上海こじき

吉津安武

われはイザナギ

 一九三一年十月二日午後九時すぎ、上海。

 ナイトクラブ『アルカディア』にはダンサー・マヌエラの熱狂的ファンの常連客たちが誕生日を祝おうと集まり、パーティー開始を今か今かと待っていた。内輪の貸切パーティーで参加者は英人大班(タイパン・・・会社の白人支配人を中国人が呼ぶ称号)、日本人脚本家、白系ロシア人芸人、英人警察官、日本軍関係者らだが、一人だけ女オーナーの知らない顔が紛れこんでいた。

「あれは誰?」

 ロシア人オーナーにきかれたボーイは、隅のテーブルにひとりでいる中年男に目をやって答えた。

「それがわからないんです」

 その男はテーブルを相手に小声でぶつぶつと話しかけたかと思うと、耳をくっつけ、うんうんとうなずいていた。

「なにやってるのかしら。外見も異様ね」

 東洋人ぽいが、西洋人に見えなくもない。若くも見えるが年寄にも見える。堂々たる体躯。彫りの深い顔だち、琥珀色の瞳。髭だらけで茶色の髪は腰までのび、着ている服は薄汚れた日本風の着物で、おまけに裸足である。

「どこかの乞食が紛れこんだんじゃないでしょうね」

「どうしましょう?」

「うちは一流店よ。本来なら追い出すところだけど・・・・・・。でも万が一、杜先生のお知り合いだったら、まずいわね」

 杜先生とはパーティーの主催者で青帮(チンバン・・・中国マフィアの一つ。帮は組の意)のボスである。彼がまだこないのでみなでその到着を待っていたのだった。

「一応マヌエラにも、聞いてきます」

 ボーイは衣装の準備をしていたマヌエラにたずねた。

「九番のお客さんを知ってるかい」

 十九歳の誕生日を迎えるマヌエラこと山田妙子はステージ裏の覗き穴から、九番テーブルを覗いていった。

「どっかで見たような。ひょっとしたら親戚のおじさんかも」

「あの親父がマヌエラの親戚?」

「冗談よ。私の誕生日祝いに親戚がわざわざ日本からくるわけない。でも、あのおじさん変わってて面白いわ」

 マヌエラはそういって顔を微笑ませた。

 そのとき長髪男が突然立ちあがって、テーブルを両手でなでまわしだした。グラスや花瓶が次々倒れた。他の客が不審そうに見たが、おかまいなしだ。

「落ちつかせきて」

 だがオーナーは男の腰に目をやり、あわてていった。

「待って。あの男の腰にぶらさがってるのは剣?」

 ボーイもいまはじめて気づいたようで、

「あ。日本刀のようですね」

「ああ見えて軍人かもしれない。丁重にね」

 ボーイはそれとなく着席をうながしたが、男は幼児のようにテーブルをなでまわすのをやめなかった。

 そこへパーティの主催者である杜月笙が到着した。いつものように拳銃を持ったボディガードに周りを囲ませている。英人警官と日本軍関係者、長髪男以外は全員緊張した顔になったが、四十三歳の杜は一同に穏やかな顔をふりむけて着席した。

 そのようすからでは長髪男と知りあいかどうかわからない。

「大丈夫ですよ。俺が面倒みますから」

 三十三歳の英人警官ティンクラーがオーナーの困った顔を目にとめていった。

 ティンクラーはいかにも厄介者のあつかいには慣れてるといった感じで移動し、長髪男の肩に腕をまわしていった。

「さあさあ、兄弟。俺がおごるから、座って一杯飲もうぜ」

 しかし長髪男は、グラスが新たに運ばれてもなにも知らない幼児のようにじっと見つめただけで、口につけようとはしない。警官はしかたなくグラスを持って男の口につけ、たくみに飲ませてやった。長髪男は酒を飲みこむなり、びっくりして目を丸くし、硬直した。

「まさかはじめて酒を飲んだわけじゃねえよな」

 そのときパーティーが始まり、前座のダンサーにつづいて主役が登場した。マヌエラはすばらしいダンスを披露し、一同を大いに盛り上げた。

「ここで私からプレゼントがあります」

 三十一歳のロシア人が前にでていった。キャプテン・ピックだ。オペラ歌手、俳優、プロデューサーを表の仕事とするゲイのこの男は舞台人らしくポーズをとった。

 ステージに車つきの台が運ばれた。ベッドほどの大きさがあり、覆いがかけられてある。仲間のダンサーが見守るなか、マヌエラは目を輝かせていった。

「まあ、いったいなにかしら」

 そのときだしぬけに長髪男が目をカッと見ひらいて立ちあがった。

「あうあう、あうあう」

台を指さし、奇妙な声でわめいてる。本人は言葉のつもりらしいが、まったく意味不明だ。

「なにいってる。どうした、落ちつけ」

 座らせようとした警官の目がその瞬間凍りついた。プレゼントの台から血がたれているのが目に入ったのだ。だがマヌエラは気づかずに覆いをとった。たちまち、一同は凍りついたようになった。

 台の上には女がうつぶせになっていた。裸の上に割烹着を着ていて、体の下に敷かれた布団に手足の指を縫いつけられている。喉に傷があり、大量出血している。明らかに死んでいた。

 ダンサーたちが悲鳴をあげた。

 マヌエラは目を見開いたまま、手で口を押さえた。

ピックがわめいた。

「どうして。どうして台に死体が?」

 非難の目を客席にむけて、

「私の特製ケーキはどこに行ったのよ。この女は誰。誰がやったのよ」

一番近くにいた五十歳の英人大班イブ・サッスーンにつめよった。

サッスーンは目をそらして答えなかった。顔は血の気が引いて脂汗が浮いている。

「あんた、震えてるじゃないの。葉巻の灰をズボンに落として。もしかしてあんたが・・・・・・?」

サッスーンはにわかにピックを睨んでいった。

「私にそんな口をきいて許されると思ってるのか」

「ふん。じゃ誰のしわざ? プレゼントにこんなことした人は承知しないわよ」

 ピックが客全員を睨みつけながら怒鳴ると、杜月笙の護衛たちがたちまち銃を構えだした。

それを見てダンサーたちがまた悲鳴をあげた。

「落ちつけ」

 ティンクラーはみなをなだめた。

「今オーナーが警察に電話しに行った。大丈夫だから騒ぐな」

 それから杜の護衛に視線をむけていった。

「お前さんたちも物騒な行動は慎んでくれ。犯人はとっくに逃げたかもしれねえんだ」

「黙れ」

 護衛のひとりがティンクラーに銃をつきつけながらいった。

「私は警察が嫌いでしてね」

 護衛の後ろから杜がいった。落ちついた声である。死体を見た時も眉ひとつ動かさず、紫煙を黙々とふかしていた。

「勝手な真似は困りますぜ」

 ティンクラーは拳銃に手をかけた。

「そこまで、そこまで」

三十五歳の満鉄嘱託員──里見甫が突然割って入った。元新聞記者で後に中国阿片市場の帝王となるこの男は、死体を見た瞬間、ハッとした顔になったが、その後は口をへの字に結んでみなの様子を黙って観察していた。それが今、突然青帮のボスと警官の仲介に立っていった。

「女性陣がこわがります」

 杜は里見に鋭い目をむけたが、しばらくするとうなずいて、

「おっしゃるとおりですね」

 そういって護衛に銃を下げさせた。

「なんだ、サトミのいうことはきくのか」

「里見さんは警官ではありませんから」

 その時どさくさにまぎれて三十四歳の脚本家・林弘明がステージにあがり死体を観察しだした。その目は冷たく光っていた。

「念のため確認しますが、おたくは犯人じゃねえですよね?」

 ティンクラーが杜に聞いた。

「調子にのりやがって」

 先程の護衛が銃口をむけようとした瞬間、警察が到着した。

 パーティーは正式に中止となり、死体が調べられた。

 遺体は様々な角度から撮影された。被害者は喉を刃物でかき切られていた。死体の状況から、殺されたのは一時間から二時間前と推定された。加害者はまず被害者の喉を一気に切って殺してから、手足を布団に縫いつけたものとみられた。皮膚には糸だけでなく待ち針が数十本、等間隔で留められていた。

客も従業員も全員容疑者として足止めされた。ティンクラー警官も例外ではない。そもそもここはフランス租界なので彼の勤める共同租界警察の所轄ではない。取り調べにはフランス人警部、中国人警部補、安南人巡査数名があたっている。

 一番に疑われたのは台をステージに運んだ中年従業員だった。

 その中国人従業員は北京語で断固として否定した。マヌエラがステージで踊っているあいだ、物置からカラの荷台を運び、その上に厨房で特大ケーキをのせて舞台裏まで運んだが、そのあといったん台を離れたから、そのすきに何者かがケーキを死体に置きかえたにちがいないという。

 事実、台を運び終えた時刻から、台がステージに出るまでの時刻、その中国人従業員が厨房で下働きをしていたことは、シェフをはじめ他の従業員の知るところである。

他の従業員もオーナーもアリバイがあり、疑わしいところはなかった。目撃者もいない。

 死亡推定時刻からして、被害者は別の場所で殺された可能性が高かった。手がかりは被害者の体に縫いつけられている待ち針、糸、布団などである。アルカディアの物ではなかった。

死体とすりかえられたというケーキは店内をいくら探してもみあたらなかった。犯人は特大ケーキを持って逃走したのだろうか。いったい犯人は何者なのか? 犯人はいったいどうして被害者を布団に縫いつけたのか? 動機は?

 被害者の身元も謎だった。年齢は三十歳代、髪や肌の色、顔立ち、敷布団や割烹着などから日本人とみられるが、従業員もオーナーも知らない人物という。そこで警察は客に質問をはじめた。

「被害者の女性をご存じの方はいませんか」

みな一様に首を横にふった。と思うと、長髪男がいきなり死体に近づき、その両手をにぎった。

「やっ、なにをする」

 男は女性の口に耳をあて、まるで話をきいているかのようにうんうんとうなずいた。と思うと指に死体の血をつけ、割烹着になにやら文字を書きはじめた。

──密勒路五十三号 電話五八七六五

「なんだこれは、住所と電話番号・・・・・・まさか被害者のか?」

 フランス人警部はためしにその番号にかけてみた。すると日本人男性がでて、その人の妻がいまだ帰宅していないことがわかった。妻の外見は聞いたところ被害者の外見に一致した。

その日本人男性は飛んできて、被害者が妻・池津由美であることを確認した。

「なぜ妻がこんな酷い目に・・・・・・。どうしてこんな殺され方を。妻は夜、フランス租界にひとりでくるような人間じゃないんです。きっと誘拐されたにちがいない」

 取り乱す夫をなだめつつフランス人警部は長髪男にいぶかしげな目をむけ、訛りのある上海語でいった。

「いったいおまえはなぜ被害者の連絡先を知っているんだ? 死人から聞いたなどというなよ」

 長髪男は警部の質問を無視し、客席を見渡したかと思うと、突然客ひとりひとりの手を強くにぎってまわった。そのつど目をカッと見開き、相手の目を覗きこむように見た。

「おい、なにをしている。おまえのしわざじゃないのか? しかもその腰の剣はなんだ」

 警部は男の剣をぬきとった。刃はぴかぴかで血糊のあとはない。念のため被害者の傷と照合したが、刃型は一致しなかった。

「その人は犯人じゃありません」

 だしぬけに里見が声をあげた。

「今思い出したんですが、私は店に入る前、被害者の女性を見ています。女性は『アルカディア』の前を歩いていましたが、そのとき、その剣を持った男性は店内で座っていました。彼がそれからずっと動かなかったことは、みなさんが目撃しているとおりです」

「すると被害者は店内で殺されたことになる」 

警部は長髪男を一応容疑者から外すと、店内全員の指紋をとりはじめた。

 杜月笙は拒絶した。それどころか杜は捜査の打ち切りまで要求した。もともと青帮のいいなりのフランス租界警察は受け入れざるをえなかった。被害者は名もなき女性であり、青帮に攻撃される危険をおかしてまで捜査する価値はないということになり、捜査は中止となった。

 フランス人警部は英語で池津隆にいった。

「ご主人には申し訳ありませんが、上海では殺しは珍しくない。運が悪かったと思ってあきらめてください」

「そんな・・・・・・」

 解放された客はマヌエラの誕生日は後日お祝いし直しましょうと挨拶しつつ、アルカディアを後にしていった。

 しかし帰ろうとしない人間がいた。池津隆、長髪男、キャプテン・ピックの三人だ。

 長髪男は遺体とその傍らで泣く池津隆を見つめている。その長髪男をまたピックが後ろからじっと見つめ、なにやら黙考していた。

 ピックは長髪男にではなく池津隆に近づいてお悔みの言葉をのべた。流暢な日本語だった。ピックは上海の日本人社会、中国人社会に入りこんで言葉を学んだので七か国語を話せる。

 喪心した寡夫は型どおりの挨拶を返した。ピックはしばらくあたりさわりのない話をしたかと思うと、だしぬけに長髪男の肩に手をおいていった。

「奥さんの身元がわかったのは、この人のおかげよ」

 池津隆は長髪男を見ると、せき込むようにいった。

「あなたはなぜ身元がわかったんですか。妻の知りあいですか」

「・・・・・・」

 長髪男は日本語がわからないのか無反応だ。キャプテン・ピックがかわりにいう。

「この人は奥さんの口に耳をあてて、うんうんとうなずいて住所と電話番号を割烹着に書きとめたのよ。まるで死体から直接話を聞いていたみたいだった」

「本当なんですか」

 池津隆は不審そうに長髪男を見た。

「死んだ人がしゃべるわけないのに不思議よねえ。彼、そもそもどうやってここに入ったのかも謎なのよ」

「教えてください」

 池津は長髪男に哀願するようにいった。

「あなたは妻とどんなつながりがあるんですか? 僕には知る権利があります。誰が妻をこんな目にあわせたか、手がかりがほしいんです。警察に見捨てられた以上は自分で犯人を突きとめるしかないんです」

「・・・・・・」

 長髪男は何もいわない。

「せめて、あなたのお名前を」

長髪男は黙って池津隆の顔を見つめ返す。ふいに池津隆はハッとしていった。

「この顔、懐かしい気がするのは、なぜだろう・・・・・・」

 長髪男もハッとしたようだった。瞳孔を大きく開き、遠い記憶を呼び覚ましたような顔をしたかと思うと、突然駆け出し、外に出て行った。

「待ってください」

 池津は追いかけた。ピックも追った。長髪男は通りに出て夜空を見上げ、つぶやいた。

「イザナギ・・・・・・」

 その顔は今はじめて目覚めたように輝いている。

「わしの名はイザナギ。何者かに呼ばれてここへきた」

 男は頬に血をのぼらせ、ぐるりとまわった。その拍子にひとりの通行人にぶつかった。

 相手の男は露骨に眉をしかめ、立ちどまって長髪男を睨んだ。スーツに数珠をぶらさげた五十代半ばの男──日本の西本願寺二十二世法主だった大谷光瑞で、上海で勢力的に布教活動を行っている仏教坊主である。とはいえ光瑞は頭を丸めていない。洒落た洋装で髪の毛はポマードで撫でつけてある。

