23・月に憑かれた物狂い(part.3)


 抗生剤の注射と一通りの外傷の手当て。見様見真似の素人医療はなんとか終える事ができ、鎮痛剤の効果で少年は漸く目を閉じて眠る事ができたらしい。パウロが無事に連れてきた七人の子供達はすぐに寝室に集まって来て、友人の無事を理解したのかとても喜んでいる様子であった。

 子供達は言葉こそ通じないが身振り手振りで指し示すと思った以上にこちらの意図を理解してくれた。食堂の椅子に座らせてビスケットを数箱ほど皿の上に開き蜂蜜をたっぷりとかけて――此処で出してやれる今のところ最高のご馳走――出すと、まるで甘い物など初めて食べたというような様子で驚きながら口にしていたのが見て取れた。そうして長らく使われる事の無かった寝台を整えて供してやると、やっと安心したとばかりに他の子供達も眠りについたのだった。


 ようやく一段落がついた頃には、再び砂嵐が壁に打ち付けられる音が聞こえ始めてきていた。またいつ明けるのかも分からない閉じ込められて過ごす時間が来た。

「せっかくの晴れ間だったのに残念ね」

 長椅子によりかかったまま座り込んでいたイザベラが嵐に揺さぶられる建物に合わせて揺れる電球を見つめながらそう言うと、パウロがこう答えながら、今や希少品となったコーヒーが淹れられたカップを置いた。

「人命が一番大事ですからね。だからこそ貴女も此処まで連れてきたんでしょう?」

 それを聞いたイザベラは静かに薄く笑うと、こう言う。

「ええ、そうよ。ケープタウンから此処に戻って来る途中に偶然出会ったのよ。――いいえ、あの子たちの方から此方を尋ねてきたと言うべきかしら」

「尋ねてきた?」

「月の無い夜に差し掛かって、荒野の真ん中にトラックを停めて日の出を待っていたら、あの子達が車の傍まで歩いてきていたのよ」

 イザベラの話にパウロは怪訝そうな表情を浮かべ、「月の無い夜に歩いていたのですか?」と聞き返す。

 実際それは不可解な事だった。可視光線がゼロになった大消失後の夜に出歩くのはごく近所ですら難しいのだ。懐中電灯や自動車のヘッドライトの光ですら吸い込まれるように暗闇の中に飲み込まれていき、あっという間に方向を見失う。人間の活動可能時間を大幅に奪い取る月の無い夜は、世界をここまで衰亡させた一因でさえあった。

「あの暗闇を人間の眼で見通せる筈が……」

「だけどあの子達は、確かにあの暗闇の中を歩いて私の乗ってるトラックの所まで来た。どうせ無駄だから夜明けまでエンジンも灯具も全て切って、海の真ん中の浮木みたいに留まってる私の車の窓を叩いたのよ」

 彼女が嘘をつく理由はまず何一つ存在しなかった。

 となればもう、信じるしかない。

「……それで、ともかくにも助け出して此処まで乗せてきたというわけですか」

「あの子達が何処から来て何処に行くつもりだったのかは分からないけど、放っておくわけにもいかないから。夜明けとともに砂嵐が起きたから、あんな開けた荒野に放っていったら今頃どうなっていた事か。一人はあの通りひどい怪我をしていたし……」

 イザベラはまるで自分にそう言い聞かせるような口ぶりでそう言う。その表情と口ぶりからは微かに迷いが見えた。それを知ってか知らずか、パウロは「ありがとう」とはっきりした口調で述べる。

「なんで貴方がお礼を言うのよ」

 若干あきれた様子でイザベラが聞き返すと、パウロはこう続けたのだった。

「貴方は、人間として正しいことをしたのですから」

 その言葉を聞いたイザベラはほんの一瞬だけ驚いたような顔をしていたが、すぐに噴き出して笑い出してしまう。

「――どうなさいました?」

 パウロが不思議そうな顔をしながら、にやつきながら彼の顔を見ているイザベラに訊ねたが、彼女は何も答えなかった。


 かけっぱなしになっているラジオからざらざらとしたノイズ音が流れ始める。二人がはっとしてラジオの方を見ると、ロシア語訛りのかかった英語メッセージが聞こえ始める。彼らにとってはもう何百回と聞いたおなじみの録音音声だった。


