が膨れ上がる。色街とは名ばかり。すべて見せかけだけ。それが新一九三一年さ」

 そう言って手を妓女の膝に伸ばした。黄宗玲は体をこわばらせ、反射的に身を守る格好をとった。

「おっと、そう構えなくても。新人の姐さん」

「すみません」黄宗玲は客を怒らせたのではと不安になった。

「まあいいが」玉子は苦い顔をして言った。

「妓女に触れたら、用心棒から警察に伝わって、民警(人民警察の略)が飛んで来る。それは私も困るからな」

 そのとき、背広姿の五十年輩の男がそばに来たかと思うと、

「やあ玉さん」と玉子に声をかけた。

「北康(ベイ・カン)さん」玉子が振り仰いで答えた。

 その男を見るなり、黄宗玲は目を見開いた。男の方でも宗玲に気づいて体をぴくりと動かした。北康と呼ばれたその客は、夫の親友の鄭君里だった。映画監督の鄭君里は趙一家よりも一足早く赤い手紙をもらって北康という名になり、貿易会社の部長にさせられていた。玉子とは杏花楼で知り合った。秘密裡に夜は妓楼の客になることが日課になっていたからだ。

 鄭君里と黄宗玲のようすを見て、玉子が言った。

「二人はお知りあいで?」

「ええ、まあ・・・・・・そうです。この妓楼で知りあった」

 鄭君里はそう言ってごまかし、とりつくろうように黄宗玲に行った。

「もっと早く君に会いたかったけど、遅くなったね」

 いきなりそんなことを言われて黄宗玲は驚いたが、とっさに玉子が鄭君里を呼んだ名を思い出して口にした。

「北さん、待ってたわよ」

 鄭君里は黄宗玲の今の名がわからないので心中焦ったが、表面は笑顔で言った。

「それはうれしいね」

 二人は客と妓女の役をなんとか演じた。元の世界の友人との接触は禁じられていたので、二人が知り合いだったと警察に伝わったりすれば家族まで危険にさらされるからだ。

「僕もここに座っていいですか?」

 鄭君里が聞くと、玉子は快く言った。

「もちろん」

「今、飲み物をお持ちするわね。なにがいいかしら?」

「それじゃ紹興酒を」

 黄宗玲が飲み物を取りに行くと、玉子は鄭君里に言った。

「実は北さんが今夜辺り来ないかと思って待っていた所でして」

「それは申し訳ありません。もっと早く来るつもりだったんですが、尾行をまくのに時間がかかってしまって」

「また尾行が?」

「民警も私服がいますからね、油断はできませんよ」

「まあ新一九三一年になってからは、いつでも警官に見張られて気がぬけませんね。ところで北さん、貿易会社の方はどんな塩梅です?」

「相変わらずですよ。毎日定刻に出勤して退社するだけ。仕事なんてなにもない」

「いやいや、あると聞いてますよ」

 玉子が意味ありげな目つきをすると、鄭君里は苦笑して言った。

「報告書作成のことですか。ありゃ仕事とは到底言えませんよ。貿易会社とは名ばかりで取引など一つもない会社が儲かってるかのように、おとぎ話をでっちあげて書面にするだけですから」

「でもそれが当局に必要とされてることなのでは?」

「ええ、残念ながら。我々がでっちあげた報告書は報道機関にまわされ、報道機関は実体のない経済活動を事実であるかのように――いや、より大げさに報道する。『○○公司、今期も大増益』という具合にね」

 そのとき、黄宗玲が酒を持って戻って来た。

「お待たせしました」

 玉子は話をつづけにくそうな顔になったが、鄭君里が言った。

「彼女なら心配いりません。我々の味方です」

 玉子は意外そうな顔をして言った。

「そうですか、へえ香春が」

 これで黄宗玲の現在の名がわかった鄭君里は、

「香春、おいで」そう言ってさし招いた。

「それじゃ玉さんには悪いけど、そちらに座らせていただくわ」

「私のことなら、お構いなく」

「お二人でどんなお話をなさっていたの?」

 黄宗玲が聞くと鄭君里が小声で答えた。

「今の上海が大好況なんてありゃ真っ赤な嘘だってことを話してたんだよ」

「まあ大胆なお話。でも本当みたいね」

 黄宗玲も声を落として言った。

「さっき来たお客さんもこっそりこぼしてた。新一九三一年がはじまると同時に、昔あった会社がたくさん復活したけど、どれも名ばかりだって」

「会社に限らないよ。銀行もどこも、仕事してるふりをさせられるだけ」

 鄭君里が言う。

「うちなんかも、貿易会社として輸出入をやっているふりをさせられている」

「それでなにも入ってない箱を大量に船に積んだり降ろしたりやらされているんですね?」

「そうです。街に活気があるように見せるためだけに、経済活動の体裁だけはとらされるんです」

「それでいて本当に儲けになる仕事は禁じられているというのが現状ね」

「当局は人民を資本家にする気はないですからね。金のある人間は当局の脅威になるわけですから」

「その点、物乞いは資本家にはならないと見くびられてるのか、比較的自由にやらせてもらえてますね。ちりも積もれば山となるで身入りも悪くない。会社は本当に一銭も給料がもらえないんですか?」

「もらえないもらえない、社長だろうが社員だろうが同じですよ。食糧も住居も、みんな当局からの現物支給。秘密資金がなかったら、この店になんかとても来られません」

「秘密資金と言いますと・・・・・・?」

「あは、そう大げさなものじゃありませんよ。ここだけの話、僕は新政策実施前に現金を多少ですね、見つからないところに隠しておいたもんで」

「なるほど、それを使ってるんですか。しかし危険では。当局に気づかれたら――」

「そのときはそのときです。危険でも刺激があった方がいい。まったく毎日当局の一九三〇年代ごっこの片棒を担ぐために退屈極まりない時間を送らされてるんですから、いやになりましてね。だからこそ新一九三〇年代化政策の真の狙いがなんなのか、当局に隠れて調べる気になったんですが」

「それで、なにかわかりましたか?」

「はっきりしたことは、なかなかわかりませんね」

「私も物乞い組を利用して、ひそかに情報を集めてますが、それでわかったのは――」

 玉子は周囲に目を配ってから、いっそう声を低くして言った。

「政策を推薦しているのは、とても意外な人物だということでして」

「いったい、誰だと言うんです」鄭君里と黄宗玲が聞いた。

「それは、まだ教えられません。いずれ正確なことがわかりしだい、お知らせすると約束します」

「そうですか、期待していますよ」鄭君里は言った。

「で、話を戻しますが、政府は新政策を実施した目的は、表向き一九三〇年代の歴史を名誉あるものに書き換えることだと言っていますが、どう思いますか。僕は信じられませんが」

「私も同感です。政府の言うことは建前に過ぎないでしょう」

「こんな政策がいつまで続くのかしら・・・・・・」

「現状は長くは続かないだろう」鄭君里が言った。

「そう思う? どうして」

「第一財源が持たないだろうよ。実質的な経済活動もなしにどうやって国民生活を維持していくというんだ」

「私も北さんの意見に賛成です。そう言うのには実は根拠があるんで。周恩来同志がよく参詣する静安寺が縄張りの手下からある噂を聞きましてね。周同志は今でも新一九三〇年代化政策に反対していて、国を一九六五年に戻そうとひそかに動いていると」

「え、そんな噂が? 事実なら非常に心強いですが」

「話では、周同志はなん億という人民が理不尽な政策の犠牲になっているのは自分の力が及ばなかったためだと思っているとのこと。いずれにしろ、周同志が人民の味方なのは間違いないでしょう」

「周同志は立派なお方だわ。『あなたを支持します』と伝えられたらいいのに」

「そうだな。周同志はつねに人民のことを思っていてくださる」

 鄭君里がしみじみとした口調で言うと、

「実は私に考えがありまして」玉子が切り出した。

「どんな考えです」

 鄭君里が促すと、玉子は思いきったように言った。

「周同志を支持する会を作りませんか」

「え、そんな大胆なことが、この時世にできますか」

「体制に反対する者同士でひそかにつながることなら、できるんじゃないかと。当局には知られないように会の存在を人から人に伝えてもらえれば、ねずみ算式に会員を増やすことができます。メンバーが増えたところで暴動を起こせば、体制をくつがえせるかもしれません」

「国民党体制下の共産党みたいなものですか」

「そんな感じです。今度倒されるのは共産党の一派になるでしょうが。どうです、北さん、おたがいに手を取り合って現状に立ち向かいませんか」

「そうですね・・・・・・覚悟を決めてやってみましょうか。香春はどうかな?」

 鄭君里に目で参加を促されたが、黄宗玲は迷った。下手をすれば私だけでなく家族にも危険が及ぶ。でも、このままなにも動かず、なんの希望もなく、家族と引き離された状態で過ごすことに耐えられるとも思えない。鄭さんたちに協力すれば、たとえ危険はあっても、夫や娘とつながることができるかもしれない。そう思った黄宗玲は言った。

「私も、やってみようかしら」

「あんた、秘密を守れるか?」

 玉子に疑うような目を向けられると、黄宗玲はかえって奮起し、決然と言った。

「ええ、守れるわ。私にできることはやるわよ」

「香春は芯の強い女性ですし、信用できます、大丈夫ですよ」

 鄭君里が言うと、玉子はようやく納得したような顔を見せて言った。

「北さんを信じましょう。それでは周同志を支持する会はここに発足するということで、よろしいですね?」

「はい」三人は固めの杯を交わした。

「なんだか元気が出てきましたよ」鄭君里が言った。

「僕は当局に隠れて昔なじみと接触しようとしていたんですが、簡単にはいかず、親友の居所はつかめずで、落ち込んでいたものですからね」

「これからはどんどん仲間が増えますよ」玉子が弾んだ声で応じた。

「物乞い組の二万人も入れるつもりですしね。そうそう物乞い組と言えば、一度北さんに会わせたい人間が。今はまだ仕事についたばかりですが、一人前になって組の一員になったら、連れて来ましょう。明らかに常人とはちがうので、ひと目で気に入ると思いますよ」


 趙丹は妻と娘といつか偶然再会できるかもしれないという希望を胸に、翌日も翌々日も埠頭で仕事をつづけた。地味な荷物運びである。二日目以降は物乞いらしいボロ服を石頭が貸してくれたので褌姿でやるよりは客がつき、少しは金が入ったが、全額上納金で奪われ、満足な食事もとれないため体を悪くするばかりだった。花旗と老鴉のように人をだませば稼げるのはわかっていた。老鴉は刃で体を傷つけたくない日は、うどん売りの真似をして荷車を引き、わざと人にぶつかって、それを相手のせいにして弁償させていた。そんな真似は正義感の強い趙丹にはとてもできなかった。若い二人から馬鹿にされても、石頭から邪魔者扱いされることがあっても、荷物運びをして稼ぐしかなかった。だが足腰が痛んで動作が鈍かったり、あまり重い荷物を持てなかったりするため、稼ぎはいつまでたっても増えない。

 物乞い組の一員として認められないまま、一週間が過ぎた。その日趙丹が腰の痛みに耐えかねて地面に座りこんでいると、四十代の頭、玉子に声をかけられ、いきなりこう言われた。

「わしが恵んでもらうところを見たいか?」

「え」

「汝はいつか知りたがっていたのう。わしがなにをして儲けるか」

 ほくろから生えた毛を利用した秘技でも披露するのだろう、と趙丹は思っていた。

「今日が好機じゃ。これからちょうど、そこのパブリック・ガーデンにひと稼ぎしに行く」

 パブリック・ガーデンは二百メートルほど先にある、一八六八年に黄浦江の河原を埋め立てた公園だった。

「あの公園は一九二八年までは中国人は入れなんだが、今はこんな格好のわしらでも入れてくれるでの」

「でも園内にいる人は、ほとんど白人みたいですが」

「じゃから儲かるんじゃわい」

 木々に囲まれ、河の風の吹くパブリック・ガーデンには夏の朝、人が集まる。趙丹が行ったときも、散歩や体操をしたり、新聞を読んだりする白人が多くいた。

 玉子は芝生の上で立ち止まった。そして足もとに小銭を入れた缶を置いたかと思うと、いきなり歌い出した。あっけにとられるほど、すばらしい歌声だった。玉子はその声で英語の有名な歌ばかり十八曲、感情たっぷりに歌いあげると、周りに白人たちが続々と集まって来た。ほくろから伸びた毛も、たしかに見世物として客寄せの役割を果たしてはいた。しかしひとたび玉子の歌声を聴いた者は、三つ編みを忘れてうっとりと聞き惚れてしまう。曲が終わるごとに「ブラボー、ブラボー!」という歓声とともに拍手がわき、玉子の置いた缶にはみるみる金銀の硬貨が雨あられと降った。

 玉子はこうやって稼いでたのか。これだけ歌が上手ければ、なるほど儲かるだろう。僕も歌には自信がある。他にも武術に剣術、奇術、物真似等、得意な芸はたくさんある。だが僕の場合、芸は元の職業につながる行為になるから、民警の目につく場所ではできない。それ以前に、芸を安売りする気にはなれない。趙丹には映画俳優としての誇りがあった。


 その晩、玉子はまたキャデラックに乗って埠頭に現れ、石頭以下四人にむかって、

「今夜こそ汝らにおごるつもりでいたのじゃが、どうしても外せない予定が入ってしまったわい」

 残念そうに言ったが、眉が一本につながっていたので機嫌は悪くないと見た老鴉が、

「どんな予定ですか?」と、好奇心を表して聞いた。

「実はな、撮影所の友人が映画監督に会わせてくれるというのじゃ」

 玉子は笑顔を満面に広げた。

「え、頭、撮影所の人とお知り合いなんですか?」

「ま、そうじゃ。その人とは百楽門(パラマウント・・・ダンスホール)で出会った」

「それで今夜会う映画監督とは、誰なんです?」

「陸新華という」玉子は自慢げに言ったが、

「聞いたこともない名前だな」趙丹は思わずつぶやいた。

「この野郎、頭にむかって失礼な」

 老鴉が怒鳴ったが、玉子は制して言った。

「阿三が知らないのも無理はないわい。雲の上のような人じゃからの。しかしわしは今夜会う。新しい映画の件でな」

 新しい映画? 現在制作は当局の圧力でできないはずだが・・・・・・。疑問に思う趙丹をよそに玉子は言った。

「陸監督は今度、摩登電影公司で『銀花』という新作を撮るんじゃ」

「え、『銀花』?」

 趙丹は『中国日報』に載っていた映画『銀花』の主演女優募集の広告を思い出した。

「そうじゃ、その映画の選考会をうちの娘が受けるから、監督に会っておこうと思ってな」

「頭に娘さんが? この前老鴉さんから聞きましたが、本当だったんですか」

「いちいちうるせえやつだな」老鴉が言う。

「まあまあ、こやつにはなにも教えておらんのじゃから」

 玉子はそう言うと趙丹に得意げな顔をむけた。

「本当は口外すると罰せられるのじゃが、わしには娘がおるのじゃ。今は蓮英と名乗っておる。今年十八じゃ」

 僕の娘と同じ年だ。だが信じていいだろうか。実の娘なら、警察の目のある場所で堂々と口にできないはず――。

 どうも引っかかった。『銀花』の主演が趙丹という名の、若い頃の自分にそっくりな俳優らしいのも気になる。趙丹は玉子を見つめ、思いきって言った。

「あの、僕も陸監督に会わせてもらうことはできませんか?」

「こいつ、なに言ってやがる。組にも入れねえ分際で」

 老鴉が横槍を入れたが、玉子は趙丹の申し出に腹を立てることはなく、真面目な顔をして言った。

「汝が二週間で百ドル稼げたら、会わせてやってもよいぞ」

「本当ですか?」趙丹は目を輝かせた。

「わしが嘘をつくと思うか。しっかと聞け、汝がそれだけ額を稼げたら、物乞い組にも入れてやるし、陸監督にも会わせてやると約束する」

「あ、ありがとうございます」

 趙丹は期待していなかった分、興奮して言った。

「二週間で百ドルですね。稼いでみせます」

「無理無理」老鴉が唇を曲げて言った。

「百ドルと言ったら、イギリスの大財閥が建てたそこのキャセイ・ホテル一泊の宿賃十ドルの十倍だぜ。それを一日に一ドルも身入りのねえ老いぼれが二週間で稼げるもんか」

「老鴉、わしが今夜おごれなかったからと言って、あまり八つ当たりするでない。今からいい物を渡すから、機嫌を直すのじゃ」

 玉子はなにやら街路樹の周りの土を掘りだしたかと思うと、手の平で丸め、団子を作っていき、

「・・・・・・おし、これで四人分できたわい」

 一人ずつに手渡して言った。

「四人とも、目を閉じて十数えよ。それから目を開けるのじゃ」

 皆が目を開けたとき、玉子はいなくなっており、土団子は四つの皮蛋(ピータン・・・ゆで卵の一種)に変わっていた。

「さすが玉子だけある! 見ただろ、石頭。これぞ神仙術だ」

「俺たちが目を閉じている間に、すりかえただけだろ」

「信じろよ・・・・・・う、うめえ、この皮蛋。信じる者は救われる!」

「皮蛋をはげみに、が、頑張れよ。おじ、おじさん」

 花旗が趙丹に言った。


 二週間後の夜、玉子は石頭以下三人の前で趙丹に聞いた。

「して汝、この二週間でいくら稼いだかの?」

「・・・・・・十六ドルです」

 趙丹は自分の甘さを認めざるを得なかった。腰痛があるだけに、一日中働いても荷物運びだけでは、やはりそれが精一杯だった。

「だから言ったろ」老鴉がせせら笑った。

「いまだ組に入れねえとはお気の毒さま。頭だって無理だとわかってたんだよ。でなかったらおめえに陸監督を会わせるなんて言うか。ねえ頭、こんな役立たず、組に入る資格ねえんだから、飯を食わせるだけ無駄っすよ」

「口を慎め。わしは阿三が条件さえ守れば陸監督に会わせると約束した。わしが嘘をつかん人間であることを忘れたか?」

「いえ。失礼しやした」

「わかってるなら、よろしよろしイ。わしは別に怒っとらんからのう」

 玉子はほくろの毛をピョンピョンはねさせた。

「ふふ、実は汝らに、知らせたいことがあってな。実は、わしの娘が『銀花』の二次選考を通過して最終選考に残ったんじゃ」

「それはそれは、おめでとうございます」

 老鴉はここぞとばかりに祝福した。

「オホホホ、写真見るか? 陸監督が最終選考の模様を撮ったのをくれたんじゃ」

「ぜひ、お見せください」

「おしおし。ささ、近う寄れ」玉子は一同を周りに寄せ集め、

「六枚あるんじゃがのう」

 もったいぶったようすで一枚ずつ見せ、自慢げに解説した。一枚目はなんと若い頃の趙丹にそっくりな男の大写しだった。趙丹が改めて目を見張っている間に、花旗が興奮した声で言った。

「こここ、これは主演俳優の趙丹ですよね? し、新聞で見たことがある」

「よく知っておるな。そうじゃ、二次選考を見に来てたのを撮ったという話じゃ」

 その顔を見ても誰も『阿三に似ている』とは言わないので趙丹は疑問に思い、自分から言った。

「この顔、僕に似ていると思いませんか?」

「はあ?」老鴉が言った。「どこが似てるんだよ」

「たしかに僕は年をとってますけど、この男が後三十ほど歳をとったら、僕にそっくりな顔になると思いませんか?」

「思わねえよ。おっさん、自分を買いかぶりすぎだ。趙丹もいい迷惑だぜ」

 趙丹は僕だ、そう言いたくなる気持ちを趙丹は必死で抑えた。

「討論会は終わったかいなア? 二枚目に行くぞ」

 玉子は一枚目を後ろにし、二枚目を前にした。美しい娘の顔が写っている。

「わわわ、綺麗な娘」

「この娘は菊花という。最終選考に残った娘の一人じゃ」

 そう言うと玉子は次に三枚目を見せ、四枚目になると自慢げに言った。

「これがわしの娘、蓮英」

「おお、美人っすねえ」老鴉が叫んだ。

「本当だ」花旗も珍しく賛同する。

「あ・・・・・・」

 趙丹はそう言ったきり言葉を失った。玉子の娘蓮英は、三〇年代の一流女優王瑩にそっくりだったのである。

「蓮英さんなら、まず優勝間違いないっすよ」

 玉子は皆の褒め言葉に気をよくして相好を崩したが、口ではこう言った。

「はてのう。強力な対手(ドゥイショウ・・・ライバル)がいるもんでの。次の写真に写っている娘じゃが」

 そう言って玉子が五枚目を見せたとたん、趙丹は目を見張った。五枚目に写っていた顔は、趙丹の娘にそっくりだったのである。

「その写真、ちょっと僕に貸してください」

「なんだなんだ、阿三。柄にもなく気に入ったか」

 茶化す石頭の言葉も耳に入れず、趙丹は奪った写真を見つめた。これはどう見たって苑玲だ・・・・・・。

「あれもまあ綺麗な娘ですが、頭の娘には到底及びませんよ」

「じゃが雲鶴(ユンヘ)という名で、相当高評価を得てるらしいて」

 それを聞いた趙丹は耳をぴくりと動かした。雲鶴だって?

 玉子たちは六枚目を見せはじめたが、趙丹はそれには一瞥もくれなかった。

「やっぱり今見た中で一番魅力があるのは蓮英さんですね」

 石頭が言うと、玉子は言った。

「気を使わんでも、雲鶴だけは蓮英といい勝負をしているのは、わしもわかっておる。実際一次を一位通過したのはこの娘という話じゃ」

「でも最終選考はまた別ですよ。蓮英さんが一位になるに決まってやす」

「そうだといいんじゃが、九月の五日まで気が気じゃのうてなア」

「最終選考は来週の土曜なんですね」

 石頭が確認すると、玉子はうなずいて言った。

「うむ、会場は華東撮影所じゃ。わしは応援に行くつもりでおる」

「どうやって入るんすか?」

「新聞記者に化けて入ると言ったら、陸監督が内々に許可をくれた」

「さすが頭」老鴉が言った。「化けるのはお手の物ですものね」

「僕も入らせてもらえないでしょうか?」

 突然、趙丹が言った。一同は唖然とした。

「とんだ軽薄親父だぜ。陸監督に会えなかったもんだから、今度は選考会見学に行かせてくれってのか? ちっとはてめえの分際をわきまえろ」

「頭、お願いします。最終選考までの九日間でいくら稼いだら許可してもらえますか?」

 趙丹は必死だった。選考会に行けば娘に会えると思ったからだ。玉子は趙丹の目を覗きこむように見ると言った。

「機会を与えてやってもいい」

「ほ、本当ですか?」

「本当じゃとも。阿三、九日で百ドル稼いだら、わしと一緒に選考会に連れて行ってもよい。組にももちろん入れてやるわい」

「ありがとうございます」趙丹は張り切って言った。

「次は絶対に稼いでみせます」

「二週間で十六ドルしか稼げなかったやつが、どうやって九日で百ドル稼ぐってんだ」

 老鴉が馬鹿にする。

 今に見てろ。九日後にはなんとしても必ず百ドルを手に入れてみせる。趙丹は娘に会うためには手段を選んでいる場合ではないと考えた。誇りを捨て、覚悟を決めて、芸で稼ぐことにしたのである。

 翌日から趙丹はパブリック・ガーデンを主な仕事場にした。民警に咎められたとき、元の職業とは直接関係ないと言い逃れできるようにするため、奇術と物真似に絞ったのだが、一旦はじめると水を得た魚のようになった。おどけた仕草を取り入れるなどして見物を飽きさせなかったので人の輪は途切れることなく、缶に投げ入れられる金はどんどん増えた。

 五日後にはパブリック・ガーデンに趙丹が立っただけで、人だかりができるまでになった。今や人気の点では玉子をしのぎ、収入も多いときは一日で二十ドルにものぼり、玉子についで稼ぎ頭だった老鴉の収入を軽く超えるまでになった。皆はしだいに趙丹を見直すようになった。期日より一日早い八日目にして、趙丹の収入は百ドルを突破した。

「ようやったな、阿三。わしが見込んだとおりじゃ。汝はやればできると思っておった」

 玉子は眉を一文字に結んで言った。

「汝を物乞い組の一員と認め、約束どおり『銀花』の最終選考会に連れて行ってやろう」


 九月五日土曜日の午後、趙丹は玉子とともに黒塗りのキャデラックに乗り、最終選考会が開催される華東撮影所にむかった。

 華東撮影所は旧フランス租界に隣接した郊外の、外灘から自動車で三十分ほどの場所にある。途中まで民警の自動車がついて来ているのが見えたが、あちこち迂回してまくと、旧フランス租界を出た頃に玉子が警備員の制服を趙丹に渡して言った。

「わしが用意してやった。早く着替えよ。わしは芸能紙『文淮報』の記者にばけるが、汝は警備員になるのじゃ」

 キャデラックは撮影所から歩いて数分の場所に停車した。玉子と趙丹は時間をずらして降車し、別々に撮影所にむかった。

 趙丹は外を巡回する警備員のふりをして撮影所の塀沿いに歩いて門にむかい、首尾よく中に入った。もうすぐ娘の姿を見られると思うと、うれしくて顔がほころびそうだった。だがさすがは役者で警備員になりきることは忘れず、表面はあくまで落ち着いて、それらしい足どりで建物に入り、会場である第二スタジオにむかった。華東撮影所には俳優としてなん度も訪れたことがあったため、勝手はわかっていた。途中の通路には控室や倉庫のドアが並んでいる。と、控室のドアが開き、最終選考に出る娘たちが出て来た。


 時間はさかのぼって一か月前の八月五日、趙丹の娘・苑玲は午前三時に女性警官に家族と引き離されて自動車に乗せられた後、自宅からさほど遠くない住宅街に連れて行かれた。自動車を降り、淮海路を右になん度か折れ曲がると、奥まった路地に洋風の煉瓦造りの二階建てが幾つも並んでいた。そのうちの一軒の二階へつながる外階段に、女警察官は苑玲を上らせた。二階の廊下沿いに懐中電灯で照らして進み、一番奥の部屋のドアを開くと、警官は暗い電灯をつけて言った。

「今日からここがおまえの部屋になる」

 ごきぶりが床を走ったのが見えた。三角形の狭い部屋。窓からは近所の家の壁しか見えない。

「お父さんとお母さんは? 二人はどこに連れて行かれたんですか」

 男のような女性警官は質問には答えず厳然と言った。

「今日からおまえの名は李雲鶴(リ・ユンヘ)、年齢は十九歳。過去は捨てて生きること」

「あの、どういうことですか。私は十八歳ですし、勝手に名前を決められて過去を捨てろなんて言われても困ります」

 父親に似て曲がったことの嫌いな苑玲ははっきりと主張したが、女警官は無視してつづけた。

「今後、おまえは元の名を名のることは許されない。ただ今より、元の友人、家族に接触すること等、元の名に結びつく一切の行動は禁じる」

「ちょっと待ってください。私は九月から教育大学に入学することが決まっているんですけど、それも禁じると言うんですか? 教師になりたくてやっとの思いで合格したんです」

「おまえは李雲鶴としての道を歩まねばならない」警官は言った。

「違反した場合、おまえとおまえの家族をただちに罰するものとする」

 苑玲は鉄丸を飲みこんだような顔になった。

「おまえは今日から新しい人間になって、あるお方のために生きることが定められている」

「あるお方? その人は誰なんです。私とどんな関係があるんですか?」

「それは今は言えない。いずれ、そのお方から直接話があるはずだ」

「いずれっていつですか?」

「早ければ明日、おまえを訪れるだろう。李雲鶴としての生き方を指南してくださるはずだ。地位あるお方だから、くれぐれも失礼のないように」

「地位って、どんな地位ですか? その人に聞けば私がどうしてこんな目に遭ったか、わかりますか?」

 女警察官は無視していきなり大声を張り上げた。

「では、はじめ!」

「『はじめ』ってなにを?」

「李雲鶴になることだ。明日に備えてまずは寝ることだな」

 女性警官はそう言って出て行った。

「この部屋で寝る・・・・・・」

 壁際に薄汚れたベッドがあるのが、頼りない電灯の光の中に見えた。


 フライパンで乾いた大豆を炒るような激しい音が聞こえる。

「うるさいわねえ」誰かが文句を言っている。年輩の女の声だ。

「主婦どもが外に馬桶を出して洗ってるよ。竹ひごの束だけじゃよく落ちないってんで貝殻を入れてガシャガシャやるんだよね。このうるささときたら、まったくあのときのままだ」

 女は窓のそばに立っている。軍帽と軍服を身につけ、黒眼鏡をかけているから、はじめは男かと思った。

「やっと起きたね。七時半だよ」

 女は苑玲を見てそう言い、寝台に近づいて来た。苑玲は目を完全に開き、夢ではないと気づいた。

「誰ですか?」身をかたくして聞くと、女は言った。

「あら、聞いてない? 私のことは民警が伝えているはずよね」

「というと、私に会いに来る地位ある人って言うのは、あなたですか?」

「そうよ」

「あなたはどなたですか? 軍服を着ていらっしゃいますけど、党の幹部の方でしょうか」

 苑玲は寝たまま質問を浴びせた。すると女は癇癪を起こして言った。

「それが人に物を尋ねる態度なの?」

 苑玲はあわてて跳ね起き、頭を下げた。

「申しわけありませんでした。こんなに早くいらっしゃるとは聞いておりませんでしたので――あなたは、どちらからいらっしゃったんでしょうか?」

「黙りなさい。私がどこにいただの、私の名だのを軽々しく尋ねるんじゃない」

 嫌なおばさん。なんでそんなに威張られなきゃいけないのよ。

「わかった?」

「・・・・・・わかりました」

「あんたには崇高な任務がある」

 女はにわかに厳粛な口調になって言った。

「女優になること」

「え、女優?」苑玲は驚きのあまり思わず言った。

「私の夢は教師になることです。女優ではありません」

「ふん、相当甘やかされて育ったみたいね」

 女はそうつぶやくと、苑玲の面前に顔を寄せて言った。

「あんたの考えなど誰も聞いていないの。李雲鶴は映画界の女王になる必要があるのよ、わかった?」

「・・・・・・」

「いやだと言えば、あんたの大切な人間たちまで罰せられるわ。それでもいいの?」

「・・・・・・いいえ」

「だったら従いなさい。わかったわね?」

 苑玲は両親の顔を思い浮かべ、

「・・・・・・はい」うなずいた。

「よろしい。それじゃそこの椅子に座りなさい」

 女は寝台の前の今にも脚が折れそうな木の椅子を示し、苑玲を従わせると言った。

「今からあんたの任務を話すから、よく聞きなさい。――返事は?」

「・・・・・・はい」

「あんたに映画の選考会を受けてもらう。作品名は『銀花』。主演女優は公募しているけど、主演俳優はすでに趙丹に決まっている」

 その名を聞いたとたん、苑玲は目を輝かせ、

「主演はお父さん?」思わず言った。

「お父さんはたしか阿三という名前になっていたかと――」

「なにを言ってるの」女がさえぎった。

「人前で『お父さん』などと口にしたら、おしまいということがわからないの? 元の家族に関することを口にしたら罰が下ると民警から聞いたはずよ」

「申しわけありません・・・・・・」

「さっきの発言は聞かなかったことにしてあげるわ。私が特殊な地位の人間であることを感謝するのね」

 その言い方に苑玲はまたムッとしたが、こらえた。

「あんたはこう思うかもしれない――特殊な地位にあるなら、自分が望む人間を主演女優にすることぐらい朝飯前のはずだと。私だってできればそうしたい。でも今の上海の映画界はまだ、私に敵対する勢力に牛耳られている。どういうことか、わかる?」

「敵対する勢力、ですか」

「そう。敵対勢力は、ことあるごとに私の邪魔をしようとする。実に憎むべき一派で、残念ながら、『銀花』の陸監督もその一人だということは、はっきりしているわ」

「それでは・・・・・・」

「なによ。あんたを後押ししているのが私だとわかれば、陸監督は他の娘を選ぶかもしれないと心配になった? 大丈夫よ、陸監督は作品に政治を持ち込まない。女優は実力で評価するはず。私だって李雲鶴には実力で主演女優の座を勝ちとってもらいたい。だから本気でやってちょうだい。わかった?」

「・・・・・・はい」

「その目はまだわかってない。私がなぜあんたを選んだかとか、よけいなことを考えてるんでしょう。あんたさっき、お父さんがどうのと言ったわね」

「はい」

「お父さんに会いたければ、選考会に受かること」

 女は黒眼鏡を陽光にきらりと光らせ、意味ありげに言った。

 私のお父さんが趙丹だと、このおばさんは知っている・・・・・・?

「合格すれば、会えるんでしょうか?」

「もちろんよ」女は力強くうなずいた。

「それでしたら・・・・・・全力で頑張ります」

 女は得たりとばかりに言った。 

「そうこなくちゃ。まずは一次選考に通過すること」

 女は隅に置いてあった鞄から厚い本を取り出し、苑玲の前の円卓に置いた。本の表紙には『人形の家』と書かれてあった。

「女主人公、ノラの台詞を丸暗記しなさい。ちゃんと暗記できたか、三日後にテストする。今日は八月六日だから、三日後は八月九日の日曜日になるわね」

 日曜日? 九日は月曜日のはず。そう思っていると、女は苑玲の心を読み取ったように言った。

「暦が変わったことは知っているでしょう? 七月二十三日から新一九三〇年代化政策が施行されると政府が発表したわよね」

「あ」

 苑玲は二週間前、ラジオで聞いた政府の発表を思い出し、あわてて言った。

「はい、もちろん知っています」

「そうよ、知ってて当然。街も一九三〇年代風に戻っているんだから。しっかりしてちょうだいね。優秀でなければ選考会には勝ち残れない。いい? 日曜までの三日間はこの脚本を覚えることに集中するのよ」

 女はそれだけ言うと、部屋を後にした。

 苑玲はこんな所に閉じこめられるのかと思うと目の前が真っ暗になる気がした。両親と家が恋しかった。家族、友人と引き離され、得体の知れない軍服の女の監視下に落ちて、女優になる道を歩むなど、とうてい受け入れがたい現実だった。苑玲は俳優夫婦の間に生まれたが、女優になろうと思ったことはなかった。子どもの頃から直接人のために尽くしたいと思い、教師を目指していた。とにかくお父さんに会うためと思って耐えるしかない。


 三日後の朝、軍服の女が再びやって来た。苑玲がすべての台詞を暗記していることがわかると少なからず驚いたようすだったが、褒めることはせずに言った。

「暗記はできて当たり前。これからは演技の特訓が必要よ。プロの私が指導するから、ありがたいと思いなさい」

 女は一次選考までの五日間、毎日苑玲の部屋に足を運び、朝早くから夜遅くまでみっちりと特訓した。その間、黒眼鏡をはずしたことは一度もなく、名前を明かすこともなかった。


 そして苑玲は八月十五日の一次選考、八月二十二日の二次選考ともに見事一位で突破した。

「勘違いしないでね。あんたは運がよかっただけよ」

 最終選考会を九日後に控えた二十七日の朝、里弄の部屋で軍服の女は苑玲にむかって厳しい口調で言った。

「今まではなんとかうまくやれたかもしれないけど、今度はそう簡単にはいかない。あんたと一緒に残った四人はみんな侮れないからね」

 女はそう言って四枚の写真を円卓の上に並べた。

「最終選考であんたと主演を争う四人の顔よ。一枚ずつ、裏に名前が書いてある。じっくり見なさい。このなかに私に敵対する一派が送り込んだ娘がまぎれこんでいるはずだから」

「わかりました」

「あんたは、どの娘が臭いと思う?」

 苑玲は最終選考に残った人物の名前は通知の書類で見て知っていたが、顔を見るのはこれがはじめてだった。左から一枚ずつ手に取り、裏に書いてある名前を確かめながら順々に眺める。一番目の菊花(ジウホワ)は清楚な美人。二番目の白露(バイルウ)は蠱惑的で色気たっぷり。三番目の蓮英(リアンイン)は知的な顔立ちで目に力があり、芸達者そうだ。最大の対手になるかもしれないと感じた。四番目のあどけなさの残る可愛らしい娘を見たとたん、苑玲はハッと息をのんだ。知っている顔だったのである。

「小莉(シャオリイ)・・・・・・」思わずつぶやいた。

 四枚目に写っていたのはどう見ても、苑玲たちよりも一か月早く皋蘭路の家から姿を消していた方一家の娘、小莉だった。ずっと行方を気にしていただけに、苑玲は驚きを隠しきれなかった。裏には思燕(スーイエン)と書いてある。

「あんた、その娘を知っているの?」

 女に聞かれ、苑玲はあわてて言った。

「い、いえ」

「ふうん」

 女は疑うような声で言うと、苑玲の反応を探るように聞いた。

「じゃ、この娘が敵の手先だと思う?」

「いえ、思いません。この娘だけはちがうと感じます」

 苑玲はきっぱりと否定した。

「それじゃ誰が手先だと思う?」

「二番目の白露という娘だと思います」

「色気美人ね、たしかに胡散臭いわ。私はこの猫みたいな目をした蓮英の方が曲者に思えるけどね」

 たしかに思燕を除けば、みんな怪しく見える。

「要するにみんな油断がならないってことよ。敵はあんたが私の後押しする娘だと気づいているみたいでね、あんたが主演を勝ちとれば、私が今よりも映画界に影響力を持つことになると思って警戒している。だからこそ自分たちの送り込んだ娘を勝たせようとしているのよ」

 それじゃ私にはまるで勝ち目がないということになる。

「誤解しないでほしいけど、陸新華は前も言ったとおり、審査は公平にするから、その点は心配不要。問題は、それ以外の人間が、自分たちの送り込んだ娘を主演にするためには、どんな卑怯な真似だってやりかねないってこと。最終選考会までに、敵一派があんたを襲いに来ることだって、ないとは言えない」

 え、私が襲われる・・・・・・?

「油断はできない。この部屋にはいつ誰が侵入してくるかわからないの。そこで、あんたを守ってくれる男を呼んだわ。最終選考までの九日間、この部屋にいてもらうことにした」

 ちょっと待って。知らない人と九日間も同じ部屋で生活するなんて、冗談じゃない。青ざめる苑玲にかまわず、女はドアを開けた。苑玲はせめてもの抵抗の印として、うつむいた。

「はじめまして、唐納(タン・ナー)です」

 あいさつする声が耳に入った。

「雲鶴、顔をあげなさい。これから九日間、世話になる人よ」

「気を使わないでください。世話だなんて。こちらこそ厄介になります」

 男がそう謙虚に言ったので、苑玲は顔をあげる気になった。

 上背のあるすらりとした体に、白い上下の洒落た背広を身に着けた、色の白い青年の顔が目に入った。がっしりした獰猛そうな男が入ってくるものとばかり思っていた苑玲は驚きのあまり思わず言った。

「この方が、護衛ですか」

「唐納は私が発掘した脚本家の卵でね、二十五歳で、年の割に紳士よ。なにも不安がることはない。さあ、早くあいさつしなさい」

「あいさつだなんて、そう畏まらなくてもいいですよ。雲鶴さん、よろしく」

 唐納は微笑して片手を伸ばし、握手を求めた。苑玲は仕方なく手を差し出したが、唐納の手の感触も、そのニヤけた感じも、油壷から抜け出たような優男ぶりも気に入らなかった。握手が終わると苑玲は我慢できずに顔をそむけた。

「まったく、そんな態度をとっていいと思ってるの?」

 女が怒鳴ったが、

「同志、大丈夫です」唐納は笑顔を見せ、

「僕にまかせてください。三日もすれば彼女は僕に打ち解けます」

 自信たっぷりに言った。

「期待してるからね」

 女は唐納にそう言うと、次に苑玲を見て言った。

「私は今から行く所があるけど、十時にはここに戻って、最終選考にむけた特訓をするから、そのつもりでいなさい」

 苑玲は男と部屋に二人きりになったので身構えた。だが唐納は女がいなくなると、苑玲とむしろ距離をとり、

「どうかお構いなく。君は演技の練習でもなんでも好きにしてて。僕は脚本を書くから。――ここ、借りるよ」

 そう言って円卓にむかい、鞄から出した原稿用紙を広げ、自分の世界に入ってしまった。苑玲も演技の練習をする気になり、女にもらった台本の台詞を口に出しはじめた。すると、

「今の台詞、もう一度言ってごらん」唐納が突然ふり返って言った。

「え?」

「君の発音には上海語の訛りがあるね。映画女優になるなら、標準中国語(北京語)を綺麗に発音できないと」

 苑玲は思わずむっとした。

「あなたになんの関係が」

「僕はじき売れっ子脚本家になる。言うことを聞いて損はないと思うよ」

「唐納さん、でしたっけ。あのおばさんとは、どこで知り合ったの?」

「そんなことを知るより、今は訛りを直すことの方が重要だ。『是(シー)』ともう一度発音してごらん」

 唐納は立ち上がって苑玲に近づき、目の前でじっと待った。苑玲は無視したかったが、

「さあ、発音して。君にはやる気がないと、あの方が十時に戻って来た時に報告されたいのかい?」

 そう言われ、しぶしぶ『是』の発音をした。

「スー」

「巻き舌がうまくいっていない」唐納は首を横に振って言った。

「スーじゃなくてシー。もう一度」

「スィー」唐納は顔を近づけて、

「もっと舌を丸めて・・・・・・こうだ」

 いきなり自分の舌を苑玲の口に差し入れた。

「ちょっと! なにするん・・・・・・」

 苑玲は真っ赤になって飛びのいた。

「驚かせて悪かった」

 唐納はそう言って苑玲を抱きしめた。苑玲はぞーっと鳥肌が立ったが、金縛りにあったように動けなかった。男は図に乗って苑玲の髪を撫ではじめた。少しばかり外見がいいからって、女がみんな参るとでも思ってるの。

「・・・・・・やめてください」

「誤解しないで」唐納はささやくように言った。

「僕は少しでも君の力になりたいだけ。だからもう一度、巻き舌をやってごらん。訛りを直すんだ、早く」

 唐納は苑玲の口を自分の舌で無理やりこじ開けようとした。唾液がねばりつき、荒い息が吹きかかる。助けて。苑玲は全力で唐納はねのけ、逃げようとドアにむかった。その瞬間、

「おい、どこへ行く」一変した男の声が襲った。

「逃げようってのか?」

 唐納は別人のように血走った目をむけ、荒々しく歩みよると、だしぬけに背中を殴った。苑玲はよろめき、倒れた。すると唐納は我に返った顔をし、

「怪我はない?」

 元の声に戻り、苑玲をあわてて起こし、寝台に横たえた。

「ごめん。殴るつもりはなかったんだ。君が逃げると思ったら、ついカッとなって手が勝手に・・・・・・」

「手が勝手にですって?」苑玲は逆上して言った。

「あなたのどこが紳士なのよ。本当に脚本家の卵?」

「嘘じゃない。君の護衛になったのも、あのお方に才能を見込まれてのこと」

「なにが護衛よ。守るかわりに襲えとでも、あのおばさんに言われた?」

 苑玲は真っ赤になって怒鳴った。すると唐納は腹を立てるどころか、うれしそうな顔になって言った。

「雲鶴は怒っているときが一番綺麗だ。君こそ僕の求めていた女性だよ」

「え?」

 苑玲がきょとんとすると、唐納はショックを受けたようすで、

「君は僕を見てもなにも感じない?」

「感じるってなにを」

「君と僕は運命によって結びつけられていると感じないかい」

 唐納はそう言って苑玲の手を握ろうとした。

「やめて。私はなにも感じない」

「そんなわけはない、君も感じるはずだ。こうすれば、わかるよ」

 唐納はまたしても唇を近づけた。

「やめて!」苑玲は身をかわし、逃れるために嘘をついた。

「私には好きな人がいるの」

「なんだって」唐納は身を離し、ただならない形相をして言った。

「そいつの名前は?」苑玲は戸惑ったが、とっさに、

「『銀花』の主演俳優」

 口にした瞬間、唐納の目がぎらっと光った。

「君、あの趙丹のことを・・・・・・?」

 苑玲は父親に結びつく発言をしたのはまずかったかもしれないと思ったが、今さら否定できないのでうなずいた。

「そうか。趙丹が君の思い人ね。あいつの顔なら知っているよ。写真があるから。僕は映画の批評もやろうと思って、新作に関する記事は切り抜いてるんだ」

 唐納は鞄から新聞の切り抜きらしきものを取り出し、そこに映っている写真を爪で弾いた。

「たしかに男前の顔をしている」

「彼が新聞に載っていた?」

「『中国日報』の『銀花』の主演女優募集広告に、主演俳優は趙丹と紹介されている。君は見たことなかった?」

「ないわ。私にも見せて」

 その写真を見た苑玲は、血の気が引いていくのを感じた。・・・・・・これはお父さんじゃない。第一、若すぎる。お父さんが若いころの写真とよく似てるけど別人。この人は誰。

「食い入るように見て、よっぽど惚れているみたいだな。僕は悔しい」

 唐納はそう言って苑玲の体を後ろから抱きしめた。

「ちょっと、なにするんですか」

「君が誰を好きだろうと構わない」

 欲情に燃えた唐納は苑玲の胸をまさぐりはじめた。

「やめてったら」

 抵抗しようとすると、ベッドの上に押し倒され、強い力で抑えつけられ、口を舌で封じられた。お父さん、お母さん、助けて・・・・・・。

 そのとき、誰かがドアをノックした。唐納は無視して愛撫をつづけた。だがドアはしつこく鳴りつづけた。唐納は舌打ちして苑玲から顔を離し、ドアにむかって怒鳴った。

「誰!」

「大家の女中の秦桂如です」

「なんの用?」

「雲鶴さんに電話がかかっているんですけど、雲鶴さんはいますか?」

「います!」

 苑玲はここぞとばかりに声を張り上げた。唐納は嘘をつくわけにはいかなくなり、苑玲に「よけいなことを言ったらただじゃすまない」と脅してからドアにむかわせた。

「助かりました」

 苑玲は部屋を出るなり秦桂如に感謝の言葉を述べた。

「なにかあったんですか?」

「あ、いえ・・・・・・別になにも。それより私に電話って誰からです?」

「スーイエンという人です。自分が電話したことは他の住人には内密にしてほしいと言われました」

「スーイエン?」

 繰り返して苑玲はハッとした。思燕・・・・・・? 苑玲は小莉の写真の裏に思燕と書いてあったのを想起した。電話の主は小莉かもしれない。

 大家の部屋の隣にあった電話の受話器は雑音まじりで、声の主が小莉かどうかは判別できなかった。

――雲鶴さんに直接会って話したいことがある。人目につくのを避けるため、夜中の三時にそちらを訪れるから、あなたはその時刻に里弄の前に立ってほしい。

 午前三時という非常識な時間と、相手が自分の居場所を知っていることに驚いて苑玲が問いただそうとした瞬間、電話は一方的に切れた。あまりに怪しい電話である。これこそ軍服の女の言う「敵一派」が苑玲を倒すために仕掛けた罠かもしれなかった。でも思燕の正体が小莉だとしたら? 会いたい。私に直接会って話したいことがなにかも気になる。その後苑玲は唐納のいる部屋で、午前十時から夜十時まで女の特訓を受けながら悶々としていた。


 午前三時前。唐納はベッドに横たわっていた。酒の匂いがするのは、苑玲が女中に調達してもらった紹興酒を飲ませたからだ。飲ませる前は唐納がなにをするかわからないのが不安だった。日中は軍服の女がいたから大丈夫だったが、二人きりになると、また体を求めてくる可能性もあると思ったからだ。だが幸い唐納は酒に強くなく、三杯飲んだだけで完全につぶれた。今はいびきをかいている。苑玲は音をたてないようにそっと部屋を出た。玄関を出てすぐの暗がりに、頭巾で顔を半分覆った小柄な女が立っていた。その女は苑玲が来ると、手招きして里弄の外へむかって歩きはじめた。午前三時のことで路地は静まりかえっていた。中学校の校庭前に来たところで女は立ちどまり、ふりかえると、いきなり小声で言った。

「『銀花』の主演女優になりたいと本気で思ってる?」

 その声にはたしかに聞き覚えがあった。

「小莉」苑玲は喜びに目を輝かせて言った。

「思燕はやっぱりあんただった。無事でよかった」

「しっ」

 小莉はそう制すと頭巾から覗かせた目で辺りを見渡した。苑玲は声を低くして言った。

「私の居場所がなぜわかったの?」

「詳しいことはまた後で。時間がない。私の質問に答えて。『銀花』の最終選考会が九日後にあるけど、あんたは本気で勝ちたいと思ってる?」

「今日の朝までは思ってた。主演俳優の『趙丹』がお父さんだと思ってたから。でも『趙丹』はお父さんとは別人とわかったの。だからもう主演女優なんてどうでもいい。ねえ、俳優の『趙丹』って本当はなに者か知ってる?」

 思燕こと小莉は問いに答えるかわりに言った。

「お父さんとお母さんに会いたい?」

「そりゃもちろん。なんで聞くの。まさかまた会えるとか?」

 苑玲は冗談のつもりで言ったのだが、小莉は真剣な声で答えた。

「うん。実は、ある計画があるの」苑玲は身をのりだした。

「なんの計画」

「ある人たちがね、『銀花』の最終選考対象者五人とその両親を北京に脱出させる計画を立てているの」

「なぜ? ある人たちってなに者?」

「上海当局のやり方に反対している人たちがいるの。その人たちは、『新一九三〇年代化政策』が施行されて帝国主義時代の文化が復活していることに怒っている」

「でも復活していると言っても表面だけだよね?」

「資本主義的な時装(シージュアン・・・ファッション)や文化を復元しているのは、上海だけなんだって。他の都市でも一九三〇年代の歴史を作り変える作業は行われていて、人民が新たな名前と職業を与えられ、新たな生活をさせられているのは同じだけど、資本主義的なものはいっさい復元されてないみたいなの」

「嘘、はじめて聞いた」

「上海は情報統制がしかれてるからね。当局のある人物が上海市の現状を他都市に知られないようにしている。しかも新聞には嘘を書かせて、他都市も資本主義文化を再体験してその欠点をあぶりだす試みをしている、と上海市民に信じさせているんだって」

「そうだったの」

「だから、そういう実態を知って怒った人たちが徒党を組んで、上海の実態を外部に知らせるため、私たちを証人として北京に行かせようと考えてるの」

「私たちが、なんの証人に?」

「上海でブルジョア映画が復興されようとし、その選考会が開催されているということを明らかにするための証人」

「でもそれならなぜ両親まで?」

「上海では家族がバラバラに引き離されています、ということも伝える必要があるんだって。他都市の市民は名前と職業を変えられても、元の家族と一緒に暮らしているそうだから」

「信じられない。上海当局の人って本当にひどすぎる。その人物って誰なの?」

「それはあんたが計画に参加する気があるなら、教えてもいいことになっている」

「うーん、両親には再会したいけど、いきなり言われたから・・・・・・」

「だめ?」

「そうじゃないけど・・・・・・上海当局を敵に回すようなことをして大丈夫かな?」

「わからない。でもあんたを味方にすれば、それだけ成功に近づけるって言われた。だから参加してくれれば、正直すごく助かるんだ」

「どうして?」

「それも残念ながら、あんたに意志があるとわかるまでは言えないことになってる」

「・・・・・・わかったよ、参加する」苑玲は決意を表した。

「ありがとう。きっとみんなすごく喜ぶ」

「それで、どうして私が必要なの?」

「あんたのところに軍服と黒眼鏡を身につけた中年女が出入りしてるでしょ。計画成功のためには、あの人の注意をそらすことが必要らしいんだけど、それがあんたならできるらしい」

「あのおばさん、いったいなに者なの」

「え、知らないの? あの人は――」

 小莉は周囲に人がいないことを再確認してから、聞きとれないぐらいの小声で打ち明けた。

「毛沢東夫人だよ」

 苑玲は全身の脈が止まったような感覚に襲われた。

「え・・・・・・嘘でしょ? あのおばさんが? 国家主席夫人の江青なんてまさか・・・・・・党の幹部かなにかとは思ってたけど」

「しぃっ。誰かに聞かれるとまずいから、名前は出さないで」

「わかった」

「とにかく計画成功のためには、夫人と毎日会うあんたの協力が不可欠ってこと、わかってくれる?」

「でも今の話を聞いたら態度に出ちゃうかも」

「大丈夫だよ。反対派の領袖が言うには、夫人はあんたには気を許してるそう」

「なぜわかるの? 反対派の領袖って誰」

「名前はまだ明かせないけど、夫人に劣らない地位にある人。だからこそ反対派を導ける」

「じゃ、その領袖が、あの人の言ってた敵ってことか」

「夫人がなにか言ってたの?」

「『最終審査は油断できない。私の敵が邪魔をしに来る可能性がある』って。『残った面子の中には敵に送り込まれた娘がいる』とも・・・・・・じゃ、その娘というのは小莉、あんただったの?」

「そう言うことになるね」小莉はうなずいた。

「領袖が私を選考会に潜りこませたから」

「そうか、小莉だけは『敵一派の娘』なんかじゃないと思ってたんだけど」

「夫人からしたら私は憎むべき敵かもしれなけど、その敵が悪人ではないことは、さっきの話でわかるよね? 悪人はむしろ夫人の方」

「『銀花』の陸監督が、自分に敵対する一派の一員だとも言っていたけど」

「それは事実。でも陸監督は夫人に圧力をかけられて・・・・・・いや、やっぱり言わないでおく」

「なによ、言ってよ」

「あんたをがっかりさせたくなかったから言いたくなかったんだけど、陸監督は夫人に圧力をかけられて、一次選考と二次選考にあんたを一位で通過させたんだって」

「え・・・・・・実力で通ったとばかり思ってた。あの人、私をだましてたんだ。特訓なんて言って」

「反対派の領袖は、上海映画界が夫人に牛耳られることを憂慮している。今はまだ領袖という監視役がいるからいいけど、夫人の勢いは止まらないって」

「じゃ最終選考も夫人の圧力で私が優勝すると決まっているの?」

「それはわからないけど、可能性は十分あるね」

「小莉、同じ選考会を受ける身として、いい気分じゃないでしょう?」

「ううん。私が選考会に送りこまれたのは、主演女優になるためではなく、脱出計画を成功させるためだから。あんたも計画に参加するとなれば、『銀花』で主演する機会は失うことになるけど、いいね?」

「主演には興味ないと、さっき言ったとおりだよ。私は家族と再会して一緒に暮らしたい。それで計画って具体的にどんな内容?」

 苑玲に聞かれ、小莉は以下のことを話した。反対派の計画実行日は選考会最終選考日の九月五日土曜日。それ以前に五人の両親に接触して計画を伝え、審査終了時刻前に会場近くのワインショップに集まってもらう。五人の娘は選考会終了後に店に移動し、両親と再会。そのまま親子そろって全員北京への移動を開始する。

「警察に知られずに、できるのかな」

「民警は領袖の力でなんとかなりそうだって。それより一番の障害は、選考会に付き添って来る夫人。夫人になにか感づかれたら、それこそ一巻の終わり」

「だから私に夫人の気をそらせと言うのね?」

「そのとおり」

 小莉はうなずいて、反対派が考えた具体的な方法を話した。

「くれぐれも疑われないように、最終選考日まで夫人の信頼を失わないようにしてね。特訓も熱心に受けて」

「わかった。きついけど、最低でも熱心に受けているふりはする」

「気を付けてよ。それからもう一つ、あんたに言うことが」

「なに」

「私、実は五人の娘のうち、なん人かには、すでに接触して参加の意思を確認したんだ。それで、みんなのお母さんに計画を伝える役を菊花にしてもらうことにしたんだけど、お父さんたちにはあんたが伝えてくれないかな? 五人の居場所は反対派の領袖が調べてわかってるから」

「それじゃ、お父さんに会えるってこと?」

「うん。担当すると言ってくれたら書類を渡すけど、どう?」

「もちろん会い・・・・・・担当したい。でも民警の目をかいくぐって行けるかな。それ以前に外に出られるかどうか。今日から夫人が私を守るためとか言って、部屋に自分の間諜を住みこませたから・・・・・・」

「でも今は出て来られたよね」

「それは夜中だし、間諜の男に酒を飲ませて寝かせたから。一時はどうなるかと思ったよ。君こそ僕の求めていた女性だなんて言われて、襲われかけて・・・・・・」

「その男、あんたに惚れてるんじゃない」

 小莉がからかうように言うと、苑玲は顔を赤くして言った。

「知らないけど、『君と僕は運命で結びつけられてる』なんて言って気色悪いの」

「じゃ、利用できるよ。あんたが気があるふりをして『表で逢引したい』なんて言えば、喜んで外に連れて行ってくれると思う」

「たしかに『二人だけの秘密にしたい』と言えば、夫人に言わないで外に出してくれるかもしれない。あの男との逢引なんて考えただけでも寒気がするけど」

「我慢するしかないね。その男が夫人の手下なら、民警も住民も邪魔してこないはず。ただ、デートのついでにお父さんたちに会って内緒の話をすることを、その男に怪しまれないようにしなきゃならないけど」

「そんなことが可能?」

「うん。お父さんたちの現在の職業からすればね」

 小莉はそう言って、五人の父親の居場所が書いてある書類の入った封筒を渡した。それから苑玲が彼らに言うべきことを伝えると、帰る時間が来たと言い、また連絡すると言って去って行った。

 苑玲は周囲に人気がないことを確認すると、その場で封筒を開けた。胸を高鳴らせながら中の書類を出し、街灯を頼りに文字に目を走らせる。五人の最終審査出場者の名前の下に、父親たちの現在の名前、職業、居場所が書かれてあった。菊花の父親は「人力車夫」で、白露の父親は「ホテルマン」とあった。つづいて自分の父親の欄に目を走らせる。鼓動が激しくなった。職業欄に書かれてある文字を見た瞬間、苑玲は愕然とした。

 嘘でしょ。そこには「物乞い」と書かれてあった。しかし自分の父親だけではなかった。蓮英の父親も、外灘の同じ場所で物乞いをしているらしい。居場所は両者とも「外灘、太古碼頭(埠頭)付近」になっている。二人は顔見知りかもしれない。外灘と言えば、思燕こと小莉の父親も、太古碼頭の南にある金光源埠頭の倉庫を居場所にしているとある。職業欄には「マフィア」と書かれてあった。あの国語教師の方おじさんが、と、これまた信じられなかった。


 苑玲は唐納をうまく丸め込み、一緒に外に行く約束をとりつけるのに成功した。苑玲が自分に惚れたと思い込んで有頂天になった唐納を操作するのは容易だった。苑玲は自分に乗り物の手配をさせてほしいと申し出て人力車会社に電話をし、例の書類に書いてあった俥の鑑札番号を伝え、菊花の父親が迎えに来るように設定した。

 しかしその後、午前八時からの特訓はさんざんだった。軍服の女の正体が毛沢東夫人江青だと知った今、そのことを意識せずにはいられず、さすがの苑玲も硬くなってろくに演技ができなかったのだ。

「どうしたの。いつもとちがうみたい」

 じっと苑玲を観察していた江青は、鋭く指摘した。

「原因は二つあるんじゃない。一つは私でしょ。今日のあんたは私をなるべく見ないようにしている。急に私を恐れる理由ができたみたいね」

 苑玲が顔色を変えたのを見ると、江青は唇の端に笑みを刻んで言った。

「図星ね。私を恐れる理由は見当がつくわ。あんた、私の正体を知ったんじゃないの?」

「え、いえ、知りません」

「その答え方はなに。嘘をつくときは、もっと上手につくものよ。演技が身についていない証拠ね」

 だが江青は苑玲が自分の正体を知ったとわかっても、怒ったようすはなかった。

「唐納が教えたのね?」

 苑玲は答えなかったが、江青は沈黙を肯定と受け取ったようすで言った。

「実はそろそろ私は自分が誰か、あんたに言おうと考えていたところだから、気にしなくて平気よ。いつもどおり振る舞いなさい」

 その言葉にほっとしたのも束の間、江青は言った。

「ところで、あんたが気もそぞろな原因の二つ目だけどね――時間が気になるんでしょ? 今も時計を見てたわね。私が帰った後、なにかしようと企んでいるんじゃない?」

 苑玲はドキッとしたが、表情を動かさずに言った。

「いいえ。よそ見していて申しわけありませんでした」

 江青は黒眼鏡を光らせ、

「そう、なかなかよく演技できたわ。指が震えてる以外はね」

 そう言って口に意味ありげな笑いを浮かべたが、それ以上は探ろうとしなかった。しかし遅くとも午後七時には終えると言っていたその日の特訓を、わざとのようになかなか終わらせなかった。外出を楽しみにしていた唐納はそばで見ていて午後八時の予定に間に合うか、気が気ではないという顔をしていた。

 午後八時、一台の黄包車が里弄の前に到着した。そのときもまだ特訓は続いていたので、大家のおかみさんが「黄包車が来た」と知らせに来たのを江青に聞かれてしまった。江青はわざとなにも言わず、十五分後に引き上げた。家を出て外に停車している黄包車を目に入れると、怪訝そうな顔をして一度二階の苑玲の部屋を見上げたが、しばらくすると立ち去って行った。

 予定より二十分遅れて、唐納とともに黄包車のもとに駆けつけた苑玲は車夫の顔を見るなりハッとした顔になった。

「どうしたの?」唐納が怪訝な顔で聞いた。

「別に、なんでもない。早く乗りましょ」

 その車夫はやつれてはいるが、父親の友人であるプロデューサーの夏雲湖にちがいなかった。菊花の父親って夏雲湖さんだったのか・・・・・・。車夫も苑玲を見て驚いたようだった。夏雲湖は苑玲の家をなん度か訪れたことがあった。夏雲湖にも娘がいたが、苑玲は会ったことはなかった。だから菊花の写真を見た時にはわからなかったのだ。それにしても、あの威風堂々としていた夏雲湖の見るも哀れなやつれぶりだった。それに比べるとホテルマンになった張陽ははつらつとしていた。二人には唐納の隙をついてうまく用件を伝えられたが、その後は少々手こずった。

 外灘に着いたのは午後十時過ぎだったが、辺りは桟橋や洋館の灯火でそれなりに明るかった。ただ方宜が常駐しているという倉庫の辺りに限っては、他の場所とちがって薄暗かった。苑玲は暗い所に行きたいと言って唐納をいい気にさせつつ、倉庫にどんどん近づいていった。唐納が体を密着させてきても抵抗せずに二人で倉庫のドアによりかかった。すると予期したとおりに陰から男があらわれ、

「なにしてる」

 鋭い声で横から言ってきた。苑玲には聞き覚えのある声だった。姿は闇に溶けて、はっきりとは見えなかったが、男は小莉の父親、方宜にちがいなかった。だが唐納は相手がマフィアだと思ってすっかり脅えたようすで、

「なにもしてません、すみません、許してください」

 声を震わせて憐れみを乞うたが、苑玲は言った。

「謝る必要なんてないわよ」

「なんだと?」

 方宜は言った。苑玲の声を聞いても、誰だか気づいていないようすだった。そう判断した苑玲はあえて挑発するように言った。

「なにしてようが、私たちの勝手よ」

「雲鶴、なんてことを言うんだ」唐納がとめたが、苑玲はつづけた。

「あなたこそ、こんな所でなにしてるのよ?」

 すると狙いどおり、方宜は逆上した声で、

「この野郎」

 そう言って苑玲の肩を腕で捕え、唐納から引き離して、こめかみに銃をつきつけた。

「今度文句を言ってみろ、こいつをぶっ放すぞ」

「お願いです、どうか彼女の命だけはお助けを」

 唐納はすっかり動転している。それを見た苑玲は自分に密着している方宜にひそかにささやいた。

「おじさん」銃を持った腕がぴくりと動いた。

「そのままの体勢で聞いてください。私は小莉の友人、趙家の娘です。おじさんに大事な話があります」

「君は・・・・・・苑玲か」

「私たちが話しているとばれるとまずいです。もう少し、彼から離れてもらえますか」

「わかった」方宜は小声でうなずくと、唐納にむかって怒鳴った。

「この女は俺がもらって行く。近寄るな。近寄ると撃つぞ!」

「どうか彼女に乱暴はしないでください」

「ここまで来れば聞かれない。それで話とは?」

 方宜は苑玲に銃をつきつけた体勢のまま言った。苑玲は夏雲湖と張陽に話したのと同じことを方宜にも伝えた。

「ある組織が一部の人間を北京に逃がす計画を立てています。九月五日午後七時、復興公園――現フランス公園そばのワインショップに来てください。奥さんと娘さんが待っています」

「ある組織?」方宜は疑わしそうに言った。

「はい」

「なぜ北京。なぜ僕たちが?」

「今詳しいことは言えません。連れはああ見えても私の監視役なので、疑われるとまずいんです。とにかく九月五日、どうかここを抜け出して来てください」

「悪いが、この頃僕は人の言うことを簡単には信じられなくなった。罠でないという証拠は?」

「証拠は今はありません。でも罠じゃありません。小莉も参加しています」

「仮に計画が本物だとしても、失敗したらどうなる? みんな終わりだ」

「お願いです、うまくいくと信じてください。当日小莉はおじさんに会えると信じて来ます」

「君も行くのか。お父さんにはもう伝えたのか?」

「父にはこれから会いに行きます」

 苑玲の声は思わず弾んだが、方宜は硬い口調で言った。

「よしたほうがいい」

「え、なぜ?」そのとき、

「二人でなにを話しているんですか」

 唐納が訝しそうな顔をして近づいて来た。方宜はとっさにマフィアの口調に戻して叫んだ。

「ぶっ放されてえのかっ」

「い、いいえ」唐納はあわてて両手をあげる。

「すみません、どうか彼女を撃たないでください」

「撃たねえよ。こいつが俺に謝りてえというから聞いてやってたところだ」

 方宜はそう言って苑玲を離した。

「ああ、雲鶴」

 唐納は苑玲の手をとり、方宜にぺこぺこと頭を下げた。

「ありがとうございます、感謝します」

「さっさと行け! 今度倉庫に近づいたらただじゃおかねえぞ!」

 唐納は苑玲の手を引き、尻に帆をかけて逃げ出した。苑玲は一緒に走りながら、

「時計塔の方を目指そう」

 どさくさにまぎれて唐納を自分の行きたい方向に導いた。時計塔の辺りの埠頭は太古碼頭と呼ばれ、父がいるはずだった。「よしたほうがいい」という方宜の言葉が気になりはしたが、会いたい思いは抑えられなかった。

 時計塔の前に来ると、自動車がたくさん路上駐車している辺りに物乞いらしき男が三人ばかりいるのが見えた。あの中にお父さんがいる・・・・・・? 苑玲は心を弾ませながら、

「ふう、ここまで来ればもう大丈夫ね」そう言って走るのを止めた。

「はあ疲れた、ふだん走らないからきついよ」

 足を止めた唐納が上半身を折って荒い息をついている間に、苑玲は三人の物乞いにそっと目をこらした。一人は苑玲より年下と見られる少年で、桟橋にむかって座り、道行く人に缶をつき出している。その隣の男は眼鏡をかけた中年男で、タイヤにもたれて飯をかきこんでいた。もう一人は二十代の敏捷そうな男で獲物を探すような視線を辺りに投げつけている。父の姿はどこにも見えない。太古埠頭一帯を見渡したが、街灯や電飾の明かりに浮かび上がる物乞いは他に一人もいないようだ。お父さんはここにいるはずなのに。どうして・・・・・・。あの人たちに聞けば、なにかわかるかもしれない。

 苑玲は唐納がまだ動けずにいるのを確認すると、なにも言わずに物乞い三人のもとに近づいて行った。怪しまれないように少年の足もとの缶に小銭を落としてから、小声で趙丹の今の名前を口にし、尋ねた。