 長髪男はぶつかったことにも、まったく気づいていないようすで、

「わしの名はイザナギ」

 日本語でくりかえし、踊るようにぐるぐる回った。

そこへピックと池津隆が追いついた。

「あの、お名前はイザナギさんとおっしゃるんですか?」

 池津が聞くと、

「さよう、わしはイザナギじゃ。わけあってこの土地に降りたったはずじゃが、はて何じゃったか──」

 長髪男は途中で言葉をとぎらせたが、ふいに思い出したようにいった。

「イザナミ──さよう、わしはイザナミに会いにきた」

池津は怒りを顔にあらわしていった。

「イザナミにイザナギってあなた、ふざけているんですか。両方とも記紀神話に出てくる神の名前じゃないですか」

「キキシンワって?」ピックが聞いた。

「日本神話のことです。記紀というのは古事記と日本書紀のことで、イザナギとイザナミは国を生んだ男女の神の名前なんです。その神の名を名のるなんて、こいつは狂ってる」

 池津隆は長髪男に頼っても無駄だと思ったのか、青黒い顔で妻の遺体のあるクラブへと引き返して行った。

「こんなことをしてる場合ではない。イザナミを探さねば」

長髪男はそういうと、なにかにとりつかれたように歩きだした。

その後を何人かの男がつけた。一人は日本軍関係者里見の部下で、もう一人は杜月笙の部下である。その二人の後につづくのは大谷光瑞だった。

その三人に気づいたピックは横取りされてたまるか、といった顔で一番目立つ場所から長髪男の跡をつけだした。

 自称イザナギは、勇ましい一歩をふみだす。宙を見すえた琥珀色の目が光をおび、長髪が風になびいて広がる。

 するとその瞬間、けたたましいベルの音がきこえ、トロリーバスが急停車し、罵声が飛んできた。

「ノンアイ云々──!」

上海語である。長髪男は気にとめたようすもなく、トロリーバスをしげしげと眺めて、

「これは船じゃろうか。天の鳥船?」

と、日本語でつぶやき、

「空に伸ばしておるのは角じゃのうて天への階段か? 天から誰ぞがわしに会いにきたか」

 そういうと入口を探して手で車体をなでまわしだした。運転手は半身をのりだして怒っている。

「あやつはなにを騒いでおる。夷狄の言葉じゃな。どれ、なにをいってるか神通力できいてやろう・・・・・・」

 長髪男は目を閉じ、意識を集中させた。

「・・・・・・ふうむ、理解できたわい。失礼なやつじゃ」

 運転手は上海語で次のようなことを怒鳴っていた。

「バカヤロー、ひかれても自業自得だぞ! てめえの命なんざ犬ほどの価値もねえんだよ!」

 トロリーバスは急発進した。追いていかれた自称イザナギは、

「おい待て、天の鳥船。わしをイザナミの居場所へつれていってくれんのか」

 両手を虚空にのばした刹那、通りを横ぎる黄包車(人力車)の梶棒に体当たりされた。

 上海の大通りはもともと人と乗り物が無秩序に入り乱れてごったがえしている。長髪男は汗をたれ流した人力車夫の裸同然の真っ黒な体を見ると、眉をひそめ、

「下郎が、無礼な!」

 と叫んで剣に手をかけようとした。そのとき、

「まあまあ旦那」

 ひとりの中国人男がにこにこ笑いながらやってきて長髪男に煙草をさしだし、上海語でいった。

「お気を静めなすって」

煙草の押し売りだった。目をつけた人間に煙草を突きつけ、相手が受け取ると火をつけてやり、煙草を一箱押しつけて「一個十銭」と金を要求し、拒否すると吸ったんだから払えと脅迫してむりやり買わせる悪徳商人である。

 ぼうっとして鈍そうだが恰幅のいい長髪男はかっこうのカモというわけだ。ところが長髪男は受け取らず、煙草を見ると不思議そうにいった。

「これはなにかの筒か、管か。わしに供えようというのか」

 流暢な上海語だったが、発言内容はまともではない。商人は頭がおかしいのかといぶかしげにしつつも、調子をあわせていった。

「ええそうです、お供えしようと思いまして。どうぞご主人、お吸いください」

 悪賢い商人はあっというまに一本にぎらせマッチで火をつけ、煙草の箱をおしつけて「一個十銭」といった。

 たいていの客はここで抵抗できずに財布をだす。この長髪男も恐れをなしたか、煙草の火をじっと見たきり固まっている、いい兆候だと商人が思った矢先だった。長髪男はいきなり嗚咽をはじめ、わけのわからぬ言葉を叫びだした。

「やぎはやおやあーい! 火の夜芸速男(やぎはやお)の神よ、わしとイザナミの最初の子よ」

 夜芸速男とはイザナギとイザナミのあいだにできた火の神だが、上海の商人には何のことだかさっぱりだ。

「おいおい、なにをわめいているんだ? とにかく金、金をだせってんだ」

 しかし長髪男はまったく無視をきめこみ、火を見て顔じゅう涙だらけにしながら感激にむせぶようにいった。

「きてくれたかあ、火の夜芸速男。おまえが産まれたときにイザナミが陰(ほと)を焼いて病んだから、わしは怒り狂っておまえを斬ったが、ずっと後悔しておったのじゃ。また会えてうれしいぞよう」

「おい、おっさん、金をだせって」

 悪徳商人は痺れを切らし、長髪男の懐を勝手にまさぐろうとした。刹那、その腕を長髪男は自分の肩にまわし、物凄い力でぎゅううっとにぎりしめたかと思うと、

「ありがとよ~」

 と、叫んだ。商人はふいをつかれて声も出せずにいる。その頬に長髪男は髭だらけの顔を押しつけ、喜びにたえきれないといったようすで、

「夜芸速男に会えたのは汝のおかげじゃあ~」

 そういうと、煙草の火を愛しそうに見つめ、 

「せがれも汝に感謝を伝えたがっておるて」

 煙草の火を「せがれ」と呼んで商人の頬にぐりぐりとおしつけた。さすがの悪徳商人も皮膚を焼かれるやら、気色悪いやらで、ほうほうのていで退散。長髪男はけろりとして火を見つめ、

「あの男は素晴らしい贈り物をしてくれた。のう、せがれや、おまえの母のイザナミは今この土地のどこかにいる。ともに探しにいくぞよ」

 そう話しかけて煙草を帯のあいだに挟んで歩きだした。火は当然のごとく着物に燃えうつりだした。

 ところが長髪男は動じない。着物がいくら燃えても、男はまったく火傷を負わなかった。男はにこにこして、布地からめらめらとたちのぼる炎に話しかけている。

「ふふ、元気がよいのう、夜芸速男」

「あいつをみろ」

 まわりの人間が騒ぎだした。着物が火だるまになった男をみて、たちまち人が集まってきた。天秤棒を肩にさげた水売りもワンタン売りも蒸菓子売りもよってきた。

「おお、捧げ物か。遠慮なくいただくとするわい」

炎の男はなにを勘ちがいしたか、売り物にかたっぱしから手をのばし勝手に飲み食いをはじめた。

 物売りたちははじめはあっけにとられたが、我に返るといっせいに抗議した。

「食うなら金を払え」

「はらうとは?」炎の男はきょとんとして、

「穢れを祓うという意味か。じゃったら、祓ってやろう」

 剣をぬき、ふりはらった。瞬間、天秤棒の紐がきれて売り物が地面に散乱した。長髪男はさらに、あちこちに刃をむけた。

「どうじゃ、どうじゃ」

 人びとは悲鳴をあげて飛びのいた。さすがの物売りも命が惜しいと見えて逃げ去った。

 やがて男が剣をふりまわすたび、あれほど盛んだった炎の勢いがなぜか弱くなり、ついには消えた。

 驚いたことに、焼失したはずの長髪男の着物は元に戻っている。キャプテン・ピックは目を見張った。

(あの男、本物の日本の神? それとも火を操る芸人?)

 長髪男はなお剣を虚空でふり動かしている。道路は大混乱。インド人巡査がやってきて怒鳴ったが、男はやめなかった。誰もとめられないのではないかと思われたそのとき、ピックは、

「イザナギさま」

と、日本語で声をかけた。この不思議な男に取り入って味方につけ、自分の力に変えようという野望を抱き、近づいたのである。

「穢れはもう十分祓われました」

 すると長髪男は手をとめていった。

「さようか?」

 ピックがうなずくと、長髪男は素直に剣を鞘におさめた。

「穢れが祓われたなら、けっこうじゃ。しかし、もっと早くいってほしかったわい。剣を使うのは久々なので腰にこたえたぞよ。ところで天熊人(あまのくまひと・・・神に供える米を作る人)どもはどこへいった」

 ロシア人のピックには意味不明であったが、物売りたちのことだろうと見当をつけ、とっさに調子をあわせていった。

「帰ったようです」

「ふむ」男はうなずいていった。「ところで汝は何者じゃ」

「私ですか」

 ピックはまごついた。日本神話をよく知ってたら適当な職業名が浮かんだろうにと悔やみつつ、とっさに、

「私はイザナギさまの案内人でございます」

「あんないにん? 葦原中津国の人間にしては目が青く鼻高く異様な風体じゃが」

「そのわけは、後でお話しいたします。まずはイザナミさまのところへ急ぎましょう」

長髪男は目を輝かせた。

「おぬし、イザナミの居場所を知っておるのか」

「もちろんです。それよりおとものヤギハヤオはどこに?」

 ピックが話をそらすと、長髪男は煙草の火が消えているのを見てつぶやいた。

「おお夜芸速男、わしはまたおまえを斬って消してしまったのう」

 また自動車が警笛を鳴らしてきた。ライトを光らせて目の前を通りすぎていくのを見て、イザナギは今さらのように不思議そうにいう。

「さっきからこの異様な牛馬の群れはなんなのじゃ。暗闇に光り、矢のように早く走りおるが」

「牛馬ではなく鉄でできた箱で、自動車と呼ばれるものです」

「鉄の箱がなぜあんなに早く動くのじゃ」

「油の力です。今度ゆっくり説明しますから」

(彼、神でなければ、よほどの田舎者ね。でも日本の神イザナギを称するこの男と組めば売れること間違いなし。単なる異常者だったとしても、仕込めば舞台にだせるわ。生活まで面倒みることになるかもしれないけど仕方ない。絶対にもとは取れるから。とにかく今は安全な場所に連れて行かないと)

 ピックにはいくつもの顔がある。ギャングスター、詐欺師、スパイ。だが今は芸人の目でこの男を見て、欲しいと思っている。

 ピックはタクシーをとめた。驚いて騒ぐイザナギをどうにかいいくるめ、乗せようというときだった。

「やっ、こんなところにいたか、ピック!」

 何者かに呼びとめられた。ふりかえると英人警官ティンクラーがいた。制服のポケットに片手をつっこみ、俳優のように端麗な体を電柱にもたれさせていたが、ふたりを見ると近づいてきて、いきなりイザナギにむかっていった。

「店から消えたと思ったらピックといたのか。髭男、探したぜ。聞きたいことがあるんだ」

イザナギはなにもこたえず、琥珀色の瞳でじっと見返すばかりだ。

「ところでおまえさん、英語わかんのか?」

英語でペラペラまくしたてたティンクラーは、ふと気づいたようにいった。ピックがたまりかねていう。

「ねえティンクラー、彼に何の用事よ。さっきの殺人事件なら捜査は打ちきりのはずでしょ」

「そうだ、フランス租界警察はマフィアに逆らえなかった。でも俺にゃ関係ねえ。個人的に捜査してやろうと思ってね」

「え、あなた権力にたてつく気?」

「マフィアだの英国特権階級だのにふりまわされんのには、いいかげんうんざりなんだ。俺みてえな警官はどうせ故国にも帰れず上海でいつ死ぬかわからぬ身。だったら悔いのねえように生きてえ。被害者は日本人とはいえ罪のない奥さんだ。あんなむごい殺され方をして犯人は野放しなんて許せねえ。一警官として、ほっとけねえよ」

「でもあなたは共同租界警察官。管轄外な上に、フランス租界でも捜査許可がおりてない事件をひとりで探るつもり?」

「ひとりでやるとはいってねえ。そこの髭男さんに協力してもらう」

「彼に捜査なんてできないわ」

「なにいってやがる。こいつあ、なんたって被害者の身元をあてた。それに、えらいふしぎな力を持ってるみてえじゃねえか。俺にゃわかる、このおっさんにゃ、なにかある。だから被害者の自宅に今からつきあってもらおうってんだ」

「今から? こんな夜に」

ピックは迷惑顔を隠すのに必死だった。

「被害者は日中自宅で誘拐された可能性がある。もしそうなら犯人の痕跡が残ってるだろう。調査は早い方がいい。じゃ、このタクシー借りるぜ」

 ティンクラーはピックを車体からどかして乗りこみ、なにもいわないイザナギを力ずくで引っぱりこもうとした。

「ちょっと勝手になによ」

 ピックがイザナギの片方の腕を引っぱる。

「おい、おまえさんに俺の邪魔をする権利はないぜ。詐欺に泥棒──キャプテン・ピック様の罪状を逐一ここであげてほしいのか」

「・・・・・・わかったわよ、邪魔しないわ。そのかわり私もいっしょに行かせてよ」

「そりゃ心強い。後ろにゃ杜と里見のスパイがはりこんでるこったし、早くのったのった。キャプテン・ピック様がついてくれりゃ百人力だ」

「最初から私が目的だったとか?」

 ピックはイザナギとタクシーに乗りこむといった。

「おい、うぬぼれるな。運転手、出発してくれ。場所は虹口密勒路五十三号だ。──ピック、裏切りはなしだぜ。裏切ったとわかったとたんにお縄だからな」

「わかってるわよ」

 そうはいったが、ピックはティンクラーのいいなりになるつもりなどなかった。

 タクシーはガーデン・ブリッジを渡り、蘇州河のむこうの虹口地区に入った。

 赤ちょうちんが通りを照らしていた。『白鶴』、『三ツ矢サイダー』、『六三亭』──日本語の標識が次々と車窓にとびこんでくる。

 イザナギはガラスに顔をはりつけるようにして眺めていたが、ふといった。

「ここは葦原中津国のようじゃ」

 ピックが首を横にふり、説明する。

「いいえ、ここは上海の虹口(ホンコウ)という場所です」

 さっき渡った蘇州河が英米共同租界を南北に分断し、南の中心街と北の虹口地区にわけている。虹口は日清日露戦争後から徐々に日本人が増えて日本人街になっていた。

 料亭の前を行き来する男と着物姿の芸者を見るなり、イザナギは突然ドアをあけ、

「ああ、イザナミ~!」

 と叫んで走行中の自動車から飛び降りようとした。その体をティンクラーが押さえ、ドアを閉めていった。

「おい危ねえな。あの女がどうかしたのか」

 イザナギは車窓からみるみる遠ざかっていく芸者を見て、手で宙をつかむそぶりをした。

「イザナミや、あれ、つかめぬ。おお、小さくなっていく・・・・・・」

「イザナギさま、あれはイザナミさまではありません」

「イザナギ、イザナミっていったい何の話だよ」

 長髪男がイザナギを自称していることや、日本の神話について知ったことをピックがこっそり説明すると、ティンクラーはいった。

「おい親父、さっきのはただの芸者だ。俺はイザナミを知ってるが、あんな女じゃねえ」

「ちょっと。かつごうとしてもだめよ。第一英語じゃ」

「こいつは英語をわかってるようだ。おい親父、よく聞け。俺はイザナミという名の女の居所を知ってる」

 長髪男は目をみひらき、ティンクラーの碧眼をじっとみつめ、

「Really?」見事な発音の英語で聞いた。

 ティンクラーは胸を叩いていった。

「おうともよ。俺はだてに上海で警察官を十二年もやってねえ。いろんな女を知ってる。そのなかにイザナミって名のやつがいるのを思い出したんだ。だから親父、池津由美殺しの犯人を捕まえたら、俺がイザナミに会わせてやるよ」


