第33話 リュックサックいっぱいの

 心地よい眠りから目覚めると、大きくアクビをしてから地面から体を起こした。髪の毛に付いた木の葉や土を手で軽く払い、座ったまま伸びをする。疲れはすっかり取れていた。全身が軽い。これなら今日はもうちょっとだけ先に進めるかもしれない。

 私は靴を履き、リュックサックを背負ってからゆっくりと立ち上がった。風はまだ吹いていたけれど、それ程強くはない。むしろ心地いいくらいだ。

 私はコンクリートの陰から出て、再び道を歩き始めた。取りあえずこの道が途切れるまで歩いてみよう。もしかしたら途中で何か病院の手がかりを見つけられるかもしれない。


「ねぇ、あなた」


 誰かの声が私のすぐ後ろから聞こえた。

 私は驚き、足を止めて振り返った。誰もいない。目に見えたのはつい今しがた通り過ぎて来た道路だけだ。私は周囲を見回した。誰かがいる気配はない。空耳だろうか? 長い間ずっと1人だったから幻聴が聞こえるようになったのかもしれない。

 いかん。これはいかんぞ。しっかりしなくちゃ。

 私は気を取り直して道を歩き始める。前方から駆け抜けていくような風が吹いた。風は若葉と土の香りと、そしてキィキィという懐かしい音を私に運んで来た。ロッキングチェアが揺れる音だ。

 私は耳を澄まし、音の流れてくる方向を聞き定める。

 その音は先程私の前を走り抜けていった鼠達が消えていった、あの茂みの向こう側から聞こえてきていた。私はスカートの両端を掴んで持ち上げると、茂みに向かって駆け出した。

 茂みをかき分け、私は森の中を走る。どんどんとロッキングチェアが揺れる音が大きくなっていく。近い。近い! もうすぐだ! 背の高い雑草をかき分けて前に進むと、急に視界が明るくなった。森の中に丸くて広い空間が出来ている。私はそこをよく知っていた。 

 骨組みしか残っていないベンチと、手入れが全く行き届いていない雑草だらけの花壇があり、お庭の中央にはすっかり風に削られて小さくなってしまったガーゴイルの石像が建っている。あのお庭だ。東棟のあのお庭。

 ガーゴイルの隣で、ロッキングチェアが揺れていた。

 彼がいた。長い足を組んでロッキングチェアを揺らし、真っ直ぐに私を見つめていた。

 彼は私を見て本当に大きく目を見開いた。唇が僅かに動いた。彼は私の名前を呼んだのだろう。声が小さ過ぎて聞こえなかったけれどきっとそうだ。本当に吃驚していたんだろう。彼は完全に硬直してしまっていた。

 私と彼はしばらくお互いを見つめあった。永遠とも思える時間が、瞬きをする間に過ぎていく。私はリュックサックをその場に降ろし、土埃で汚れたスカートを手で叩いた。ぼさぼさに乱れていた髪の毛を手櫛で梳き、一度咳払いをする。

「こんにちは」

 私は彼に挨拶する。少しぎこちなかったかもしれない。随分久しぶりに人と喋るから、声が変に強張っていた。それにちょっと裏返っていた。

 彼もぎこちなく「こんにちは」と挨拶を返す。彼の声もまた、強張り裏返っている。

「えーっと……そこ、あなたの膝の上、空いてますか?」

 そこが空いているのは見ればわかったけど一応聞いてみる。

 彼は懐かしそうに目を細め、小刻みに笑ってから私を指差した。「なるほどね、わかったよ」って顔。私はにっこりと笑い、彼の言葉を待った。

「目が悪いのかい?」

「いいえ」私は笑い、一歩彼に近づいた。

 彼は首をカクンと右に傾け――あぁ! この動きをまた目にするなんて――唇の端をつりあげた。

「あぁ、そうか」

 以前はマネキンのように無表情だった彼が、楽しげに笑って私を見ていた。彼の顔が実際に『笑顔』だったかどうかはわからない。彼の顔の筋肉は殆ど動かないのだ。それでも、私には彼の顔が今までにない柔らかい笑顔を浮かべているように見えた。