「阿三はどこですか?」

 十代の物乞いが顔をあげた。するとその瞬間、

「花旗、答えるんじゃねえぞ」

 横から二十代の男が割りこんで言ったかと思うと、いきなりナイフの鞘を抜き払い、苑玲に刃をむけて言った。

「姐ちゃん、人にものを尋ねるんなら、もうちっとはずんだらどうだ。嫌だと言うんなら血を見るぜ」

 苑玲は慄然とした。今度は先ほどの方宜とはちがい、単なる脅しではないと感じたからだ。やむをえず財布からお札を一枚出して渡したが、勝気らしく言った。

「さあ、はずんであげたんだから、阿三がどこにいるのか教えてちょうだい」

「おいおい、これっぽっちで足りると思ってるのか? 財布ごとこっちによこしな。よこさねえんなら、まずこうだ」

 二十代の男はそう言って自分の腕をまくりあげて皮膚を数センチ切った。血が流れたのを見て、苑玲はぎょっとして言った。

「渡したら教えてくれるんでしょうね?」

「ああ、信用しろよ。俺はこれでも正直の老鴉って呼ばれてんだぜ」

 苑玲が財布を渡そうとすると、

「いけない! 渡しちゃだめだ」唐納がそう言って走って来た。

「おやおや王子さまのご登場と来たか。だけど残念、こいつはもう頂いたぜ」

 老鴉はひったくった財布を掲げて見せた。苑玲はお金よりも唐納が近づいていることを気にして言った。

「財布はあげるから、早く質問に答えて」

「全額寄付とはありがてえね。それじゃ答えてやるとしよう。阿三の居場所は知らねえよ」

「ふざけないで。知ってるんでしょう?」

「嘘じゃねえよ。本当に知らねえんだ。質問には答えたからね、寄付の取り消しは今さらなしだ」

「それじゃ余克(ユーケー)って人は知らない?」

 蓮英の父親の現在の氏名は余克で、趙丹同様、この辺で物乞いをしていると書類に書かれてあった。誰も答えなかった。

「ねえ余克って人、あなたたちのなかに、いるんじゃないの?」

「余克?」

 中年男がふと湯気で曇った眼鏡をどんぶりからあげて、つぶやいた。

「ああ、玉子のことか」

「なに口すべらせてんだよ」老鴉が文句を言った。

「この石頭親父が」

 そのとき、

「雲鶴」唐納が苑玲の横に現れて言った。

「余克って、いったい誰のことだい?」

 唐納はなにを誤解したか、その目に嫉妬の炎を燃やしている。

「よ、王子さま、恵んでくれる気になったか」

 老鴉がそう言って手をつき出すと、

「馬鹿にするな」唐納は唾を吐き出しそうな顔をして言った。

「この盗人が。彼女の財布を返せ」

 老鴉はたちまち色をなし、

「おうおう気取りやがって。こいつが怖くねえのかな」

 ナイフをちらつかせた。唐納が威勢を失い、ぶるぶると震えだした瞬間、

「やめーい」

 突然現れた人物が止めに入った。とたんに老鴉はナイフを引っ込め、他の物乞い二人と声をそろえて言った。

「頭」

 そう呼ばれた背の低い肥満漢が丸い頭を動かし、怪訝そうに尋ねた。

「いったいなんの騒ぎかいな」

 老鴉が答える前に石頭が苑玲を指さして言った。

「この娘さんが、阿三がどこにいるか知りたいそうです」

 それから玉子の耳に口を寄せて付け加えた。

「余克さんについても聞いていました」

 玉子は眉をぴくっと動かすと、なにを思ったか、次の瞬間苑玲にむかって愛想笑いを浮かべ、

「余克は私だよ」いつもとは別人のような言葉使いで言った。

 頬のほくろから伸びた毛が釣竿のように垂れているのを見て、苑玲は度胆を抜かれたが、懸命に自分を落ち着かせて言った。

「本当に余克さん?」

「うん本当だ。おじさんは阿三という男も知っている。だが彼は残念だけど朝まで戻らない。伝言があればおじさんが伝えておくよ」

 その口調に偽りは感じられなかった。苑玲はこの胡散臭い外見の男を信じる気になったが、唐納がそばにいるので、どうしようか迷った。唐納は嫉妬と不安と苛立ちを満面に表してわめき出した。

「雲鶴、阿三って男はいったい君のなんなんだ」

「大人しくしてもらおうか」

 玉子がどすのきいた声でそう言うと、唐納は一瞬で黙った。

「おじょうさん、こっちで話そう」

 玉子は苑玲を近くに駐車してあるキャデラックに連れて行った。

「あっ、雲鶴」追おうとする唐納を老鴉が立ちふさがって止めた。

 苑玲は自動車に入り玉子と二人きりになると、確認のため、彼が蓮英の父親かどうか尋ねた。玉子が「そうだ」と答えたので、苑玲は失礼にならないよう、ほくろの毛をなるべく見ないようにしつつ、他の父親たちに伝えたのと同じことを話し、さらに阿三にも同じことを伝えてほしいと頼んだ。すると玉子は言った。

「おじょうさんは阿三のことを口にする時、目の色が変わるようだ。ひょっとして阿三は君のお父さんではないかな?」

 苑玲は一瞬戸惑ったが、真実を伝えれば父に自分のことを伝えてもらえると思い、素直にうなずいた。

「そうか、おじょうさんは阿三の娘だったのか」

 玉子は謎めいた笑みを浮かべた。

「伝言はおじさんに任しときな」

 キャデラックを出て、物乞いたちから解放されて歩き出すと、唐納は苑玲に不機嫌な口調で言った。

「あいつらのせいでせっかくの逢引が台無しだよ。だいたいなんだ、あのほくろから毛の生えた親父は。三つ編みなんかにして、おめかしのつもりか。玉子みたいに肥った分際で。まさか苑玲、あんなやつに惚れたとか言わないだろうな」

「あのねえ、あの人はただの友だち」

「じゃ阿三は誰だ? ちゃんと説明してくれよ。でないと雲鶴、僕は君の監視役として黙っているわけにいかなくなるぞ」

「阿三もただの友だちよ。だから、さっきのおじさんに居場所を尋ねたの」

「信じられない。余克とかいうあいつ、キャデラックなんて持ってたが。だいたい二人きりでなにを話していたんだ。あいつは阿三という男への伝言があれば聞くとか言っていたけど、そんなの君を車内に引き込む口実だったんじゃないのか?」

「雑談していただけ。親戚のおじさんと話したようなものよ。私を信じてくれないの?」

「いや、もちろん信じるよ」

「だったら疑うようなことは言わないで。でないと私もあなたを信じられなくなる」

「わかった」

 唐納は口ではそう言ったが、納得のいかない顔をしていた。


 玉子こと余克はどういうわけか、苑玲の伝言を阿三こと趙丹に伝えなかった。

 二日後の八月三〇日日曜日、休日で大勢の見物が見込まれるパブリック・ガーデンに、趙丹が昨日と一昨日につづいて芸を披露して儲けに行こうとすると、路上で突然民警に声をかけられた。趙丹の知っている顔だったので、てっきり芸で儲けていることを咎められるのかと思い、あらかじめ用意していた台詞が口をついて出かかった刹那、警官はいきなり「ついてこい」と言って趙丹の腕をとって自動車に引っぱり込んだ。驚いたことに、要人しか乗れないような黒塗りのロールスロイスだった。

 ロールスロイスは趙丹が乗るとすぐに走り出した。道中、警官は質問を一切受け付けなかった。自動車は南京路の四大デパートの先にある、一九二六年開業のアパートメント・ホテル、華安大廈(チャイナ・ユナイテッド)の前で停まった。そのイタリア宮殿風の九階建ての建物の最上階に趙丹は連れて行かれた。九階に一つしかないドアの鍵を警官はなぜか持っていて、それでドアを開けると、趙丹を中に押し込んで告げた。

「もうすぐこの部屋に、あるお方がお見えになる。おまえに話があるそうだ。しばらく待つように」

 趙丹がなにか聞こうとすると警官は制して、

「我々はドアの外に立っている。露台にも見張りがいる。妙な気は起こすなよ」

 威嚇的に言ってドアを閉めた。

 その部屋はどう見ても閣楼(ガーロウ・・・ペントハウス)といった趣だった。警官にあの高級自動車で連れて来られたことから言っても、「あるお方」とは相当の権力者だと想像された。汚れた格好で高級長椅子に座る気にもなれず立っていると、突然ドアが開き、すらりとした体に軍服を着た女性が颯爽と入って来た。分厚い眼鏡をかけているので、顔を見てもすぐには誰だかわからない。

「ようこそ、いらっしゃい」女性は言った。

 そのかすれ気味だが、よく通る声に趙丹は聞き覚えがあった。

「突然招待したから驚いたみたいね」

 そう言って笑った女性の眼鏡の奥のアーモンド型の瞳を見るなり、誰だか気づいた趙丹は、

「江青同志・・・・・・」

 驚きを隠せずに言った。

 趙丹は江青と五か月前にも会っている。まだ一九六五年だった今年の四月三日、江青が上海で開いたパーティーに映画関係者を招待したからだ。だが今、物乞いになった趙丹を高級ホテルに呼んだ意味はまったくわからない。

「これはいったい・・・・・・」趙丹が言うと、

「ちょっとあなたに話があるのよ」

 国家主席夫人江青は高飛車な口調で言った。

「さあ、座ってちょうだい。飲み物はなにがいい? 珈琲、紅茶、それとも龍井茶かしら。ここには選りすぐりの茶葉がそろってるからなんでも言いなさい」

「そんな、僕などに気を使わないでください」趙丹は言ったが、

「遠慮は無用」江青は卓子越しに命令口調で言った。

「あの、同志、僕にどんなご用件が・・・・・・?」

「だから話があると言ったでしょ。でもせかさないで」

「すみません」趙丹が謝ると、

「あら」江青は驚いたような顔をして言った。

「今日はやけに恐縮しているようね。この前のパーティーとは別人みたい」

 江青の発言の真意がつかめないので、趙丹は用心して言った。

「あのときはお酒が入っていましたし、仲間が一緒でしたから」

「そう。今日はお酒を飲ませるわけにはいかないけど、遠慮しないでちょうだい。なにも怖がる必要はないわ。私の前では新一九三一年以前のことを話しても大丈夫だから」

「・・・・・・ここ最近、僕は悪い夢にうなされている気がしています。パーティーから三か月後の七月三日以来、自分の身の周りに劇的な変化がありましたから。七月三日、『河魂』の授賞式が突如としてなくなったのをはじめとして、理解不能な事態が次々と僕を襲い――」

「そんなことを聞きたいんじゃない!」

 紅茶の缶が手から落ちて床に転がり、茶葉が床にこぼれて散らばった。趙丹はびっくりして口をつぐんだ。すると江青は決意したように、

「仕方ない、自分から話すしかないわ。あのね、趙丹、私はあなたにある提案があるの」

 趙丹を阿三と呼ばずに言った。

「僕に提案・・・・・・?」

 江青は提案の内容を伝えると、こうつけ加えた。

「どうかしら、願ってもない話だと思うけど?」

 趙丹は難しい表情をしながらも、思いきって言った。

「申しわけありませんが・・・・・・」

 自分の耳が信じられないといった顔をする江青に、趙丹は提案を受け入れられない理由を説明した。

「そういうわけですから、このお話を受けるわけにはいきません。他のことでしたら――」

「・・・・・・けっこう。あなたにはもうなにも頼まない」

 江青は感情を無理に押さえつけた声で言った。

「ただこれだけは伝えておくわ。あなたの娘のことだけれど」

「娘が、どうかしましたか?」

 趙丹はさっと顔色を変えて聞いた。離れて以来ずっと案じていた娘の身の上だが 江青の口から聞くと不吉な感じがする。

「苑玲と言った? あの娘、上海から北京への脱出を企んでいるわよ」

「え、本当ですか?」

「あなたの娘は摩登電影公司の新作『銀花』の主演女優募集広告に応募して、一次二次選考を一位で通過したの。それで九月五日に最終選考を受けることになったのだけど、本気で女優になる気はないらしく、男と二人で北京に逃げようと計画しているみたいね」

 脱出計画のことをどこで聞いたか、江青はそう趙丹に伝えた。

「男と二人? なんていう男ですか」

「気になるのなら自分で確かめたらどう?」

 江青はあくまで冷ややかに言った。

「このまま娘が北京に行こうなどとしたら、家族全員罰せられるのは間違いないわね。特に娘は一番重い刑を受けるでしょう。それを避けたかったら、あなたが直接娘に会って計画をあきらめさせるしかないんじゃないの?」

 動転した趙丹は、江青の思惑を疑うよゆうもなかった。

「娘に会うと言っても、居場所がわからなくては・・・・・・ご存じでしたら教えてください」

「さあ、私もそこまでは知らないわ。でも九月五日に選考会会場に行けば会えるでしょ。娘が北京にむかうのは選考会が終わってからのはずだから、選考会の途中で会えば十分間に合うはずよ」

「そんな・・・・・・当日では間に合わない可能性がありますし、まだ六日もあるのでその間に会っておきたいのですが」

 趙丹は愛娘のことだけに激して言った。

「九月五日までなにもせずに手をこまぬいているなんて父親の僕にはできません」

「自分でどうにかしなさい」

 趙丹は後で外灘に戻ってから冷静になり、江青の話を鵜呑みにするわけにはいかないと考えた。だが娘が『銀花』の最終選考会に残っていることは二日前に玉子の写真を見て事実だと知っている。だからこそ選考会会場に連れて行ってほしいと玉子に懇願したのだった。とにかく今の自分にできることは、会場に行くため、稼ぐことだけだ。趙丹は以来いっそう熱を入れて芸を行い、その後の五日間で残りの六十ドルを稼ぎだし、見事期日より一日早く目標を達成したのだった。


 九月五日土曜日、午後七時。華東撮影所で開催された映画『銀花』の最終選考会は終わりに近づいていた。

 もうまもなく審査結果が発表される。

 だが苑玲が緊張しているのは、そのためというよりも、これから実行しなければならない任務のことを思っているからだった。最終選考出場者である五人は選考会が終わりしだい、主演女優に選ばれようが選ばれまいが家族と再会して北京に脱出するため、全員ワインショップにむかう予定だった。五人は会場の内外にいる民警や警備員たちに計画がばれないよう、細心の注意を払っていた。おたがいに必要以上に口をきかず、いかにも対手同士といった感じで振る舞っているのは、そのためだった。とはいえ、そうするだけでは安心できない。なにしろ会場には警察以上に警戒すべき人間がいた。江青だ。江青は撮影所の隅に座って、先程から審査結果を苛立たしげに待っているようすだった。今は苑玲が選ばれるかどうかということで頭がいっぱいのように見える。だとしても油断はできなかった。少しでも周りにおかしな動きがあれば、黒眼鏡の奥の瞳は捕えずにはおかないだろうと思われた。脱出計画を成功させるためには、江青の関心を別のことにひきつける必要がある。それが苑玲に与えられた任務だった。この後自分がすべきこと、言うべき台詞は、小莉から聞いたままに、苑玲の頭の中に刻みつけられている。後は実行するだけだった。成功すれば、私は両親と北京に行ける。親たちは七時過ぎにはワインショップに集合することになっている。お父さんは蓮英の父親から伝言を聞いたはずだし、お母さんも菊花から話は聞いているはずだから、二人とももう店に到着して私を待っているにちがいない。そう思うと胸がすばらしく躍ったが、脱出計画の成否は、この後の自分の行動ひとつにかかっていると思うと胃がひっくり返りそうだった。

 会場である撮影所の第二スタジオには、映画関係者の他、新聞雑誌記者がつめかけている。皆三〇年代風の格好をし、古い型のカメラを構えていた。

 いよいよ発表の時間となった。他の娘とともに控室を出て、報道陣の前に立った苑玲は、記者のなかに知った顔がまじっているのに目をとめて愕然とした。あれはどう見ても余克という蓮英のお父さんだ。例の印象深いほくろの毛は、付け髭らしいもじゃもじゃの髭に覆われて見えないけど、あの体型からして間違いない。それにしてもなぜ記者の腕章をしているの。おじさんは、物乞いのはずじゃ? それより気になるのは、もう七時を過ぎているのに、集合場所に行っていないことだ。

 蓮英の父親が、蓮英に笑顔をむけたのを見て苑玲は思った。もしかするとおじさんは、蓮英と一緒に行くつもりなのかもしれない。でも親子で移動なんてしたら、民警や江青に見つかる可能性が増えてしまう。止めさせたいが、推測だけで動くことはできない。それにカメラのフラッシュの前では、蓮英の父親はおろか蓮英にさえ話しかけることはできない。

 自分の父である趙丹が同じスタジオにいるとも知らず、そのときの苑玲は蓮英の父親のことばかり考えていた。


 趙丹は警備員の扮装をしてスタジオの隅に立っていた。

「その格好、なかなか似合っておるぞ、阿三」

 玉子は会場で最初に趙丹と会ったとき、こっそり言った。

「あ、頭」

「汝の後から自動車を降りて無事撮影所に入れた。これから選考会会場の第二スタジオに入って他の記者に会っても、ばれなきゃいいわいなア」

 付け髭が豊かすぎるのと、玉子のような体型が目立つきらいがあるとはいえ、自称・化けるのが得意な仙人というだけあって、それらしいスーツを着ると不思議と記者に見える。

「大丈夫です、みんなだまされますよ」

 趙丹は玉子を俳優の目で見て言った。

「表情がいいです。すっかりなりきっていらっしゃる。僕もできれば記者の方がよかったんですが」

「贅沢言っちゃいかんわなア。『文淮報』記者として入れるのは一人が限度じゃからのう。ここにこうして入れただけでもありがたいと思わにゃあ」

「もちろんありがたく思っています」

「まあ、今日は楽しむがよい」

 玉子は趙丹の肩を叩くと、耳に口を近づけてささやいた。

「もうすぐ娘の顔を拝めると思うと、感無量じゃろ?」

 趙丹は瞠目した。

「頭、どうしてそれを・・・・・・」

 意図あって、趙丹の娘に会ったことも、そのとき聞いた脱出計画の話も趙丹には伝えていなかった玉子は、

「仙術じゃわい」嘘をついた。

「汝がやたらとここに入りたがっておるから、わしと同じで出場者に娘がいるにちがいないと見当をつけたのじゃ」

「そうでしたか」趙丹は納得したような顔をした。

「それで汝の娘の名は?」

 趙丹は声を落として答えた。

「苑玲・・・・・・いや、今の名は雲鶴です」

「というと、うちの娘の最大の対手? こいつは驚きじゃ。それで汝、雲鶴には会えたのか?」

「まだです。さっき控室の近くを通ったとき、出場者たちが出てきたので期待したんですが、娘はいませんでした」

「残念じゃったな。ところで、娘たちの中に蓮英はいたか? わしもうちの娘にはまだ会えておらんのじゃ。蓮英の顔は汝も写真で見て知っとるじゃろう」

「ええ、でも控室から出て来た三人の中に蓮英さんはいなかったですよ」

「なんじゃ、そうか。まあ、じき選考会ははじまるから、おたがい娘の顔は見られる。汝も、どさくさにまぎれてスタジオに入ればよい。その格好なら誰も怪しまんわいなア」

「そうするつもりですが・・・・・・」

「今日はおたがいが競争相手じゃな。とはいえ、どちらが主演女優になっても恨みっこなしじゃよ」

「頭」ふいに趙丹は思いつめた顔をむけて言った。

「なんじゃ」

「僕の娘は・・・・・・主演女優になるつもりはないかもしれません」

「どういう意味かいナ?」

「あるところで聞いたんです。娘が今夜ここから男と二人で北京にむかう計画を立てている、と」

「なんじゃと」

 玉子は目を丸くした。半分は演技だが、半分は本気で驚いていた。

「男と二人で? そんなはずないが」

「頭、なにか知っているんですか?」

「知らんわいナ」玉子はあわてて言った。

「それより、あるところとは? どこで聞いたんじゃ」

「すみませんが、言えません。でも僕は話の真偽を疑っています。それで娘に直接事実か確かめたいと思っているんですが、どうやったら話せるかはわからないので困ってたんです」

 趙丹が打ち明けると、玉子はしばらくなにごとかを考えていたが、やがて薄笑いを浮かべて言った。

「わしが機会を作ってやるわい」

 趙丹は玉子の言葉を信じた。警備員としてスタジオに入り、選考会がはじまったときには、娘を見守るひとりの父親となっていた。

 ステージに現れた娘は思いのほか元気そうだった。その姿を久々に見、演技する姿を眺めた趙丹は胸を熱くした。

 今、最終選考出場者五人は再びステージに立ち、緊張した面持ちで結果発表を待っている。

 だが趙丹の目には自分の娘がどこか上の空のようにも見えるのだった。苑玲の頭の中は今、審査結果のことよりも、男と二人で逃亡することでいっぱいなのだろうか。そう思うと気が気でなくなった。このままだと、選考会が終わってしまう。玉子はいったいなにをやっている・・・・・・。

 玉子が趙丹のために動いている気配はなかった。玉子は記者に扮しているのをいいことに前に張り込んで、ひたすら蓮英ばかり見ている。

 苑玲は、父親がどれだけ見つめていても一向に気づかないようすだった。趙丹は玉子とちがってスタジオの隅に立っているわけだから無理もないかもしれなかったが、趙丹は焦りを禁じ得なかった。

 そのとき、会議室から出て来た審査員代表の陸監督がマイクの前で声を張り上げた。

「お待たせしました。ただ今より審査結果を発表します」

 娘たちは息をつめた。

「優勝者は――白露さん。おめでとう」

 カメラがいっせいに白露にむけられ、フラッシュがボンボンと焚かれた。

 その瞬間、記者たちの横にいる江青の鼻と口がねじまがったのか苑玲の目に入った。

 白露が最も演技に優れ、人を引き付けていたから審査結果は当然と言えたが、江青がそう思っていないことは明らかだった。

 実際苑玲にとっても、結果は意外だった。

「優勝は私のはずじゃなかったっけ」

 控室に戻る途中、小声で言うと、小莉はからかうように言った。

「今さら主演女優に未練が出た?」

「そうじゃないけど、あんたの話では結果は決まっているという話だったから」

「私も驚いた。夫人もびっくりしてたね」

「あれは相当怒ってるよ。ねえ、どうしよう。こんな状況であの人の気をそらす任務を果たさなきゃならないなんて。成功するか心配になってきた」

「大丈夫、『阿三が来ている』とさえ伝えれば夫人は引っかかるって」

「そうだといいんだけど。夫人が私のお父さんを探しているなんて、なかなか信じられなくて」

「私も詳しいことは聞いてないけど、大丈夫。とにかく夫人を出入口から遠い第三控室に連れて行くんだよ。わかったね?」

「今さらだけど、幾つか確認させて。私が夫人の前でお父さんの名前を口にしても、本当に問題ないの?」

「今まであんたは両親のことを夫人の前で口にしても平気だったんでしょ」

「もう一つ質問。お父さんが来ているというのが嘘だと夫人にばれたら?」

「ばれたって部屋に閉じ込めちゃえば、手出しはできない。あんたは夫人を第三控室に導いて中に入れたら、そこに入っている鍵で――」

 苑玲のポケットを目で示して小莉は言った。

「外から鍵をかける。それからすぐにワインショップへ行き、家族と再会して北京に行く。なにも難しいことはない」

「わかった」苑玲は振り切ったように言った。

「みんなが撮影所を出たらすぐに実行にうつす。私は遅れて行くことになるけど、ちゃんと待っててよ」

「もちろん。店までは歩いて十分で行けるけど、なるべく急いでね」

 優勝した白露も含め、出場者四人が会場を後にした頃――。

 苑玲は誰もいなくなった控室で着替えもせずに十分ほど座っていた。それから突然立ち上がって通路に出、撮影所内をひとめぐりして第二スタジオに再び戻った。江青は案の定、まだ残っている。そして苑玲を発見するなり言った。

「私、あんたのために監督に文句を言ってあげたわよ」

「文句ですか?」

「雲鶴が主演女優に選ばれないのはおかしいと言ってやったの。白露はどう贔屓目に見ても二番目だった、雲鶴こそ一番だったって。でも陸監督は白露が優勝と主張して譲らないのよ。いったいどういうつもりなのかしら」

 江青はまだ同じスタジオにいた監督に聞こえよがしに言った。

「おかしいわよね。あんたも一番は自分だと思うでしょ?」

「わかりません」

 そう言ったが、本心では白露の方が勝っていたと思っていた。

「あんたがそんなだからだめなのよ。自分こそ優勝だと監督に主張しなさいよ」

 このままだと監督の前に連れて行かれかねないと思った苑玲は急いで告げた。

「あの、実はお話することがあるんです」

「なに?」

「ここではちょっと・・・・・・」

 苑玲は周囲を見渡した。

「なんなの」

 江青はいったん苑玲とスタジオの外に出て言った。

「話って?」

「実は――」

「先程阿三という人に声をかけられて、ここに来ていることをあなたに伝えてほしいと――」

「今、なんて?」江青は眉をあげた。

 苑玲はてっきり自分の父親の今の名前を口に出したことを咎められるのではないかと思ったが、江青はただ信じられないという口調で言った。

「阿三が、この撮影所に来ている・・・・・・? 本当に?」

 その声はいつになくうわずっていた。江青は明らかに動揺している。小莉が言ったとおりだ。夫人はなぜお父さんの名前に反応を? お父さんとどういう関係なの? 疑念を頭に浮かべた自分を苑玲はすぐに恥じ、思い直した。私のお父さんが国家主席夫人の江青と関係があったわけがない。

「どこで声をかけられたの?」江青は勢いこんで聞いた。

「第三控室の前です」

「そう」江青は変に高い声でうなずくと、

「阿三と会って、あんた、なにも感じなかった?」

「え、それは・・・・・・」

 言葉につまった苑玲を、江青は黒眼鏡を光らせてじっと見ている。江青はやっぱり阿三が私のお父さんだとわかっているみたいだ。どう答えるべきか迷っていると江青は口もとをゆるめた。

「まあいいわ。それで阿三は他になにも言っていなかった?」

「あなたに第三控室に来てほしいと言っていました」

「それだけ? 阿三に会ったんでしょう? だったら今夜の計画についてなにか言われたはずよ」

「今夜の計画とは、なんでしょうか」

 苑玲はぎょっとした。江青はひょっとして私たちの計画に気づいている? 阿三など本当は来ていないとお見とおし?

「ちょっと耳にしてね。計画が、あるんじゃないの?」

 江青はそう言って苑玲の目を覗きこもうとするかのように黒眼鏡を近づけた。

 苑玲は心臓が凍りつきそうになったが、江青は探りを入れているだけだと自分に言い聞かせ、なるべく声を落ち着かせて言った。

「今伝えたこと以外には、なにも言われていません」

「そう」江青は謎めいた笑いを浮かべた。

「まあ、阿三に会えばわかることね。それで、第三控室とやらはどこ?」

「こちらです」

 電気室、照明倉庫、衣装室、その先が第三控室だ。通路でなん人かの制作陣とすれ違ったが、誰も怪しむようすはなかった。後は江青を控室に入れて閉じこめるだけ。そうすれば私の役目は終わり・・・・・・。倉庫を越え、いよいよ第三控室というとき、角から警備員が現れ、苑玲にむかっていきなり叫んだ。

「あの、すみません!」

 苑玲はハッとした。その声は父の趙丹そっくりだった。本当にお父さんが・・・・・・? 苑玲は震える声で言った。

「なんでしょう」

 そのとき、江青が言った。

「あなた、阿三よね?」

 娘に話しかけることに夢中だった趙丹は、後ろから現れた江青に気づいて蒼然とした。

「あなた、第三控室で私を待っているのではなかったの?」

「え、なんのことですか」

 趙丹はきょとんとした顔で聞き返した。苑玲は気が気でない。江青は問いを重ねた。

「あなたさっきこの娘にここで会って、私に来てほしいと伝言を託したんじゃなかった?」

「・・・・・・」

 娘が江青になにか嘘をついたらしいと察した趙丹は、苑玲の目を見て、どう答えたらいいかという顔をした。

 江青は二人の顔を見比べると、納得がいったという顔をして、

「そういうことだったのね。怪しいと思っていたのよ。・・・・・・あんた、さっきから、やたらとポケットを気にしているけど、なにか隠しているんでしょう」

 そう言って苑玲の腕を捕え、スカートのポケットをまさぐって鍵を見つけ出し、

「これは、いったいなに?」

 苑玲に答える隙も与えず、第三控室のドアの鍵穴に差し込んだ。鍵が見事に回ったのを確認すると、

「なぜあんたがこの鍵を? 私をだましてここに閉じこめようとでも考えていたんでしょう。私に見られたら不都合なことを、なにか計画しているのね?」

 その言葉は苑玲を凍りつかせ、趙丹の疑念をふくらませた。

「苑玲、本当だったのか? 男と二人で北京に行く計画を立てていたというのは」

 趙丹は平静を失い、江青の前にいるのも忘れて娘に怒鳴った。

「そいつはどこにいる? おまえをたぶらかした男の名前は、なんというんだ?」

 苑玲はわけがわからず、

「お父さん」思わず叫んだ。

「いったいなんの話」

「お父さんはこの方から聞いたんだ。おまえが――」

 趙丹が言いかけると、江青が甲走った声でさえぎった。

「もうけっこう。二人ともここに入っていなさい」

 江青は二人を部屋に入らせると、外から鍵をかけた。

「お願いです、どうか開けてください」

「うるさいわよ、親子水入らずになれたんだから感謝することね」

 その言葉を最後に、江青の足音は遠ざかって行った。

「ああ、これじゃ集合場所に行けない」

 苑玲が呻くようにつぶやくと、事態をよく呑み込めていない父親が勘ちがいして言った。

「そんなに男と逃げたいのか」

「なに言ってるのお父さん」苑玲は眉をしかめた。

「さっきから男、男って言ってるけど、いったい誰のこと?」

「ごまかすんじゃない。正直に言いなさい。お父さんは教えてもらったんだ」

「誰から」

「・・・・・・江青同志だ」

「お父さん、あの人と会ったの?」

「ああ。少し話をした」

 弁解がましい言い方に苑玲は衝撃を受けた。父親と江青の間に昔なにかあったのではないかという疑惑が再びわいて、言った。

「お父さん、あの人の言うことは信じるの?」

「そういうわけじゃないが・・・・・・とにかく苑玲、事情を言いなさい」

 趙丹としてはただ娘に否定してほしいだけだった。

 だが苑玲は誤解した。家族で北京に脱出する計画は玉子から当然伝わっているものと思い込んでいたため、父親が娘に男がいると繰り返すのは自分よりも江青の話を信じているからだと考え、ふてくされた。

「お父さんは私を男と二人で逃げるような娘だと思ってたんだ。それで警備員の格好なんかして私を監視しに来たの。もう口もききたくない」

 娘にぷいと横をむかれた趙丹は声をやわらげて言った。

「苑玲。おまえはそんな娘ではなかったはずだろう。会わない間になにがあったんだ。江青同志になにを言われた。お父さんに話してくれないか」

 しばらくなだめすかした後、趙丹はようやく苑玲から一か月前に別れた日以来のことを聞き出すことができた。


 その頃フランス公園(旧・復興公園)近くのワインショップに、一人の男が入っていった。上等な背広のポケットを拳銃でふくらませたマフィアの男である。

 中国人の店長は露骨に顔をこわばらせたが、思いきって「風」と言うと「沢」という合言葉が返ってきたので、ほっとした顔になって店の奥の階段に案内した。

 男は階段から地下室に降りて行った。中を見渡して、他は一人の中年男のみと知ると、がっかりしたようにつぶやいた。

「これだけか」

 床に座っていたホテルマン風の髪型をした男は、今来たのがマフィアと見ると、体を硬くした。マフィアの男はそれに気づき、

「あ、失礼」笑顔を浮かべてあいさつした。

「こんな格好をしていますが、私は思燕こと小莉の父親で、方宜と言います・・・・・・あ、今本名を口にしてしまいましたが、ここでは大丈夫ですよね?」

 外見とは印象のちがう声を聞くと、ホテルマン風の男は警戒を解いたようすで言った。

「大丈夫でしょう、当局には聞かれる心配はないので。僕の本名は張陽、白露こと安(アン)の父親です。赤い手紙以降はホテルマンをやらされてましたが、本職は技術系でした」

「そうですか。私は国語教師でした。・・・・・・ここ、よろしいですか」

 方宜が隣の床を示して尋ねると、張陽は快くうなずいて言った。

「どうぞどうぞ、お座りください。――国語教師で方さんというと、ひょっとして趙丹の隣人だった方ですか?」

「どうしてそれがわかりました」

 方宜は驚いて張陽の横顔を見つめた。

「趙丹から話を聞いたことがあるもんで。僕は映画の照明係だったんですよ。長年映画に携わって来た者同士、親しくしてましてね」

「ああ、なるほど」

「新一九三一年になって皆バラバラにさせられて寂しいですよ。もっとも僕ら映画人はここだけの話、当局の監視の目をくぐって、たがいに連絡を取ろうとあれこれ画策してはいたんですがね。でもやはり、なかなかうまくはいかないもので。どうにか監督の鄭君里をはじめ、音楽家の譚友五や撮影技師の王春泉なんかの所在はわかって接触できたんですけど」

「へえ。どうやったんですか」

「結局、行き当たりばったりでしたよ。業務中でも街に出ているときでも知っている顔がないか探すというだけで。譚友五と鄭君里はうちのホテルのレストランに来た所を、王春泉は南京路の錢荘(チエンジュアン・・・二十世紀前半まであった旧式の銀行)の窓口にいる所を見かけましてね。運がよかっただけです」

「それは羨ましい。私も一度業務中に趙丹さんに会ったことはありましたが」

 方宜は言った。

「え、本当ですか? 彼、どうしてました?」

「物乞いをやらされているようです」

 それを聞くと張陽は顔をしかめて言った。

「ひどい、中国一の俳優を物乞いにするとは。上海当局は理不尽すぎる。だから鄭君里が言っていましたよ、『みんなで反体制派の組織に入って、上海当局の権力者を打倒しよう』って」

「反体制派の組織というと、今日の脱出計画を進めている組織ですか」

「それがまだ確認はできていないんです。趙丹の娘である苑玲が脱出計画の話を伝えに来た後は仲間と接触できていないので。でも前に鄭君里に聞いた話によれば、その組織は周恩来同志を指導者と仰いでいるとか」

「そういう組織なら、たしかにある程度信用できますね」

「周恩来同志が組織に加わっているかまでは、わかっていないんですが。まあ、どっちにしろ今回の話を鄭君里たちに伝えられないまま、自分だけ北京に行くのはちょっと気が引けますよ」

「鄭さんたちも、どこかから話を聞いているかもしれませんよ」

「そうですかね。なにせ選ばれたのが『銀花』の最終審査対象者の家族だけということですから、申し訳ない気持ちになりまして。でも家族とまた暮らせるかもしれないと思うと、つい・・・・・・」

「わかりますよ。家族を優先させようと思うのはみんな同じです」

「趙丹も今日ここに来ますかね? 彼も招待されていますよね」

「たぶん来るでしょう」

「しかし、それにしても遅いですね。父親は全員七時集合のはずなのに」

「母親たちにいたっては、まだ誰も来ていませんね。集合時刻は父親と十分ずらして七時十分という話でしたが、まだ他に誰も来ていないのは変じゃないですか」

「みんな決心がつかないのでしょうか」方宜が聞くと、

「北京までは遠いですから」張陽が答えた。

「でも北京の方が上海よりも安全なんでしょう?」

「そういう情報はたしかにあるみたいです。鄭君里が言っていました。他の都市では家族を引き離されたりはしないと」

「やっぱりそうですか。新聞には中国全土で同じことが行われたように書かれてあったけど、上海は情報統制されているんですね」

「我々が北京に行ったら、上海の現状を伝えられるというものですよ。それで上海当局に打撃を与え、鄭君里たちの力になれる、と自分を慰めているしだいです」

「私は当初計画に参加するかどうか迷いました。当局に背く行為をする勇気がなかったんです。でもわずかでも家族と一緒になれる可能性があるのなら、それに賭けてみようと決心しまして」

「わかります。夢がふくらむんですよね。北京でまた普通の生活を取り戻せたら、家族で餃子を食べようとか、娘に映画の作り方を教えてやろうとか、はっは」

「私は家族で太極拳をしたり、犬の散歩をしたりしたいですね。今まで犬を飼ったことはなかったけれど、妻が好きだから。それとまた学校で教えたい――しかしまだ誰も来ませんね」

「娘たちの到着予定時刻まではまだ五分ありますが、今は七時十五分、母親の集合時刻は五分過ぎていますね」

 二人は不安な顔を隠せなかった。そのとき、地下室の上げ戸が開いた。と思うと、

「お父さん」

「あなた」

 声がした。見ると、地下室の階段から娘たちが、つづいて母親たちが降りて来た。方宜と張陽は夢かと疑いながら飛び出し、娘と妻と抱き合った。

「安、選考会だったんだろう。結果は?」

 張陽が聞くと、娘は答えた。

「私、優勝したよ」

「本当か? そりゃすごい。北京に行ったら主演女優の座が無駄になってしまうが、いいのか?」

「うん、選考会は自分の意思で受けたわけじゃないから。それより早くまた三人で暮らしたい」

「じき叶うわよ。お母さんもう嬉しくて」

 二組の家族がはしゃぐ横で、

「お父さんは?」

 菊花こと洛貞と、その母親が金切り声をあげていた。

「どうしていないの? どこにいるの」

「菊花のお父さんはプロデューサーの夏雲湖さんなんだけど、お父さん会ってない?」

 娘が聞くと、張陽は言った。

「夏雲湖? 車夫になっているという噂は聞いていたが、彼も今夜ここに来ることになっていたのか。知らなかったよ」

 夏雲湖はいなかった。

「他にもまだ来ていない人がいる」

 白露こと安は今さらのように気づいて言った。

「雲鶴の両親、蓮英のお父さん、それから――」

「蓮英は父子家庭という話だから、お母さんが来てないのは当たり前」

 洛貞が突然、八つ当たりするような声を張り上げた。

「私が連絡したお母さんたちは、ちゃんと来てるからね」

「でも今は雲鶴という名前になっている苑玲のお母さんは来てないよ」

 小莉が指摘すると、洛貞は言った。

「だって雲鶴のお母さんがいるのって、妓楼だったから・・・・・・。連絡はできなかった」

「ちょっと、それ本当? 母親担当なのに、連絡してないなんて」

「じゃ聞くけど、父親担当の雲鶴は、私のお父さんにちゃんと連絡してくれたんでしょうね?」

「そのはずだけど・・・・・・」

 急に自信のない口調になった娘に対し、洛貞がさらに言葉を荒げるのを見て、方宜がとりなすように言った。

「要するにあと六人足りないんだな?」

「そう、夏雲湖さんと、雲鶴こと苑玲一家と、蓮英こと施薇那父娘」

 小莉が答えると、安が、

「雲鶴が遅れるのは、わかってる。蓮英は私たちと一緒に出たけど、途中で忘れ物したと言って、いったん会場に戻って行った。それにしても、もう来る頃なのに、どうしたんだろう。ちょっと見て来る」

 そう言って入口にむかうと、ちょうど階段の上げ戸が開いた。

「――蓮英?」

 安は上に目をむけた。すると階段から誰かが降りて来た。見えたのは蓮英ではなく、黒い服の男だった。

「誰?」

 男は顔の半分を大きなマスクで覆っていた。同様の格好の男が四人、銃を構えて次々に降りて来た。

「なに者だ」方宜は妻子を後ろに押しやって銃を構えた。

 その瞬間、四人の男たちの銃口はいっせいに火を噴いた。

 敵がなに者なのか考える暇はなかった。張陽はとっさに妻に覆いかぶさろうとしたが、飛来した弾丸はたちまち急所に命中した。

「お父さんっ、お母さんっ」

 即死した両親を見て叫んだ瞬間、むかってきた弾丸が白露こと安の眉間を貫いた。

 方宜はやみくもに撃ち返した。二か月間マフィアの役をしていたが、撃つのははじめてだった。自分の拳銃に入っていた弾丸が本物でないことは、そのときはじめて知った。

 方宜は手足を撃たれ、腹にも幾発か撃ちこまれ、血みどろになった。それでも敵の前に立ちはだかろうとした刹那、敵の弾丸は方宜の左胸をえぐった

「この野郎・・・・・・」

 方宜は瀕死の状態で渾身の力を振り絞り、拳銃の引き金を引いた。飛び出したプラスチックの弾丸は敵に打撃を与えない。

 その間に菊花こと洛貞とその母親が、つづいて方宜の妻が撃たれ、方宜もついに力尽きてくずおれた。

 今や地下室に生き残っているのは小莉ただ一人だった。小莉は必死で悲鳴をこらえ、体を伏せて固まっていた。

 四人の男たちは地下室で動くものがなくなったのを確認すると、死体を放置して、来たとき同様機敏な足どりで引きあげて行った。

 わずかの間に血の海と化した地下室で、小莉はひとり茫然としている。


 江青は苑玲と趙丹を控室に閉じこめた後、撮影所の塀の外に立っていた。やがて背広を着た男が小走りにやって来て、江青になにごとかを耳打ちした。報告を受けた江青はニンマリと笑い、浮かれた声で、

「次の計画を実行に移すのよ」

 そう命じて男を行かせると、自分は再び撮影所に戻り、控室にむかった。

「それでおまえは今、江青同志の監視下にあるんだな? 江青同志がなぜおまえを李雲鶴にしたかその理由はわからないのか」

 趙丹が尋ねると、苑玲はうなずき、つづいて小莉と再会した下りを語りはじめた。そして話が脱出計画の所に差し掛かろうとしたとき、控室のドアが外から開き、江青が飛びこんできた。

「大変なことを聞いてきたわ」

 江青はうろたえた表情を顔に貼り付け、二人に叫ぶように言った。

「フランス公園近くのワインショップに反逆者たちが集まって騒ぎになってるって」

 苑玲はぎょっとした顔になって言った。

「どんな騒ぎでしょう?」

「あんた、やけに驚いているわね」

 江青がそう言って黒眼鏡を光らせると、苑玲は目をそらした。

「苑玲、反逆者はおまえの慕っている男なんだな?」

 父親は激して言った。

「さっき『集合場所に行けなくなる』と言っていたのは、そこで男と落ち合う約束だったからか」

「今聞いた話ではね――」

 江青は趙丹を無視し、

「反逆者というのは、今日『銀花』の最終選考に出た娘たちと、その両親だそうよ」

 そう言って苑玲の反応をうかがうように見た。必死で動揺を顔に出すまいとしている苑玲に江青はわざとゆっくり言った。

「彼らはね、店で警察と銃撃戦を繰り広げたそうよ」

「そんなこと、ありえません」

 苑玲は思わずそう口走った。江青は得たりとばかりに微笑して言った。

「なぜそう思うの?」

「それは・・・・・・」

「答えられないのね。残念だけど事実よ。私は聞いたの、店の地下室は血の海になったとね」

「血の海・・・・・・?」苑玲の反応を楽しむように江青は、

「そうよ。最終的に反逆者たちは警察に射殺されたそうだけど」

 そう言ってわざとらしく脅えたような声をだして言った。

「まったく恐ろしいわ」

「全員・・・・・・死んだんですか」

 苑玲はもはや動揺を隠そうともせずに言った。

「聞いたところでは、死んだのは白露とその両親、菊花とその母親、それと思燕の両親の七人だそうよ」

「七人・・・・・・」

 お母さんはなぜか店に行かなかったらしい。苑玲はややほっとしつつ、念のために聞いた

「他には誰もいないんですか?」

「なぜそんな質問を。誰のことを心配しているのかしら?」

「いえ」苑玲はあわてて言った。

「小莉・・・・・・思燕は無事なんですか」

「あんた、思燕が反逆者の仲間だと、なぜ知っているの?」

 江青は鋭い声で指摘した。

「それは・・・・・・思燕の両親の名が出たから、思燕も一緒にいたにちがいないと」

 苑玲が言い訳をしようとすると、江青ががなりたてた。

「私をなめないでちょうだい! あんたも反逆者の仲間なんでしょう? だからワインショップで騒ぎが起きたと聞いて反応したのよね」

「娘が反逆者の仲間?」趙丹は愕然とした。

「どういうことですか。あなたは僕に言いましたよね――娘は男と二人で北京行きを計画していると」

「あなたは黙っててちょうだい。私はこの娘に話しているのよ」

 江青は黒眼鏡に苑玲の顔を映し出して言った。

「あんたたちの計画を私が知らなかったとでも思っているの? 私はね、唐納から逢引の話を聞いて知ってるのよ――あの自惚れ屋は気づいていなかったけど、私は話を聞いただけであんたが逢引にかこつけてなにをしたか見抜いたわ。ごまかしても無駄よ、連中の仲間だと白状しなさい」

「・・・・・・」

「私がここに監禁していなければ、あんたもその店に自分の父親を連れて行ったはずよね?」

「私はなにも――」

「ごまかそうとしても無駄。認めなさい。認めれば、思燕がどうなったかを教えてあげるから」

 思燕こと小莉の無事を確認したくてたまらなかった苑玲は心を動かされた。

「思燕の安否を本当に教えていただけるのでしょうか」

「自分が反逆者の仲間と認める?」

「苑玲」父親が割って入る。

「おまえは反逆者なんかではないだろう?」

「・・・・・・たしかに私は今夜、ワインショップに行こうとしていました。私は仲間です」

 色を失った趙丹と対照的に、江青は満足げな笑みを浮かべて言った。

「認めたわね」

「思燕・・・・・・思燕は無事なんですか?」

 身を乗り出す苑玲に江青は言った。

「監獄に送られたそうよ」

「監獄?」

 苑玲は少し安堵した。

「無事なんですね?」

「そのようね」

 しかし喜んだのも束の間、苑玲はすぐに暗澹たる表情に戻った。小莉は助かったけど、七人が死んだ。小莉の両親も、白露も菊花も・・・・・・。白露なんて主演女優に選ばれたばっかりだったのに――。

「仲間が死んで傷ついたみたいだけど、そもそも彼らの死には、あんたにも責任があるのよ」

「なにを言うんですか」

 趙丹が抗議したが、江青は答えずに苑玲に言った。

「唐納の話から推測するに、仲間の父親に計画を話しに行ったのはあんたでしょ。あんたが誘ったりしなければ、彼らは今夜店に行くことはなく、殺されることもなかったはず」

 苑玲は頭をガンと殴られた気がした。

「娘に責任はない」趙丹が声を張り上げた。

「仲間の指示に従っただけのはずだ。なあ苑玲、そうだろう?」

 父親の声は苑玲の耳に届いていなかった。

「あんたは友だちの父親を殺したも同然よ」

 江青の言葉ばかりが響いた。そうだ、私にも責任がある。それなのに自分はこうして無事に生きている、しかもお父さんと一緒に。小莉はひとり監獄に入れられたというのに・・・・・・。苑玲は自責の念にかられた。

「私も監獄に入るべきかもしれません」

「なにを言っている、おまえが監獄に入ってたまるものか」

 意外なことに江青も同意して言った。

「そう、あんたが監獄に入る必要はないわ。あんたが私の言うとおりにしさえすればね」

「・・・・・・娘になにをさせるつもりですか」父親が警戒して言う。

「あなたは黙っていてと言ったはずよ」

 江青が怖い顔をすると、趙丹はよけいにいきりたった。

「苑玲、だまされたらいけない。この人は父さんに、おまえが男と二人で北京に行くと言ったが、嘘だった。ここにおびきよせる口実に過ぎなかったんだ」

「黙りなさい! これは警告よ。言うことを聞かないのなら、あなたが警備員の制服を盗んで撮影所に無断で侵入したと通報するわ」

「黙りません。狙いはなんですか?」

 江青がドアを開けて叫んだ。

「誰か来て! 不審者が、不審者がいるの」

 たちまち控室に警備員が二人飛び込んで来た。

「この男よ」江青は趙丹を指さしてわめきたてた。

「私がドアを開けたら、ここで李雲鶴に悪さを働いていたの。制服を着てるから、はじめは警備員かと思ったけど、ちがうでしょう?」

 警備員は趙丹の顔をじろじろと見て、うなずいた。

「ええ、見ない顔です。――こいつめ、俺たちの制服を勝手に着て忍びこみやがって。出ろっ」

 警備員二人は趙丹の両腕を捕えて言った。

「狙い? そんなことあなたに教えるわけがないでしょう」

 江青は後ろから趙丹にそうささやくと、

「警察につきだしてちょうだい」警備員に声を張り上げて命じた。

「なぜです」叫ぶ趙丹を警備員二人は力ずくで立たせて言った。

「さっさと歩け」

「待って。お父・・・・・・その人を連れて行かないで!」

「心配しなくても大丈夫だ。またすぐに会える」

 趙丹は娘を落ち着かせるためにそう言ったが、江青にはこう言わずにはいられなかった。

「こんなことに、なんの意味があるんです?」

 江青は答えなかった。

「ほら、黙って進め!」

 警備員たちが趙丹を蹴り飛ばして控室から出し、通路を歩かせていると、取材帰りの記者に遭遇した。記者は警備員に連れられている趙丹を見て驚いた顔をして言った。

「阿三、どうした」

 声を聞くなり趙丹は顔をあげた。

「頭」

 それは記者に扮していた玉子だった。

「なにがあったんだ」

 玉子は人前であることを意識して、ふだんとはちがう口調で話しかけると、趙丹を両側から押さえる二人の警備員に鋭い視線をむけた。警備員たちは玉子の記者の腕章に目をやり、うるさいやつに捕まったとでも思ったのか、顔をしかめた。

「邪魔です、どいてください」

 玉子は一歩もどかずに趙丹を示して言った。

「この男がなにをしたんです?」

 警備員たちは無視し、記者を押しのけようとした。が、玉子は動かず、

「きちんとした理由を説明せずにここをとおると、後で痛い目に遭いますよ」

 どすのきいた声を張り上げた。

「今大声を出してたのは誰?」

 控室から出て来た江青は玉子に目をとめると、

「あなたね」近づいてじろじろと眺め、馬鹿にした口調で言った。

「記者にしては胡子(フーズ・・・髭)がぼうぼうで肥りすぎ、その上やけに威勢のいいことを言っていたようだけど、なに者?」

 たちまち玉子は顔を×の字にし、ぺっと唾を飛ばした。

「キャッ、汚い」

 江青はすばやく体をそらしたので唾はあたらなかったが、血相を変えて怒鳴った。

「あんた、私が誰だかわかっているの?」

 軍服をまとった、いかにも要人といった女性を見ても、玉子はひるむどころか、目をすわらせている。

「失礼なのはあんただろう。さっき、なんて言った」

「なにって、あんたのフーズが長いと言ったけど? あは、なにか気にさわったのかしら。だったらもっと言ってあげるわよ、フーズ、フーズ」

「この・・・・・・」

 玉子は二の句をつげないほど逆上し、荒い息を吐いた。

「ハアハア、ハアハア・・・・・・」

「なによ、舌を垂らして。犬? 呪いでも送っているつもり? だったら負けない、もっと言ってやる。フーズ、フーズ、フー」

「うるさい! ハアハア・・・・・・」

「フーズフーズ」

「ハアハア」

「フーフー」

「ハアハア」

「ちょっと二人とも・・・・・・」趙丹が思わず口をはさむ。

「だからこの男は誰なのよ!」

「僕の仲間です」

「へえ、というと物乞いね。それじゃ、ここには記者に偽装して侵入したってわけ」

 江青は警備員に顎をしゃくった。

「その男も不法侵入罪で警察につき出してちょうだい」

「承知しました」

 警備員の一人が腕を押さえようとしたが、玉子はうろたえなかった。それどころか、いわくありげな視線を江青の後ろに投げて言った。

「そんなことを言って、いいんですか」

「往生際が悪いわね。――なにを見ているのよ」

 振り返った江青は驚いた。そこには江青と同じ立派な軍服を身に着けた威風堂々とした人物が立っていたのである。

「周恩来同志・・・・・・」江青は思わず声をうわずらせた。

 周恩来は共産党幹部で序列は江青よりも上、夫毛沢東の側近でもある有力者だ。ここ上海で派閥を争う敵とみなしている人物の突然の出現に、江青は虚をつかれたかたちとなったが、必死で態勢を立て直そうとし、満面に笑顔を溶いて言った。

「周同志、今日ここでお会いできるとは思いませんでしたわ」

「私もです、江青同志」

 周恩来も相手に答えてそつなくあいさつを交わすと、玉子を示して、

「彼は私の友人です。そして彼の友人は私の友人でもあります。なにがあったか知りませんが、ここは私に免じて、この方たちを放してあげてくれませんか」

 趙丹は自分の耳が信じられなかった。玉子が周恩来同志の友人? それともただ僕を助けるための方便? だとしたら同志はよほど人間ができているが――。

「この人がご友人とは知りませんでしたわ」

 江青はこの場で物乞い風情のために周恩来と争うのは得策ではないと判断したか、

「わかりました。ここはあなたの面子を立てましょう」

 そう穏やかに言ったが、よほど悔しいと見え、警備員には感情を抑えきれずに怒鳴った。

「さっさと放しなさい!」

 警備員が玉子を放してまもなく、陸監督が走って来た。

「周同志、大変です」

「陸監督、なにごとです」

「今、そこで、近くのワインショップで主演女優が殺されたそうです。いや、白露一人じゃありません。全部で七人・・・・・・」

「えっ、本当ですか」

 叫んだのは周恩来ではなく玉子だった。

「その七人のなかに蓮英は含まれていますか?」

 血相を変えて聞く記者らしき男に陸監督は訝しげな視線をむけた。

「あの、あなたは・・・・・・?」

「彼は私の友人です」

 周恩来がそう紹介すると、陸監督は頭を下げて、

「失礼しました。蓮英さんは含まれていません」

 玉子が安堵の吐息をもらすのを不思議そうに見ると、次の報告をした。

「亡くなったのは白露さんとその両親、菊花さんとその母親、および思燕さんの両親です」

「犯人は捕まったんですか」周恩来が冷静さを保った声で聞いた。

「いえ、それが・・・・・・。七人は今夜北京に脱出する計画を立てていたらしく、店を集合場所にしていたそうなんですが、店員の密告でことが露見し、警察と撃ち合った挙句に銃殺されたということです」

「その話はどうも妙ですね。いくら自暴自棄になったとはいえ、家族を道連れに銃撃戦なんてしたりするでしょうか」

 周恩来が腑に落ちないといった声で言うと、江青が反論するように言った。

「でも殺されたのは事実なんでしょう?」

「事実です」陸監督が答えた。

「殺されるようなことをするから悪いのよ。脱出計画を立てていたなんて考えただけで恐ろしいわ。周同志、私たちはみんなだまされていたんですよ。白露たちが選考会を受けていたのは官憲の目をごまかすためだったにちがいありません」

 江青は決めつけるように言うと、一番話題にしたいことを口にした。

「陸監督も大変ね、主演女優を決め直さなければならないでしょう?」

 その問いは周恩来に遮られた。

「陸監督、その事件にはどうも不審な点がありそうです」

 周恩来は江青の言葉など耳に入っていなかったように言った。

「私の方でも情報収集し、詳しく調べてみます。なにかわかったら連絡しますから、皆さんにも伝えておいてください」

「わかりました、ありがとうございます」

 監督は礼を言うと、制作陣のいる部屋に急ぎ足で去って行った。

「陸監督が周同志と親しいとは意外でしたわ」

 江青は黒眼鏡の奥から周恩来を睨みつけ、嫌味を言った。


 翌日、『銀花』の制作を手がける摩登電影公司から一通の封書が、苑玲の暮らす里弄に届いた。その場にいあわせた江青は中の文書に目を走らせるなり顔をほころばせた。

「主演女優は李雲鶴に決定したとあるわよ。ね、私の言うとおりになったでしょ」

 ところが、下の文章を読むなり眉をしかめ、

「『助演女優が蓮英』? どういうこと。なんで蓮英まで女優にするのよ。白露が主演に決まったときは助演女優なんていなかったのに、おかしいじゃないの」

 足を踏み鳴らしてわめいたかと思うと、ふいにハッとした顔になり、なにやら黙考して言った。

「そうか、そういうことね・・・・・・なにもかも周恩来の仕業だわ。あの男ならやりかねない。なんといってもワインショップ事件の黒幕だもの」

「え?」

 苑玲が聞き捨てならないといった顔をむけると、江青は告げた。

「部下に調べさせてわかったの。周恩来は党の幹部という地位を利用して手下を使い、警察が殺したように見せかけて、障害になる者を始末した。私の前で知らないふりをしたけど、あれは全部芝居」

「・・・・・・!」

「周恩来は君子を装っているけど、自分と家族の発展のためには人も殺すし、国だって売る。極悪非道の山師よ。なのに、そんな男を慕って、付き従う人間が後をたたない。思燕もその一人」

「えっ」

「思燕だけが生き残るなんておかしいと思わなかった?」

「でも思燕は監獄に・・・・・・」

「周恩来が疑われないために入れただけよ。残念だけど、思燕があの男の手下というのは事実なの。あの娘があんたになにを言ったか知らないけど、みんなデタラメよ」

 苑玲は簡単には信じられなかった。すると江青は言った。

「上海だけが情報統制されていて、他都市の人民は今までどおり家族と一緒に住んでいると、思燕は話していなかった?」

「話していました・・・・・・」

「それも作りごと。全部嘘よ」

 小莉が苑玲に言った話を江青が知っていることを疑問に思う余裕はなかった。ただ友人に嘘をつかれたという思いで苑玲はいっぱいになっていた。あの小莉が私をだましていたなんて。苑玲は心臓を貫かれたような痛みを感じた。その痛みを肯定するように江青が言う。

「そう、あんたは裏切られたのよ」

「思燕は・・・・・・殺害に加わっていたんですか」

「それはわからないわ。事件当時現場に現れた周の手下は他にも五、六人いて、その中には蓮英も含まれていたという話よ」

 そう言って江青は苑玲の反応をうかがうように黒眼鏡を光らせた。

「蓮英も・・・・・・?」

「蓮英が周恩来の手下で、七人を殺した集団に属していたことは、はっきりしているわ」

「そうなんですか・・・・・・」

「蓮英は菊花や白露たちと一緒には来ず、わざと遅れて、一味の後ろで見ていたの」

 江青は滔々と述べた。効果はてきめんだった。苑玲は目をむいた。

「直接手は下してなかったとしても、蓮英は同罪です。にもかかわらず、逮捕されないどころか、助演女優に選ばれたなんて・・・・・・」

「周恩来が力を働かせたのよ。映画協会会長でもあるあの男は、陸監督の他にも『銀花』の制作者の中にも手下を潜りこませている。どの人間かは、まだはっきりとはわかっていないけどね。あいつがその気になれば、蓮英を主演女優にすることにだってできるのに、あんたを順番どおり繰り上げて主演女優にしたことは、ある意味奇跡と言える」

「・・・・・・」

「まあ、とにもかくにもめでたいわ。李雲鶴は主演を勝ちとったんだから。どうしたの。せっかく主演になったのに、あんまり喜んでないのね?」

「いいえ。ただ犠牲になった人たちのことを思うと・・・・・・」

「いつまでもそんなことを言ってないで、私の言うとおりにすればいいって言ってるでしょ」

「わかりました。・・・・・・ところで、一つ、どうしても聞きたいことがあるのですが」

「なに」

「父・・・・・・阿三は無事でしょうか?」

「ああ、彼ね」江青は唇を笑わせて言った。

「昨日撮影所に不法侵入したけど、公安のお咎めは今のところ受けていないはずよ。たぶん無事でしょうね。あんたが私の機嫌をそこねない限りは」

「ありがとうございます・・・・・・」

「いいのよ。とにかく頑張りなさい。そうすれば私があんたを選んだ理由を話してあげる。今でも手がかりなら教えるわ。それはね、ランピンよ」

「ランピン・・・・・・?」

「藍色(ランセー)の藍に蘋果(ピングオ)の蘋と書いて藍蘋。意味は青い林檎。あんたの新しい芸名でもあるわ。いい名前でしょ?」

 戸惑う苑玲をよそに、江青は上機嫌でいきなり持参の包みを開いた。中には青い林檎が四つ入っていた。江青が食べ物を持ってくるなどはじめてだったので苑玲が驚いていると、

「さあ食べて。二人でお祝いしましょう。私、林檎が大好きなの」

 江青は少女のように微笑んで言った。

 苑玲は青い林檎と、江青が自分を女優にしたがる理由の関連性を考えたが、そのときは少しもわからなかった。


「あ、阿三さん、阿三さん」

 二十代の物乞い、老鴉が路上の煙草売りを押しのけながら駆けて来た。

 埠頭の、日の当たる場所に座っていた趙丹は、読みかけの新聞から顔をあげて言った。

「なんだい」

 老鴉は、ほんの二週間前までおっさん呼ばわりしていた趙丹にたいして丁寧に頭を下げると、敬語を使って言った。

「例のワインショップの事件ですがね、殺された人間の本名がわかりやしたよ」

「本当に?」

 今や大道芸の稼ぎで玉子と並ぶまでになり、一目置かれる存在になっている趙丹だが、気どらない顔に笑みを広げ、

「だったらお手柄だ」

 立ち上がって老鴉の肩を叩いた。老鴉はうれしそうに笑みをうかべたが、

「あ、痛っ。昨日ここ切ったばっかりなんすよ。ここから血い出して『次は首を切るぞ』って脅すと儲けがいいもんだから」

「悪い悪い。しかしあまり痛むようなら医者に診てもらったらどうだ」

「とんでもねえ。頭特製の仙薬を塗っているから、明日には完璧に治ってやすよ」

「仙薬? 頭が?」

「ああ、聞いてやせんでしたか。もったいねえなあ、仙人になる気があれば教えてもらえるのに」

「仙人になるって、君が?」

「俺、もうすぐ地仙になるんすよ」老鴉は得意げにまくしたてた。

「仙人にも階級がありやしてね、修業中の仙人で地上で暮らしているのを地仙と言いやす。天仙ともなれば痛み知らずで体を傷つけ放題って言うから、毎日精出して修行に励んでいるわけで。実際最近は瞑想もすっかり板につき、体内に宿っている三万六千の神々のようすをうかがえるようになりやした。ええ、本当です。たとえば心臓には天精液君という神がいて、つねに雲気を吐いていやす」

「天精液君? なんだその神は」

「いわゆる血液の門に立って、五臓をうるおしているんだそうで。俺は『いつもお世話になりやす』と挨拶したのがきっかけで雑談する仲になりやした。阿三さんも一度会ったらどうです。俺の天精液君、なかなか話せやすよ。よければ仲介斡旋しましょうか?」

「・・・・・・い、いや、けっこうだ」

「あれ、遠慮しなくてもいいのに。その気になったら、いつでも言ってください」

「君・・・・・・相当やられてるなあ」

「え、なんか言いやした? ところでさっきの話ですがね、ええっと備忘録はと。あった」

「あれ、文字は読めないんじゃなかったのか」

「しっ。読めない書けないってことになってんすから。そのことはもう言いっこなしっすよ」

「悪い、よけいなことを口にした」

「気にしねえでください。それより、ワインショップの件っすが――」

「そうだそうだ、早く話してくれ」趙丹は真剣な顔になって言った。

「殺された娘は『銀花』の選考会で優勝した白露と、出場者の菊花ということで――」

 備忘録を周囲から隠すようにしてめくり、それを見ながら言う老鴉に、趙丹はじれったそうに言った。

「彼女たちの本名は?」

「白露の本名は張安、菊花の本名は夏洛貞。それと同じ場所にいて命は助かったが監獄に入れられた思燕の本名は方小莉っす」

 趙丹は蒼然として、

「ああ、思燕はやっぱり小莉だったか。それじゃ死んだ彼女の父親の名は・・・・・・」

 言いかけたが、胸がつまって口に出せなかった。すると老鴉が引きとって言った。

「方宜っす。ちなみに白露の父親の本名は、張陽っす」

 趙丹は耳を疑うといった顔で、

「なんだって・・・・・・」

 つぶやくと、全身から力がぬけたようにその場に座りこんだ。

「大丈夫ですか。もしかして殺られた人は知りあいすか?」

「知りあいどころか、大切な友人だった・・・・・・夏雲湖の名はその一覧には入ってなかったか?」

「いや、ないっす」

「そうか」趙丹はややほっとしつつも、

「しかし夏雲湖の奥さんも娘さんもやられたのか・・・・・・」

「阿三さん、顔が真っ青っすよ。あまり辛いようでしたら、地仙の俺が、正気鎮心の霊符を書いてさしあげやすが?」

「いや、大丈夫だ・・・・・・しかしよく調べたな、老鴉。この時世だから、犠牲者たちの本名がこんなに早くわかるとは、正直思っていなかった」

「会のおかげっす」老鴉は照れ臭そうに言ったが、

「会って?」と聞かれるとハッとした顔になり、ごまかすように、

「物乞い組のことっすよ」うわずった声で言った。

 老鴉たち他の物乞いは、いまだに趙丹になにか隠しごとをしている気配があった。今またそれを感じとった趙丹は探りを入れようとした。だがそのとき、

「老鴉」玉子がやって来て二人の間に割りこんだ。

「あ、頭」

「石頭と花旗は仕事中か」

 玉子は二人が不在なのを確認すると、老鴉の備忘録を覗きこんで言った。

「ほほう、例のが、わかったか?」

「ええ」趙丹が答えた。

「僕たちが知りたがっていたこと、頼んでおいたとおり老鴉が調べてくれましたよ」

「まったく他人事ではないからのう。選考会に出た娘とその親が殺められるとは。わしらも一歩間違えたら同じ目に遭うところじゃった」

「え、僕たちも同じ目に? なぜです」

 玉子は一瞬まずいことを言ったという顔になったが、腹を決めたようすで言った。

「汝には言ってなかったが、わしらの所にも最終選考会の前に使いが来たのじゃ。『九月五日午後七時、ワインショップに来れば娘と妻と再会でき、一緒に北京に逃げて暮らせます』とな、汝にも伝えるよう頼まれた」

 趙丹は愕然とし、花旗と石頭が戻って来てあいさつしたのにも気づかず言った。

「今はじめて、聞きました・・・・・・使いって、誰が?」

「汝の娘じゃ」玉子ははっきりと答えた。

「なぜ・・・・・・事前に伝えてくれなかったんです?」

 趙丹は責めるように言った。

「伝えれば、汝は娘会いたさに計画に参加してえらい目に遭うと思ったからじゃ」

「そうかもしれませんが。幸い妻は店には来なかったようで、ことなきを得ました。娘も、あのときたまたま、僕と閉じこめられたから助かっています。でも娘は夫人の邪魔がなかったら、僕を連れて、あの店に行っていたかもしれない」

「汝は本当にわしが事前に伝えていたらよかったと思っておるのか?」

「頭が事前に危険な計画のことを伝えてくれていたら、僕は家族には店にいかないよう、どんな手段をとってでも伝えていましたよ。それなのに頭は、あの会場で僕を娘と接触させないようにしていた」

「なんじゃと。わしが汝を娘に近づけないようにしたと?」

「忘れたとは言わせませんよ、僕が会場で選考会前にあなたに言ったことを――僕はある人から、娘が選考会の後に男と二人で北京にむかう計画を立てていると聞いたから、その話の真偽を娘に直接会って確かめたいと思っている、とあなたに言いましたよね。するとあなたは、選考会がはじまったらわしが娘と会わせてやる、と言いました。僕はその言葉を信じたから、選考会の間じゅう待ってたんです。しかしあなたは最後まで僕と娘を引き合わせてはくれなかった。それでも僕と娘が接触しないようにしなかったと言うんですか?」