 密勒路のプラタナス並木にそって煙突つきの赤煉瓦の三階建てがいくつも並んでいる。そのうちのひとつが池津夫妻の家だった。大家はイギリス人だが、この一画の借り主の大半は日本人である。

 池津隆はまだ帰ってなかったので、英人警官はピックを通訳にしてまず近所に聞き込み調査をはじめた。

時刻はもう十時半近かったが、幸いみなまだ起きていた。今日池津家にあやしい人間が出入りするのを見なかったか聞くと、みな見ていないと答えた。近所の観察を趣味とし、しょっちゅう庭にでる矢田幸子さえ変わったことはなにもなかったという。

 矢田幸子によると、池津夫妻は結婚三年目。夫は日系商社に勤務。二年前に夫婦で上海にきて、密勒路の家に入った。子どもはいないが、どこにでもいる夫婦という感じで日本人社会になじみ、ふつうに生活。池津由美はまじめな女性で、ひとりで虹口からでることなどなく、租界に日本人以外の知りあいがいるという話もきいたことがないし、よそでトラブルがあったなど考えられないということだった。

 やがて被害者の夫池津隆が帰宅した。あの後『アルカディア』で葬儀社に遺体を引き取りにきてもらう手続きをしていたといい、憔悴しきっていたが、それでも英人警官が個人的に捜査してくれると聞くと喜んで三人を家へ招じ入れた。

「おっさん出番だぞ。能力を存分に発揮して犯人の手がかりを見つけてくれよ」

 英人警官が尻を叩いたが、イザナギは玄関を通るなりうつむいて、うんともすんともいわない。

「おっさんなんて呼ぶからよ」

「はいはい。イザナギ先生、いっしょにきてください。Please, sir」

「あの、この方は本当にイザナギっていうんですか?」

 やつれた顔の池津が聞くと、

「おいおいわかりますよ」ティンクラーは適当に答えていった。

「それよりなかを拝見」

 一階──応接間、ダイニング、キッチン。二階──バスルーム、広間。池津隆は次々案内した。荒らされた跡どころか人が侵入した痕跡すら見当たらない。

「作りはイギリス風だけど、要所要所和風ね」

 ピックはどうでもいいことに感心している。

「広間に畳が」

「床に座れたほうが落ちつくので、床に畳をしいたんです」

「暖炉にはベニヤ板が」

「暖炉は使わないので風が入って寒くならないように板でふさいだんです」

「板が貼りつけてあるってことは、犯人は煙突から入ったわけじゃねえようだな」

「板の前には生け花。とても日本的ね。壁紙も落ちついてるわ」

「本来壁は花柄なんですが、上から無地の壁紙を貼ったので、大家さんはいやな顔をしてました。日本人はみんな勝手に家を改造するといって」

「でも日本人にたくさん家を貸してるんだろう」

「そうですが、日本人が嫌いみたいです。文化度が低いといって」

 池津隆がいうと、ティンクラーが弁明するようにいった。

「悪いな、イギリス人ってのは傲慢なんだ」

「でもその大家さんはちょっと変わってます。二階の窓から、よく外を恨めしそうな顔で見てるそうです。挨拶しようとすると、顔をひっこめるとか」

「陰気な野郎だな。大家も容疑者にいれるべきだ。日本人への悪感情は動機になる。名前はなんという?」

「えっと・・・・・・ハリー・マンソン。でも彼が容疑者ならあえて妻を選んだ理由がわかりません。家は三軒離れてて隣ではないですし」

「まずは家の中に犯人の痕跡を探すとするか」

「ここは寝室です」三階のドアの前で池津隆が足をとめて言った。

「今日会社から帰ってからまだ一度も入ってないんですが、ひょっとしたら布団が盗まれてるかもしれません・・・・・・今思うと、妻が寝かせられていた布団は、うちのものにそっくりでした」

「そりゃ確かめねえと」

 ドアが開けられた。なかは畳敷きで布団が部屋の隅にきれいに積み重ねられてある。夫はたちまち叫んだ。

「思ったとおりだ。敷布団がひとつ失くなってる。ナイトクラブにあった布団は、やっぱりうちのです」

「犯人はこの寝室に入ったということか? ──足跡がねえな。もっとも靴下で畳を歩いたなら足跡が残るわけはねえが」

「布団を持ち出したのは犯人のはずです。妻のわけがありません」

「だとしても、犯人はなぜ寝室の布団を持ち出す必要があったんだ? 被害者をここで殺してないなら、必要な理由がわかんねえ。もっとも被害者を気絶でもさせて運ぶとなれば包むのに必要だったとは考えられるが──布団なんて大きい物を家から出したら近所の目についたはずだ。どうやって誰にも気づかれずに運んだんだ? イザナギ先生、なにかご意見はありませんか? ──あれ、どこ行った」

 ティンクラーはきょろきょろと見回した。イザナギはいつのまに消えていた。そのときピックが畳の縫い目をみて声をあげた。

「ちょっと、なんか落ちてる」

「あ、さわるなよ」

 畳に落ちていたのは金の指輪と、黒いボタンだった。

「こりゃ犯人のやつよっぽど慌ててたか」

 警官は指紋がつかないようにハンカチでつまんでいった。

「ご主人、これはおたくのものですか?」

「いえ、ちがいます」

「よし、とりあえず証拠品が手に入った。ご主人、夜分遅く失礼しました。今夜のところは引きあげるとします。つらいでしょうが、どうかすこしでも休んでください。──ところで先生はどこだよ」

 ティンクラーは階段を降りながらいった。二階に行くとイザナギは畳に体をひろげてふせっていた。ただし両手で畳をなでまわしている。

 なにをやっているのか聞くと起きあがり、神棚をみあげてぶつぶつとつぶやいた。日本人の池津隆にとっても意味不明な言葉だった。イザナギ流のやり方で犯人を調べてるのかと聞いたが、答えてくれない。

「イザナギ先生、ひとつこの証拠品の持ち主をあててくれませんかね。被害者の身元をあてた要領でパパッと」

 外にでてからティンクラーがいった。ハンカチのなかの指輪と万年筆が、お好み焼きの屋台の提灯の光に照らし出されている。

「しょうこひん、とは?」イザナギは長髪を左右にふっていった。

「わしには何のことやらわからぬ」

「ピック、日本語で説明してやってくんねえか」

 そういってティンクラーは指輪とボタンを見せた。

「あっ。もっとよく見せて」

 ピックはティンクラーの手をひきよせた。次の瞬間、ピックはイザナギの手をとり駆け去った。

「あれっ」

二つの証拠品まで持ち去られてしまった。

「ちくしょう、やられた」

あわてて十字路まで追いかけていったが、夜のこともであり、二人の姿はどこにも発見できなかった。

「ピックの野郎、見つけたらただじゃおかねえ。イザナギの先生も先生だぜ。犯人を捕まえたらイザナミに会わせてやるといったのによ」


 それから三日後、ティンクラーのもとに一通の封書が届いた。差出人はなんとピックだった。

 証拠品の持ち主の見当がついたという。ところがその後の文面が人をくっていた。内容は以下である。

〈持ち主がわかったのは、ひとえにイザナギ先生のおかげである。さすがは天降りされた神様である。証拠品と会話して持ち主を探りだされたのである。すばらしいお力をお持ちである。

 このたびそのお力を生かす運びとなり、イザナギ探偵事務所を開設することとなった。

 どんな事件も先生の手にかかれば、たちどころに解決間違いなしである。私ピックは秘書となり、近代社会に慣れておられない先生を支える。

 ティンクラー、貴殿はわが探偵事務所の初の顧客となる。

 先生は池津家にて発見した証拠品の持ち主を貴殿に教えるつもりである。記念すべき第一号の顧客ゆえ、高額な代金をいただこうとは思わない。

 ただし条件がある。

 先生はここ一九三一年の上海においても、天上の神の生活をお求めである。

 貴公も先生に会うかぎりは日本の神にたいする礼儀をつくさねばならない。無礼な態度が禁物なのはむろんのことであるが、先生によると、日本では神に会う前、お浄めといって以下のことを要求される──〉

 ティンクラーは癪だったが、とりあえずイザナギ探偵事務所とやらにむかった。住所は虹口の北四川路と手紙に書かれてあった。


 事務所の内部は日本の神社じみた飾りつけがされていた。建物は近代的なのでちぐはぐなことこのうえない。

 待合室には紙垂がたれ、塩が平瓮にいれられてある。その塩を英人警官は手紙で指示された通り全身にふりかけた。自分がボイルドエッグになったような気がした。

 すると隣の応接室のドアがあき、「ティンクラー氏(うじ)、どうぞ」と呼ぶピックの声がした。ドアには威圧感のある神前幕がたれさがっている。ティンクラーは幕をくぐり、イザナギの元へむかった。イザナギは長髪を床にたらして金色の座布団の上に座っていた。床はピカピカに磨かれており、両脇に榊が立てられている。

 ピックは隅で正座してかしこまっていた。ゲイの白人が日本の厳粛さを必死で演出しようとしていると思うと、この場のすべてが滑稽に感じられ、ティンクラーは笑いだしそうになったが、なんとかこらえて座布団に座った。案内されたのはイザナギのむかいの席である。

「ではイザナギ先生、おねがあッいィーいたしますー」

 歌舞伎じみた声でピックがいった。イザナギは目を床におとした。ティンクラーとのあいだに袱紗がおかれている。そこには例の証拠品がのっていた。イザナギは髭をひねりひねりしている。ティンクラーは待ちきれずにいった。

「して、この二品の持ち主は?」

 意外にもイザナギはもったいぶらずにすぐ答えた。

「それがひとりの人間のものではないようじゃ。指輪とボタンはそれぞれ別の人間のもののようじゃ」

「するってえと犯人は二人ということで?」

「わしがいえるのは、指輪の持ち主の住所はフランス租界ワグナー通り一八二。ボタンのほうは共同租界サッスーンハウス」

「・・・・・・ひょっとして、一人は杜月笙、一人はサッスーンじゃねえですかい?」

「行けば、わかることじゃ」

「本当すか。まあ、やっぱりって感じだが、二人とも簡単に事情聴取に応じる人間じゃねえから、どうやって会うかが問題だな。今回は警察の名をだすわけにもいかねえし、『アルカディア』で会ってもいいが、やつら俺の顔をみただけで避けるだろうから」

「わしの力を借りたいというなら、彦にたのむがよい」

「ヒコ?」

「私のことです。ピックが訛って日本風に『ヒコ』になってしまって。ティンクラー氏のことは『天狗(テング)』と」

「なんのこっちゃ」

 ティンクラーはついいつもの口調になっていった。

「ピック、容疑者二人に会う妙案があるのか?」

「イザナギ先生に会っていただくしかありません」

「って、先生はどうやってお会いなさるんで」

「先生のコネで」

「コネ? イザナギ先生にコネがあるのか?」

「まあ、見ててください。イザナギ先生はまもなく強力な味方をつけられます。そうなれば敵強しといえども恐るるにあたらず。いやでも先生に会ってくれましょうし、口も割りましょう。そこでひとつ、この件はしばらくのあいだ、こちらにおまかせくださいませんか」

「わざわざ俺を呼びだしておいて。かついでるんじゃねえだろうな」

「ご心配ありません。七日ほど時間をいただければ、良い結果をご報告できましょう」

「ほんとだな? おまえさん、だましたら監獄行きだぞ、忘れるな。先生だって無事じゃいられねえぜ」

 ティンクラーがきっとねめつけると、イザナギの金壺眼が長髪の奥できらっと光った。

「天狗、ひかえおれ」

「こりゃテング、失礼しました」

 ティンクラーはへりくだってはいるが毒のある口調でいった。

「先生、ぜひ犯人をあげてくださいましな。待っておりやす。俺がイザナミの居所を知ってるということをお忘れなく」

 それをきいてピックは心のなかでいった。

(ふふ、ティンクラー、なにを考えてるか知らないけど、あんたの思い通りにはならないよ。イザナギはこっちのもの。本物の神だろうと、そうでなかろうとね。私には作戦がある)

 ピックの作戦とはこうだった──、

 日本軍を味方につけ、日本軍の力で大物容疑者二人に会わせてもらうというものだ。

 なぜ日本軍かというと、理由はひとつ、イザナギが日本の神だからだ。天照大神を奉っている日本軍のことだから、アマテラスの父親のイザナギを崇めぬはずがない。

 もっともピックの本当の目的は事件解決ではなく、日本軍を味方につけて虹口の大劇場に出演できるよう斡旋してもらうことにあるようだった。


 翌日午後、北四川路を北上する市電に奇妙な二人組がのっていた。

 一人はタキシードだがスカーフをまき、顔に薄化粧をほどこし、女性のような立ち居振る舞いをする白人紳士。

 もう一人は物腰はきわめて男らしいが、ボサボサの茶色い髪を腰までのばし、金ぴかの着物をきた日本人紳士。

 そのおかしな二人連れが走行中、突然消えた。

降車するところをみた乗客はひとりもない。ドアは閉じていたし、窓から出たわけでもない。二人はまるで床にとけてしまったかのように忽然として姿を消したのであった。


虹口には日本人がたてた神社がある。滬上神社といい、天照大神、神武天皇、明治天皇の三柱が祀られてある。

 その日はちょうど日本陸戦隊員の御一行がきていて、特別に願かけすることでもあるのか、拝殿に昇殿し祈祷をうけていた。

 神主が大麻を打ちふり、祝詞を奏上しはじめた。そのときだった。

 正面の御扉がいきなり勝手に開いた。と、そこから長い髪を腰までたらした男があらわれ、琥珀色の瞳をぎょろっと動かしたかと思うと、金ぴかの着物の裳裾を引いて神殿の階段をのっしのしと降りてきた。

