22・月に憑かれた物狂い(part.2)

 

 打ち付けるような砂嵐の音が小さくなっていくと共に低いエンジン音が聞こえてくる。その音には聞き覚えがあり、それはイザベラが苦心して再び動き出せる状態にまで整備した大型トラックのディーゼルエンジンの音だった。

 彼女は九十時間ほど前からトラックを駆り、物資や食糧の調達のためにケープタウンに出かけていた。ちょうど戻ってきたところなのだろう。水没した都市の中にスキューバの装備を利用して潜っては使えるものを探しているらしく、その行動力の高さにパウロはずっと助けられてばかりだった。

「それに比べて私と来たら――世界の変革に置いて行かれた無用の長物ではないのかな」

 パウロはやや皮肉めいた調子でそう呟くとゆっくりと立ち上がり、迎えに出る事にした。


                ◆


 天文台宿舎のアルミ製の扉を開けると、外は砂嵐こそおさまったものの相変わらずどんよりと曇っている。仄かに薄明るい事からして陽の出ている時間である事だけは確かだった。そしてちょうどすぐ手前にトラックが停められ、ブーツとカーゴパンツ姿のイザベラが運転席から降りてきたところだった。

「おかえりなさい、無事で何よりでした」

 パウロは近づきながらそう声をかけたがイザベラはそれに答えず、妙に急いだ様子でトラックの荷台の方へと駆けて行く。荷台の扉を引き開けると、彼女はその中に乗り込んでいく。

「さあ、急いで!」

 イザベラの声と、何やら持ち上げるような物音が聞こえる。

 一体何をしているのかと覗き込むと、暗い荷台の中に差し込んだ光を反射してぎらりと光る眼がいくつも見えた。それは人間の眼であった。パウロがぎょっとしているとイザベラが荷台の中から慌てた様子で出てくる。その腕の中には、人間がいた。小柄で子供のようだった。

「一体どうしたのですか」

 全く予想もしていなかった来訪者に、パウロは驚いてイザベラに訊ねる。イザベラは振り返りもせず大声で怒鳴るようにしてこう返すのだった。

「話は後!! パウロ神父の部屋、借りるから!!」

 そのまま宿舎の中に駆け込んでいったイザベラの後を一瞬遅れてパウロも追いかけていく。とにかく只事ではない事だけは確かだった。


 一瞬遅れてパウロが自室に駆け込むと、寝台脇に置いてある机の上に置かれていた燭台や聖書が弾き飛ばすようにどけられ、代わりにかき集めた医薬品などを入れた救急箱が置かれていた。

 彼が先ほどまで寝転がっていた寝台にはあの抱きかかえられていた子供が寝かされ、服を脱がされて手当てを受けているようだった。少年は十二~三歳の黒人で全身にひどい打撲跡があった。既に意識が朦朧としているようで目の焦点が合っていなかった。先ほどまで戸惑っていたパウロもその様子を見て事情を察したようだった。

「ひどい怪我……たぶんリンチに遭ったのね。骨折などは無いけれど発熱してるし敗血症になりかかってるかも知れない。抗生剤を与えようと思うのだけど、良い? 言っておくけれど在庫は殆ど無いわ。ここで使ったらこれから私か貴方が病気や怪我をした時、助かる術が無くなるかも知れない――」

 少年の容態を診ていたイザベラが、ちらりとパウロの方を振り向いてそう言う。その問いかけに対し、パウロは当然とばかりに真面目な顔で応える。

「何故訊ねるのですか? 答えは決まっています。いま使うべきです」

 その顔を見たイザベラは満足げに薄く微笑み、こう返すのだった。

「貴方の答えなんて分かってるけど、二人の共有物なわけだから一応ね。抗生剤投与の後に外傷の手当てと消毒をするから、お湯を沸かしてもらえるかしら」

 イザベラは注射器に抗生剤を充填させながらそう言い、パウロもうなずいて部屋を出て行こうとする。そこでふと、思い出したようにイザベラがこう付け加えた。

「あ! あと、他の子供達に食事を出してあげてね。まだあの中にいると思うから」


                 ◆


 ――他の子供達、という言葉をパウロは気にかけたがすぐにあのトラックの荷台の中に見えたいくつもの目の事を思い出し、台所で固形燃料を用いて湯を沸かし始めるとパウロは再び宿舎の入口の所へと戻っていった。

 するとちょうど、トラックの荷台から辺りを警戒するようにして降りてくる人影が見えたのである。

 トラックから降りてきたのは七人ほどの子供だった。黒人も白人もいて、皆が皆ぼろきれのように汚れた服を着ていた。彼らはソリを大事そうに荷台から引き出すと、全員がそばに立つパウロの姿をなんとも言い難い表情でじっと見つめている。