「たしかにわしは選考会中はまだ汝たちを接触させたくなかった。主演女優の発表が終わるまでは、よけいな問題は起こしてほしくなかったんじゃ」

「あなたは審査発表を静かに見たいがために、人の生死に関わる問題は後回しにしたんですか?」

「そうではない、わしは汝とわしと、二人の娘とが、どうしたら危険な目にあわずにすむか、一番いい方法を考えて実行に移したのじゃ」

「一番いい方法ですって?」

「汝たちは助かった。なぜか。汝が会場にいたからじゃ。汝は娘に会い、そのために父娘で一時控室に監禁された。おかげでワインショップには行かずにすんだんじゃ」

「結果的にはそうなりましたが――」

「黙って最後まで聞かんか。汝はなぜ会場に入れた? なぜ娘に会うまで無事でいられた? わしが汝を警備員に変装させ、汝が大人しく警備員になりきったからじゃ。もしわしが事前に汝の娘の話を伝えておれば、汝は家族との生活を夢見て計画に参加することを決意し、撮影所には行かずに店に行っていたにちがいない。わしがいくらそんな計画は危険だからやめた方がいいといっても耳を貸さなかったに決まっておる。そうしたら汝は警備員にばけて会場に入ることも、娘と一緒に控室で過ごすこともなかったはずじゃ」

「言われてみれば、そうかもしれません・・・・・・しかし頭はなぜ計画が危険だと?」

「・・・・・・仙術じゃ。しかし汝に言ったところで、信じてもらえんと思ったのじゃ」

「・・・・・・蓮英さんには信じてもらえたんですか?」

「そう思いたいが・・・・・・」玉子はなぜか言葉を濁して話題を変えた。「それより悔しいのは七人も死んだことじゃ。わしは汝と二人の娘以外の人間も、計画に誘われているとは知らんかった。まして母親たちも誘われているなどとは・・・・・・わかっていたら救えたんじゃが、自分が妻に先立たれているゆえ、考えが及ばんかったのかと思うと、汝にたいしても申し訳がたたん。もし汝の妻があの店に行っていたらと思うと・・・・・・」

「ご自分を責めないでください。頭は僕と娘を救ってくれました。さっきは、ひどいことを言ってすみませんでした」

「いや、汝が動揺するのも無理はない」

「そもそも脱出計画とやらを最初に考えたのは誰なんでしょう」

「権力のある者が、連中を邪魔と思ったから、殺させたにちがいない。警察がやったなんて、みせかけじゃ」

「そんなことがなぜわかるんですか? 権力者って誰です?」

 趙丹が迫ると、玉子は視線をそらして言った。

「今はまだ、わからんわい」

「教えてください。その権力のある人って、もしかして時代を一九三一年に変えた人物のことですか?」

「滅多なことを言ってはいかん」玉子は辺りを見渡して言った。

「わしはなにも知らん」

「じゃなぜ警察が殺したんじゃないと知ってるんですか。どこで聞いたんです」

「だから仙術と言っておる」

「さっきから仙術、仙術とおっしゃってますが、僕がそれを信じるとでも?」

「わかった、わかった。わしはこう見えても各界の人間に知りあいがおる。その一人に聞いたのじゃ。まだ真相は解明できておらんが、わかったら必ず教える」

「本当ですか? 今度こそ約束ですよ」

「うむ、約束するわいな」

「僕は誰であろうと真犯人を許すつもりはありません。張陽と方宜は僕の友人でした」

「そうじゃったのか」

「ええ。だから彼らとその愛する者を殺し、僕の妻子を殺したかもしれない人間を野放しになどできません。必ず真相をつきとめ、罰を受けさせてみせます」

 趙丹はこぶしを握って固い決意を見せた。すると、ふいに玉子が言った。

「汝、わしたちの会に入るか?」

「会?」

「さよう」玉子はうなずき、趙丹の耳に口を寄せてささやいた。

「周同志を支持する会というて、現体制に反対する者の集まりじゃ。物乞い組の人間も多く加入している。この会に入れば、理不尽な物事に立ちむかいやすくなるじゃろう。もっとも権力を相手に戦う覚悟が必要になる。汝に覚悟はあるか?」

「覚悟ならあります。ぜひ入らせてください」

「よろし。汝を近々、会の面子に引き合わせよう。その前にこやつらじゃが――」

 玉子は石頭、老鴉、花旗を見て問いかけた。

「汝たち、会の人間として、阿三が加わるのに異議はないな?」

「ありません」石頭が言うと、花旗もうなずき、

「ねえっす」老鴉が言った。

「よろしよろしイ。では阿三、今度汝を北康という人に会わせてやろう。老練映画監督みたいな懐の大きい人じゃぞ」

「そんな人がいるんですか」

 北康が鄭君里だとはこの時の趙丹はまだ知らなかったが、喜んで言った。

「楽しみです、ありがとうございます」


 一週間後の九月十四日の朝、外灘・太古碼頭の五人の物乞いが自動車の前で支度をしていると、近くに人民警察の自動車が停車した。中から警官が三人ほどぞろぞろ降りて来たと見るまに、物乞いたちを取り囲んで言った。

「阿三はいるか」

 警官の一人が高圧的に言った。三十代ぐらいで、いつもの警官とはちがう。趙丹はいきなりのことで驚いたが、落ち着いた態度で言った。

「僕になんの用ですか」

「おまえが阿三か。来い」

「なぜですか?」

 警官は答えるかわりに言った。

「あれに乗るんだ」

 その自動車は、一か月あまり前に赤い手紙を受け取った夜に乗せられた自動車に似ていた。不吉な予感にかられた趙丹は言った。

「僕をどこに連れて行こうというんですか」

「歩け、さ、早く」

 二人の警官が趙丹の両脇をつかんで言った。

「ちょっと待ってください」

 趙丹は必死でもがき、仲間にむかって叫んだ。

「みんな、止めてくれ」

「阿三!」

 物乞いたちは助けようとしたが、たちまち警官の妨害に遭った。老鴉が警官の肩の上から手をのばして趙丹の背中に触れたが、それが精一杯だった。

「老鴉! 頭!」

 振り返って叫ぶ趙丹の体を警官たちは無理矢理自動車に押しこんだ。

「阿三、阿三・・・・・・」

 四人の仲間の呼ぶ声はいつのまにか遠ざかっている。

「みんな・・・・・・」

 趙丹の声ももう彼らに届かない。警察の自動車はすでに発車していた。

「いったい僕をどうしようというんですか?」

 趙丹は後部座席で自分を挟む警官たちに尋ねた。彼らが答えないので、前の二人に聞こうと思って身を乗り出す。そのときはじめて運転手の顔を見た趙丹は、ハッと目を見開いた。

「あ。あなたは・・・・・・」

 ハンドルを握っていたのは、以前趙丹を自宅から外灘に移動させ、なにかと言えば趙丹を監視しているあの警官だった。先ほどは外に出て来なかったので、わからなかったのだ。

「今日はまたなぜ僕を・・・・・・」

 趙丹が言うと、その警官は質問に答えるかわりに、こう言った。

「おまえは今日付けで職業が変更になる」

「物乞いは今日で終わりだと?」

 警官は趙丹の表情をバックミラー越しに観察して、目をきらりと光らせた。

「なにか不都合でもあるのか?」

 どきりとした趙丹は、あわてて否定した。

「いえ、やっと仲間ができたところだったので、残念に思っただけです」

 運転手の警官は疑わしげな目を放さなかった。


 自動車は見覚えのある塀の前に停車した。

「降りろ」

 樹木に囲まれた敷地に、電車の車両車庫を思わせる建物が立っている。

「ここは・・・・・・華東撮影所」

 今は『銀花』の撮影期間のはず。昼過ぎにもかかわらず建物の周りに人気がないのは、制作陣も俳優もスタジオに入っているからだろう。もしかしたら苑玲に会えるかもしれない・・・・・・。玉子から苑玲が主演女優になったと聞いていた趙丹は胸を膨らませた。

「こっちへ来い」

 警官は趙丹を引っぱり大木の影に連れて行ったかと思うと、四人がかりで、いきなり服を脱がしはじめた。

「なにするんですか」

 趙丹は丸裸にされ、バケツの水をぶっかけられて濡れ鼠にされた挙句、

「それで体の汚れを落とせ」

 と手ぬぐいを投げつけられた。そして、

「これを着ろ」

 渡されたのは、俳優が着るような服ではなく、作業着だった。

 これは変だぞ。そう思った瞬間、なじみのある警官が趙丹の前に出て一方的に言い渡した。

「阿三、五十三歳に告ぐ。おまえは今日から撮影所の掃除夫として生きることとする」

「・・・・・・掃除夫?」趙丹は耳を疑った。

「映画制作者及び俳優と口をきくことは許されない。以下、禁止事項。以前の職業仲間との接触を禁じる。また元の名に結びつく一切の人間との接触および行動を引き続き禁じる」

「以前の職業仲間って、物乞い仲間とも会えないんですか?」

「繰り返す、以前の職業仲間との接触は禁じる」

 せっかく皆で権力に立ちむかおうと結束したのに――。

「当局はおまえが掃除夫として働いているか、つねに見張ることとする。違反があった場合は、おまえとおまえの家族をただちに罰するものとする」

 不満を表情に出す趙丹を見ながら、警官はモップを投げつけ、号令を発した。

「はじめ!」

 華東撮影所は趙丹の予想とたがわず、『銀花』の撮影中だった。当局はいったいなぜ僕を急にこの撮影所の掃除夫にしたのか。愛する娘がそばにいるのに口をきけない苦しみを味わわせるため? だがそんな苦しみを与えても当局の利益にはならないはずだ。僕に個人的な恨みを抱く人間が当局にいるなら別だが・・・・・・。


 さらに一か月が経った。めっきり秋らしくなり、金木犀の香る空気がひんやりとする十月十七日の夜のこと。

「ね、ねえ、その店、本当にこの辺にあるのか?」

 十代の花旗が聞くと、三十代の石頭が答えた。

「ああ。大きい声じゃ言えないが、叔父が若い頃に通っていた店だ。ちゃんと復元されてれば、この辺にあるはずなんだがなあ」

 二人は夜の四馬路(スマロ)を歩いていた。『妓楼』、『妓院』という娼館を意味する看板の文字が、赤い光に照らされてあちこちに躍っている。

「杏花楼だよね?」

「そうだ。手軽な値段で経験豊富な妓女と楽しめる。おまえみたいな童貞にはぴったりの店だ」

「だ、だけど見つからない。石頭はやっぱり頼りにならないな。せ、せっかく溜めた金を使って長衫まで新調したってのにムダになっちゃう」

「なに怖気づいてんだ。老鴉に頼んだ方が良かったか? あいつは、おまえが童貞だって知ったら、死ぬほどからかったろうけどな」

「そそ、それが嫌だから石頭に頼んだんだ」

「だったら俺についてこい。その女みたいな前髪で顔を隠そうとせず、もっと男らしくして。ところで念のため言っとくが、杏花楼の存在は老鴉には秘密だからな。俺が来たときに、あいつとは鉢合わせたくない」

「わかってる。そのかわり俺がど、童貞だと、老鴉に言わないでくれよ」

 石頭がうなずこうとした瞬間、

「俺がどうしたって?」

 老鴉が横からぬっと現れてそう言ったので、二人はぎょっとして立ちすくんだ。

「老鴉、いったいどうしてここに。い、いつから俺たちの後ろにいたんだ」

「驚いたか。気配を消すのは朝飯前。おめえたちには報告してなかったな――実は俺、昨日付で地仙になった。いずれ頭と同じ神仙にまで昇格するだろう。悔しかったらおめえたちもせいぜい仙人になる努力をしろ」

「おい老鴉、俺たちは急ぐんだ」

「わかってる。人間は人間らしく、早く童貞を捨てたいだろ。花旗、おめえ醜男ってわけでもねえのに気が小せえから今まで女一人ものにできなかったんだな」

「な、なに言ってるんだ」

「黙っててやるから、さっさと杏花楼にむかったらどうだ。俺もついていくぜ。遊びで行くんじゃねえ。仙人は男女の性の交わりによって精気を摂取する房中術を習得しなきゃならねえ。さあ、石頭おじさん、案内してくれよ」

 花旗は石頭と目を合わせて言った。

「帰ろう」

「おい、やめるのか。それとも、そこらの野鶏(ヤアチイ・・・街娼)に変えるのか?」

 四馬路にはそこかしこに薔薇や白蘭花で髪を飾った野鶏が立っていて、男が通るたびに芳しい香りを振りまいて誘っている。今も石頭と花旗が踵を返したとたん、派手な旗袍を着た娘が二人寄って来て、

「先生(シーサン・・・旦那)、私と遊ばない」

 そう言って男二人の腕を無遠慮にとり、肉づきのいい体を押しつけてきた。その感触と、街灯に照らしだされた案外整った顔立ちに幻惑され、

「ねえ、いいでしょ」と甘い声でささやかれると、

「ああ、いいよ」石頭は思わずうなずいた。

「花旗はどうだ?」

 花旗は女に抱きつかれた体を硬直させて言った。

「映画を見るくらいなら・・・・・・」

「なに言ってんだ」

 石頭は顔をしかめたが、すぐに考え直し、後輩思いのところを見せようと女たちに言った。

「こいつ、ちょっとうぶでな。まずは一緒に映画に付き合ってくれないか?」

「もちろん。行こう行こう」

 笑顔で調子を合わせた女たちは、そばでじっと見ている老鴉に気づくと、ついでに声をかけた。

「そこの先生もどう?」

 老鴉は首を横にふって言った。

「遠慮する。一時間以上もただ座ってるだけなんて性に合わねえ。俺は娼館に行く」

 男女四人が遠ざかると、

「ちっ、俺に隠れてこそこそしやがって。石頭のやつ、杏花楼の場所もよくわからねえ分際で、俺に知られたくねえだとよ」

 老鴉はぶつくさ言いながら細い路地に入って角をなん度か曲がり、一軒の二階建ての店の前に立った。

「場所は知ってたが、俺も入ったこたあねえんだ。どれちょっと偵察してやっか」

 宮灯と呼ばれるつり燈籠が闇に桃色の光をにじませ、杏花楼の看板を照らしている。

 だがなんとなく変だ。妓楼にしては静かなのである。新一九三一年の妓楼は、実は妓楼とは名ばかりで売春行為は行われていない。それでも妓女と名付けられた娘たちはいて、客とじゃんけん遊びをする声や、歌や胡弓の演奏の音が通りまで洩れてにぎやかなはずだった。老鴉は首をかしげつつ、中に入ろうとドアを押した。すると一人の客がちょうど出るところで、ぶつかりそうになった。

「危ないだろ!」

 出て来た男はいきなり怒鳴った。三十代で小太りの体に高級な背広を身につけ、金縁眼鏡を光らせている。

「ここはおまえみたいな若造の来るところじゃない」

 男はそう言って老鴉を押しのけ、行こうとした。老鴉は癇癖が強いだけに、たちまちカッとのぼせて、

「人を若造と言えた年か?」男の胸倉をつかんで手を出そうとした。

「この野郎、なめやがって」

 その瞬間、

「老鴉、やめんか」

 店内から、聞き覚えのある声が飛んで来た。見ると、玉子が近づいて来る。

「こんな所で大声を出して、なにを考えている」

「頭、なぜここに・・・・・・あ、さすが神仙、神出鬼没。いやお見事です」

「黙りなさい」

「頭、ふだんと口調がちがいやすが・・・・・・そっか、変身術の一つを実行してるんすね。姿は変わらずとも、中身は別人に化けるという」

「黙るんだ」

 玉子は言い放つと、金縁眼鏡の三十男にむかって頭を下げた。

「こいつがとんだご無礼を。このとおりお詫び申し上げます。――ほら、おまえも頭を下げなさい」

 金縁眼鏡の男は満更でもない顔をしたが、わざと二人には言葉をかけず、店に立っている娘姨(ニャンイ・・・仲居)にむかって、

「客質を落とすな」そう言い放ち、去って行った。

「頭、なんだってあんなやつに」

 老鴉が言うと、玉子は声をひそめて言った。

「しっ、言葉に気をつけろ。さっきの男は政府の機関紙『中国日報』の編集局長兼、上海市政府の宣伝部部長、つまり当局の人間。今日は客として来ていたが、睨まれたら終わりだ」

「げっ、あのちび野郎が。道理で店が変に静かだと思ったぜ」

「口を慎めと言っただろ。まったくおまえがここに来るとはな」

「頭、その言葉使い、似合ってますよ」

「いちいち指摘しなくていい。おまえも中に入りたいか?」

「もちろんっす」

「仕方ない、入れ」

「ありがとうごぜえます」

「いらっしゃいまし」

 娘姨が笑顔を刻んで近づいて来たので、玉子は老鴉を示して言った。

「こいつは私の隣の円卓に」

 老鴉のみすぼらしい格好を見ても娘姨は笑顔を崩さず、奥の円卓に案内し、茶と南瓜の種などのつまみを運んで去って行った。

「頭、どうして別の席なんすか。――あ、女の子と気兼ねなく楽しむためすか」

「口を慎め、口を」

「へいへい」

 そのとき、濃紺の旗袍に銀色の首飾りと耳環を下げた中年の妓女が玉子の席にやって来て、

「玉(ユー)さん、さっきは大変だったわね。お連れさまも、とんだ災難を」

 そう言って老鴉にまで頭を下げた。

「いや、いいんだよ香春。それより」

 玉子は鷹揚に老鴉を示して言った。

「こいつに一人妓女をあてがってくれないか」

 香春こと黄宗玲は年の割に綺麗な顔に笑みを浮かべ、

「かしこまりました、玉さん」親しげに言って奥へ引き下がった。

「さすが頭、ここのなじみなんすか。今の姐さん、会に来てる香春さんっすよね。俺にもいい娘をつけてもらえますね」

 老鴉は顔を輝かせたが、玉子は厳しい顔をむけて言った。

「おまえ、妓楼に入ったのはじめてだろ。まあ無理もない。私が教えてやろう」

 玉子は声を落として言った。

「商売女と寝てみろ、民警が飛んで来る。野鶏でも結果は同じだ。まあ幸い妓女とのおしゃべりだけは禁じられていない」

「寝られねえのは知ってやすよ。しかし頭がここによく来るからには、なにか他に特別な楽しみがあるんでしょう?」

「おまえはこれだから隅に置けない。耳を貸せ」

 玉子は老鴉が寄せた耳に吹き込む。

「察しの通り、目的は『商談』だ。もうすぐここに北康さんが来る」

「え」老鴉は驚きつつ、小声で言った。

「こんな所で『商談』やって大丈夫なんすか。いつもは埠頭の倉庫でやるのに」

「少人数で会うときは、ここに限る」

「そうっすか。大事な用があるとは知らず、俺みたいな者が入って来ちまって失礼しやした」

 老鴉が立ち上がりかけると、玉子は言った。

「待て、座れ。おまえを邪魔にする気はこれっぽっちもない。阿三が仲間に入った日、みんなをこの店に連れて来ようと思ってたぐらいだしな。ま、遠慮なしに、そこの茶でも飲め」

「それじゃ頂きやす」

 老鴉は現金にも自分の卓から茶杯を取り上げて飲むと、もう帰ろうとしたことなど忘れたようにくつろいで玉子と雑談をはじめた。

「しかし頭、阿三さんが連れ去られてから、もう一か月が経ちやすねえ」

「そうだな、どうしていることか。会に顔さえ出さないとなると、ひょっとしたら相当良くない状況にあるのかもしれない」

「華東撮影所にいるのは、たしかなんで?」

「ああ、蓮英から聞いたからな」

「娘さんが毎日撮影所で阿三さんに会ってるなら、詳しい情報が入って来ねえんすか?」

「それがだめなんだ。めったに見かけないと言うし、私も娘は危険な目に遭わせたくないから。蓮英には映画だけに集中してもらいたい」

「それじゃ思いきってあの辺が縄張りの者を使って連絡をとってみたら」

 そのときそばに来た香春が不安げな顔をむけて、二人になにか問おうとした。だが、その背後に控えていた若い妓女に老鴉は目を奪われて、

「おおっ、かわいい娘。なんて名です?」

「小・・・・・・」

 香春は一度別の名を口にしかけてから、あわてて、「莉保です」と言い直すと、若い妓女に向かって照れ隠しのように声をかけた。

「ほら、挨拶なさい」

「莉保です、どうぞよろしくお願いします」

 二十歳前の妓女はぎこちなく、しなをつくって頭を下げた。莉保は小莉だった。小莉は二週間前に拘置所から釈放され、それまであてがわれていた思燕という名から莉保に変更させられ、妓女としてこの杏花楼に送りこまれたのだった。

 黄宗玲は新入り妓女莉保が小莉だと、小莉は先輩妓女陳香春が苑玲の母親の黄宗玲だと、杏花楼で再会した瞬間に気づいたが、店では素知らぬ顔で「姐さん」、「莉保」と呼び合っていた。

 小莉が老鴉の卓につくようすを黄宗玲は母親のような目で見届けると、玉子の隣に腰かけて、

「ねえ、玉さんには撮影所で働いているお友達がいるの?」

 他の客の目を気にして阿三のことを遠回しに尋ねた。阿三が夫の現在の名であることは片ときも忘れていなかった。

「なんだ、さっきの話が聞こえたか」玉子は言った。

「ええ、映画関係の方がお友達なんて素敵ね」

 黄宗玲はできるだけ自然に聞こえるように言った。

「そのお方、今度お店に連れて来てくれない?」

「ああ香春、私たちもそうしたいんだがな」

「連れて来られないの? なぜ?」

 黄宗玲は不吉な予感にかられ、青い顔をして言った。

「そのお友達は無事なの?」

 玉子は隣の席で老鴉が莉保と楽しそうに話しているのを確認すると、問いに答えようとした。だがその瞬間、

「やあ玉さん」

 なじみの男が突然二人の間に割りこんで来た。振りむくと、北康こと鄭君里が立っている。

「北さん」

「どうぞこちらへお座りになって」

 黄宗玲は鄭君里を迎えて玉子の隣に座らせ、新しい茶杯を取りに行った。

「遅くなってすみませんね」

 鄭君里が詫びると、玉子は笑顔でからかうように言った。

「また尾行されましたか?」

 鄭君里は頭に手をあてて答える。

「ええ、また民警をまくのに時間がかかっちゃいまして」

「こっちはこっちで変なやつが来てましたよ。例の元編集局長でして」

 玉子が声をひそめてささやくと、鄭君里は目を驚かせて言った。

「え、また『中国日報』の張橋が?」

「私たちと入れ違いに帰りましたがね。例によって嫌味な金縁の眼鏡を光らせて、うちの若い者に邪魔だと難癖つけてました」

「彼が来たからって、うちの店を見限っちゃいやよ」

 黄宗玲が新しい茶杯を運んで来て二人に差し出し、甘えるように言った。

「さあ、どうかな」

「北さんたら、もったいぶって。うちぐらいしか行く所がない癖に」

 黄宗玲と鄭君里は相変わらず仲のいい客と妓女になりきっている。玉子はすでに二人の本名を知っているのだが、他の人間の目があるので役を演じつづけていた。

 あいさつ代わりの軽口の叩き合いが終わると、黄宗玲は鄭君里に真顔になって言った。

「張橋はうちの店に無駄足を運んでいるわ。客として来てなにを嗅ぎまわってるのか知らないけど、なにもつかめてやしないわよ」

「そうだな」玉子が答えた。

「あんな男に見破られる私たちじゃないからな」

「それにこっちには、あの男の正体を知っているという強みがある」

 鄭君里が言うと、黄宗玲もうなずいて言った。

「そうそう、なんといっても、あの男は私たちの近所に住んでいた、元は町工場の技術者、楊拓なんだから。もともと卑しい感じの人だったけど、新一九三一年になって御用新聞の記者に採用され天性が発揮されたのよ」

「そして今じゃ市政府宣伝部部長の張橋さまだからな。それがしょっちゅう妓楼に入って間諜の真似事をしていると人民が知ったらどう思うか」

「まあ今の所、役目は果たせてないけどね。こっちでじゅうぶん警戒してるんだから」

 黄宗玲は憎々しげに言うと、雰囲気を変えようと思ったか、話題を転じた。

「玉さん、『銀花』の撮影は順調かしら? なにか聞いてない? 娘さんが『銀花』の主役になって一か月になるけど」

「どうだろう、最近話してないから私も詳しくは知らないが、割合うまくいっているみたいだ」

「あれの主役はもともとは藍蘋だったんですよね?」

 鄭君里は玉子にそう聞きつつ、黄宗玲に意味ありげな視線を投げた。

 黄宗玲と鄭君里は新一九三一年の藍蘋の正体が娘苑玲であることを知っていた。新聞で『銀花』の宣伝写真を見て気づいたのである。

「あら北さん、また同じことを聞いているの。新聞にも書いてあったじゃない、撮影がはじまってすぐに藍蘋は事故に遭って降板になったって」

「覚えているよ。なんでも自動車に轢かれかけたとか」

「撮影所からの帰りに主演俳優と歩いていたら、赤いフォードがいきなり狙うように走って来たんだって。二人はとっさによけたから衝突せずに済んだけど、藍蘋は道路に伏せたとき、足腰まで痛めたそうよ。まったく運転してたのはどんな人間なのかしら。いまだに捕まっていないなんて」

 黄宗玲が我を忘れて怒りはじめたので、周りの目を気にした鄭君里がなだめるように言った。

「まあ、怪我もそこまでひどくはないという話だから、警察も躍起にはならないんだろう。あれからだいぶ経ったから、藍蘋ももう回復しているんじゃないかな」

「主役を降ろされてから里弄の部屋に引きこもってるそうね。落ち込んでるんじゃない」

「香春、藍蘋を気にかけすぎじゃないか」

 玉子も二人が親子と知っているので、たしなめるように言った。

「そりゃあ藍蘋と言えば江青夫人の若い頃の名前だもの、気になるわよ」

「江青は若い娘に自分の芸名をつけて、自分の歴史まで書き変えさせようとしているって言うんだろ」

 鄭君里が言った。

「よくわかってるじゃない」黄宗玲は勢い込んで言った。

「江青夫人は一九三〇年代、女優の頂点に立ちたがっていた。でも、一流女優の仲間入りさえできなかった。その彼女が望むことといったら? 一つしか考えられないわ。つまり新一九三〇年代化政策が推進された目的は、中国の歴史を書き換えることなんかじゃなく、江青が『藍蘋』を映画界の女王にすることにあるというのが私の持論」

「それにしては、新一九三一年の藍蘋は昔の藍蘋には全然似ていないが」

 玉子がつぶやいた。

「それは私も同感。夫人があの娘をどういう基準で藍蘋に選んだのかはわからないし、知るのも恐ろしいけど・・・・・・でも夫人が昔の意趣返しをしようとしている証拠には、昔の藍蘋が勝ち取れなかった映画の主役の座を、新しい藍蘋に手に入れさせたこと」

「だが降板になった。『銀花』の主演女優は最終的に私の娘、蓮英に決まったじゃないか」

「僕が香春の説を支持しきれない理由もそこにある」

 鄭君里が言った。

「江青夫人の最終目的が藍蘋を映画女王にすることなら、事故の後に多少の怪我ぐらいで降板させるなと監督に圧力をかけたはずだ。蓮英が主演になってもそのままにしてるということは、江青の真の目的はもっと別のことにあるように僕には思えてならない」

「別のことって? なんだと言うの」

「僕たち三〇年代に活躍した映画人にたいする復讐だよ」

「え、江青が私たち同世代の映画人に復讐するために、新一九三〇年代化政策を推し進めたと? それはちょっと飛躍しすぎじゃない」

「だって君だって知っているだろう、江青が僕らを憎み恨んでいたとしてもおかしくはないと。僕はこの頃新政策施行前にあったパーティーのことがしきりと思い出されてならないんだ」

「江青に招待されたパーティーのこと?・・・・・・ああ、言われてみれば。北さんがなんのことを言っているのかわかってきた気がしてきたわ」

「だろう?」

 鄭君里と黄宗玲の話を先程から黙って聞いていた玉子がたまりかねたように言った。

「いったい、なんのことを言っているんです?」

「ああ玉さん、すみません、僕らだけで話してしまって。実はですね、こういうことがあったんですよ――」

 鄭君里は説明をはじめた。


 ――それは今からちょうど半年前のことだった。

 新一九三〇年代化政策施行前の一九六五年四月三日土曜日、国家主席毛沢東夫人江青はひそかに上海に赴き、映画関係者たちを錦江倶楽部に集めてパーティーをひらいた。

 当局は定期的に党の思想を宣伝するために映画を制作していたので、新作を作るために新進気鋭の俳優や制作陣を集めて接待するつもりかと思いきや、そのパーティーに招待されたのはなぜか、五十代前後の人間に限られていた。

 監督の鄭君里から俳優の趙丹、女優の黄宗玲、王瑩、音楽の譚友五、脚本家の魯漠、撮影技師の王春泉、照明の張陽、元女優で今は保母の秦桂如(チン・グイルウ)まで、いずれも一九三〇年代の中国映画草創期に活躍した面子だった。

 会場だった錦江倶楽部のホールで招待客を前にした江青は言った。

「これは同窓会です。一九三〇年代上海映画界の仲間同士、今日は大いに楽しみましょう」

「仲間同士」と言ったのは、江青が女優だったからだと出席者にはわかった。

 江青は毛沢東と結婚する前、十九歳から二十三歳まで上海にいて藍蘋という名で女優をしていた。のちに別れたが、映画評論家の唐納と結婚して世間を騒がせもした。

 だが彼女は決して明星(スター)ではなかった。一流になろうと必死にもがいたが、一流の仲間入りはできなかった。どれだけ努力しても選考会に落ちつづけたし、希望する役を与えられたことは数えるほどしかなく、映画女優としては三流だった。もっとも江青は映画制作に関わっていたし、夫だった唐納の交友関係が広かったのもあり、一流の映画人たちの付き合いは当時それなりにあった。

 とはいえ三十余年後に突然彼らを呼び集めてパーティーを開くのは、昔のいじめられっ子がいじめっ子を招いて唐突に同窓会を開くのに近いものがあると思われ、なんらかの魂胆があるにちがいないと出席者たちは訝らずにはいられなかった。それでなくとも江青は今や毛沢東夫人なのだから、口をきく機会があっても迂闊なことは言えないと皆警戒した。

 だが江青は招待客の心をほぐそうとして終始にこやかな態度を崩さず、極めて気さくな感じで振る舞った。そうなると皆も江青とは知らない仲ではなかったので、しだいに昔の口調に戻って夫人と言葉を交わしはじめた。一番警戒心がなかったのが元女優で今は保母をしている秦桂如だった。彼女は鄭君里や趙丹の前で江青を昔の渾名蘋(ピン)と呼び、こんなことを言った。

「蘋はいつもお腹を空かせてたわよねえ」

 この時江青の顔がこわばったのを鄭君里は見逃さなかったが、秦桂如は酒の酔いが回っていたのか気づかずにつづけた。

「ねえ蘋、覚えてる? よく私が大家さんの所から、あなたのために食べ物をたくさんくすねてあげたのを?」

 鄭君里が話題を変えさせようとした瞬間、江青が笑顔を貼りつけて言った。

「そうそう桂如、あなたはよく私のために野菜や果物、卵となんでも差し入れしてくれたわよね」

 不自然に裏返った声ではあったが、鄭君里はひとまずほっとして合いの手を入れた。

「二人は同じ里弄に住んでたんですか」

「そうよ、知らなかったの? あの頃私は撮影で忙しかったけど、蘋の苦労を見ると放っておけなくってね」

 秦桂如は回想に夢中らしく、しゃべりつづけた。

「蘋は家事が苦手だったし私は得意だったから、仕事の合間を見て掃除や洗濯をかわりにやってあげたのよ。なにしろ蘋の部屋はちょっと放っておくとすぐ散らかってしまうのだから。本気で片づけたら一日つぶれちゃう。でも私は蘋に少しでも多く選考会を受けてほしかったから、疲れた体に鞭うってやってあげたっけ」

「桂如には本当お世話になったわ。私が上海を離れるとき、あなた写真帳をくれたの、覚えてる?」

「覚えてるわよ」秦桂如は素直に答えた。

「私、なけなしの給料をはたいて写真帳を買ってあげたっけ。蘋はあれを胸に抱いて『私が成功したら必ず恩返しをする』と言ってくれたわね」

「そうよ」江青はにこりと笑い、出席者を見渡して言った。

「私はみんなに恩返しをしようと思っているの」――。


「あのときの江青夫人の顔が、思い出されてならないんです」

 鄭君里が言うと、玉子が聞いた。

「どんなだったんです?」

「目が少しも笑っていなくて・・・・・・なんて言うんですか、とにかくぞっとさせられたんです」

「私もよ」黄宗玲がうなずいて言った。

「あの表情を見た時、背筋に冷たいものが走ったのを覚えている」

「そうだろう。今考えると、あのとき夫人は、『恩返し』という名の復讐を、僕らにすると宣言したように思えてならないんだ」

「復讐を?」

「あのパーティーに招待されたのは、三〇年代に江青が選考会を受けて落ちた映画の制作者や俳優ばかりだった。江青は一流の仲間入りをさせてもらえなかった恨みを権力を使って晴らそうとしているのかもしれない」

「そう言われれば・・・・・・あり得ることね。『河魂』の授賞式がいきなり中止になったのも、江青の仕業と考えれば納得がいく。となると自分の身代わりを藍蘋に仕立て上げて『銀花』の主演にさせようとしているのも復讐の一環なのかしら」

「それは必ずしも復讐とは限らないんじゃないかな。夫人は昔叶わなかった夢を叶えようとしているのかもしれない」

「だとしたら、うちの娘も危ないってことですよね」玉子が言った。

「蓮英は新藍蘋の対手だから」

「ああ、そうね。でも蓮英さんが『銀花』の主役になってすでに一か月が経つけど、なにごとも起こらず無事なんでしょう」

「今のところはな。だがいつまでも安全でいるとは限らない気がして来た」

「蓮英さんはそんなに心配いりませんよ」

 鄭君里が慰めるように言った。

「江青夫人が暴走したら、映画協会会長である周同志が止めてくれるはずです」

「まあ仮に蓮英が安全だとしても、北さんたちが江青の攻撃対象かもしれないと思うと、不安は消えません。対策をたてませんか」

「そうですね、しかし僕ら映画人が攻撃の対象になっているという確証はまだつかめてないんですよ」

「うかうかしている間にふいをつかれたら、おしまいですよ。江青に太刀打ちするのが難しいと思うのなら、この際、周同志の力でもなんでも借りればいいんです。私が請願にでもなんでも行きますから」

 玉子が言ったときだった。奥のご不浄に行っていた老鴉が血相を変えて戻って来た。

「大変っす、頭、大変っす」

「なんだ騒々しい。これから大事な話をするところなのに」

「さっき厠から出たら、あっちの席で娘姨たちが騒いでいたんすがね――」

「笑い話なら私じゃなくて莉保に話してやりなさい」

「そんなんじゃないっす。頭。とにかくこいつを見てください」

 老鴉は新聞を差し出した。『中国晩報』――中国日報社の夕刊である。

「さっきの金縁眼鏡が置いてったらしいんすよ。いったい、どういうことすかね」

 玉子は一面の見出しを見るなり目をむいた。そこにはこう書いてあった。

〈周恩来は間諜〉

 飛び込んだ文字に鄭君里も黄宗玲も血の気を引かせて目を走らせた。三人の顔は行を追うにつれ、ますますこわばっていく。記事には次のようなことが書かれてあった。

――周恩来はひそかにアメリカの政治家、実業家、文化人と接触、彼らを上海のフランスクラブに招いて接待し、高価なガラス製の蝸牛を贈呈した。周恩来はこの蝸牛に、「中国はのろのろと進んでいるが、私はあなた方の国に行って進んだ生活をしたい」という意味をこめたのである。その証拠に周恩来はまず自分の娘をアメリカに送り込む手続きをした。さらにハリウッド映画のプロデューサーと話し、娘を女優にして一流映画に出演させるよう約束させた。しかもこの娘は周恩来の隠し子であることが、このほど発覚した。

 周恩来は愛妻家のように言われていたが、実は愛人がおり、その女との間に子どもを作っていたのである。娘の現在の名は蓮英という。蓮英は現在上海で撮影中の『銀花』の主演女優である。だが蓮英は実力で選ばれたのではなく、力でその役を奪い取ったことが、このほど明らかになった。『銀花』の最終選考会で主演女優に選ばれたのは白露だった。だが白露はその日に亡くなった。九月五日のワインショップ事件を思い出してもらいたい。白露をはじめ、蓮英と主役を争った菊花およびその肉親他計七人があの事件で亡くなった。彼らは国家に反逆する計画を実行に移すため、店に仲間と集まったところ、店員の裏切りで計画がばれ、結果警察に射殺されたと発表されていたが、真相は異なることがわかった。

 主演をあきらめきれなかった蓮英が、邪魔者を始末したというのが真相だ。白露の後、主演に選ばれた藍蘋が怪我を負ったのも、蓮英が自動車で轢き殺そうとしたことが原因と発覚している。それなのに蓮英は父親の力で罪を隠蔽した上、被害者を悪者に仕立てあげた。

 蓮英は卑劣な人殺しである。娘をとがめるどころか、かばってきた父親はそれ以上の悪人である。周恩来は人民を欺いてアメリカと接触し、人殺しの隠し子をハリウッドに送り込んで国際女優にしようとしている。君子の仮面をかぶった極悪人でなくてなんであろう。――

 記事はさらにつづけて激烈な周恩来批判を展開していた。

「周同志が間諜? 蓮英さんは隠し子で、主役を奪うために藍蘋を自動車で轢き殺そうとしたですって?」

 黄宗玲が悲鳴のような声をあげた。

「蓮英さんが周同志の隠し子なんて、うそっすよね?」

 老鴉が玉子に聞く。

「蓮英さんは頭の娘っすよね?」

「・・・・・・」玉子は放心したように宙を見つめ、なにも答えない。

「いったいどうなっているのよ!」黄宗玲がわめく。

「・・・・・・周同志が売国奴なわけがない」

 鄭君里が自らに言い聞かせるように言った。

「これはなにかの誤りだ」

「でっちあげということですか。ねえ、頭?」

 老鴉がつとめて明るい口調で同意を求めると、それまで石のように固まっていた玉子がうなずいて、

「ああ、その可能性大だ」

 新聞の名前を見て、自らを励ますように言った。

「張橋の息がかかった記事なんか信用できない」

「でも火のないところに煙はたたないというでしょう」

 黄宗玲はこわばった顔のまま言った。

「なにもなくて蓮英が隠し子なんて書かれるかしら」

「いや、デタラメに決まってやす」老鴉が言った。

「有名人は名前を悪用されやすいってだけっすよ。蓮英さんは頭の娘さんっす。ねえ頭?」

 玉子はなぜか目をそらし、顔をかたくしてなにも言わない。

「玉さん、どうしてなにも言わないの」

「・・・・・・」

「今こんなことを聞くべきじゃないかもしれないけど、蓮英さんはあなたの本当の娘? それとも記事が本当で血のつながりのない養子だったの?」

「たのむ。やめてくれ」玉子は全身で返答を拒絶した。

 すると鄭君里が助け舟を出すように言った。

「とにかく、この記事は信用できませんよ。『中国日報』は共産党の御用新聞なわけだし、江青夫人が周同志を陥れようとして張橋かその子分に書かせたものと考えられます」

「そうかしら」

「僕は周同志を信じる。君は信じないのか?」

「衝撃が大きすぎて・・・・・・」

「私は周同志の潔白を信じます」玉子が言った。

「よかった。周同志を支持する会としては、この事態を黙って見過ごすわけにはいきませんよね。この記事がまがいものだということを証明できたらいいんですが」

 鄭君里が言ったときだった。

 表から突然、人民警察が突入して来た。数十人の警官はまたたく間にちらばって店内を包囲した。悲鳴をあげる妓女、浮足立つ客にむかって、警部は叫んだ。

「全員そのまま、動くな!」

 鄭君里たちは自分たちの話を聞かれたための突入と考え、蒼然となった。警部はずかずかと中に上り込み、奥にいた娘姨に尋ねた。

「楼主はどこだ?」

「ここにおりますが」

 高価な長袍を着た肥った楼主が奥から姿を現して、四角い顔を隙のない笑みでいっぱいにして警部の前に立ち、

「本日はどういったご用むきで。ご覧のとおり、当楼は見かけだけの妓楼でございまして、売春等の違反行為は一切行っておりませんが」

 調べたいなら好きなだけ調べてください、という目をした。

 だが警部はなにも調べようとはせず、いきなり声を張り上げた。

「それが妓楼の楼主の言うことか!」

「あの、私は違反はしていないと申し上げたのですが――」

 楼主が面食らって言うのを、警部はうるさそうに制して言った。

「いいか、よく聞け。今日杏花楼には新たな命令が下った。我々は本日その命令を伝えに来たものである」

「そのために皆さんおそろいで・・・・・・? どのような命令でしょうか」

 楼主は不安な面持ちになって身構えた。妓女たちも皆体を硬くする。

 警部は懐から一通の書状を取り出して広げ、おもむろに読み上げた。

「杏花楼に告ぐ。本日、ただ今より売春を解禁せよ」

「へ?」

 楼主は思わず変な声をもらした。自分の耳が信じられなかったのである。

「聞いただろう?」警部が言った。

「すべての妓女は今から客に体を提供しなければならない。さあ、はじめろ」

「はじめるって、いったいなにを、どうやってはじめるのです」

「わかっているだろう。とぼける気なら、力ずくで従わせるぞ」

 警官たちはじりじりと妓女たちに接近した。

「待ってください」楼主はあわてて言った。

「本当にそのような命令が下ったのでしょうか?」

「疑うのか?」警部は凄い目で楼主を睨みつけた。

「抵抗すれば罰するぞ」

「そんな、無茶な・・・・・」

「ええい、まだるっこい」

 警部はいきなり近くの卓に歩み寄り、なん人かの客に命じた。

「おまえはそれを、そこのは、あれを犯せ。今すぐここでだ」

 気の弱そうな客は怖気づいて逃げ出そうとしたが、入口を固める警官たちに押しとどめられた。

「なぜ誰も命令をきかない。人前で交わるのが恥ずかしいのか?」

 警部は一人ひとりの顔を覗きこむようにして、

「よし。それなら恥ずかしさを忘れられるようにしてやろう。誰かにお手本を見せてもらえば、いやでも命令を実行したくなるはずだ」

 そう言うといきなり、黄宗玲と鄭君里を示して言った。

「そこの妓女とそこの客、前へ出ろ」

 二人はぎょっとした顔を見合わせる間もなく複数の警官に引っぱられ、店内中央につき出された。

 五十代の元映画女優と元映画監督は、いったん人前に立つと取り乱すまいとして表情を落ち着かせた。そんな二人を挑発するように警部はじろじろと見つめ、

「両方もう老人に近い年だが、面貌悪しからず役者に不足はない。おまえたちは注目を浴びるのには慣れているだろう」

 薄ら笑いを浮かべて言った。

「『開始』と言えば、はじめてくれるな?」

 警官たちは動こうとしない二人を数人がかりで押さえつけて服を脱がせ、

「なにするんですか」

 抵抗するのも無視して、力ずくで卓の上に乗せて抱き合わせた。

「開始だ。交われ」

 警部が命じた。鄭君里と黄宗玲はたがいの裸体を肌に感じて困惑の極みに達し、身じろぎもしなかった。なぜこんな目にあわされるのかという疑問で二人の頭はいっぱいだった。

「命令に従わなければ、おまえたちの大事な家族まで罰せられるぞ」

 二人は目を見合わせた。脅しに屈する気はなかったが、当局を倒すという目的のためには、いくら理不尽な命令であっても、今この場で抵抗しとおすことは得策ではないようにも思われた。たがいの目から相手が同じ考えであることを読み取った二人は覚悟を決め、うなずきあった。

「許せ」

 鄭君里はそう言って黄宗玲の体に手を這わせはじめた。許せ、趙丹。許せ、女房。これはみんなのためなんだ。胸の中で謝罪と言いわけをなん度も繰り返しながら、黄宗玲の体の中に入った。

「そうだ、その調子だ」警部は目をぎらつかせて言った。

「なかなかいい手本だ。皆よく見ろ」

 警部に言われなくとも皆卓の上に釘付けになっていた。熟年とは言えども体の美しい男女の交わるさまを見ているうちに客も妓女も興奮して、目から妖しい光を放ちはじめた。

 黄宗玲は恥ずかしさのあまり、断じて乱れまいとし、人の少ない方へ顔を一人そむけた。すると入口が目に入った。複数の警官が警備にあたっている。そのなかに見覚えのある顔がまじっていた。警官ではない。『中国日報』記者の張橋こと楊拓だった。人一倍ニヤニヤしている。

「見本のおかげで皆興奮してきたようだな」

 警部は満足そうに言った。

「いいぞ、いいぞ」

 店内はいつしかあえぎ声で満たされていた。一人の客が我慢できずに隣の妓女を犯したのをきっかけにして、あちこちで合戦がはじまっていた。老鴉も小莉に飛びついた。玉子はその気はなかったが、余っていた妓女に迫られて断りきれずに交わった。

 黄宗玲は必死に自分を保とうとしたが、体が反応しはじめ、声をおさえきれなくなった。心ではたとえようもない屈辱を感じていた。


 その翌日の午後。南京路はふだんにも増して混雑し、物凄い人だかりで足の踏み場もないぐらいだった。もし民警に尾行されても、これなら目をくらませるだろう。それはありがたかったが、なかなか前に進めないのは閉口だった。

「困ったわねえ、四時までに帰れるかしら」

 黄宗玲は連れの小莉に言った。

「もっと早くカフェを出ればよかったですね。私がのんびりしていたせいで――」

「莉保のせいじゃないわ」黄宗玲は言った。

「こんな人だかりができるなんて、さっきまではわからなかったもの。それに連れ出したのは私よ」

「私が落ち込んでいたからですよね。本当感謝してます、香春さんの方が昨夜はよっぽどひどい目に遭わされたのに、話をきいてくださって」

 小莉は言った。たがいの本名は用心のため、二人きりのときも呼び合わないようにしている。

「私は年だから、いいのよ。莉保みたいに若い娘は経験がない分、受ける打撃も大きいはず。――やだ、どんどん人が増えるわね。四大デパートはすぐそこなのに、建物の下の方は人の頭で全然見えないじゃない」

「どうしましょう。普通に歩いたら杏花楼まで十分足らずなのに、なん十分もかかりそう」

「そうね・・・・・・あら、今先施デパートの時計塔を見たら、まだ三時十分過ぎだわ」

「あ、本当だ。四時まで五十分もある。それなら、さすがに間に合いますよね――あれ、あの縄、なんでしょう」

 小莉が指さした方向に、黄宗玲は顔を向けた。永安デパートの屋上から垂直に伸びている円筒形の塔を見上げると、根元の辺りにいつもはない縄が巻いてあり、英国古典主義様式の六階建ての建物の一階までぶらさがっていた。

「垂れ幕をつるす紐じゃない」

 首をかしげつつ言う黄宗玲に小莉は言った。

「それにしては、変じゃないですか」

 そのとき、ウォーッという声があがり、人波が揺れ動いた。視界にすきまができて、永安デパートの入口が見えた。小莉と黄宗玲はあっと息をのんだ。

「ねえ、あの人・・・・・・蓮英じゃない?」

「そうみたいです」

 蓮英は塔から垂れ下がった縄で肩をぐるぐる巻きにされ、足が地面に届くか届かないかというところで、永安デパートの入口前に蓑虫のように吊るされていた。群衆は露骨に敵意に満ちた視線をぶつけていた。今、声があがったのは、群衆の一人が罵声を浴びせたのに大勢が呼応したことによるらしかった。

「どうしてこんなことに」

 黄宗玲が言ったとき、また人の頭に遮られて見えなくなった。

「時間はまだある。こうなったら、どうにかして永安デパートの前に出ましょう」

 妓女たちはなりふりかまわず人を押しのけて行った。

 すると再び蓮英が見えた。よりはっきり見える所まで近づこうと進んだときだった。

「押すなよ」

 前にいた中年男が振り返って怒鳴った。眼鏡をかけ、知的な顔立ちをしているのに、汚いなりをしていて人柄が悪そうな感じである。

「すみません」黄宗玲は頭を下げ、小莉に言った。

「もうちょっと後ろに下がろう」

 まったく身動きがとれない。

「これだけの人出を公安がよく許してますよね」小莉が言い、

「見て見ぬふりみたいね。ひょっとして、当局が黙認してるのかしら」

 黄宗玲がつぶやくと、前にいた先ほどの眼鏡の男が急に振り返って、

「そうとも」頼んでもないのに黄宗玲の疑問に答えた。

「吊るし上げたのは当局なんだから」

 男がいきなり話に加わって来たのと、当局の仕業と聞いたのとで黄宗玲は驚き、気おされたような声で、

「へええ」そう答えるのが精一杯だった。

 物乞い風の中年男は自分の言葉が女を圧倒したと思ったのか、いたく得意げな顔をしてつづけた。

「要は見せしめだな。周恩来も軟禁状態にされたぐらいだから、あの娘があんな目に遭うのも無理はないよ」

「え、周同志が軟禁状態?」

「おたく、なにも知らないんだな。周恩来は間諜疑惑で自宅を囲まれたって話だよ」

「まあ・・・・・・」

 黄宗玲が顔色を変えて絶句すると、男はますます得意げにまくしたてた。

「なにせあれだけ書きたてられちゃね。間諜の上、隠し子がいて、しかもその子どもが人殺しとまで知られたんだ、どうしようもないよ。だけどそれがあの娘とはね、信じられない気がするなあ」

 吊るされた蓮英の方を見てまた一言、付け加えた。

「周恩来の娘とはどうも思えない。ずっと頭の娘だと思っていたせいかな」

 頭と聞いて黄宗玲はハッとなった。ひょっとすると玉子の仲間ではないかという考えが浮かんだのである。黄宗玲は玉子が物乞い組の頭であることも、玉子が蓮英を自分の娘と言っていたことも知っていた。

「あの、頭って言いますと?」黄宗玲が聞いたとたん、

「ななな、なんでもありません」

 吃りつつ答えたのは眼鏡の中年男ではなく、その連れの十代の少年だった。その少年が、二回りも年上と見られる眼鏡の男をたしなめている。

「か、頭の話なんか、ここでしちゃだめだろ、石頭」

「悪い悪い、昨日から動転しててつい」

「き、気をつけてくれよ」

「わかってるさ、花旗」

「ひっ、ひどい。花旗って、あ、アメリカの国旗という意味だから、人前で口にするなと、あれほど言ったのに」

「へへっ、自分で渾名の意味を宣伝してるぞ」

「や、やばい。間諜と思われる」

 そう言った刹那、花旗は斜め後ろからドンと押されてびくっとした。

「さっそく睨まれたか?」

「うっ、おっ・・・・・・押さないでくれよ」

 思わず注意すると、斜め後ろの男は因縁をつけてきた。

「おめえが押したんだろが」

 職業柄、ガラの悪い男に絡まれるのははじめではないから、花旗もきっぱり言った。

「お、俺は押してない」

「なんだと、このくそガキ」

 逆上してつかみかかろうとする男を小莉が遮った。

「やめなさいよ。押したのはあなたの方でしょ」

「なんだこのアマ」

 男の血走った目が小莉にむく。黄宗玲が仲裁に入ったが、今度は彼女と男との間に口論がはじまった。

 なにしろ足の踏み場もない大混雑だ。誰だって苛立つのは当たり前、殺気立つのも無理はなかった。

「いっそ蓮英を殴ったら、すっきりするだろうな」

 石頭がガラの悪い男に目をやりつつ、花旗にささやいた。

「蓮英が殴られれば、みんなの怒りもそっちにむくだろ。おまえ一発やってこいよ」

「むむ、無理に決まってるだろう。第一、頭が知ったら、なななんと言うか」

「遠慮することはない。娘だなんて頭は俺たちに嘘をついていたかもしれないんだ。昨日から俺たちがなにを聞いてもだんまりなのは、その証拠だろう」

「石頭、そ、それとこれとは話が別だろ」

「いいから、いいから、あの娘は人殺しの悪党とだけ思うんだ。そうすりゃ殴れる」

「ぼ、僕をからかって遊ぶのが好きだな。じ、自分で行けばいいだろ」

 ぐだぐだ言い合う男二人の声に、ふいに若い女の声が割りこんで言った。

「よかったら、私が代わりましょうか?」

 石頭と花旗が驚いて振り返ると、先程の若い娘が腕まくりをして立っている。小莉だった。

「あの女には恨みがありますから。行ってきましょう」

 小莉が威勢よく言った瞬間、先に一人の娘が群衆の中から飛び出し、蓮英の面前に駆け寄って叫んだ。

「裏切り者!」

 黄宗玲は目を見開いた。その娘の行動よりも、娘そのものに驚かされたからである。今蓮英を怒鳴りつけた人物はまぎれもない、この二か月と十日間、片ときも忘れたことのなかった苑玲だった。

 苑玲は満面朱に染め、母親が聞いたこともない別人のような言葉使いで蓮英を罵っていた。

「間諜の隠し子のヘボ女優が! 父親の力でアメリカに行って国際女優になろうなんて許されると思ったわけ?」

 蓮英はなにも言わずに昂然と頭をあげ、苑玲を見つめた。その態度は火に油をそそぐ結果を生んだ。苑玲は目を吊り上げ、人びとにむかって叫び出した。

「蓮英にざんげさせよう!」

 興奮した人びとは拳を振って答えた。

「ウォーッ」

 勢いを得た苑玲は、

「蓮英、あんたがしたことを白状しなさい!」糾弾しはじめた。

 蓮英は声を出さずに睨みつける。苑玲はますます逆上し、狂気のような声を張り上げる。

「一か月前の九月十四日の夜、撮影が終わって帰る途中で、私は暴走してきた自動車にあやうく轢かれるところだった。暗くて運転席はよく見えなかったけど、赤のフォードだったことにはまちがいないわ。あのとき、自動車が去ってほんの少し経った後で、あんたが突然現れたわよね。たまたま通りかかったなんて言ってたけど、絶対に嘘。本当は、あんたが自動車を運転していたんじゃないの? しかも怪我してる私を置いて、一緒にいた主演俳優だけ連れて行ってしまった。ここですべてはっきりさせてもらおうじゃない。あの自動車はあんたのもので、当日もあんたが運転していたんでしょ」

「なぜ私がフォードなんて持っていると? まだ新米なのに」

 蓮英が言った。

「こっちが聞きたい。大方、父親がくれたんでしょう?」

 蓮英は嘲るような目をむけて答えない。

「ごまかそうたって調べてわかってるんだよ! この上海で赤いフォードを持っている人間は二人しかいない。うち一人は九月十四日は北京にいた。後はあんただけど、当日上海にいたことは皆が知っている。あんたは赤いフォードに乗って私を殺そうとした。そうなんでしょ?」

 蓮英の表情はびくともしない。

「『銀花』の主演の座を私から奪い取るためにやったんでしょ? ちがうとは言わせない! 白状するんだ!」

「そうだ、そうだ」

 群衆も蓮英のふてぶてしい態度に怒りを増大させて囃したてる。

「ざんげしろ、蓮英!」

 すると蓮英がようやく口を開いて言った。

「私はなにもしていません。主演を奪いとろうとしたことはおろか、奪おうと思ったこともありません」

 きわめて落ち着いた声と態度で、嘘を言っているとは感じられない。群衆は思わず黙りこむ。苑玲が金切り声をあげた。

「言いわけはいらない! 素直にやったと認めな!」

 いくら言っても蓮英は動じなかった。一人でわめきたてる苑玲がみっともなく見えだしたそのとき、苑玲ではない、別の声が群衆の中から飛んで来た。

「『私はなにもしていない』だって? ふざけるな!」

 声のした方を見た苑玲は驚いて瞠目した。そこには小莉がいた。

「蓮英、自分が人殺しだってことを認めなさい!」

 小莉は叫びながら前に出て来た。

「小莉・・・・・・」

 苑玲の言葉には二つの意味がこめられていた。一つは「監獄にいるはずなのに、なぜここにいるのか」という驚き。もう一つは、蓮英と同じ側で私をワインショップで殺そうとした癖に、という怒りだった。

「あんた、監獄にいるはずでしょ・・・・・・」

「理由は後で話す。蓮英を一緒にやっつけよう」

 小莉は苑玲に返事をする暇を与えず、忽然と人びとに向かって、

「私は『銀花』の最終選考会に出た一人です」

 自己紹介したかと思うと、

「選考会のあの日、私の父親は、この人に殺されました」

 蓮英を指さし、罵った。

「ちがうとは言わせない。私は当時現場にいて目の前で父親が殺されるのを見たんだから。いい加減、自分が人殺しだと認めな!」

「いいえ」蓮英ははっきりと否定した。

「私は人殺しではありません」

「しらばっくれるつもり?」小莉は怒りを爆発させた。

「人非人が!」

 そう叫ぶと蓮英の靴をもぎ取って地面にたたきつけた。

「そんなことをしても事実は変わりません」

 蓮英が冷静に言い放つと、

「この女」小莉は人前なのも忘れたように逆上し、

「白状しないなら、こうしてやる」

 そう言って蓮英の脇腹を拳固で小突きはじめた。苑玲は小莉と同じ行動をとる気にはなれず、かといって止める気もおこらず、ただ見ていた。

「あ、う・・・・・・」

 蓮英はさすがになん度か呻いたが、そのたびに顔をあげて胸を張った。

「これでもか。これでもか!」

 いくら殴られても蓮英はうなだれない。

 最前列にいた男が小莉に加勢したのをきっかけに、それまで遠巻きに見ていた人びとも一人二人と暴力に参加していった。

 蓮英はみるみる大勢に囲まれ、あちこちから殴られ蹴られだした。人びとは一度暴力の快感に目覚めると止まらなかった。罵声に歓声が交じる。

 石頭は周りから寄せてくる力で暴力の輪にとらわれそうになった瞬間、花旗に言った。

「おい、行くぞ」

「え、蓮英はいいのか?」

「いいんだ」

 石頭は花旗の腕を引っぱり、全力で流れに逆らい、どうにか凶暴な人間の群れの外に出た。

「ど、どうしたんだよ、さっき俺に殴れと命じた癖に」

「あれは、からかっただけだ」

 石頭はそう言うと花旗に小声でささやいた。

「俺は気づいたんだ。それこそ思う壺だと」

「どどど、どうして?」

「これは当局の陰謀にちがいない。当局は人びとの新一九三〇年代化政策にたいする不満のはけ口を、一人の娘にむけて解消させようとしているだけだ――そう俺は感じる」

「汝の言うとおりじゃ、石頭」

 ふいに背後から玉子の声が聞こえた。石頭と花旗はハッとして振り返った。

「頭、いつからここに」

「そんなことより汝たち、一度は蓮英を殴りたいと思ったじゃろう?」

 うつむいた石頭と花旗に玉子は言った。

「なに、責めはせぬ。蓮英に手を出さんでくれたことを感謝するまでじゃ」

「ひょっとして、頭」石頭が顔をあげて尋ねた。

「群衆を止めに行こうとしているのでは――」

「いや」玉子は双眸に無限の悔しさと悲しみをあふれさせて言った。

「わしはなにもせん、してはいけぬのだ・・・・・・」


 蓮英はいくら傷ついても、じっと耐え、不敵に目を光らすことをやめなかった。

 その目を見た瞬間、黄宗玲は自分までもが手を出しそうになるのを感じた。雰囲気にのまれていたのと、心のどこかに昨夜の鬱憤を晴らしたい気持ちがあったせいかもしれない。

 加わらずに済んだのは、愛娘がいたからだった。黄宗玲は、周囲のどさくさにまぎれるようにして娘のそばに寄って行った。すると苑玲がはじめて母親に気づいて瞳孔を広げ、顔を輝かせた。黄宗玲は娘の横に割りこむと、そっと手を握り、

「来て」

 とささやいた。娘と話をしたい気持ちを抑えきれなかった。すぐ目の前に永安デパートのドアがある。黄宗玲は娘の手を引いてそのドアを押し、中に入って行った。

 店内は外の騒ぎに人をとられているためか、閑散としていた。店員もほとんど見かけない。

「ここなら話ができるわ。――ああ、こうしてあんたに会えるなんて夢のよう」

「私も。お母さんがいるとは思わなかった」

 苑玲の顔には感激とともに、今さっきの行動を見られた戸惑いも少なからず表れている。そう見た黄宗玲は言った。

「なにはともあれ、元気そうでよかったわ。――あ、私を呼ぶときは注意して。民警にでも聞かれたら大変だから」

「わかった」

 のみこんだ苑玲は「お母さん」と呼ばないように注意して言った。

「ずっと、どこでなにをやらされてたの?」

「そ、それは・・・・・・今度話すわ」

 娘に妓楼にいるとは打ち明けられなかった。

「なんか言いにくそうだね」

「ちがうのよ。いい所でいい仕事をしてるわ。でも今はそんなことより、あんたのことを聞きたい。ずっと心配だったんだから」

「私こそ心配だったよ。お父さ・・・・・・」

 苑玲は禁句を口から出しかけたことに気づいてあわてて口をつぐんだ。黄宗玲が夫の身になにかあったのかと不安を感じたとき、デパートのドアが外から開いたかと思うと、金縁眼鏡に高級スーツの男が入って来て、

「やあやあ奇遇ですな、香春さん」

 なれなれしく声をかけて来た。市政府宣伝部部長・張橋こと楊拓だった。

 黄宗玲は母娘で対面しているところを、よりによって楊拓に見られたものだからぎょっとしてとっさに苑玲をかばうように立ったが、楊拓は二人の女を無遠慮にじろじろと眺めると細い目を笑わせて、

「珍しい人が、お連れのようですね」

 鎌をかけるように言った。黄宗玲はどうにか平静を装い、

「ええ、藍蘋さんには店になん度か来て頂いたことがあるものですから」

 そうとりつくろったが、娘の前で店と口にしたことを後悔した。

「へえー、僕はお店で藍蘋さんと一度もお会いしてませんが、いらしてたんですか」

 楊拓は大げさに驚いて見せると、

「どうも藍蘋さん」と言って会釈をした。

「以前お目にかかりましたが、僕のことを覚えておられますか?」

 下手に出た口調で聞いたが、金縁眼鏡の奥の目は鋭く光っている。その顔を改めて見た苑玲はハッとして思わず、

「楊さん・・・・・・?」

 と本名を口にした。楊拓は一瞬目をきらりと光らせたが、聞こえなかったふりをして、すぐに残念そうな顔を作り、

「ああ、覚えてらっしゃらなかったですね。僕の名前は張橋、この間まで『中国日報』に勤めていました」

 編集局長だった癖に駆け出し記者だったような顔をして言った。

「『銀花』の最終選考会では取材をさせていただきまして」

「そうでしたか、気づかずに失礼しました」

 気づかなかったのは本当だった。

「とんでもないです」そう言うと楊拓は話題を転じて言った。

「しかし藍蘋さん、さっきまでご活躍だったあなたが、ここに香春さんといるとは思いませんでしたよ。二人でなにを話していたんです?」

「あら、別に大したことは話していませんよ」

 母親があわてて口をはさんだが、

「本当ですか? ずいぶん楽しげに話しこんでいたじゃないですか」

 楊拓は黄宗玲の目の奥を覗きこむように見た。黄宗玲は動揺して、

「お店のことを少し話題にしていただけです」

「ほほう、藍蘋さんもなかなか大胆な方ですね」

「大胆ってなんです?」

 苑玲が尋ねると、楊拓は口の端を笑わせて言った。

「そりゃあ藍蘋さん、わかるでしょう」

 母親がサッと青ざめたのを見ると、苑玲は不安そうな顔になって聞いた。

「なに? どういうこと?」

「あれえ藍蘋さん、ご存じないようですね」

 楊拓はわざと驚いた顔をして言った。

「お店に行ったことがあるというお話じゃなかったんですか?」

「藍蘋さんは知らないふりをしているだけですよ」

 黄宗玲が言い繕った。

「人に知られるとまずいから、張橋さんも黙っててあげてくださいね」

 楊拓は言いくるめられたかたちになったが、娘が黙っていなかった。

「まずいって? いったいどういうお店なの?」

 演技することも忘れたように母親に聞いた。

「ははあ」楊拓はここぞとばかりに言った。

「藍蘋さんはやっぱりご存じないようですね」

「そうです、知りません」

 苑玲は母親の煮え切らなさに腹を立てるあまり本当のことを言った。

「それなら一度行ってみるといいですよ。香春さんもこう見えて度胸がすわっている方でね。昨日なんか大勢の見物の前で、北康というお客さんと抱き合って、声まで出してましたよ」

 苑玲は母親につめ寄った。

「抱き合ったって? 男の人と?」

 黄宗玲が青くなった唇を動かして、言いわけしようとしたときだった。

 デパートのドアが外から開き、一人の男が小走りに入って来た。背広を着た五十代の男だ。それが誰だか気づいて黄宗玲は真っ赤になったが、男の方は楊拓しか視界に入れていないようすで、

「先生、お待たせしました。こちらで僕にお話があるということですが?」

 そう言って周りを見てからはじめて黄宗玲に気づき、頬を染めた。楊拓は薄笑いを浮かべて男に言った。

「今、香春さんと昨日のことを話していたところですよ」

「き、昨日のこと? なんのことでしょう」

 男はそらとぼけたが、耳まで赤くなっていた。苑玲はわなわなと震え、

「鄭おじさん・・・・・・おじさんが、北康なの?」

 鄭君里は瞳孔を開いた。黄宗玲が娘と一緒であることに今さらのように気づいたのだ。

「おじさん、答えて」

 鄭君里が答えられずにいると楊拓が言った。

「藍蘋さん、私がご紹介しましょう。こちらは上海第一貿易公司の北康さんです」

 苑玲は鄭君里を見すえ、

「おじさん、答えて。昨夜はお母さんと抱き合ったと聞いたけど、本当なの?」

 鄭君里は血の気を引かせて黄宗玲と目を合わせた。

「二人とも、今さらなにを隠す必要があるんです?」

 楊拓はからかうように、

「妓楼の客と妓女が結ばれる――しごく普通のことでしょう」

「妓楼の客と妓女?」苑玲が色をなすと、

「お嬢さん」楊拓は苑玲を意味ありげにそう呼んだ。

「そうですよ、お店とは妓楼のこと。香春さんは杏花楼という妓楼の妓女なんです」

「妓女・・・・・・」

 苑玲は愕然とした。楊拓はこれで自分の役目は終わったというような顔をして、

「姐さん、次はひとつ僕とお願いしますよ」

 そう言ってのけると、もう黄宗玲親子の方は見向きもせずに鄭君里に対し、

「それじゃ北康さん、行きましょうか」

「わ、わかりました」

「話は上でしましょう」

 二人が去るなり苑玲は母親につめ寄った。

「お父さんの親友と寝たの? それも人前で」

「そうするしかなかったのよ、公安が理不尽な要求を――」

「じゃ本当なんだね」

 苑玲はそう言って、汚らわしい物でも見るように母親を見た。

「ねえ、話を聞いて――」黄宗玲が口を開くと、

「言い訳なんか聞きたくもない。『いい所のいい仕事』? 馬鹿にしないでよ!」

 苑玲はそう言い捨てて扉にむかった。

「苑玲!」黄宗玲は思わず娘の本名を叫んだ。

 娘は振り返らなかった。

「私はもう苑玲じゃない」

 そう言い放つと、怒りを見せつけるようにデパートの入口を飾る花瓶を引っつかんで行った。

「お客さん、困ります。勝手に持ち去らないでください」

 店員が言うのもかまわず、花瓶を壁に叩きつけて割り、先の尖った凶器に変えると、憤怒にみなぎる足どりのままにまっすぐ蓮英の所にむかった。

 入口前に吊り下がった蓮英はいまだ群衆に取り囲まれ、袋叩きにあっている。美しい旗袍も体も相当傷つき血が流れていた。にもかかわらず蓮英はけっしてうなだれることはなく、相変わらず毅然としている。

