25・月狂いの起源


 暗闇の中で二人の人間が絡み合っている。身動きを取るたびにベッドがきしみシーツが擦れる。部屋の湿度が高いのでその音さえも湿っぽい感じがした。けっこうなあいだ粘り気のあるこもった音が響き続けていたのだが

「――たたねえ」

 興ざめしたように長身の無精髭を生やした男はそう言い、上半身を起こしながらベッド脇に置いていた眼鏡をかける。そうして自分の腰のあたりでうずくまっている相手の事を見る。しなやかに垂れた髪を手櫛で掻き分けながら、上目遣いで男の顔を見ていた。そうして口元を拭いながら申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさい。やっぱりダメですか」

「別にお前のせいじゃないさ。俺は昔からどっちでもいけるし」

 そう答えると男はその線の細い身体を抱き寄せ、「お前、女より綺麗だしな」と言ってその長い髪を撫でた。髪の長い少年は顔を男の胸にうずめたまま、ぽつりと呟いた。

「――中村さんの事が心配なんです」

「どうした?」

「病気じゃないっていうけど、最近ずっと身体が冷たいし力を感じないっていうか」

「確かにハギトは体温が高いな。息も力強いし汗もかいてる。あったけえ」

「それは……」

 頬を赤らめたハギトをからかうように中村は彼の背中に指を這わせながら、「近頃はずっとだよ。あんまり飯を食う気もしないし性欲も枯れちまった」と呟く。

 それから二人は脱ぎ散らかしていた衣服を着ていたのだが、中村はやがてふと思いついたように

「少し話でもするか。暗い中でずぅっと取り留めの無い事を考えてて頭の中が煮えそうなんだ」

 そう言うと彼はジャケットを羽織り、懐中電灯に電池を入れながら速足で廊下に出ていく。その後をハギトが連れ添うように追いかけていった。


 ホテルの個室を出た二人は階段を使って一階まで降りて行く。二人の手にする懐中電灯の灯りによって暗闇が仄かにだが和らいでいく。

 彼らがやって来たのは、ホテルとして営業していた頃には温泉のすぐ傍のラウンジとして賑わっていた一角だったが、今ではカウチに何人かの人間が毛布をかぶりながら横たわっているだけだった。コミュニティの人々はホテルの部屋で過ごすのも自由だったが温泉由来の温熱の恩恵を一番受けられるこのラウンジに集まっている事が多かった。

「久しぶりに見た気がする」と中村が感慨深げにぼそりと呟く。その目が自分を見ていたわけではない事に気づいたハギトが視線を追うように振り返ると、そこには箱根の地ビールの古いポスターが貼られていた。

「ビールかァ。飲みたい気もするんだが出されても飲めない気がするんだよな」

 中村は力なくそう呟いて、それから漸くハギトの顔を見た。灯りの中でうっすらと見える中村の顔は前より幾分か痩せて顔色も蒼白かった。

「食い物、取っていって構わんぞ」

 そう言って中村はラウンジのテーブルにうず高く積み上げたままの缶詰を指さした。半分はいつぞやに八坂親子からせしめた物だった。

「――それ、みんなに分配した物じゃないですっけ?」

「どうせまた誰か死んでるさ」

 ぐるりと周りを見渡す。周りのカウチに横たわっている人間達が寝ているのか、起きているのか、はたまた死んでいるのか。分からなかった。とにかく誰も身動きを取らなかった。

「夜が明けなくなってからはもう最悪だ。身体にはなんとも無いのに死ぬんだよ。寝てるうちにな。今までしぶとく生き延びてきた連中だぜ? 体力もあるし外傷も持病も無い。俺らに限って言えば防寒も充分だから凍死もあり得ない。なんとも無いのに死ぬ。これがいまの世界の当たり前なら、診断書には自然死とでも書くしかないやつだ」

「なんとも無いのに死ぬって、それじゃまるで老衰……」

 ハギトが呻くようにしてそう呟くと、何が琴線に触れたのか中村は微かに薄笑いを浮かべた。それからぬらりと立ち上がり、一番近くのカウチで横になっていた男を揺り起こそうとした。しかしいくら揺さぶっても反応はなかった。