 ――親友アランの遺志によって……放送衛星を開放……国際衛星識別符号は2020-051A……開放周波数は……これを聞いた地球のみんなからのコールを……此処で待っている……ISS……最後の宇宙飛行士……――


「この放送を聞いている人は、他にもいるのかしら?」

「おそらく。いや必ずいるはずです。私達が此処に来るまでの旅だって大勢の人に出会って来たんだ。モンサンミッシェルに向かうと言っていたフランス人達……海上で出会った韓国の水兵だったという人達……彼らがきっと聞いている」

「もしかしたら私達も放送できるかも知れないわ。ケープタウンの郊外に建っていたラジオ塔の設備が水にも浸からずまだ残ってた。調整すれば、たぶんいける」

「もしも放送する事ができたら、世界の人々に何を呼びかけますか?」

 イザベラはゆっくりと答える。

「そうね――私はこの天文台から、世界をひっくり返してみんなの眼を開かせるような事を見つけて報告してみたいかな。あの偉大なるガリレオみたいに」

「……ガリレオのようにですか? だけどもう、月は存在しないんですよ」

「月の顔を覗き込んだ星界の報告Sidereus Nuncius――月がエーテルの虚空にはめ込まれた天上の宝石ではなく、私達の身近の石や砂と大差の無いものの塊だと知った時、ガリレオはがっかりした?」

「いいや――彼は、素晴らしく、心地良く、何にもまして我々を駆り立てる事実が分かったと喜びを記しています」

「そう。天上界と月下界というそれまでのヴェールを引き剥がされて、私達の見る世界の形が確かに変わった。だけど月は私達の好奇心を相変わらず捉え続けていた。月は天上の宝石からいつか私達が辿り着ける大地のある世界になった……もちろん彼だけじゃない。世界中の人間が月を目指してますます駆り立てられる気持ちを抱くようになった。実態なんてどうでもよくて、ただ知りたい気持ちばかりがどこまでも膨れ上がっていった」

 パウロはその言葉を聞くとなんだか笑い出したいような気持ちになってしまった。それは自分が此処に来るまでに心の中で煮立っていたビジョンによく似通っていたからだった。彼は面白そうにこう言い添える。

「月に魅入られたのはガリレオだけじゃありません。彼の後に続いた近代の科学者達だって、大昔の哲学者だって、おそらくは洞窟の中に住んでいた人々だって、夜空を見上げて月を仰ぎ見ながら世界の在り方をずっと知りたがってきたんです」

 パウロのその口添えに今度はイザベラが可笑しそうな表情を浮かべ、こう言った。

「ああ、やっぱり同じことを考えてた。月は私達の――知らない事を知りたい、世界の在り方を理解したい――そういう気持ちの源泉だったんじゃないかしら。少なくとも、私達をそういう気持ちを抱く存在に育て上げた最初の導き手は、月だった。

 手の届かない先を見上げて思考し続ける月に憑かれた物狂いルナティックとしての側面こそが、人間を人間にしたのかも知れないし、月が単なる土くれの塊だって、ある日突然何も無かったかのように消えたって実はどっちでもいい事なのかも知れない。たぶん、探究心を持って空を見上げた気持ちさえ持っていれば――」

 ちょうどその時、ラジオから流れる音声メッセージが終わり、例のシナトラ版の『Fly me to the moon』が流れ始める。輝くような月の夢をうたったあの歌声が二人を押し黙らせ、砂嵐に押し込められた宿舎の中で染み込む様に響き続けていた。

 月を求め、月を讃える歌だけがずっと、彼らの言葉にできない心情の代弁者のように響き渡っていた。



                ◆



 それからまた随分と後。

 長く続いた砂嵐が明け、私達は久方ぶりに外に出る事が出来た。

 空気は相変わらず淀んでいたが空には雲もかかっておらず、星だけが小さく輝く暗い夜空が巨大な天蓋のように彼らの眼前に広がっていた。あいかわらずの塗りこめられたような暗闇のおかげで大地と天の境界すらパウロや私の眼にはよく分からなかった。ペンライトの心もとない灯りで辺りを照らしながら、できるかぎり私は穏やかに声をかけた。