「君達は――」

 パウロは思わずイタリア語で話しかけようとしたがおそらく通じまいと思い直し、英語で「君達はどこから来たんだい?」と声をかけた。

  しかし声をかけられている事は理解できている様子なものの、彼の言葉は理解できないようだった。ラテン語とフランス語も試みたが結果は同じであった。

「イザベラに聞いてみるしか無いか……それにしてもこんな子供達がよく、この世界で生き延びられたものだ」

 ヨーロッパからこの地に渡るまでの間、彼は色々過酷な状況を見てきた。寒冷化からは比較的免れているアフリカ大陸でも終わり無い飢饉と内乱が続き、子供は真っ先にその犠牲になっているはずだった。大消失以前から存在した問題であったが、誘拐した子供を兵士として戦わせる事さえ横行していたという。目の前にいる子供達の身なりは酷く汚れていたが、茶色に変色しているシミはどうも血痕のようだった。

 それは彼らが体験したのであろう苦難がそのまま刻み付けられているように思えて、その姿を見、そしてあの大怪我をしている子供の姿を思い起こしているうち、彼の中には義憤と憐みの入り混じったような形容しがたい気持ちが充たされて行き、パウロは思わず、彼らを救って此処まで導いたのであろうを想い、十字を切るのであった。

「さあ、こちらに来なさい。此処ならもう大丈夫だ。君達の友達も此処で手当てを受けているんだ」

 言葉は通じぬともできる限り穏やかな口調でそう促し、パウロは子供達を宿舎の中に導こうとする。その心情が通じたのか子供達もまたおそるおそるながら彼の方へと近づいてくる。

 その時、パウロは彼らが引いているソリに初めて目を遣った。僅かな水の入った瓶や携帯食料の包みに混じって妙に大きな物が積まれていた。

 それがパウロの目を引く。どうにも見覚えのあるそれは

「――古式の望遠鏡?」

 しかもそれには見覚えがあったのだ。半年以上前にSANSA南ア国立宇宙機関の元職員だったという男に機器メンテナンスの代価としてやむなく渡して手放した、ガリレオ・ガリレイが使った古い望遠鏡に間違いなかった。

 驚いたパウロは思わず近づいていき、他の物を押しのけるようにしてその望遠鏡を取り出す。間違いなく、それはガリレオがかつて使っていた望遠鏡に違いなかった。なにしろパウロは子供の頃から何百回何千回も、科学史博物館に飾られたこの望遠鏡を眺めてきたのだ。見間違うはずも無かった。

「幼い私はこれを眺めながら、ガリレオのように月や宇宙の神秘を解き明かしたいとずっと夢見たものだった。やがてこの夢は私の心の中で〝ディオス〟の栄光に近づいていく事とも結びついていって――そう、ケプラーやニュートンのように。それがどんなに苦難の多い道でも……」

 自分の夢が色鮮やかによみがえるような感覚。先の見えない枯れた生活の中で積み重なっていった殻がひび割れていくような感覚。そういった感情がこみ上げてくる。

 その時ふと、望遠鏡に血まみれの手で握られた跡がくっきりと残っている事に気が付く。明らかに大人の手形だった。

「……もしかしたら、この望遠鏡を手に入れた誰かもそんな夢を胸に秘めて覗き込んだのかも知れないな。どんな人物だったのか。それまで機会が無くて気づけなかった、自分の中の探究心に初めて気づいた人だったのかも知れない」

 万感の想いを抱きながら手元に戻ってきた望遠鏡を眺めていると、パウロは自分を見ている子供達の眼差しに気が付いた。とでも思ったのか。

 その様子を見たパウロは、ほんの一瞬だけ考えた後、静かに望遠鏡を一番手近にいた子供の手に渡した。そうして続けて言う。

「これは君達のものだよ」

 望遠鏡を渡された子供は、そこで初めて嬉しそうに笑って口を開いた。

 その言葉はやはりパウロには理解できない現地語だったが、たった一つだけ聞き取れたのは「luneリューナ!」――ラテン語のLunaに由来するフランス語の「月」だった。

 それを聞き取ったパウロは驚いたように目を丸くしたが、それからすぐに微笑んだ。そうして子供達を宿舎の中に引き入れながら、小さな声でこう口にしたのだった。


「君達も、月が見たい、月を知りたい、月に辿り着きたい――そういう夢に囚われてしまったようだねえ」

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