「そう。老衰が一番しっくりくる気がするよな? 地球が文字通りひっくり返って、それに適応できない個体がどんどん死ぬ。暗闇が気力や生命力、意識や思考までをも奪っていく。原因を考えるなら日照時間がゼロになって暗闇が続いて全く行動もできなくなったこと。――いや、近頃は正直寝てるのか起きてるのかもよく分からん。俺達はただ暗い中で横になってるだけだ。そしてそのうちに死ぬ。寿なのかも知れない」

 目を醒まさない仲間の身体を揺さぶりながら、中村はそう言った。


「月を……見失った?」

 訝しむように聞き返したハギトに対し、中村は一瞥してから重ねてこう問いかけた。

「お前に旅館に平田とかいう月狂いルナティックのジジイがいただろ? あいつが前にんな話をしてたんだよ。――地球上に生命がどうやって誕生したか、お前知ってるか?」

 急に尋ねられたハギトは困った風な顔をして首を横に振る。その表情を見た中村は何故だかほんの少し面白そうにほくそ笑んだ。そして続ける。

「地球に最初の生命が誕生したのは約四十億年前。最初の生命は海の中で化合物や有機物が何億年もかけて攪拌され、化学反応を起こす事で生まれた。

 原核生物は海中で結び付き合う事で単細胞生物となり、やがてもっと高等な生物へと進化していった――海に溢れた生物達はやがて浅瀬や干潟を通じて陸上へと進出していき、地球は生命に充ち溢れた惑星になった――のだそうだ。

 今でも人間を含めた殆どの生物は体重の半分を水分が占めているし、水を食物よりはるかに短期間に摂取し続けなければ生存を維持できない。考えてみれば俺達は水棲生物が水筒を持ちながら陸に揚がって暮らしてるようなものかもな。とは昔の人はよく言ったものだ」

 そう語りながら中村はペットボトルを手に取り、水を少しだけ飲んだ。

「もう一つ。大衝突ジャイアント・インパクトって聞いた事があるか? 月がどうやってできたのかっつー仮説の一つでな。

 なんでも宇宙に地球ができてまだすぐの頃、火星くらいの大きさのデカい星が偶然地球に衝突したんだそうだ。そうして砕けた地球の破片の大部分が宇宙に舞い上がって、衛星軌道に捕らえられて、長い時間をかけて合体して〝月〟になったんだそうだ。

 出来たばかりの月は俺達が知っている月よりずっと地球に近い僅か二万キロほどの軌道に在って、人間が知っている月よりも二十倍以上大きく見える月が太古の地球の夜空には見えていた筈なんだ。そして大きくて近い月のもたらす強い引力は汐潮を引き起こし、地球にできたばかりの〝海〟を何億年にも渡って攪拌し続けた……そうして、地球で最初の生命は海をゆりかごにして誕生した。

 ――分かるか? 地球には生命すら誕生しなかったかも知れないんだ。

 そしてそれだけじゃない。もしも月が無くて潮汐がなければ浅瀬や干潟も存在しない事になる。そんな環境ではたとえ海の中に生命が誕生したとしても陸上に進出する機会に恵まれなかっただろう。

 陸上に揚がった最初の生命達は何も明確な目的を持っていたわけじゃない。彼らに知性なんてものはまだ無かった。だけど漠然とながら魂を揺り動かすその光を追いかけてようにして新天地に辿り着いた。

 月は極めて緩やかに遠ざかり続けながら、地球に誕生した生命に進化のきっかけを与え続けていた。だから、それ以来ずっと……」

 やや高揚した様子で中村が口にしたところで、それまで黙って聞いていたハギトが彼を見つめながらこう口にした。


「――月に攪拌された海から生まれた種族には、光り輝く月に向かう憧憬が焼き付いている……」


 面食らった様子の中村に対しハギトはうっすらと微笑んで「俺も平田さんから同じ話を聞いたんですよ」と言い添え、さらにこう続ける。

「人間の先祖の猿が月を触ろうとする場面が出てくるSF映画がありましたよね。俺、あの人の話を聞いた時にその場面を思い出しました」

「……あのジジイの言う通り全ての生命が月のおかげで生まれて、人間までが無意識のうちに月を目指して頭を働かせて、しまいにはアポロ11号まで作らせたなんて話が本当なら、月は神様みたいなもんだって事になっちまうし、人間はみんな月狂いルナティックだったって事になっちまう」