「この、ふてぶてしいアマが」

「恥を知れ」

 罵られれば罵られるほど、女優としての意地を見せつけるように、顎を上げていた。その不敵ぶり、気迫に苑玲は正直恐れをなした。だが、突如猛然として群衆の輪に飛び込んで行き、花瓶の破片を勢いよく蓮英の脇腹につき刺した。旗袍に穴が開き、真っ赤な血がどろりとあふれ出した。

「よくやった!」小莉が叫び、

「おー!」群衆が歓声をあげた。

 蓮英はついに気を失い、ガクリとうなだれた。地面に血だまりが出来ていく。これほどひどい目に遭っているのに誰も蓮英を助けようとはしない。

「蓮英は終わった!」苑玲が叫んだ。

「藍蘋、藍蘋!」血に興奮した群衆は合唱しはじめた。

 苑玲は歓喜に身を震わせ、群衆に応えて叫んだ。

「そう、私は藍蘋よ!」

 その姿を黄宗玲は永安デパートのガラスドア越しに苦渋に満ちた顔で見つめていた。「もう苑玲じゃない」という娘の声が耳にこだまして離れない。


 三週間後、今にも木枯らしが吹きそうな十一月七日の夕方。

 こちらは脂肪が豊富で寒さを感じそうにない玉子。買ったばかりのスーツをぶよぶよの体にまとい、外灘に停めたキャデラックの車体を鏡にし、周囲に人がいないのを幸い、さまざまな姿態をとっていた。モデルになった気分で尻をつきだし、ほくろから伸びた三つ編みの先っぽを口にくわえていたところ、

「頭、お届け物っす」突然背後から声がしたので、

「ヒッ」玉子は驚きのあまり飛びあがった。

「なんじゃ、おまえか」

 見ると老鴉がすぐ横に大きな封筒を持って立っている。

「届け物? 誰から」

「わかりやせん。ですが頭、これを届けにきたやつが、ちと問題で」

「問題?」

 そう尋ねつつ、玉子は先程驚いた瞬間に口から飛び出た三つ編みの先っぽが唾液まみれになっているのを隠すため、こっそりスーツのポケットに突っ込んだ。

「藍蘋が女優になる前、頭を尋ねたことがありやしたよね。今日俺が商売してるところにいきなり現れてこいつを渡したのは、あのとき藍蘋と一緒にいて俺たちに楯突いた気取り野郎だったんすよ」

「なんじゃと。そいつの名は?」

「タンナとか名のってやした」

「なに、唐納じゃと?」

 玉子は目を丸くして老鴉を見つめ、詰問するように言った。

「本当か?」

 その剣幕に老鴉は驚き、たじろぎ気味に答えた。

「え、はい、聞き間違いはしてないはずっす」

 玉子は天を仰ぎ、

「唐納はやはり生きていたか・・・・・・」

 そうつぶやくと、にわかに勢いこんで老鴉に聞いた。

「今、そやつはどこにおる?」

「それが頭、申しわけありやせん。実はこれを受け取ったとき、やつをどっかで見た野郎とは思ったものの思い出せず、そのまま行かせちまいやした。あいつが誰か気づいたのはその後でして・・・・・・」

「この馬鹿め。天仙には到底昇級させられんな」

「え、そんなあ。真面目に修業してるのにい。タンナが生きてたら、どうだってんすか?」

「実は一か月前、唐納という将来有望な脚本家が黄浦江に身を投げて自殺したと聞いたことがあったんじゃ。政府の手先の張橋が杏花楼で話していたのが耳に入ってな。しかしやっぱり、デマじゃったわい。ともかくも、その封筒の中身をたしかめんと」

 封を開けると、帳面が一冊出て来た。

「こ、これは阿三のじゃな」

「え、阿三ってあの阿三すか?」

「そうじゃ、裏にあやつの名があるし、この筆跡はあやつの字に間違いない」

「なんで阿三の帳面をタンナって野郎が運んだんすかね?」

「中身を読めばなにかわかるじゃろう」

「ところで頭、さっき俺が近寄ったとき、声をかけられるまで気づきやせんでしたよね。地仙の俺が、神仙の頭を驚かせたってことは、昇級ものでは」

「ば、馬鹿者! わ、わしは瞑想にふけっておったんじゃ」

「あの尻をつきだした格好が瞑想ですと?」

「汝ははじめて見たから、わからなくとも当然」

 玉子は顔を「×」の字にして言い放った。

「わしがしていたのはただの瞑想ではない・・・・・・秘法、内丹じゃ」

「秘法、内丹? もしかしてあの・・・・・・体内に気を循環させて精神の力で下丹田に胎児を生じさせるとかいう?」

「そ、それじゃ」

「本当すか?」

「疑うのか。よし、すでに生じた胎児を呼吸の力で頭上に出して見せよう。ウーム、ウーム・・・・・・・」

 玉子は呻きつつ、ひそかにポケットから出したものを後ろに回し、背中から頭上に覗かせて言った。

「出た、出たわいなア。汝に見えるか? わしの頭頂から胎児が飛び出したのを。宙に浮き、黄金色に輝いておろう」

「・・・・・・え、えっと?」

 老鴉がいくら目を凝らしても、見えるのは、ほくろの毛の先っぽらしきものだけだった。

「・・・・・・俺の目に赤ん坊は見えやせんが」

「やはり汝はまだまだじゃのう。わしの産んだこの胎児は三年もすれば天仙に、九年後には金仙になるじゃろうが」

 老鴉は見えないことを恥じるように言った。

「さすが頭です。俺には見えぬ胎児を・・・・・・お見それしやした」

「よろしよろしイ」

 玉子は機嫌を直し、眉を一文字につなげた。

「そいじゃ早速この帳面を読むとするか。――これは、どうやら日記のようじゃわい」

「日記?」

「なぜか一週間分しかないが。まあ読めば、阿三の状態や唐納が持って来たわけもわかるかもしれん」

 最初の日付は新一九三一年の十月二十四日――二週間前からはじまっている。玉子は文字を目で追った。


〈十月二十四日土曜日

 昨日、僕は撮影所を掃除している最中に、二通の手紙を受け取った。一通は江青からだった。便箋はなく、封筒に入っていたのは一枚の写真――。それは思い出したくもないが、妻黄宗玲と親友鄭君里の交合写真だった。僕は目を疑った。妻と親友が・・・・・・受けた衝撃は言葉ではとても表せない。

 写っているのは、妓楼らしき場所で、妻は妓女のような髪飾りを付けている他は一糸まとわぬ姿で鄭君里の体に巻きついていた。それを周りの客と妓女らしき女が興奮した顔で見ている――いや、見ているだけでは飽き足らずに交合しはじめていた。彼らの顔は残りの写真で拡大されて写っていた。うち二組は知った顔だった。一組目は玉子と見知らぬ妓女らしき女、もう一組は老鴉と小莉だったことにも驚かされた。 

 江青はなんのために僕に写真を渡したのだろう。僕を苦しめるためだとしたら、大成功だが。妻の痴態もおそらく江青の差し金のように思われる。

 苑玲は今週の月曜から再び『銀花』の主演に復活している。周同志が間諜疑惑の記事をきっかけに失脚したので、映画協会会長に就任した江青が権力をふるい、『銀花』の主演を元の形に戻したのだ。今や江青は『銀花』の制作最高責任者を名のって毎日撮影所に通い、苑玲に付き添っている。苑玲まで江青の餌食にならないよう祈るばかりだ。

 今日の苑玲は早朝からずっと江青に怒鳴られている。五番スタジオからは一日中江青の甲高い声がひっきりなしに聞こえていた。江青は誰に頼まれたわけでもないのに「藍蘋」の演技指導役をかって出て、なにかというとカメラを止めては、いちいち苑玲に手本を示している。自分の思うとおりにできるようになるまで、芝居の基本から覚えさせる勢いで教えているらしい。

 苑玲は苑玲で、周りに当たり散らすことで鬱憤を晴らしているようだ。だが不満を溜めているのは制作陣も同じにちがいない。江青のおかげで撮影は遅々として進まずにいる。もちろん苑玲にもいい感情は抱いていないだろう。娘をあらためさせたいが、僕は掃除夫だから声もかけられない。禁を破れば家族全員にさらなる害が及ぶのは目に見えている。せめて苑玲が自分に気づいてくれればいいのだが――。

 だが、ひとつ望みがある。もう一通の手紙だ。これを届けに来たのは、小莉だった。詳しいことは聞き出せなかったが、玉子に渡すように頼まれたと言う。玉子とどういうつながりがあるのか最初はわからなかったが、江青のよこした写真に玉子と小莉が写っていたことからすると、なんらかの知り合いであってもおかしくはない。とにかく手紙を読むことにした。そして必要な箇所だけ頭に叩き込むと、すべてを焼き捨てた。〉


「頭の手紙というと、例のあれですね?」

 そう言ったのは老鴉ではなかった。振り返った玉子は、

「わ、汝は石頭」

 肩をびくつかせ、ほくろの毛をぴょんと飛び上がらせた。

「老鴉なら稼ぎに行きました。その帳面をさっきから後ろで覗き見させてもらっていたのは僕です。頭は神仙だから、とっくに気づいているものと思いましたよ」

「もちろん気づいておった。いま跳ねたのはな、導引をしたんじゃ。このところ体を動かしておらんかったからな」

 玉子は三つ編みを片手に持ち、ことさらひらひらさせて言った。

「どら、久々に鳥の形をしようか、ピーヨピヨ、あほれ、ピヨピッヨと」

「なるほど」石頭は調子を合わせて言った。

「導引といえば老鴉に聞きましたが、先程ご出産なさったそうで。おめでとうございます」

「おほほほ。胎児は今、わしの頭上におるが、見えるかな。ほれ、宙に浮いてキラキラと輝いておる。かわゆいじゃろう、ナ、ナ。しかもこやつは生まれながらの仙人じゃて言葉を話せる。今挨拶させよう。――ピヨ子、石頭おじさんに挨拶せんかい。――コンニチハ」

「・・・・・・」

「石頭、挨拶せい」

 これ以上ついていけないと思った石頭は言った。

「あの、頭・・・・・・すみません、俺にはピヨ子ちゃんの姿が見えないんですが」

「なんじゃと」玉子はたちまち機嫌を悪くして言った。

「そりゃ、ただの人間にわしのピヨ子は見えんわい。汝など、例の能力がなけりゃ、あの手紙も読ませんかったわ」

「じゃあやっぱり、この日記に出て来た手紙とは、あれのことですか」

「もちろんじゃ。わしがしたため、阿三がこの日記を書いた一日前、莉保に頼んで阿三に届けさせた」

「莉保に渡す前に見せてくれましたよね。内容、一言一句覚えてますよ。頭のふだんの話し言葉とはちがって、あらたまった文面でした」

 玉子が趙丹に宛てて書いた手紙の内容は以下である。


〈阿三、元気でやっていることと思う。突然の手紙、驚いただろう。わしは何度か汝と直接接触しようと試みたが、このところ監視が厳しくできない。莉保なら、うまくやれると思い、頼むことにした。

 今回は汝にあることをお願いしたいのだ。わしは今日まで水面下で会の仲間と連絡をとり合い、情報を集められるだけ集めてきた。そして先日周恩来同志を失脚させたのが、若い頃藍蘋という名だった人物だと確信するにいたった。名前はここには書かないが、汝には誰だかわかったはずだ。

 わしが調べた所、周恩来同志を間諜に仕立てあげ、蓮英に殺人の罪を着せ、『銀花』の主演女優から引きずりおろした黒幕は、その人物に間違いない。

 そこまで力を持つようになった背景には、ある力の存在があると言われている。力といっても文字どおりではなく、毛沢東主席が署名した証書のことだそうだ。証書には「この者は主席の代理人である」という意味のことが書かれてあるらしい。

 夫人はその武器をふりかざし、若い頃果たせなかった望みを遂げようとしていると思われる。兆候はすでにあらわれている。夫人は映画協会会長に就任するなり、藍蘋と名付けて自分の操り人形にしている汝の娘を『銀花』の主演女優に復活させた。さらに作品を自分の思いどおりに仕上げるつもりか、華東撮影所に毎日通っていると聞く。例の証書で周派の制作陣たちをも従えるつもりなのだろう。

 そこで汝にお願いしたい。

 その人物から、証書を盗み出してほしいのだ。肌身離さず持っているだろうだから、折を見て接触して奪ってほしい〉


「――奪ってほしい、最後にそう書きましたよね」

「石頭はまったく、なんでも覚えておるな、もし」

「職業柄、記憶力だけはありますので」

「おっとっと、その類の発言には注意せよ」

「あ、ついうっかり、失礼しました。しかし頭、手紙によく主席の名前を書きましたよね」

「そりゃ、はっきりさせんといかんからな。覚悟ならできておる」

「そうじゃなくて、あれです・・・・・・主席の名字が・・・・・・」

 石頭が仄めかした毛沢東の「毛」の字に、

「おいっ!」

 玉子は敏感に反応し、ほくろから伸びた毛をこわばらせ、怒ったときに出る別人の口調で罵った。

「この野郎、せっかく意識していなかったのに、わざわざ思い出させやがって・・・・・・ハアハア」

「石頭、なな、なんでよけいなことを言ったんだよ」

 花旗が後ろからささやいた。

「あれ、おまえいつの間にここにいたんだ」

「そ、そんなことはどうでもいい。それよりどうして毛主席のことを――」

「おい花旗、今なんて言った?」玉子はますます激して言った。

「ななな、なにも言ってません」

「嘘つけ! 言っただろう」

「すすす、すみません。でも国家主席の名前ですから・・・・・・」

「わしの前で口にするときは工夫しろ」

「で、でも、主席を沢東って名前で呼ぶのも失礼ですし」

 花旗は泣きそうな声を出した。

「い、いったいなんて言えばいいんですかあ」

「毛(マオ)と発音が同じ猫(マオ)の熟語――たとえば猫熊(マオション・・・パンダ)の猫を回避して『熊』と言ったり、そこから派生して『熊吉』でも『熊くん』でも、いくらでも言いようはあるじゃろ」

「頭、今、じじ、自分で毛って言いましたよ」

「馬鹿もん!」

 玉子は唾を飛ばし、花旗の頬にあてた。実際は少しも痛くなかったが、

「痛っ」花旗は大げさに叫んで、顔を押さえた。

「汝ら、今度よけいなことを言ったら、五色の息を吐いて空に飛ばしてやるぞ」

「俺、し、仕事行きます」花旗は逃げ出した。

「それがよいわ、おほほ」

「しかし」石頭がなにごともなかったように、

「阿三が頭の依頼を受けて証書を奪ったかどうか気になります」

「汝、花旗のおかげで難を免れて幸運じゃったな、もし。――さて阿三がどう動いたか、つづきを読むとするか」

 玉子はページをめくり、石頭とともに文字を目で追っていった。


〈十月二十五日日曜日

 今日も江青は控室を使わなかった。江青がスタジオにいる隙にこっそり忍びこんで荷物を探ってみようと考えていたが、甘かったらしい。しかも今日は用事があったのか、午前中だけで帰ってしまった。

 ところが午後二時ごろ、僕が廊下を掃除しているとき、スタジオから怒鳴り声が聞こえて来た。いつの間に戻って来たのかと思ったら、江青ではなく苑玲らしい。スタジオの近くまで行き、床を磨きながら耳をすました結果、次のようなことがわかった。

 助監督が休憩時間に外で拾った野良猫を抱いて戻って来て、猫好き連中に触らせたついでに苑玲にも見せたところ、苑玲は猫嫌いなため、外に戻すようわめいていたのだ。その声は、藍蘋を名のっていた時代の江青の声にそっくりだった。僕は苑玲が江青に似てきていると思うと我慢ができなくなり、厳しく叱ってやりたい衝動にかられた。

 ちょうどそのとき、助監督が猫を抱えてスタジオの入口にやって来た。苑玲もその後ろ姿を睨みつけている。だが、すぐそばでモップをかけている僕のことを気にかけるようすはない。ただの掃除夫と見ているせいだろう。今までの僕ならそのまま、その場を立ち去ったかもしれなかった。だがそのときの僕は思わず、娘の前に躍り出ていた。

 苑玲は最初、無礼な掃除夫としか思わなかったようだったが、次の瞬間には目を丸くし、穴のあくほど僕の顔を見つめた。それからあわてて辺りに目を配ると、警察や警備員がそばにいないことを確認してから、声をかけて来たのだった。

「あの、掃除夫さん」

 その眼差しはまぎれもなく父親にたいするものだった。僕は全身に喜びを表して返事をした。

「はい」

 娘が次になにを言うか、待ち遠しかった。こうなれば可能な限り言葉を交わそうと覚悟を決めた。苑玲と意が通じれば、江青の懐中を調べることも容易になるかもしれない、という思いもわいた。しかし苑玲が口を開きかけたその瞬間、邪魔が入った。

「藍蘋になんの用ですか?」

 声をかけて来たのは、主演俳優だった。

 自称趙丹――『銀花』の宣伝広告で写真を見たときから、一度文句を言ってやりたいと思っていたその男は、間近で見てもたしかに腹の立つほど若い頃の僕に似ていた。背の高さもほとんど同じだった。その二十歳そこそこの僕の分身のような男・・・・・・若い趙丹、若趙丹はいつのまに苑玲の陰から登場したかと思うと、僕に鋭い一瞥をくれ、

「掃除のおじさん、いくら彼女の影迷(インミー・・・ファン)だからって、あんまりつきまとっちゃだめじゃないですか」

 わざとらしく声を張り上げたかと思うと、

「藍蘋、君に話したいことがあるんだ」

 娘は頬を朱に染めたが、名残惜しげに僕の方を見て言った。

「でも・・・・・・」

「掃除夫なんて放っとけばいい」

 若趙丹はそう言って無理やり僕の娘を連れて行った。

 スタジオに入って行く二人を、僕は黙って見送るしかできなかった。あの男、あの後、娘になにを話したのだろう。ここまで書いたところで、外に誰か来た。足音は僕の部屋の前で止まったようだ。今はドアの前に立って、こちらの気配をうかがっているらしい。

 僕の住まいは下等な里弄で誰でも出入りできるとはいえ、こんな夜中に人が来ることは滅多にない。

 まだ去らないようだ。民警とはちがう感じがする。いったい誰なのか。この頃なんだか監視されている感じがしていたが〉


「なんじゃ、この日の分はこれで終わりか」玉子が言った。

「外に来てたのが誰だか気になるわいな」

「しかし阿三は、江青が証書を持っているか探る気はあったようですね」

 石頭が言った。

「実際に行動を起こしたのかどうか・・・・・・。行動を起こしてもうまくいったかは、わからん。誰かに見張られてもおるようじゃな」

 玉子はそうつぶやいてから、ページをめくった。


〈十月二十六日月曜日

 昨夜の男は誰だったのだろう。思いきってドアを開けたとき、逃げる後ろ姿だけは見えたのだが・・・・・・。金髪で背が高かったことからすると、白人のように思える。しかしなぜ見知らぬ外国人が? 現在上海にいるのは当局の捕虜状態だから、その方面からの差し金かもしれない。

 結局昨日はよく眠れなかった。にもかかわらず今日の廊下掃除にはいつもより精が出た。僕がいることを知った以上、娘の方から働きかけてくるかもしれないという期待があったからだ。もっとも基本的には自分から話しかけ、二人で会う約束をとりつけたいと思っていた。昨日若趙丹にあんなことを言われたので、かえって意地になったのかもしれない。とはいえ、あの若造と正面衝突する気はなく、娘との接触はあくまで人気のないときを見はからって行うつもりだった。

 廊下を掃除しながら機会を虎視眈々とうかがっていた僕は、五番スタジオ前を掃除しながら中に目を走らせた。主演の二人の逢引場面を撮影していたが、まもなく「撮影中止」の声がかかった。たちまち若趙丹が苑玲になにやら親しげにささやいた。苑玲はうれしげに笑い、若趙丹を見つめた。やはりあの男に恋をしているらしい。

若趙丹はそのまま苑玲の元を離れて江青にむかって歩き出した。

 江青は険しい顔で監督にあれこれ注文していたが、若趙丹に話しかけられると、嫌な顔をするどころか眉間の皺を消し、やつの話に耳を傾けはじめた。しまいにはにこにこして、

「三十分休憩!」

 と皆に伝え、すっかり上機嫌でやつと握手をかわし、激励するように肩を叩いて外に送り出した。

 いったい二人の間でどんな会話が交わされていたのだろう。若趙丹がスタジオから通路に出て来たので、僕はあわてて顔を伏せ、床磨きに専念しているふりをはじめた。すると驚いたことに若趙丹が、

「おじさん、掃除のおじさん」

 と声をかけてきた。僕が顔をあげると、若い頃の僕に似た顔がそこにあった。

「相変わらず熱心に覗きをしてましたね」

 僕はムッとしつつ、黙って首を横にふった。

「よけいな心配はいりませんよ。僕について来りゃ大丈夫ですから」

 そう小声でささやいたかと思うと、いきなり僕の腕をつかみ、大声でわけのわからないことを叫びはじめた。

「――いや、あんたに間違いはない。僕の私服を台無しにしたのは。バケツを倒して汚い水をこぼしたんだろう? あんたが今日控室を掃除していたことを僕が知らないとでも思っているのか!」

 たしかに控室の掃除はしたが、なんのことだかさっぱりで「いったいなんの話だ」という目をした。が、若趙丹は無視し、他の人が振り返るのもかまわずに聞こえよがしにわめきたてた。

「なぜ隠すんだ。あんたのおかげで僕の私服はびしょびしょで悪臭ぷんぷんなんだ。とにかく一緒に来てくれ」

 そう言うとやつは僕に抵抗する間も与えず、引きずるように歩き出した。

 僕は理解に苦しんだ。やつが僕の正体に気づいているなら、趙丹を名のる人間として、もっと僕に敬意をもって接すべきなのに、なぜこんな人を食ったふるまいをするのか。考えると腹も立った。しかし体力で勝てる自信がなかったのと、やつが僕に接触してきた目的を知りたいという気持ちがあったのとで、大人しくついて行くことにした。

 五番スタジオから離れた一番スタジオ裏の控室でやつは止まった。ドアを開けて僕を入れると鏡台の前の椅子に座らせ、自分も横の椅子に座って言った。

「まあ、楽にしてくださいよ。さっき騒いだのは、皆に怪しまれないようにあなたをここに連れてくるためについた嘘ですから」

「・・・・・・」

「もう誰も見てませんよ、僕としゃべっても大丈夫ですって」

 僕がなお口をきかずにいると、やつは眉をしかめて言った。

「ちょっと、まだ規則を気にしてるんですか。大丈夫。ここだけの話ですけど、警備員も民警も僕には文句言えっこないですから」

 とんだ自惚れ屋の若造だ、と僕は思った。やつはヘラヘラした態度でつづけた。

「本当はね、さっきも芝居を打つ必要はなかったんですよ。念のためにやりはしましたけどね」

 僕の見方が変わったのは、やつが僕の目をまっすぐ見すえ、声の調子を一変させ、いきなりこう言ったときだった。

「あなたは江青同志を嗅ぎまわっていますよね?」

 僕は驚きで喉がふさがったようになった。なにも言えずにいると、やつは凄みのきいた声で言ってきた。

「阿三さん、とぼけないでくださいよ。あなたは江青同志が目的でスタジオの周りをうろついていた。そうでしょう?」

「ちがう」僕は必死で口を開き、否定した。

「やっと声が聞けたのはうれしいが、嘘はいただけませんねえ」

「僕は与えられた仕事をしているだけだ。君がなぜそんなことを言うのかわからない」

「江青同志の懐に権力を証明する証書があるのは知ってますよね?」

「・・・・・・」

「あなたは江青同志の証書を狙ってるんでしょう?」

 僕はうろたえた。こいつは江青の回し者かもしれない、という考えが脳裏をよぎった。

「君はいったい、なに者だ?」

「ご存じでしょう」

 やつは人の心を覗きこむような目をすると、

「二十歳の趙丹ですよ」

「僕が知りたいのは本当の君だ」

「本当の僕?」

 薄笑いを広げ、人を馬鹿にしきった口調で言った。

「そうですね。あえて言うなら、藍蘋さんに恋する一人の男ってとこですかね」

 それを聞くなり、僕は癇癪を起こした。

「ふざけるな。なにが藍蘋さんに恋するだ」

「ははは、そうむきにならないでくださいよ。藍蘋を好きになっちゃいけませんか」

「君にはちゃんと恋人がいるはずだ。一か月前、『銀花』の助演女優だった蓮英と君は婚約したと噂になり、新聞記事にまでなったじゃないか。今は監獄にいるというが、それなのに君は平然として、僕の・・・・・・他の娘に乗り換えようというのか。いったいなにを企んでいる。狙いはなんなんだ?」

「そんなに怒らなくても、藍蘋なら大丈夫ですよ、趙丹さん」

 やつは笑いながら僕の反応をうかがっている。

 僕は動揺を隠せなかった。僕が人に知られた俳優だったことを思えば、若趙丹が僕の名前を知っていることは不思議ではない。しかしこの時世に僕を元の名で呼ぶとは、いよいよ油断ならない人間だと思った。

「僕の狙いは、あなたと同じです」

 どきっとしたが、隙を見せてはならないと思い、僕は強い語調で言った。

「なにを言っている。君の狙いはなにかと聞いてるんだ」

 するとやつは意外にあっさりと答えた。

「だからあなたと同じ、江青同志の証書です」

 鵜呑みにはできなかったが、あるいは本当かもしれないと思った。

「だまされないぞ。今言ったことが真実なら、なぜ僕に話すのだ?」

「邪魔しないでほしいと伝えたかったからです」

「な、なに?」

「僕には計画があります。でもあなたに出しゃばられたら、失敗してしまうかもしれません」

「そんなの、知ったことじゃない。僕からすれば君こそ邪魔者だ」

「今、認めましたね。証書を狙っていると」

「・・・・・・僕は君が邪魔だと言っただけだ」

「認めたも同然です。これであなたの立場がはっきりしましたね」

「待ってくれ。君はやっぱり江青同志の回し者なのか? あるいは当局の間諜なのか?」

 僕は動揺のあまり、うかつなことを口にしてしまった。するとやつは苦笑をもらし、

「あのね、僕は敵じゃないですよ、あなたの味方です」

 軽い口調でなだめるように言った。

 僕は血が逆流するのを感じた。僕の名をかたる三十歳以上も年下の青二才にいいようにされてたまるものかと思い、怒りを爆発させた。

「人を馬鹿にするのもいい加減にしないか」

「でも事実なんです」やつは、人をなめた口調のままつづけた。

「悪いが、君のような若者の言うことを、おいそれと信用するわけにはいかない」

「僕があなたの娘を狙っているから怒っているんですか?」

「・・・・・・」

 僕がしばらく言葉を返せずにいると、やつは勝手に話しはじめた。

「僕は知っています。藍蘋・・・・・・いや、苑玲はあなたの娘ですよね。彼女との関係について僕はなにも弁解するつもりはありません」

「関係? 君は苑・・・・・・藍蘋と付き合っているのか?」

「いいえ、まだ付き合ってはいません。ですがいずれ正式に交際を申し込むつもりです」

「よくもそんなことを、婚約者がありながら」

「婚約なんてしていませんよ。周りが勝手に噂して、それを記者が書きたてただけです。趙丹さん、僕は苑玲を本気で思っています。だから彼女の父親であるあなたを裏切るような真似は絶対にしませんよ」

「信じられると思うか。僕の名を語ってしゃあしゃあとしている人間を」

「僕の意志で名のっているんじゃありません」

「そうだとしてもだ、娘を少しでも大事に思う気持ちがあるなら、父親である僕の本名をそう軽々と口にするはずがない」

「ですからその点は心配いりません。さっきも言いましたとおり、警察は僕には手出ししないと、わかっているんです」

 はったりではない口ぶりだった。

「なぜ? 君はなに者だ? 僕の信用を本当に得たいなら、まずそれを先に話すのが筋だろう」

 やつはしばらく鏡を見つめたかと思うと、

「今、お話しするわけにはいきません。しかし、これだけはお知らせしておきましょう」

 にわかに真剣な顔つきになって言った。

「僕は証書奪取のために、今まで僕の魅力に訴えた作戦を実行してきました。いわゆる色仕掛けです。江青同志をそれとなく誘い、二人きりになったとき、隙をついて懐を狙おうとしたのですが・・・・・・」

「結果は?」

「僕に好意は持ってくれていても、肝心の誘いにはのってきませんでした。だからその後は手段を変え、別の作戦でいこうと思いましてね。すでに実行しているんです」

「別の作戦?」

「そうですね、江青同志の野心に訴える作戦とでも言いますか」

「具体的には?」

「それは言えません。趙丹さん、わかってください。今度の作戦は非常に時間のかかるものです。でも、はるかに成功する見込みがあります。しかし今は人に言うわけには行きません。つまり僕が言いたいのはですね、江青同志から証書を奪いたければ、黙って僕にやらせてください、ということなんですよ」

「黙って君に証書を独り占めさせろと言うのか。そんな虫のいい・・・・・・」

「誤解しないでください。僕の目的は江青から証書を奪い、権力をふりかざせなくすることにあります。奪った証書を独り占めしようなんて思っちゃいません。あなたが欲しいと言うんなら、すぐにでもお渡ししますよ」

「そう言って人を担ごうというんだな」

「いいえ、嘘ではありません。その証拠に今、僕は江青を呼び捨てにしました。証書を盗ったら、あなたに渡すと約束します。ですから証書を盗み出すことに関しては、僕に任せてもらえませんか?」

「任せる? 仲間でもないのに」

「では手下とでも思ってください。汚れ仕事は下の者に任せて、親分はあがりを受け取る――そう考えてくれたらいいんです。実際あなたのような立場の人間が無理をする必要はありません。僕なら危険をおかしても大丈夫なんですから」

「なぜ大丈夫なんだ? その理由も、作戦の内容もなにも打ち明けないで」

「趙丹さん、お願いです。ここはひとつ僕を信じて任せてくれませんか?」

「・・・・・・」

「どうしてわかってくれないんですか。同じ物を狙ってるのに、二人で邪魔し合ってもしょうがないじゃないですか」

 若趙丹の声には徐々に焦りがにじんできた。僕が話にのってこないと見ると、やつは急に態度を変えて言った。

「どうしても聞いてもらえないなら、昨日あなたが実の娘と言葉を交わしたことを当局に報告しますよ」

 脅しだ。やつはとうとう馬脚を現した。人を侮辱するにも程がある。

「一つ言っておくことがある。僕は君にそんな口のきき方をされる覚えはない」

 やつは詫びもせず平気な顔で言った。

「それじゃ僕の提案は、受け入れてもらえないんですか?」

「いや。娘のためには従うほかはない」

「じゃ、僕の邪魔をしないでくれるんですね」

「そうしたら証書は渡してもらえるんだろうな?」

「もちろんですよ」

 青二才にしてやられたと思うと悔しくてたまらなかったが、娘を思うと折れるしかなかった。

 だいぶ夜更かしをした。今日は誰にも邪魔されなかったので筆が進んだ。もっとも誰かに見られている気配は相変わらずつづいている。とにかく油断は禁物だ。〉


「いやはや、長かったわい」

 帳面から目をあげた玉子が伸びをして言った。

「一日によくこれだけ書けるもんじゃ」

「頑張りすぎたせいか翌日は休んでますね」石頭が言った。

「翌々日も。次の日記は三日後だ」

「二日も休み? なにかあったんじゃろうか」


〈十月二十九日木曜日

 今日は三日ぶりに五番スタジオの中を覗いた。こっそり伺う限り、若趙丹にはなんら怪しいところは見られず、態度はいたって普通で、今までどおり俳優としての勤めを果たしているようにしか見えない。やつに目立った変化がないので、作戦とやらをどのように実行しているのかを知るのは困難だ。

 ただ『銀花』のスタジオには今、ある変化が起こっている。制作陣がちょっとしたサボタージュを行っているのだ。

 僕が覗いたときは、撮影技師と照明係が画づくりについて言い争いをし、監督が衣装係になぜ出演者に指示どおりの衣装を着せないのかと怒鳴り、ベテラン女優は音声係の態度が気に入らないと助監督に文句を言っていた。とにかく制作陣も俳優もそれぞれがなんらかの口論をしていて、その騒ぎやものすごかった。僕が五番スタジオのようすを比較的じっくりとうかがえたのも、そのおかげと言える。いったん火は消えかかっても、また別の所に火がつく繰り返しで、僕は長年映画制作に携わってきた者として、これは制作陣が撮影を滞らせたくてわざと喧嘩をしているな、と気づいた。

 理由は苑玲の歌にあるようだ。掃除仲間や食堂の従業員、仲のいい警備員の話を総合したところ、江青が映画の中で筋書きとは無関係の歌を苑玲に唄わせ、その歌をレコードで売り出したいと言っていることがわかった。

 制作陣が反発するのも無理はない。苑玲の歌には人の心を動かせるだけの力はないからだ。その苑玲の歌を江青は主題歌にしようというのだ。監督は表むき、従わざるを得ずに了承したようだが、内心では不満だったため、制作陣と一計を案じ、ああいうかたちでのサボタージュに出たものと思われる。

 しかし江青がいつまでも彼らに喧嘩ばかりさせておくとは思えない。解決しようとして、必ずなんらかの行動をおこすはずだ。それがなにかはわからないが・・・・・・。

 同じく、若趙丹の考えもやっぱりわからない。やつも周り同様、喧嘩をしていたが、皆ほどは熱心ではなかったようだ。しかも僕が五番スタジオの前を離れようとしたとき、若趙丹が江青になにか話しかけているのが見えた。江青は真剣な顔でうなずいていた。若趙丹は江青になにを話していたのだろう?

 若趙丹に聞くと、作戦は着々と進んでいると、はぐらかされた。目的を達するまで時間がかかると言ったが、いったいどれだけかかるのか。僕は黙って見ているしかできないのか?〉


 玉子はページをめくった。


〈十月三十一日土曜日

 予想は当たったとも外れたともいえる。江青がここ二日でとった行動はこうだ。

「あんたたちの喧嘩が終わったら呼んでちょうだい!」

 一昨日江青はいきなり制作陣にそう叫ぶと、撮影所を飛び出した。ただし一人ではなく、苑玲を連れていた。二人をのせた自動車がむかった先は、レコード会社だった。

 江青は周恩来失脚後に自分の勢力下となったその会社で、苑玲に歌わせたがっている「藍蘋の歌」を強引に録音させた。「藍蘋の歌」とは言っても、新たに作詞作曲されたものではなく、元の三〇年代に流行した歌手姚華の歌だ。江青は自ら指揮して終えると、突貫でレコードを作成させ、さらに総力をあげて大量生産、すぐさま上海じゅうの店に並ばせた。南京路もアヴェニュー・ジョッフルも一昼夜にして宣伝ポスターで埋めつくされ、昨日からラジオをつければ娘の歌声が耳に入る。

 だが僕は素直に喜ぶ気にはなれない。苑玲は華々しく歌手になったが、どうひいき目に見ても歌は良くない。つまらない歌を繰り返し聞かされることは、多くの人にとって迷惑なことだ。しかし江青はレコード発売に合わせて、歌手藍蘋の写真を大量に新聞、雑誌に出させた。苑玲は歌よりも容貌で注目されるかもしれない〉


「この日のはこれで終わりじゃわい。たしかにこの一週間、やたらと藍蘋の歌が流れておるな」

 玉子が言うと、石頭がうなずいた。

「まったく。人気ありますよね、藍蘋は。歌は全然良くないのに」

「見た目がいいっすから」

 老鴉がいつの間に戻ったのか、横から口をはさんだ。

「気品のある顔立ちに、あの胸と足っすからね。肖像写真、見ますか? 花旗に拾わせて来たのがあるんで、よかったら貸しやすよ」

 ニヤニヤ笑って言うと、

「いらんわい。歌なら蓮英の方がよっぽど上手い」

 玉子はそう言って唾を飛ばした。

「あ、それだけはご勘弁を・・・・・・あれ? 今、頭の唾が俺の手にあたったのに、まったく痛みを感じねえ。こいつあ驚いた。このまま修行をつづけりゃあ、一か月後には心臓を刺しても死なねえ体になれそうっす」

「どうじゃろな」

「ときが来たら証明してみせやす」

「老鴉、おまえ死ぬつもりか?」石頭があきれて口をはさんだ。

「わかってねえな。俺あ天仙になる身よ」

「今はなにを言っても無駄か。頭、日記のつづきを読みませんか」


〈十一月一日日曜日

 撮影所がとんでもないことになった。歌手藍蘋が有名になっても、『銀花』の制作陣は相変わらずサボタージュをつづけていた。すると――、

 今日の午後、第五スタジオに突然、武装した兵士たちが突入して来た。なにがなんだかわからないうちに華東撮影所が軍隊に占拠されてしまったのだ。

「これは、呉司令官率いる毛主席の上海駐屯八三二一部隊です」

 江青はスタジオに入った部隊を映画制作者たちに紹介すると、声を張り上げて言った。

「今すぐ撮影を再開しなさい。さもなくば軍規に照らして、ただちに処罰します」

 部隊はすでに幾つかの小隊に分かれ、撮影部門、照明部門、化粧部門といった各セクションごとに配置につき、銃をかまえていた。制作陣はすっかり震えあがり、その場に凍りついた。

「早くはじめなさい! 言い訳はいっさい受けつけません。今後は同じようなことがあれば、その場で罰を下します」

 もう誰も喧嘩ごっこをしようとはしなかった。制作陣は大人しく動きだし、『銀花』の撮影はまもなく再開された。

 僕は控室を掃除していたから、助監督が食堂で話していたのを聞いてその場の模様を知ったのだが、その後、五番スタジオから苑玲の歌声が聞こえてくるといよいよ複雑な気持ちになった。いくら国家主席夫人とはいえ、そこまでやるとは――。若趙丹のようすが気になった。軍の監視がはじまっては、証書を盗むなど、今までとは比べ物にならないほど困難になるはずだ。

 そこで僕は若趙丹とすれちがったときに目で合図し、その後二人きりになると軍隊介入の懸念を伝えた。ところがやつは平然としてこう言っただけだった。

「悪い方には転びませんよ」〉


〈十一月二日月曜日

 なにが「悪い方には転ばない」のか!

 今日、僕は不安でたまらなくなった。撮影は順調にいっているらしい。藍蘋が唄い、若趙丹が踊る場面も無事フィルムに収められたらしい。江青も満足かと思いきや、そうではなかったようだ。制作陣には怒らなくなったが、今度は娘に癇癪を起こすようになったのだ。

 監督気取りの江青がことあるごとに撮り直しを要求、そのたびに苑玲を必要以上に罵倒する。苑玲をよく思わなかった連中ははじめは溜飲が下がる思いがしたようだが、今はうんざりし、むしろ苑玲に同情しているそうだ。

 それにしても江青は苑玲のなにがそんなに気に食わないのか? たしかに苑玲はこの頃、少しいい気になっていたようだから、それを江青が不快に感じたとしても不思議ではない。だが僕は、原因は別のことにある気がする。想像するに、今までの江青は、藍蘋を成功させることしか考えていなかった。ところが藍蘋が歌手として人気者になってみると、今さらのように嫉妬の念を抑えきれなくなったのではないか?

 苑玲はもともと性格も外見も、元の藍蘋には似ていなかった。その顔は当然ながら母親の宗玲似だ。江青が宗玲を決して好いてはいないことを僕は知っている。好くどころか、むしろ嫌っていたと思う。二人はほぼ同世代で、同時期に映画界にいた。表面的な交流はあっても、たがいに対手だったから、よい感情は抱いていなかったはずだ。宗玲に似た苑玲をなぜ江青が藍蘋に仕立てあげたのか、僕はずっと解せずにいた。

 江青の真の狙いはなにか? 苑玲を傷つけること? そのことによって宗玲と僕を苦しめること? なんにしろ、この三か月すでにじゅうぶん苦しんだ娘をこれ以上苦しめようというのなら、僕は父親として黙っているわけにはいかない。

 このごろの苑玲はまったく江青に染まってしまっていた。江青の前では借りてきた猫のようにしおらしいが、それ以外は江青の権力を笠に着て、自分が制作陣の生死をにぎっているような顔をしてそっくり返っているそうだ。おまけに恋人役の若趙丹とは撮影以外でも人目にかまわず、いちゃつくことがよくある。どうにかして娘に接触して戒めたいと思うのだが、その機会をうかがうことすら、軍隊の目があるために前より難しくなった〉


「ほっほ、この日の阿三はだいぶご不興じゃわい」

 玉子が言うと石頭がうなずいて、

「字にも表れてますね」

「夫人が娘に手の平を返したとなれば無理もないわなア。しかし唐納のタの字も出てこないのは相変わらずじゃ」

「阿三を尾行しているとかいう白人も、どうなったんでしょう?」


〈十一月三日火曜日

 今日また新たな事態が発生、若趙丹が僕と二人になったときに、そのあらましを僕に語ってくれた。それによると――。

 江青は今朝、若趙丹と藍蘋の場面の撮影をいつものようにさえぎったかと思うと突然、

「私が演る!」

 そう叫んで苑玲を追い出し、自分が若趙丹の隣に立って、あっけにとられている制作陣一同にむかい、こう言った。

「やっぱり今から私が月蛾(ユエアー・・・『銀花』の主演女優の役名)を演るわ。さあ早くカメラを回しなさい」

 スタジオはしんと静まり返った。

「私は本物の藍蘋よ。月蛾には最もふさわしいでしょ」

 江青が自ら「本物の藍蘋」と名のったこともだが、江青が月蛾をやると言ったことは、それ以上の驚きを一同に与えた。誰が見ても江青は青春映画の女主人公にはふさわしくはない。苑玲とは背格好は似ているところがあったが、黒眼鏡と軍服を身に着けた五十代の女性で、口周りには皺がくっきりと浮き出ている。

「ねえ、撮影技師、なにしてるの?」

 撮影技師は満面に困惑の色をあらわした。

「江青同志」陸監督が思いきったように口を開いた。

「お言葉ではありますが・・・・・・」

「なに?」

「『銀花』はこれまですでに三回主演が代わりました。最初は雲鶴が撮影開始後一週間目に自動車に襲われかけ、怪我を負って降板、かわりに蓮英を登板させましたが、今度は蓮英が監獄に入れられたため、また雲鶴に戻して撮り直している状況です。すでに予定より四十日は遅れています。ですから主演はそのままで、江青同志は他の重要な役などで出演されてはいかがでしょうか」

「私が主人公を演じないでどうするの。こんな演技なんて見ていられないわ。おかしいと言うなら、もう一度すべて撮り直せばいいじゃないの」

「・・・・・・わかりました。では少なくとも、軍服という点だけはお許しを」

「わかったわ。旗袍に着替えてあげる。そのかわり私を月蛾として綺麗に撮ってちょうだい。逆らえばどうなるか、わかってるわよね?」

 江青が目配せすると、各小隊が銃を構えだした。監督は折れるしかなかった。

 かくて五十女を青春映画の女主人公とした撮影がはじまった。江青は得意になって若趙丹の恋人役を演じたが、仰々しいばかりで、とても見られた演技ではなかった。誰も注意できないまま撮影は終了した。

 江青は明日も自分が演じる気になっているという。このまま藍蘋になるつもりなら、苑玲の立場がなくなる。気が気でない、と僕が言うと、若趙丹は落ち着きはらって言った。

「大丈夫ですよ、作戦は順調ですから」

「どこが順調なのだ」

「今の流れはこっちの思惑どおりなんですよ」

 やつは意味深長な笑みを浮かべた。

「なんだって。どういうことだ」

 僕はこの数日溜まった苛立ちをぶつけた。

「君の作戦について、いいかげん話してくれないか」

 するとやつは意外にも、

「いいでしょう。今日はそのつもりで、あなたを呼んだんですから」

 そう言って話しはじめた。

「江青の証書ですが、どうもいつも着ている軍服のどこかに収納されているようなのです。証書を手に入れるには、まず軍服を脱がさなければなりません。それで、江青には『銀花』に出演してもらおうと思ったんです。俳優は全員衣装に着がえなければなりませんからね。僕は江青が自分で月蛾の役を演じたいと思うように仕むける行動にでました。女優として大成できなかった鬱憤を晴らすために、新一九三〇年代化などという途方もない政策を施行したくらいですから、あの人自身つねにそういう思いは抱えていたんでしょうが、理性で抑えているであろうその気持ちを抑えきれないまでに高めてやればいいと思ったんです。僕はきっかけを与えればいい。そのためにはなにをしたらいいか? 苑玲の藍蘋を人気者にし、注目を集めるのが一番だと考えました。そうなれば江青は必ずや苑玲を羨み、自分で藍蘋を演じたくなり、その地位を奪おうとするにちがいないと計算したわけです。かなり遠回りではありますが、これくらいの計画でないと勘の鋭い江青には見破られる可能性がありました。それで僕はまず藍蘋を人気者にすることからはじめました。主演映画が公開される前の新人女優を短期間で人気者にするにはどうしたらいいか? 思いついたのが歌手です。失礼ながら苑玲に歌の才能がなくても、皆が見られるような形で写真さえ提供すれば、見た目のよさですぐに大勢の影迷を獲得できると考えたんです。江青に藍蘋を歌手としても売り出す着想を話したところ、大いに乗り気になりましてね。こちらの望みどおりに動いてくれたわけです」

「それじゃ、江青の行動はすべて、君の考えていたとおりだったというわけか。君が苑玲といい雰囲気だったのも、作戦の一環だったのか?」

「ええ、江青の理性を失わせるのには効果がありましたよ。おかげで自分の年齢も忘れて月蛾は私がやると言い出してくれた」

「しかし苑玲はどうなる?」

「それを考えると・・・・・・心が痛みます」

 嘘はないと感じられる口調であり、やつは本当に心を痛めているようすだった。

「そうか。わかった」僕は思わず励ますように言った。

「今は証書のことだけを考えればいい」

「ありがとうございます。証書を奪ったら、必ず趙丹さんに渡しますから」

 その真剣な眼差しを見ると、僕はあれほど疑っていた男が非常に頼もしく感じられて来て、

「期待しているぞ」気づいたら笑顔でこんなことを言っていた。

「だが江青が軍服のまま演じると言ったときは、ハラハラしただろう」

「ええ、とっても。ですが着替えると言ってくれてほっとしましたよ」

「それで具体的にどうやって盗むんだ。撮影中、軍服は江青の護衛に守られた控室に置かれるんだろう?」

「ええ、でも護衛の気をそらして、侵入してみせます」

「気をそらすことなんて、できるのか?」

「控室に配置されている護衛が、衣装係の娘に首ったけという情報が入りましてね。かわいそうなことに脈はなしだそうで、彼はあれこれ働きかけたが、衣装係には避けられる結果となり、相当参っているらしいんです。だから彼女と密会できるとなれば、きっとなんでもやるでしょう」

「君は嘘をついて護衛を控室から誘い出そうと? しかし衣装係にその気がないとばれたら一巻の終わりだろう」

「大丈夫。衣装係はどうも僕に惚れているらしいので、うまく丸め込んでやります」

「やけに自信たっぷりだな。衣装係とは後腐れのないようにしないと、後で問題が生じる可能性があるが」

「善後策を講じておきます。それに僕が本気で惚れているのは苑玲さんだけですから、その点も心配無用ですよ」

「まったく調子のいいやつだ」

「まあ任せてください。明日ちょうど月蛾の単独場面の撮影がありますから、その時間に実行する予定です」

「よし、大いに期待するからな。頑張れよ」

 僕はあえて軽い口調で言い、やつの肩を叩いた。するとあいつは、うれしそうに笑った。

「頑張りますよ。いざとなったら、誰かさん顔負けの名演技で切り抜けてみせます」

「誰かさんって誰のことだ」

「もちろん趙丹氏ですが」

「趙丹氏ってどの趙丹のことだ?」

 僕たちはいつのまに笑いあっていた。

 今、僕は心から明日の若趙丹の成功を祈っている。と、ここまで書いていたら、家の前で人の気配がした。音はしないが、誰かが外で僕を見張っているようだ。目的はいったいなんだ?・・・・・・そういえば一昨日と昨日、引き出しに入れてあった日記の位置が微妙にずれていたようだが。もしかして・・・・・・いや、それはあまりに考えすぎだろう。なんだか日記を書くのも命がけの気分になってきたが、記録はとりつづけねば。〉


「『つづけねば』って、阿三は使命感にかられて日記を書きつづけていたみたいですね」

 石頭が言うと、玉子がつぶやいた。

「おそらく、この日記はわしが書いた手紙にたいする返事ではなかろうか」

「そういうことも考えられますが、果たしてそれだけですかね。阿三がなに者かに狙われていたことと関係あるんじゃないですか」

「わしが知りたいのは、あやつが証書を手に入れたかどうかじゃ。とにかく先を読むしかないわい」


〈十一月四日水曜日

 今日、若趙丹は昨日言ったとおりに月蛾の単独場面の撮影中、江青の控室に侵入した。若趙丹はどんな甘言を弄したか知らないが、前夜のうちに衣装係を薬籠中の物にし、江青の撮影中にくだんの護衛と密会することを了承させることに成功していた。今朝衣装係に声をかけられた護衛は、喜びを押し隠すのに必死だったようだ。だから若趙丹はすっかり安心していた。落ち着いた足どりで無人の控室に忍びこむと、江青の軍服をすばやく発見して胸ポケットに手を突っ込んだ。ところがそこに入っていたのは手絹一枚だけだった。やつはあわてたが、つとめて動悸をおさえ、他のポケットを順々にたしかめようとした。するとそのとき、ドアが開いて、護衛が入ってきた。

 あっというまもなく若趙丹は体を押さえつけられていた。後で確認したところ、衣装係は一度は若趙丹の言うなりになると約束したが、いざ無人の衣装倉庫に行くと恐ろしくなったものか、護衛が入って来るやいなや、いきなり股に蹴りを入れて逃げ出したそうだ。護衛は裏切られた思いを抱えたまま、仕方なく控室に戻った。そこに若趙丹を発見したというわけだ。

 江青はことの内容を報告されるなり、「撮影中止!」と叫び、若趙丹を目の前に連れて来させて、「主演俳優を首にする」と宣告した。その場で撃たれなかったことがせめてもの救いだが、若趙丹は連行されてしまった。行き先は不明。やつが今無事かどうかもわからない〉


〈十一月五日木曜日

 今朝僕が撮影所の周りを掃いていたとき、江青の自動車が到着した。後部座席には男が乗っていた。

 その男、どうも見覚えがあると思ったら、驚いたことに唐納だった。いや、僕の知っている五十代の唐納ではない、若い頃の唐納にそっくりの男だった。男は僕に気づくとサッと目をそらし、江青が降車するなり、逃げるように自動車を運転手に発車させて去って行った。江青はいったいなぜ昔の唐納そっくりの男と一緒だったのか?

 若趙丹が捕えられた翌日だけに気になる。江青はいったいなにを企んでいるのだろう。横暴ぶりは、いよいよ顕著になっている。

 『銀花』はすでにめちゃくちゃだ。昨日江青は若趙丹を追い出した後、制作陣にこう言い渡した。

「代役はたてなくていいからね。荘操は出て来なくても大丈夫なはず。明日までに台本を直すよう脚本家に命じて」

 『銀花』は男性の主人公である荘操なしには成り立たない。とんだ無茶な注文だが、脚本家は命令をきかないわけにはいかず、台本を徹夜で仕上げ、監督はその台本をもとに撮影を進めざるを得ないようだ。今や『銀花』は、江青の、江青による、江青のためだけのものになっている。僕が廊下掃除中に覗き見した限りでも、カメラは江青の大写しばかり撮っていた。五十代女性が若い娘の役をするのは痛々しいだけだが、江青はすっかり自分の演技に酔っている。そんなありさまを僕は黙って見ているしかできない。証書を奪うなどとんでもないように思える。実際ただの掃除夫には、江青に接触する機会をつかむだけでも大変なのだ。

 事故でも起これば、騒ぎにまぎれて接触できるかもしれないが――。そうか、事故か。火事とか? あるいは制作陣が問題を起こして軍隊が発砲するとか? 休憩中に外に出て来た制作陣数人が、「一発見舞われても構わないから、言いたいことを言ってやろうか」と陰口をたたいているのを耳にしたことがある。

 皆、江青にうんざりしているのは明らかだ。誇り高い制作陣が、これ以上意にそぐわない注文をされたら、黙っていられるか疑わしい。そうなったら軍隊が動いて大騒ぎになるだろうから、僕にとっては好機となる。〉


「やっと唐納が出て来たわい」玉子が言った。

「昔の唐納とそっくりな若い男と書いてあるから、わしに日記を届けに来た男と同一人物じゃな?」

「まあ、俺は日記を持ってきた男を見てないのでなんとも言えませんが、その可能性は高そうですね」

 石頭が答えると、玉子は言った。

「その唐納は江青の自動車に乗っていたんじゃな。ということは江青側の人間ということか?」

「その可能性は高いですね。とすれば、この日記は江青の罠かもしれない・・・・・・」

「阿三が書いた日記なのにか?」

「誰かが阿三の筆跡を真似て書いた偽物ということも考えられます。とりあえず先を読みましょう。次で最後みたいです」


〈十一月六日金曜日

 いよいよ危ないかもしれない。

 今、外に、以前逃げて行ったのと同一人物らしい白人が立っている。今日はいつものように気配を感じたなどというものではなかった。撮影所から里弄に帰って来たとき、はっきりと目に入ったのだ。背広を着た、いかつい体格の白人が僕の部屋の階の通路に立っているのが。

 ただし僕とは距離を置き、黙ってこっちを見ているだけだった。鍵を開けるときも、男の視線が全身に粘りつくのを感じた僕はたまらなくなって、

「あの、どちらさんでしょう。こんな所でなにしているんですか?」

 思いきってそう声をかけた。

 だが白人は中国語が通じないのか、なにも答えず、金色の無精髭を動かして、はにかんだような笑いをうかべただけだった。ただその青い目は笑っていなかった。男は僕が鍵を回した瞬間、一緒に部屋へ侵入するつもりかもしれなかった。しかし男の侵入を恐れていつまでも自分の部屋の前で立ち往生しているというわけにもいかず、仕方なく鍵を開けた。結果、部屋には一応入れたが、外の男が立ち去った気配はなかった。

 とにかく、ただごとではない。今まで隠れて僕を見張っていたらしい男が、なぜ急に堂々と姿を現したのか? 今日起きた事件が関係しているとしか思えない。

 事件は午後三時半すぎに起こった。そのとき僕は第三スタジオ前の廊下を掃除していた。

 それまでずっと第五スタジオから江青と助監督の希哲が言い合う声が聞こえていたが、ふいに銃声が耳をつんざいた。つづいて悲鳴と喚声が、同じく第五スタジオから聞こえた。僕は胸騒ぎを感じた。予感が早くも現実になったように思われ、モップを引きずるのももどかしく駆けつけると、床に希哲が血を流して倒れているのが見えた。軍隊が銃を構えていることからして、江青と言い争ったのが原因で撃たれたのは間違いない。制作陣は瀕死の希哲に声をかけたり、泣き叫んだり、怒鳴ったり、わめいたりしていた。

 江青は平然としていた。するとふだんは大人しい蔡助監督が我慢できないといった顔で江青を非難しはじめ、ひとり理性を保っている陸監督を除いて、他の制作陣もそれに加わりだした。

 苑玲は制作陣の輪の外で茫然としている。目の前で助監督が撃たれたことの衝撃が大きかったらしい。とりあえず今のうちに安全な場所へ――。苑玲を連れ出そうと足を踏み出しかけたとき、江青と目が合った。その瞬間、二度目の銃声が起こった。僕はぎょっとして目を見張った。撃たれたのは助監督の蔡生。眉間を貫かれ、即死だった。

「わかった? 私に楯突くと、こうなるのよ」

 誰もが青い顔をして黙りこくっていた。

「じゃ、いいわね、今から監督も私がやる」

 江青は笑って言うと、なにごともなかったかのような涼しい顔で撮影を再開した。

 陸監督は当然納得がいかなかったろうし、誰も気持ちを簡単に切り替えられはしなかったろうが、その場は皆我慢して従うほかなかったようすだった。

 まもなく民警が死体を運び出しに来た。江青の命令で助監督たちは反逆者の遺体として処理されることになったという。

 僕は警察が来ると見るや、五番スタジオの前を離れた。だがこうして僕の家の前に男が立っているのは――今、ドアの鍵が回る音がした。もしかしてあの白人か? やつがどうして僕の部屋の鍵を? なぜ

 僕の日記が(以下空白)〉


「ここで途切れていますね」石頭と玉子は青い顔を見合わせた。

「『日記が』の後はなんじゃ? 阿三の身になにかあったのか」

「どうでしょう。阿三が最後の部分を書いている最中に、白人が部屋に侵入してきたように思えますよね」

「阿三はその白人にどこかへ拉致されたかもしれぬ」

「決めつけない方がいいかもしれませんよ。頭をおびき寄せるための罠ということも考えられますから」

「おびき寄せると言うても、わしはその白人はもとより唐納の所在も知らんのじゃぞ」

「頭なら見当をつけられると思われているのかもしれません」

「なるほど、わしは神仙じゃからな」

 玉子は得意げに笑い、鼻息でほくろから伸びた毛を宙に浮かせた。太鼓腹の上で三つ編みが上がったり下がったりするのを見て石頭がつぶやく。

「ブランコ・・・・・・」

「なに?」

「いや、なんでもありません。とりあえずこの日記が本当に阿三の書いたものか調べましょう」

「そんなのんきなことはやってられん。阿三の所在を確かめるのが先じゃわい。もし拉致されたのなら今ごろ命の危険にさらされているかもしれぬからな。十一月六日といえば昨日じゃ。早く見つければ間に合うはず」

「ええ、でも今ごろ華東撮影所でふだんどおりに掃除しているかもしれませんよ。とりあえず華東撮影所にいるかどうかだけは確かめた方がいいでしょう」

「そうじゃな、念のため確認しよう。第二十七区に連絡して調べさせるわい」

 上海の物乞い組はそれぞれの縄張りを区分けして数字で呼んでいた。玉子は自分の地区の物乞いに二十七区と連絡をとらせた。三十分後、報告を受けた玉子は石頭に言った。

「わしの予想は当たっておった。今、二十七区の返事が届いたが、阿三は昨日の朝から行方が知れないそうじゃ」

「そうですか」暗い顔になった石頭に玉子は言った。

「汝に頼みたいことがある。石頭、聞いてもらえるか?」

「俺もかつての仲間は助けたいですからね、なんでも聞きますよ」

「受けたが最後、危ない橋を渡ることになるが、それでもよいな?」

「大丈夫です」石頭は決然と言った。

「俺は元『上海時報』の記者ですよ。危険にはけっこう慣れてますから」

「そうじゃったな」

「それで俺は、唐納の居所を探ればいいですか?」

「さすが機転がきくわい。そう、唐納とできればもう一人、白人も探ってもらいたいが、こいつは情報がなさすぎてのう」

「上海の白人が集まる場所は決まってますよ。ほとんどは当局の捕虜状態で行動範囲も限られています。そこから探って行けば、なにかつかめるかもしれません」

「じゃが当局の監視下となると、接触するのは難しい」

「花旗に手伝わせてもいいでしょうか?」

「花旗は英語ができるからの。よろし、あやつに事情を説明しておこう。老鴉にも協力させるか。唐納に会ったのはあやつじゃから聞き込みなぞには役立つはずじゃわい」

「ありがとうございます。できるだけのことをやって、なんとかつかんでみます」

「頼んだわい。わしはわしで探るからの」


「日記はここで終わっています――」

 玉子は阿三の日記を、車座になった人びとの前で朗読し終えると一息ついてから、改まった言葉使いで言った。

「これだけでは、阿三の身になにがあったかわからないので、私は当初とても不安になりました」

 玉子の顔を見つめる人びとの顔が蝋燭に照らしだされている。その中には、阿三こと趙丹の妻黄宗玲の顔もあった。さらには北康こと元映画監督の鄭君里、元プロデューサーの夏雲湖、元撮影技師の王春泉、元映画音楽担当の譚友五、元脚本家の魯漠といった、趙丹のかつての映画制作仲間の顔もたくさん見受けられた。皆一様にボロをまとっているのは、当局の目をくらますために物乞いに扮装したからだった。

 ここは南市の益善堂の地下室。南市は上海の南の区域で、中国式の狭い家が密集した昔ながらの住宅地である。益善堂は租界時代にあった慈善機関で、新一九三〇年代化政策の施行に伴って外観上復活した施設の一つだった。

 玉子たちが趙丹の日記を受け取ってから一週間後の十一月十三日金曜日、益善堂の広い庭には施粥(シーユー・・・貧しい人に食料を施すこと)が行われるために、近隣から多くの貧民が集まっていた。

 玉子はその機会を利用して、ひそかに味方と頼む人びとと一堂に会しようと考え、ここに呼び集めたのだった。

「それで夫・・・・・・阿三の日記はなぜ途中で止まっていたの?」

 黄宗玲が蒼白な顔をむけて聞いた。有名女優黄宗玲の夫が有名俳優趙丹すなわち今の阿三であることは皆知っているので、「夫」と聞いても驚いた顔をする者はなかった。

「ねえ、彼の身になにがあったかわかったの?」

 黄宗玲が重ねて聞くと、

「それが――」玉子が言いにくそうに口を開いた。

「阿三は今、監獄にいるようです」

「まあ・・・・・・」卒倒しそうな顔を見て、鄭君里が心配そうに言った。

「おい、しっかり」

「大丈夫よ。予想はしていたから。でもなぜまた監獄なんかに」

「あくまで推測ですが、日記に出て来た白人は阿三の部屋の合鍵を持っていて部屋に侵入し、日記を奪ったものと思われます。阿三は当然それを追いかけていったのでしょうが、なんらかの支障があり、民警に捕えられたのでしょう」

「白人はどうして日記を奪ったりしたのかしら。大体その白人はなに者?」

「その辺のことは石頭が調べてくれました」

 玉子が言うと、石頭は持参した資料の最終確認を終えて、眼鏡をかけた顔をあげ、

「どうも。一応まだ知らない方のために自己紹介しましょう。頭の下で働く通称石頭です」

 そう言って軽く頭を下げてから、

「ええと、日記に出て来た白人について先に話してもいいんですが、その前にもう一人、ある男について先にお話しした方がわかりやすいと思います。男は名を唐納と言いますが――」

 石頭が口にした名前を聞くなり、黄宗玲が頓狂な声をあげた。

「えっ、唐納? 唐納はパリにいるんじゃなかった?」

「あ、その唐納さんじゃありません」

 石頭はそう言ってあわてて説明した。

「パリに移住した五十代の唐納さんとはちがいます。その男は日記にも出てきましたが、年齢は二十代半ば。唐納というのはもとより変更後の名前でして、本物の唐納さんの若い頃に似た外見の別人です」

「若い唐納なら、自殺したんじゃなかったですか」

 北康こと鄭君里が口をはさんだ。

「『中国日報』の張橋が杏花楼で言っていたのを聞いたことがある。江青同志お気に入りの脚本家が入水したと」

「ガセネタですよ」

 元『上海時報』記者の石頭は、張橋への敵意をむきだしにして言った。

「張橋はなんらかの意図があって、そんなデマカセを人に聞こえる声で吹聴したのでしょう。阿三こと趙丹の日記を頭に届けに来たのは、間違いなく若い唐納でした」

「え?」一同は目を丸くした。

「調べた所、若い唐納は現在上海の白人社会に身を置いています。具体的には、白人の収容施設キャセイマンションに住み、日中のほとんどをむかいのフランスクラブで過ごしているようです。一般の中国人社会に顔を出すことは、ほとんどありません」

「そうだったのか。しかしなぜ・・・・・・」

 鄭君里は解せないという顔をした。石頭は右隣にいる十代の少年を示して言った。

「ここにいる通称花旗の英語力をたよりに、僕たちはフランスクラブ前で探りを入れました。その結果、唐納が白人の中でも特殊な連中と付き合っていることを、つきとめたんです」

「特殊な連中って?」

 聞かれると、石頭はしばらく間を置き、声を落として言った。

「MI6工作員です」

 たちまち元映画関係者たちは噴き出した。

「アハハ、MI6と来ましたか。ケッサクです。イギリスの対外情報機関員が今どき中国にいるなんて」

 頭から冗談扱いする彼らに、石頭は真面目な顔で言った。

「MI6は現在でもこの上海にいるんです」

 皆一瞬しんとなったが、すぐに笑い飛ばした。

「まさか。MI6どころか、イギリス人自体、共産党が国民党に勝利した後に中国から出ていったはずじゃないか」

 夏雲湖が言うと、譚友五がうなずいて言った。

「そうそう、今上海にいる白人は、中国政府の工作員が、外国人がたくさんいた一九三〇年代の外観を再現するためだけにブラジルやルーマニア、南アフリカなどから拉致して来た連中で、当局の収容施設であるフランス租界のキャセイマンションで捕虜同然の生活をさせられているって話じゃないですか。そんな連中が間諜活動だなんてありえませんよ」

「僕もそう思いますね」鄭君里が言った。

「街で見かける白人は全員、映画のエキストラと変わらないと聞いています。外に出るときの行動範囲はすべて当局が作成した台本によって決められており、役割から少しでも逸脱しようものなら罰せられるとも」

「ええ、そのようです」石頭が言った。

「白人は外出するといっても民警の監視の下で街の景観のためだけに、指定の時刻にレストランのオープンテラスで食事をしたり、埠頭で花売り娘から花を買ったりするだけで外での自由があるとはとても言えないと」

「それじゃやっぱりMI6は冗談ですね?」

 夏雲湖が確認しようとすると、石頭は言った。

「いいえ、皆さん、イギリス人の一部は共産党統治下でも上海に残っていましたし、ある者は拉致された白人の中に紛れ込んで生活しています。彼らはこそこそ隠れるどころか、決まった施設内では、かなり自由な活動さえしているんです」

「決まった施設とは?」

「フランスクラブや、彼らの居住するキャセイマンションのことです」

「それで自由な活動って、なにしてる?」

 夏雲湖に聞かれると、石頭は待っていたというように、持参の資料から英字新聞を取り出して掲げて見せた。

「これはイギリスの大手紙『ロンドン・タイムズ』です。ここにあるこの記事は、上海特派員ウィリアム・ウィークスが書いたものです」

 元映画関係者たちは、半信半疑の顔を記事に近づけ、アルファベットに目を凝らし出した。ある程度の英語なら理解できる彼らはみるみる瞳孔を広げて言った。

「本当だ。こんな新聞どこで手に入れたんだ」

「花旗がフランスクラブから盗み出したんですが、それよりも今皆さんに着目していただきたいのは、上海にはイギリス人記者がいて、中国について書いた記事を本国に報道することを許されているということなんです」

「イギリス人に報道を許す? あり得ないだろう。当局は中国の現状が外国に伝わらないよう細心の注意を払っているはずだ」

 王春泉が言うと、

「でも実際に許されているんです。その理由をわかっていただくためには、記事を読んでいただくのが一番でしょう。皆さんどうぞご覧になってください。三か月前の分からそろってますよ――あ、英語じゃ大変ですね。花旗が訳したのがありますので僕が概略を言いましょう」

 石頭は持参の帳面をめくりはじめた。

「ええっと、それじゃまず八月中旬の分から――『中国南部、記録的干ばつの影響で作物の収穫激減、今冬の餓死者増加が懸念される』」

「え、なに、八月に南部で干ばつがあった? そんなはずはないが」

「これで驚いたらいけません。次は九月の記事なんですが――『上海で内戦勃発。九月十六日、食糧難にあえぐ南京で中民団と称する武装団体が蜂起。十八日、上海市政府の建物を爆破。現場に出動した人民解放軍に発砲を繰り返し、市街戦が勃発、多数の市民が犠牲に。二十七日現在までの死者は四万人以上にのぼるものとみられる』」

 一同は開いた口がふさがらないという顔になった。

「内戦? 中民団? いったいなんの話だ。九月といや満州では共産党軍が偽日本軍に勝利したという出来事はあったが、この上海はいたって平和なものだったことは、僕たちが一番よく知っている」