「なら頭が悪いんだね」

 私達はまたしてもお互いに口を閉じ、無言で見つめあった。やがて彼は顔を伏せ、小刻みに震え始めた。私も口を抑えて体を振るわせる。

 最初に声を出して笑ったのは私だった。彼も私に続き、ロッキングチェアの上でお腹を抑え、空を仰いで笑い出す。

 私はブギーマンに向かって駆け出した。彼が足を解き、両手を広げる。私は強く地面を蹴り、彼の膝の上に飛び乗った。彼は私を抱きしめる。私も彼を抱きしめた。力一杯、首の骨が折れる程強く。  


 私は遠い昔に約束した通り、彼の膝の上で自分が今までに体験して来た色々な事を話した。本当に沢山の話を。悲しい話や楽しい話、ロマンチックな話に、ホラーな話、後味のいい話や、悪い話、道徳的な話に、背徳的な話。 なんでもありの私の回想録。

 何を話すか忘れてしまった時は、私の持って来た沢山のノートを、2人でじっくりと読む。本当にじっくりとだ。1ページ読むのに1年くらいかけた。
 

 それでも時間は流れるものだから、やがて本は全て読み終えてしまった。 
 

 読み終えたらまた1ページに1年かけて読み返した。何度も何度も、2人で全ての本の内容を暗唱できるようになるまで読み返した。私が家にいた頃の話や、病院に入院してからの話、病院で出会ったジャックや、ダニーや、サードや、カーチャ達との冒険の話、家族の話、それからこの病気にかかってからの旅の話も。

 彼は私の話をいつも楽しそうに聞いていた。彼が楽しそうにしているのをみると、私も自然と楽しくなった。

 やがてノートに書かれた文字が擦れてゆき、完全に文字が読めなくなってしまうと、私達は空白のページを読みながら好き勝手にそのページにどんな事が書かれていたのかをでっち上げた。

 『たぶんこうだったんじゃないかな』という想像の物語だ。

 ある物語の中で、私は悪い魔法使いに毒入りチョコレートを食べさせられて死んでしまったお姫様で、彼は死んだ私のお腹を蹴り飛ばして蘇生させたお医者様だった。別の物語の中では、私は世界で一番優秀な少女探偵で、彼は世界中の図書館から貴重な本を盗む怪盗だった。

 真っ白になったノートを開きながら、様々なお話をでっち上げている内に、私達はどれが自分達の『本当』の物語だったのか思い出せなくなってしまった。そして間もなくして、名前や、自分がどこの誰だったのかも思い出せない事に気が付いた。

 私達は焦り、なんとか名前を思い出そうとしたけれど、どうしても思い出せなかった。

「きっと僕達の名前は声に出そうとすると舌の上でバターみたいに蕩けて、文字にしようとするとペンのインクが蝶になって飛んでゆく素敵な名前だったんだよ」と彼は言った。

「蕩けて、飛んでいってしまったのね。だから、もうどこにもないんだわ」

 私はそう言った後で、脳味噌の奥で何かがざわめくのを感じた。いつか、どこかで同じような会話をしたような気がした。でももう、それがいつ、誰としたのかは思い出せない。

 私は思い出せない事について特には何も思わなかったけれど、彼は「こうして忘れた事の中には、きっと『絶対に忘れたくない』って思っていた物もあるんだろうね」と呟いた。

「どうして?」

「だって」彼はリュックサックの中に入っている大量のノートを見やり「忘れたくなかったから、きっとあんなにノートを書いたんだ」と続けた。

 私は何を覚えていたかったんだろう? さっぱりわからない。けど、もし彼が言う通りなら、私が何も思い出せないというのは、とても悲しい事なのかもしれない。


 太陽は何度も何度も私達の上を通り過ぎてゆき、やがて地面に転がっていたコンクリートの塊やビルの残骸、アスファルトの道路達は雨風に削られ、消え去ってしまった。人類が築いた遺跡は地上から姿を消し、緑が爆発したように大地を覆い始める。