 一同はぎょっとした。神主も開いた口がふさがらないようすだ。

「か、かかかかかカミサマ・・・・・・?」

 正気を保とうと神主は必死で首を左右にふり否定した。

「いや、神様のはずがない。神様が姿をみせるなど、聞いたこともない」

 と、長髪の人物は一同にむかって口をひらいた。

「あーうーうー」

 なにをいっているかまるで聞きとれない、神様とはほど遠い、非常にまのぬけた声だった。恐れが消え、軍人のひとりがいった。

「白痴か」

 すると長髪男は大麻を手にとり、日本兵たちにむかって打ちふりはじめた。お祓いのつもりか、髪と髭を大いにゆらし、踊るようにリズムをとって、「あがあが」とくりかえしわめいている。柴北少佐が憤慨してどなりだした。

「おのれ神殿を侵す不敬者が。貴様は何者か」

 長髪男は金ぴかの着物をぐいとそらしていった。

「いが、ざが、なが、ぎが、あがあが」

「たわけっ、この異常者めが」

 少佐が刀をぬいた。それにならい居並ぶ軍人たちもいっせいに軍刀をぬいて切っ先を長髪男にむけた。

「みなさん、どうか落ちついてください」

 ふいに聞きなれぬ声がして障子が開いた。軍人たちはいっせいにそちらへ目をむけた。入ってきたのはタキシード姿の白人だった。

「なんだあの毛唐は」

 タキシードの白人は長髪男を示していった。

「みなさん、よく見てください。このお方をだれだとお思いですか」

「そんな人は知らん。二人とも追い出せ」

 血気盛んな軍人たちが立ちあがった。その瞬間、

「ピックさん」

 だれかが呼びかけた。里見甫だった。ピックはほっとした顔になっていった。

「これはミスター里見、どうしてここに」

「軍の関係でみなさんといっしょにお参りに。それより、あなたこそ、なぜここに」

「このお方をみなさんにご紹介したいと思いまして」

 長髪男をさした。

「その方は先日店にいらっしゃいましたよね──」

 里見はあの日長髪男を『アルカディア』から部下につけさせたことなど微塵も感じさせない口調でいった。

「そうです。あれから私はこの方といっしょだったんですが、それでわかりました。この方こそなにを隠そう、日本の神様の生き姿であらせられます」

 ピックがそういって両手を長髪男にむけると、軍人たちはいっせいに色めきたった。

「おのれ、現人神であらせられる天皇陛下を侮辱する発言」

「みなさん」ピックはひるまず、長髪男を紹介しつづける。

「このお方が本日この場にあらわれたのには理由があるのです」

「理由だと?」

「この方はみなさんに殺人事件の調査にご協力いただきたいと思っておられます」

「殺人事件? どの事件だ。殺人なんて上海で毎日腐るほど起きてるぞ」

「殺されたのは真面目な日本人女性です。先日、フランス租界のナイトクラブ『アルカディア』で死体となって発見されました。被害者の名前は池津由美。夫に忠実な奥さんでした。おそらく誘拐されたものと考えられます」

「そんな話きいてないぞ。事実ならわれわれの耳に入ってるはずだ」

「みなさんがご存じないのも無理はありません。客の一部が圧力をかけ、警察に捜査を許さなかったのです」

「信じられるか」

「私とこのお方は当日現場にいあわせました。ミスター里見、そうですよね?」

 兵隊の顔がいっせいに里見にむいた。里見は自若としてうなずいた。

「ええ、私もその晩『アルカディア』にいました。彼の話は事実です。日本人妻が殺されたのですがフランス租界警察が圧力をかけられて事件を伏せたのです」

「圧力をかけた者は誰だ」

 ピックがここぞとばかりにポケットから光るものをとりだしていった。

「ここに被害者の自宅で発見された指輪とボタンがあります。おそらく犯人の持ち物です。調べたところ、指輪は杜月笙、ボタンはイブ・サッスーンのものと見当がつきました」

「なに、本当か? どうしてわかった」

「このお方が調べました」

 ピックはイザナギを示した。

「どうやって?」

「このお方の能力で」

「ばかにしてるのかっ。そもそもなぜ事件を調べてる? 貴様は何者だ? 目的はなんだ」

「実はですねえ、私はこういう者です」

 ピックは名刺をわたした。そこには日本語でこう書かれてあった。

〈イザナギ探偵事務所 秘書ユージーン・ピック〉

「私は秘書でして」

「おいおい、イザナギ探偵事務所だと?」

「そうですが」

「イザナギというと、あのイザナギか?」

「もちろんで」

「じゃあ漢字で名前を書かせてみろ。おい、そいつに筆を渡せ。名前を書いてくださいってたのむんだ」

「合点で」

 長髪男は小僧から髪と筆をうけとると、〈伊耶那岐(イザナギ)〉と書いた。それをみて少佐は目をむいた。

「貴様っ、何様のつもりか」

「失礼な。このお方こそイザナギさまであらせられますよ」

「この外人め。日本の神の名をけがしおって」

「だって事実ですから。このお方は『アルカディア』で一面識もない被害者の身元を神通力であてたんです」

 ピックは里見に顔をむけていった。

「ミスター里見、あなたはあの晩、このお方が死体の手をにぎり、顔を近づけただけで、被害者の住所と電話番号を書きだしたのをご覧になりましたよね?」

「ええ」

「あのとき、このお方は死者の言葉を聞いたのです。それこそ、このお方が神であらせられる証拠です」

 長髪男がうなずいて、

「あがあが」という声がした。軍人が怒鳴る。

「なにが神だっ。あがあがいってるだけではないかっ」

「みなさんがなぜお言葉を理解できないか。それはイザナギ先生が発せられるのが古代の言葉だからです」

「外人になにがわかる」

「日本人の学者にきいてみるといいでしょう。私のいうことが正しいとわかるはずです」

「黙れっ。不敬なたわごとを」

 血気にはやる青年士官が立ちあがって刀をつきつけたが、ピックは落ちついていった。

「あなたこそ日本人なのに不敬です。このお方こそ、この神社に祀られておられます天照大神の父神、伊耶那岐の命さまでありますよ!」

 一同はピックの大音声にうたれ、一瞬しいんとなった。

「このお方が、今日なぜ日本軍のみなさんの前にあらわれたか。伊耶那岐の命さまは、日本人女性が殺されたのを黙って見ていられなかったのです」

「黙れ黙れ、この茶色い髪をぼうぼうにはやした毛唐まがいの乞食親父が伊耶那岐の命に見えるとでも? 黙れ黙れ」

「黙れません。池津由美さんは日本人というだけで殺された可能性があります。夫人は杜月笙ともサッスーンとも『アルカディア』とも接点がありません。このごろの抗日運動の激化、英人の日本人への偏見を考えますと、夫人は見せしめとして、あるいは腹いせに日本人のなかから無作為に選ばれ殺されたものと思われます。それでも日本軍人のみなさんは見過ごせますか?」

「・・・・・・たしかに事件が事実なら、日本人としては黙っておれん。中国人とイギリス人が日本人を殺し、闇に葬ったなら、日本人全体への侮辱行為と受けとれる。しかしなぜ外人の貴様が──」

 柴北少佐は部下の肥溜中尉に耳うちした。

「特務に電話して、ユージーン・ピックの素性をききだせ」

 やがて肥溜中尉が戻ってきて、こっそり柴北少佐に報告した。

「ピックは別名キャプテン・ピック、多重スパイで悪名高い人間です。詐欺師と、ギャング団のリーダーでもあります」

「ふん、そんなことだろうと思った」

「それよりもさきほど北四川路を走行していた市電から乗客二人が忽然として消えたそうですが、目撃証言によると二人の人相はピックと長髪男にぴたりと一致します」

「それはどういうことだ」

「市電の乗客二人が消えた時刻は、神殿の御扉から長髪男があらわれた時刻に一致します」

「なにがいいたい。二人の人間が白昼市電から幽霊みたいに消えて、神殿に瞬間移動したとでもいうのか」

「もし神殿からでてきた男が人間でなければ──」

「たわけ。貴様まであの野郎が伊耶那岐の命だというのか」

 少佐はそう言うと言葉をとぎらせ、なにか考えだしたが、しばらくするといった。

「ひとつ試してみよう。あれに刀で斬りつけ、どう反応するかを見ろ」

「え」

「本物のイザナギなら神通力を発揮して姿を消すかもしれんだろ? 消えないでも死ぬことはあるまい。偽者なら死ぬ。不敬罪をおかした人間だから死んでもだれも文句はいうまい。一石二鳥だ」

「今やるのでありますか」

「祈祷がおわって散開してからにせよ」

 そう肥溜中尉に命じると、柴北少佐はピックと長髪男に「あとで話をきいてやる」といってひとまず黙らせ、外で待たせた。神主が祈祷を再開し、やがて終了した。

 一隊が散開したあと、肥溜中尉は大木の幹に隠れ、刀をにぎりつつ闖入者のようすを伺った。長髪男はあろうことか地べたに寝っころがっていたが、ピックは里見と会話している。

「今日はご迷惑をおかけしました」

「とんでもない。私もあの事件に割りきれなさを感じていましたので。ロシア人のあなたが捜査にのりだしてくださるとは、ありがたく思っています」

「ミスター里見、あなたはあの晩『アルカディア』入店前、被害者の女性が歩いていたのを目撃したとおっしゃってましたが──」

「ああ、あれは実はここだけの話、方便です」

「え、なぜ・・・・・・」

 里見は地べたで手枕をしているイザナギに目をやって、

「あの方が容疑者あつかいされるのが忍びなかったので、ついでまかせを」

「じゃ被害者の女性は店で殺されたのではなく、外で殺された可能性が?」

「その可能性は高いですね」

「しかしイザナギ先生をかばうとはミスター里見、日本人としてなにか感じるところがあったのですか?」

「あの方がイザナギというのは本当に──」

 里見がいいかけたとき、叫び声が耳に飛びこんだ。

「ヤアッ」

 肥溜中尉が刀をかまえてイザナギにむかっている。里見とピックはびっくりして目をみひらき、息をのんだ。

 イザナギは中尉の刀に気づいているにもかかわらず、地面に仰むけになったまま泰然自若としていた。中尉は頭上で刃をひらめかせて、

「消えてみろっ、キエーッ」

 といって刀をふり下ろした。ピックは思わず目を閉じた。

 その瞬間、イザナギは自分の刀を抜きとって中尉の刀を受けとめた。ぶつかりあった力は互角だった。中尉は顔を真っ赤にしていった。

「なぜ消えない。本当の神なら消えて安全な場所に行くのではないか?」

 イザナギは黙っている。実は消えようとしたのだが、消えられなかったのだ。神通力を発揮しようとすると何者かに押さえつけられるような感覚に襲われた。その者は肥溜中尉ではない、別の存在のようだが、正体がつかめない。

「消えてみろ!」

 肥溜中尉が刀に一段と力をこめた。次の瞬間、イザナギは中尉の刃を物凄い力ではね返し、タッと地面を蹴って高くジャンプし、宙に弧を描いて数メートル離れた地点に着地した。

 中尉はまるで斬られでもしたようにバサッと地面に倒れ、腰をぬかしたようになっている。

神殿の陰で一部始終を見ていた柴北中佐は、

「これは、どういうことでしょう、猊下」

 隣の人物に問いかけた。猊下と呼ばれたタキシードに数珠をさげた人物は鋭い目をイザナギにすえたままいった。

「消えなかったですね。あの男にそっくりの人間が市電から突然消えたというのは確かなんでしょうか」

「乗客は確かに男二人が消えるのを見たといいます。あの男の容姿は目撃証言にぴたりと一致します」

「それでイザナギを称するあの男がピックをつれて姿を消したかどうか、知りたいというお話でしたね?」

「はい。もっとも市電の乗客が消えたと見たのは目の錯覚だったとも考えられます。男二人はだれも気づかないあいだに走行中の電車から降りただけかもしれません。しかし念のため猊下のご判断を仰ぎたいと」

 柴北少佐がいうと、大谷光瑞はおもむろに口をひらき、

「同時刻に同じ男二人が市電から消え、そこから一里離れた滬上神社に姿をあらわすということは常識では考えられません。市電から消えたのはあの男とピックに似た別の誰かだったのでしょう」

(あの男が本物のイザナギかもしれんなんていうたら、余の脅威になる。仏教の繁栄のためにも、ここはなんとしても押しきらなあかん)

 柴北少佐はなお問いかける。

「するとイザナギを称するあの男は、ピックの仲間の単なる山師と」

「そうなりましょう」

「確かにあの男の身ごなしは人間離れしていました。ただ者ではないでしょうが、それだけのことです。人間は人間ですわ」

 光瑞は関西訛りをだして力説した。

「なるほど。猊下のお墨付きをいただき安心しました」

 光瑞も心のなかで一息ついた。

「私は本物の伊耶那岐の命のように思いますが」

 ふいに別の声がいった。突然横にあらわれた人間を見て柴北少佐は色をなしていった。

「里見、なんだ貴様は。軍人でもない身をもって猊下のご意見に水をさすとは」

 里見は少佐には答えず、光瑞にいった。

「猊下、お久しぶりです。里見甫です。北京新聞社時代にはインタビューに応じて頂きお世話になりました」

「ああ里見くんか」

 光瑞はむりやり作り笑いをうかべていった。

「君はあの男が本物のイザナギだというのか?」

「常識ではありえないことですが、あの方が池津由美殺しの捜査で神通力といえるべき力を発揮したのを私はこの目で見ています」

「よけいな口をきくな」

 柴北少佐が怒鳴ったが、里見はいった。

「私は満鉄南京事務所嘱託の身ですが、これでも関東軍司令部から派遣された人間です」

 少佐はうっと言葉につまったようになった。

「私には池津由美殺人事件のことはもとより、その捜査をしているイザナギ探偵事務所およびイザナギと称する人物について上に報告する義務があります。では猊下、失礼します」

 二人に有無をいわせず里見はそのまま去っていった。

 光瑞は苦虫をかみつぶしたような顔になった。


 すでに里見の所属する関東軍司令部では、イザナギを称する男の調査をはじめていた。

 翌日、イザナギ探偵事務所に一本の電話がかかってきた。

 自分は日本軍の者である。池津由美殺人事件についてあらためてお話をおきかせねがいたい。ついては肥溜中尉の無礼のおわびもかね、一席もうけさせていただきたい、と。

 言葉づかいは丁重だが、真意がどこにあるのか、はかりかねるものがあった。

 イザナギ探偵事務所は「応じてもいいが、条件がある」とこたえた。

 条件とは、イザナギを日本の神として遇することである。供え物の内容、並べ方、供える人間の服装、髪形になどについて注文をつけた。もし出むいて行って、そのようになされていなければ、肥溜中尉の先日の無礼にたいする報復をおこなうという。