「このウィリアム・ウィークスってやつは、取材ができないんで、自分の妄想を記事にしたんじゃないのか」

「あっは、皆さんがそう思うのも無理はありません。この先も事実とはちがう、デタラメがつづきます。たとえば十月、『中民団が市街戦に勝利して上海を占拠、共産党員を大量虐殺』という具合に」

「ひどいなあ」

「まったく『ロンドンタイムズ』の中では中国はどんどんひどいことになっています。これは花旗が見つけた最新記事ですが、十月末には内戦が中国全土に広がり、飢餓と伝染病が蔓延、全国の犠牲者が四百万にも達したことになってるんですよ」

「とんだ嘘っぱちね。今はもう十一月だけど食糧不足なんて話聞いたことないもの」

「いやあ、記事を読んだらよけいに謎が深まったよ」

 王春泉が言った。

「当局は中国の一九三〇年代の歴史を名誉あるものに書き換えるために新一九三〇年代化政策をはじめたはずなのに、こんなデタラメをでっちあげてまで中国がひどい状態になっていると世界に報道させているとしたら、やっていることがまるで逆さまじゃないか」

 すると石頭はここ三か月の各月の古新聞を配って言った。

「皆さん、記事の年月日をよく見てください。気づきませんか?」

 十月の新聞を見ていた黄宗玲が声をあげた。

「あら、『中国政府は一九六五年の予算を――』とあるわ。『中国政府は新一九三一年』と書くべきなのに、この記者は間違えたのかしら」

「いいえ、間違えたんじゃありません。中国当局によってそう書かされたんでしょう。おそらく当局は中国が依然として他国同様一九六五年をやっているように世界に思わせたがっているんです。その証拠に中国に関するどの記事にも『新一九三一年』については書かれていません」

「ということは――」鄭君里が言った。

「中国が八月から『新一九三一年』になったことは、世界には知られてないってことですか」

「そのように考えられます。中国は世界には新一九三〇年代化政策をはじめたことを秘密にしたがっているようです」

 石頭が言った。

「皆さん、こういうことが考えられませんか――中国当局は『新一九三一年』のことを隠すために、意図的に『デタラメ一九六五年ニュース』をでっちあげて外国に流させている、と」

「なんのためにそんなことを」

「そりゃあ中国だけ西暦を三十年も戻して一九三〇年代をやり直していると知られたら、この国はおかしくなったと思われるからじゃないかしら」

 黄宗玲が言うと、鄭君里が首をひねって言った。

「おかしいと思われるのは、『餓死者四百万』報道も同じだろう。中国当局が裏で糸を引いている報道なら、その意図がわからないよ。だって国力の弱さを見せつけるだけで、なんの利益にもならないだろう」

「それがそうじゃないんです」石頭が言った。

「中国が弱っていると思わせる利点が、この記事を送らせている人物にはあるんです」

「どういう意味ですか」

「それについては後で説明します。ここでいったん話を元に戻しましょう」

 一同は「元の話ってなんだったけな」という顔をしたが、石頭は強引に話を戻した。

「さっき僕は今も中国にMI6がいると言いましたが、この『ロンドンタイムズ』上海特派員はその一人です」

「え、まさか・・・・・・」

「事実です。信頼できる筋に確認をとりました」

「信頼できる筋とは?」

「それも後で話します」石頭はまたももったいぶった言い方をして、

「なんでも後回しのようですみませんが、上海の白人社会で暮らしている唐納にまで話を戻しますと――」

 帳面と新聞を下に置いて一方的につづけた。

「MI6のことを話す前に僕は、唐納が白人の中でも特殊な連中と付き合っていると言いました。『タイムズ』特派員ウィークスはその一人です。これはフランスクラブの従業員やマンションの使用人に聞きこみをして確認したことですから間違いありません」

「じゃ、趙丹の日記に出て来た白人はウィークス?」

「いいえ、それはちがいます。阿三・・・・・・趙丹をつけ回していた白人は、ボリス・ライスキーを名のる白系ロシア人です。第二次大戦前にナイトクラブの用心棒として上海で働いていたのが、そのまま住みついたもののようです」

「だけど今は行動を制限されている身でしょ。それでよく夫を見張ったり出来たわね」

「ライスキーは上からの命令に従っただけだと思われます」

「上って誰ですか」

「上海当局です。ウィークスとライスキー、二人とも当局のある人物に目をかけられています。もう一つ、二人の白人には共通点があります。唐納と接触していることです」

「二人の白人は唐納とどういう関係なの?」

「当局のある人物とは?」

 矢継早に質問する一同を石頭はなだめるように言った。

「ここでちょっと、皆さんに一度死んだことになった唐納がなぜ白人社会に身を置いたかを考えていただきたいと思います」

「そんなのわからないわよ」

「いえ、今までの話から推測すれば、わかると思います。が、手掛かりを言いましょう。若い唐納も本物の唐納同様、英語を流暢に話します。ロシア語も日常会話程度ならできるようです」

「それじゃ一般社会が嫌になったから『自殺した』ことにして、白人社会に逃げたってこと?」

 黄宗玲が言うと、元映画音楽制作者の譚友五が疑義をはさんだ。

「白人社会は中国人社会以上に管理が厳しいのに、現実逃避したい人間が逃げようなんて思うかな」

 鄭君里がうなずいて言う。

「第一簡単に入れる世界じゃない。仮にちょっと潜りこめたとしても、白人専用マンションの部屋を借りるなんてことは有力者のコネでもない限り不可能だろう」

 それを聞くなり石頭が待ってましたとばかりに言った。

「皆さん、そこなんです。唐納は実は有力者――当局のある人物と関係があるんです」

「え、ある人物って?」

「それが誰か、皆さんは大方見当がついているんじゃありませんか」

 否定しない人びとの顔を見つめて石頭は言った。

「そうです、江青同志です」

「やっぱりそうか」魯漠が言った。

「本物の唐納と江青は三〇年代に夫婦だったからな。かつての夫とそっくりの男と関係があったとしても、おかしくはない」

「若い唐納と江青が一緒にフランスクラブから自動車に乗って出てくるところを僕はなん度か見かけました。皆さん、若い唐納は江青と関係を持つ一方、MI6であるイギリス人記者とも接触しています。そのことがなにを意味すると思いますか?」

「若い唐納はもしかすると、江青に言われてイギリス人記者を探らせているんですかね」

 鄭君里が言うと、石頭は、

「その逆だとは思いませんか」

「逆というと、まさか江青が白人の味方で中国人を探らせているとでも言うんですか?」

「ええ、意外ですが、その可能性が高いんです。ちなみにさっき言ったウィークスやライスキーに目をかけている当局のある人物というのも江青です。白人二人は江青の手下だと思われます」

「それじゃ江青がライスキーに命じて趙丹をつけ回し、日記を奪わせたということになるの?」

 黄宗玲はそう言って目をむいた。興奮のあまり一同の前で自分が夫を阿三ではなく趙丹と呼んでいることも忘れている。

「しかし江青が、奪った日記をわざわざ唐納を使って玉さんに届けて読ませるなんてことするでしょうかね――証書のことやら江青に都合の悪いことが書かれているのに」

 首をひねる鄭君里に玉子が言った。

「江青の狙いははっきりしていません。罠という可能性もいまだに否定できていないです。ですが江青が白人とつながっていることはたしかと思われますよ」

「それどころか江青同志はMI6の一員かもしれません」

 石頭が付け加えるなり、一同は目を白黒させ、

「は? え? まさか」苦笑を浮かべた。「いくらなんでも――」

「ありえないと思いますか?」

「あの人は英語もできない」

「できないと思わせて、本当はできるとしたら? 三十年前、江青の夫だった本物の唐納が英語に堪能だったのは、皆さんよくご存じですよね?」

「それは唐納と友人だったから、知っていますが」

「しかしその唐納がMI6工作員だったことは皆さん知らなかったのでは?」

「え、なに?」

 一同は再度耳を疑った。そのとき、階段の方で足音がしたようだったが、誰も気にとめなかった。石頭は足音に気づいていたが、構わずにつづけた。

「皆さんは本物の唐納が第二次大戦中にソ連中華大使の秘書をしたり英国プレスセンターに勤めていたことはご存じでしょう。唐納はその頃はもとより、それ以前の三〇年代からMI6の一員だったんですよ。五〇年代にパリに定住し、ジャーナリストの中国人女性と結婚して以降は足を洗っていますが」

「どうしてそんなことを知っているんですか」

 鄭君里が聞き、夏雲湖が言った。

「君は元新聞記者だったと言ったな。それで知っているのか?」

「いいえ、僕はそんな機密情報とは無縁でしたよ」

「それじゃ、どうして?」

 そのとき、階段の方から耳慣れない声が飛んで来た。

「情報源は僕です」

 皆びっくりして振り向いた。蝋燭の光のむこうに背の高い男のシルエットが浮かんでいた。

「君は誰だ」鄭君里が叫んだ。

「まあまあ落ち着いて。僕は若い趙丹、若趙丹ですよ」

「え、若趙丹?」

 鄭君里は趙丹の日記に書いてあったことを思い出し、驚きと不審をあらわにして言った。

「君はたしか江青の証書を盗むのに失敗して捕えられたはずじゃ? なぜここにいる」

「まあまあ、警戒しないでも大丈夫ですよ」玉子が言った。

「若趙丹は俺たちが呼んだんです」

「なんですって、玉さんたちが?」

「事前にお知らせせず申し訳ありませんでした。なるべく無駄な情報の漏えいを防ぎたかったもので」

「いえ、そういうことなら構いませんが――」

 若い頃の趙丹にそっくりな男が自分たちの方に近づいてくるのを見ながら鄭君里は聞いた。

「彼とはどういったつながりで?」

「今回の調査中に知り合いまして」

 石頭が言ったのを花旗が引き取って答えた。

「フランスクラブ前で、も、物乞いしていたときに、阿三を若くしたような男を見かけたから、阿三の息子かもしれないと思って、こ、声をかけたのがきっかけです」

「おかげでそのとき花旗たちが阿三の仲間だとわかりましてね」

 若趙丹がいきなり物乞い組と鄭君里の間に首をつっこんで話しはじめた。

「それで僕は阿三の息子ではないが阿三の仲間だと言ったら、しばらく皆さんにかくまってもらえることになったんで助かりましたよ。なにしろ脱獄したばっかりで行くところがなかったもので」

「脱獄したのか?」元映画関係者たちはぎょっとした顔になった。

「そんなに驚かなくても。看守どもにちょっと鼻薬をきかせたらお茶の子でした」

「監獄にいたなら阿三に会ったかしら?」

 黄宗玲が勢いこんで聞いた。

「いえ、残念ながら。囚人同士を合わせないように制限されているので、当時は阿三が入ったことすら知らなかったんです」

「そう・・・・・・」

「がっかりさせちゃったようですね。でも彼にはそう遠くない将来に会えるはずですよ」

「え」黄宗玲が目を輝かせて聞いた。「彼、釈放されるの?」

「いえ、そうではないんですが、計画がうまくいけば――」

「計画って? こっちに来て、よく聞かせて」

 黄宗玲は若趙丹を一同の輪に入れさせて、自分の隣に座らせた。

「どうも、つめてもらってすみません」

 皆に頭を下げる若趙丹の顔を、黄宗玲は目を細めて眺め、

「まあ、こうして見ると本当に夫・・・・・・阿三の若い頃にそっくりねえ」

 と感心しつつ、

「で、釈放に関する計画ってなんの計画なの?」

 せかすように聞いたが、石頭が口をはさむ。

「黄宗玲さん、その話はまた後で。彼を会合に加えたところで、いったん話を戻したいと思いますが、よろしいでしょうか」

「また戻すの? まあいいけど」

「ありがとうございます」

 石頭は黄宗玲に頭を下げると、若趙丹を示して言った。

「さっき若趙丹は、本物の唐納の秘密を僕に教えたのは自分と名乗り出ましたが、イギリス人記者ウィークスがMI6工作員だと教えてくれたのも彼、若趙丹です」

「なぜ彼はそんな情報を持っている?」夏雲湖が聞いた。

「それは彼が特殊な立場にある人間だからです」石頭が答える。

「特殊な立場とは?」

「阿三の日記によると、彼は『警察も僕には手を出せない』と言ったそうだが、そのことと関係があるんですか?」

 一同が不審な顔をむけると、石頭は微笑を浮かべて言った。

「どうぞ直接聞いてみてください」

「君はいったいなに者なんだ?」

 鄭君里が代表するかたちで聞くと、若趙丹は微笑を浮かべて言った。

「別に大した者じゃありませんよ。ただ僕の上司が大人物ってだけです」

「君の上司とは?」

「通称B52。北京在住の有力者です」

「B52? ふざけているのか」

「とんでもない、B52はれっきとした党幹部です。ただ、今は名前を言えません」

「じゃあ、いつなら言えるんだ?」

「江青が打倒されたときなら」

「え」

「B52の望みは皆さんと一緒です。元はと言えば僕が上海に送り込まれたのも、江青の動向を探るためなんです」

 軽い口調で言われ、皆信じられないという顔をした。

「日記によると、最初の頃は趙丹の前で江青同志と呼んでいたようだが?」

 夏雲湖が指摘すると、

「場所が江青のいる撮影所だったからですよ。とにかく僕は敵ではありません。皆さんと目的を同じくする味方ですから、ここはひとつ僕もこの会に加えてもらえませんかね?」

 元映画制作者たちは首を縦にふらなかった。

「皆さん、若趙丹は信用できます。彼を会員にして頂くよう、俺からも頼みます」

 玉子が頭を下げると、元映画制作者たちは困ったような顔をした。

「皆さんは利用されるんじゃないかと心配なんですね?」

 石頭が聞くと、鄭君里が言った。

「若趙丹君の話が真実だという証拠があれば別ですが、そうでないので」

「悪いけど私も賛成できない」黄宗玲が言った。

「若趙丹さん、あなたの背後には本当にそんな有力者がついているの? それがもし本当なら監獄行きは回避できたんじゃないの」

「B52の力は決して江青に劣りません。ですが上海は周恩来同志の失脚後、完全に江青の支配下に置かれ、陸の孤島になっています。B52にもどうにもできない状況なんですよ」

「それは否定しないわ。上海市民は今、市外との連絡を一切禁じられていて、市外電話と市外郵便を使えるのは市政府の重要人物に限られている」

「まさにそのとおりです」若趙丹がここぞとばかりに言った。

「上海の危機的な状況を打開するには、一人でも多くの力が必要ですよね? だから皆さん、僕を仲間に加えてください」

 すると鄭君里が言った。

「君に幾つか聞きたいことがある」

「なんでしょう。B52の個人情報以外でしたら、なんでも答えます」

「君の上司はなぜ江青を失脚させたがっている?」

「それはですね」若趙丹は忽然と顔をひきしめて答えた。

「さっき石頭の話にも出たとおり、江青がMI6ではないかと疑っているからです。加えて江青にはイギリスの主導のもと、中国を資本主義化しようと企んでいる疑いがあるんです」

「資本主義化だって?」

 信じられないといった顔の一同に若趙丹は大きくうなずいて言った。

「ええ、江青がMI6工作員と接触しているらしいことなどから、そう推測されるんです」

「考えられない。江青がMI6かもしれないってだけでも信じられないのに、資本主義化を望んでいるなんて」

「証拠があるのか?」

「・・・・・・強いて言えば、江青が新一九三〇年化を勧めたことが証拠です」

「なぜそれが証拠と? 上海一つ見ても三〇年代化されたのは見かけだけで、本当の三〇年代のような自由な企業活動は許されていない。それどころか市民の自由はますます奪われている。江青が資本主義化を望んでいるなんてとても思えない」

「それは準備が整わない時点で資本主義を復活させたら、国内の敵対勢力に攻撃されて計画が台無しになると考えているからでしょう。それで今は見かけだけにしているんですよ。もっともそれだけでも充分イギリスに自分の存在を印象づけられると計算しているはずですが」

「どういうことですか」

「江青は租界時代の光景を再現することで、イギリスに対し、中国を資本主義国にしたときには、このように国の土地を自由に使っていい、そのかわり自分が中国の頂点に立てるよう後押しをしてほしいと伝えているんだと思います」

「まさか、いくらあの江青でもそこまで・・・・・・」

「B52はこうも言っています。江青が三〇年代の外観を再現したのにはもう一つ狙いがあると。すなわち、人民に三〇年代の華やかな文化をたっぷり見せることで、解放後に失われた豊かな生活への憧れを抱かせ、資本主義への心理的な抵抗を少なくさせようとしているのだと」

「たしかに誰でも美しい物を毎日見せられたら、味気ない共産主義国家よりもそっちの方がいいと思うようになるけど・・・・・・でも江青が本気で中国を資本主義国にしたいのなら、あれこれまわりくどいことはせずに自分の手でとっくに進めてるはずじゃない?」

「僕もそう思う。江青なら、わざわざイギリスの手なんか借りずに、最初からそうしてるんじゃないか」

 魯漠が言ったが、若趙丹が即座に否定した。

「いいえ、やりたくてもできなかったでしょう。江青は今でこそ上海を支配していますが、新一九三〇年がはじまった時点では、党内での序列はそれほど高くはなく、周恩来同志が失脚するまで強い権力を持っていませんでしたから」

「でも今なら、やろうと思えばなんでもできるんじゃないの?」

「いや、資本主義化となると別ですよ。少しでもそれらしき政策を進めたりしたら、他の敵対勢力が黙っていませんし、好機到来とばかりに江青を裏切り者呼ばわりしていっぺんに引きずりおろすはずです」

「たしかにそうなったら、いくら国家主席夫人でも立ち直るのは難しそうね」

「夫人は国内の敵対勢力や市民に気づかれないように慎重に準備を進め、用意ができたら一気に実行に移すにちがいない、とB52は言っています。しかも最悪の場合、イギリス軍を乗りこませるつもりかもしれないとも」

「なんだって、イギリス軍を中国に?」

「ええ、あくまでB52の憶測ではありますが」

「そりゃあまりに非現実的だよ」元脚本家の魯漠が笑った。

「西側の国が中国に襲来するなんて」

「B52はなにもイギリスが大っぴらに戦争をしかけて来るとは言っていませんよ」

 若趙丹は苦笑を浮かべた。

「イギリス軍は人命救助を名目として中国にむかって来る可能性があるという話なんです」

「人命救助?」

「イギリスの新聞では、現在の中国は内戦の真っ最中で多くの人民が犠牲になっていると伝えられています。国交のない国に軍隊を派遣するためには人命救助はいい口実ですよね」

「それでMI6の記者がイギリスにデタラメニュースを流したのか」

 魯漠が言った。

「軍が中国に派遣されるのは正しいことだとイギリス国民に信じさせるために」

「いい所に気づきましたね」

 若趙丹は大先輩に対して先生が生徒に言うような口調で言ったが、魯漠は別段気を悪くしたようすもなく、

「ああ」うなずいて言った。

「君が来る前に石頭が『ロンドンタイムズ』の中国ニュースをさんざん読んでくれたからね」

「驚いたでしょう。ひどいでっちあげです。内容は江青が考えたようです。B52はとても怒ってました。江青はそこまでして、自分が中国の指導者になりたいのかって」

「江青が新一九三〇年代化政策を推進したのは、藍蘋を一流女優にするためだと思っていたけど、そうじゃなかったのかしら」

 黄宗玲が首をかしげると、石頭が言った。

「それも一つの目的ではあったかもしれませんが、あくまで付随的なものだと思われます。江青の真の狙いは、やはり江青自らが最高権力者になることにあるんでしょう」

「それが事実なら、許せない。イギリスの力を後ろ盾にして権力の座につこうなんて、江青は真の裏切り者じゃない」

「まったくふざけた話だ」

 夏雲湖も憤慨し、若趙丹に妻子を失った恨みをぶつけるように言った。

「君の上司はそこまで推測しておいて、なぜなにもしない? B52とやらは党幹部の有力者なんだろう?」

「決定的な証拠がつかめていないからです」

 若趙丹は苦い顔で答えた。

「B52は江青がイギリスと通じているという証拠をつかませに僕を上海に送りこんだんですが、なかなか尻尾を出さないんです」

「でも君は江青がMI6工作員やその仲間のライスキーとかいう白人と接触している確証はつかんでいるんだろう?」

「一度だけ江青が北京路のレストランでライスキーと会い、親しげに話していたということは判明しています。が、それだけです」

「証拠はにぎれていないのか」

「ええ、これでもけっこう頑張ったんですが。そのうちに江青が例の証書をたてに権力をふりかざしだしたので、B52はまず江青の暴走を止めることを優先させようと考え、僕に証書を奪うことを命じましたが、僕はそれもしくじってしまいました。なんとか脱獄したはいいが、B52にこれ以上言い訳はできないから、さあどうしようと思っていたところに花旗さんや玉子さんと出会い、志を同じくする皆さんに紹介してもらったわけです。僕には皆さんの力が必要です。どうか仲間に入れて頂けないでしょうか?」

 若趙丹が哀願すると、

「・・・・・・わかった」鄭君里が言った。

「君を仲間に入れよう。みんなはどう思う?」

「そうだな、仲間にしてやってもいい」

 元映画関係者たちはうなずいた。

「それじゃ皆さん、若趙丹を会員として認めてもらえるということで?」

 玉子があらためて確認すると、

「はい」鄭君里が代表してうなずいた。

「僕たちの目的を達成するためには、有力者とつながりのある彼がいてくれた方が安心ですし」

「ありがとうございます」

 若趙丹は丁寧に礼を述べたが、ふいに言った。

「実はもう一人、会に加えてもらいたい人がいるんですか」

「なに?」夏雲湖が眉をあげると、

「遅くなってすみません」

 若趙丹はそう詫びつつ、奥の階段にむかって声をはりあげた。

「もういいよ、入って来て」

 すると階段を降りる足音が聞こえ、地下室に一人の人物が降り立った。蝋燭の光に徐々に浮かび上がる娘を見て、玉子たち物乞い組の四人以外は全員目を疑った。

「あれは・・・・・・」

 薄汚れてはいたが、整った顔立ちには皆見覚えがあった。

「もしやあの娘は・・・・・・」

 鄭君里が口にしようとした名前を玉子が察したらしく笑顔でうなずいた。それに反し、黄宗玲とその後ろにいた小莉は眉をしかめ、ひきつった表情をしていた。

「あの娘」

 小莉は物凄い目つきで今入って来た娘を睨んだ。

 しかしその娘は動じることなく堂々と歩いて来て、若趙丹の横に立った。皆の視線が一点に集まった所で、若趙丹が改めて紹介した。

「皆さん、こちらは蓮英さんです」

「これはいったいどういうことだ。この女を仲間に入れろというのか?」

 夏雲湖が激昂した声を発した。娘菊花こと洛貞を殺した犯人だと思っているだけに敵意がむきだしになっている。

「そいつは裏切り者として吊るし上げにあい、その後監獄に入れられたはずだ。君はその女と一緒に脱獄してきたのか」

「囚人同士は会えないはずなのに蓮英とは脱獄できたのね」

 黄宗玲も嫌味を吐いた。

「男と女が別の棟に収監される監獄から女の蓮英は連れ出せて、男の趙丹とは接触もできないなんて馬鹿な話がある? 若趙丹、あなた嘘をついたのね。それとも婚約者という噂の蓮英は特別だから頑張った?」

「ちがいます。別々に脱獄して、後からたまたま石頭さんの所で一緒になっただけです」

「それは嘘じゃありません」石頭がうなずいた。

「脱獄した蓮英は撮影所近辺に戻るわけにはいかず、頭・・・・・・玉子を頼って外灘に来ました。それで玉子は若趙丹と一緒に彼女をかくまってやったんです」

「皆さん、蓮英さんは有能な女性です」若趙丹が言った。

「非常に心強い味方になることは僕が保証します。だからどうか彼女も仲間に加えてもらえませんか?」

「冗談じゃない」夏雲湖が即座に拒否した。

「私も、真っ平ごめんです」小莉も賛同する。

「その女は人殺しだ」夏雲湖が憎悪に満ちた声で言う。

「証拠ならある。車夫仲間が教えてくれた。赤いフォードが撮影所付近を暴走したとき、たまたまそばを通りかかった彼は、轢かれかけた男女が怪我をしていたら病院まで運んでやろうと思い、近づいて行った。すると目の前にいきなり広告で見たことのある女優――すなわちその女が現れ、黄包車に乗ると言った。そしてその場に彼を待たせると、二人の男女――つまり若趙丹と苑玲に声をかけた。その女はやがて苑玲から引ったくるようにして若趙丹を黄包車に引っ張り込むと、漢口路まで走らせたが、道中こうつぶやいたのが彼の耳に入ったそうだ――『苑玲も顔が傷ついちゃ終わり。残ったのは、ついに私だけになった』。その言葉こそ、その女が苑玲を自動車で襲い、さらにその十日前の九月五日、ワインショップで他の対手を殺したあかしだ」

 そのときはじめて蓮英が口を開いた。

「私はそんなことは口にしていません」

「嘘をつくな!」夏雲湖は蓮英に指をつきつけて言った。

「もう一度言ってやろう。あんたは人殺しだ」

 そのときだった。

「黙れ!」

 誰かが叫んだ。玉子だった。玉子は物凄い形相で言い放った。

「蓮英は人殺しではない! 無実だ! でなかったら私がかくまってやるわけがないっ」

 元映画関係者たちはあっけにとられた顔で玉子を見つめた。地下室の空気が張りつめる。

「あれれ」老鴉がわざとおどけた声を発し、

「ちょっと魯漠さん、今、顎をさすったでしょう。いけませんねえ、触れちゃあ。頭は敏感ですよお」

 そう言って目で無精髭を示した。とたんに玉子が言った。

「馬鹿者! 髭なんてどうでもいい」

「え、なんですって頭・・・・・・」

「私が言いたいのは、蓮英は人殺しではないということだ! ハアハア」

 夏雲湖が反論しようとすると、鄭君里が遮り、玉子の肩に手を置いて言った。

「玉さん、どうか落ち着いてください」

 玉子の息がどうにか静まったのを見て鄭君里は言った。

「蓮英さんがあなたにとって大事な人間なのはわかります。あなたは今蓮英さんが無実だと言いましたが、皆が知らないことを知っているのなら、教えてもらえませんか?」

 すると玉子は腹を決めたように言った。

「わかりました、話しましょう。蓮英いいな?」

 蓮英がうなずくと、玉子はあらたまって皆の方を向いて言った。

「先程は取り乱してすみませんでした。私は蓮英が人殺しではないということを、どうしてもわかって頂きたいんです。そのためにはまず蓮英が本当は誰の子かということから話さねばなりません。蓮英は周同志の隠し子だと報道されましたが、その報道が行われる以前は・・・・・・私は一部の人たちに対して、蓮英は自分の娘だと話していました」

 それを聞くなり夏雲湖が色をなして、

「蓮英は君の娘だったのか?」

 つかみかからんばかりの勢いで迫ったが、

「今から話します」玉子は落ち着いた声で言葉を継いだ。

「皆さん、真実を言えば――蓮英はどちらの娘でもありません」

 一同はざわめいた。

「玉さん、それは本当?」

「はい」玉子は真顔でうなずいた。

「蓮英は蘇州の出身で、本当の父親はそちらにいます。ですが蓮英が私にとっても周恩来同志にとっても大事な人間であるということに変わりはありません。私と蓮英は新一九三〇年代化政策の施行前は、講師と生徒という間柄でした。もしかしたら知ってる人もいるかもしれませんが、私は当時明星映画学校で演技指導をしていたんです。自分で言うのもなんですが熱心な講師でした。特に二年前、妻と十五歳の娘を交通事故で失ってからは、生徒を育てることで悲しみをまぎらわそうとしていたので――」

「奥さんと娘さんを・・・・・・お気の毒に・・・・・・」

 黄宗玲が同情を表すと、玉子は軽く頭を下げてから言った。

「そんな私が一番真剣に指導した生徒が、蓮英だったんです。この娘は女優志望で素質がありました。しかし私を惹きつけたのは、彼女の立ち居振る舞いがどことなく死んだ娘に似ていたことでした。はじめて会ったときにひと目でそう思った私は、蓮英を実の娘のように熱心に指導しました。蓮英も私を父親のように信頼してついてきてくれ、どんどん実力をのばしていったんです。ところが新一九三一年がはじまって皆離れ離れになり、私は再び喪失感に襲われることになりました。だから彼女が蓮英という名で『銀花』の選考会に出ると知ると、矢も盾もたまらず見に行ったわけです。彼女が周恩来同志のもとで働いているのを知ったのは、そのときでした」

「え、その女が周恩来同志のもとで働いている?」

 王春泉が口をはさむと、玉子は決然と言った。

「その件について皆さんに話すにあたっては、絶対に会の外には洩らさないと約束して頂かねばなりません」

「ああ、約束する」皆口々に言った。

「誰も口外などしませんよ。この会の会員が秘密を洩らさないことはご存じでしょう」

 鄭君里が言うと、玉子はうなずき、一人ひとりの顔をじっと見つめてから言った。

「では皆さんを信じて話しましょう。実は――蓮英は一種の秘密組織に所属しています。調研小組と言って周恩来同志が創設した、上海での江青の動きを監視することを目的とした組織です。蓮英は三〇年代の人気女優王瑩に似ているという理由でメンバーに選ばれました。蓮英に与えられた任務は、『銀花』に出演し、藍蘋こと苑玲の後ろ盾となっていた江青と接触することです。実は江青は、若い頃に王瑩に主役の座を奪われたことがあったそうです。そんな江青の前に王瑩を彷彿とさせる蓮英が現れたら、江青は冷静でいられるはずがありません。きっとボロを出すこともあるだろうということで、蓮英は撮影所にいる間は、江青の行動を逐一小組に報告していました」

「そうだったんですか」鄭君里が驚いた顔をして言った。

「僕は周同志を支持する会を組織していながら、周同志がそんな秘密組織を作っていたとはいっこうに知らなかった」

 他の会員も同じ思いと見えてうなずいている。

「皆さん、わかって頂けたでしょうか」玉子は言った。

「蓮英は調研小組に属する、周同志に忠誠を誓った身です。ですから周同志を支持する会の会員やその家族を始末しようとするはずがありません」

「蓮英はこの会の存在を知っていたのか?」

 譚友五が聞く。

「ええ、蓮英は誰が会員か、会員の家族が誰かということまで調研小組の情報で知っていました。だから夏雲湖さんの奥さんや洛貞さんはもとより、張陽夫妻やその娘の安さん、小莉の両親を殺したりするはずがないんです」

「しかしそれだけじゃ蓮英がワインショップ事件の犯人ではないという証拠にはならない」

 夏雲湖が言うと、

「真犯人を言いましょう」玉子が言った。

「知っているのか?」

「はい」

「誰だ?」

「江青です」

「な、なんだと?」

「蓮英が殺人犯という話も、周恩来同志が間諜という話も、みんな江青のでっちあげだったんです」

「そんなことが、どうしてわかった」

「蓮英が話してくれました。周同志がフランスクラブでアメリカ人と取引したというのも、ハリウッド映画の人間に会ったというのも、蓮英が隠し子というのも真っ赤な嘘だと。もっともそれについては聞くまでもなくわかっていましたが」

「その女の言うことなど信用できるのか。第一江青が犯人という証拠はあるのか?」

「あります」蓮英が言った。

「どんな証拠だ、え?」

 目くじらをたてる夏雲湖に、蓮英は落ち着いた態度で答えた。

「撮影所には周同志側の人間はもちろんですが、江青側の人間も潜り込んでいます。私は江青の手下である美術係に声をかけ、酔わせて事件のあらましを聞き出しました――その男は他の手下と一緒に警官を装って皆を射殺したと」

 誰が聞いても本当のことを言っているとしか思えない口調で蓮英は告白をつづけた。

「証言はポケットに忍ばせた小型録音機にきっちりと録音しました。私はそのことを周同志に電話で報告し、美術係を調研小組の仲間と始末した後、秘書にテープを届けに行ったんです。ところが秘書が江青側に寝返っていて私は逮捕され、テープを奪われてしまいました」

「そして蓮英は無実の罪で吊るし上げにあい、周同志はあられもない汚名を着せられて自宅軟禁になったというわけなんです」

 玉子が補足した。

「そうだったのか」一同は納得のいった顔をした。

「周同志も蓮英さんも無実の罪を着せられていたのね」

 黄宗玲が言い、

「僕の娘を殺したのは江青の手下だったのか」

 夏雲湖が憤りを新たにした顔で言った。

「はい」蓮英がうなずいて言った。

「江青は藍蘋を『銀花』の主演女優にする目的で、最終選考会の日に藍蘋の対手など邪魔な人間を一箇所に集め、殺させたんです」

「それじゃ――」夏雲湖は愕然とした面持ちで言った。

「僕が最終選考会前に聞いた、『反体制派が上海の一部の人間を北京に脱出させる計画を立てている』という話は、江青の罠だったということか?」

「そうです」

「私はそんな話、聞かされなかったわ。夫・・・・・・阿三も店に行かなかったかったみたいだけど、彼もなにも知らされなかったのかしら。なぜ。夏さんは誰に教わったの?」

「君の娘だよ」

「え?」

「僕に脱出計画の話を伝えに来たのは苑玲さ・・・・・・そうだ、そう考えると不思議だ。君たち一家はいったいなぜ、一人も店に行かなかった?」

「どうしてそんな目で見るんです?」黄宗玲は声を震わせた。

「自分の胸に聞いたらいい。君の娘は、江青の手下じゃないのか?」

「苑玲が江青の手下ですって?」黄宗玲は金切り声をあげた。

「今考えれば思い当たることばかりだ。苑玲は、最終選考会の一週間前に話を伝えに来た。その際、人力車会社に電話をして僕の黄包車を貸切にした君の娘は、なぜか僕の黄包車の鑑札番号まで知っていたという。しかもそういえば、あのとき苑玲は若い唐納と一緒だった。若い唐納が江青の間諜なら、一緒にいた君の娘も仲間ということだろう?」

「いいえ! 苑玲が江青の味方なわけがありません。あの子はなにも知らなかったはず。話を伝えに来たのは、純粋にその計画を信じていたからに決まってます。きっと若い唐納だか江青だかにだまされていたんですよ」

「それじゃ当日君の娘がワインショップに行かなかったのは、なぜなんだ?」

 夏雲湖はつめ寄った。答えられない宗玲のかわりに玉子が言った。

「あの日、私は会場にいたから知っていますが、苑玲は選考会の後に店に行こうとしていましたよ。それを江青が控室に閉じこめて出られなくしたんです。江青は苑玲の藍蘋を主役にするために対手を殺そうとしていたのだから、その場に苑玲を行かせて死なせるわけにはいかなかったんでしょう」

「ね、苑玲は無実よ」

「無実なものか」夏雲湖が叫んだ。

「ありもしない計画を妻子に伝えて、死なせた人間が」

「奥さんと娘さんに伝えたのは苑玲じゃありません」蓮英が言った。

「娘さんに計画を吹き込み、苑玲を父親に伝える係にしたのは、その女です」

「なんだって」一同は蓮英が指差した人物を見て驚きの声をあげた。

「小莉」夏雲湖が言った。

「・・・・・・今の話は本当か?」

「答えなよ」

 蓮英は小莉を睨みつけ、吊るし上げにあったときの恨みを晴らさんとばかりに声をはりあげた。

「皆さん、ぜひその人に直接聞いてみてください。計画の話は誰から聞いたのか。誰が私たちを店に行かせるよう命じたのか」

 小莉は目をそらした。

「どうなんだ小莉」夏雲湖が聞いた。

「答えてくれ。計画の話を君に伝えたのは誰だ?」

「蓮英の言うことを信じるんですか?」小莉は怒ったように言った。

「選考会に出演した娘に脱出計画の話を言って回ったのは私じゃありません。蓮英です」

 一同は再び蓮英を疑う顔になった。

「皆さん、だまされないでください」蓮英は必死な口調で言った。

「その娘が、店に集まった人間の中で一人だけ生き残ったのはなぜか、考えてみてください」

「そういえば。現場は相当の銃撃を受けたというのに、小莉だけは無傷だった・・・・・・」

 皆の疑惑の目は再び小莉に戻った。

「小莉、君はひょっとして江青の・・・・・・あれなのか?」

 夏雲湖が聞いた。

「ひどい」小莉は泣きそうな声で言った。

「生き残ったからって、私が江青の間諜だと言うんですか」

「間諜とは誰も言ってないよ」蓮英が鋭く言った。

「自分から言ったね」

 すると夏雲湖が小莉につかみかからんばかりの勢いでつめ寄った。

「君は江青の間諜だったのか?」

「ちがいます」小莉は叫んだ。

「私は敵じゃありません。決めつけないでください。私は両親を殺されたんですよ! 私が江青の手下で殺人計画を知っていたら、両親を店に行かせたりすると思いますか? みんなして・・・・・・あんまりです」

「悪かった」夏雲湖は小莉の肩に手を置いて詫びた。

「ごまかそうたってそうはいかない」

 蓮英がはねつけるように言った。

「ご両親が亡くなったのはお気の毒だと思うけど、あなたが洛貞や安に偽脱出計画の話をしたという事実は変わらない」

「私は伝えるよう命じられただけだよ」

 小莉が言うと、蓮英は顔を輝かせて言った。

「あんたが計画を伝えたことを認めたね。いくら皆をだまそうとしても、今日ここで話されたことが江青に伝わり、それが原因で周の会に危険が迫るようなことがあれば、あなたが間諜だと証明されるんだから」

「まだ私を間諜呼ばわりするの?」

「これ以上小莉を責めるのはよそう」夏雲湖が言った。

「他にまだ疑うべき人間がいる。その一人が苑玲だ。両親ともワインショップに来なかった理由はなんなのか、黄宗玲さん、聞かせてもらおうか」

「だから私は計画の存在すら知らなかったと言ってるじゃないですか」

「それは本当です」小莉が言った。

「母親に伝える係だった洛貞が言ってました。姐さ・・・・・・黄宗玲さんに会いたくても、妓楼に入れなかったと」

「僕の娘が、母親に伝える係だった?」

 夏雲湖はにわかに色を失った。

「ええ。四人のお母さんに計画を伝えたのは洛貞さんです」

「そんな・・・・・・」夏雲湖は打ちのめされたような顔をした。

「でも安心して下さい。洛貞は江青の手下ではありません、苑玲とその両親同様に」

 夏雲湖は黙り込み、しばらくすると黄宗玲にむかって言った。

「君たちを一方的に責めて悪かった」

「わかってくれる? 私たち一家は無関係だと」

「だとしたら、趙丹はなぜ集合場所に行かなかったんだろう?」

 譚友五が口をはさむと、玉子が答えた。

「阿三は私が行かせないようにしたんです。苑玲が脱出計画の話を伝えに来たとき、阿三はたまたま留守でした。それで私から伝えるように頼まれたんですが、そうしなかった」

「なぜ」

「どうも臭い話だと思ったからです。一度は苑玲が家族と一緒になりたいあまりにこんなことを企てたのかとも思いましたが、考えてみればこの時世、若い娘が父親たちの居場所を簡単につき止められるはずはありません。そんなことができるのは権力者しかいない、と私は気づいたんです。それで脱出計画は罠だ、と直感的に思ったわけです」

「だから趙丹には伝えず、自分も行かなかったと?」

「そうです。だいたい私が蓮英の父親扱いされたこと自体に疑問を持ったもので。『脱出計画』を考えた人間は、なんのつもりで私を蓮英の父親としたのか。私と蓮英が北京で仲睦まじく暮らすことを願ったためとは到底思えなかったのです。そしたら案の定、予感はあたって、あの悲劇が起きました」

「店に行った人間は不幸な目に遭うとわかっていたのか。だったらなぜ洛貞たちにも警告してくれなかった?」

「夏さんも危険と思ったんですよね。だから行かなかったのでは?」

「いや、僕も行こうとしたさ。でも監視の目がきつくて抜け出せず、結局時間に間に合わなかった。計画は本物だと思い込んでいたから、すごく悔しくて、妻と娘だけでも無事北京にたどり着けますようにと祈っていたくらいだ。しかし玉子、君はちがう。危ないと察していたのに知らせてくれなかった。事前に言ってくれたら、妻子や仲間は死なずにすんだじゃないか!」

「そのとおりです。皆に伝えていれば――私はそうなん度も自分を責めました」

 玉子は苦渋に満ちた顔で言った。

「でもあのときは悪い予感を感じただけだったんです。それにまさか殺されるとまでは思ってもみなかったので・・・・・・でもそんなのは全部言い訳にすぎないとわかっています。私は一生、あのときの自分の行動を後悔しつづけるでしょう」

「私もです」蓮英が玉子に負けないくらい沈んだ声で言った。

「脱出計画の話を聞いたとき、私も危険な匂いを感じ取ったのに、菊花や白露に伝えなかった。それでみすみす集合場所に行かせたことをずっと後悔しています。言っておけば七人も死なずにすんだのにって自分で自分が許せなくて。だから犯人扱いされても我慢しようと思ったんです」

 その言葉に偽りはないと思われた。

「どうやら、あんたは本当に犯人じゃないようだ」

 夏雲湖が言うと若趙丹が声を弾ませて言った。

「それじゃ、蓮英の仲間入りは認めてもらえますね?」

 夏雲湖が一拍おいてから腹を決めたように言った。

「ああ、反対はしない」

 若趙丹は顔をほころばせて言った。

「ありがとうございます。夏雲湖さんも認めてくれましたが、皆さんは、蓮英を周同志を支持する会の会員にすることに賛成してもらえますか?」

「私からもお願いします」

 玉子が口添えした。元映画制作者たちはたがいに顔を見合わせると、やがてうなずいた。

「いいでしょう」

「蓮英を会員として迎えましょう」鄭君里が代表して言った。

「ありがとう」玉子が満面に笑みを広げ、蓮英にも礼を言わせた。

「ということで皆さん」若趙丹がはりきった顔で言う。

「すみませんが、もうちょっとだけ輪を広げて、その辺に蓮英を座らせてもらえますか」

「蓮英が会員になって本人よりも君の方がうれしそうだな」

 王春泉がからかうように言うと若趙丹は言った。

「誤解してもらっちゃ困りますよ。僕と蓮英はあくまで友だちですからね」

「ただの友だちと言いきれるかな?」譚友五もひやかす。

「友だちとはちょっとちがうかもしれません。あえて言えば信頼し合っている同志ですよ」

 若趙丹が言うと、蓮英がうなずいて言った。

「私たち、上司はちがいますが、二人ともむかうところは同じだったので、協力しあっていたんです」

「へえ、君たちは早い段階からたがいの正体を知っていたんですか」

 魯漠が言うと、若趙丹が答えた。

「おたがい相手がただの役者じゃないということには、すぐに気づきました。それで、協力した方がなにかと都合がいいと相談したんです。でも恋愛関係ではありませんよ。新聞で婚約すると発表したのは、僕たちの正体がばれないようにするための偽装でした」

「これからは会員同士、まあよろしくお願いします」

 地下室がなごやかな雰囲気に包まれようとしたとき、階段から男が一人下りて来て老鴉のもとに駆け寄り、なにやら耳打ちをした。男は地上の監視のために出していた物乞い組の一員だった。報告を聞いた老鴉はさっと顔色を変え、男が離れるなり玉子にむかって言った。

「頭、問題発生です」

「どうした」

「張橋が現れたそうです。施粥の取材を装っているそうなんすが、魂胆はわかりやせん」

「私たちを探りに来たのかもしれない。しかしなぜここがわかったのか」

「小莉が知らせたに決まっているじゃないですか」

 蓮英が言うと、玉子は小莉を射抜くような目で見てから、一同を眺め渡して言った。

「今日はこれから作戦を立てる予定でしたが、やめた方がよさそうですね」

 鄭君里も小莉を見て、元映画関係者を代表する形で同意を表した。

「そうですね。日を改めた方が」

「それじゃ次回の場所と日にちは私から追って知らせます」

 玉子が言うと、

「今度は小莉に知られないよう十分注意しなきゃだめですよ」

 蓮英が言った。小莉が文句を言おうとすると、玉子が言った。

「とりあえず解散」

 それを合図に一同は、地上の見張りの手引きで、張橋が建物に注意をむけていないときを見はからって一人ずつ地上に上がり、人びとの群れに紛れ込んで益善堂を後にした。

 黄宗玲もそのはずだった。ところが群衆に溶け込む寸前に張橋こと楊拓が黄宗玲を視界に入れ、蛇のような目を光らせて近づいて来た。黄宗玲は金縛りにあったように動けなくなった。

「はははは、奇遇ですね」楊拓はしらじらしくも言った。

「香春さんがこんな身なりをしているとは驚きましたよ。なにをしているんです?」

「なにも・・・・・・お粥をもらいにきただけです、杏花楼の近所の貧しい人のために」

 黄宗玲はとっさにそう言ったが、楊拓は、

「へえ、わざわざこんな遠くまで。たしか杏花楼のそばには正心堂という立派な慈善機関がありましたよね?」

 黄宗玲の顔色の変化を楽しげに眺めて言った。

「それなのにこんな所まで来るなんて、おかしくありませんか?」

 黄宗玲はいたたまれなくなったようすで、

「失礼します」

 そう言って立ち去り、益善堂の門をくぐり抜けたが、そのとたん張橋の合図を受けて外に待機していた民警に捕まった。


「小莉が来てるって、どういうことですか?」

 蓮英は会場に入るなり文句を言った。

 前回の会合から三日目、一同は玉子からの連絡を受けて再び一つ所に集まっていた。今回の集合場所は前回の益善堂ではなく、同じ南市でも北に位置する仁済堂だが、管理人が物乞い組の一員で、建物に地下室がある点では一緒だった。今日はそこで施布(シーブー・・・貧しい人に衣料を施すこと)が行われるというので、玉子が呼び出した面々は例によって貧しい身なりに扮してなかに入り、地下室に潜り込んだのだった。

「小莉を参加させるなんて」蓮英が甲走った声で言った。

「民警を招くのも同然ですよ」

「その点なら心配はいらない」玉子が言った。

「どういう意味ですか」

「後で話す」

 不満げな蓮英を放って玉子は言った。

「それじゃはじめましょうか。ええと、まず、皆さんに良い知らせと悪い知らせの両方があります。悪い知らせの方は――すでにほとんどの人が知っていると思いますが――陳香春こと黄宗玲さんが前回の会合の後、人民警察に捕まったことです」

「彼女が拘置所で拷問を受けてるというのは本当ですか」

 鄭君里が聞くと、玉子が答えた。

「前回の会合の情報が警察に洩れていたとすれば、その可能性は否定できません」

「やっぱり小莉が洩らしたんだ」蓮英が金切声をあげた。

「蓮英、小莉の話は後だと言ったろう」玉子が制す。

「今は黄宗玲さんの話だ」

「わかっています。黄宗玲さんは今ごろ仲間の名を吐けとか、なにを話していたのかとか脅されているんでしょう。あるいはとっくに全部吐いちゃったかもしれないですね」

「黄宗玲は芯の強い女性だから簡単には折れないはずですが――」

 鄭君里が言うと、玉子がうなずいて、

「とはいえ彼女の身が心配です。仲間を見捨てるわけにはいきません。黄宗玲さんの救出も急ぎましょう。ただし、その話をする前に良い知らせを一つ」

 そう言うと奥に向かって誰かに呼びかけた。

「どうぞ、来てください」

 すると階段から一人の男が現れ、蝋燭の光に姿を浮かびあがらせた。奥から近づいて来る初老の男の顔は汚れ、体はやつれて痩せている上にボロをまとってはいたが、その笑顔や身ごなしには誰もが見覚えがあった。

「阿三!」叫んだ老鴉や花旗たちにつづき、

「趙丹!」

 元映画関係者たちが声を張り上げた。奥から近づいて来る初老の男はまぎれもない、本物の趙丹だった。

「やあ、みんな」

 以前と変わらない、さわやかな声、さわやかな笑顔だったが、その顔が鄭君里と目が合ったときだけこわばった。鄭君里は当局に強制されて仕方なく妻黄宗玲と交わったのだと趙丹は自分に言い聞かせたが、以前のような気持ちで接することはできないのだった。

「驚いたよ。元気そうでなによりだ」

 鄭君里は笑顔で歩み寄ったが、鄭君里の方も親友の妻と寝た罪悪感は隠し切れず、どこかぎこちない。

 二人の間に気まずい空気が流れているのをよそに、一同は再会の喜びにわいている。

「趙丹、どうやって出て来た。君も若趙丹のように脱獄して来たのか?」

 うれしげに聞く王春泉に趙丹は答えた。

「いや、それがね、釈放されたんだ」

「え、釈放?」

「僕もびっくりしている。理由も言われず突然だった。妻が逮捕されたその日に釈放されるとは皮肉なもんだよ」

「皮肉というより、異常だ」夏雲湖が言った。

「普通家族が罪に問われれば連帯責任を負わされて自分も無事でなくなるはず。妻が監獄に入れられた日に夫が釈放されるなんてありえるのか」

「変だろう。なにか陰謀があるのかもしれない」

「そもそも君はどうして監獄に入れられた?」

「そうだ、教えてくれ、趙丹。君の日記を若い唐納が玉さんに届けに来て、僕たちは内容を聞かせてもらった。君の部屋に白人が入った後、なにがあったんだ?」

「あの日、十一月六日――」趙丹は話しはじめた。

「白人はいきなり僕の日記を奪って外に出た。だから僕はその白人をつかまえようと追いかけたんだ。そしたら、そのようすを見ていた民警に分を越えた行為をしたというので捕えられて、監獄に入れられた。そうかと思ったら一週間後に――つまり三日前に説明もなくいきなり釈放。まったくわけがわからない。昨日からまた以前同様、撮影所の掃除夫をさせられているんだよ」

「例の江青のいる撮影所で?」

「そう」

「今日はよくここに来られたな。というより、そもそもよく会合があることがわかったな」

「若趙丹が危険を冒して僕の里弄に知らせに来てくれたんだ」

「若趙丹はなぜ君が娑婆に戻っていると?」

「撮影所が縄張りの物乞いが僕が戻ったのを見て頭に知らせてくれたから」

 趙丹が説明するのを、若趙丹がひきとって言った。

「そのとき僕は玉さんの所にいて『阿三の家まで会合のことを知らせに行ってほしい』と言われたので危険を承知で喜んで行ったんです。趙丹さんは必要な人材ですし」

「そりゃ僕は妻を救出できるならなんでもするつもりだからね」

「まあ阿三、座って座って」

 玉子は趙丹が隣に腰を落ち着けると、一同にむかって言った。

「心強い仲間が加わったところで皆さん、本題に入ろうと思いますが、よろしいですか」

「どうぞどうぞ」元映画関係者たちは快活に言った。

「それじゃ若趙丹、はじめてくれ」玉子が言うと、

「あのその前に、ちょっと聞きたいんですけど」

 蓮英が引き裂くような声で言った。

「なんだ蓮英」

「小莉の前で大事な話をしたら敵に筒抜けになりませんか?」

「その点は大丈夫だとさっき言ったろう」

「なぜですか。今説明してください」

「私から言います」小莉がたまりかねたように言った。

「そうです。これまで私は江青側の人間でした。・・・・・・でもようやく気づいたんです。私はいいように利用されていただけだったんだって。ワインショップの計画は江青に通じる人物からの命令でした。この間、私が江青側の立場だということを必死に否定したのは、なんの罪もない人たちが虐殺された責任を問われるのが恐ろしかったからなんです。ただ、その場限りの嘘をついたところで、事件に加担していた事実は消えません。本当はワインショップの一件以来、ずっと悔やんでも悔やみきれない思いでいっぱいでした。あのとき皆と一緒に死んでいればよかった。いっそのこと、死んでしまおうかって思いつづけてきました」

 小莉は流れる涙をふこうともしなかった。

「でもやっぱり死ねなかった。そしてこの間の会合の後に思い直したんです。無駄に死ぬくらいなら、皆さんに私の命を預けようって。それで玉子さんにぜんぶ打ち明けて今ここにいるんです」

「たしかに小莉は変わった」玉子が言った。

「その証拠に先日の会合の内容が張橋や江青の耳に入った形跡はない。だから僕は彼女に機会を与えることにした」

「本当に信用して大丈夫なんですか?」

「蓮英、もういいだろう。若趙丹、待たせて悪かったな。はじめてくれ」

「わかりました」若趙丹は応じて言った。

「皆さん、僕はこの前お話ししたとおり、国家主席夫人の正体を明るみに出し、現体制を打破することを目的として、作戦を考えてきました」

「その作戦には妻の救出計画も含まれているのか?」

 趙丹がせかした。

「もちろんです。まず打倒江青作戦の概要からかいつまんで言いますと、江青がイギリスと通じているようすを上海市民に見せ、暴動を起こさせて現体制を崩壊に導くというものです」

「いい考えだが、そんなことができるのか。そもそも現場を押さえること自体が困難だというのに」

「ですから、舞台をこちらで用意するんです。つまり罠にはめるんですよ。もっとも江青にはつねに警官や八三二一部隊がついているから、簡単ではありません。しかし作戦実行日を『銀花』の野外撮影の日に設定すれば話は別です。その日は江青が南京路で女主人公の月蛾を演じるということで八三二一部隊も民警も大勢、周辺の警備に回るでしょう。南京路から離れた監獄にいる黄宗玲さんも救出しやすくなり一挙両得です」

「なるほど。うまい考えだ」

「江青には偽取材を受けてもらいます。雑誌『ヴォイス』の記者としてイギリス人を用意し、その人物と江青が会っているところを、イギリスとの密通現場とします」

「そんなことが可能か?」夏雲湖が聞いた。

「江青は国家主席夫人だぞ。本物の記者の取材もほとんど受けないというのに」

「取材は表向きで、本当はMI6の呼び出しだと思わせたら、どうでしょう。江青がMI6なら命令にはどんなことがあっても従うはずです――たとえ指定の日時が、野外撮影当日であっても。それにMI6のことは党には秘密ですから、護衛を連れてくる心配もありません。取材場所を外灘のホテルにでもすれば、我々は江青を監獄から離れた場所に閉じこめることができるわけで、一石二鳥にも三鳥にもなります」

「その作戦はさだめし穴だらけだろうな」夏雲湖が言った。

「簡単に江青をだませるものか。仮にだませたとしても、江青が野外撮影の方を取材とは別の日に変更したらどうする?」

「野外撮影では、警備のために警察から軍隊まで大動員しなければならないわけですから、江青といえども、日にちは絶対動かせないはずです」

「なるほど。では仮に江青が撮影日に取材を受けるとしよう。だがそれで江青をホテルに閉じこめることができても、撮影現場に江青が姿を現さなければ、警備の人間どもが、いち早く異変を察知して動き出すはずだ。それじゃ結局、元も子もなくなる」

「大丈夫です。現場にはあらかじめ江青に扮した人物を置いて、警官たちに江青の不在を気づかれないようにします」

「偽江青の正体がばれたら、どうするんだ」

「万一に備え、我々は武装部隊を用意します。そのためには上海市外の応援を事前にとりつける必要がありますが、現在外部との通信は遮断されています。ですが方法がないわけではありません――」

 それから若趙丹はB52と連絡がとれた時点での国内情勢について話し、さらに知りうる限りの外国人の状況と、フランスクラブや当局に閉鎖されたテレビ局の建物の状況などを説明した上、偽取材の作戦の内容について詳しく述べると、

「どうですか?」皆に意見を聞いた。

「悪くないと思う」本物の趙丹が言った。

「その作戦なら妻を救えるのはもちろん、暴動を起こせる上に、今の状況を一気にくつがえせる可能性もある」

「しかし失敗したら命はない」

 夏雲湖はなお慎重さを見せたが、鄭君里が趙丹に賛同の意を表して言った。

「危険はつきものですよ。僕はこの作戦でいいと思います」

「でもこれだけのことを実現する資金が会にあるんですか?」

 蓮英が聞いた。

「心配はいらない」玉子が答え、鄭君里が説明した。

「僕は貿易会社で、王春泉は印刷工場で、魯漠は銭荘で、ひそかに裏取引をして資金を蓄えてきました。今や少なからぬ市民も反体制派なので、会社の仲間からも相当な資金が集まりました」

「そういうことで資金はあります」若趙丹が言った。

「僕の考えた作戦に反対の方はいらっしゃいますか?」

 手を挙げる者はなかった。夏雲湖は皆の視線を感じて言った。

「僕が挙手しないのがそんなに意外か? 別に反対はしない。ただ慎重にやるべきだ」

「ええ、慎重に進めましょう。ではとりあえず皆さん賛成ということで。早速ですが各自の役割を話したいと思いますが・・・・・・」

「なんだ、どうした」

「今さらですが大先輩の皆さんに僕が決めた役割を押しつけるのは、なんだか気が引けまして――」

「気兼ねせず、やってくれてかまわないさ」

 鄭君里が言った。

「それではお言葉に甘えて、遠慮なく指示させてもらいます。電気関係、電化製品を集めるのは、撮影技師の王春泉さんにお願いします」

「よし来た」王春泉はやる気十分な声を張り上げた。

「久しぶりで現代社会の家電に触れられると思うと腕が鳴る」

 若趙丹はほっとした顔をすると、つづけて発表した。

「それと通信班に二人。現在上海では外部との連絡は一切禁止されていますが、音楽家の譚友五さんに無線機での国内各地への連絡をお願いし、元新聞記者の石頭さんには徒歩で境界線を突破して他都市と連絡をとることを試みてもらいたいと思います。これがある意味一番過酷な仕事かもしれません」

「やるしかないんだから、やるさ」

 石頭は決然と言い、譚友五もうなずいた。

「軍隊対策はプロデューサーの夏雲湖さん、人民警察対策は女優志望の蓮英と小莉にお願いしたい」

「え、私が警察対策? しかも小莉と一緒に?」

 蓮英が悲鳴をあげた。

「冗談でしょ」

「僕も加わるよ」若趙丹が言った。

「ちなみに僕は映画監督志望です」

「ほう、若趙丹は映画監督になりたいんだ」王春泉が言った。

「こいつは鄭さん、しごいてやらなくちゃな」

「だめだめ。今度の作戦じゃいつの間にかまったくお株を奪われてしまったよ」

「鄭君里さん、あなたには野外撮影現場の指揮をとってもらいます」

「おおそれはそれは。僕は映画監督ですからね、そういうのは割と得意ですよ」

 一同が笑った。若趙丹は笑顔でつづける。

「次に大役――雑誌記者を装ったMI6の役ですが、これは江青と面識がない人でなければだめなので、老鴉と花旗にやってもらいます。つまり表向き老鴉さんにはイギリスから来た『ヴォイス』誌の編集記者に、花旗さんには同誌のカメラマンに化けてもらいます」

「俺にそんな大役が務まると思うのか?」

 老鴉がうろたえ気味に言った。

「英語もろくにできねえのに」

「あれあれ老鴉さん」若趙丹がからかい口調で言った。

「あなたは地仙でしょ。不可能はないはず」

「地仙?」映画人一同が怪訝そうな顔をした。

「なんでもねえっす」老鴉があわてて言った。

「頭がお遊びで言ってたのを本気にした俺が馬鹿だったんだ・・・・・・」

「だから、なんの話だ?」夏雲湖が睨みつけるような目をむける。

「すす、すみません、皆さん」花旗が割って入った。

「老鴉は頭が仙人だと信じていたんですが、ほ、本当は人間だと知って、お、落ち込んでるんです」

「なんだ下らん。子どもじゃあるまいし」

「どうせ俺は下らねえガキっす・・・・・・」

「老鴉さん、そうすねないで。元気を出してくださいよ」

 若趙丹が言った。

「あなたは本当は上海外語大の学生で、実は相当英語を話せるじゃないですか。それに演劇部に属していましたよね?」

「ど、どうしてそれを」

「言ったでしょう、僕はB52という大物の配下の者ですよ。北京と連絡がとれさえすれば誰の素性もつき止めるのは難しいことじゃありません。杭州生まれの花旗が香港に住んでいたアメリカ人に売られて養子になったことも、三年前脱け出して上海在住の叔母のもとに身を寄せたことも知っています」

「じゃおまえはずっと前から俺たちを調べてたのか?」

「阿三――趙丹さんと生活を共にしていた人たちですから自然と目が行きましてね。とにかく老鴉さんと花旗さんにはこれから一週間みっちりイギリス英語を特訓してもらって、口調や発音を身につけてもらいます」

 花旗は素直にうなずいたが、老鴉はなお困惑を表した。

「いくら英語がしゃべれたって俺たちの顔は東洋人丸出しだぜ。白人にゃ化けられるわけがねえ」

「容姿の問題は中華系英国人ということで解決します」

「仮にだぞ、イギリスの雑誌記者に化けられたとしてもだ、記者の皮をかぶったMI6になりきるのは不可能だろ。それこそ一言話したら、すぐに偽物とばれる」

「言うべき台詞は魯漠さんに台本形式で作成してもらいます」

「僕、英語を読むのはできるけど、書くのはだめだと思うな」

 魯漠が不安をあらわにすると、若趙丹が言った。

「中国語で書いてもらってけっこうです。それを中華系英国人が下手な中国語で話すというふうにすればいい」

「でも内容は? どうすればいいか僕にはよくわからないが」

「原案はMI6工作員をこちら側に抱き込んで作成してもらいます」

「その工作員とは」

「表向きはフランスクラブの事務員をやっている人間です。年は二十歳を少し出たばかり、MI6所属ですが若いせいか、いじめられているらしく、上司に敵意と反感を持っているものと思われるので、交渉しだいではこっちの味方になってくれるでしょう」

「そうだとしても、どうやってその人と接触するの? このなかの誰もフランスクラブには出入りできないんでしょ」

 蓮英が聞くと、

「うん、さすがの僕も入れない」若趙丹が答えた。

「だから唐納の力を借りる必要がある」

「え、唐納って、あの若唐納?」

「そう。フランスクラブに自由に出入りできるあの男を味方にするのが一番効率がいいと思うんだ」

「でも唐納って江青側の人間なんでしょ。そんな人に私たちの作戦に協力させようなんて自殺行為じゃ?」

「いや、唐納を完全に味方にする方法がある」

 若趙丹が方法を一同にむかって説明すると、蓮英が言った。

「それじゃ苑玲の協力がいるね。でも彼女は一日中江青と撮影所にいる。難しくない?」

「僕に任せてくれ」父親の趙丹が言った。

「なんと言っても僕は苑玲のいる撮影所で働いている」

「でも実の親子が接触するのは危険ですよ」若趙丹が言ったが、

「それもそうだし、掃除夫と女優の接触も禁じられているが、なんらかの手段があるはずだ。とにかくやれるのは僕しかいない」

「・・・・・・わかりました、お任せしましょう」若趙丹は言った。

「よし。一週間後には苑玲をとおして唐納を味方にしてみせますよ、皆さん」

 趙丹は張り切って言った。

「若趙丹、他に僕の仕事は? 僕だけまだみんなみたいな役を割りふられていないようだが」

「趙丹さんには大役がありますよ。僕たちがもう一つの作戦で敵を釘付けにしている間に黄宗玲さんを救出してもらいます」

「おお、それなら任せてくれ」


 苑玲は控室の鏡にむかって大きくため息をついた。

 心労と不規則な生活のせいで肌荒れと面疱(ミエンパオ・・・ニキビ)が目立っている。苑玲はまた一つ大きなため息をつくと、手ぬぐいをにぎり、磨く必要のない鏡を消しゴムを使うようにゴシゴシと力まかせにこすった。一か月前までは同じ鏡で私を美しく粧わせるのに夢中だったくせに。今ではこの鏡は江青専用みたいなもの。私は掃除するばっかりだ。

 考えれば考えるほど頭に来た。今では苑玲がカメラの前に立つことはほとんどない。江青は自分で私を藍蘋にしておいて、突然私から藍蘋の座を奪い取った。以来、自分が五十代なのを忘れたかのように若い女の役を演じつづけ、『銀花』の撮影を進めている。それでいて苑玲を毎日撮影所に付き添わせていた。苑玲は江青の単なる付き人か召使いも同然だった。

 こんなはずじゃなかった。先生になりたくて一生懸命受験勉強して教育大学に合格したのに。やっとこれからというときだったのに――。気づいたら生活も両親も奪われ、江青の囚われの身となって女優になった。しかも蓮英への憎悪をいたずらに煽られ、いつの間にか自分もその気になっていた。馬鹿だった。

 撮影前は、お父さんの名を騙る『銀花』の主演俳優に腹を立てていたのに、すぐに大好きになってしまった。新聞に婚約者と書かれていた蓮英に激しく嫉妬し、そのために理性を失って彼女を倒すことに夢中になった。そして蓮英から主役を奪い返すと喜びに酔いしれ、歌が売れるとスター気分を満喫し、映画女優としてやっていくのも悪くないと自惚れたりもした。

 でも今の私はちがう。どうして最初から江青が悪人で私をだましているだけだと気づかなかったのだろう。たぶん私は信じたかったのだ。私には本当に女優の素質があるのだと。江青はそれを見抜き、育てようとしているのだと。苑玲は毒気を吐き出すように三度目の溜息を荒々しくついた。もう、うんざり。ここから抜け出せたら、どんなにいいだろう。

 今の私の救いは、一度姿が見えなくなったお父さんが再び掃除夫として働いていることだけだ。苑玲は気をとり直して雑巾を置き、鏡と向き合って乱れた髪を直そうとヘアピンを外した。しかし誤ってヘアピンを化粧台の小物入れのなかに落としてしまった。なにしてるんだ、私。ヘアピンを拾いあげた瞬間、苑玲は自分がそもそもなぜ控室に入ったのかを思い出した。

 そうだ、パウダーケースをスタジオに持ってきてほしいと頼まれていたんだった。

 急いで小物入れから黄色い丸型のケースを取り出した。小さな入れ物の表面には花籠の絵が描かれ、裏には赤い筆記体で「Cherceh Midi」と商品名が書かれてある。ウビガンのシェルシュ・ミディか。江青は三〇年代のパウダーを特注してまで、若い頃の自分に戻りたいんだ。癪だから、ウビガンの口紅でももらっちゃおうか。さすがにそれはできず、鏡の前の壜にたくさん入っている江青のキャンディを一つくすねるだけで我慢することにした。自分の鞄にしまおうと奥の方に手をつっこんだとき、指先になにか硬い物が触れた。

 なんだろう・・・・・・これは手紙? 封筒にある「苑玲へ」という文字は江青の筆跡ではない。それが誰のものかわかった苑玲は指を震わせて封を切り、取り出した便箋を広げた。

 やっぱりお父さんからだ。きっと控室を掃除したときに入れたんだ。苑玲は急いで文章に目を走らせた。読み終わると、驚きと動揺を隠せなかった。

 お母さんが捕まった? 唐納が生きている・・・・・・? 父親に会って直接確かめたいと思ったが、それはするなと書いてある。

「苑玲、苑玲!」

 ドアの外から江青が呼ぶのが聞こえた。

 苑玲はびくっと体を震わせ、あわてて便箋を折り畳んだ。江青は自分が藍蘋を名のるようになってから、苑玲を元の名で呼ぶようになっていた。権力者だからこそ可能な行為だ。制作陣は苑玲を元の名で呼ぶわけにもいかず、江青が名のっている藍蘋と呼ぶわけにもいかず、仕方ないので「お嬢さん」と呼んでいる。江青の娘でもないのにと苑玲は思った。