 私達は時折、わざと森を燃やして狼煙を上げる。

 もしかしたらどこかに、私達と同じ不死の病気にかかった人がいるんじゃないかと思ったからだ。もし、同じ病気の人達がいるのなら、この火事をどこかで見ているかもしれない。

 私達は燃える森の中、彼らが訪れるのを待っていたけれど、彼らが私達の元に訪れる事はなかった。狼煙が見えない程遠くにいるからかもしれないし、見えてはいるけど面倒だからこないのかもしれない、もしかすると、やっぱり地上には私と彼しか残っていないのかも。

 私達は2人ぼっちになってしまったのかもしれない。それも永遠に。悲しくはなかった。薄々、そうなんじゃないかと思っていたから……いや、そうなんだってわかっていたからだ。

 森を焼き払った後、私達はロッキングチェアを持って近くの浜辺に行った。ノートは森と一緒に捨てた。もう何も書いてなかったし、紙も風化してし まって触れるだけでパラパラと崩れてしまうからだ。 


 初めて見る――多分――海はとても綺麗だった。潮風で肌はベタついたけれど、心地よかった。特に私が好きなのは夜の海だ。星空が海面に反射して、キラ キラと輝き続ける。波打ち際を走ると、自分がミルキーウェイを走っているような気持ちになった。

 時折、凶暴な牙を生やした肉食獣達がやってきて、私達を食べようと口を開いた。

 けれど獣達は私達を食べようとしたその時に、クンクンと鼻を鳴らして私達の臭いを嗅ぐと急に怯えた鳴き声を上げ、走り去ってしまう。どんな獣でもだ。

 きっと彼らには私達の肉が病に侵されているとわかったのだろう。肉食獣は鼻がいいのだ。

 やがて肉食の獣達は姿を消し、再び鼠達が頻繁に姿を現すようになった。

 鼠達は以前よりも大きくなっていて、皆2本足で器用に歩き回っていた。  

 鼠達は私達の側にやってきて、ロッキングチェアの脚元に果物や綺麗な貝殻、それに花を置いて、それから祈るような目をして私達を見つめてから去っていく。

 きっと私達はあの鼠達の神様になったのだ。

 鼠達はやがて番いになり、4匹から7匹の子供を産み、子供を育て、そして死ぬ。産まれた子供もまた番いになり、子供を産み、そしてそれを育て、死んでいくのだ。その数は徐々に増えているように見えた。肉食獣のいなくなった今、地上は鼠達の楽園になりつつある。

 ブギーマンの膝の上に座りながら、私は彼を見上げて言う。

「もう少し、私が大人だったらよかったのにね。そしたらきっと――」

 私がそこまで言うと、彼はポンポンと軽く叩くように私の頭を撫で「2人の方が気楽でいいよ」と笑った。それが彼の本心なのかどうかはわからない。


 人類は再生しないだろう。

 ブギーマンは最後のアダムで、私は彼のイブだったけれど、私はあまりにも幼過ぎたのだ。

 人類は滅びないだろう。

 私達が永遠に生き続けるのだから。けど決して再生はしないのだ。

「大人になりたいな」

 私が呟くと、彼は私の髪を撫でてくれた。彼は何も言わない。

 私達はロッキングチェアの上で向かい合って座る。

 私達は笑い、少しだけ泣いてから、また笑った。太陽が昇っていく。

 1匹の鼠が木の枝に火を点け、それを松明のように掲げて走り出した。


 かつて人類が辿った、進化の道を。

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マーガレット・ブルームの回想録(あるいは不死にいたる病) 千葉まりお @mario103

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