「いらっしゃい。今日は能く見えると思うから」

 その声に応じて、天文台にやってきた子供達がそろそろと外に出てくる。辺りを窺うような目つきは相変わらずだったが迷わずに二人の元にやって来る。足元に灯りは必要ないようだった。

「――はい、これが大消失以前の星図ね。位置関係は変わっていないから星座を探す事自体は容易なはず。……うん、あれがこぐま座よ。地軸が動いたせいでもう北極星では無くなってしまったけどね」

 手元の星図と空に見える星座を見比べさせて理解させるもっとも原初的な方法で、私は天体観測の初歩を教えていく。未だ言葉の壁はあったが子供達は興味深げに星図と空を見比べ始めていて、星座というものを確かに理解したらしかった。

 その時だった。望遠鏡の使い方を他の子供に教えていたパウロが声をかけた。

「状態保全用のガスを抜いたので望遠鏡は使える状態になりましたよ――しかし良かったのですか? 世界に一つしかないガリレオの望遠鏡を……」

 私は答えた。

「この子達にいきなり使わせるには此処に置いてある電子望遠鏡は高度すぎるもの。フィレンツェを出る時に言ったでしょう? 私達はガリレオを崇拝しているわけじゃない、彼の辿った近代科学の道筋を絶えさせない事が大事なんだ、って」

「――なるほど」

 その答えを聞いて満足げに頷いたパウロは再び望遠鏡のそばに行き、望遠鏡の方に戻っていく。今夢中になって覗き込んでいるのは頭にまだ包帯を巻いた子供――あの時、なけなしの医療物資を使って治療された子供だった。

「あの子は特に熱心に空に関心を抱いているようですよ。もしかしたら貴女は、これからの世界のコペルニクスかケプラーかガリレオになる人間を救ったのかも知れませんね。あのラジオを使う事になる日も、案外近いかも知れない」

 パウロはそう言っていつものように穏やかに微笑し、未来のガリレオ君の元に戻っていった。


 ――抗生剤はケープタウンの総合病院から見つけ出せた最後の物だったし、鎮痛剤や消炎薬もストックは残り少ない。これから使用に耐えるほど状態の良い物を見つけられる保証はどこにもなかった。

 もちろん薬だけではない。実際何もかもが欠乏に向かっていた。

 動物は大型哺乳類から鳥魚虫に至るまでが環境変化による交配能力の喪失で死に絶えた。草木に至るまで枯れ果てたのだから本当の意味で地球全体が不毛化していた。この世界に残されているはもう大消失以前に作られた保存食の類いしか残っていない。それらもあまりの経年でダメになってき始めている。何もかもが限界の時に近づいているのは明らかだった。

 備蓄の残りを意識した瞬間、私の中には迷いが生まれた。私心無く助け出した筈だったのに天秤にかけた。私や彼が一日も長く生存を維持してをなすために必要な物資を――あのときパウロに投げかけた「最後の抗生剤を使ってよいのか」という問いは私自身の脳裏をよぎっていたものだ。

 にも拘わらず、彼は迷う事無く今使うべきだと言った。

 それが彼の信仰がもたらす無私の精神故なのか、あるいは単に彼に現実が見えていないだけなのかは分からない。が、とにかくおかげで私の中に起こった迷いは吹っ切れた。

 私は最後の最後まで人間的でありたいし、今回もまた彼のおかげで、人間的な何かを見失わずに済んだような気がする。どうも彼は自分の事をどうしようもない無能者だと思っている節があるが、私にとって彼はやはり尊敬すべき相棒であり同志であった。

 彼は楽観しているが、おそらくはそう遠くないうちに何もかも尽きる時が訪れて、人間という種も滅び去るのだろう。腹立たしい事に例のばかげた黙示録アポカリプスのように。

 しかし私と彼はその時まで、絶望することなく人間であり続けたいと思う。

 私達はまだ月の事を憶えている。きっと、進む先は間違わないはずだ。




〝我、汝の指のわざなる天を観、汝の設けたまへる月と星とをみるに 、

 世人はいかなるものなればこれを聖念にとめたまふや。人の子はいかなるものなればこれを顧みたまふや。〟

   ――『詩編』

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