 電話をかけてきた人物は、詳細が決まり次第またご連絡さしあげる、といって電話を切った。

 イザナギの条件をのむかどうかで軍内の意見がわかれた。

 反対派は、キャプテン・ピックといるどこの馬の骨ともわからぬ男を日本の神として迎えるなど言語道断だといい、賛成派はたとえ偽者でも「イザナギ」は政治的軍事的に利用できるといった。

 最終的には条件を受け入れることに決まった。

 神としてあつかうのはかたちだけ、しょせんは芝居、酒の席での出来事はどんなおかしな行動も、たいていは酔っぱらいの悪ふざけですませられる、というのだ。

 賛成派も反対派も今回の目的は同じだった。

 イザナギの正体をみきわめることである。


 金曜日の夕方、虹口の料亭『六三亭』前に二台の黄包車が到着したが、乗客が異様だったので人目をひいた。

 すらりとした白人男性が、髪を日本の古代の髪型であるみずらに結いあげ、日本の浄衣に袴を穿いている。

 それが二台目の乗客で、先におりて一台目の主人らしき男のもとに走って頭をさげた。

 その男というのがこれまた髪をみずらに結っているのみならず、頭に木製の三角形の冠をかぶり、木製の笄をさし、白い狩衣にくくり袴をはき、たすきをかけている。

 これが杖をつき、尻に座布団ならぬ綿雲のようなふわふわしたものをくっつけて一台目からおりてきた。

 これには通りを着物で往来している日本人たちも肝をつぶした。いったいあの古代風のやつらはなんだ、時代劇の役者か、といいあう声があちこちでした。

 奇怪な二人はすました顔で六三亭に入っていく。

 女将もさすがに一瞬驚いた顔をしたが、二人を迎える心構えはできていたと見え、すぐに冠をした男にむかって拝むまねをすると、心得顔でおつきの白人に「上のお座敷でございます」といって二人を案内した。

 イザナギを前に、ピックは従者になりきって後につき、階段をあがっていった。イザナギの狩衣の腰のあたりには糊でつけた雲を模した綿がふわふわとゆれていた。

 座敷についてみると、ぜんぶで十五人ほど集まっていた。里見によると、第四課の松井太久郎のほか、甘粕正彦、板垣征四郎、田中隆吉といった面子。後に関東軍の謀略の立役者と呼ばれることになる軍人たちが鋭い目を偽の敬意で隠して、イザナギを神として迎えた。

 イザナギの席は神の御座所と呼ばれ、杉の葉と檜の葉が敷かれである。

 なにもかもが事前に注文したとおりだった。料理を運ぶ仲居たちは白い浄衣を着ており、膳には木の葉が敷かれ、その上に土器が並べられ、塩、赤飯、柏の葉に包まれた揚げ物、汁などが盛られていた。

 一同が池津由美事件のことを聞いても、イザナギの発する言葉は相変わらず意味不明であった。

在上海の日本人エリート校・東亜同文書院、上代語研究者の森内清宣教授のみ最前から「あがあが」、「あう」といった言葉にわかったようにうなずいていた。松井中佐がそんな森内教授にたずねると、教授は、イザナギの言葉はまさしく古代の言葉だといってのけた。

「やはり本物の伊耶那岐の命であらせられたか」

 松井中佐は口ではそういったが、本当に信じたわけではなかった。

 しかし教授のお墨付きをもらえたピックはもう得意になって、

「どうです、みなさん」一同に満面の笑みをふりむけていった。

「ここなる探偵先生が森内教授によって正真正銘の神様と証明された以上、殺人事件の捜査にお力添えいただけますね?」

「まあまあ」松井中佐が口を挟んだ。

「その話は後にとっておいて、ここはひとつお力をみせていただければ我々としては大変ありがたいのだが」

「同感同感」

 軍人たちが拍手で賛同した。

「神様のお力といいますと?」ピックが困惑した顔でたずねる。

「そうですな、たとえばここにいる人間の未来を予言するというのは?」

 一同うなずいてイザナギを注視した。教授がイザナギの言葉を訳して伝える。

「未来を予言して欲しいとな? それはよいが誰にするか」

 イザナギは森内教授が訳しているあいだに軍人たちを見渡すと、ふいに彼らの手もとを睨むように見渡して叫んだ。

「その煙をたてる細い棒はなんじゃ」

 教授が訳すと、板垣が答えた。

「煙草と申すものです」

「それは知っておる。彦からきいた」

「お吸いになりますか」

「火を見るのはよいが、その棒の用途は体を毒すものときく。恐ろしい、汚らわしいものじゃ。断る」

 イザナギはしかめ面をし、文句を垂れた。

「汝ら、神の御稜威(みいつ)を受け賜るべく願うならば、体は清浄に保つべきである。かりそめにもそのようなまがまがしい物を、なぜ体に取り入れるか」

 軍人たちはしぶしぶ喫煙を中止し、煙草の箱をさげた。おかげで場は白けたが、イザナギは機嫌を直して、

「よろしい。では、その者の未来をあてよう」

 小太りで、細い目のつりあがった凶悪な面つきの軍人を指した。田中隆吉少佐である。その顔をイザナギはじっと見つめると、こう予言した。

「汝は来年の一月、上海でむりやり戦争をおこそうとする。五年後には蒙古の王をひきいて反乱をおこすも、中国に敗北して日本を悲惨な運命に導く先駆けとなるであろう」

 田中少佐の顔から血の気がひいた。イザナギはかまわずにいう。

「汝の異常な野心に多くの人間がまきこまれる。野心はおさえ、神の国を守ることだけを考えよ。わしは戦には大反対じゃ。汝らも肝に銘じておけ」

 みなの顔から作り笑いがきえた。一同は静まりかえった。傲岸不遜な田中少佐はもとより満面をひきつらせ、かろうじて怒りと屈辱を抑えている。松井中佐があわてて話題を変えようといった。

「今の予言があたるかどうかは、すぐにはわかりませんね。もっとすぐ神の力を実感できることをしていただけると・・・・・・。なにしろ私どもはお話にはきいておりますが、実際にはまだ神通力なるものを拝見しておりませんので」

「なにが見たい」

「姿を消す、というのは、どうでしょう」

 板垣征四郎関東軍第二課長は笑顔の奥で目を光らせて反応をうかがったが、イザナギは眉も動かさずにいった。

「神はむやみやたらに姿を消すものではない」

「しかし先日、北四川路の市電からイザナギ探偵がピックさまとともに姿を消したという噂を耳にしましたが」

「噂は噂であろう」

「しかし」

「・・・・・・」

 イザナギは黙りこんだ。するとそのとき、それまで黙然と座していた仏教の権威・大谷光瑞が割って入った。

「イザナギ様。神であるからには、なんでもご存じでいらっしゃいましょう。印相について聞きたいことがあるのですが」

「印相?」

 イザナギが顔をあげて聞いた。

「摩利支天の印相はどのようなものでしょうか」

「こうじゃ」

 イザナギはわざと存在しない印相を結んでみせた。光瑞は狼狽した。心の底ではイザナギを神と信じているだけに否定する自信もなく、つい知ったような顔をしていった。

「ああ、そうです、そうです」

 するとイザナギはニヤッとして、仏教の祈祷のことなどについて逆に光瑞に色々と質問した。

光瑞の答えはしどろもどろだった。そんなようすを軍人に見られるのは、ふだん猊下猊下と奉られている手前耐えられない。光瑞はたまりかねたように反撃に出た。

「そんなに仏教についておたずねになるなら、仏教信者になられたらどうですか」

「なに?」

イザナギは顔に血をのぼらせた。すでに逆上していた光瑞は負けじといった。

「神を尊ぶよりもよほど益があると思いますが? 伊勢神宮や金毘羅の悪口をいっても罰はあたりませんからね。それこそ神を尊んでも益はないことの証拠でしょう」

 軍人たちは何をいいだすか、といった顔になった。

 案の定イザナギは憤激したようすで、吐き出すようにいった。

「わしは僧が嫌いじゃ」予想以上の怒りようで、一気にまくしたてた。それを教授が訳す。

「僧というものは、だいたいが汝のように心の曲がった汚らわしい者じゃ。汝は立派に着飾ってはいるが、すこしも事をわきまえない売僧じゃ。軍人たちに物知りと思われようとつとめているようじゃが、さっきわしが結んだ摩利支天の印はまことの印ではなく、汝の物知り顔が憎さにありもしないかたちを結んで試したのじゃ。それをはじめから知っていたふうな顔をしてうなずくとは笑止千万」

 光瑞は恥をかかされ、口に土団子をねじこまれたような顔になった。

「また汝は神を悪くいうが、仏はもともと日の本の国のものではない。神は日の本の国のものであるゆえ、汝もその子孫である以上、早く還俗して神の道に帰るべきじゃ」

 光瑞がいい返そうとすると、それを制して教授に訳させる。

「汝は神を嫌いというが、神国に生まれた人として神を嫌いということは、故国を嫌いというのに等しい。故国が嫌いなら二度と帰らぬがよい」

「・・・・・・」

「汝はまた神を罵っても罰があたらなかったから神には御利益なしというが、神はおおらかゆえ汝ごとき卑しい者には罰を与えないのじゃ。もし本当に罰のあたらないものと思うなら、いま試しにわしを罵ってみよ。ただちに罰を与えてくれようぞ!」

 イザナギは目をかっとみひらいて光瑞を睨み、大音声を出した。

「さあ、どうじゃ! 毒づいてみい」

 勢いあまって卓上の豆を放り投げ、障子を破り、天井板まで打ちぬいた。

 一同はあっけにとられ、光瑞にむかって、

「本当に祟られては厄介です。猊下、ここはひとつ謝ってくれませんか」

 と、なだめたが、光瑞はイザナギにむかって、

「そう敵意をむけられては困惑します。私も神の道を知らないわけじゃありません。ですが、今その道について説いてきかせたいと思っても、三衣を着ている以上は三宝に恐れがありますので口にできないだけです」

負け惜しみの苦笑をうかべていった。それを聞くとイザナギはますます怒り、

「いかにも、そのような汚らわしい物を着たまま、神のことを話すべきではない。しかし汝は自分が帰依する仏道のことさえ生知りなのに、神の道をどのようにして知った。汝のいったことは、ただの負け惜しみじゃ。そうでないというなら、ひとことでも説いてみるがいい。さあ、神の道を講釈せよ」

 光瑞は火のように真っ赤になって、

「なにを、くだらんことを」

 と、ぶつぶついう。たまりかねた松井中佐は教授を通していった。

「猊下は格式の高いお方ですから、そう責めないでください」

「僧の徳というものは寺格などによるのではない。わしは釈迦よりもはるか以前から存在するが、仏道とは釈迦がみだりに作った道だときいている。僧というものはたいてい俗家をあざむいて私腹を肥やして衣服を飾り、寺格などを誇って人を見下す。だから余は坊主が嫌いじゃ」

 そう伝えると一同を不審そうに見て、

「思うにここに集まっている人らは、ほとんどが仏好きで、神の道を知らぬためにわしを怪しみ、わしを試すためにこの坊主を呼びよせたのではないか?」

 そう教授にいわせ、探るような目をむけた。

「とんでもありません」

 一同は否定してみせるのが精一杯だったが、甘粕だけは、

「私は神の道のみを信じております」

 と、断言してのけた。

「本当か」

 イザナギは喜んだが、今度は光瑞が気を悪くして甘粕を睨んだ。

「まあまあ、お酒でも飲んで」松井中佐がとりなす。

「お二人のやりとりは、まるで平田篤胤の『仙界異聞』に出てくる天狗少年寅吉と仏僧のやりあいにそっくりですよ。さあさ、ここはどうぞ召しあがってください」

 イザナギはぶすっとして、

「『仙界異聞』は知っとる。そっくりだったかもしれぬな。わしも寅吉と同じことを感じておる」

 そういうと光瑞を指さし、声を荒げていった。

「あの坊主がいては汚らわしくて飯もくえぬとな」

 すると光瑞が立ちあがり、

「そうこられては、こちらとしても『仙界異聞』の僧侶と同じ対応をするしかおまへんなあ」

 そういうと袈裟をひるがえし、襖を開けて出て行った。

「猊下、お待ちを」

 中佐が止めたかいもなく、光瑞は階段を降りていった。

「まずいことになった。猊下を怒らせるとは」

 さすがの軍人たちも困惑顔だ。

 イザナギは光瑞が去っても怒りがとけない顔で文句をぶつぶついっていたかと思うと、急に目の前の料理とご飯を手づかみで食べはじめた。

里見が見とがめて箸の使い方を教授と一緒にイザナギに教えた。イザナギははじめ面倒くさそうな顔をしたが、すぐに覚えて器用に使いこなし、ご飯をあっというまにたいらげた。さらに九杯もおかわりし、料理を次々と追加注文、一同を驚かせ、あきれさせた。

「経費だからいいが、『六三亭』の方は食糧が足りなくなって困るだろう」

 田中少佐がこっそりと嫌味をいった。

しばらくすると女将が盆に柿と蜜柑を五十個分、盛って運んできたが、イザナギはそれもぜんぶひとりでたいらげた。とたんに腰をあげ、

「食事はすんだ。さて出るか」

 あっさりと帰ろうとした。軍人たちは誰も引きとめようとしない。

するとイザナギは不審げな顔つきになっていった。

「どうしたのじゃ? 汝たち全員、殺人事件の捜査に力添えするのじゃろう?」

「・・・・・・」

 誰も答えようとしない。松井中佐すら目をふせている。そのとき田中少佐がイザナギにいった。

「イザナギ先生ほどのお方が、なぜサッスーンや杜月笙に会うのに我々の協力が必要なんです?」

「なに」

 イザナギは目くじらをたてただけで、なにも答えない。ピックが代わりに答えた。

「それは人としての道筋を尊重するからです。イザナギ先生は人間界で動くにあたっては人間界の掟を重視されます」

「ほほう。掟を?」

 どこが重視しているのだ、といわんばかりの目で田中少佐はイザナギを見た。

「先生は特別な能力があるからといって、それを振り回すようなことは望まれないのです。租界の有力者たちに事情聴取するにあたっては、正当な手順をふんで面会することをお望みです。ですからみなさん、捜査にご協力いただけますね?」

 ピックはここぞとばかりに聞いた。

 軍人たちはたがいに目をみあわせ、ひそひそと話しあった。やがて松井中佐がうなずき、代表していった。

「我々はイザナギ探偵が伊耶那岐の命であらせられるしるしを今夜ここで拝見できると思っておりましたが、叶いませんでした。ついてはここでお申し出をうけることはできかねます」