「苑玲いるの?」

 江青がドアの外から苑玲の母親気取りのような声で我鳴っている。

「いるなら応えて!」

 苑玲は手紙を鞄の奥深くにしのばせてから答えた。

「はい」

「なんで応えなかったのよ。早く来てちょうだい」

「今行きます」

 苑玲はドアを開けて出ると、室内に置いてある自分の鞄が江青の注意を引かないうちに急いで閉め、片手に持った物を差し出して言った。

「パウダーです」

「そんな物、いらないわよ。なにやってんのよ」

「でもさっきは控室からこれを取ってくるようにと・・・・・・」

「いいから早く来て。ほら、そんなパウダーなんか置いて」

 苑玲は江青に睨みつけられながら、再びドアを開けて黄色いウビガンを置いて戻った。

「急いで急いで。あんたにカメラテストの被写体をやってほしいんだから」

 早足でスタジオに向かいながら江青はぶつぶつと文句を言う。

「あんたのせいで撮影が遅れるなんて冗談じゃない。今度私にあんたを迎えに行かせるような真似をしたら、ただじゃおかないわ」

 苑玲がある決意をしたのはこのときだった。


 次の水曜の朝、苑玲は控室のある建物の入口に立っていた。その日は雨が降っていたので傘を差していたが、ポケットにしのばせた物が濡れないか心配だった。

 すると門前に見慣れたロールスロイスが停車した。窓には毎度のことでカーテンがかかっており、中は見えない。

 すぐに運転手が現れて後部座席のドアを開け、中から出ようとする人物にむかって傘を差し出した。そこにいきなり、

「後は私がやりますから、いいですよ」

 苑玲が割り込んで言い、運転手を押し戻し、今まさに降りようとしていた江青にむかって、

「おはようございます」

 そうあいさつして傘と一緒にぬっと顔をつき出した。その瞬間、江青の奥にいる帽子をかぶった男の横顔がちらと見え、苑玲はあやうくあっと叫び出しそうになった。

 江青は苑玲に不審と怒りの眼差しをむけた。

「いったい、なんの真似?」

 苑玲はポケットに入れてある紙片を片手でぎゅっとにぎりしめ、

「雨が降っているので江青同志が濡れないようにと思って来ました」

 そう言いながら座席の奥にいる人物の横顔を懸命に盗み見ようとした。

「出迎えはいらないと言ったでしょ」

 江青は青筋を立てて叱りつけた。

「傘なら運転手で充分に間に合うんだから。私が到着する時刻は誰も外に出ないようにと言い渡してあるのを忘れたの?」

「いえ」

「だったら早く控室の前で待っていなさい」

 江青が後部座席の人物を隠そうとしているのは明らかだった。

「わかりました」

 江青は苑玲が建物に入るのを見送ると、運転手になにか言うため、顔のむきを変えた。

 苑玲はそのまま裏口に回り、外に出て、ロールスロイスの背後の木陰に隠れた。

 江青が降りて来て運転手の傘に守られ、建物に入るのが見えると、自動車の道路側の後部座席のドアをこっそり叩いた。窓のカーテンにわずかな隙間が出来、中から覗いた目が大きく見開かれると同時に、ドアが開いた。

 二人は瞬時、なにも言わずに見つめあった。やがて男が驚いた顔のまま口を開いた。

「見つかったら大変だ」

「本当に生きてたんだね。驚いた」

 苑玲は感激を表したが、男は冷たく言った。

「僕は君の残酷さに驚かされたよ」

「どういう意味?」

「すぐに運転手が戻ってくる」

 苑玲は男に紙片を渡してその場を離れた。


 翌日の撮影所で、苑玲が突然倒れた。衣装室で旗袍を試着しているときのことだ。

 江青は、体型の似ている苑玲に自らの衣装を着せ、あれこれ吟味することが多かった。そしてこの日は苑玲が着た旗袍は早くも十九着目を数えていた。二十着目、衣装係が硬い襟を喉元で合わせ、留め具をきつく締めた瞬間、苑玲はその場に倒れた。

「キャッ」衣装係は驚きあわて、苑玲の手をとって声をかけた。

「大丈夫ですか、ねえ、ちょっと」

 旗袍の留め具を外し、横にさせると、苑玲の口から呻くような声がもれた。

「貧血ですかね」

 苑玲の真っ白な唇と目の下の濃い隈を見て衣装係はそう判断した。

「やあね」江青はいまいましそうにつぶやいた。

「どうしたらいいのよ」

「今飲み物と薄荷を」

 衣装係が持って来た薄荷油のすーっとした香りを嗅ぎ、温かいお茶を喉にとおした苑玲は、少しだけ落ち着いたようすだった。だが目まいやふらつきなどは、しばらく休んでも治らないと見え、

「まだ気持ちが悪いです」苑玲は訴えた。

「病院に行ってもいいですか?」

「貧血ごときで?」江青は訝しげに言った。

「もっと悪い病気かもしれないので」

 以前の江青なら絶対に肯かなかっただろう。どんなに苦しくても、成功するためには休んではいけないと叱り飛ばしただろう。だが今の江青は以前ほど苑玲に目をかけようとはしなかった。

「ま、いいわ」

 江青の許可が出たので、衣装係が気を利かせてタクシーを呼んだ。

 撮影所から一番近い病院はサント・マリー病院である。


別名『フレンチ・ホスピタル』――租界時代にフランス人が作ったサント・マリー病院の内部は、新一九三〇年代化政策施行とともに、当時に近い形に復元されていた。当局の捕虜である白人医師と白人女性が、昔評判がよかったフランス人医師と修道女たちになりきり、中国人職員と一緒に患者に奉仕している。

 苑玲はその病院の循環器科の待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。とはいえ診察を受けるまでもなく、体調が悪化した原因は自分ではっきりとわかっていた。

 苑玲は前日、大量の献血をしていた。もちろん意図的にやったことだった。演技では江青に見破られる恐れがあったからだ。

 苑玲は待合室をなん度か見回したが、目当ての男は発見できずにいた。貧血で視界がいつもより曇っていたせいもあるかもしれない。いずれにせよ、ここにも民警は立っているので、不審に思われるような行動はできなかった。父親がくれた手紙の情報によれば、目当ての男は喘息持ちで月に二度、このサント・マリー病院に通っているという。

 苑玲は昨日男にメモを渡していた。男がそれを読んで、苑玲に協力する気を起こしていれば、今日この病院に来ていつもの呼吸器科ではなく、苑玲と同じ循環器科の待合室に現れるはずだった。メモには父親の指示どおり、「午後三時から五時に待っている」と書いた。四時十分。いまだ現れない。男はこの時間には外出できないのかもしれない。

 そのとき、修道女が呼ぶ声が聞こえた。

「リ・ユンヘさん、リ・ユンヘさーん」

 苑玲はハッとした。受付で名前を登録する際に、苑玲ではなく李雲鶴と書いた身分証を提出したのを思い出し、あわてて声を発した。

「はい」

「三番診察室にお越しください」

 白衣の修道女が一番左のドアを開いて言った。

 苑玲は仕方なく腰をあげた。自分が待合室にいない間に男が到着して、自分を発見できずに帰ってしまわないことを願いながら、ドアの奥に入った。

 医師は白人で中国語を話せなかったので、診察の際は中国系看護婦が通訳にあたった。看護婦は年は五十代半ばぐらい、「Rogan静如」という姓が外国名、名前が中国名の札を下げていた。色が白いので、もしかしたら混血かもしれないと苑玲は思ったが、彼女の中国語の発音は完璧だった。

 医師は簡単な問答を終えると言った。

「後は看護婦が採血をしますから、一週間後に結果を見て治療法を考えましょう」

 素人には三〇年代式なのかどうかわからない採血室で年輩の看護婦は注射器にたまった苑玲の血液を見て言った。

「はい今、針をぬきますね。――お疲れ様でした。気分はどうですか」

「ちょっと目まいがひどくなった気が」苑玲は不安そうに言った。

「大丈夫、採血が原因で貧血がひどくなることはないですよ。献血なんかと比べたら量は格段に少ないのでね。ただ採血中に緊張すると自律神経が変に働いて目まいが強くなったように感じることがあるんです」

 看護婦は苑玲の体をいつでも支えられる位置に来て言った。

「立てますか?」

 急ぎ立とうとした苑玲は、少しふらつき、たちまち腰を下ろした。

「急がずに、ゆっくり体を動かしてみて。手伝いますから」

 年配の看護婦はそう言って苑玲を立ち上がらせると、口調を一変させてささやいた。

「ちゃんと歩けるはずよ。私について来て」

 苑玲が驚いた目をむけると、看護婦は言った。

「私はお父さんの仲間、話は聞いています」

「あなたが・・・・・・?」

「今はなにも言わないで」

 Rogan静如こと秦桂如――三十余年前、江青と同じ里弄に住み、江青の生活の面倒をみたにもかかわらず、感謝されるどころか、江青の推進した政策で家族と引き離され、一か月前に息子と夫が監獄に入れられたと知って激怒し、反旗を翻すことを決意、元映画関係者の仲間に加わった女は言った。

 採血室の横には壁とカーテンに挟まれた細い通路があり、そこを通り抜けると非常階段に出る。

 看護婦は周囲に人がいないのを確認してから、苑玲の手をとって非常階段に足を踏み入れた。苑玲は不安を覚えつつ、一段一段看護婦の支えを頼りに上がって行った。

 二人は二階から四階の病棟に着いた。入口には民警が立っており、幾人かの看護婦ともすれちがったが、誰も特別な目をむけてはこなかった。二人は病室に移動する患者と看護婦にしか見えない。

 秦桂如は角を幾つか曲がると、誰も見ていない隙に「Piee`ce de la douche/淋浴室(シャワー室)」と書かれたドアを開け、その中へ苑玲を入れた。

「私はもう行くから、中の人に話を聞いてください」

「中の人?」

 苑玲が尋ねた瞬間、廊下に足音が聞こえた。秦桂如は急いでドアを閉め、

「それじゃ患者さん、困ったら呼んでくださいねえ」

 わざと声を張り上げてそう言い、去って行った。

 苑玲が中のようすを確かめようとしたとたん、

「鍵を閉めて」

 声がした。びくっとして振り返った苑玲は、乾いたバスタブに人がいて、しかもそれが待合室で待っているはずの男なのに気づき、驚きの声をあげた。

「唐納」

「しっ、名前を呼ぶな」

 若い唐納は以前とは別人のような口調で言った。

「鍵を早く閉めろ」

 苑玲は命じられたとおりにドアノブの鍵を回すと、振り返るのももどかしげに言った。

「どうして、ここに?」

「水を出せ。話し声をかき消すのに必要だ」

「だけど濡れちゃう」

 苑玲は洗い場の上にとりつけてあるシャワーを見上げた。

「こっちに来れば濡れはしない」

 唐納は顎を挙げて、バスタブの隅をさした。

「でも・・・・・・」

「僕に話があるんだよな? 戸惑ってる場合じゃないだろう」

 苑玲は仕方なく蛇口をひねり、水しぶきを極力よけながら、バスタブの端に唐納とむかい合うかたちで座った。

「僕はいつもどおり呼吸器科に行くつもりだった」

 唐納は怒ったような顔をして言った。

「すると待合室の手前でさっきの看護婦に声をかけられ、ここに連れて来られて君を待てと言われたんだ」

「それは驚いたでしょう。あの看護婦さん、ここだけの話、お父さんの仲間だって。私も今日はじめて知った」

「そうだったのか」

「あなたが来てくれてよかった。ここなら安心してあなたにお願いができる」

「勘ちがいするな。僕は君の頼みに応じるつもりはない」

「え?」

「そもそも僕は二度と君に会うつもりはなかった」

「どうして」

「わからないのか。僕が自殺する気になったのは、なぜだと思う?」

「それじゃ唐納さんは本当に・・・・・・?」

「そうだ。僕が自殺しようとしたところを江青同志に助けられたんだ。なぜ死のうとしたか江青同志から聞いていないのか?」

「それは・・・・・・」

「君は僕にひどい仕打ちをした。僕を愛しているふりをしながら、撮影所で主演俳優に言い寄った。しかも江青同志によれば、僕の悪口まで制作陣に言いふらしたそうじゃないか。おかげで僕は愛も仕事も失った」

「ちょっと待って。私、あなたの悪口なんて言ってない。私はあなたを裏切るような行動はなにもしていないわ」

「君は自覚がないのか。どういうつもりか知らないが君のために自殺するまで追いつめられて、今では以前の自分には戻りたくても二度と戻れない」

「それはきっと、江青同志の策略で・・・・・・」

「言い訳は必要ない。答えろ。君はなぜ僕を裏切った?」

 唐納は怖い顔で見つめる。

 苑玲は困り果てた。父親に手紙で頼まれたとおり、唐納の協力を取りつけたいが、このままではうまくいきそうにない。

「私はね、ここ三か月、あなたを忘れたことは片ときもなかった。私が原因であなたが死んだと聞かされた日から、私はずっと自分を責めていたの」

「本当か?」唐納は目を見張った。

「うん本当」苑玲はここぞとばかりに声に力をこめて言った。

「もしあなたが生き返ったら、二度とあなたを離さないのにって、幾度思ったことか」

 唐納の顔から怒りが引いていった。苑玲は思いきって唐納の手に自分の手を重ねて言った。

「そうしてあなたは生きているのがわかった」

 唐納の目の光がやわらいでいく。

「あなたの力が必要なの。お願い、協力して」

「協力したら、なにをしてくれると言うんだ?」唐納は聞いた。

「あなたのものになる」

 唐納は半信半疑という顔をし、しばらく間を置いてから言った。

「本当だな?」

「ええ。あなたに身も心も捧げると誓う。絶対に裏切ったりはしない」

「約束するか?」

「もちろん、約束する」苑玲は手に力をこめた。

「破ったら、ただじゃおかないぞ」

「私を信用して、ね、協力してくれる?」

「いいだろう。話を聞こう」

 苑玲は計画について話しはじめた。唐納は途中幾度も、

「無理だ、自分にはできない」

 と、江青を裏切ることへの恐怖心と抵抗感を表した。しかし度重なる懇願と甘いささやきによって、ついには要求を受け入れたのだった。


「問題ってなんなの?」

 上海市政府の建物の委員長室で台本を読んでいた江青は、『中国日報』編集局長兼党宣伝部部長の張橋こと楊拓が入って来ると不機嫌そうに眉を寄せた。

「私は今、作品のことしか考えられないと言ったはずよ。台詞を覚えたり、演技の計画を練ったりするほかにも、今度の野外撮影に備えて警備を万全にする必要があるし、しなきゃいけないことが山ほどある。あんたも来週大がかりな野外撮影をするのは知ってるでしょ?」

「もちろん存じております。江青同志がリムジンに乗って大通りを進む所を撮りますとか。どんなに素晴らしい場面となりますことか、私、想像しただけで胸がわくわくいたします」

 楊拓は歯の浮くようなお世辞を言ったが、江青は意外にも真に受けたようすで、

「そうお?」気をよくした声で言った。

「最後のシーンは南京路を通行止めにして野外で撮るべきだって、苑玲が思いついたの。それで私もすっかり乗り気になってね」

「私も撮影が成功することを心から祈っております。が、先程水をさすような事態が発生したと小耳に挟んだものですから――」

「・・・・・・なにが起きたって言うの。さっさと話して」

 江青は再び機嫌を悪くした。

「実は、党通信部が妙な無線を捕えたと耳にしたもので、私がいち早くご報告をしに参りました。その内容を聞くに、どうも民間人が上海市外と連絡を取ろうとしているようだと」

「あり得ないわ。当局以外の無線はすべて没収したんだから」

「ですが、上海には戦時中に日本軍が作った無線基地が幾つか発見されずに残っているそうで。その基地を最近、民間人が発見した可能性があります」

 江青は眉をぴくぴくとさせて、

「その民間人はすでに市外と連絡をとったと言うの?」

「私が話を聞いた時点では、まだのようですが。今はとり急ぎ通信部の方では妨害電波を流しているとのことです」

「どうして通信部はそんな大事な話を、すぐに私に報告しなかったのよ」

「江青同志の撮影のお邪魔をすべきではないと判断したためと思われます」

「だとしても、それとこれとは別よ」

「実はもう一つお伝えすべきことが」

 江青はいやな顔をした。

「まだあるというの」

「こちらの方が、ある意味深刻かもしれません」

「もったいぶらないで早く話しなさい」

「これも通信部で耳にしたことなのですが、どうやら市の境界線を突破した人間がいるらしいとのことで」

「上海市民が外に出たって言うの?」

「隣村の農民が目撃し、地元の警察に伝えたそうです」

「検問所はなにをしているのよ。通信部といい、いったいどうなってるの」

 江青は怒りに震えながら通信部に電話をかけ、怒鳴りたてた。

「反逆分子たちをただちに見つけ出して対処しなさい。出来なかったら罰を受けるのはあなたたちですからね」

 ガチャンと音たてて受話器を置くと、楊拓が言った。

「見つけたら処罰ですか」

「そうよ、当たり前じゃない。極刑にして見せしめにする」

 そのとき、ドアをノックする音がした。

「誰?」江青が怒鳴ると、若い青年の声が答えた。

「郵便物をお届けにあがりました」

「入りなさい」

「失礼します」

 人民服を着た青年が踵をそろえて敬礼し、数通の手紙を机に置いて引き下がった。

「張橋、用は済んだでしょ。下がりなさい」

 江青は一人になると、一通の封筒を抜き出して、

「変ね、今日は届く日じゃないのに」

 そうつぶやくと、慣れた手つきでペーパーナイフを使い、封の中身を取り出した。

 英語と中国語の便箋が二通ずつ入っているのを見ても江青の表情は変わらなかったが、中国語の方を取って文面を読みはじめると、

「『ヴォイス』が私に取材を?」驚きを表し、

「十一月二十六日って来週の野外撮影の日じゃない。どうしてそんな日に」

 首をかしげ、

「彼らがこの国に来るなら、少なくとも一か月前には連絡があるはず。なのに一週間前に急に知らせて日程を強引におしつけてくるなんて・・・・・・」

 しばらく不審そうに文面を眺めていたが、やがて目をぴかりと光らせて返事をしたためた。


「例の手紙は無事江青のもとに届けられた由、唐納から看護婦の秦桂如を通して僕の銭荘まで連絡があった」

 元脚本家の魯漠は仁済堂地下に到着するなり、貧しい身なりに変装した面々の顔を見渡して報告した。玉子、老鴉、花旗がいる。元映画関係者の鄭君里、夏雲湖、王春泉、魯漠らいつものメンバーに加え、趙丹、蓮英、小莉、それに秦桂如もいたが、無線を担当している譚友五と市の境界線の突破を試みている石頭、警察担当の若趙丹の姿は今日は見当たらない。

「例の手紙というと、MI6が送ったように偽装した偽手紙か?」

 元撮影技師の王春泉が聞くと、魯漠が答えた。

「うん、作成者は僕。お手本を完璧に真似たつもりだよ」

「お手本って?」

「唐納がフランスクラブで事務をやっている下っ端MI6のジミー・ノートンを手なづけて、上司を裏切る気にさせたのは知ってるだろう。ノートンが本国から来た江青宛の封書を手に入れてくれたんで、それをお手本にして偽手紙を作ったんだ」

「差出人は?」

「『ロンドンタイムズ社』になっていた。中身も一見、新聞社が中国国家主席夫人に政治情勢について質問をしているだけのものだった。暗号文になっていないか調べてみたけど、どうもそうではないらしい」

「ノートンはなにも知らないのか」

「なにも。やつは与えられたものを処理するだけだからな。とりあえず手に入れた手紙に倣って野外撮影当日、『ヴォイス』の取材があるということだけ書いておいた」

「偽造するのは難しかっただろうな」

「『ロンドンタイムズ』からの手紙には便箋が二通入ってた。内容は同じだけど、一通は英語でタイプライター打ち、一通は中国語で手書きで書かれてあった。だから偽手紙を作成するにあたって、英語の方はノートンにタイプで打ってもらって、中国語の方は僕が担当して手書きしたよ。苦労はしたけど、まあまあの出来の物が仕上がった」

「まあまあどころか」玉子が言った。

「手紙を出す前に見させてもらいましたが、魯漠さんの筆跡の模倣は完璧でしたよ」

 老鴉もうなずいて言った。

「あれじゃ専門家でなきゃ偽物と見抜けねえでしょう。魯漠さんの腕前はすごいっす」

「脚本家の魯漠にそんな才能があったとはな」

 鄭君里が褒めると、魯漠は笑って、

「いざとなったら詐欺師になって食っていきますよ」

 と、冗談を口にしたが、ふと真顔になって言った。

「でも、江青が手紙を偽物と見破ったら、僕たちはどうなるんだろうな」

 一同はたちまち、しんとなった。

「大丈夫、大丈夫」王春泉が努めて明るい顔をして言った。

「偽造したのが我々と決定づける証拠はないし、もし我々が実行犯と知られたとしても、監獄行きになるか、最悪死刑ってところだ。皆、この計画に参加するからには、それくらいの覚悟はあるんだろう?」

「そうっすよ」老鴉がうなずいた。

「今よりも悪くなることはないんすから」

「でも、」

 小莉がふいに疑義をはさんだ。今まで発言を遠慮していたが、老鴉が調子に乗って話しているのを見ると我慢できなくなったらしい。

「仮に江青がだまされたとしても、取材の日を『銀花』の野外撮影と同じ日に決められたら、応じないかもしれないよね?」

「今ごろなに言ってんだ」老鴉がなれなれしい口調で言った。

「江青がMI6ならどんな日だろうと最優先するはずだと、この前若趙丹が保証してただろ」

「でも唐納が事前に裏切ったら?」

「どうしてそう悪い方に考えようとするかな」

「だって唐納は信用できないでしょ」小莉が甲高い声で言うと、

「心配はいらない」趙丹が割って入って言った。

「唐納の心は苑玲がしっかりつかんでいる。父親としてはこんなことは口にしたくないが、苑玲が手に入ると信じている間は裏切ったりしないはずだ」

「おじさんがそう言うなら、信じますけど」小莉は言った。

「よしよし。唐納のことは苑玲に任せて、自分の役割をきちんと果たすことだけを考えればいい」

「苑玲といえば、会合には来ないんですね」

 ふいに蓮英が言った。嫌味ともとれる口調だったので趙丹は少しむっとしたようすだった。

「苑玲はほぼ一日中江青といるんだから、こんな所に来る危険は冒せないんだよ」

 鄭君里がかばうように言ったが、

「若趙丹も来てませんね」蓮英は言った。

「作戦を考えた張本人なのに民警対策も私たちに押しつけて顔を見せないし、どうしたんでしょう」

「なにその言い方。苑玲が若趙丹としめしあわせて遊んでいるとでも?」

 小莉が食ってかかるように言い、険悪な雰囲気になりかかったので、老鴉がとりなすように口をはさんだ。

「たしかに若趙丹のやつは苑玲を好きかもしれねえな。だが苑玲は作戦上唐納と仲良くしているから、若趙丹は傷ついて家に引きこもってるんだろう」

 冗談を言ったが、

「そんなわけないでしょ」小莉にぴしゃりとやられた。

「わかってまさあ。若趙丹には蓮英という人がいる」

 老鴉がそう言って蓮英を試すように見ると、

「しつこいね」蓮英は迷惑そうに言った。

「私たちの関係はそんなんじゃないと言ったでしょ。要人の間諜同士、同盟を組んでただけです」

「わかってるって。Take it easy」

「なに、どさくさにまぎれて英語使ってんの」

 小莉が言うと、老鴉は驚いた顔をして、

「あれ、俺、今英語話した? やべえ、無意識に作戦に備えた特訓の成果が出ちまった。さすが人間離れしてるだけあるな、俺さまは」

「『俺さま』なんてよく言えたわね。この前はどうせ俺は下らねえ人間ですって、いじけてた癖に」

「自信を取り戻したのよ。『自分はただの人間だが、おまえは立派な地仙だ』って頭が太鼓判を押してくれたんでね。もう自信回復。外国語の一つや二つ習得するのは朝飯前。これぞ仙人の底力というものよ、オッホ、オホホホホ」

 皆があきれた顔になる。

「老鴉、場所をわきまえろ」

 玉子が付け髭をつきだして叱ったときだった。

 階段から突然駆け降りて来た者があった。

「若趙丹! 待っていたよ」

 一同の視線の先には真っ青な若趙丹の顔があった。

「皆さん大変です。大変なことが起きました」

「なんだ、どうした。まあこっちへ来て、落ち着いて話せ」

 玉子が隣の席にさし招いたが、若趙丹は座らずに言った。

「これが落ち着いていられますか」

「いったい、どうしたってんだ」

「石頭さんが・・・・・・やられたんです」

「えっ、なんだって?」

「石頭さんは昨日の夕方、上海市外の村で川の水を飲んでいたところを地元の警察に発見され、そのまま射殺されたそうです」

「嘘だろ・・・・・・なぜわかった?」

「作戦準備のため、僕と同じB52の手下の者に会いに行ったら、そう聞かされて・・・・・・。どうしても信じられずに、日本軍が昔無線通信に使っていたヘイグ・アヴェニューの邸の地下室にいる譚友五さんの所で警察の無線を傍受してもらったら、どうも事実らしく・・・・・・。石頭さんが亡くなったことに間違いはありません」

「くそ! 石頭が」

 玉子ら物乞い組はもとより元映画関係者たちも言葉を失った。

「あの石頭さんが、やられるなんて」

 蓮英も驚きを隠せないようすだ。小莉は叫んだ。

「普通市外へ出たのが見つかっても逮捕されるだけなのに、どうしていきなり殺されたの」

「江青の命令のようです」若趙丹が答えた。

「あの江青がまた人殺しの命令を・・・・・・?」

 一同の間に動揺と憤りが広がると、若趙丹はかえって冷静になり、落ち着いた語調で言った。

「残念ながら、そうとしか考えられません。上海当局は市の境界線を越えた人間が目撃されたという報告を受けると、すぐさま射殺命令を下したそうですから」

「くそ! 江青のやつ、くそ」

 老鴉は拳を床になん度も叩きつけた。皮膚が破れ、血が流れ出す。

「やめろ」

 玉子が老鴉の腕をつかみ、目を涙で光らせ、

「石頭の犠牲を無駄にしないためにも作戦を成功させなければ。冷静になれ」

 自分に言い聞かせるように言った。

「だが石頭がいなくなったということは、市外の応援をとりつける手段がなくなったも同然ということだ」

 夏雲湖が言うと、

「無線が役に立ちさえすれば、なんとかなるでしょうが」

 玉子はそう言うと若趙丹に八つ当たりするような大声で聞いた。

「譚さんはなにをやってる? いまだに市外と連絡をとれないのか」

「僕が見に行ったときも譚さんは必死でやってました。でも――」

 その後を若趙丹は言いにくそうに言った。

「今、市外と交信しようとすると、決まって妨害電波が入ると言っていました。もしかしたら当局に探知されたのかもしれません」

「当局は基地の場所までは知らないはずだろう?」

「今まではそうでしたが、近いうちにつき止められる可能性があります。譚さんによると妨害電波が流れるようになったのは石頭さんが殺されたのと同じ昨日からだとか」

 地下室に緊迫した空気が流れた。

「どうすりゃいいってんだ」老鴉が叫ぶと、若趙丹が言った。

「市外との通信は今、僕がもう一つ別の手段でも試みていますが――」

「別の手段って?」

「詳細はまだ言えませんが、うまくいけば市外と連絡がとれるかもしれません」

「わかった。あてにするぞ」

 玉子は若趙丹にそう言うと、夏雲湖に顔をむけて言った。

「武器の方はどうなってますか? ノートンの手を借りてイギリス軍にも偽手紙を送ったと聞きましたが」

「ああ、手紙の方は魯漠と花旗に力を合わせて作ってもらったので問題ないと思います。ちゃんとMI6がイギリス軍の助力を求めているように書いていますし。まあ、うまくいけば、当日イギリス空軍が指定の場所に武器を落としてくれるはずですが・・・・・・」

 夏雲湖はそう言ってあいまいな笑いをうかべた。

「なにか問題が?」

「いや・・・・・・後はイギリス軍が中国を訪問する予定だという話が本当だと祈るのみです」

 夏雲湖が自信なさげに言うと、若趙丹が口添えした。

「僕がこれまで集めた情報を総合した限りでは、作戦実行日にイギリスの軍艦が黄浦江にやってくるのはほぼ確実です」

「推測じゃないという証拠がほしいな」

 王春泉が言うと、若趙丹は言った。

「僕の話を皆さんで信じてくれたんじゃないですか。だからその日を作戦実行日にしたんですよね」

「二十六日を実行日にしたのは、『銀花』の野外撮影の日にあたるからだ」

 王春泉が言うと、

「まあまあ」玉子がとりなすように言った。

「イギリスの動きについては若趙丹を信じましょう」

「そうだ王春泉、今さら心配してもはじまらない」鄭君里が言った。

「ところでテレビ局の方は、順調にいってるか?」

「ええ監督、順調も順調、当日までには確実に間に合いますよ」

 王春泉は夏雲湖にあてつけるように自信に満ちた口調で言った。

「建物は新一九三一年になって閉鎖されていましたし、監視の目をくらまして侵入するのは至難の業でしたが、これまでは譚友五が無線と掛け持ちで手伝ってくれていたので――」

「すると譚友五が今になって危なくなったのは痛いな。いっそのこと無線基地はテレビ局内に移動させた方がいいかもしれないですね、玉さん」

「検討しましょう」

 そのとき張橋が仁済堂を訪れ、地下室の上に立っていたことを彼らは知らなかった。


 六日後、新一九三一年十一月二十六日木曜日の作戦実行日――。

 苑玲は午前八時前、南京路の野外撮影現場のパラソルの下にいた。ただし月蛾の代役としていたわけでも、江青の付添いとしていたわけでもない。苑玲は事前に「自分が到着するまでに、いつもの飲み物と飴、足湯の用意をしておいて」と江青から命じられていたにもかかわらず、なにもせずにただ椅子に座っていた。正確に言うと、江青そのものになりすましていた。

 本物の江青は今ごろ偽記者のインタビューを受けに別の場所にむかっているはずだ。一昨日父がくれた手紙によると、作戦がうまく行く限り、江青が撮影現場に来ることはないということだ。

 苑玲は父に言われたとおり、今朝七時半に江青に化けて撮影現場に到着した。二人は三十歳以上も年がちがい、共通しているのはすらりとした体型だけで、顔の趣も異なるので、化けるのはかなりの無理があった。そのため日よけを口実に鍔の広い帽子を真深くかぶり、前に江青がよくかけていたのと同じ黒眼鏡をかけて顔を隠している。今日の場面で女主人公が着るべき旗袍をまとっているのはもとよりのことだ。

 もっとも、それくらいの細工では、江青本人を知る人間が間近で見れば、すぐに別人とばれるだろう。現場には『銀花』の制作陣が三十人ほどいる。苑玲は台本から顔をあげ、それぞれの動きを黒眼鏡の奥から目で追った。ある者は自動車の進行に合わせてカメラを移動させるために歩道に沿ってレールを設置し、ある者は録音機器を確認していた。目下の所、ほとんどの制作陣が忙しく動き回っており、「江青」にかまう人間はいない。

 とはいえ、もし制作陣が苑玲の顔を見たとしても、「偽者!」と叫ぶ恐れはなかった。なぜなら彼らは全員、今日の作戦を知っていたからだ。『銀花』の制作を担う若手の映画人たちは、五十代の元映画制作者たちが江青を倒す計画を立てている、と趙丹から知らされると、喜んで協力すると申し出た。元は江青側の人間として撮影所に潜入していた者も、現状に心底嫌気がさしたらしく、すでに多くが反江青派に寝返り、今は二重間諜として働いていた。主義を曲げない者が少数いるにはいたが、彼らはとうに撮影所から追放されている。それだけにベテラン映画人たちが江青打倒計画を立てて実行にうつすと聞けば、皆が参加したいと申し出ずにはいられなかった。制作陣は味方だから心配はいらない。

 問題は警備隊だった。今日南京路にかり出されている人民警官は一千人を下らなかった。江青が野外撮影をするとあれば万全の警備体制を整えねばならないということで、ほとんど上海じゅうの民警が呼び集められたと言っていい。それに呉司令官率いる八三二一部隊まで加わっている。今のところは見破られてはいないが、いつばれるかわからない。

 警備隊の目を気にしている点では制作陣も同じだった。彼らは今日、作戦実行にあたって以下を協力することを先輩たちに約束していた。

 一、『銀花』の監督に扮した鄭君里に撮影の指揮をとらせること。

 二、苑玲を江青として扱い、当初の予定に沿って撮影を実行すること。

 三、黄宗玲を監獄から救出するため、雑用係にばけた趙丹にトラックを一台、撮影の合間に使わせること。

 四、撮影の合間にテレビ用のカメラの一部をフランスクラブに移動させるため、王春泉にトラックを一台使わせること。

 目下、一番目は問題なくできているようだ。鄭君里は三十歳も若返った格好をし、年を感じさせない活発さであちこちを動き回っている。各部門に的確な指示を与えていく手際は、名作映画を数々手がけた老練監督だけにさすがだった。ただその表情は、ふとした瞬間に曇った。鄭君里には作戦を実行する上での気がかりが幾つかあった。

 一つは、江青が撮影前の取材の申し込みに応じたはいいが、場所をこちらで指定した外灘のアスターハウスホテルではなく、フランスクラブにしてほしいと言ってきたこと。

 もう一つは、地方からの応援が到着する気配がいまだにないことだ。予定どおりなら今朝六時には地方で兵士の役をやらされている不満分子たちが上海の境界線付近に到着して武器と民警の制服を受け取って夏雲湖の指揮のもと市内に潜入し、今ごろは歩道の警備隊にまぎれこんでいるはずだった。

 だがいまだその気配はない。ひょっとしたら地方人はいまだ市内に入れていないのかもしれなかった。無線機は五日前により安全な場所に移したが、譚友五は今日まで妨害電波を回避する方法を見つけられないままだった。そのため危険を承知で手紙を各地の部隊に送ることにしたのだが、唐納の力を借りてフランスクラブから出したとはいえ、無事届いたかどうかはわかっていない。とにかく現時点では応援部隊の姿は見えなかった。

 おまけに警備隊の中には、見たくない人間が一人紛れ込んでいた。まわりが全部制服の中で一人高級スーツを着て、金縁眼鏡を光らせ、先程からずっと映画制作陣の動きを観察している男――党宣伝部部長張橋こと楊拓である。

 苑玲もそれに気づいて不安になった。だがそれ以上に苑玲の胸をざわつかせたのは、父趙丹の姿がいまだに見えないことだった。父はこの時間にはとっくに現場にいて、雑用係として皆にお茶をふるまうなどしているはずだった。

 そのとき楊拓が警備隊を離れ、そばの公衆電話の受話器をとり、なにやら話しはじめた。合間合間に映画制作陣に鋭い視線を投げている。

 苑玲はいやな予感がした。楊拓は誰になにを話しているのだろう・・・・・・。


 こちらは撮影現場から自動車で十五分ほどかかる所にあるフランスクラブ前。

 アールヌーヴォーの紋様が彫られた塀の前で、欧州製の山高帽と背広を身につけた二十代の中国人青年と、首から立派なカメラをぶらさげた十代の青年がなにやらひそひそと言葉をかわしていた。

「江青のやつ、場所をフランスクラブに指定してきやがるとは、いってえどういう魂胆だ」

「ま、まったくだ。俺たちはアスターハウスホテルを取材場所にしたいと手紙に書いたのに、わ、わざわざ会員制のクラブに来いとは」

「俺たちを試してるのか。偽記者ならここにゃ入れねえだろうって」

「しっ。こ、声が大きいよ」花旗が注意すると老鴉が言った。

「気にすんな。道を見てみ、いつもとちがって民警の姿が見えねえ。ほとんどが南京路の野外撮影にかり出されてるからな」

「た、たしかに野外撮影の日を作戦実行日にしたのは正解だ」

「そ、おかげで仲間も安心して見張りができるってわけよ。ほら、あの花売り娘は小莉、むこうの物乞いは魯漠さん。譚友五さんも今は見えねえがどっかに潜んでいるはずだ」

「こ、声に出して言ったらだめだよ。外はどうでも、中の人に聞かれたら、お、おしまいだ」

 花旗が言うと、老鴉は塀のむこうのネオ・バロック様式の建物を見上げて言った。

「中にだって味方はいるだろ。ノートンや唐納が、どっかに待機して、なんかあったら援護してくれてるって話じゃねえか」

「そうだけど、む、むこうにいるのは、ほとんど、て、敵なんだから聞こえないようにしないと」

「ぐだぐだ言うな。行くぞ」

 老鴉は花旗を引っぱるようにしてフランスクラブのポーチから玄関のドアを押して中に入った。たちまち、

「ボンジュール」

 声が飛んできた。制服を着た中年の白人は、入って来た二人が若い中国人と見ると一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに作り笑いをして言った。

「お早い時間からようこそ。この時間でしたらプールもボーリング場も独占できること請け合いですよ、ムッシュー」

 二人はなにも答えられなかった。従業員が話したのがフランス語だったからだ。さすがの花旗も理解できない。黙っていると、従業員は笑顔をこわばらせ、目の奥で二人を訝しげに観察しながら言った。

「会員証の提示をお願いします、ムッシュー」

 またしてもフランス語だったが、今度は相手の動作でなにを言われたかは想像がついた。老鴉と花旗はほぼ同時にポケットから名刺大のカードを取り出して従業員に見せた。二枚のカードを確認した中年の白人は、にわかに瞳をゆるませ、

「どうぞごゆっくり、楽しいお時間を」

 英語でそう言って二人を通した。

「俺たちが中華系英国人と知って態度を変えたか」

 受付が遠ざかると老鴉が皮肉めいた口調で花旗に言った。

「偽の会員証、大丈夫だったね」

「魯漠さんに偽造の才能があって本当助かったぜ」

 シャンデリヤの光の落ちる絨毯敷きの廊下をずっと奥まで進み、なん度か角を折れ曲がると、江青が指定したと思われる場所の前に出た。アーチ型の入口の横にある金色の標識に彫られた文字を見て老鴉が声をあげた。

「ここだ、フランス語の下に英語で『Businnes centre』って書いてある。こりゃイギリス英語だな。アメリカ英語だとcenterだが、イギリス英語だとcentreになる」

「はいはい、特訓の成果が出ていますね」

「馬鹿にしたな、こいつ、英語が話題のときは、吃らねえでしゃべりやがって」

 二人は背後から一人の白人が近づいていることに気づいていなかった。足音はすべて絨毯に吸収されていた。

「この中にある『Conference room』が指定の場所か。入るぞ」

 老鴉はそのままアーチ型の入口をくぐろうとしたが、花旗は、

「江青は、も、もう来てるかな?」

 立ちどまって言った。同時に背後の白人も立ちどまったが、二人は気づかなかった。

「指定の時間まで一時間もある」老鴉は腕時計を見て言った。

「大物がそんな早くから来てるかよ」

「だ、だからって油断はできない。今からや、役になりきらないと」

「言われなくたってわかってる。俺たちはイギリスから来た『ヴォイス』誌の記者と撮影技師、俺はタイラー・チャンでおめえはジャック・スン――」

 そこまで言った時だった。背後の白人が突然二人の前に回り、

「『ヴォイス』のかたですか?」

 そうイギリス英語で話しかけて来た。老鴉と花旗は驚いて相手の青い目を見返し、

「あの、あなたは・・・・・・?」

 イギリスのアクセントで、そう返すので精一杯だった。

「私は『タイムズ』の特派員、ウィリアム・ウィークスです」

 白人は自己紹介をし、右手を差し出した。

 二人の中国人はウィークスの名を聞くなり顔をこわばらせ、握手に応えはしたが、名のりはしなかった。

「あなたがたはミスター・チャンとミスター・スンですね?」

 ウィークスは薄笑いともいえる笑みをうかべて言った。

「ははは、今のお二人の会話が聞こえたものですから。僕は中国語もできるんでね。『ヴォイス』のかたがわざわざ本国から来られるとは、取材相手はよほどの大物なんでしょうね?」

 ウィークスは青い目の奥を鋭く光らせ、二人の目を覗きこむように見た。老鴉は持ち前の強気でどうにか平静を装い、

「ご想像におまかせします。では準備がありますので、これで」

 自分では完璧と思うイギリス英語で言い、早々に立ち去ろうとした。だがウィークスは引き下がらなかった。

「さっきその名をスンさんが口にしたのをちゃんと耳にしましたよ」

「・・・・・・」

「そんな大物を相手にされるだけあって、お二人とも完璧な中国語を話されるようですね」

 二人の血の気がすうと引いていったときだった。

「ミスター・チャン、ミスター・スン」

 ビジネスセンターの入口から声がかかった。見ると、いつのまにクラブの制服を着た若い白人が立っていて、

「こちらへ。ご友人がお待ちです」

 そう言って二人を中に差し招いた。

「へえ、ご友人が?」

 ウィークスがそう言って首をつっこもうとすると、若い事務員が表情を硬くして制した。

「申しわけございませんが、こちらはご予約頂いたお客様のみ、ご案内させて頂くことになっております」

 ウィークスは若い事務員を睨みつけると、頬に不気味な笑みを浮かべて、

「そうか、よく覚えておく」

 そう言ってその場を去って行った。


「会議室はこちらになります」

 白人青年はそう言って老鴉と花旗を連れ、ビジネスセンターに幾つかあるドアの一つに向かった。

「あんたのおかげで助かったよ」

 老鴉が小声で礼を述べると、青年も小声で言った。

「とんでもない。こっちこそ君たちと会えてうれしい。僕はノートンだ」

「言われなくてもすぐわかったよ。あんた、ウィークスをよく知ってるだろ。あいつ、俺たちの正体に気づいたと思うか?」

「さあ、それは」

「あいつに俺らが中国語を話しているのを聞かれたんだ。俺らが中華系英国人って設定、やっぱり無理があるかな?」

「老鴉、どうした。らしくない」

 花旗が得意の英語で吃らずに言った。

「自分を万能の仙人と思い込んでいる君が、弱気になるとは」

「俺は強気だぞ」

 老鴉は後輩の手前、あわてて胸を張り、身につけた英語で主張した。

「第一、思い込んでいるんじゃねえ。俺は本物のDi Xian(地仙)さまだ。凡俗を超越した力で石頭の仇をうつと誓った身」

「What is Di Xian?」ノートンが怪訝な顔で聞いた。

「なんでもないんだ」花旗が言ったとき、

「着きました」

 ノートンが『Conference Room』の表示のあるドアの前で足を止めて言った。

「僕はこれからさっきの入口に戻り、ウィークスがビジネスセンターに近づけないよう見張ります。今の所は全室予約でふさがっていることにしてありますが、万一敵が口実を作って入って来ようとしたら、唐納さんに別の場所に連れて行ってもらえるよう頼んでおきましょう」

「そいつは、ありがてえ」

「それでは僕はこれで。あまりここにいて他の従業員に怪しまれるといけないので」

「この部屋に『友人』が待ってるって本当?」

 花旗が聞いた瞬間、受付の方から声がした。

「誰か来たみたいです」ノートンはあわてた調子で、

「中に入ればわかりますから」そう言って去って行った。

 老鴉がドアにむき直って言った。

「この中に人がいるって本当かよ。俺たちより早く来てるわけねえのにな」

「しっ。役に入りこまなきゃ」

「オッケー、オッケー」

 老鴉は深呼吸し、記者になりきったつもりでドアをノックした。

 すると中から「どうぞ」と中国語で返事が返ってきたが、その声の主が男性らしかったので二人は不審に思った。そのままドアを開けて中を見た二人はたちまち瞠目した。

「阿三さん・・・・・・」

 中にいたのは立派なスーツを着た趙丹だった。

「やあ」趙丹は二人に笑顔で言った。

「どうぞ中へ。早くドアを閉めて」

「どうして阿三さんがここに。あんたは今ごろ野外撮影の方で黄宗玲救出作戦の準備を進めていたはずじゃ?」

「それが今朝いきなり江青に呼ばれてね」

 趙丹は苦笑を浮かべて言った。

「里弄に電話があったんだ。今日の朝九時までに誰にも言わずにここへ来い、と。来なければ家族が痛い目にあうと言われたから従わざるを得なかった」

「でも会員証もないのにどうやって」

「名前を告げたら入れるようになっていると言われ、実際にそのとおりになっていた」

「どうして」

「わからない。狙いがなんなのかも。だから早めに来たんだ。君たちが取材予定時刻の一時間前に来て準備するつもりなのは知っていたから、江青が来る前に一緒に対策を練りたいと思って」

「そうだったんすか。でもなんのために阿三さんを呼んだんでしょう。ひょっとして俺たちが送った手紙が偽物とばれたんすかね?」

「それはないんじゃないか」趙丹が言った。

「もしそうなら、今日の取材自体がなくなったはずだ。君たちの正体はばれてないと思うよ」

「だといいんすが、実はさっき廊下でウィークスに俺たちの会話を盗み聞かれちまいまして・・・・・・」

「え、ウィークスっていうと、例の『タイムズ』記者でMI6の・・・・・・?」

 趙丹は目を皿にした。

「そうなんす、入口の所にいたんすよ」

 老鴉は先程あったことを話した。

「ノートンがあいつを寄せ付けねえようにすると言ってくれやしたが、万一あいつの口から俺たちに怪しいところがあると江青に伝わりでもしたら・・・・・・」

「それは大変だ」

「どうしたらいいすかね」

「下手に動くと墓穴を掘ることになりかねないな・・・・・・うーん、こうなったら自分たちの役を完璧に演じるしかないだろう。そうだ、どんなに疑われようが、中華系英国人で通すことだ。江青に会ったら、絶対にボロを出さないようにすること」

「そうっすね・・・・・・」

「自信を持つんだ。不安や動揺が少しでも伝わったら、それこそおしまいだよ。この機会にもう一度、君たちがこれからすべきことをおさらいしてごらん」

「わかりやした。ええと、俺たちは江青がここに来たら、イギリス英語であいさつして本物だということを証明してから、わざと下手な中国語を使って偽取材をして、江青がイギリスと通じている証拠を作ります。ただし今回の取材がMI6に関わるものであることも、ところどころに匂わせつつ」

「そうだったな。おかげで僕も作戦の復習ができた」趙丹が言うと、

「俺、ひとつ、き、気になることが、あ、あるんですけど」

 花旗が口をはさんだ。

「なに」趙丹と老鴉は訝しげな顔をして聞いた。

「い、今さらだけど、江青はどうやって、こ、ここに来るんだろう? 党のえ、えらい人が、フランスクラブに入る所を人に見られたら、た、大変じゃないのかな」

「ほんと今さらの質問だな」老鴉が言った。

「唐納によると、変装して来るって話だ。夫人がここに来るときは、いつも誰にも見破れねえ格好で来るんだとよ」


 張橋こと楊拓が公衆電話をかけ、誰かに報告しているらしいのを見て、苑玲は不安になり、被害妄想をふくらませた。私が江青に変装しているのがばれたのではないか。あの金縁眼鏡なら、間近で見なくても、なんでも見抜けそうだ。だからここにいる江青の正体が私と知り、党の上層部に報告しているのかもしれない。そう思った刹那、上空から飛行機の音が聞こえたので、苑玲は上層部が飛行機で自分を捕まえに来たような錯覚に襲われ、ぎょっとした。だが見上げると、機影ははるか上空で東から北に向かっていた。私ってば、なにを脅えて。自分で自分に苦笑していると、

「来ましたねえ」

 玉子の声が聞こえた。今日は助監督に扮しているのが、鄭君里に話しかけている。鄭君里は先ほどから苑玲のそばにあるカメラを覗いて構図の確認をしていた。

「あの音がなにか、わかりますよね?」

 玉子が聞くと、鄭君里はカメラから離した目を上空に走らせ、

「わかりますよ」笑顔で答えた。

 するとそのとき、楊拓が公衆電話を離れ、カメラの方を見て首をかしげ、近づいて来た。車道に入ろうとすると若い警官が止めようとしたが、楊拓が誰だか知ると蒼白になって自ら道を開けた。

 鄭君里と玉子はもとより、苑玲も上空と彼らの会話に注意を引かれていたので、楊拓が接近していることには気づかなかった。鄭君里は目を輝かせつつ、

「あれは人民解放軍を装っているイギリス空軍の飛行機にちがいありませんね」

 そう小声で玉子にささやいた。

「どうやら魯漠が送った手紙が偽物だとは気づかれなかったようで」

「中国の反体制分子がイギリス軍の力を借りて革命を起こしたがっていると、江青の名で報告したのを真に受けてくれたってことですか」

「そのようですね。あの飛行機はこのまままっすぐ北へ行って上海市の境界線付近にいる反乱分子を自分たちの味方とみなし、武器を落としてくれるでしょう」

 二人の会話がそこまで進んだ時、近くで座っていた苑玲は背後に気配を感じて振り返った。たちまちぎょっとして、

「監督」

 と呼びかけ、そばにいる楊拓を目で示した。

 促されて振り返った鄭君里と玉子は身を凍りつかせた。一方楊拓は先程の会話を盗み聞いていながら、なに食わぬ顔をして挨拶した。

「おはようございます」

 鄭君里はカメラのレンズを覗くふりをして顔を隠し、後ろ姿を向けたまま挨拶を返さずに言った。

「申しわけありませんが、ここは制作陣以外立ち入り禁止です」

「今日の私は記者として取材に来たんですよ」

 楊拓は愛想笑いを貼りつけ、

「江青同志が南京路を自動車で通る場面を撮ると聞いてきましたのでね」

 そう言って探るように「江青」を見た。

 その気配を背中で感じとった鄭君里は内心の焦りを出さないようにして言った。

「江青同志でしたら役作りに集中されていますから今は一切話しかけられません」

「ああ、そのきっぱりとした口調、いいですねえ」

 楊拓は茶化すように言った。

「あなたは新人の陸新華監督ということですが、まるで老練監督のような貫録がありますよ」

 そう言った瞬間、鄭君里の背中がびくっと動いたのを見て楊拓はしたり顔になり、

「そうそう、あなたはまるで鄭君里監督のようですよ」

 顔を覗き込もうとするように首を伸ばして来た。

「監督は忙しいので」玉子がたまりかねて割って出た。

「お引き取り願えませんか」

「それはそれは」楊拓は意味深長な笑みを見せて言った。

「私が来るまでは、お二人でおしゃべりを楽しんでおられたようですが、お忙しいですか」

「あなたの話に付き合っている時間はありませんので、お引き取りを」

 だが楊拓は笑顔を絶やさずに言った。

「わかりました。一つだけ、私の質問に答えてくださったら、引き下がるとしましょう」

「なんですか」玉子が聞くと、楊拓は偽江青を目で指して言った。

「江青同志はお一人のようですが、いつも一緒にいる若い藍蘋さんは今日は来ておられないのですか?」

 苑玲は全身の血が引くのを感じた。

「今のは私に対する質問ですか?」玉子が楊拓に言った。

「そんなことを聞いてどうするんです」

 楊拓は質問には答えず、

「おかしいですね」わざとらしく辺りを見回して言った。

「藍蘋さんは江青同志といつも一緒だと思ったんですが」

 苑玲は生きた心地がしなかった。だが鄭君里がカメラのレンズを目に当てたまま言った。

「むこうにいますよ」

 指さされた方向にはトラックがあり、荷台の前に制作陣が並んでいた。そのうちの一人の娘を見た苑玲は楊拓よりも驚いて目を見開いた。その娘は苑玲がいつも着る旗袍をまとい、苑玲の髪型をし、苑玲としか思えない姿勢で立っていた。ただし顔は帽子とマスクと黒眼鏡で覆われていた。楊拓は目を鋭く光らせ、

「たしかに。遠目で見る限りは藍蘋さんのようですな。珍しく黒眼鏡をしている・・・・・・」

 訝しげに言った。

「あれは江青同志がかけさせたんですよ」

 老鴉がとりつくろって言ったが、楊拓はなお疑うように言った。

「しかしマスクまで」

「今、風邪気味なんだそうです」鄭君里が言った。

「でも大したことはないのでごらんのとおり、お茶をもらいに行っているわけです。質問には答えました。もう、よろしいですね?」

「ええ・・・・・・ありがとうございました」

 楊拓はそう言って一応は引き下がったが、歩道に戻ると警官になにやら耳打ちをはじめた。それを見て玉子が鄭君里に言った。

「あいつ、北さんと、そこの江青の正体を疑っている感じでしたよ」

「まずいですね。飛行機のことを話していたのを、知らない間に盗み聞きされていたのかもしれません」

「どうしますか」

 二人は顔を付き合わせてなにやら話し合いはじめたが、苑玲は向こうにいる自分に扮した娘が気になってたまらなかった。すでに娘はお茶を受け取った後で、こちらにどんどん近づいて来ている。苑玲はたまらず鄭君里に聞いた。

「私の格好をしているあの女の人は、誰なんですか?」

「ちょっと待って、今はそれどころじゃないんだ」

 玉子が言ったとき、謎の娘が苑玲のもとに到着して言った。

「江青同志、お茶をお持ちしました」

 その声を聞いたとたん、苑玲は目をむいて言った。

「まさか・・・・・・」

 すると相手は馬鹿にした口調で言った。

「私が誰だか、わかる?」

「蓮英。どうしてあなたが・・・・・・」

 苑玲は敵意を隠せなかった。趙丹から手紙で蓮英の素性についても知らされてはいたが、苑玲の心に一度植えつけられた不信感はぬぐえていなかった。

 最後に会ったのは蓮英が吊るし上げにあったときだ。怒りにまかせて怪我までさせたことは、今では本当に悪いと思っている。だが、それを差し引いても蓮英を許せない理由があった。苑玲は若趙丹に恋をしていた。だから彼と蓮英の婚約に関する記事を読んで以来、好きな人を奪われたと思い込んで恨んでいるのだった。

「私がなぜこんな格好をしていると思う?」

 蓮英は蓮英で、頭では理解をしていても、やはりまだ気持ちの整理ができずにいた。

「今日の作戦であんたの役をあてがわれたからに決まってるでしょう。そうじゃなかったら、誰があんたの代わりなんか。それで、お茶の後はなに? 足湯の用意するの?」

 苑玲は答えず、鄭君里に怒った顔をむけた。

「監督、少しお話が」

「え、なに」

 鄭君里はかたちだけ聞き返すと、玉子との話をつづけた。

「作戦を予定どおりに進めるためには、野外撮影開始時刻を繰り上げるしかないでしょう。張橋が僕たちの考えていることに気づいたとしても、今すぐ作戦を実行すればまだ間に合うはずですから」

「そうですね」玉子が言った。

「ただ問題は肝心の阿三がまだ来てないことですよ。いったいどこでなにをしてるんだか。手下の者が探していますが、撮影所にも家にもいないらしくて」

「これ以上待っているわけにはいきませんね。気は進みませんが、趙丹の役目は別の人間がするしかありません」

 鄭君里が言うと、玉子はうなずいて蓮英に呼びかけた。

「蓮英、今から黄宗玲の救出を担当してほしい。藍蘋の役は切り上げて、撮影がはじまったらトラックに乗って監獄に向かうんだ。手順は会合で聞いてわかってるな」

 蓮英は戸惑いつつも呑みこんで、

「わかりました。撮影開始後、すぐにむかいます」

「待ってください」苑玲が割って入った。

「私のお母さんのことをこんな人には任せられません。お父さんを待てないというなら私が行きます」

「だめだ」鄭君里はぴしゃりとはねつけた。

「君には警官たちを引きつけておくためにも、このまま江青をやってもらわなければならない」

「救出は蓮英が代行ということで」玉子が引き取って言い、

「テレビカメラの方は当初の予定どおり王春泉さんでいいですか」

 鄭君里に確認した。

「いいでしょう。それじゃ、はじめますか」

 監督と進行係が制作陣に新しい指示を与えに行くと、苑玲は蓮英に言った。

「あなた、なにが狙いなの?」

 江青そのもののように甲走った声だった。

「今は自分の役目を果たした方が身のためですよ、江青同志」

 偽藍蘋は冷ややかに言った。


 一方、本物の江青は『Conference Room』になかなか姿を見せない。時計は九時二十一分を差していた。

「取材は九時からと言ったのに、どうしたんだ。本当に来るのか?」

 老鴉が焦燥感をあらわにすると、

「たしかにおかしい」趙丹がうなずいて言った。

「僕たちの方が罠にはめられているのだろうか」

「阿三まで、よ、弱気にならないで」

 花旗が言ったとき、老鴉がたまりかねたように立ち上がり、

「ああ、じっとしてるなんて耐えらんねえ。俺、ちょっと外に出て来るわ」

 そう言って、ドアにむかった。

「だ、だめだよ」花旗があわてて止めようとした。

「そうだ」趙丹も加勢する。

「今行ってもなんにもならない。それどころか危険だ」

「だけど待ってたってはじまんねえ。とりあえず江青が建物に入ったかどうかだけでも表の見張りに聞いて来やす」

「表の見張りって、魯漠や小莉と接触するつもりか? そんなことをしたら二人が斥候とばれてしまう」

「小莉は花売り娘に、魯漠さんは物乞いにばけていやすから、花を買い小銭を投げれば、金持ちが施しをしているようにしか見えねえでしょう」

「無茶だ。なにもかもぶち壊しになる可能性がある」

「なんと言われても俺はここにじっとしていられねえ、わかってください」

「老鴉!」

 老鴉を趙丹と花旗が二人がかりで必死に引き留めようとした刹那、ドアからノックの音が聞こえた。三人はハッとしていっせいに体の動きをとめた。

 返事をする間もなく開いたドアから入って来たのは、きらびやかなドレスをまとった女性だった。


 映画『銀花』の野外撮影は、予定より約一時間早くはじまろうとしていた。

 苑玲扮する江青はすでに撮影用のリムジンに乗っている。警備隊は市民が近づかないように道の両側に壁のごとく立ちはだかっていたが、リムジンに乗っている女主人公の正体が苑玲と気づいたようすは今のところなかった。

 役者も制作陣も準備万端で全員配置につき、後はただ開始の合図を待つだけだった。

 ところが鄭君里がまさにカチンコを鳴らそうとした瞬間、助監督の玉子が駆け寄って来て言った。

「監督、問題発生です」

「どうしました」

 鄭君里が聞くと、玉子は他の人間には聞こえないように耳もとで言った。

「あくまで撮影上の問題について話しているという顔をしてください」

「ええ、わかっています。いったいどうしたんです?」

「今、夏雲湖さんから報告がありまして、市の境界線付近に集まっていた応援の反乱分子が射殺されたそうです」

「なんだって」鄭君里は思わず顔色を変えた。

「しっ、声が高いですよ」

「失礼」鄭君里は声を小さくして、

「いったい誰に?」

「イギリス空軍機は私たちの狙いどおり、地上の反乱分子に武器を与えようと空中から銃と弾丸を落としたそうです。ところがそこに兵士が待ち受けていて、反乱分子たちが武器を拾おうとすると、いっせいに銃撃をはじめたらしいんで。イギリス空軍機はすでに去った後だったと言います」

「兵士たちがなぜ待ち受けていたんだ」

 鄭君里は真っ青になって言った。

「・・・・・・楊拓ですか」

「私もそう思います。やはり私たちの会話を聞いていて、江青に密告でもしたんでしょう」

「だとしたら警備隊が撮影の邪魔をしてこないのは変じゃないですか。楊拓はまだその辺にいるんですよね」

「ええ、楊拓は公衆電話から戻って以降、ずっとそこの歩道にいます。今もこちらをじっと観察している」

「なにを企んでいるのかわからないが、作戦を中止するわけにはいかない。警備隊が邪魔してこないのであれば、このままやるしかないでしょう」

「わかっています」

「これ以上話していては怪しまれます。録音機材に問題があったふりをしてはじめましょう」

 鄭君里が言うと、玉子は録音機器の確認に行くふりをし、まもなく好(ハオ・・・オーケー)の合図を送った。

「開始!」鄭君里は陸監督になりきってカチンコを鳴らした。

 江青に扮した苑玲の乗ったリムジンがゆっくりと走りだし、それを追ってレール上のカメラが動き出した。

 撮影が順調に滑り出したのを見て、苑玲に扮する蓮英はひそかに角に停めてあったトラックに乗りこみ、エンジンをかけた。

 もう一台、テレビカメラを積み込んだトラックには撮影技師の王春泉が乗りこみ、キーを回した。


 今会議室に入って来た美しい女性が江青と知った瞬間、老鴉も花旗も驚きのあまり中華系英国人に扮していることを忘れ、中国語を口走りそうになった。

 江青は特別な扮装をしていたわけではない。髪をアップにし、眼鏡をはずして丁寧に化粧をし、肌の露出したドレスを身に着けていただけだった。だがそれだけでも、ふだん化粧らしい化粧をせず、軍服しか着ない江青には劇的な変化をもたらしていた。

 半ばぼうっとして握手をかわし、それでもわざと母国語を下手に発音し、

「『ヴォイス』のタイラー・チャンと、ジャック・スンでゴザます」

 と自己紹介をする二人に江青は苦笑めいた微笑を投げ、中国語で言った。

「私がこんな格好をしているのは意外かしら?」図星をつかれ、

「いや、そんなことは――」

 老鴉は緊張のあまり中国語を訛らずに話していることに気づいてハッとし、あわててぎこちない発音で言葉をつごうとしたが、その瞬間江青に遮るように言われた。

「座っていいかしら」

「ど、どうぞ」

 江青はにこりと笑って、

「あなたたちも座ったらどう?」

 老鴉と趙丹二人にテーブルをはさんだ椅子を勧める一方、花旗がテーブルの横に立ってカメラを抱えているのを見ると、

「カメラマンさん、遠慮しないでどんどん撮影してちょうだい」

 薄笑いを浮かべて言い、再び老鴉たちにむき直ってテーブルに綺麗な箱を置き、自ら開けて見せて言った。

「これお菓子、私持ってきたの」

 なかにはデコレーションケーキが入っていた。

「あ、これはごテーネーに」

 老鴉は意識して中国語を拙く話す。

「ナイフもフォークもこの中に入っているから、よかったら今、あなたたちで切り分けて食べてちょうだい」

「それてはおコツバに甘えまして、イタダクます」

「カメラマンさんは今は無理かしら。後になって悪いわね、ミスター・スン」

「とんテもない」

 花旗もあえて間の抜けた発音で言い、事前になん度も練習した体勢でカメラを構え、シャッターをパシャパシャと切った。

「お皿はここにあるわ。私は撮影後でけっこうよ」

「切るの、ヤルます」老鴉がナイフを取って言った。

「いいんですか?」

 趙丹があえて距離を置いた口調で言ったにもかかわらず、老鴉は無意識に、

「いいっすよ」

 ついふだんどおりの口調で答えた。おまけによけいなことまで口にした。

「俺は刃物には慣れてやすから」

 その瞬間、江青が目の奥を鋭く光らせたのに趙丹が気づき、老鴉に目配せをした。老鴉はようやく自分の失態に気づき、とりつくろうためになにか言おうとしたが、その瞬間、江青が言った。

「ミスター・チャン。そういえば、この方が誰か尋ねないんですね」

 趙丹を示し、老鴉の反応をうかがうように見る。

「事前に知らせずに私が突然招いたのに尋ねないなんて、まさか知り合い? あなた実は中国ははじめてではなかったの?」

「ア、ア・・・・・・」老鴉は動揺のあまり奇声に近い声を発し、

「ノー、この方、今日初対面。ミス江青待つ間、少し話しただけドす」

 江青は冷たく笑って言った。

「無理に片言で話さなくていいのよ。普通に話せるんでしょ」

 老鴉は心臓がどきりとうねったのを感じたが、なんとか気持ちを立て直した。

「いえ、僕、中国語、親に教わりましたが子どもなみ。じれったい思います」

 老鴉の目の奥を江青は覗き込むように見たが、しばらくすると、

「・・・・・・まあいいわ。あなた方にも設定があるんでしょうから。とりあえず取材の方からはじめましょうか。本題は後からでもいいでしょう?」

「も、もちろんドす」

 雰囲気にすっかり呑みこまれた老鴉は、今日の取材は表むきのもので、江青にとってはMI6との面談でもあったことを忘れそうになっていた。

「一応紹介するわね。この方はジャオ・ダン(趙丹)と言ってアクターよ」

「アクター、ドすか」

 老鴉は驚いたふりをし、趙丹にむかってわざと責めるように言った。

「あなた、僕には掃除夫言いました」

「本業は俳優なのよ」

「三十年前から第一線で活躍していた、中国映画界の代表的存在なの」

 趙丹は心中で首をひねった。新一九三〇年代化政策で元の職業に関わる発言は禁じているくせに、江青はなぜ今、自分が俳優だったことを話題にするのだろう。

「ジャオ・ダン、すばらし俳優ドすか」老鴉は江青に言った。

「しかし今日突然、ミス江青の取材に呼んだ理由なんドす?」

「それはね」江青は意味深長に笑った。

「私のことを話すには、ジャオ・ダンにいてもらう必要があるからよ」

「それ、どいう意味ドす」

「わからない? 趙丹、こっちに来てくれる?」

 長椅子を叩いて趙丹を隣に座らせたかと思うと、老鴉に言った。

「まあ、まずはゆっくりお菓子を食べてちょうだい」

 老鴉はいつのまに江青のペースにのせられていた。


 江青に扮する苑玲の乗ったリムジンは南京路をゆっくりと進んでいる。

 今まさに『銀花』のヒロインである月蛾が自動車に乗って街を見物するというシーンの撮影中なのだ。

 苑玲は台本どおり窓から外を眺めている。その際、沿道に居並ぶ警備隊に正体がばれないよう、首の曲げ方、肩の張り方、腕の置き方ひとつでも江青そのものに見えるように心を砕いた。

 気を張りつめて車窓を見つめる苑玲の目に、歩道の右側に停まっていたトラックが走り出して右折し、ややおいて左側に停まっていたトラックが左折したのが見えた。

 右折したのは趙丹のかわりに蓮英が乗ったトラックで北の監獄へ、左折したのは王春泉がテレビカメラを積んだトラックで南のフランスクラブへむかったにちがいなかった。

 警備隊は不審な目はむけていないようだ。二台ははじめから現場の外にあったから、特には注意を引かなかったのだろう。ひとり楊拓だけが訝しげな視線を走らせていたが、苑玲は気づかなかった。ここまでは作戦どおりだ、と思った。私さえうまくやれば、このまま警察の目を南京路に引きつけておける。

 苑玲はこの後自分がやるべきことを頭の中で復習した。リムジンが止まったら外へ出て、江青に似せた声で台詞を言う。そして鄭おじさんに言われたとおりなるべく失敗し、撮影時間を少しでも引き伸ばして、警備隊を野外撮影現場に釘付けにする。それが私の役目――。

 そのとき突然、運転手が急ブレーキを踏んだ。虚を突かれた苑玲は前のめりになり、前の座席に頭をぶつけた。衝撃で黒眼鏡が外れ、足もとに落ちた。刹那、

「撮影中止!」

 声が辺りに響き渡った。驚いた苑玲は眼鏡をかけ直すことも忘れて横を見た。

 車窓のそばに立っているのは制作陣ではなく民警だった。苑玲の顔をひと目見るなり、

「やっ、こいつは江青同志ではない」

 中年の警官はそう叫んで楊拓を呼んだ。

「ご推察のとおりでした。自動車にいるのは若い藍蘋です」

 楊拓は会心の笑みを浮かべて近づいて来た。警官にリムジンを停めさせたのはこの男だった。

「撮影の邪魔をしないでください」

 鄭君里が飛び出して、偽江青の素顔を見せまいと必死で遮ろうとしたが、楊拓は言った。

「監督さん、リムジンに乗っていたのは江青同志じゃないようですが、どういったわけですか」

「それは・・・・・・」鄭君里は声をうわずらせた。

「我々人民警官は江青同志を警護するために今日の任務についた。にもかかわらず江青同志とされた人物はまったくの別人だった。君たちは我々を欺いた。なんのためだ」

「欺くつもりなど・・・・・・」

「監督さん・・・・・・いや、北さんと言った方がいいかな。しらばっくれても無駄ですよ。私はあなたが『銀花』の本当の監督ではないことにも、制作陣全員がなにか良からぬことを企んでいることにも気づいています」