 そうして再び目をそらし、中村はカウチに横たわる亡骸をじっと見降ろす。

「昔から言われてきた――月を見つめていると気がおかしくなる、狼になる、満月の夜には犯罪が増えるだとか、月の光を浴びれば病気が治るだとか、恋をするだとか、月が欠けていくと人が死ぬだとか――それが本当かなんてのはどうでもいい。自分の中に湧き上がるものをなんでもかんでも月に結び付けて捉えてきた精神史そのものが、既に月に狂ってきた証なんだ」

 言い捨てるようにそう言うと、中村は仲間の遺体が横たわるカウチを力いっぱいに蹴とばす。ハギトは思わずアッと息をのんだが、寝ていた男の身体は床に投げ出され、床に打ち付けられた拍子に首が堅い音を立てておかしな方向に曲がってしまったのが見えた。

 その姿を見た中村はがっくりと肩を落としてうなだれた。そうしてそのまま、突き動かされるように喋り続ける。

「人間はずっと大昔から月を神だと見てきた。運命だと信じていた。自分自身と同一視した鏡だと思っていた。刻み付けられた無意識の中でずっと恋焦がれてきた――それは認めてもいい。だからってよ。――どんどんに近づいていってるからってよ」

 肩をぶるりと震わせ、とうとうへたりこみながら涙声でこう呟いた。

「なんで、死ななきゃいけねえんだよ。俺は人間なんだ」


 ハギトは中村が泣くのを初めて見た。大阪にいた頃から強い男だった彼をどう慰めたらいいのか分からなかった。だから隣に寄り添うように座るだけだった。

「時々、自分がまだ生きてるとか死ぬとか、そういう事がどうでもよくなってくる。関心が無くなる瞬間がある。嬉しいのか悲しいのかもよく分からないからっぽな気持ちで頭の中がいっぱいになる。分かるか?」

 座り込んだまま子供のように泣きはらし、途切れ途切れに話す中村の手をさすりながら、ハギトはただ彼の言葉を聞いていた。

「たぶんまだ生きてる俺達は鈍い方なんだ。それとも優れているのか……別にどっちだっていい。他の連中はもっと早くこんな気持ちでいっぱいになって死んじまったんだろう。俺は、それが恐ろしいんだ」

 喋りながら、中村の方も目を真っ赤にしたままハギトの顔を見る。二人の目が合った。

「大消失の夜からずっと続いている奇妙な喪失感は、たぶんそういう事なんだ。俺達はあの瞬間何かを失った。生きている実感が欲しい――燃え滾るような生命の躍動感が欲しい」

 そう言い切るが早いか中村はハギトの両肩をつかんで床の上に押し倒す。身を震わせながら馬乗りの姿勢になり、一瞬相手の目を見た後、唇を重ねる。

 口元から糸を引くように垂れる唾液をふき取りながら、中村は真っ赤な目をぎらつかせていた。そうして、潤んだ瞳をしたまま横たわって己を見上げているハギトの喉元にいきなり両手をかけた。

「……!!」

 首を絞められたハギトは一瞬大きく目を見開き手足をばたつかせた。しかし体格差は覆せずみるみるうちに酸欠状態へと陥っていく。次第に手足に力が入らなくなり、握っていたままの懐中電灯が甲高い音を立てて床に落ち転がっていく。ハギトの頭の中ではたった今聞かされた「」という言葉がずっとぐるぐると廻っていた。

 漸く中村はその手を彼の喉元から離す。解放されたハギトは涙をぼろぼろ流したまま荒く息を吸い、えづいて咳込んだ。


 呼吸が漸く整った頃、ハギトは中村の方を見た。肩が震えていて彼の息遣いも己と同じくらい荒くなっていた。転がったままの懐中電灯の光が逆光のような形になってハギトの側からは中村の表情がはっきりと見えなかったが、ハギトの目には笑っているようにも泣いているようにも見えた。

「――あいつはまだ生きてるよな? あの、八坂イノリとかいう女。お前が気に入ってる……」

 ハギトの顔を見つめながら、中村はそう尋ねた。




〝ああ、月のせいだ。

 月がいつもより地球に近づいたから人間どもが狂い出したのだ。〟

   ――ウィリアム・シェイクスピア『オセロー』

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月狂いのアポカリプス ―cry for the moon― ハコ @hakoiribox

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