「なぜですか。予言はしたでしょう」

「でも結果は不明です。我々はより具体的な証拠を必要とします。ひと目でそれとわかるような行動を示してもらえませんと──」

 イザナギは教授の通訳を途中で打ち切らせ、かぶりをふると、

「こんな不愉快な場所にはこれ以上長居はしたくないわい」

 と、いい捨て、暇も乞わずに、尻の雲をプリプリとゆらして階段をおりていった。ピックがあわてて追いかけていく。

 二人が店を出ると、軍人たちは顔を見あわせ、やれやれとため息をついた。

「どうやらイザナギを怒らせたようですね」

 松井が皮肉まじりにいうと、板垣がいった。

「いまいち尻尾をつかめなかったな。本当に伊耶那岐の命だろうか」

「しかしもし本当に伊耶那岐の命だったら国家機密ものだ。あの毛唐も口止めせにゃならない。しかも、あいつはスパイだから単純なやり方では難しいな」

 田中がいうと、

「私は本物だと思います。人間離れしてたのがその証拠」

 甘粕がいった。里見もうなずいた。板垣と田中は目をみあわせていった。

「すべて演技だったかもしれないではないか。はっきりした証拠はなにもつかめていない。依然として一詐欺師という疑いは払拭しきれんのだ」

「まったくだ。それより目下のところ、光瑞猊下を怒らせたことのほうが心配だ。素性の知れんやつとちがい、猊下は大正天皇の義兄であり、対外強行論をとなえる大事なスポンサーだからな」

「早いうちにお怒りをとかねばなるまい。猊下に我々がイザナギの味方だと思われてはまずい」

「どうやら伊耶那岐の命支持派と不支持派にわかれることになりそうですな」

 甘粕が眼鏡を光らせていうと、田中が反発する。

「本物かどうかもわかっておらんではないか。それより大谷光瑞支持派と不支持派といいたいのではないか」

「とにかく」松井中佐がとりなすように口をはさんだ。

「今夜のことが新聞記者に知られていないのは幸いでした」

「たしかに、我々がどこの馬の骨ともわからん人間を神として崇め奉ったと世間に知られては恥となる」

 ところが『六三亭』の一階では一人の記者がひそかに二階のようすを伺っていた。

 記者の名は林弘明。池津由美殺しのあった晩、『アルカディア』にいたひとりである。店では脚本家と偽っていたが、本当は日系紙『上海日日新聞』の記者だった。

 林は事件後ティンクラーと連絡をとりあっており、今夜例のイザナギがピックと『六三亭』で日本軍参謀と会うという情報を得た。

 そしてみごと彼ら二人が異装で入店するところを目撃し、カメラにおさめた。

 翌朝、『上海日日新聞』の社会面に、日本神話からぬけでてきたような男たちの写真と、〈伊耶那岐の命、現世に降臨?〉という見出しがおどった。

 記事は写真の二人と人相が一致する男性二人が先日白昼の市電から消え、同時刻に別の場所に姿をあらわしたというエピソードを紹介。

 その後イザナギが上海にあらわれて以来の行動を綴っている。

〈──イザナギ氏は、善良な日本人女性が殺されたのを黙って見ていられず、事件の目撃者であるキャプテン・ピックを助手として、捜査に及び腰の仏租界警察にかわり日夜犯人捜しに奔走している。

 不幸な日本女性の魂を救わんとするイザナギ探偵はまさに現世に降臨したる救世主といえよう〉

 この記事は二つの点で在留邦人のあいだに反響をまきおこした。

 一つは、池津由美殺人事件のこと。記事には記者が事件当日ナイトクラブで見たことが詳しく書かれてあった。日本人が殺されたにもかかわらず仏租界警察が闇に葬ったということを知って在留邦人たちは悲憤慷慨した。被害者に関する多くの情報が新聞社に寄せられた。

 もう一つは、いうまでもなくイザナギの話である。このニュースは人びとの心を明るくした。

 在留邦人は非常に不安定な立場におかれていた。満州事変以来、中国人の抗日運動は盛んになるばかりで、抗日デモや日系製品ボイコットが至る所で繰り広げられていた。

 だからイザナギ降臨ときいて、強力な助っ人があらわれたように心強い思いがしたとしても無理はない。記事が眉唾だろうと、イザナギの名は事態が好転する兆しのように受けとられたのである。

 その日から在留邦人たちはイザナギと称する人物が本物の伊耶那岐の命かどうかという話題でもちきりになった。

 上海日日新聞社にはイザナギ探偵事務所の所在地をたずねる電話がひっきりなしにかかり、日系新聞の記者たちはこぞって事務所につめかけた。

 イザナギ探偵は秘書ピックの取次ぎによってインタビューに応じた。軍人の前では古代語しか話さなかったイザナギは、記者たちの質問に対しては流暢な現代日本語で答えた。

〈なぜ日本ではなく上海にこられたのですか?〉

〈イザナミが上海にいるからじゃ〉

〈イザナミの命はなぜ上海に?〉

〈それがわかっていたら苦労せぬ〉

〈上海のどちらにいらっしゃるか、お心あたりは?〉

〈・・・・・・〉

 あまり立ち入った質問になると答えなくなるが、天上生活に関する質問などについては実に明快に答えてくれる。

〈神々は寝るときは、夜具を使われますか。それとも何もなしで〉

〈寝巻も布団も枕も使う〉

〈寝巻はどのような素材ですか?〉

〈薄の穂をこき、綴じつけた寝巻をわしは好む〉

 といった具合である。インタビュー記事は大好評、そのインパクトのある容貌とあいまってイザナギ探偵はまたたく間に在留邦人の人気者になった。

 虹口のあちこちの催しに招待され、大勢からサインを求められた。ノートと万年筆だと書かないが、筆と紙をさしだされると喜んで達筆で記す。もらった者は感激して涙を流す始末だった。

 イザナギを隠そうとした軍人の思惑とはまったく反対に事態は進んだ。イザナギの勢いはとまらなかった。その勢いはピックの当初の思惑を越えていた。

 日本人商店は「イザナギ丼」、「イザナギ饅頭」を売り出した。イザナギの名がつけば、なんでも売れた。これぞ「イザナギ景気」だと人びとは騒ぎたてた。新聞にはイザナギの見出しがおどった。

〈神出鬼没のイザナギ氏、今日もまたごあいさつ〉

 上海日本人教育後援会、上海日本人薬剤師会、上海日本旅館組合等その他あらゆる邦人団体はイザナギにあやかろうと、会合に招いて祈祷をささげた。

 租界の各国紙もそんな事態を面白がり、日本の神降臨として記事にするようになった。

 ピックも助手として新聞に出るようになったが、希望したかたちではない。芸人としてイザナギの名を利用するはずが、脇役のままである。

 本物の神様と立証されたわけでもなく、奇跡を起こしたわけでもなかったのだが、イザナギはすでに救世主あつかい、人気は一人歩きしている。

 イザナギ探偵事務所の名とともに、租界でも当然、池津由美殺人事件のことが知られるようになった。当局が伏せたはずの事件はここに全上海において明るみにでたのみならず、容疑者が中国マフィアのボス杜月笙と英人大班イブ・サッスーンであることも知れわたった。

 仏租界警察はそれでもかたくなに動こうとはしなかった。

 在留邦人の期待はいやでもイザナギの上に集まった。だがイザナギが大物二人に事情聴取するには壁があった。日本軍にあっせんを頼んでいるが、イザナギ不支持派の軍人たちがあいかわらず首を縦にふらないという。


 イブ・サッスーン五十歳は、サッスーンハウスの屋上でバンド(上海の埠頭の呼び名)を眺めおろしながら一杯のウイスキーを飲んでいた。風にはためくユニオンジャックがグラスに映ってゆれている。

 平日の午後三時前である。上海の不動産王は毎度三時間かけてランチをとる。オフィスには中国人を含む有能な部下たちがいるから安心だ。

 陽光のもと、ほどよい酔いにまかせ、自分が建てた摩天楼から黄浦江の船や、荷運びにこき使われる苦力たちを見下ろし、自分がこの世の支配者だと実感したり、週末の乗馬、ゴルフ、ブリッジに思いをはせるのが昼の楽しみだ。

 毎日四時には退社。家に戻り夜会服に着替えてクラブへでかける。それがサッスーンの習慣だった。

 時にはここから直接帰宅することもある。今日は三時半にテーラーがくる予定だ。来週のパーティーに着ていくタキシードを新調中で今日は試着の日だ。伊達男としては胸が弾まないはずがない。

 ところがいまは何を見ても、先ほどオフィスで目にした封筒が脳裏にちらついて離れなかった。今日もまたイザナギ探偵事務所から封筒が届いたのだ。

 内容は見ずとも知れている。面会の要求だ。応じる気はなかった。日本の神だとか自称するふざけたやからにつきあう気はない。俺は神さえ恐れぬ人間だ──だがそう思っても、どこか気分が落ちつかないのだ。イザナギが原因でいずれ自分の身にひと波乱おこるような気がする。

 サッスーンは幻影をふり払うようにウイスキーを一気にあおると、レストランをでた。不安は消えていなかった。エレベーターにのって逃げるように三階の事務所に入ると部下がいった。

「会長、テーラーがきています」

「早いな。三時半といったはずだが──」

 不吉な予感に捕われつつ応接室にいくと、突然肩をたたかれた。ふりむいてサッスーンはぎょっとした。肩をたたいた男はテーラーではなかった。自慢の片眼鏡が顔から、ずり落ちそうになった。

「You・・・・・・」

 指をさしたきり、開いた口がふさがらなかった。その男は背広こそ着ていたが、まったく似合っていない。髪をうしろで束ねているが、それが茶色で肩までの長さがある。目は琥珀色──。

 男の特徴は新聞でおなじみのイザナギ探偵にみごとなまでに一致した──。

「どうやってここに・・・・・・」

「やあ、佐助君、元気かね」

 男はなれなれしくいった。日本語だろう、サッスーンの理解しない言葉だった。と思うと、次の瞬間には英語に切り替えていった。

「どうやって入ったか野暮なことは気にしない。のう、ミスター佐助」

「What? サスケ?」

「わしがつけた日本名じゃ。サッスーンはいいにくいので佐助にした。汝は異人じゃが豪族ゆえ特別じゃぞ」

 そういってウインクしてみせたが、サッスーンはにこりともせず、つきはなす語調でいった。

「君はテーラーではない。帰りたまえ」

「針と糸は持っておるが?」

 イザナギはポケットから出したものをつきつけ、琥珀色の目を鋭く光らせた。

「この待ち針、見おぼえがあるじゃろう?」

 それをみたサッスーンの目に一瞬さざ波がたった。が、すぐに冷静な顔に返って、

「それはスペンサー紳士服店のものだ。頭部の玉飾りでわかる」

「実はこれは池津由美の体に縫いつけてあったのと同じものでな、友人の警官から借りたものじゃ。汝が親しくしている仕立て屋の待ち針と、これが一致するとは何を意味するか?」

「イケツユミ? なんの話だかさっぱりだ」

「とぼけるのか。新聞でもさんざん騒いでおるじゃろ。先ほど汝の更衣室を見させてもらったが、箪笥にあった上着のボタンは池津由美の自宅にあったものと一致したぞ」

 サッスーンは顔色を変え、隣室の部下にむかって叫んだ。

「おい、チェン、こいつを追い出してくれ」

「本当によいのかな。汝と酢豚(スペンサー)が闇組織でつながっていることは助手の調べでわかっておる」

「私を脅す気か?」

「そうとも」うなずいたかと思うと、大儀そうに首をまわして、

「ああ、まったく、このベルトなる帯とズボンなる袴は窮屈でかなわぬ」

 そういって、いきなりズボンを脱ぎだした。褌があらわになった。

「なにをしてる」

「ああ、楽になった。どうせじゃから──」

 イザナギは褌まで脱ぎだした。たちまち眩しい光が二つ、サッスーンの目を強烈に刺した。

「見たか。これでわしがただ者ではないことが、わかったじゃろう?」

「・・・・・・!」

「日本の神を甘くみるな。甘くみると、これで汝の両目を潰す」

 イザナギは腰をふった。サッスーンはその部分に目を釘づけにされている。その目はイザナギの光をうけて輝いているようにも見えた。

「潰されたくなくば、わしに真実を話すのじゃ。汝が話すまでわしは帰らん。わかったな?」

 サッスーンは唾をごくりとのみこんで、

「わかりました」

 といった。それから、

「チェン、やっぱりこなくていい」

 と、ドアにむかっていうと、イザナギにむき直り、息を整えてから、

「ミスター・イザナギには場所を変えてきちんと真実をお話しするつもりです」

 さっきまでとは打って変わった丁寧な口調でいった。

「あと一時間もすれば私の退社時間となりますので、ミスターへのおもてなしも兼ねて私の行きつけのクラブにてお話ししようと思いますが、よろしいでしょうか」

「クラブ? とはなんじゃ」

「上流英国人たちが集まってお酒と会話を楽しむ場所です。個室もございますのでそこでなら気兼ねなくお話しできます」

「酒? わしは腹が減った。飯をたっぷり食える場所がいい」

 さっきランチをたっぷりとったばかりのサッスーンは聞いただけでおくびが出そうだったが、作り笑いをうかべていった。

「それでしたら、私の行きつけにいいお店がございます。そちらにしましょう」

 とにかく接待をしてイザナギの心を事件からそらそうという作戦だった。

「いいのか? わしは恐ろしく食うぞ」

「遠慮は無用です。お好きなだけご馳走しましょう」

 サッスーンはイザナギを会員制のフランス料理店につれていった。

 高級レストランを選んだ理由は、格式ばった場所ならイザナギも多少気おくれがして、事件について無理に問いつめたりはしないだろうと踏んだからだった。

 ところが、その読みはどうやら外れたようだ。店内の上品な雰囲気にも、欧風の豪華絢爛たる内装にも、イザナギはすこしも臆したようすはなく特等席に案内されてもすこしも感動したふうもなく、

