24・天動説以前の精神圏


 ずっと雪が降り続けていた。ブーツの足跡がくっきりと残るくらい足元にも積もってきている。

 静まり返った雪の住宅街の一角を二人連れで歩いているのはイノリとハギトであった。イノリはワッチキャップを深くかぶり、ハギトは長い髪を邪魔にならないようにポニーテールに巻き、二人とも着ぶくれするほど着込んでマフラーを巻いていた。

「このあたりが住宅地域――。駅前のホテルやお店なんていくら探しても大したものは見つかりはしないんだよ。人が毎日暮らしてた場所を探さないと」

 ハギトが辺りを見渡しながらしたり顔でそう説明しているとガラスの割れる音が響く。ぎょっとして振り返るとイノリが民家の玄関脇のガラス窓をバールで割り、手を突っ込んで鍵を開けているところだった。

「この家にしよう! 二階建てで豪華だし、たぶん色々ある!」

 そう言う間にイノリはもう手早く鍵を開け、玄関からその一戸建ての民家に入り込んでいく。ハギトは呆れながらその様子を見ていたが、「慣れてるなあ」とだけぼやくと肩に積もり始めていた雪を手で払い、後を追ってその家の中に上がり込んでいった。


 それから暫く後。二人は一階のリビングに集まって戦利品をリュックサックに詰めている。

 下着や冬服は箪笥を探せばすぐに発見できたがかさばるので一度に沢山は持っていけない。電池はいくつかあったし市販薬の置き薬もいくつか見つけたが他にはこれといって発見できず、台所も一応は探ったがまともに食べられそうなものは調味料くらいしか残っていなかった。尤もそれらははなから期待していなかったし、今日の二人の目的はじつは別のところにあった。

 大きなソファーの上にどかりと座り込み、台所から持ち出した角砂糖をかじりながらイノリが「そうだ、電池あったよ」といいながら単三電池の包みを差し出す。

 ハギトも角砂糖を一つ口に放り込むと舐めながらそれを受け取り、イノリの隣に座る。その手にはポータブルタイプのDVDプレイヤーが握られていた。受け取った単三電池をセットすると二人は肩を寄せるようにして小さなプレイヤーの画面を覗き込んでいたが、起動ボタンを何度押しても反応が無かった。ハギトは落胆したように肩を竦める。

「電池の問題じゃなくてやっぱり壊れちゃってるみたいだね」

「えー、じゃあもう映画見れないの?」

「俺じゃあ直せないしまた別のを他の家とか電気屋で見つけるしかないね。これも何台も試してようやく見つけた、まだ動くやつだったんだよ」

 電気の供給は七年以上も前から止まって大部分の電化製品は使用不能に陥っていたが、電池やバッテリーで動く機器も経年劣化で使えなくなってきていた。例えば自動車やガソリン自体は車庫や駐車場に放置されたままの物が残っているが、バッテリーがすっかり放電していたり電気系統がダメになっていたり。

「つまんないな」

 イノリは不満げにそう言うとソファーに崩れるようにもたれかかる。ほとんど寝そべっているような格好になっていた。その隣に座ったまま、ハギトが宥めるように話しかける。

「まあまあ。代わりと言うのも変だけど二階には大きな本棚があったよ。マンガやフィギュアがいっぱい置いてあったぜ」

 それを聞いたイノリは目だけをハギトの方に向け「本当に」と興味深そうな反応を示す。「たぶんオタクが住んでたんだろうね」とハギトが言うと「オタクって何?」とイノリは彼の顔を見たまま真面目に尋ねた。

「んん、――いやそんな事はどうでもいいか。要するに面白い物がたくさんある。持って帰るには多すぎるからここも秘密基地にしちゃおっか」

 そう告げたハギトの提案に対し、イノリは機嫌を直したようににこりと微笑んで「いいね」と呟き、そのままハギトを見つめ続けるのだった。

 表情には年齢よりも幼く感じさせる部分があったがイノリの顔立ちは綺麗だった。イノリの顔を同じように見つめていたハギトは不意に顔を近づけ、覆いかぶさるようにして流れるようにキスをした。

 イノリは一瞬だけ驚いた様子で身体をわななかせ息を止めていたが、すぐに彼を力いっぱいに押しのけると困惑したような表情を見せた。

「あ――ごめん」

 その表情を見たハギトは謝罪したが、イノリの方は帽子をかぶり直しながら「それやめてほしい。なんか胸がざわざわするから嫌だ」と言うのみで、ハギトは重ねて自分の行動を謝ったがイノリ自身が自分の感情を表現しきれないとでもいう感じで流そうとしているようだった。



                 ◆



「それじゃあ風邪薬はもらっていくね。欲しくなったら言ってね」

「ありがとう。けど中村さんは『これは病気じゃない』ってしょっちゅう言ってるし――そういえば、最近はお風呂、入れてる?」

「入ってないんだよね。お父さんが温まった後に体温が下がると却って危ないからやめろって」

「あー、湯冷めがたしかにやばいかも」

 大粒の雪が吹りしきる中をハギトとイノリが再び歩いていた。〝宝探し〟後の収穫を担いで寝床のある箱根湯本の駅前まで戻ってきたところだった。イノリ達がやってきた頃には閑散としていた駅前も大部分が雪に覆われ、情景的には真っ白だった。

「腐らないんだよな」

 ハギトがぽつりと呟いた。彼は駅舎に繋がる陸橋を見上げていて、そこには例の彼の兄の首吊り死体がまだぶら下がったままになっている。

「やっぱ似てる」

 イノリがなんの気なしにそう言ったがハギトはさして関心もない様子で、今度は駅前の枯れ果てた樹木を見つめている。かと思えば陸橋を上がって箱根湯本駅の中に入っていく。ホームに入り込んで端まで行くと、そこからは水没した峠下の街や山々が見えた。山の木々は残らず立ち枯れて雪が覆って来ているし、海になった部分も岸から凍結し始めているらしいのが見える。

「木も草も何年も前から枯れてるけどそのまま立ってる。腐らないんだよ。腐るっていうのは小さな微生物がいるから起こる筈なんだけど、もしかしてそいつらもみんな死んだのかもな。――ひょっとして、世界中でまだ生きてるのって俺達だけだったりしてな」

 どこまでも灰色がかった世界の様子を眺めながら、ハギトは不安がっているのか面白がっているのか判断しかねる感じのひきつった顔つきのままそう言った。

「なんかさ、止まってるみたいだよね」

 やや遅れて階段を上って来て、ハギトと並んで同じように灰色の景色を眺めていたイノリは、やがてぽつりとこう呟いた。

 

 ――動いているのは空ではなくて地面だよ。ハギトはそう言おうとしたが自信が無くなってしまい口を閉ざしてしまう。子供の頃に教えられた気がする、地球が太陽の周りを廻っていて地球自身が回転していてその周りを月が廻っていて……という答えの仕組みだとか根拠だとかははっきり言って彼自身よく理解できていなかったし、目に見える世界の形を何一つ説明できないような気がしたのだった。

「早く戻ろう。寒いし、お父さん達待ってると思うから」

「ごめんね。帰ろうな」

 イノリが急かすのでハギトもまた踵を返してホームから立ち去っていく。

 彼は途中で一度だけ振り返り、彼女が動かなくなったと評した空を見上げる。そこにはどこまでも寒々とした真っ黒な闇だけが広がり続けてていた。



 とうとう白夜にすら至らなくなくなり、もうずいぶん長い間、凍てつくような寒さをもたらす暗闇の空だけが続いていた。その空の下では時間の感覚はもう彼らのうちの誰にも無くなっていた。

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