「・・・・・・僕たちは映画の撮影をしているだけです」

「それじゃ聞きますが、さっき、道路の左の角と右の角に止まっていた二台のトラックが撮影開始と同時に動き出したのは、なぜです。二台はどこへむかったんです?」

 鄭君里はトラックに楊拓が目をつけていたことに驚かされた。

「そんなことは知りません」

 楊拓は底光りのする目で鄭君里の顔をじっと見つめると、やがて言った。

「悪あがきはよした方が身のためですよ。トラックはそれぞれ警察の自動車が追尾しているので、じき行き先が判明します」

 鄭君里の顔色の変化を楊拓は楽しげに眺めている。

「しかしその前に、リムジンにいる女性を警部が拘束したいそうです」

 警部は座席を覗き、脅える苑玲に言った。

「我々を欺いて江青同志になりすました罪は重い。ただじゃ済まんぞ」


 完全に江青のペースだった。

 江青は言った――趙丹をインタビューに呼んだ理由を話そうと思うが、その理由はあなた方に一九三〇年代の上海映画界の知識がなければ、聞いても理解できないだろう、だからまずそのことから話したい、と。

 その後、江青のひとり語りがはじまったが、その話たるや、事実とはまったくかけ離れたものだった。当時の映画界の代表は私である。三〇年代の女優と言えば藍蘋、俳優と言えば趙丹なのだ。私たちの人気は凄まじかった。江青は自分と趙丹が数々の名作で主演したとうそぶき、実際は別の女優が主演した映画さえも自分が演じたかのように言った。

 この嘘を趙丹はあえて否定せずに黙って聞いていた。老鴉も頭から信じたふりをし、感心した顔をして相づちを打ちながら、江青が趙丹の前で偽りの過去を話す真意はなんだろうと考えていた。表面的には、自分が若い頃一流女優だったという妄想をイギリス人に信じてほしいだけのように見えるが・・・・・・。それ以上考える余裕はなかった。老鴉は焦りを感じていた。後十分もすれば、王春泉が隣室に到着し、会議室の模様をこっそりと映像用カメラで撮影しはじめる予定だった。

 中国でも一九六五年にはテレビ放送が行われていた。一般家庭における受像機の普及率は低かったものの、街頭には設置されていたので視聴者は決して少なくなく、ドラマ番組などは大変な人気があった。新一九三〇年代化政策の開始とともに、受像機はすべて撤去され、テレビ局もすでに閉鎖されている。しかし王春泉はそんな建物に侵入し、カメラを盗み出すことに成功。今日フランスクラブに持ち込んで江青を隠し撮りしようとしていた。

 老鴉にとっては、ほんの数分がとてつもなく長い時間に思われた。


「あれだ、あのトラックだ」

 楊拓が座席から腰をあげて叫んだ。

「間に合ってよかった。早く行ってくれ」

 運転手がリムジンのブレーキをかけるなり、助手席の警部と、後部座席で苑玲の左にいた巡査がドアから飛び出し、前方のトラックにむかった。

「あんたは、ここにいなきゃだめだ」

 楊拓は苑玲の腕をつかんで引き留めた。

 苑玲は黙って睨み返す。抗おうにも手錠に拘束され、身動きがとれない。ここフランスクラブの前まで苑玲はリムジンの後部座席で楊拓と警官に挟まれて、無理矢理一緒に移動させられて来た。楊拓は公衆電話で、部下から王春泉の乗ったトラックのむかった先を聞くと、火のついたように目の前にあったリムジンに乗りこみ、苑玲を後部座席に乗せたまま、運転手に飛ばせと命じて来たのだった。

 部下の言ったとおり、トラックはフランスクラブ前に停めてあった。エンジンはかかっていない。リムジンから降りた警官たちは人気のない運転席を眺め、車体をあらためはじめた。

 楊拓ははじめはリムジンで待機していたが、トラックのようすが気になってたまらないらしく、苑玲を助手席に移動させて運転手に見張っているよう命じ、外に出て、

「なにかわかったか?」警部に尋ねた。

「誰も乗っていません。荷台もカラです。似てはいますが、別のトラックです」

「撮影現場で車牌子(チェーパイズ・・・ナンバープレート)を確認しておけばよかったが、今さら言ってもはじまらない。目当てのトラックがフランスクラブに侵入していないか、確認してくれ」

「直接確認するんですか?」

 困惑する警部に、楊拓は語気荒く言った。

「いいか、状況をよく考えてくれ。現在、江青同志の所在が不明なんだ。江青同志の替え玉を現場に据えた『銀花』制作陣が拉致した可能性がある。ためらっている場合ではない」

「はい」

「では、行ってくれるな?」

「わかりました」

「頼んだぞ。状況しだいでは強行突破も辞さない構えでな」

 楊拓が眼鏡を光らせて言うと、警部は覚悟を示して言った。

「はい、では応援も準備します」

 警部が命令を下そうとした瞬間だった。

「ちょっと待て!」

 背後から声がした。警官たちは反射的に銃を抜き、振り返りざまに構えた。

 するとそこには五十前後の痩せた背の低い男が立っていた。男は銃を向けられても動じたようすはなく、

「あんた方さっき、このトラックがなぜここに置いてあるかを話していたようだが」

 地を這うような声で言った。

「教えてやろう。あんた方を引きつけて、ここに足止めにするためだ」

「なんだと?」警部が目を吊り上げる。

「おまえはなに者だ」

「譚友五だ」

「なに?」楊拓は血相を変えた。

「上海市外に通信を試みていた男が譚という名前であるとの情報があったが・・・・・・。もしかして、それはおまえか?」

「そうだとも」譚友五は小柄な体に似合わない声を張り上げる。

「よくも言ってのけたな。我々はこの場でおまえを撃つこともできる」

 警官は引き金に指をかけたが、譚友五はいっこうに動じず、

「おい。その前にむこうをよく見てみろ」

 そう言って顎でリムジンを示した。

 楊拓と警官たちは、たちまち瞠目した。

 助手席と運転席から、いつのまにか苑玲と運転手が消えていた。そのかわり別の若い娘と中年男が座っていた。しかも娘は男に刃物をつきつけられている。

「僕を撃つと同時に、あの娘の喉笛もかき切られることになるが、それでもいいのか」

 譚友五は楊拓をなぶるような眼差しで見た。

「花売り娘が私になんの関係がある」

 楊拓は言ったが、目を血走らせてリムジンの窓を食い入るように見ている。

 男は物乞いに扮した魯漠で、娘は花売り娘の格好をした小莉だった。

「それにしては、ずいぶんと青い顔をしているが」

 譚友五は嘲るように言った。

「張橋さん、いや楊拓、やせ我慢はよくないね。あれはおまえの娘だろう?」

「・・・・・・!」

 警官二人が驚いた顔を宣伝部部長にむける。楊拓は狼狽したようすで、

「馬鹿なことを言ってもらっては困る」

 無理矢理話題を変えるように、

「それより運転手と女はどうした?」

「あの二人ならとっくに逃げたよ」譚友五は言った。

「な、なんだと? 警部、譚友五を拘束しろ」

 警部が近寄ろうとしたとたん、

「おっと、花売り娘の方は心配じゃないのかな。あの娘がおまえの実の子だということは、こっちにはわかっている」

「いいかげん、デタラメはやめろ」

「デタラメなもんか。少しでも情報を得るためにいろいろな無線を傍受していたとき、なにを間違えたか、無線を使って雑談している大馬鹿者がいてね。それが宣伝部部長張橋と通信部部長だとわかったときには驚いたよ。おい楊拓、おまえは言ったな、『俺にはこう見えても娘がいる。若気の至りってやつで十九のとき、十六の女学生との間に出来た娘だ。女は結局子どもを産んで養子に出した。養子先はいい家庭で父親は国語教師をしていた。だが新体制になり、運にめぐまれず父母ともに亡くなった』と」

 楊拓は額に汗を浮かべ、

「いったいなにを言っている。私は楊拓などではない。張橋だ。おまえがなにを話しているのか、私にはサッパリだ」

「いつまでもごまかそうたって、そうはいかないぞ」

 譚友五は今にもリムジンの魯漠に合図を送りそうな気配を見せた。楊拓はさすがに耐えきれなくなったようすで、

「やめろ」叫んだ。

「よし」譚友五は笑みを浮かべて言った。

「やっと小莉が自分の娘と認める気になったか」

「ちがう、そういうわけではない。あの娘は、近所の娘だった。それを思い出したんだ。だから放っとけないと・・・・・・」

 楊拓の頬を汗がつたった。譚友五は馬鹿にしたように、

「ふん、たしかにそうだったな。おまえは大学を出て働いて給料が溜まるとすぐ、小莉の家の近所に引っ越し、そこから動かなかった。それはなぜか。自分の子どもの成長をそばで見守りたいと思ったからだろう。おまえは自分が実の父親だとは気づかれないようにしていた。ところが新一九三〇年代化政策が施行される少し前に、おまえは突然名乗りでる。それは小莉を自分の間諜として利用するためだったんだ。もともと熱心な党員だったおまえは、いつか指導者に目をかけてもらい、出世したいと願っていた。そんなとき、江青が映画人たちの情報を集めているという情報をつかんだ。小莉は趙丹宅の隣に住んでいたものだから、これを使わない手はないと、飛びついたんだ。小莉は小莉で見かけは幸福そうでも実は養父母とうまくいっていなかったから、本当の父親を知ると狂喜し、愛情をありったけ捧げるようになった。おまえは自分たちが会っていることは誰にも話してはならないが、お願いを聞いてくれれば晴れて二人で暮らせるようになるかもしれないという甘言で釣り、娘を間諜に仕立て上げた。ちがうか?」

「・・・・・・こいつは気がふれている。よくもまあ、そんなことを微に入り細を穿って、こしらえたものだ」

 楊拓は唇をぴくぴくと震わせて言った。譚友五はそれに勝る迫力で、

「じゃあ、いいんだな」

 そう言って魯漠に合図を送った。

「よせ!」楊拓は血の気の引いた顔で叫んだ。

「おまえの話を認める。だから乱暴はよせ」

「よし、やっとその気になったか。だが認めるだけじゃ足りない」

 譚友五の視線を追った楊拓は、

「わかった」うなずいて見せ、警官二人に言った。

「拳銃を降ろせ」

 警官は言うとおりにしたが、譚友五は言った。

「よし、それじゃ荷台に入れ」

「なんだと?」

「おまえたちが荷台に入って大人しくすれば、小莉は無事だ」

 抗議しようとする警官に楊拓はこっそりと耳打ちした。

「悪いがここは従ってくれ。娘の命がかかっている」

「・・・・・・わかりました」

「あの男をただですますつもりはない」楊拓は言った。

 譚友五は警官二人と楊拓がトラックの荷台に乗ると縄で縛りあげ、猿ぐつわをはめた。


 苑玲はフランスクラブにむかった。

 今こうして歩いていられるのは、楊拓らがトラックの点検に夢中になっていた間、譚友五たちが助けてくれたおかげだった。ちなみに、苑玲とともに解放された運転手に扮していたのは、『銀花』監督の陸新華である。陸新華は自分も作戦に協力したいと申し出、今回の役を演じていたのであるが、楊拓らの一件に巻き込まれ、内心少しヒヤリとしていた。しかし、最後まで冷静にことに処した肝の太さはさすが、監督を務めるだけあった。

「陸新華、君は先に撮影現場に戻って状況を報告してくれ。苑玲、君は申し訳ないが少し協力してくれないか。ここに、江青が着ているものと同じ軍服がある。江青との取材がうまくいかなかったときに備えて、小莉に着せ、その模様を撮影する手はずだったのだが、小柄な小莉よりも君の方が背格好が近いぶん、より本物らしく見えるだろう。取材が行われている部屋の隣には王春泉がいるはずだ。張橋こと楊拓がここまで来たことを伝えて、臨機応変に対応できるよう準備してくれ。部屋の場所については、ビジネスセンターまで行ってこれを見せれば、ノートンが案内してくれる」

 譚友五はそう言って、若趙丹のつてで入手したという江青の物と同じ軍服一式と、魯漠が予備のため作っておいた偽造会員証を手渡したのだった。

 今手にあるその会員証の名は「Li Jia 李佳」――江青の従妹の名になっている。李佳は地方にいてフランスクラブで顔は知られていないとのことである。

 おかげでクラブの受付は問題なく突破できた。もっとも偽造会員証がなくても、今の姿なら通してもらえたかもしれない。苑玲は江青と同じ軍服を着、江青がいつもしていた黒眼鏡をかけている。ビジネスセンターの位置を知ろうと廊下の案内図を見ていると、背後から突然声が聞こえた。

「ミス江青(ジャンチン)」

 苑玲を江青と勘違いして声をかけたものにちがいなかった。無視したかったが、怪しまれるとまずいと思い、苑玲は仕方なしに後ろを振り返った。

 するとそこには痩せた禿鷹のような顔つきをした中年白人男が立っていた。反射的に逃げたくなったのを、苑玲はかろうじて抑えた。なにを言うべきか苑玲が迷っていると、白人男は独り合点したようすで心得たという顔をしてうなずき、英語で一方的に話しかけてきた。

 苑玲はほとんどどわからず焦ったが、『ロンドン・タイムズ』という言葉だけははっきりと聞き取れた。ひょっとしてこの人、お父さんが手紙に書いていたウィリアム・ウィークス? そう思った苑玲は耳に入る英語に今まで以上に神経を集中させた。するとこう言ったのが聞き取れた。

「いいお知らせがあります――」

 黄浦江、イギリス軍、船到着、準備完了。それらの言葉が意味することは一つしか考えられなかった。

 黄浦江にイギリス軍の船が入り、もうすぐ上陸する!

 苑玲の顔にはもう少しで驚きと恐怖が表れるところだった。白人は、江青同志はなぜ喜ばないのかというような顔をしている。苑玲はひきつった顔にかろうじて笑いらしきものを貼りつけ、

「Okay」

 どうにかそれだけ言うと、男に行け、というしぐさをした。今聞いたことを一刻も早く仲間に伝えなければ、という気持ちでいっぱいになっていた。

 ウィークスらしき男が怪訝そうな顔をしつつも去って行ったので、苑玲は案内図を確認してビジネスセンターに向かい、そこにいた事務員のノートンの案内で会議室の隣の部屋に入った。

 室内には譚友五の言ったとおり、王春泉がいた。

 王春泉は電気の修理業者になりすまして建物に侵入、同じくノートンの手引きで部屋までやって来ていた。

 部屋は会議室とのつづき部屋になっていて、隣室との境界にはドアがあった。王春泉が入ったとき、そのドアは開いていたが、床までのカーテンが垂れていて隣室は見えないようになっていた。

 撮影の位置確認のため、カーテンの隙間から会議室を覗くと、長椅子が二台むかい合っていた。王春泉から見て左側の椅子には、手前から江青と趙丹が、右側の椅子には老鴉が一人で座っており、老鴉の右側のスペースで花旗がカメラのシャッターを切っていた。それにしても趙丹が会議室にいるとは、あまりに意外だったので、王春泉ははじめ驚きのあまり、思わずカーテンを揺らしそうになった。

 今もカーテンがあるのは変わらないが、先ほどとちがうのは、カーテンの割れ目から、カメラのレンズと録音マイクが覗き、会議室内にむけられていることである。両者とも道具箱と見せかけた大型の箱に入れ、重いのを苦労して運んで来たのだった。

 レンズとマイクは今、会議室内の江青にむけられている。カーテンと江青はほぼ直角に位置した。つまりカメラは江青の右手にあったから、万が一江青が右をむけば、レンズを視界に入れることになる。

 非常に危険な撮影だが、それが王春泉に与えられた任務だった。この映像と音声を市民に公開して江青の裏の顔を知らせる、という使命に撮影技師は燃えている。遅くとも十時までには必要な映像を撮り終えるだろう。撮影したフィルムは受付のノートンへ、ノートンから譚友五へと手渡され、譚友五によってテレビ局へと持ち込まれた後、全市で放送される予定だ。すべての作業が完了するのに最低一時間かかると見ても、正午に決定的番組が市民の耳目に触れることになる。今ごろ駐車場のトラックには譚友五が乗り込んでフィルムの到着を待ち、元テレビ局では譚友五の弟子たちが準備に明け暮れているはずだった。

 王春泉は江青が右をむきそうになるたびに、肩で支えた重いカメラとマイクを引っ込め、カーテンの奥に隠すという動作を繰り返している。

 幸いなことに江青はいまだテレビカメラで撮影されているとも知らず、花旗のカメラにのみ気を取られているようすで老鴉の質問に答えていた。

 老鴉はようやく江青の独り語りを止め、魯漠が書いた台本に沿った話題に取りかかりはじめていた。問答が台本どおりに進めば、江青がイギリスと通じていること、ひいてはMI6のメンバーであることも聞けるはずだった。王春泉も今か今かと待っている。

 部屋に入った苑玲は王春泉のそばに寄ろうとした。驚いた王春泉がわずかにカメラを傾け、両脇のカーテンが揺れて隙間が生じたので、苑玲は会議室の光景を垣間見た。

 花旗が見えた。老鴉が見えた。その前に座っているのは、どう見ても父・趙丹だった。当然それには驚かされたが、趙丹の隣にいる江青にも目を見張らされた。あらかじめいるのを知らなかったら、それが江青とは気づかなかったかもしれない。綺麗・・・・・・十歳は若返っている。苑玲は思わず見入った。江青も気配を感じたのか、こちら側をむいた。

 王春泉はあわててレンズとマイクをひっこめたが、もはや手遅れだった。


 撮影現場の警備隊員たちは険しい顔つきで、後片づけをしている映画制作陣たちを見張っている。

 すでに撮影中止が言い渡された九時半から三時間以上がたっていた。

 だが制作陣たちがすぐに撤収するようすは見えない。時間稼ぎのため、必要以上にゆっくりと動いていた。彼らはテレビから映像が流れ出すのを待っていたのだった。

 テレビ受像機も、テレビカメラと同様、王春泉が周同志を支持する会の会員の協力を得ながら保管されていた場所を探り出し、昨日までに市内各所に運び入れていた。

 各所とは大通りの商店や劇場、里弄などである。信頼できる会員である商店主や大家に秘密裡に預けたテレビは、放送時間が来て映像が流れしだい、商店なら店頭に、里弄なら路地等、人目を引く場所に置かれることになっていた。

 市民はテレビがあることに驚くにちがいないが、それよりも放送される映像に気を奪われ、憤るだろう。きっと暴動や反乱が起きる。警察が止めようとしても止められないほどに、誰もが溜まった不満を爆発させるはず――そうなれば彼らを先導して体制を倒せるはずだった。

 楊拓に作戦の一端を嗅ぎ付かれた今、制作陣の希望はテレビ放送に託されていたといってよかった。テレビは鄭君里と玉子のそばにも隠されていた。今は布がかぶせられているが、電源はすでに入っている。

 放送予定時刻の正午はとうに過ぎ、一時に近かった。にもかかわらず、ブラウン管はいまだなんの映像も映そうとはしない。各所の会員もテレビを表に出せずにいるにちがいなかった。

 いったいなにが起きたというのか? 制作陣は焦りを募らせる。後片付けはほとんど終わりかけていた。鄭君里も無意識にテレビの方をむくことが多くなった。するとそれに気づいたのか、

「さっきから、なにをこそこそ見ている」

 警官の一人が鄭君里に歩み寄って言った。

「え、なんですか」

「ごまかすな」

 警官は覆いをサッと取っ払い、たちまち目を怒らせた。


 時間はさかのぼって、午前十時過ぎ――。

「譚友五のやつめ、これで我々を捕えた気でいたんだから笑えるな」

 楊拓はそう言って、さっきまで口につめこまれていた布と縄を丸めてトラックの荷台に放り捨てた。

「まったく、ど素人もいいところでした」巡査が誇らしげに言った。

「こちらが体に力を込めていることに気づかないなんて。力を抜けば、あちらがゆるみ、こちらがゆるみで、これくらいの縄をほどくなんてわけないです」

「とにかく自由になったんだから、あっちにいる娘の救助にあたってくれ」

 楊拓はリムジンに目をむけた。小莉は依然として魯漠に拘束され、刃物をつきつけられていた。

「そのつもりですが、下手に動きますと娘が傷つけられる恐れがあります」

「間抜けどもの仲間を出し抜くぐらいできないと言うのか。警官なら救え」

「わかりました」

 警官二人はさすが玄人だけあって隙をついて魯漠を銃弾で撃ち殺した。頭を撃たれて座席にうつぶせになった魯漠の返り血を浴びた小莉は真っ青になって震えていた。自分の横で人が銃弾に倒れて死ぬ経験ははじめてではなかったが、恐ろしいことに変わりはない。声も出せずにいると、警官に救い出された。

 楊拓は小莉のもとに駆け寄って抱きしめると、警官二人にむき直って言った。

「よくやった。君たちにはあらためてお礼する。――ただし君たちの義務はまだ終わっていない。フランスクラブに入ったと見られる譚友五とその仲間の企てを阻止するんだ」

「承知しました」

 そのとき何気なく通りに目をやった楊拓は、むかいのパン屋に注意を引かれた。ガラス窓を通して、床に四角い箱のような物が置いてあるのが見えたが、その箱からアンテナとしか思えない物が伸びていたのである。

「ひょっとして、あれは・・・・・・」楊拓は目からただならぬ光を発し、

「ちょっと、あそこに行って来る」

 小莉にそう言うと、いきなり車道を渡り、パン屋に突入して床にある物がテレビと確かめ、店主を脅して出どころを吐かせると、警官たちの元に戻って、

「今すぐフランスクラブに突入しろ」荒々しく命じた。

「リムジンの死体は後回しでいい」

 その理由を楊拓から聞かされた警部たちは、顔を極度に緊張させて言った。

「わかりました。撮影現場にいる警官たちにも連絡して応援に来させます」

「頼んだぞ。私は念のためこの娘を病院に連れて行く」


 時間はまた少しさかのぼって、午前十時前――。

 江青は揺れたカーテンの隙間から、丸いガラスのような物が飛び出ているのを見た。それはすぐに引っ込んだが、合わせて人の顔らしき物も確認した。驚いた江青は座ったまま、

「誰?」閉じたカーテンにむかって叫んだ。

「そこにいるのは」

 カーテンの背後にいる王春泉は息を殺した。

「いるんでしょう? どうして返事しないの」江青は言った。

「どしたんドす」老鴉があわてて、とりつくろおうとしたが、

「今あのカーテンの奥に人がいたのを見たのよ。気づかなかった?」

 老鴉と花旗、趙丹の三人は狼狽を顔に出すまいと懸命に努めながら、首を横にふった。江青は疑わしげに、

「本当に誰も見なかった? 私は見たわ。たしかこの奥はつづき部屋よね」

「見えたの、気のせいありませんか」

「いいえ、気のせいなんかじゃないわ。あの顔、見覚えがあるのだけれど・・・・・・」

 江青はそう言って立ち上がり、カーテンを開けに行こうとした。

「ノーだめ」老鴉が血相を変えて遮った。

「ミス江青。むこういる人、悪人だったら危ないドす。私、かわりに見ます」

 そのとき、

「思い出したわ」江青が言った。

「さっき見えた顔はあれよ――王春泉(ワン・チュンチュアン)だわ、撮影技師の」

 老鴉、趙丹、花旗は色を失った。

 一方、カーテンの背後の王春泉は覚悟を決めた顔をして、寄り添っていた苑玲に小声で言った。

「逃げろ」

「え」

「君だけでも逃げるんだ」

「でも、お父さんがむこうに・・・・・・」

「大丈夫、後で会える。早く行くんだ」

 王春泉はカメラをかまえたまま必死に言う。

「これを」

 苑玲は手帳から切り離した一枚の紙を王春泉のポケットに差し込んだ。楊拓のこと、イギリス軍が迫っていることを知らせるメモだった。江青が老鴉と問答している間、とっさに手帳を取り出して書いたのである。その紙を王春泉に渡すと苑玲は部屋を出た。

 カーテンのむこう側では、老鴉が相変わらず懸命に江青を牽制している。

「むこういる人、ミス江青知ってる人思っても、似てるだけ可能性あります。やはり危ない思います」

「いいえ、あれは絶対に王春泉よ」

 そう言ってカーテンに手をかけようとする江青に、

「ワン・チュンチュアンって誰ドす?」

 老鴉はあえて質問して、時間をどうにか稼ごうとしたが、

「だから言ったじゃない。撮影技師よ。さっき見えたのはきっとカメラだわ」

 江青は言いながらサッとカーテンを開いた。そして隣室で王春泉を見るなり、勝ち誇ったように言った。

「ほら、私の言ったとおりだった」

 顔をカメラで隠している王春泉に江青はわざとらしく声をかけた。

「まあ、あなた王春泉ね。――あらこれ、やっぱりカメラだわ。それにマイクまで。こんなところでなにを撮っていたのかしら?」

「・・・・・・」

 王春泉はなにも答えず、黙ってレンズを見つめていた。顔は隠していたが、撮影と録音はつづけていたのである。この場の状況をすべて記録することが自分の義務だと思い、なにがあってもカメラと録音テープを回しつづけようと固く決意していた。

「――そう、私を撮りたかったのね。それ、テレビのカメラよね?」

 江青はいきなりカメラと録音機に手を伸ばして両方の電源を切った。つづけてテーブルからナイフを引ったくると、王春泉のうなじにつきたてた。

「今度電源を入れたら、つき刺すわよ」

 凍りついた老鴉、花旗、趙丹を睨みつけ、

「このナイフ、すごく切れるんだから。ケーキを食べるだけが使い道じゃないのよ」

 不気味な笑いを広げて言った。

「あなたたち、王の仲間なんでしょう?」


 王春泉に言われて部屋を出た苑玲は、ビジネスセンターの受付に未知の白人がいなかったのにはほっとしたが、ノートンがいないことには弱らされた。江青に計画がばれた可能性があることを、ノートンから外の仲間に伝えてもらいたかったからだ。

 苑玲は仕方なく危険を冒して駐車場にむかうことにした。そこにトラックが駐車していて譚友五が待っているはずだったからである。

 駐車場に面した裏口はすぐ近くだ。誰にも会うことなく外に出ようとした所で、背後からいきなり声をかけられた。

「ミス江青、Where are you going?」

 苑玲はぎょっとした。ふりかえると先ほどの悪相の白人――ウィークスと思われる男がいた。答えずにいると、白人はなおも英語で聞いてきた。

「取材はどうでしたか?」

 苑玲は自分の正体を疑われているのではと一瞬考えたが、相手の目を見る限り、その可能性はなさそうだった。相変わらず苑玲を江青と思っているようだ。だとするとこの白人は本物の江青とは直接面識がないらしい。苑玲はやや落ち着きを取り戻し、英語の決まり文句を思い出して口にした。

「None of your business」

 ところが男はしつこく言ってきた。

「ミス江青、あなたにお伝えすることがあります」

 苑玲は溜息をつくと中国語で、

「私、今疲れてるのよ。英語でやりとりする気分じゃないの」

 そう言って逃げようとした。すると白人は中国語で言った。

「私、英語、使うやめます」

 苑玲は白人が中国語を話せることに仰天し、あやうく表情に出す所だったが、なんとか江青の口調を真似て中国語で言った。

「いったいなんなの?」

「飛行機、到着、予定どりします」

 その内容の意味する所は不明だったが、苑玲はイギリス軍の上陸に関連したことかもしれないと見当をつけ、おそるおそる聞いた。

「飛行機ってイギリス軍の・・・・・・?」

「そです」白人はすぐさまうなずいた。

「予定どおり到着って、どこに到着するんだったかしら」

 苑玲が聞くと、ウィークスらしき白人はさすがに変な顔をしたが、こう答えた。

「上海の田舎、龍華ある飛行場です。着くはすぐ、出発できます聞きました」

「わかったわ」一刻も早く白人と離れたかった苑玲は言った。

「用件はそれだけ?」

「ノー」

 白人はそう言うと周囲に誰もいないか目で確認してから、ささやくように言った。

「私、ミス江青に渡す物、見つかりました」

「え、私に渡す物?」

「はい。約束の部屋、用意あります。ミス江青、確認くタさい。飛行場行く前、お願いです」

 苑玲はあやうく頓狂な声をあげるところだった。

「わかったわ」

 ウィークスらしき白人は、「江青」が予期した反応を示さないので不審を表し、

「ミス江青、忘れましたですか。あなた欲しい物、私見つかりましたとき、あなた私に約束の物、渡す話しました」

 青い目を光らせて言い、苑玲の黒眼鏡の奥を覗きこむように見た。

 苑玲は正体を暴かれるのではないかと焦るあまり、つい言った。

「ええ、私も用意してある」

 すると白人は、

「よかた。約束の部屋、どぞ行てくタさい」

 そう言って促し、苑玲を先に行かせようとした。しかし苑玲にはどこへ行くべきかもわからない。

「どしました? ミス江青」

 苑玲はやむをえず歩き出したが、まったく途方に暮れてしまった。


「あなたたち、ただじゃすまないわよ」

 江青は王春泉にナイフをつきつけたまま、老鴉、花旗、趙丹の顔を順々に睨みつけて言った。

「ミスター・チャン、ミスター・スン、『ヴォイス』の記者というのは嘘ね?」

「いいえ」老鴉は否定したが、江青は嘲笑をうかべて言った。

「ごまかしても無駄よ。手紙をもらった時点で、この取材が怪しいことぐらい気づいていたのだけれど、やっぱりそうだったのね」

「ちがいます、誤解ドす――」老鴉が急いで否定したが、

「どこが誤解だって言うの。撮った映像をどこに流すつもりだったか知らないけど、没収よ。こんなテレビカメラと録音機」

 王春泉にナイフをつきつけた江青は叫んだ。

「下ろしなさい! ほら!」

 王春泉は脅しに屈しなかった。それどころか再び二つの機材の電源を入れようとした。その指を江青はナイフでいきなり切りつけた。

「痛っ」王春泉は思わず指を離した。

「私は本気よ。首を刺されてもいいの? まずそのカメラを下ろしなさい」

「いいや、下ろさない」

 王春泉は意地になったように言った。指からしたたる血をぬぐおうともせず言った。

「あんたの思い通りにはならない。放送を阻止できると思ったら大間違いだ」

 その言葉とその昂然とした態度に、江青はにわかに不安を感じたように言った。

「どういう意味よ?」

「あんたがさっきここで行った言動は、すべて記録され、じき放送されると言っているんだ」

「どうしてよ。フィルムもテープもここにあるじゃない」

「今ここにあるのは新しい分だ。撮影済みのものは、ついさっき仲間が来たときに渡した」

 王春泉ははったりを言った。

「今ごろテレビ局に届いているだろう。放送が楽しみだ」

「テレビ局? そんな物、今の時代存在しないわよ」

 江青が馬鹿にしたように言うと、王春泉は答えるかわりに不敵な笑みを浮かべた。

「ひょっとしてあんたたちテレビ局の建物に侵入したの? でも市民にテレビがなければ中継したところで無意味」

 言いかけた所で江青はハッと目を見開いた。

「まさかあんたたちテレビの受像機まで・・・・・・」

 割って入ろうとする趙丹にその隙を与えず、王春泉はひたすら江青に打撃を与えんとして言った。

「そうだ。俺たちは当局がテレビを保管した場所を探りあて、今日までに市内各所に設置しておいた。それらたくさんのテレビから俺がさっき撮影した映像と音声が流れ出すんだ。大勢の市民がさっきあんたがここで話したことを聞くことになる」

 江青はしばらく眉をぴくぴくさせていたが、やがて開き直ったように言った。

「だからなんだって言うの? 私は聞かれて困ることはなにも話していない。新一九三〇年代化政策に違反してテレビを持ち出したあんたたちの方が、この後よっぽど困るはずよ」

「俺は自分がしたことを後悔はしていない」王春泉が言った。

「その言葉、よく覚えておきなさい」

 江青は王春泉をしばらく睨みつけていたが、

「その紙はなによ」

 ズボンのポケットからはみだしている紙をサッと奪いとった。

「あ・・・・・・」

 王春泉はしまったという顔をしたが、ときすでに遅かった。

「悪巧みが書いてあるんでしょう。あんたたちが私をはめようとした証拠になるわ」

 そう言って中の文字に目をあてた江青は一瞬愕然とした表情になった。

「これは苑玲の字じゃないの」声を張り上げて見せた。

「どうやら苑玲もここに来たみたいね」

 その言葉は誰よりも趙丹に衝撃を与えた。王春泉に「本当か?」と問う目を向けると、江青が言った。

「あの娘まであなたたちの仲間だったの。さっきフィルムとテープを渡したといった仲間は苑玲ね」

 王春泉は、

「ちがう、苑玲ではない」

 と急いで否定したが、江青は言った。

「信じると思う? あの娘の居所をつかまなきゃ」

 趙丹が理性を失った口調で言った。

「江青さん、あなたは今、敵に囲まれていることを自覚して下さい」

「あなた今、敵と言った? あなたも私の敵と認めたのね?」

 趙丹は返事をするかわりに、仲間に目で合図を送った。

「江青さん、形勢はあなたに不利ですよ」

「なにを言っているの。これが目に入らない?」

 江青はナイフをつきつける。趙丹は老鴉を見た。老鴉がうなずいて、

「そんな物、こっちがその気になれば簡単に奪えるぜ」

 芝居を捨てて江青に飛びかかった。江青はナイフをふりまわして抵抗した。老鴉は腕を切られたが、

「おっと」ニヤリと笑い、

「痛え、と叫んでうずくまりてえところだが、あいにく俺はこれしきの傷にゃ慣れてるもんでね」

 江青の腕を押さえつけてナイフをもぎ取ろうとした。江青は放そうとせず、身をもがいて毒づいた。

「悪党がついに本性をあらわしたね」

「そうとも、俺は中国生まれの中国育ち、自分の体を切って稼ぐ物乞い野郎よ。そうなったのも元はと言えば、おめえのおかげ」

「この私を『おめえ』呼ばわりするとは」

「けっ、どっちが悪党だかわからねえ面あしやがって。この際切りつけてやりてえが、匕首を置いてきちまったのは一生の不覚だった」

「負け惜しみはよしなさい」

 江青はそう叫んで老鴉の脇腹を刺そうとした。趙丹と花旗が飛びかかって阻もうとした瞬間、

「やめろお!」

 ドアから何者かが叫んで飛びこんで来たかと思うと、江青をつき飛ばし、

「譚友五!」

 王春泉が叫んだ。床に倒された江青は逆上した顔を上げ、

「ただではすまないわよ。全員大人しくしなさいっ!」

 狂気のように叫んで一同にナイフをつきつけた。

「大人しくするのは、あんたの方だ」

 譚友五が拳銃を出し、銃口をむけた。

「ナイフを捨ててもらいましょうか、夫人」

 江青は銃口にひるんだようすは見せたが、

「自分がなにをしているかわかっているの?」

 そう言って刃向かった。

「江青夫人、あんたの方が形勢不利だと認めるんだ」

 譚友五は怒鳴った。

「ナイフを捨ててください。でないと譚友五は本当に撃ちますよ」

 趙丹が警告したが江青はなかなか離さない。趙丹は思いきって近づき、その手に触れ、凶器を握る指を一本ずつ広げていった。江青はなぜか抵抗しなかった。

「俺が預かりやす」

 申し出た老鴉にナイフを渡すと、趙丹は今やまったく無抵抗に見える江青に言った。

「王春泉から奪った物も渡してもらいましょう」

 江青は抵抗はしなかった。趙丹はメモをもどかしげに開き、文字に目を吸いつかせた。

 そこにはたしかに苑玲の筆跡で、楊拓が警官とフランスクラブ前に来たこと、イギリス軍が今日上海に上陸するつもりらしいことが短い文で書かれてあった。

「これが事実だとしたら・・・・・・」

 趙丹が言い、仲間がメモを覗きこんだときだった。

 会議室とつづき部屋の二つのドアが同時に開き、銃を構えた人間がどっとなだれ込んできた。民警だ。彼らは隊列を組んで突入し、またたく間に趙丹、譚友五、王春泉、老鴉、花旗の五人を包囲した。譚友五の拳銃は背後からすばやく奪い取られ、テレビカメラも録音機も花旗のカメラもすべて押収された。

「江青同志、お体に異常はありませんか」

 警部はそう言ってなにごとかを耳打ちした。すると江青は哄笑して、趙丹たちに言った。

「どう見ても形勢は私に有利ね。後で張橋にお礼を言うわ」

「張橋? やつなら動きのとれない状態のはずだ」譚友五が言うと、

「縄の縛り方をもっと勉強しておくべきだったわね」江青が嘲った。

「くそ、張橋のやつ、警官に縄をとかせたか・・・・・・」

「大人しくしろ。ここに立て」

 警官たちは趙丹たち五人を壁ぞいに立たせ、一人一人に手錠をはめて連行しようとした。そのとき、江青がふとなにか思いついたような顔をして言った。

「待って、連れて行かないで。もう一度彼らと私だけにしてくれないかしら」

 驚く警部をそばに招き、その耳に口を寄せて江青はなにやら吹き込んだ。

「――ね、わかった? 利用できるのよ」

「しかし・・・・・・」困惑する警部に江青は言った。

「手錠をかけたんだし心配はいらない。だからもう一度彼らと私だけにしなさい。これは命令よ」

「承知しました」警部はしぶしぶうなずくと、

「万一のため、これをお持ちください」

 そう言って拳銃を渡した。

 江青に追い立てられて警官が出て行く間、五人は顔を見合わせた。

「俺たちをどうするつもりだ」

 老鴉が小声で言うと、花旗が不安そうに言った。

「り、利用できるとか言っていたけど・・・・・・」

「さあて」

 江青はドアを閉じると、ガランとした部屋を見回した。そのまま五人の元へ真っ直ぐ歩いて来るかと思いきや、卓上の電話にむかい、ダイヤルを回して受話器に言った。

「・・・・・・ライスキー?」

「江青のやつ、あのライスキーに電話してるのか」

 王春泉が小声で言うと、

「そうみたいだな」譚友五が言った。

「なに考えて俺たちの前でライスキーに電話など」

「ウィークスは今どこ?」

 江青は電話の相手に中国語で聞き、しばらくするとうなずいて言った。

「・・・・・・そう、わかったわ。私が『取材』を受けることは彼には言ってなかったから」

「おいおいウィークスだと。まったく俺たちの前でやつの名まで口にするとは、いってえどういう魂胆だ」

 老鴉のつぶやきに王春泉が答えるともなく言う。

「わからん。ああこの場面を撮影できたら、良かったんだが」

 江青が受話器を置くなり、譚友五が思いきったようすで話しかけた。

「江青夫人、ライスキーとウィークスはあなたの友人ですか?」

「黙りなさい」

 江青はそう言うと拳銃をちらつかせた。まもなくノックの音がして、大柄な白人の男が手に銃と縄を持って入って来た。

「ライスキー」

 江青はロシア人をそばに寄せてなにやら耳打ちしたかと思うと、急に声を張り上げて言った。

「そこの二人をさっき言った部屋に連れて行って。あの男とあの男よ」

 江青が指さしたのは王春泉と譚友五だった。ライスキーは表情のない顔をむけ、

「承知しました」中国語で答えた。

「僕たちをどこへ連れて行く」譚友五が叫んだ。

「警官を追い出したのはこの部屋で話があったからじゃなかったのか?」

「黙りなさいと言ったでしょ。仲間を撃たれてもいいの?」

 江青が趙丹たちに銃をむけた。

 ライスキーは大人しくなった譚友五と王春泉のすでに手錠をかけられた腕の上から腰の回りに縄を巻き、二人の体を結びつけて言った。

「歩け」

 ライスキーは二人の背中を押した。その力は強力で、体を鍛えている王春泉でさえ、つまずきそうになった。巨体のロシア人はいざとなれば二人の体をやすやすと持ち上げてしまうにちがいないと思われた。

「それじゃお願いね、ライスキー」江青は安心しきった声で言った。

「急いでやってね」


 苑玲はウィークスらしき白人に「約束の部屋」に行こうとせかされて通路を歩き出したものの、この白人が江青となにかを受け渡しするのに定めたらしいその部屋がどの部屋なのか、さっぱり見当がつかなかった。すでにとおり過ぎているのかもしれなかったが、白人はなにも言わず、苑玲に前を歩かせてただ黙々とついて来ている。このままだと私の正体がばれてしまうかもしれない――苑玲がそう思ったときだった。

 行く手を民警が横切り、苑玲はぎょっとなった。だがなにが救いになるかわからない。その瞬間、白人の男は、

「警察、見つかる困ります。早く、こちへ」

 そう言って苑玲をかばうように立ち、先頭立って約束の部屋まで導き出したのである。


 二時間半後、午後一時過ぎの撮影現場――。

 今、彼ら制作陣は、周囲を取り巻くすべての警官に銃口をむけられていた。警官たちは制作陣の処置に関する命令が上層部から下るのを待っている。

「玉さん、行ったらいけませんって」

 玉子がカメラの方へ動きかけたのを見て鄭君里が注意した。

「動いたら撃つと言われたじゃないですか」

「どっちにしろやられるかもしれないんです。だったら、あいつらの振る舞いをカメラに映しておきたいと思いましてね。今なら隙があります――」

「あ、だめですって」

 玉子はカメラにむかって歩き出していた。とたんに、

「動くな」警官の一人が銃の狙いを定めて言った。

「おっと」玉子が足を止めて言った。

「これは失礼。ご報告しませんとね。散歩、ただいま終了。いやあ、すっきりしましたよ。動いたおかげで生き返りました。なにしろ今日はいいお天気ですからなあ。雨だったらこの寒い中、大変でしたよ。お天道様が照ってくれて本当助かった。これもひとえに晴れ男の皆さんのおかげ。ありがたい世の中でえす」

「おい黙らんか、しゃべりすぎだぞ」

「緊張しているせいですかね。緊張すると言葉もくだける傾向にあるわいなア――ほれ、わいなアが出た。これは音頭がとれますな。晴れ男の皆さんへ、ひとつ自作の導引をお目にかけましょう。ワイナーワイナーピヨピッヨと」

「馬鹿にするのも、いいかげんにしろ!」

「わーしの胎児はどこ行った。ピーヨピヨ、頭におるかいハアどっこいさっと」

「やめんと撃つぞ」警官はいっせいに指を引き金にかけた。

「待ってください」鄭君里が必死の形相で言った。

「この人は病気なんです」

「病気だとお? 健康そのものだろうが」

「頭の方が・・・・・・やられています」

「助監督が精神異常者だというのか?」

「ええ、そうですそうです、ふだんは普通なんですが、銃にたいする恐怖心のために持病が表れたんでしょう」

「ふん、今だけは見逃してやる。大人しくさせるんだ」

「はい」

「今度歩いたりすれば容赦なく撃つぞ」

「・・・・・・北さん、病気とはひどいですな。でも、助かりました」

 玉子はささやいた。鄭君里も小声で返す。

「玉さん、無茶はやめてください。希望はまだあるんです。たしかに地方の応援部隊はやられたと報告がありましたが、若趙丹がいます。彼が作戦会議で仄めかしていたとおりB52とうまく連携が取れたなら、なんとかなるかもしれませんから」

「しかし警備隊に包囲されてもうなん時間にもなるというのに、若趙丹が助けに来る気配はまったくない」


 時間は再び二時間半戻って、午前十時半過ぎのフランスクラブ――。ライスキーは拘束した王春泉と譚友五を連れて会議室を出た瞬間、外に待機していた警官に囲まれた。

「なにをやっている」問われたが、流暢な中国語で返した。

「この二人をしかるべき場所に連れて行くだけです。とおしてください。江青同志のご命令です」

 江青の名を出したとたん、警官たちはさっと道を開けた。ライスキーはそのまま男二人を連れて裏口から駐車場へ出た。

「おまえたちの自動車はどこだ?」

 ライスキーはいきなり二人に聞いた。

「聞いてどうする」譚友五が言った。

 ライスキーは答えずに屋外駐車場を見渡し、

「あれだな」

 木陰にあるトラックを指さしてそう言うと、その方へ二人を引きずるようにして近寄り、

「この中に予備のテレビカメラはあるか?」と聞いた。

 二人は警戒心を露わに言った。

「なぜそんなことを聞く」

「死にたくなきゃ答えろ。あるのか、ないのか」

 ライスキーが銃を抜き、譚友五の頭に銃口を押し当て引き金に指をかけたのを見ると、王春泉はぎょっとした顔になって言った。

「おい答えるからやめろ。カメラはある」

「カメラはあるんだな」ライスキーは言った。

「荷台のどこら辺だ」

「なんに使うんだ」

「いいから教えろ!」

 王春泉が答えると、ライスキーはテレビカメラを担ぎ出し、自分の肩に乗せた。無表情でそんなことをするロシア人の顔を睨みつけ、王春泉は再度質問した。

「なんに使う」

 ライスキーは答えるかわりに、

「ついて来い」

 そう言って片手でカメラを担ぎ、片手で銃をつきつけ、縄でつながった二人を裏階段から二階に昇らせ、入ってすぐのところにある一室に入らせた。中は真っ暗だった。入るなりライスキーは、

「撮影の準備にかかれ」ドアを閉じて言った。

「こんな暗いところで撮影を? なにをどう撮る?」

 ライスキーはなにも答えず、二人の横を通った。すると光が、左から差し込んで来た。ライスキーが通路とは別の側のドアを開けたためだった。

 王春泉たちが入れられた部屋は先程の会議室と同じかたちで隣室とのつづき部屋になっている。隣室との境の壁にドアがあった。隣室は窓があり陽光で明るかったので、境のドアを開けると光が入って来たのだ。その明るい隣室に目をやった瞬間、王春泉と譚友五はハッと息をのんだ。

 隣室の机のそばには一組の男女がむかい合って立ち、中国語でなにか一生懸命話していた。男は白人だが、女は軍服に黒眼鏡を身に着けていて江青にしか見えなかった。王春泉と譚友五は目を疑った。江青は一階で趙丹たちといたはずである。それにさっきまでドレスを着ていた。いつのまに着替えたのか、という疑問が一瞬湧き起った。だが王春泉はすぐに気づいてつぶやいた。

「そうか、あれは苑玲だ」

 王春泉は苑玲がとっくにフランスクラブから逃げたとばかり思っていただけに驚いた。

「静かにしろ」

 ライスキーが王春泉の後頭部に銃口をあて、低い声で注意した。

 王春泉は、白人の外見の特徴が若趙丹から聞いた『ロンドン・タイムズ』記者の容貌と一致するのに気づき、

「あの男はひょっとしてウィリアム・ウィークス?」

 思わず尋ねたが、ライスキーは無視して怒鳴った。

「いいから撮影しろ」

「なにを撮れと言うんだ」王春泉は言った。

「あの二人に決まっている」ライスキーは隣室の男女を指さした。

「なぜ撮る?」

「これ以上よけいな質問すると本当に撃つぞ」

 ライスキーが二人にかわるがわる狙いを定めたので、王春泉は諦めて言った。

「撮影するにしても、手錠と縄をかけられてちゃできん」

「外してやる。ただしこいつが狙っていることを忘れるな」

 片手に銃を持ったままライスキーは二人の縄を外すと、針金を使い、大きな手に似合わぬ器用さで手錠の鍵を外して言った。

「さあ早く撮影しろ。遠慮はいらない。こちらは暗いから気づかれる心配はまずない」


 ウィークスは懐から取り出した物を苑玲に差し出して言った。

「ミス江青、あなた言った物、これ、よろしですか?」

 それは一通の封筒だった。黄ばんでだいぶ傷んでいる。苑玲は表情を動かさないよう注意して、中をあらためた。

 英語の文書だった。パッと見ただけではなんの文書なのかはわからなかった。ただ文章中にある「July, 1937」、「Dec, 1941」という日付が目にとまっただけだったが、その後にある一つの単語を見た瞬間、苑玲はあれほど注意していたにもかかわらず表情を変え、かすかに震えだした。

 すると案の定ウィークスが、怪訝そうな顔をむけて聞いた。

「ミス江青?」

 苑玲はあわてて笑顔を浮かべ、

「なんでもないの。私が欲しかったのは、これよ」

 取りつくろうように言った。

「あんまりうれしいから興奮して震えちゃって」

 ウィークスはその言葉を信じたのか、信じなかったのか、口もとに微笑をうかべて言った。

「よかたです。私渡したの、正しいですなら」

 その光景をテレビカメラで撮影していた王春泉は心中で首をかしげた。ウィークスは苑玲を江青と思いこんで封筒を渡したようだが、なにが書かれてあったのか? 苑玲はなぜ顔色を変えたのか?・・・・・・まあ、いずれにしろ今の光景を撮影できたことはよかった。映像上は江青が白人と秘密取引しているようにしか見えない。録画した映像を放送できたら、市民に物凄い衝撃を与えることができる。そう考えてほくそ笑んだのも束の間、王春泉は再び疑念に捕われた。江青にとっては明らかに不利となる隣室の光景を、江青はなぜわざわざライスキーに命じて俺に撮らせたのか? ライスキーに電話をして「ウィークスはどこ?」と聞いていたが、そのときウィークスが苑玲といることを確認したはずだ。となると江青の目的はなにか。この場面を市民に見せることだとは考えられないが。


「ミス江青、今度あなたの番です。用意した物、私にくタさい」

 ウィークスが言った。苑玲は金縛りにあったようになっている。江青がこの白人に渡そうとした物など、見当もつかなかったからだ。

「ミス江青、あなたこの部屋ある言いました」

 ウィークスがせかす。

 苑玲はなんでもいいから渡さなければと部屋にある物を改めて物色した。

 そのとき、つづき部屋の暗がりに差した光に目がいき、カメラが視界に入った。テレビカメラである。レンズはつづき部屋から覗き、苑玲たちにむけられていた。誰かが私たちを撮影している? もしかして王さん? 苑玲はウィークスに悟られないよう、そ知らぬ顔で視線を元に戻した。王さんはいったいなにをしているの? うまく逃げることができたのかしら? 私を撮影する理由ってなに? 瞬間的に頭を回転させ、さまざまな考えを思いめぐらした苑玲は、この後自分がすべきことがわかった気がした。

「ミス江青?」

 ウィークスは胡乱なものを見るように苑玲を見た。だがカメラには気づいていないようだ。次の瞬間、苑玲は机上にあった地図を取り上げると、それをウィークスの胸に押し当て、

「どうぞ、これを」

 相手に確認する隙を与えないように抱きついて言った。

「中国の特別軍用地図よ。当局のごく一部の人間しか見ることができない物だから、大切にしてね」

「江青」が地図を渡して白人に抱きついたところを、王春泉のテレビカメラは、しっかりと捕えたにちがいなかった。

「ミス江青」

 ウィークスは突然自分の胸に顔を押し当ててきた夫人の頭を持て余し気味に見下ろし、

「地図うれしですが、私頼んだは他の物です」

 そう言って夫人の腕を押して、自分の体から離すようにした。弾みで夫人の黒眼鏡がずれ、隠れていた瞳が覗いた。それを見下ろしたウィークスはハッとしたようすで、

「あなたミス江青ちがう!」

 叫んで苑玲の体を思いきりつき放すと、大急ぎで地図を広げて確認し、目の色を変えて言った。

「これ軍用地図ちがう!」

 ウィークスは地図を床に叩きつけると、辺りを警戒する態勢になり、室内に鋭い視線をめぐらせた。たちまちカメラに気づき、

「あれ、なに・・・・・」

 走って王春泉に接近すると、激昂して英語で叫んだ。

「やめろ! なぜ撮影などしてる。誰に指示された?」

 暗がりを覗き込んだウィークスは愕然として、

「ライスキー。おまえがなぜ・・・・・・」

 そう言ってライスキーと苑玲をしばらく見比べたかと思うと、

「おまえたち、グルか」目を血走らせて怒鳴った。

「俺をはめたな!」

「・・・・・・」

 ライスキーは王春泉にむけていた銃を無言でウィークスにむけた。

「おまえに俺が撃てるものか」

 ウィークスは薄笑いを浮かべて懐から出した拳銃をライスキーにむけた。

 その間に王春泉はカメラを持って譚友五とともに逃走しようと廊下に通じるドアにむかっていた。たちまちウィークスが、

「行かせるか! カメラを置いて行け」言いながら発砲した。

 発射された弾丸は王春泉の後頭部を貫いた。

 江青に脅されてもカメラを放そうとしなかった王春泉がその瞬間カメラとともにくずおれ、おびただしい血を流して床に倒れた。

「春泉・・・・・・春泉?」

 譚友五は友人の体をかき抱き、血まみれの首に触れた。脈が弱くなっていくのを感じながら、

「春泉!」

 我を忘れて絶叫した。張陽や魯漠につづいて、今また三十年来の仲間をここで失ったとは信じたくなかった。

「うるさいぞ」

 そう言って譚友五に狙いを定めた瞬間、ウィークスはライスキーの発射した弾丸に腹を撃たれ、呻き声をあげて倒れ込んだ。その隙にライスキーは譚友五に言った。

「カメラを持って行け。撮ったものを放送するんだ!」

 譚友五は耳を疑った。

「・・・・・・放送していいのか?」

「そうだ、急げ」

 譚友五はライスキーの真意を疑いつつも、死んだ友の手からカメラを奪い取り、夢中で走り出した。

 苑玲もどさくさにまぎれて逃げようとした。するとライスキーが、

「あんたは行かせない」

 そう言って苑玲の胸に銃の狙いを定めた。


 フランスクラブ内に入った民警たちは、銃声を耳にするなり階段を駆け上がって来た。

 二階はすでに蜂の巣をつついたような騒ぎだった。悲鳴をあげて外に逃げようとする女たちや、あわてふためく従業員たち、怒鳴る男たちをかきわけて、警官たちは銃声がしたという場所に銃をかまえていっせいに飛び込む。

 床に痩せた中年の白人男が一人、血を流してうずくまり、呻き声をあげていた。

 もう一人、五十代前後の中国人男が倒れていたが、こちらはすでにこと切れていた。

 警官たちの視線は隣室との境に立つ巨体の白人男と、その男に銃をつきつけられている軍服姿の中国人女性に集中していた。白人に銃の狙いを定めた若い警官は、軍服の女性を見ると目を見開いて、

「江青同志」そう言ったが隣の警官に否定された。

「ちがう、あれは別人、野外撮影現場で江青同志になりすましていた偽者だ」

 その隣にいた警部は言った。

「あの娘、リムジンから逃げ出したと思ったら、こんな所にいたのか」

 警部は白人に銃口を向けて言った。

「銃を下ろせ」

 ライスキーは苑玲に狙いを定めたまま、自分を取り巻く警官を見渡して言った。

「おまえたちもこの女が罰せられるのを望んでいるはずだ」

「おまえに罰する権利はない。我々は我々の法で罰する。銃を下ろせ」

「おまえたちの法などには任せられない」

「もう一度言う。銃を下ろせ。おまえは包囲されている」

「いいや、下ろさない。私を撃つというなら江青同志に確認してからにしろ」

「おまえに指図する権利はない」

「いや、ある。私は江青同志の命令でこの娘に銃をむけている」

 ライスキーは言った。

「デタラメを言うな! 江青同志がおまえなどにそんな命令を出すわけがない」

「信じないのは勝手だが、事実だ。私の邪魔をすれば、おまえたちは処分されるぞ」

「おまえの言っていることが事実か、確かめようか」

 警部は引き金に指をかけた。

「いいとも。ただしその前に私はこの娘を撃つ」

 ライスキーは言った。

 苑玲は絶体絶命だった。時刻は午前十一時十分。一階では父が、老鴉たちとともに、江青の思いのままにされようとしていた。


 約二時間後、午後一時十六分。

「おまえたちの処置が決まった」

 野外撮影現場を包囲する警官が、映画制作陣にむかって言った。

 鄭君里も玉子もぎくりとして警官を見返す。警部は銃をむけたまま言った。

「全員、国家に反逆した罪により、逮捕する」

 この場では撃たれないと知って、鄭君里はほっとした顔になったが、玉子は敢然と抗議した。

「なぜ逮捕を。我々が国家に反逆したという証拠がどこにあるんです」

「証拠なら幾つもある。第一に、おまえたちは江青同志の偽者を使って我々を欺いた。第二におまえたちは持ってはならないその機械を持ち出している」

 警部はテレビを指さした。

「全員逮捕だ。証拠はあがっている。無駄な抵抗はするな。抵抗する者は撃つ」

 警官たちは銃をかまえたまま、制作陣一人ひとりに一歩ずつ近づいて行く。

「みんな、従うことはない」玉子が叫んだ。

「騒ぐと撃つぞ」警官が玉子に照準を定め、引き金に指をかけた。

「玉さん、ここは従うしかない。死んだらなんにもならない」

「だけど北さん、捕まったら終わりじゃないか――」

「撃たれたら、それこそ終わりだ」鄭君里は必死で言った。

「みんなのためにも生きなくては」

「そうだな」玉子はようやくうなずいて言った。

「ここは北さんの顔を立てて従いましょう」

 警官は引き金から指を離し、玉子の手に手錠をはめた。

 制作陣は全員手錠をされ、貨物自動車の荷台に家畜同様詰めこまれた。貨物自動車は複数あり、監視の警官がついていて、逃げようとする者があれば、いつでも撃てるように銃をかまえている。玉子も仲間とともに一応大人しく座った。

「本当に監獄行きになるのか」

 つぶやきつつ外を見ると、鄭君里が言った。

「玉さん、これ以上変なことは考えないでくださいよ」

 車はまだ発車していなかった。玉子は監視の隙を見ては外のようすをうかがっていたが、先ほどまで自分たちがいたパラソルの方へ視線をやると、パッと顔を輝かせた。そのようすに鄭君里がただならぬものを感じとり、

「どうしたんです?」言いながら玉子の視線を追った。

「北さん、見えるでしょう。テレビに映像が映っているんです」

 玉子は興奮を懸命に押さえつけたような声で言った。鄭君里はしばらく目を凝らしていたが、やがて言った。

「・・・・・・なにも映っていないようですが」

「おかしいですね。さっきはたしかに映っていたのに」

「気のせいじゃないですか」

「いいえ、今は電波が乱れてるだけで、しばらくしたらまた映るかもしれません」

 玉子が言ったとき、監視が銃をむけて怒鳴った。

「そこ! なにを話している」

 二人は急いで口をつぐんだ。同時に貨物自動車が発車し、テレビは視界の外に消えた。

 一行は監獄へと護送されて行った。


 映像が流れだしたのは、まさに制作陣が護送された直後だった。

 午後一時二十二分。テレビを覆う布から光が洩れていることに気づいた商店主や里弄の大家たちは、予定開始時刻より一時間半近く遅れて放送がはじまったと見て、布を取り除けた。そして事前に指示されていたとおり、テレビを人目につく場所に移動させたのである。商店は店頭に、里弄は路地に。

 道行く人びとはテレビに気づいて目を丸くし、立ちどまった。新一九三一年に存在してはならない物があることに驚かない者はいなかった。

 市民は見入った。画面には二人の男女が映っていた。男は白人であり、女は軍服と黒眼鏡から毛沢東夫人江青と思われた。人びとの顔が驚きでいろどられた。江青が白人の男と親密そうに話していたからだ。白人の男は江青になにかの封筒を手渡した。封筒の中身を見た江青は満面の笑みを広げて、うれしそうに身を震わせている。しばらくたつと今度は自分が贈り物をする番とでも言うように江青は白人を見つめて、机上の物を取りあげた。

 一瞬画面いっぱいに拡大されて映しだされたそれは、中国の地図だった。細かい方眼線が引かれていることからして軍用地図かもしれない。江青はあろうことか、その国家機密かもしれない地図を、どこの間諜かも知れない白人の胸に押し当てるように渡したのだった。映像はそこで途切れ、突然アナウンスの声が流れ出した。

「つい先ほど、フランスクラブで撮影した映像をお送りしました」

「フランスクラブで・・・・・・?」

 人びとは裏切られた気持ちでいっぱいになった。江青が外国人の集まる場所で中国の軍事情報を白人に提供したとしか考えられなかったからだ。

「周恩来同志がアメリカ人をもてなして間諜呼ばわりされた場所もフランスクラブだったが――」

「そこに江青同志が」

 誰もが口に出してこそ言わなかったが、江青こそ白人の間諜だと考えたそのとき、

「そこの商店の前に立っている者、ただちに退去しなさい」

 民警が拡声器を使って命令して来たが、人びとはテレビから離れようとはしなかった。

 画面にはいつのまにか一人の中国人男性の顔が大写しになっていた。五十代前後とみられる男は乾いた肌に脂汗を浮かべ、充血した目を画面にむけている。その男は知る人ぞ知る、元映画音楽制作者の譚友五だった。

 譚友五は午前十一時過ぎにフランスクラブの二階の部屋からライスキーに送り出された後、裏に駐車してあったトラックにカメラを積み込み、門を突破して元テレビ局に移動し、三十分後には王春泉の撮影したフィルムを仲間に手渡した。それから大急ぎで作業がはじまったが、結局午後一時も二〇分以上過ぎてから、ようやく放送にこぎつけられたというわけだった。

 録画映像の放送が終わった今、譚友五は自らカメラの前に立ち、乱れた白髪を直そうともせず、必死の顔で訴えた。

「皆さん、映像に出ていた女性は今なおフランスクラブにいます。また、先程の映像を撮影した私の友人は殺されました」

「殺された?・・・・・・」市民は顔を見合わせた。

 誰の顔にも驚きと怒りが浮かんだ。人びとは江青が自分の不正行為を隠すために撮影技師を殺したと考えたのである。

「どけどけどけ!」

 民警が命令をきかない人びとに業を煮やして警棒を振り回して来た。

「わからんか、テレビは禁止だ!」

 人びとは警棒を避けて動きはしたが、テレビの見える位置から離れようとはしなかった。

「おい店主、テレビの電源を切れ!」

 民警の一人が銃をかまえて店に押し入った。

「店主、聞いているのかっ」店主はなにも答えない。

「電源を切らんと撃つぞ」

 店主は警官を睨み、抵抗の意思を表した。その瞬間、警官は発砲し、テレビを粉砕した。割れたブラウン管の破片が飛び散る。

 あっと退いた人びとを見て、民警は勝ち誇ったように言った。

「だから『どけ』と言っただろうが」

「ひどい・・・・・・」会社員の男が体を震わせ、民警にむかって言った。

「なんてことをする。それでも人間か!」

「誰にむかって物を言っている」

 民警は目で威嚇した。今までそれで怖気づかない市民はいなかった。だがその会社員は民警を睨んだまま言った。

「・・・・・・うるせえ」

 民警は耳を疑った。

「なんだと?」

「うるせえと言ってるんだ。おまえたちに従うのは、もううんざりなんだよ」

 そう言って会社員は民警をつき飛ばした。

「貴様、正気か?」

 民警が棒をかまえた瞬間、男の前に一人の青年が立ちはだかって言った。

「この人になにかしてみろ。俺が許さない」

「俺も許さない」別の男も加わって言った。

「私も許さない」主婦も立ちはだかった。

「私もだ」老人が言った。

「僕も」

 周りに集まっていた群衆のほとんどが警官に敵意を表明した。

「俺たちは怒っている。やられたくなかったら、おまえこそ消えたらどうだ?」

「貴様ら・・・・・・」

「わかんねえのか。俺たちの怒りはたった今、限界に達した。その怒りをぶつけられたいのか?」

 いくら警官でも少数では、群衆相手に戦う自信はないと見え、

「貴様らはテレビを見た犯罪者どもだ。このままではすまんぞ」

 捨て台詞を残して、退却した。

 群衆は喚声をあげ、興奮して、

「フランスクラブに行こう!」

 誰かが言ったのをきっかけに連れだって移動をはじめた。

 その頃テレビのある場所ではどこも同じようなことが起こっていた。

 フランスクラブ周辺の道路は集まった群衆で埋めつくされた。その数はすでに数万人以上にものぼっており、時間とともに増えていった。敷地を囲む鉄柵には怒れる顔が所狭しと押し当てられている。

「出てこい、裏切り者!」

 一人が叫べば、大勢が後に続いた。中国人警備員が追い払おうとしても、なんら効果がない。その中の一人の美青年に目を止めた警備員は驚いて言った。

「あ、君は・・・・・・」

「そうだ、僕だ、唐納だ」美青年――若い唐納は門を示して言った。

「おい、僕を中へ入れてくれないか」

 唐納は作戦開始時は物乞いに扮装してフランスクラブの外を見張っていたが、街頭のテレビが映像を流し出したのを見ると心配でならなくなった。恋する唐納の目には、江青らしき女性があろうことか、苑玲だとすぐにわかったからだった。

「門を開けたら群衆と一緒になだれこむつもりか?」

 警備員は唐納に聞いた。

「そんなことはない。とにかく僕を中に入れてくれ」

「だめだ」

 すると唐納の後ろにいた少年たちが、

「開けろって言ってるのがわかんないのか、この親父」

 そう言って柵越しにつかみかかった。警備員がほうほうのていで逃げるのを見ると、群衆は歓声を上げた。

「裏切り者の江青、出てこい!」

 一人が叫ぶと、人びとはいよいよ大胆になり、次の言葉を合唱するまでになった。

「江青を打倒せよ!」

 群衆は今にも門を押し破りそうな勢いを見せた。

 そのとき、上空からオルガンのような唸りが聞こえた。群衆の頭上に飛行機が一機近づいていた。地上千メートル足らずの高度で飛んでくるのを見上げた人びとはぎょっとして、

「おい、あれは外国の飛行機じゃないか?」

「本当だ。中国のじゃない、あの印はイギリスのみたいだぞ」

「なんでイギリスの飛行機が」

「江青が呼んだんじゃないか? イギリスの間諜ならおかしくはない」

 人びとはもう平然とそんなことまで口にした。

「俺たちを追い散らそうとしてよこしたのか。だったら撃って来るんじゃないか」

「みんな危ない、伏せろ!」

 その声が届く範囲の人びとはあわててしゃがんで顔を伏せた。だがオルガンのような音はしだいに遠ざかっていった。

「なんだったんだ・・・・・・」

「脅しやがって」

「江青のやつ、自分を守るために中国の空にイギリスの飛行機を飛び回させるとは、なんという裏切り者だ」

「許せないわ」

「みんな、このまま引き下がる気はないな?」

「ああ、誰が引き下がるものか。俺たちを本気で怒らせると、どういうことになるか、みんなで見せてやろうじゃないか!」

「そうしよう!」

 幾万という人びとが今度こそ本当に門を押し倒しそうな勢いを見せた。すでに門は群衆の圧力に耐えかねるように揺れはじめていた。

 そのとき、フランスクラブ内にいた民警数十名が列をなして出て来、

「全員門から下がれ!」

 拡声器で叫んだ。群衆が聞かないと見ると、いっせいに催涙弾を撃った。

 たちまち人びとはせきこみ、顔を覆ってうずくまった。とはいえ催涙弾が届いたのは幾万といる群衆のごく一部だ。先頭で倒れた同胞にかわって元気な市民が次々と門前に迫って来る。

 門内の警官にそこまでの催涙弾の用意はなかった。だが千人近い警官がすでに続々と応援につめかけて群衆を取り囲み、無数の催涙弾攻撃をしかけていた。

 幾万という人びとが目と鼻をやられ、退却せざるをえなくなった。

しかし門前にいた唐納をはじめ、その周りの数百人の者たちはなお、抵抗の意志を示してフランスクラブに押し入ろうとしていた。

「おい、入れてくれ」

 唐納はこりずに幾度も門の向こうの警備員詰所にむかって叫んだが、返答はなかった。

「唐納さん、後ろにも武装した警官が迫って来やした。どうしやすか」

 物乞いの格好をした少年が後ろから言った。唐納は言われた方を見て自嘲気味に、

「前進も後退もままならないってわけか」そう言うと少年に尋ねた。

「おまえはどうしたい?」

「そりゃ俺は老鴉さんや花旗さんたちを助けたいっすよ。そのためにはなんとしても門を押し倒してでも行かなけりゃ」

「おまえの気持ちはわかる」唐納は言った。

「僕も苑・・・・・・仲間の安否が気遣われてならない。だから中に入りたいが、仮に門を倒せたとしても、むこうにも警官が待ち受けている。僕たちは四面楚歌に陥った・・・・・・」