「この椅子とやらは、まったく落ちつかんな」

 足をぶらぶらさせて、

「そもそも、足をこの靴なる革の紐で縛られたままでは囚われ人のようで、なにを食うても食うた気はせん」

 そういって椅子から降りて絨毯に座り、靴を脱いで裸足になった。

「これでやっとすこしは落ちついたわい。ついでじゃから、首も腰もゆるめるとするか」

 ちょうど給仕が食前のワインを運んできた。サッスーンは思わず言った。

「いけません、靴をはいて椅子に戻ってください」

「わしの好きにさせてくれるといったじゃろう。注意されると暑苦しゅうて、服まで脱ぎたくなるわい」

 さっきのように褌まで脱がれたら一大事だ。

「わかりました。そこに座って結構ですから、服だけは着ていてください」

「汝も床に座るなら、服は脱がんでもよいわい」

「え」

「どうした。わしをもてなしてくれるんじゃろう」

 サッスーンは恥をしのんで従った。

 給仕はテーブルの下に座っている二人を見ると目をむいた。開店以来こんな光景は見たことがない。

 礼儀を重んじる店なので本来なら客には無理にでも椅子に座ってもらうところだが、なにぶんサッスーンとその大事な連れということで、見て見ぬふりをした。

 給仕は二人が椅子にいるものとして、テーブルのグラスにワインを注いだ。するとイザナギが鼻をくんくんさせて、

「酒の匂いがする。そこに置いちゃ飲めん。ここに」

 といって絨毯をたたいた。給仕は眉をあげたが、サッスーンにうなずかれ、乞われるがままにした。二人のグラスを絨毯においてワインを注ぐ。

「まるで犬だ」

 他の客がささやきあった。

 給仕たちは床においた盆にスプーンやナイフを規定通りにならべていった。

 するとイザナギは他の客がじろじろ見るのもかまわず、スプーンを鏡にし、フォークを櫛にして髪をとかしだした。

「それは食事する時に使う道具です」

 サッスーンがいうと、イザナギは箸しか使わぬという。

給仕がわざわざ近所の中華料理店で箸をもらいうけてきた。イザナギは以前料亭で使ったものより長くて重いと文句をいいながらも器用にフランス料理を食べ、

「なんじゃこの味は」いかにもまずそうな顔をして眉をよせた。

「どれもやたらこってりして喉ばかり渇く。水じゃ水」

 水がくると少し機嫌が直って、にぎったグラスをつくづくと眺めてつぶやいた。

「この玻璃の彫刻はみごとじゃな。実に美しい・・・・・・あっ。ちょっとにぎったら割れたわい。もろいもんじゃな」

 相当の力の持ち主だ。グラスは粉々になったが、イザナギの手には傷ひとつできていない。割れたガラスが刺さったにもかかわらず、皮膚はもとのままだ。

 イザナギはコース料理だけでは飽き足らず、やたらな量を注文し、すべてたいらげ、それでも満足できないようだった。

「こんなのじゃ食った気がせんわ・・・・・・豆腐はないのか?」

 従業員たちは唖然としたが、サッスーンが王侯同様の待遇をうけていたおかげもあり、イザナギの望みを伝えると、フランス料理店の一流シェフ自ら虹口の日本人街まで自動車を飛ばし、小さな豆腐店で豆腐一丁を買ってきた。

「お待たせいたしました」

 真っ白くて四角い豆腐がそのまま、気どった皿にのって運ばれてきた。イザナギは舌打ちして、

「なんだこれは木綿か。わしは『おぼろ』がよかったんじゃが。しかも醤油もかかっとらん。葱に生姜、鰹節はどこじゃ。さんざん待たせたあげくに、これか。汝も野暮な店につれてきたな」

 サッスーンはぐっとこらえて、

「申しわけございません」

 と頭を下げた。イザナギはそれには見むきもせず、豆腐をムシャムシャと食いだし、

「うむ、やはり日本人の作ったものは旨いて。佐助、汝も食うか?」

 といって、箸にのせた豆腐をさしだした。サッスーンは思わずのけぞっていった。

「いえ、けっこうです」

「いいからいいから。わしのいうことが聞けぬのか?」

「それでは、いただきます」

 サッスーンは豆腐を口に含んだ。生まれてはじめてである。

「どうじゃ。味は?」

「う」サッスーンは苦しげな顔になり、思わずいった。

「It tastes nothing.(なんの味もしない)」

「これじゃから毛唐は。粗雑な舌をしておるなあ。この味がわからんとはなあ。・・・・・・ところでじゃ、佐助」

 いきなり懐からなにかを抜きだして切り出した。

「これは汝の更衣室にあった写真じゃ」

 ふいをつかれたサッスーンは、ぎょっとした。イザナギはたたみかけるようにいった。

「汝の横に立っておるのは愛人じゃろう。しかもこやつは杜月笙から贈られた者じゃ。世間には隠しておるがな」

「・・・・・・ちがいます、しかし勝手に持ち出されましては──」

「困るんじゃろ。汝と杜との良からぬ関係を裏づける。この写真を返してほしくば、さっさと真実を話すのじゃ。いったいつまで待てばよいのじゃ」

「・・・・・・もちろんお話しするつもりです。が、そろそろドッグレースが始まる時間ですので、アヴェニュー・アルバの『カニドローム』に移動しましょう」

「なんじゃと。ドッグレース?」

「犬を走らせて一等を当てるんです。当たるとお金がもらえます。イギリス人がはじめた娯楽ですが競馬のようなもので、非常に面白いものでございますよ。ミスターにもぜひ一度味わっていただきたいと」

 イザナギがレースに夢中になっているときに写真をとり返そうという算段だ。ドッグレース場はいつも人でごった返しているので、すこしぐらい接触しても気づかれるおそれは少ない。

「遊びに行くというのか?」

「お口にあわないお食事にお付き合いいただいたお詫びもかねて。私今夜はミスターに租界の楽しみをとことん味わっていただこうと、はりきっております」

 イザナギは表情をやわらげ、人のよさそうな顔になっていった。

「そうか。そこまでいうなら断るのも悪いな。話はその『蟹泥』できくとしよう」

 二人はリムジンでフランス租界のアヴェニュー・アルバに移動した。レースは八時からの開始だが、ドッグレース場『カニドローム』の周辺はすでに高級車で埋めつくされ、着飾った紳士淑女たちが続々と場内に入っていく。ほとんどが白人で、客席の豪華さはフランスのオペラ座かと見まがうほどである。

 背広を不格好に着た黄色い肌のイザナギはいかにも場ちがいだったが、うわついた風もなく堂々と落ちついていた。サッスーンは首尾をとげられるか不安になった。

 競争犬七匹が派手な衣装の白人男性たちにひかれて場内を一周しはじめた。そのようすをみて客はどの券を買うか決める。

「ミスターならどの犬が勝つかひと目でおわかりでしょう?」

 愛想をいったが、イザナギはにこりともせず、ため息まじりにいった。

「ああ、わかるわい。つまらんな。その点人間は羨ましいの、結果がわからんから夢中になれる」

「私こそミスターが羨ましい。大儲けできるじゃないですか」

「金などわしには無意味じゃ。汝は連れてくる場所をまちがえたな。おおイザナミ。どこにおる・・・・・・」

 周りの夫婦を羨ましそうにみて、今にも探しに行きそうな気配を見せた。

「どうか、ここにいてください。私は券を買ってきますから。一等はどれですって?」

 やがて開始のベルが鳴りひびいた。コースに沿ったレールの上をまず電気仕掛けの兎が走りだし、それを追って七匹の競争犬が走りだす。

 サッスーンはレースに熱中するふりをしつつも、すきあらばイザナギの懐を探ろうと隣から注意をそらさなかった。

 イザナギは周りで興奮して大声をあげる観客たちを、あきれたように見ていたが、

「このなかにイザナミがいるかもしれん。そうじゃ、ここはひとつ、わしの姿をさらしてイザナミがあらわれるか試してみよう──」

 日本語でなにやらつぶやくと、サッスーンが止める間もなくひらりと競技場に飛びおり、スタッフが制止するのも無視して犬にまじって四つん這いで走りだした。

 どよめきと笑いとブーイングがおこるなか、イザナギはコースをグルグルとまわり、なんと一等になって満場にその姿をさらしたが、イザナミはついにあらわれなかった。

 もっとも新聞記者は放っておかない。犬と走った変人があのイザナギ探偵で、その連れがサッスーンとわかると、興味本位の質問を次々と浴びせてきた。

 二人はほうほうのていで『カニドローム』から逃げ出した。サッスーンのもくろみはみごと失敗したわけである。

 しかもイザナギがこれ以上は待てないから一刻も早く真実を話せと要求してきた。騒ぎをおこしたくせに勝手だが、不機嫌の原因はイザナミに会えないことにあるらしい。

 そこでサッスーンはまた新たな戦略を頭にめぐらせて、

「あそこに行けば、お探しの方に会えるかもしれません。あのカフェにはたしかイザナミという名の姑娘(グーニャン)がいたはずです」

「なに、本当か? それをなぜもっと早くいわない。その蚊船とやらに急いで案内せい。汝の話はそこできく」

 イザナギはいてもたってもいられないようすだ。サッスーンはニヤリとした。

 二人をのせた黄包車はふたたび共同租界に入った。四馬路といわれる色町で有名な通りをしばらく東に走り、客引きの野鶏(街娼)に声をかけられながら、角をいくつか曲がったところで停車した。

 表通りの人声もネオンもほとんど届かない、ひっそりとした狭い路地である。路牌の『天仙里』の三文字が、赤い灯籠に照らしだされている。

「いったい蚊船とやらはどこじゃ。船など見当たらぬが」

「カフェは船ではありません。この建物のなかにあります」

「本当か」

 イザナギは外階段を見て眉をしかめた。そこにはうつろな顔をした旗袍姿の白人女性やロシア人水兵がだらしなく腰かけていた。

「どうしました。入るのをおやめになりますか?」

「いや」

「では」

 サッスーンは正面の木の扉の前で足をとめた。その扉についている呼鈴を四度短く鳴らすと、しばらくたってから扉が開き、なかから黒い長袍を着た影のような男が姿をあらわした。

 その男はサッスーンをみるとうなずき、黙って二人を廊下の奥へと案内した。そこはつきあたりになっていて、漆喰の壁があるばかりだったが、ボタンを押すと壁が開き、地下へつづく階段があらわれた。地下に降りると鉄の扉があり、それがまたボタンをおすと開いた。

 たちまち妙に甘い匂いが飛びこんできた。胸がむかむかするほど濃厚な匂いである。

 扉のむこうには、大きなレストランほどの空間が広がり、天井からは赤い灯籠がいくつも釣り下がっていた。しかし灯籠の下に並んでいるのはテーブルではなく、たくさんの寝台だった。

「いかにも怪しい場所じゃな」

「あれをごらんください」

 サッスーンが寝台から寝台へなにやら給仕している旗袍姿の若い女たちを示していった。

「ああ、あのなかにイザナミが・・・・・・?」

「お呼びしますので、こちらでお待ちください」

 長袍の男は空いている寝台にイザナギを案内した。中国風の紫檀の寝台で、艶めかしい彫刻がほどこされ、高枕がのっている。

「どうぞ横になってください」

「この寝台はなんじゃ。あれは何を吸っておるのじゃ」

 イザナギはまわりをキョロキョロと見まわしていった。隣の寝台でもそのまた隣でも、横むきに寝そべった人が笛のようなものを口にくわえて目を閉じている。

「汚らわしい。わしはあんな真似はせんぞ」

「せめてお座りを」

 そのとき艶のある黒い旗袍を着た女が盆を掲げて近づいてきた。

 イザナギの瞳孔が大きくなった。盆を寝台に置いた女に視線を釘づけにされている。

「おお、イザナミ・・・・・・」

 イザナギは喘ぐようにいった。

「わしがわかるじゃろ?」

「ええ」

 非常な小声だったが久々にきく妻の声だった。感動で言葉を失っていると、イザナミは黙ってイザナギの手をとり、寝台に横にならせた。イザナギは逆らわなかった

 サッスーンはニヤッと笑って、長袍の男とその場を離れていった。

「しかしイザナミ、おまえはなぜこんな所に?」

 イザナミは人差指を口に持っていくと、そっとささやいた。

「おしゃべりは禁じられてるの」

 いわれてみれば、ここは人が大勢いるわりに極めて静かだ。

「いったいここは何の場所じゃ。せめてそれだけは教えてくれ」

 小声でたずねると、イザナミはイザナギの横に腰をおろしていった。

「阿片窟。阿片を吸う場所よ」

「アヘン? 煙草のことか?」

「煙草とは全然ちがう。吸うと楽しい夢がみられるわ。とても気持ちがよくなるの」

「神たるおまえが、そんなことを」

「いいから、試してください。あなたにもぜひ味わってもらいたいの」

「なんじゃ、おまえの爪は黄色くなっているではないか。汚らわしい」

「またそれですか。あなたは二言目には穢れ穢れといいますが、神なる私も穢れがあったからこそ子が産めたのではないですか。なのにあなたはいつも自分だけきれいな体のつもりでいる」

「そういうわけでは・・・・・・」

「阿片を吸わないのなら、あなたには二度と会いませんよ」

「それは困る。黄泉の国に行ったおまえを見捨てたことを、わしはずっと後悔していた。今度会ったら二度と逃げぬと決めていた」

「では、よろしいですね」

 イザナミは翡翠の指輪の光る手でお盆の上にのっている幾何学模様の象牙の小壺のふたを開けた。なかには煙膏といわれる褐色の水あめ状の液体が入っている。生阿片に水を加え、煮詰めて練膏状にしたものである。

 イザナミは長さ十五センチほどの針をつまみ、その先端を煙膏にひたすと、さっきから青白い炎をくすぶらせていた阿片ランプにそれをかざした。

──ジイジイ・・・・・・。

 煙膏はつぶやくような音をたてて固まった。それをまた褐色の液体にひたして凝固させ、ランプにかざして焙る。同じ作業を何度も繰り返すうちに、針の先に褐色のだんごができあがった。煙泡(阿片玉)である。

 ジイジイと音をたてる煙泡を、イザナミは針をたくみに操って、煙槍と呼ばれる尺八のような長いパイプにもっていき、端から六センチほどの所にある火皿につめこんだ。煙泡は火皿にころがして燃やすと柔らかくなって煙がでてくる。その煙を吸う仕組みである。

 イザナミはイザナギに煙槍の口をあてようとした。刹那、イザナギがハッとしたようにいった。

「そういえば佐助のやつは、どこに行きおった。わしに真実を話すといっておきながら、まさか帰ったのか?」

「あなた」イザナミは指を口にたてて制した。するとイザナギは煙槍をひったくり、

「それをよこせ。なにやら匂う」といった。

「阿片ですもの。匂いなら当然します」

「しばらく黙っておれ。心配するな、すぐ吸う。すでにおまえに会えた以上、探偵の仕事は忘れてもよいのじゃが、どうも気になるて」

 そういうと火皿に指をつっこみ、熱そうな顔もせずに煙泡をひとしきり撫でまわし、

「おお、感じる。これは──」

 弾んだ声をだすと、煙泡にじかに耳をあて、

「なに、この阿片はインドから運ばれてきた? で、阿片の輸入はサッスーン財閥の陰の主要事業で、杜がその阿片を買ってさばいている──ふむ、この阿片窟の支配人は杜じゃと?」

 そういってうんうんとうなずくと、煙泡を両手で押し頂いて、

「阿片よ、ありがとう。おかげで杜とサッスーンのつながりがつかめたわい。こうして汝の物語をきけたのも、すべての物に霊を宿らせた我らが親なる天の御中主(みなかぬし)の神のおかげじゃな」

 丁寧に火皿に戻すと、不満げな顔のイザナミをみて、

「さて、これを吸うにはこの竹筒を口にあてればよいのじゃな」

 そういって煙槍を口にあて煙を大きく吸いこんだ。フーッと吐き出すと驚いた顔をし、

「う、うまい」

 とつぶやいて目を細めた。神なるイザナギも阿片の力には勝てないのか、いつしか恍惚として夢幻境をさまよいだしている──。

 目が覚めたとき、イザナギはソファにいた。

「・・・・・・ここは?」

「あら、気づいた。探偵事務所よ」

 ピックがいった。

「イザナミはどこじゃ。わしは夢をみとったのか? ──いや、あれはたしかに現実じゃった。阿片の味がまだ口に残っておる」

「そうよ、先生は阿片窟にいた。ティンクラーのおかげで助かったのよ」

「助かったじゃと? なにから」

 そのとき電話が鳴り、ピックはその場を離れた。とたんにトイレからティンクラーが出てきて、

「おお先生、気がついたか。まったく驚いたぜ。阿片窟に行ったら、先生が寝台で体をくの字型に曲げたきり死んだようになってるんで。こりゃ変だと思った。今日は先生がサッスーンに会う日だと知ってたからな。あんな阿片窟に自分から行く先生じゃねえし、これあ謀られたなと踏んで、意識の飛んでる先生を連れ帰ったんです」