「諦めたような声を出さねえでくださいよ。一つだけ、方法がありやす」

 少年が言うと、唐納は藁にもすがるような顔をして言った。

「なんだ」

「これを見てくだせえ」

 物乞い姿の少年が覗かせた懐には短銃が入っていた。

「そんな物を持ってたのか」

「はい」少年は懐を再び隠して言う。

「下手に使えないので温存してましたが、俺がこいつで警官の野郎どもを攻撃しやすから、その間にみんなで門を倒して行ってくだせえ」

「攻撃ったって、相手は幾千といるんだぞ」

「この辺りに集まってるのはそれほど多くねえようです。弾丸には限りがあるにしろ、あいつらを一人ずつ片づけていきゃなんとかなりやしょう」

「一発でも撃てば、むこうも撃ってくる。一斉射撃にあうかもしれないんだ。おまえはもちろん、みんなも危険になる」

「じゃどうしろと? やつらはどっちにしろ撃って来るに決まってる。なんもしねえで、みんなで犬死する方がいいってんすか」

「囮だったら俺がなる」ふいに横から別の声が言った。

「夏さん・・・・・・夏雲湖さんじゃありませんか」唐納は瞠目した。

「さっき着いた。小僧、銃を俺に貸してくれ」

 夏雲湖は憔悴した顔を少年にむけて言った。小僧と呼ばれた少年は、

「渡せやせん」

 そう言って拒否したが、夏雲湖は切実な目を向けて言った。

「俺は死ぬべきだ。地方から応援に来た部隊が射殺されたのは、軍関係を担当した俺が力不足だったせいだ。罪滅ぼしのためにも俺は一人でも多く敵を倒して死なねばならん」

「夏さんのせいじゃありませんよ」唐納が言った。

「応援部隊がやられたのは、むしろ僕のせいです。フランスクラブにいたのに作戦が敵に洩れていると気づかなかったんですから」

「俺が撃ちやす」

 と少年が言ったとき、背後に迫った警察隊が銃を身構えて言った。

「門前にいる者たちに告ぐ。ただちに退去せよ。十数える」

「やつら、本気だ」

 夏雲湖はそう言うと、少年の懐から銃を抜き取った。

「あっ、なにしやがる」

「君たちはまだ若い。ここは俺に任せろ」

「夏さん・・・・・・」唐納は後の言葉をつげなかった。

「七・・・・・・六・・・・・・」

「なにをぐずぐずしてる。みんな、門を倒すなら今だぞ!」

「三・・・・・・二・・・・・・」

「よし、唐納さん、こうなったらやるしかない。みんな来い!」

 少年が仲間を集めて門を押させた瞬間だった。

「ゼロ!」警官がいっせいに引き金に指をかけた。

 夏雲湖はそのうちの一人に銃を向け、

「死んで娘に会えるなら本望だ」

 そう言って引き金に指をかけた。

 その瞬間、辺りに銃声が轟いた。

 夏雲湖は撃っていなかった。警官が撃ったわけでもなかった。

 誰も撃たれてはいなかった。

「銃を下ろせ!」警官隊の後方から声がした。

 ふり返った警官たちはあっと驚きの色をうかべた。いつのまに背後を人民解放軍の兵士たちに包囲されていたからである。深緑の制服を着た兵士たちは、青い制服を着た警官隊に狙いを定めて言った。

「銃を下ろさないと撃つぞ。警察が無辜の市民に銃をむけることは許されない。聞こえているのかっ、フランスクラブにいる警官もだ」

 上官らしい兵士が銃口を空にむけて二発目の威嚇射撃をした。

 この少し前まで唐納たちは門を押し倒すことに無我夢中だった。門がどうにか倒れ、死を覚悟して突進しようとしたとき、目前の警官たちが銃を下ろしたので、異変に気づいたのだった。

「あの軍隊は俺たちの味方か?」ふりかえった少年が言った。

「人民解放軍のようだが、なぜ・・・・・・」

 唐納の疑問に答えるように兵士の中から声がした。

「みんな、B52部隊が助けに来たぞ」

 そう言ったのは制服の兵士の間に見えるスーツ姿の青年だった。それが誰か気づくなり、

「若趙丹!」唐納は叫んだ。並みいる兵士たちを見て、

「それじゃ北京と連絡が通じたのか?」そう聞くと、

「ああ、彼らは北京から来て、一時間前に軍用列車に乗って上海に到着した」

 若趙丹は胸を張って言った。

「駅でずっと待っていた僕は彼らが到着すると、真っ先に野外撮影現場に案内したが、監督をはじめ仲間はすでに連れ去られた後だった。でもちょうど江青の八三二一部隊がフランスクラブに赴くところに出くわしたんで、やつらにはB52からの命令だといって退却させ、かわりに僕らB52部隊が来たというわけだよ」

「おかげで助かった。もう少しで警察に撃たれるところだったんだ」

「ああ、もう大丈夫だ。民警の方は部隊に対処してもらうとして、僕らはフランスクラブに突入しよう」

 若趙丹が言うと、唐納は即座にうなずいて行こうとしたが、後ろから夏雲湖が言った。

「君たちだけで行っちゃ危ない。建物の中にも江青の味方の民警がいるかもしれない。万が一のために兵隊さんにもなん人か一緒に来てもらった方がいい」

「わかりました」

 若趙丹がそう言って部隊からなん人か呼ぼうとすると、

「待て」門の外にいた警官が呼びとめた。

「さっきから話を聞いていりゃ、おまえは反乱分子の仲間じゃないか」

 若趙丹を指さすと、

「ということはB52部隊も反乱部隊ということになる」

 そう言うと深緑の制服を着た男たちを振り返り、

「軍を偽装した者どもめ、よくも我々を愚弄したな」

 叫んで再び銃を取ろうとしたので、若趙丹が言った。

「彼らは本物です、しかも精鋭のB52部隊ですよ」

「B52部隊など、聞いたこともない名だ」警官は言った。

「だいたい若造、貴様はなに者だ」

「僕はB52の部下です」

「へん、部下ね、B52の」

「そのような言い方をすると後で後悔しますよ。B52とは誰だか言いましょうか?」

「そりゃ是非とも言ってもらいたいね」

「B52は、毛沢東主席です」

「は? なに? 冗談だろう」

「冗談ではありません。それとお伝えすることがもう一つあります」

 若趙丹は厳かな口調で言った。

「なんだ?」

「毛沢東主席は、江青同志の粛清命令を出しています」

「ば、ばかな。そんなことを信じると思うのか。江青同志は主席の夫人だ。粛清命令など出すはずがない」

 警官はせせら笑おうとしたが、その顔には脅えの色が現れ、こわばっていた。

 すると軍の士官が前に出て、

「証明書ならここにある」

 毛沢東の捺印入りの書状を広げて見せて言った。

「これを見てもなお江青側につこうとするならば反逆者として厳罰に処する」

 警官たちはしんとなった。

 そのとき、上空に轟音が鳴り響いた。ヘリコプターがフランスクラブの上に現れ、今にも着陸しそうな気配を見せている。

「あれはなんだ」

 物乞いの格好の少年が見上げてつぶやくと、唐納が言った。

「江青が形勢不利を察して、呼んだ可能性がある」

「ヘリで逃げようってんすか」

「わからないけど、急ぐに越したことはない」

 唐納が言うと、若趙丹が兵士十名を集めて言った。

「よし、みんな急ごう」

 建物内の警官は、侵入してきた兵士が毛沢東部隊の人間と知ると、道を譲った。

 兵士の半分は二階へ、残りの五人は若趙丹や唐納、少年たちと一緒に一階のビジネスセンターにむかう。

「もう二時だ。江青がまだいてくれりゃいいけど」

「趙丹さんや老鴉、花旗も無事か心配だな」唐納が言うと、

「苑玲もだ」

 若趙丹が言った。まるで自分だけが彼女を気にかけているという口調だったので、

「もちろんだ」唐納が負けじと声を張り上げると、

「彼女はなんとしても助け出す」若趙丹がむっとしたように言った。

 微妙に気まずい空気が流れた状態で、一行はビジネスセンターに到着した。周辺に残っていた警官たちを兵士に言って脇に追いやると、若趙丹と唐納は会議室のドアを競うように開けた。

 部屋の隅に、別人のように美しく化粧した江青が、老鴉と花旗の間に、どこかぼんやりと立っていた。

 だが江青はたった今ドアが開き、唐納と若趙丹が現れ、背後に兵士を従えているのに気づくとサッと顔色を変え、銃をかまえようとした。たちまち複数の兵士が江青に銃をむけ、銃を下ろすよう命じた。

「誰にむかって言ってるのよ、あんたたち」

「銃を下ろしてください。でなければ撃ちます。脅しではありません」

 兵士らの迫力に押され、さしもの江青も従った。銃を床に投げ捨てると、ドアの前にいる唐納をきっと睨みつけ、

「あんた・・・・・・私を裏切ったの?」

「それは・・・・・・」唐納は言葉をつまらせ、目をそらした。

「なにしに来たか説明してちょうだい」

「まだわからないんですか」若趙丹が言った。

「あなたは粛清の対象になったんですよ、江青同志」

 江青は若趙丹の顔を穴の開くほど見つめ、目の下をぴくぴくと震わせた。

「・・・・・・なにを、言っているの?」

「毛沢東主席はあなたを敵対勢力とみなす書状を出しました」

 江青の顔はみるみる青ざめていった。どうにか冷静になろうとつとめているようすで、

「そう」ようやく返事をした。

「江青同志、我々はB52部隊です」

 兵士が江青の前に現れて言った。

「行きましょう」

「どこに」

「我々は二三日中にあなたを北京に送るよう命令されています」

「冗談でしょう」

 数人の兵士が江青を取り囲んで拘束する。別の兵士は警官に命じて老鴉と花旗の手錠を外させて言った。

「連れて行け」

「ちょっと! 物乞い役者に私を連行させるなんて本気なの?」

「はい」

 兵士はそう答えると、老鴉と花旗に江青を連行させ、周囲を自分たちの銃でかためて出口にむかった。

「まったくうまく化けたな。本物の兵士にそっくりだ。さっき北京から到着した部隊なんて言っていたが、あれは嘘だろう?」

 後に残った唐納が小声で聞くと、若趙丹がうなずいて、

「ああ。この間やっと連絡のついたB52部隊が今日予定の時刻に間に合わないと聞いたときはどうしようかと思った。でも幸い軍隊に所属した経歴を持つ会員たちがなん人かいたのと、映画の衣装係たちが倉庫から軍隊の衣装をかき集めてくれたのと、魯漠さんが作った毛主席・・・・・・B52の偽書状があったおかげでなんとかなった」

「その書状が魯漠さんの最期の作品になったと思うと無念だな・・・・・・」

「ああ。この作戦に参加する以上は危険がともなうことは本人も覚悟はしていたようだけど、だからと言って・・・・・・な」

「しかし武器までよく用意できた」唐納が気分を変えるように言う。

「なに、全部偽物だよ。それに一部の元軍人以外は、民間人に兵士の衣装を着せただけだから、部隊の正体がばれないように心の中で祈ったさ」

「彼らに江青を任せても大丈夫なんだな?」

「うん。じき本物のB52部隊が到着して合流する予定になっている。B52が毛主席であることも、江青粛清命令を出しているのも本当だからな」

「それならいいけど」言いながら会議室を覗き込んだ唐納が言った。

「あれ、趙丹さんがいない・・・・・・」

「本当だ。譚友五さんによれば、ここにいるはずなんだが・・・・・・」

 会議室内にもそのつづき部屋にも趙丹の姿は見当たらなかった。そこで受付のノートンに尋ねると、趙丹は唐納たちが到着する少し前に会議室のつづき部屋から出て来て苑玲の居場所を聞き、二階にいるかもしれない、とノートンが答えるやいなや飛び出して行った、ということである。

 若趙丹と唐納は競って二階にむかった。置いてけぼりにされた少年たちは呆れたように二人の後ろ姿を見送っている。

 階段を駆け上がってすぐの部屋を覗いた二人の青年は、そこで肩を寄せ合っている趙父娘を見出した。

 苑玲は一時ライスキーに撃たれそうになったが、ライスキーが民警に討ち果たされたので無事だった。

 民警は苑玲を毛沢東夫人の身分を騙ったとして拘束すると、その旨を一階にいた江青に報告し、今後の処置について指示を仰いだ。すると江青はしばらく待っていなさいと言った。それから二時間が経とうとしていたが、なんの命令も出されないのに業を煮やした民警は再び江青に指示を仰ごうとした。しかし江青は待っていろの一点張りだった。しだいに士気を失いつつも江青の命令を守っていた警官たちだったが、先程突入した部隊によって部屋から完全に追い出されて、今は見当たらない。

 苑玲は父親が二階に来たときには自由になっていたのである。たがいの無事を喜びあう父娘は、唐納と若趙丹がドアの外に立っていることには気づかなかった。

「お父さん、これ、白人が私を江青と思い込んで渡した物だけど――」

 苑玲はテレビにも映った封筒を趙丹に見せた。

「中身は英語。中にZhao danってお父さんの名前がアルファベットで書かれてあるけど・・・・・・」

 手錠をされている父親のために、苑玲は封筒から便箋を出し、広げて見せた。

 趙丹はかすかに目を見開いただけで表情をほとんど変えない。

「驚かないの?」

「・・・・・・ん、なに」

「お父さんってば、この手紙、なんなの?」

「僕らにも教えてください」

 突然別の声が聞こえたので趙丹父娘は驚いてドアの外を見た。

 趙丹の顔に一瞬狼狽の色が浮かんだのに対し、苑玲は笑顔をうかべて言った。

「唐納、若趙丹・・・・・・二人とも、なぜここに?」

 若趙丹より先に名を呼ばれてうぬぼれた唐納が顔に笑いを広げて言った。

「君とお父さんの安否が気になって探しに来たんだ」

「無事でなによりだ」若趙丹も負けじと言う。

「お父さんも。あ、手錠、外しましょう。おい、頼む」

 呼ばれた兵士が警官から預かった鍵で、趙丹の手錠を外した。

「ありがとう、おかげで自由になった」

 趙丹は自由になった手で手紙を苑玲から素早く引き取ると、後ろに隠すようにした。それを見逃さなかった若趙丹は、

「その手紙、なにが書いてあるんですか?」鋭い声で言った。

「ウィークスが江青のために見つけた物なんでしょう?」

「いや、大した物じゃない」

 趙丹はそう言って手紙をズボンのうしろのポケットに突っ込んだ。

「見せてくれないんですか? 情報は仲間で共有するべきじゃないんですか」

「しつこいぞ」

「どうしたんですか、趙丹さん」

 若趙丹は驚いた顔をして言った。

「会議室でなにがあったんですか?」

 趙丹は目をそらし、

「なにもない」

 つき放すように言うと、床を示して、

「そんなことより二人ともあっちにウィークスがいるのに気づいていないのか?」

「あっ・・・・・・」

 二人は趙丹が目をむけた方向に幾人かが倒れているのに今さらのように気づき、驚愕した声をあげた。

「ライスキーに腹を撃たれたそうだが、まだ生きている」

 趙丹は言った。

「人間として見捨てるわけにはいかない」

「むこうの床にも誰かが倒れているようですが」

 唐納が奥に近づいて行くと、趙丹が言った。

「あれはライスキーと、もう一人は・・・・・・」

 趙丹は声をしぼり出すように言った。

「王春泉だ」

「え、王さん!? それは大変だ、急いで医者を呼ばないと」

 あわて騒ぐ二人の若者に、趙丹は沈痛な面持ちをして言った。

「その必要はもうないだろう・・・・・・」


 偽B52部隊は、怒れる市民がフランスクラブに侵入するのを阻止しようとはしなかった。それどころか皆にむかって、

「みんな、江青だぞ」

 そう言って国家主席夫人を見せびらかしさえした。

 老鴉と花旗に両脇を押さえられ、市民の好奇と憎悪の眼差しにさらされても、江青は昂然と顔をあげている。

 その顔に市民は怒号と罵声を浴びせた。もはや遠慮はなかった。毛沢東が江青粛清命令を下したという情報がすでに伝わっていたからだ。軍隊の後押しを受けたと思った群衆は勢いづいて、

「江青を倒せ!」

 そう口々に叫び、公然と暴力をふるおうとした。その中心に夏雲湖がいた。一度は死を覚悟したが死ななかった彼は、娘を殺された恨みをぶつけるのはこのときとばかりに先頭に立っている。

 興奮した群衆はすでにフランスクラブの前庭を占拠していた。今彼らの中に投げ込んだら江青は息が止まるまで傷めつけられるかもしれない。周同志を支持する会の主な会員たちは、江青を殺すことまでは望んでいなかった。目的は権力を剥奪することにあった。

 老鴉たちは軍人の警護のもと、江青を前庭の石台に連れて行った。そこで江青の両腕を縛って頭上にねじりあげ、そのままひざまずかせて、顎が石台につくまで顔を下げさせると、

「江青、おまえは毛主席の政治路線に反対した裏切り者だ!」

 そう叫び、群衆にむかって言った。

「みんな、江青はここにいる! 批判したい者は一人ずつ手を挙げて発言してくれ」

 軍隊をバックにする老鴉の言葉に人びとは逆らってまで暴力をふるおうとはしなかった。夏雲湖が協力したのもあり、人びとは順番に江青に批判の言葉を浴びせていった。

 そのさまを若趙丹と唐納、趙丹と苑玲の四人は建物の前に立って眺めている。若趙丹と唐納は、二階の王春泉の死体と門前のリムジン車内にあった魯漠の死体を運び出させた後でここに来たのだった。

 若趙丹は仲間の無惨なありさまを見た後だけに、江青が批判されているのを露骨に痛快がっていた。唐納は、江青をまだ恐れていたので表情にこそ出していなかったが、内心では楽しんでいた。

 だがその横にいる五十代の趙丹は、なぜか浮かない顔をしていた。

 黄宗玲の安否がいまだわからないせいだと思った苑玲は、父の腕をそっと握った。苑玲はいつの間に着替えたのか、ふだんの姿に戻っている。そのとき、横から声がした。

「苑玲! あなた!」

 ふりむいた苑玲と趙丹は思わず叫んだ。すぐそばに、黄宗玲が立っていたのである。

「宗玲!」

「お母さん!」

「無事でよかった」

 母が娘を抱きしめると、

「お母さんも・・・・・・」

 母が監獄に入ったと聞いて以来、母につらくあたったことを後悔していた苑玲は、目を輝かせて言った。

「お母さん、自由になれたの?」

「ええ、監獄をぬけ出してきたわ」

「それですぐこんな所に来たら危険じゃないか」

 夫が責めるように言ったが、宗玲は前庭の石台に勝ち誇ったような視線を注いで言った。

「今の江青に私を捕まえる力があるとでも? もう大丈夫。作戦は成功して、私たちの敵は力を失う。政治犯はじき釈放されるだろうし、脱獄が見つかったところでお咎めは受けないでしょう」

「そうかもしれないが・・・・・・」

「なにかあったら、あなたに守ってもらうわよ。それより蓮英にお礼を言ってちょうだい。今日あなたに代わって私を助けてくれたのは、あの娘よ」

「やだ」苑玲が顔をしかめて言った。「蓮英もここに来てるの?」

「そうよ。一歩間違えれば自分も囚人になっていたかもしれない。ねえ、蓮英、本当にありがとうね」

 呼びかけると黄宗玲の背後から蓮英が現れて言った。

「とんでもないです」

「夫の僕からもお礼を言いたい。蓮英、君には心から感謝する」

「そんな、感謝だなんて、いいですよ」蓮英が言うと、

「そのとおり、お礼なんていらないよ」苑玲が横から口をはさんだ。

「なにを言うの、苑玲。――蓮英、ごめんなさいね。うちの娘、まだあなたのことを誤解しているみたい。小莉が言ったとおりね」

「小莉がなにか言ってたの?」苑玲がつっかかる。

「小莉はね、あなたがまだ蓮英を悪人と決めつけたままだろうと言ってたの」

「だって悪人なのは事実でしょ」

「いいえ、誤解だった。蓮英は殺人犯でも殺人未遂犯でもなかったの。あなたが自動車で襲われたのも、江青が手下の者にやらせたことよ」

「嘘。だって赤いフォードは蓮英のものだったんでしょ」

「ちがうの。江青も同じ自動車を持っていたのよ」

 蓮英が話を引きとって言った。

「私は調研小組の情報で、江青が私と同じ自動車を手に入れたと掴んでいたの。これはなにかあると睨んで江青の動きを監視していたら、やっぱり事件が起こってた。あなたを置いて若趙丹を助けたのは、若趙丹が事件に巻きこまれるのが怖かったから。あなたは江青の大事な手駒になっていたから、これ以上傷つけられる心配はなさそうだし、すでに若趙丹の素性は知っていたので、とりあえず若趙丹だけをその場から逃がして、ことのなりゆきを見守ろうとしたの。でも事件の結果があんな風になるなんて、私も予想ができなかった」

「あんたが主役になったってこと?」

「ちがう。江青が考えていたのは、私に対する嫌悪をあなたがより強めるように仕むけること、そしてそれ以上に、私を現場から追放すること。江青はどうも早くから私の存在がくさいと睨んでいたようね」

「まだ信じられない・・・・・・」

 苑玲が鉾を収められずにいるようすを見て、黄宗玲は娘をなだめるように言った。

「蓮英の話はすべて事実よ。小莉からも同じ話を聞いたから間違いない。あの娘は江青側の間諜だったの。でもだまされていたとわかって私たちの仲間になってからは、いろいろ打ち明けてくれた」

「江青は、小莉が自分の敵の手下だと言っていた。でも本当は江青側だったなんて・・・・・・あのワインショップ事件にも関わっていたということ?」

「ええ」

「でも変。小莉はワインショップに行った人が殺されると知っていたなら、なぜ自分の親を行かせたりしたの?」

「方宜夫妻はね、小莉の本当の両親じゃなく、養父母だったの。一見仲のいい普通の家族に見えたけど、実はあまりうまくいってなかったそうよ」

「そんなの全然知らなかった」

「意外な事実はもう一つある。小莉の本当の父親は楊拓だったの」

「そんな、嘘でしょ。小莉が楊拓の娘なんて」

「ワインショップ事件に両親を参加させるよう強く勧めたのも楊拓らしいわ。でも小莉はこれまで自分がしたことを深く反省している。だから私たちの味方になって働いてくれたのよ」

「ねえ、小莉は今どこにいるの」

「小莉は楊拓と病院にいる」

 先程から横で話を聞いていた唐納が言った。

「サント・マリー病院に小莉と楊拓が来たと、看護婦の秦桂如さんからノートンのところに電話があったそうだ」

「病院? なんで」

「小莉が人質になったから、異常がないか診に行ったんだろうよ」

「小莉が人質に?」

「君と陸さんをリムジンから逃した後、小莉と魯漠さんが代わりに中に入ったのを知らないのか。魯漠さんは楊拓の娘の小莉を人質にして『我々に逆らえば娘を傷つける』と言って脅したんだ」

「・・・・・・譚さんが私と運転手の身代わりにフォードに乗せると言った娘と男って、小莉と魯漠さんだったの」

「そうだよ」唐納が答える。

「小莉も承知の上で協力した。自分がもはや江青の味方ではなく、僕らの味方だと証明したかったんだろう。おかげで楊拓たちはこっちの言いなりになったから、譚さんが縄で縛りあげ、トラックの荷台に放りこんだんだ。ところが楊拓たちは縄を切って逃げ出しやがってね。魯漠さんは殺され、小莉は楊拓に病院に連れて行かれたってわけさ。怪我はしていないが、精神的打撃が大きかったせいか、ベッドから起き上がれない状況らしい」

「そうだったの。小莉は私の代わりに人質になった、そして病気に・・・・・・」

「病気になったとしても一時的なもので、じき起き上がれるだろうという話だから、それほど気に病む必要はないよ。ちなみに楊拓も病院で捕えられたから、そっちもご心配なく」

 唐納が言ったが、黄宗玲は娘に言った。

「小莉は十分苦しんだわ。たしかに私たちに悪いことはしたけど、反省しているのは認めてあげなきゃ。小莉は楊拓の娘だから江青に使われただけ。そういう意味では犠牲者なのよ」

「そうかもしれない」苑玲が言った。「私、小莉は憎めない」

「それでいいのよ。一番悪いのは江青だもの。江青こそ諸悪の根源、真の悪人よ」

 宗玲は語気を強めた。すると、

「そう決めつけていいんだろうか」ふいに趙丹が言った。

「あなた、なにを言ってるの?」

 黄宗玲が驚いて聞くと、趙丹は首を横にふって、

「・・・・・・いや、なんでもない」

 そう言って目をそらしたが、黄宗玲は夫のポケットから覗いている封筒に目をとめて言った。

「その手紙はなに?」

「たいしたものじゃない」

 趙丹はウィークスが江青に渡すはずだった封筒をポケットの奥にしまいこみ、話題を変えた。

「蓮英に謝らなくていいのか? 苑玲」

「あ・・・・・・」

 苑玲は蓮英の方をむき、ぎこちなく言った。

「私、あなたを誤解して、ひどいことを・・・・・・謝ってすむ問題じゃないけど・・・・・・本当ごめんなさい」

「父親の僕からも謝る。蓮英、君には本当つらい思いをさせた」

「二人とも、顔を上げて下さい。もう過ぎたことですから」

「でも・・・・・・」苑玲が言うと、蓮英は右手を差し出した。

「私と握手してくれる?」

「え? そりゃあ――」

 二人はたがいの手を握り合った。趙丹はそのようすを見て微笑したかと思うと、ふと寂しげに言った。

「この場に玉子がいたら喜んだろうに・・・・・・」

「本当ですね」若趙丹が口をそろえた。

「残念です。僕が部隊を率いて撮影現場に着いたときには、皆さん監獄に護送された後だったので」

「じき釈放されるわよ」黄宗玲が言う。

「当局の方針が変わるのは時間の問題でしょう」

「ええ、そのはずです」

 若趙丹がうなずく陰で、唐納が思いつめたような顔で苑玲を見つめていた。

 苑玲は蓮英と照れくさそうに、しかしうれしげに言葉をかわしている。その間に唐納はいきなり割り込んで言った。

「あのさ、二人ともいい雰囲気のところ悪いんだけど――」

「なに?」

「苑玲・・・・・・君、僕との約束、覚えてる?」

「なんだなんだ約束って?」

 若趙丹が割って入る。すると唐納は露骨に敵愾心を見せ、声を張り上げた。

「苑玲は僕が作戦に協力した暁には、僕にすべてを捧げると約束したんだ。――そうだよな、苑玲?」

「・・・・・・」

「なぜ答えない?」

「約束を守りたくないからだろう」若趙丹が口をはさむ。

「苑玲、その気がないんなら、はっきり言ってやれ」

「君は黙ってろ、若趙丹。なぜ邪魔をする。やっぱり苑玲に気があるんだな?」

「ああ、僕は苑玲が好きだ」

 若趙丹はあっさりと認め、真赤になった苑玲と、血相を変えた唐納をかわるがわる見つめながら言った。

「だから唐納、君が苑玲とどんな約束したにしろ、譲るわけにはいかない」

「おい、どういうつもりだ。若趙丹、君には蓮英がいるじゃないか」

「蓮英は相棒であって、それ以上の関係ではない。僕は苑玲を恋人にしたいと思っている。苑玲、君はどうだ?」

 苑玲は胸がいっぱいでなにも答えられず、目に光るものを浮かべて若趙丹を見つめた。すると蓮英が言った。

「苑玲、若趙丹は本気だよ。だから返事をしてあげて。私も若趙丹は友だちとしか思っていないから遠慮は無用だよ」

「だめだ」

 唐納がさえぎった。苑玲を怖い目で見て、

「言ったよな? 約束を破ったら、ただじゃおかないと」

 苑玲の手を取ろうとした。すると苑玲はその手を振り払って言った。

「ごめんなさい、悪いけど約束は守れない。私も彼が好きなの」

 唐納はしばらく苑玲の顔を睨んでいたが、やがて打ちしおれたように、

「そうか・・・・・・いいよ。君に協力すれば、こういうことになるかもしれないとは思っていた――そうさ」

 独り言のようにつぶやいた。

「協力した時点で心の片隅では覚悟していた。江青が倒されれば僕は後ろ盾を失う。そうすれば僕は君を力ずくでものにすることもできなくなると」

「そんなことを考えていたのか」

 若趙丹が軽蔑するように言ったが、唐納は無視し、

「苑玲、君は僕のことなど忘れ、好きな男と好きにするがいい」

 謎めいた微笑を浮かべて去り、群衆の中に消えて行った。


 フランスクラブで江青が捕まったという噂はまたたく間に上海じゅうに広まり、街は歓喜に躍る市民があふれて大騒ぎになった。調子に乗った若者たちは群れをなして大道から大道へと練り歩き、新一九三一年を象徴する物を片っ端から破壊していった。その中心には若い唐納がいた。

 映画『銀花』のポスター、租界時代の道路名が入った標識、外国人が出入りする商店は格好の標的となり、叩き潰されたり引き裂かれたりした。

 当局は見て見ぬふりを決めこんだ。まずは市民に溜まった鬱憤を晴らさせ、それから元の中国に戻した方がいいと毛沢東が考えたからだった。

 翌日、張橋こと楊拓は上海市民の吊るし上げにあった。

 江青は監獄に入れられた。


 中国は一九六五年に戻った。

 周恩来が軟禁を解かれて党の幹部に復帰し、新一九三一年時代の政治犯が釈放された。

 趙丹は『銀花』の野外撮影中に捕えられた仲間との再会を果たし、鄭君里ともたがいの無事を喜びあった。

 フランスクラブは錦江倶楽部に戻り、一九六四年に撮られた映画『河魂』の授賞式が映画協会によって改めて開催された。

 監督の鄭君里、俳優の趙丹、女優の黄宗玲、音楽担当の譚友五、プロデューサーの夏雲湖は式がはじまって映画協会会長が会場に現れたとき、そろって目を丸くした。

 会長は肥った体に糊のきいた人民服を身につけ、頬に大きな銅貨型のほくろをつけていた。ほくろから生えているべき毛はなかったが、どう見ても玉子である。

 四人の表情に気づいたのかどうか、映画協会会長である男はすまし顔でトロフィーを授与した。いったいどういうことなのか確かめようと四人が式が終わるなり駆けつけると、会長は待ちうけていたように、

「やあ、皆さん」見慣れた笑顔を見せて言った。

「映画協会会長の羅瑞教とは私のことですよ」

「玉子・・・・・・君が」

「皆さんが驚くのも無理はありません。私は新一九三一年では玉子こと余克という名を与えられ、通称玉子として物乞い組の頭をしていましたが、元の一九六〇年代では映画のプロデューサーでした」

「君は演劇学校の講師だったと言っていたじゃないか」

 夏雲湖が言った。

「それは本当です。兼務していたんです」

「まあ、そうなの」黄宗玲が感慨深げに言った。

「羅瑞教という名前は有名だから知っていたけど、面識がなかったから、わからなかったわ。まさかあなただったとはね」

「私は皆さんとは所属会社がちがいましたし、映画制作からは六四年に身を引いていましたから」

「そういえば聞いたことがあったわ、羅瑞教さんはまだ四十代なのに引退して、その後、映画協会の会長に抜擢されたと」

「実は黄宗玲さんにお会いできないまま引退するのは私の心残りだったんですよ。なにしろ子どもの頃から影迷だったもので。だから新一九三一年で仲間にさせてもらったときは、本当にうれしかったんです」

「僕らは君が本当は誰だか知らなかったから、喜びようがなかったけどな」

 趙丹が皮肉っぽく言った。

「君は前回の授賞式が中止になった理由も知っていたのか?」

「いいえ、私もなにも知りませんでした。ただ直前に当局から授賞式は中止になったという連絡があったので、会場に行かなかっただけです」

 趙丹は納得のいかない顔を見せ、

「僕たちにはなんの連絡もなかった・・・・・・」

「今まで皆さんに私の正体を知らせなかったことは申しわけなく思っています」

「水臭いですね」

 趙丹はそう言って悪戯っぽく笑ったが、ふいに青ざめてつぶやいた。

「まずい・・・・・・」

「どうした、趙丹」鄭君里がなにごとかという顔で聞いた。

「今、話をしながら触ってしまったんだ・・・・・・」

「なにをさ」

「ご自分の髭の剃り跡、ですね」玉子が言った。

「オッホッホ、安心してください。前にも言ったじゃないですか、ほくろの毛を連想させるもので私が怒ったのは芝居だって」

「あっは、それを聞いてホッとしました。ところでこの際だから聞きますが、あの毛はどうしたんですか」

「当局に言われてやったんですよ。三つ編みにしろと言われまして。もちろん、つけ毛です。ほくろは本物ですが」

「え、当局が? 冗談ですよね」

「いえいえ、本当です。江青夫人じきじきの指示だったとか」

「あの江青夫人がなぜ・・・・・・」

「それが私にもよくわからないんです・・・・・・」

 江青の名を出すと、場の空気が妙に重くなった。

「ま、過ぎたことは、いいでしょう」

 鄭君里が明るい声を張り上げた。

「今日は祝いの場。異常な過去は忘れて、玉・・・・・・羅さんもまじえて一つ皆で久々にパーッとやろうじゃないですか」

「それがいい」譚友五も賛成した。

「王春泉がいないと思うとさびしいけどね」

「本当だな。魯漠や張陽もいない。もうあいつらと映画を撮れないとは・・・・・・」

 夏雲湖がしめった声で言うと、黄宗玲が元気づけるように言った。

「新しい世代がいるじゃない。彼らと一緒に、死んだ仲間の分も素晴らしい映画を作りましょうよ。うちの苑玲は教師志望に戻って大学に通っているけど、蓮英は女優になるために本気で頑張っているし、若手監督の陸新華は新しい映画を構想中だって言うわよ」

「そうだな」鄭君里がうなずいて、

「よし、どうせだから今日は若い世代も呼ぶか」

「そうしようそうしよう」譚友五も努めて明るい声を出して言った。

「とはいえ若趙丹や蓮英の所在もわからない」

 鄭君里が言うと、

「蓮英の本名は施薇那ですよ。私が呼びましょう」玉子が言った。

「そりゃありがたい」

「うちの娘も呼んでいいかしら」黄宗玲が聞いた。

「苑玲を呼べば若趙丹――本名張海光も必ずついてくるわよ」

「歓迎歓迎。やつは監督志望だったな。今日こそ、しごいてやらにゃ」

「酒でしごいても意味ないだろ」

「まあ夏雲湖、そうかたいこといわずに」

 趙丹はひとり浮かない顔をしていた。一九六五年に戻ったことを手放しで喜べない理由が、趙丹にはあった。

 野外撮影のあったあの日、この錦江倶楽部――フランスクラブの会議室で江青と話して以来、趙丹は彼女に対する見方を変えられ、江青を単なる悪者とみなすことを正しいとは思えなくなっていたのである。




 真実を知って頂きたいと思うのです。


 私は一九一四年、父が六十歳、母が二十六歳のとき、山東省の諸城県東関で生まれました。

 私には両親の笑顔を見た記憶が、ありません。

 木工所を経営する裕福な事業家だった父は酒浸りで、母にやたらと暴力をふるいました。

 五歳のとき、母は私の両足を折り曲げ、指の骨が砕けるほど布できつく縛りあげました。纏足の風習がまだ残っていた頃のことですから、足さえ小さくすれば、娘は金持ちの正妻になって自分のような屈辱を味わわなくてすむと思っていたようです。

 母は、最下位の妾でした。

 纏足をして三週間目、激痛が襲ってきました。泣き叫びましたが、母は耐えなさいと繰り返し、家にいた大勢の人も、誰も助けてはくれませんでした。私はあまりの痛みに息がとまりそうになって母の手を振り払い、布をむしり取りました。

 私は、生きるためには戦わなければならないことを五歳にして知りました。また、逆らうことも覚え、ある日父が母をシャベルで殴ろうとしているのを見ると黙っていられず、割って入りました。そのとたん、シャベルは振り下ろされ、前歯が折れて口のなかが血だらけになりました。

 どうしてこんな目に遭うのだろう。それは私が男に生まれなかったせいだと思いました。母がいつもこぼしていたからです。あんたが男にさえ生まれていれば、もっとましな扱いを受けていた、と。

 私は自分の存在を認められなくなりました。両親に植えつけられた怒りと憎しみは幼い心にしっかりと根を張り、成長するにつれ、深まっていきました。

 私の暗い攻撃的な性格がかたち作られたのには、こうした訳があったのです。母はたびたび私を足で突き飛ばしたり箒で叩いたりしました。そしていつもあとで自分は母親失格だと言って泣きだしました。私は胸をしめつけられ、声をだして泣き、喉が痛くなって熱をだしたりしてつらく、早く母が子育てから解放されればいいのにと思ったものでした。

 八歳のときです。母は私と家を飛び出し、町から町へさまよい歩いた末、ある地主の家に落ち着きました。そこで女中として働くことになったのですが、洗濯の仕事しか与えられず、収入が満足に得られなかったため、夜は外で体を売るようになりました。

 私は昼も夜も一人。友だちはいませんでした。人との付き合い方がわからなかったのです。誰かに近づこうにも、他の子どもは両親に笑顔で育てられていると思うと、自分には理解できない別の人種のような気がして恐ろしく、ろくに話せませんでした。当然学校ではいじめられました。同級生は私にこう言うのです――妾の子。

 毎日疲れ切って不機嫌な母が、しだいにうっとうしく、汚ならしくさえ感じられるようになりました。

 母が済南の実家に私を預け、男と行方をくらましたときも、特に悲しいとは感じませんでした。これでおたがい解放された、と喜んだぐらいです。

 祖父母との出会いは私を変えました。二人は私を実に可愛がり、面倒を見てくれたので、愛情というものにはじめて触れた気がしたものでした。

 私に芝居を教えてくれたのは祖父です。知識が豊富で、いつも伝統劇を一つずつ選んで物語り、台詞や歌を調子はずれの声で精一杯、口にして楽しませてくれました。私が真似して歌うと、相好を崩してうれしがり、熱心に稽古をつけてくれました。

 私はしだいに演技にのめりこんでいきました。他人と話すとき、誰かになりきっていれば、怖くないことがわかったからです。

 やがて女優こそ天職と思うようになり、小学校を卒業するとすぐ、済南を拠点とする地芝居の一座に飛びこみました。

 祖父はたちまち私に芝居を教えたことを悔やみ、女優など娼婦も同然だ、勘当だ、と言って脅しましたが、私の思いは変わりませんでした。舞台で演じ、大勢の人に愛されたかったのです。

 しかし一座では雑用しか与えられず、朝から晩まで休む暇もなくこき使われて、役立たずと言われるだけでした。しばらく耐えていましたが、看板女優がお得意客の相手をさせられ、すさんでいく姿を見て、一座には失望し、祖父母の家に戻りました。

 とはいえ夢を諦めるつもりはなく、今度は難関の演劇学校・山東省実験劇院の試験を受けることに決めました。中学、高校出身者しか入学資格はないと言われていましたが、事前の下調べで、劇院に女生徒が不足していることと、面接官をすることになっている劇団監督が、おしゃれなかわいい女中役に合う、流れるような長い髪をした娘を見つけられずに困っているという話を聞いて、これはいけると思ったのです。その頃、中国北部には髪を伸ばした娘はほとんどいませんでした。私はよくとかした長い髪を見せつけるようにして試験に臨み、見事合格しました。

 しかしそのあと、髪はばっさり切りました。私は男に媚びることを必要とされない、仕事として演じるだけで生きていける人間になると決めていました。女としての私を売り物にするつもりはまったくなかったのです。女中役を逃がすのは別に惜しいとも思いませんでした。母みたいな生き方だけは、絶対にしたくありませんでした。

 私の髪が短くなったのを見て、劇団の監督は激怒しましたが、院長の孫師文はこう言ってくれました――君の反骨精神が気に入った、アーモンド型のきらきらした瞳もいい、と。

 私は誰よりも熱心に授業を受けました。自分の容姿が大人びていくにつれ魅力的になったことに気づいても、そのために男子生徒に好かれて思いを寄せられても、脇目もふらず、目標を高く持って努力したのです。一度習った歌は、完璧に歌えるようになるまで、なん時間もつづけて練習をし、劇団の公演で木から飛びだす役しか与えられなくても、毎日一番に劇場に入り、上演中は幕の陰でひたすら主演女優を観察して台詞を覚えたのでした。

 ある日、主演女優が病気で倒れて突然休むことになり、私は自ら名のりをあげ、代役を務めることになりました。舞台は大成功。観客と一体化する感動をはじめて味わい、涙が止まりませんでした。しかし女優として一歩が踏み出せそうな気がした矢先、予想もしなかったことが起きました。政情不安と財政難によって劇場が、つづいて学校が閉鎖されたのです。

 祖父母は心配のあまり、縁談を勝手にまとめ、十七歳の私を無理矢理嫁がせました。相手は片田舎の事業家。恋に恋する年頃の少女は、胸のときめき一つ感じない粗野な中年男に処女を捧げたのです。それから毎晩、娼婦になった気がして、こう思わずにはいられませんでした――今の私は、母となにがちがうのだろう。

 耐えられず、半年もたたないうちに逃げ出しました。祖父母のもとには帰れないので、何日も同じ服を着て、あてどもなくさまよい、持ち金も尽き、もうだめだと思ったとき、孫師文を見つけたのです。元実験劇院院長の孫師文は、その頃青島大学の副学長になっており、私が事情を話すと、大学図書館の助手の仕事を与えてくれました。暇な時間には授業を聴講することもでき、勉強に励んだ私は大学生になった気分で男性と交際もしました。相手は孫師文の妻の弟で、青島大学の学生だった愈啓威。学内の地下組織、共産党の書記でもありました。

 私は実のところ、共産党も共産主義もなんなのか、よくは理解していませんでした。国民党に目をつけられたら殺されるかもしれないのに、彼らがなぜ活動できるのか、はじめは不思議でならなかったぐらいです。

 孫師文夫妻のとりなしで愈啓威と再婚した私は、左翼劇団の主演女優などをするうち、共産党員になりました。そうして学んだのです――自分の愛するもののために命を賭ける精神を。彼らは国を愛し、愛を信じるのと同じ気持ちで共産党を信じているのだと。

 けれども愈啓威とは、うまくいきませんでした。一緒になって数か月後、彼は突然姿を消したのです。国民党の官憲に逮捕されたのでした。私は生きた心地もなく、彼が戻ってくるのをなんか月も待ちつづけました。けれども愈啓威は戻っては来ませんでした。国民党幹部の叔父の力で釈放されたにもかかわらず、他の女のもとへ行き、私に連絡しなかったということを、あとになって知りました。

 裏切られ、傷ついた私は、上海にむかいました。失うものはなにもない、こうなったら娯楽の都・上海にでも行って自分の夢を実現しよう、と思ったのです。

 孫師文の同郷人でのちに映画監督となった史東山が出迎えに来て、下宿を世話してくれました。フランス租界にある、里弄の汚い部屋が私の新しい住みかとなりました。

 私は早速、左翼劇場で入場券を売る仕事を得て働きながら、史東山に教えてもらった映画や演劇の製作者たちを片端から約束なしに訪ね、自分を売り込みはじめました。けれども手ごたえはほとんどなく、たまに役をあげると言われたかと思えば、かわりに体を求められ、拒否して追い出されるの繰り返しでした。

 三か月が過ぎても役が一つもこないとなると、さすがに不安になりました。あちこちで山東訛りを笑われたり、魅力的でも主役になれる顔ではないと言われたことが、やたらと思い出されて弱気になり、神経が参ってしまい、私はひきこもりました。

 掃除も洗濯もせず、汚れる一方の私を、同じ里弄にいた女優の秦桂如が心配して訪ねてくれました。私は桂如が調達してくれた食べ物でなんとか命をつなぐありさまでした。仕事をしながら私の部屋の片づけまでしてくれる桂如を見ているうちに、私もようやくこのままではいけないと思いはじめ、借りたお金で映画を観に行きました。

 そこで私は一流女優の演技に目を覚ませられました。あの気魄。たとえ外見と能力に恵まれていなくても、意志と情熱があれば人の心を奮いたたせることができる、諦めてはいけないと思いました。

 再び外に出た私は、ひとまず生活費を稼ぐため、夜学の国語教師となりました。なにごとも芸の肥やしと思い、教壇を舞台に見立て、教えることに情熱を注ぎこんだのです。仕事で疲れている労働者たちの興味を引くため、自作の漫画を使ったり、声と表情に工夫をこらして説明したりするうちに、いつのまにか私の授業は評判となり、左翼系の新聞に記事が載るまでになりました。

 結果としてそれが警察の目を引いたため、ある日突然逮捕されました。

 監房は本当ひどいところでした。たくさんの女性が饅頭のようにつめ込まれた中に放りこまれたとき、背後にいた綺麗な娘が、うつろな目をして変な唸り声を発し、立ちながら小便を洩らしたので、ぞっとしたのを覚えています。一人ずつ看守に呼び出され、皆戻って来るころには、人が変わったようにげっそりとなっているのが、つねでした。

 私も毎日取調室へ連れて行かれ、唐辛子湯に頭をつけられ、拷問を受けました。それでも自白する気にはなりませんでした。共産党員は全員処刑され、死体は野犬の餌になると聞いていました。

 体力が衰え、強情を張りつづける自信がなくなった私は、無実の罪を着せられた女の役を看守相手に演じだしました。残った力を振り絞り全力で熱演したことが功を奏し、見事看守をだまして拘置所から出ることに成功しました。

 釈放されてもしばらくは放心状態でしたが、やがて体力とともに思考力が戻ると、活動を再開しました。藍蘋と名前を変え、その名にふさわしい青いドレスを着、生まれ変わったつもりで映画会社や劇場の面接を受けはじめたのです。

 相変らず落ちつづけましたが、不安に陥ることはありませんでした。拘置所という死地をくぐりぬけたことが自信になり、私なら必ずいい役につける、という気がしていたのです。


 そうしてようやくあなたと出会うことができました。これまでどんなに苦境に立たされても、私が女優という夢に執着し、続けることになったのは、あなたに会うよう、運命で決められていたからなのでしょう。

 演劇の大家・章泯が監督を務める翻訳劇『人形の家』の審査を受けた私は、なんと主人公ノラに抜擢されることになったのです。そしてその相手役があなたでした。あなたは私と同年だけれども、当時すでに中国を代表する明星(ミンシン・・・スター)でした。

 忘れもしない一九三五年六月五日。はじめて会ったとき、私はあなたから顔をそむけ、握手しても、表情をこわばらせたまま、睨むように見たきりで、挨拶の言葉さえろくに口にしませんでしたね。

 それなのにあなたは嫌な顔をするどころか、我儘な子どもを前にした父親のようにかすかに笑って、澄んだ温かい目で私を見つめてくれました。

 あなたはお見通しだったのではないですか。私がひと目であなたに魅かれてしまい、ただ息をするだけで精一杯だったことを。だからあんなに優しい目をしてくれたのではないですか。

 私はあのとき、決心しました。いつかこの人と幸せになるのだと。

 今にして思えば、あの頃の私は本当に子どもでした。あなたを見るだけで我を失いそうになるから、舞台以外では絶対に視界に入れないように細心の注意を払い、あなたと演技のことでどうしても話さなくてはならないときは必ずあいだに伝達役を入れて、その人をとおしてしか話さず、舞台がはねると約束があるような顔をして大急ぎで劇場を出るという始末でした。

 切なくて、つらくて、どうしてこんな馬鹿なことをしてしまうのかと思い、毎日涙を流しました。

 でも本当は、あなたも私と同じ気持ちだったのではないでしょうか。私はノラの夫トルヴァルを演じるあなたから、私への愛を感じとっていました。あなたが口にした、私の心の支えとなった台詞を、今ここに書きましょう。

「私達が大勢の人の中に交っている時には、私は殆どお前と口を利かないようにしていただろう。そして遠く離れていて、ただ時々お前の方を窃み見をしていただろう――あれはどういう訳だか知ってるかい?(島村抱月訳)」

 あなたは私の目を見つめ、トルヴァルの浮かれた口調とは裏腹の、私にだけわかる真剣な光を目に浮かべて、あとをつづけます。

「私達は秘密に相愛していて、秘密に結婚約束をしていて、そして誰もそんなことは知らないでいる――」

 秘密の相愛! 秘密の結婚! そう、私たちは秘密の結婚をしていたのですね。嘘つきで浅墓なトルヴァルとちがって、あなたは本気で私を愛してくれていたのです。

 しかし、私たちの愛はすぐには成就しませんでした。

「僕の家で夕食を食べないか」

 あの日、あなたはいきなり言いました。突然家に誘うなんて、よほどのことだと思いました。そしてあなたは私に、先客として来ていた無名の女優をこう紹介しました。

「今日から僕と付き合うことになった、黄宗玲だ」

 少なくともその場では不思議なほど、私の胸は傷つきませんでした。むしろあなたの愛が痛いほど伝わってきました。

 あなたは夕食のあいだ、私の方ばかり見ていましたね。その目に断腸の思いが湛えられているのに私は気づいていました。

 私のトルヴァル、あなたはこう言いたかったのでしょう? 

「僕はこんな女などちっとも愛してやしない。真に愛しているのは君だ。君も僕を愛してくれていると信じている。だが僕たちは現実に結ばれてはだめなのだ。僕はまだ、君と現実世界では結婚できない。君も僕とはちがう男を見つけてくれ」

 つらかったけれど、他にどうしようもありませんでした。それで私は、あなたの真似をして不本意なまま三度目の結婚をしました。

 唐納は年があなたと同じで、容姿もあなたに劣らず端麗でした。しかも若い割に有名な映画評論家で、人脈が豊富でしたから、私がより女優として成功するために役立つかもしれないと思ったのです。でも、これがとんだ当て外れで、しかも私の運命はまったく予想もしない方向に導かれることになりました。

 あの男が、私の山東訛りを直すのに尽力してくれたことには感謝しましたが、それと一緒に英語をやたらと教え込もうとするのには閉口を通り越して異常に感じていました。

 あの男の秘密を知ったのは結婚したあと、梅雨入りしたような鬱陶しい天候がつづいた五月のことでした。映画の審査に一つも受からず、くさくさしていると、唐納は私にこう言ったのです。

「君には他の女性にはない度胸と才知がある。監督たちはそれに気づかないだけだ。だが君の才能に気づいていて、それを生かしたいという人がいる。その人の役に立てば、いつか国際女優として活躍することも夢ではなくなる。君が秘密を守ると約束すれば引き合わせよう」

 愚かにも私は国際女優と聞いてのぼせました。夫に秘密を守ると約束し、名前さえも知らない白人に会って、忠誠を誓ったのでした。

 そうして言われたとおりに、左翼芸術家の動静を探り、報告しているうちに、その白人がイギリスの諜報機関であるMI6の工作員で、夫が部下であることがわかってきました。

 MI6が中国共産党の動きを探るのに、唐納は都合のいい存在でした。

 上海セント・ジョーンズ中学・高校・大学の出身で英語ができ、在学中に翻訳をするかたわら、映画に主演、主題歌の作詞まで手がけて才人ぶりを発揮、おまけに芸術家連中と仲良くしていたからです。

 でも私の期待とはちがう人間でした。思い出すたびに腹が立って体中が痒くなります。あの男には本当裏切られました。

 唐納は私が男に足蹴にされることをなにより嫌うとわかっていながら、自称左翼の画家と浮気しました。あんな金持ちの馬鹿娘、どこがいいんでしょうか。許せませんでした。だからあの男を殴りつけて、私が拘置所で唐辛子湯につけられたように、便器に頭を突っ込んでやると、泣きだして黄浦江に行って飛びこみ、自殺の真似までしたのです。実に卑劣な人間だと思って突き放すと、あの男はまたしても自殺未遂をして、私を人気女優にするどころか、醜聞で名をおとしめました。

 同じフランス租界に住む、あなたたち夫妻が仲睦まじくしていると聞くにつけ、悔しくて、いたたまれませんでした。

 ちょうどそのころ日中戦争がはじまった関係で、MI6は私に新たな命令を下していました。

 延安に行って毛沢東に接近しろというのです。

 延安は知ってのとおり、当時全国各地から共産党員が集まる抗日運動の拠点で、毛沢東は日本軍と戦うゲリラの英雄でした。その英雄の歓心を買わせ、共産党軍の情報収集にあたらせるのがMI6の狙いでした。

 私は女優を諦めてはいませんでしたが、ここはひとまず英雄にとりいっておくのも悪くないと思いました。

 私は演技力を最大限に発揮して、自分より二十歳年上の農村育ちの男の心をつかみ、生涯をともにしたいと言わせることに成功し、数年後には国家主席夫人の座を手に入れたのです。

 一方でMI6とはひそかに連絡を取り合い、情報提供をしつづけ、気づくと三十年という年月が流れてしまっていました。

 そんなある日のことです。ふと鏡に映った顔を見て、私は愕然としました。目は窪み、口は垂れ下がり、かつての容貌は跡形もありません。いくら高級な化粧品を使っても皺は消えないとわかったとたん、こう思わずにはいられませんでした。

 私、このまま死ぬの?

 恐怖に襲われた瞬間、あなたの顔が胸に浮かんで、強烈な思いがこみ上げてきました。

 あなたこそ真の夫、秘密の結婚をした相手。私はずっとあなただけを愛していた。三十年間、忘れたことなど一度だってない。どうして忘れられる。ノラを演じたときに感じた真の愛を。抱き合う場面で知った、あなたの包みこむような力強さを。私が本気になったのは、あとにも先にもあなただけ。愛して愛して愛している。来て、私のもとへ。今からでも遅くはない。私を毛沢東のもとで死なせないで!

 どれだけ念じても、あなたが来ることはありませんでした。でも私はあなたを諦められませんでした。だから中国を一九三〇年代に戻す必要があったのです。

 中国に生きるあらゆる人間のあらゆる柵が白紙となった中、私とあなたが再び出会うために。

 そうして一からすべてをやり直すために。


 一九六五年一月、私はとほうもなく長いあいだ考えに考えた新一九三〇年代化政策を、毛沢東に伝えました。

 その頃多少のいきづまりが感じられた共産主義の中に、資本主義の利点を取り入れるべきこと、そのためには列強がたむろしていた三〇年代を追体験し、資本主義のあくどいやり方や特性を見抜くべきこと、最初の実験場として当時租界があった都市の中でも特に繁栄していた上海がふさわしいことなどを力説しました。もちろん人民にはこちらの真意は伝えず、むしろ逆の発表をすべきとつけ加えました。

 最初は反対しつつも、しぶしぶながら私の意見に同意した夫は、二月には政策の実現にむけて党内の裏面工作を開始し、私を実験の責任者に任命しました。

 上海に入った私はまず信用できる組織作りにとりかかることにしました。

 最初に引き抜いた人材は、上海の共産党員で頭角を表していた、三十代の技術者、楊拓。なん度か試験した結果、才知にたけ、弁も筆も立ち、非常に有能であることが判明したので、組織の幹部にしました。

 この選択は間違っていませんでした。楊拓は私の必要とする人材を実によく把握し、次々と集めてきたので、二週間もしないうちに組織を起動できたのです。

 まず藍蘋の分身と、あなたの分身にふさわしい若い男女を手に入れることからはじめました。

 藍蘋の分身は、あなたの娘・趙苑玲に務めさせることに、はじめから決めていました。その理由は、彼女の年齢が当時の私とほとんど変わらないということや、その美貌と才能が一流女優を目指した私を演じるのに適任だと思ったからです。・・・・・・いいえ、正直に言います。娘を使えば、あなたの心を動かせると思ったのです。少なくとも、あの娘を管理下におけば、あなたと会う口実くらいになると思ったのです。

 私は真の目的を、楊拓にさえ口外していませんでした。分身は三〇年代の映画界を再現するのに必要だと言って、若い頃のあなたそっくりの男を探させました。

 その写真を見たとき、私は心臓がとまりそうになりました。「名前は張海光です。容姿は似ていますが、得体の知れないやつです」と楊拓は報告しました。

 張海光は北京第一大学に籍を置きながら授業にほとんど出ず、上海に来て、親類の家に寝泊まりし、毎日ぶらぶらしているようだということでした。共産国にあるまじき不良青年でしたが、私は問題にしませんでした。二十歳の頃のあなたが蘇ったとしか思えない容姿を見るなり、あなたの分身にすることに決め、役所で手続きをとろうとすると、張海光にはすでに赤い手紙が送られ、新しい名前も職業も与えられているとのことでした。その名前があなたの名前で、職業が俳優だと知った私の驚きといったら。

 誰のしわざか考えたとき、最初に脳裏に浮かんだのは、周恩来の顔でした。役所に圧力をかけられる人間は限られています。周恩来は党幹部で、古くから上海で幅を聞かせていました。しかも新一九三〇年代化政策の実施にも私にも極めて非協力的でした。

 周恩来は新一九三一年になると、突然その権力をもって映画協会会長の座につき、明星電影公司を復活させました。同社は一九三〇年代の代表的な映画会社で、『銀花』は周が莫大な予算をあて、気鋭の制作者たちに作らせることにした大作でした。

 あの古参幹部がなんの思惑もなしに映画製作に携わったとは考えられませんでした。おそらく周恩来は、私が自分の選んだ娘に昔の名前をつけようとしているのを探り当て、新一九三〇年代化政策の真の目的が、不遇だった女優藍蘋の歴史を華々しいものに書き換えることにあると思ったにちがいありません。

 かつてあなたと映画で共演した女優は皆一流になりましたが、私は舞台以外では共演できませんでした。だから周恩来は、若い頃のあなたに外見がそっくりの張海光にあなたの名前を付けて主演にし、主演女優を募集すれば、私が必ず食いつくと考えたのです。私が国家主席夫人であるにもかかわらず、藍蘋の後ろ盾となり、藍蘋の名を世の中に知らしめようとすることは、立ち場をわきまえない行為と糾弾されても仕方ありません。周恩来は、いつか私が致命的な失敗を犯すのを待っているのでしょう。そんな罠にかかってたまるものか。・・・・・・でも結局は、苑玲を審査に送り出しました。二人が共演しているところを見て、あなたに若い頃の気持ちを思い出し、私とやり直す気になってほしいという願いの方が強かったのです。

 分身の前途を阻む対手を消すため、最終選考会後にワインショップに集め、後腐れないようその両親もろとも始末する計画を実行し、黄宗玲など幾人かの邪魔者を逃がすという失敗を犯しつつも、苑玲を主演女優にさせた私は、『銀花』の撮影がはじまって四十日後には周恩来とその手下の蓮英を排除することにも成功しました。映画界の実権を握って前途洋洋、あなたを撮影所の身近に置くことができて意気揚々、いよいよこれから本当の計画を本格始動させるのだと大張り切りでした。

 張海光が藍蘋の歌を褒めたときは、それが敵の罠だとも知らず、私は欣喜雀躍しました。まるであなたに私の歌を褒められたような気がしたのです。

 藍蘋を歌手にし、その結果として私は大切な証書を奪われそうになりました。張海光が敵と知った私は、ただちに監獄に入れ、楊拓に誰の回し者か調べさせ、結果を聞いて驚愕しました。若い頃のあなたにそっくりの男は、周恩来ではなく、夫である毛沢東の間諜だったのです。

 毛沢東が撮影所に応援によこしてくれたとばかり思っていた八三二一部隊は、実は私を監視しているのだと知ったとたん、あなたを主演俳優にすることもできなくなりました。以前物乞いだったときのあなたを華安大廈の閣楼に呼び、「近々起ち上げる映画会社に残りの人生のすべてを捧げると約束するなら、専属俳優になれる」と提案して、家族を見捨てることはできないという理由で断られて落ち込んだことなど、毛沢東が知るはずはないけれども、自分のそれまでの種々の行動から、あなたへの思いを感知された可能性はあると考え、不安と苛立ちを募らせた私は助監督二人を、自分の敵である兵士に射殺させてしまいました。

 あのときスタジオの入口に立っていたあなたは、二人目が撃たれる寸前、モップを投げ捨て、強い目で私を見つめていました。

 恥ずかしいことですが、私はライスキーにあなたの私生活を探らせていました。仕事帰りのあなたをつけさせただけでなく、あなたがいない隙に部屋の中も調べさせたので、あなたが日記を書いていたことも知っていました。私は片思い中の小娘のように判断力を失っていて、あなたが自分にどれだけ本気か、ひそかに知りたくてたまりませんでした。

 私はライスキーに日記を盗み出させることにしました。しかし私のもとに運ぶ途中で、毛沢東の手下によって偽物にすり替えられたことにライスキーは気づきませんでした。だから私もまさか本物が敵の手に渡ったなど、想像もしなかったのです。

 毛沢東は若唐納を使って、日記を周の会に届けさせました。どうして私の配下だった若唐納が毛沢東のために働いたのかは、今となっては知る由もありません。大方、理由もわからず、毛沢東の手下に苑玲のためになるとでも吹きこまれたのでしょうが・・・・・・。周の会の人間は若唐納が生きていると知り、私を破滅に追いやるための手助けをさせました。それが毛沢東の意図するところであったのか、もしそうだったとすれば、あの男の深謀遠慮ぶりには驚かざるを得ません。

 一方で毛沢東は、私の理性と判断力を鈍らせる目的で、あなたの筆跡を専門家に真似させて偽の日記を作らせました。そうとも知らず、私は手にした日記に自分への愛の言葉が書き連ねてあるのを見て有頂天になり、夫の思惑どおり翌日になるまであなたが逮捕されたことにも気づかずにいました。

 あなたに間諜容疑がかけられたと聞いて衝撃を受けた私は、警察があなたに関する記録文書を探していると知り、さらに狼狽しました。記録文書というのは、あなたが本当の一九三〇年代から四〇年代にかけて国民党とアメリカの下で働いたことを証明するものでした。それが上海のどこかに眠っていると聞いた警察が、血眼になって見つけだそうとしていたのです。

 誰の指示で動いているのかと聞いても警察が答えようとせず、私が例の証書を見せても効果がなかったので、毛沢東の指示だと直感しました。

 夫があなたを狙う理由は一つしか考えられませんでした。嫉妬です。自分の本心がばれていたのだと気づいた私は、全身を凍りつかせました。この中国では、一度毛沢東の標的にされたが最後、どんな人間でも生きていけません。もし記録文書が見つかったら・・・・・・二人とも殺されると思い、私は半狂乱になりかけました。警察が記録文書を見つけられず、やむなくあなたを解放したと聞いたときは、どんなに胸をなでおろしたことか。でも、次にいつこんなことが起こるかと思ったら、気が気ではありませんでした。

 そんなとき周の会が私を打倒する計画を立てているという話を張橋が仕入れてきました。その具体的な内容を知り、以前の私なら怒り狂ったところでしたが、そのときはパッと未来が開けた心地がしました。

 周の会の計画どおり市民が暴動を起こし、街が混乱状態に陥れば、毛沢東の手下といえどもそちらに注意を奪われるはずだから、その隙に乗じて私はあなたとイギリスに逃げられると考えたからです。

 以後私は、自分の組織とMI6両方の情報網を駆使し、周の会が刻々と練り上げていく作戦の詳細を把握することに努めつつ、彼らの作戦を利用した中国脱出計画を着々と練っていきました。

 禿鷹のようなウィークスでさえ、私がイギリスに逃げようとしているとまでは察知できませんでした。ただあの男は私のあなたへの思いに関しては、さすがに感づいていたようでした。

 あなたが昔国民党とアメリカの下で働いていたと証明する記録文書を私が警察より先に手に入れたがっていることを、ウィークスはどこかで嗅ぎつけたらしく、計画実行日の前日、文書を入手した、それが欲しければ、中国に関するある情報を教えてほしいと言ってきました。ウィークスはいつも若唐納をとおしてしか話をしたことがなく、直に会ったことはありません。そんなウィークスが私に直接面会を申し込んできたということは、文書の信ぴょう性は高いと思われました。まず文書が本物か確認したいから見せてほしいと言うと、情報をくれなければできないと言われました。

 私はひとまず要求をのむことにしました。楊拓にそれらしき情報をでっちあげさせ、渡しておけばいいと考えたのです。もっとも偽情報とばれるのは時間の問題と思われたので、ウィークスには準備が必要だから受け渡しは翌日の午後、フランスクラブの二階の個室で行いたいと伝えておきました。禿鷹がだまされたと気づいたときには、私は文書と愛する人もろとも中国を発っているという算段でした。

 当日午後、私はフランスクラブの会議室で捕虜とした老鴉と花旗とかいう若者二人に銃をつきつけ、あなたを隣のつづき部屋に移動させて二人きりになると、こうささやきました。

「もう心配いらないわ。あなたの過去の記録も、警察より先に見つけておいたから」

「僕の過去の記録・・・・・・?」

「一九三〇年代から四〇年代にかけて、あなたが国民党とアメリカのために働いていたと証明する記録文書よ。当局が探していると知って、私の方で手を回しておいたの。夫には秘密ね」

「なぜ、あなたが・・・・・・」

「大切な人を守りたかったからに決まっているでしょう」

 私は思わずそう答え、気づいたら狂ったように愛を語りだしていました。

「覚えているでしょう、秘密の結婚。私たち、三十年前に秘密の約束をしたじゃない」

「秘密の結婚? なんのことですか」

 私は耳を疑いました。

「あなた、私に言ったでしょう、『私達は秘密に相愛していて、秘密に結婚約束をしている』と」

「それはたしか、トルヴァルの台詞・・・・・・」

「そうよ、舞台でなん度も口にした。そして私たちは秘密に結ばれ、秘密に結婚した。そうだったんじゃないの?」

「あれはただの台詞でしたが・・・・・・」

「ただの台詞?」

「ええ、そうです」

「冗談よね。私の思いには気づいていたわよね?」

「申しわけありません・・・・・・僕は今日はじめて知ったんです。僕は、あなたを恋愛の対象として見たことは・・・・・・ありません」

 全身の血がとまったように感じました。

「嘘・・・・・・」

 乾いた口を無理矢理動かして私は言いました。

「あなたは私を一度も女として見たことがないと言うの?」

「僕はずっと、妻ひとすじでした」

「妻って誰のこと? 真の妻の私?」

「真の妻とは?」

「・・・・・・出てって。出て行きなさいったら!」

 絶叫し、あなたを続き部屋のドアから追い出していました。そのまま私は床にうずくまり、しばらく呆然として立ち上がることもできませんでした。

 まもなく会議室のドアが開き、兵士を従えた張海光と若い唐納が現れたので、私は最後の気力を振り絞って銃を握り、逆上する国家主席夫人を演じたけれど、本当は江青粛清命令が出たと聞いても、なにも感じてはいませんでした。

 三十年越しの恋が砕け散ったという事実だけで私の胸はいっぱいでした。市民の罵詈雑言などはまったく耳に入りませんでした。ただあなたに言われた衝撃的な言葉だけが鼓膜に鳴り響いていました。


 時代は一九六五年に戻り、私は北京に運ばれ、毛沢東が私を粛清したのは嫉妬が原因ではなかったことを知りました。

 考えてみれば、あの毛沢東が自らの嫉妬などというつまらない感情のために動かされるわけがなかったのです。今はいつ死刑の宣告が下ってもおかしくない状態です。だけどそんなことは、もうどうでもいい。

 私はあなたとの愛に命を賭け、失敗した。

 けれども私は、あなたが私の思いに気づいていなかったとは、いまだに信じられない。

 なぜなら、あなたはいつだって私を特別な目で見つめていたから。あなたの本当の気持ちは、きっと・・・・・・そうでしょう?

 信じているわ、趙丹さま。

                           〈了〉


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青ではなく、藍 吉津安武 @xianglaoshe

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