「汝が阿片窟に? わしのそばには女がいたろう?」

「女なんて、いなかったっすよ。俺が阿片窟にいたのは誤解してもらっちゃ困りやすが、警官の職務上、巡回のコースだったからなんで。だから従業員の反対をおしきって先生を運びだせたんです」

「汝は本当は阿片を吸いに行ったんじゃろう、ごまかさずともよい。それより本当に女を見なかったか? 黒い旗袍の女だ」

「ハハハ、先生にゃかなわねえな。で、なに、黒い旗袍? いたら警官の俺が見逃すはずねえっすよ」

「その女はイザナミじゃったのじゃ。のう天狗、汝は前にイザナミの居場所を知っているといっていた。あの阿片窟も知っていた。いまイザナミがどこにいるか、わからんか?」

「わかんねえっすよ。俺の知ってるイザナミはあんな阿片窟にはいねえすからね。あそこを管理してるのは杜月笙っす」

「そうか、やっぱり杜が絡んでおったか」

「先生はだまされたんでしょう。なあ、ピック?」

 電話を離れてやってきたピックは、それどころじゃないといった顔をしていった。

「大変! 杜月笙が明日、先生を邸に招待したいって。どうする?」

「なんだと。さっき、やつの阿片窟から帰ったばっかりだってのに、タイミングが良すぎるじゃねえか」

「とにかく明日先生に一人できてくださいっていうのよ」

「容疑者が探偵を招くたあ、どういう風の吹き回しだ。サッスーンから何かきいたか? こいつあ、なにか魂胆があるな」

 イザナギはなにやら決心した顔でいった。

「わしは行くぞ。そう伝えてくれ」

「わかったわ」

「先生、気をつけねえといけませんぜ。杜はサッスーンのようには脅せねえですから。表面は紳士ぶってますが、なにしろマフィア──青帮のボスですからね。俺が応援でついていきてえところですが、それもできねえ。外で見張るにも警官だから面が割れてる」

「せっかくの招待じゃ。きっと尻尾をつかんでみせる。大丈夫、わしには証拠もある。指輪がこっちの手にある以上、杜も下手な手出しはできまい。それにわしには、やつと佐助との関係を暴く証拠もある。佐助の愛人は杜の一族じゃ。佐助の所にあった物が証拠だてておる──やや、写真が奪われておる! 阿片窟に入ったときにはあったのじゃが。佐助め、盗みおったな」

「先生、サッスーンにはやっぱり一杯くわされたみたいだな。こりゃ明日がますます心配だぜ」


 翌日、探偵事務所に迎えの自動車がきて、イザナギはフランス租界のワグナー通りへと連れていかれた。

 自動車は石造りの大きなアーチ門の前に停車した。運転手の男がベルを鳴らすと、大男の門番が出てきて、黄包車から降りてきたイザナギの身体検査をはじめた。それが終わると門が開き、新たに出てきた三人の片目の中国人男がイザナギをとり囲んだ。いずれも筋骨たくましく、拳銃でポケットをふくらませていたが、イザナギは動じた気配もなく、むしろ子分を従えるような感じで堂々と、緑の美しい広い前庭を堂々と歩んでいった。

 その先の建物は三階建ての洋館で、校舎ほどの大きさがあった。

 イザナギは一階の客間のホールに導き入れられた。天井からは豪華な中国式の灯籠がつりさがり、中央には紫檀のテーブルと、錦織の緞子のカバーをかけられた椅子があった。

 壁ぞいに数人のいかつい男たちが警備で立っていたが、イザナギはものともせず、まるで自分の部屋でもあるように、くつろいだ体勢をとっていた。

 と、警備の男たちがいっせいに直立不動の姿勢をとり、イザナギの背後のドアをみつめたままいった。

「杜月笙先生です」

 ふりかえると耳の大きい、やせた、冷酷そうな男が、長袍をまとった手足をぶらぶらさせて近づいてきた。杜は隙のない笑みをうかべていった。

「ようこそお越しくださいました、イザナギ先生。あなたのお名前は新聞でかねがねうかがっております。お会いできて光栄です」

「こちらこそ、招待してもらって喜んでおる」

 杜はイザナギをテーブルに案内し、自分も腰をおろした。

「今日わしを呼んだのは、なぜじゃ?」

 イザナギはいきなり切り出した。杜は一瞬眉をひそめたが、口を微笑ませて、

「噂には聞いておりましたが、単刀直入なお方ですね。私もズバリとお答えしましょう。私はこの所なぜか物騒な事件の容疑者あつかいをされています。その誤解を解きたいと思いましてな」

「誤解? 池津由美を殺したのは汝じゃろう?」

 杜の顔から笑顔が消えた。

 そのとき茶が運ばれてきた。中国では茶は熱いうちに飲まなければ失礼になる。冷めた茶を飲ませると、主人は客を冷遇していることになるからだ。だから客は茶がきたら舌を焼いてでも、すぐにいただく。しかしイザナギはそんなことは知らず、口をつけようともしない。

「ここに汝が被害者の自宅にいた証拠がある」

 いきなり金の指輪を杜月笙につきつけた。

「これは汝のものじゃろう?」

 杜の顔が硬直した。

「ごまかそうとしても無駄じゃぞ。汝に何度も会ったという新聞記者に見せたら、これはたしかに汝のものじゃと証言しおった」

 ぬけぬけと言い放つとイザナギは杜の左手をつかみ、その中指に指輪をはめこんだ。杜の眉がぴくぴくと痙攣し、警備の男が銃をかまえたのもかまわず、にこっとしていった。

「ほら、ピッタリじゃ。汝はこの指輪をして被害者の自宅に行った。被害者の抵抗にあって指輪をおとし、それに気づかぬまま被害者を誘拐し、殺害したのじゃろう?」

 杜は自分の耳が信じられないといった顔をしてイザナギを見つめたが、あえて落ち着いた声でいった。

「そう思われる根拠は?」

「実は指輪に話をきいた」

「ははは、指輪に? あなたには物の声をきく能力がおありですか」

 馬鹿にした口調だったが、イザナギは得々としていった。

「そうじゃ。万物には霊魂が宿っておる。神であるわしは、あらゆる霊魂と話ができるのじゃ」

「それが本当でしたら、あなたはなぜ、事件の起きる一週間前にこの指輪が私のもとから盗まれたことをご存じないのです? 指輪からきいていないのですか」

「なに」

「一週間前の晩、私は虫に刺されて左の中指を腫れあがらせたため、指輪をはずして鏡台に置いて寝ました。ところが朝起きたときには消えていたんです。その他にも腕時計が一つ、ネクタイピンが一つ、扇子が一本盗まれていました。どれも大したものではないので不思議でしたが、その後、池津由美事件が起こったので泥棒の目的がわかったんです」

「何者かが汝を殺人犯に仕立てあげるために、汝のものを盗んだというのか? これほどの邸で汝に見つからずにそんなことが可能だというのか」

「おそらく侵入したのはその道の達人でしょう。この家には防犯のために、たくさんの人間を配置していますが、犯人はすべて突破しています。侵入経路にある見張りの人間はすべて麻酔薬で眠らされていました。私もまったく気づきませんでした」

「汝ほどの者が盗っ人一人を今まで放っておくのか」

「目下、捜索中です。目撃者は一人しかいませんが──それも邸を出る影をちらっと見ただけですが、泥棒の達人となれば容疑者が限定されます」

「しかし、盗まれたのが事実なら、指輪がわしに話しておるはずじゃが」

「疑うのですか。私こそ疑問です、あなたに本当に物の声を聞く能力があるのかと。私が誘拐殺人をしたと、その指輪が本当にあなたに話したんですか?」

「なんじゃと」

「あなたが信じようと信じまいと、この指輪は事件のあった日には私のものではなかったのは事実です。よって私が殺人犯という証拠にはなりません。そもそも私を容疑者にするのは間違いです。私は上海救急病院理事長であり、中国通商銀行理事であり、光華大学理事です。その私が、見たことも聞いたこともない一日本人主婦を殺すわけがありません」

 杜は眼光鋭くイザナギを見すえていった。

 そのとき、ドアが突然開き、警備の男たちが止めるのをふり払い、三十代の華麗な中国人女性があわただしく入ってきた。

 杜月笙は目を丸くしていった。

「美齢夫人」

ふつうの人間なら杜の部屋に押しかけるなど許されないが、誰も拘束しようとしないのは、この女性が蒋介石夫人・宋美齢だったからだ。

 しかも美齢はファーストレディの枠にとどまらない地位ある女性だった。

 美齢は三姉妹の三女である。財閥を築いた故・宋躍如を父とする宋一家は華麗なる一族といわれている

 長女靄齢は中華民国財政部長孔祥熙の妻、次女慶齢は革命家孫文の妻、長男子文は中華民国財政部長および中央銀行総裁を歴任している。いずれも父にならってアメリカの有名大学に進学し、英語を流暢に操る。美齢も英語の話せない夫のかわりに公式行事で欧米人との外交役をつとめていた。

 一家そろってクリスチャンだ。美齢は熱心な信者で、日本の陸軍士官学校出で西洋と無縁な夫・蒋介石をキリスト教に入信させている。

 杜月笙と蒋介石は、切っても切れない関係にあった。一九二七年四月、蒋介石が権力をにぎれたのは、クーデーターを起こすのに力を貸してくれた中華系マフィア・青帮のおかげだった。上海を支配するには華界に根を張っている杜の力が不可欠だったし、杜は杜で犯罪を自由に行うには政府の保護が必要だった。

 美齢は今、杜に対して非常に失望させられたといった顔をし、責めるようにいった。

「今さっき兄が大変な目にあったんですが、どういうことですか?」

「大変な目とは?」

 杜は落ちついて聞いた。

「とぼけるんですか。兄の子文が今さっき駅で襲撃されたのです」

「なんと。宋財政部長が撃たれたというのか」

「実際に撃たれたのは秘書ですが、狙いは兄でしたよね?」

「なぜ私に聞くのですか。宋部長が狙われたとは大変驚きであるが。ただ今は接客中なもので、あとでじっくりお話しを伺いましょう」

 そういわれてはじめて客の顔を見た美齢は、とたんにハッとした顔になった。

「こちらは有名なイザナギ先生です」

美齢は無遠慮なぐらいイザナギをじろじろと見つめつつ、手を差し出した。その顔には有名なイザナギに会ったというだけではない驚きがあらわれている。

「宋美齢です、はじめまして」

 イザナギも美齢同様の驚きをその目にあらわしていた。

 たがいにじろじろと見つめあいつつ、ふたりは手を握りあった。

 刹那、美齢の瞳孔が激しくゆれ動いた。まるでずっと探していた肉親と偶然再会したときのような反応だった。イザナギの目にも同様の反応があらわれていた。

 イザナギはなつかしそうな目で見つめ、握手した手をぎゅうっとにぎった。

 だが美齢は弾かれたように手を放し、急によそよそしい態度に返って、こういった。

「申しわけありませんが、杜先生との話をもう少しだけつづけさせていただきます」

 さえぎろうとする杜月笙を制するようにいった。

「青帮は阿片の輸送と加工について政府の保護を受けるかわりに六百万元を支払うことになっているそうですね」

「いったい何の話です、太太(奥さん)」

 杜月笙は目で制そうとしたが、美齢は笑顔ではねのけるようにいった。

「杜先生は六百万元を財政部長である私の兄に払った。ところがその後で先生は師匠の黄先生とこの取引について話しあうと突然態度を変え、一度払ったお金を『やっぱり返してほしい』といった。すると兄は現金ではなく政府の公債を送りつけた。公債は紙屑同様とみなした杜先生は、兄に思い知らせようと今日の行動に出た。ちがいますか?」

「何のことだかさっぱりです」

「ではここにある現金六百万元は不要になりますね」

 美齢の置いた鞄をみると杜は表情をゆるめて、

「ああ、それは置いていっていただきましょう。誰でも私の部屋に無断で入ると高くつきますからね」

 相手が蒋介石だろうがフランス領事だろうが容赦しない杜月笙であった。

「兄にはこれ以上手出しをしないとお約束いただけますか」

「さあ、私がしたことではありませんので。宋一家はまったく兄妹仲がいい。羨ましいかぎりです。私の予想では宋部長が襲撃されることは当面ないでしょう」

「私が払ったことは、くれぐれも兄には内密にしてください」

 そういうと美齢はドアにむかった。部屋を出る直前、一度ふりかえって、イザナギに強い眼差しをむけた。

 イザナギもその視線に気づいて強い目で見返した。すると美齢は目をそらして行ってしまった。

「お二人はお知り合いですか?」

 杜がイザナギに訝しげな目をむけた。

「いや、初対面じゃ・・・・・・」

 イザナギは言葉を濁し、話題を転じた。

「ところで汝は阿片の専売に相当熱を入れておるようじゃな。政府ともサッスーンともうまく取引しておるという」

「美齢夫人の話でなにか誤解されたようですが、私は阿片撲滅委員です」

「そうじゃな、その委員を隠れ蓑にして自由にやっとる。もっともそれでも独占は難しいかもしれん。日本が阿片市場をのっとる作戦を展開中とあってはな」

「それは初耳です。イザナギ先生、お国の情報を私に教えてよろしいのですか」

「知らんふりをせんでもいい。汝は邪魔者は武力で屈服させねば気がすまぬらしい。じゃから日本に勝手な真似をするなと警告を与えるため、池津由美を殺した。じゃろ?」

 杜はテーブルにこぶしをふりおろした。茶がはねあがった。護衛がいっせいに首を動かした。

「とんでもない」杜ははじめて怒鳴った。

「まったくの誤解だ。そもそも警告のためなら、無名の主婦よりも、ある程度の重要人物が選ばれるはず」

「汝のやり口はようわかった。ついでに真実を話してくれんか」

 杜はわなわなと怒りにふるえる手で茶を軽く一飲みすると、茶碗をいったん目よりも高くあげ、それから静かに下ろした。中国の作法では、「話はこれで打ち切りだ」ということを意味する。

 杜は茶碗を置くと、イザナギの目にじっと視線をそそいだ。イザナギが暇を告げるのを今か今かと待ちうける。

 沈黙が広がる。護衛たちが緊張した目をむける。

と、イザナギが口を開いた。

「この邸にある刃物を調べさせてもらいたい。事件の凶器と合致するものがあるか知りたいのでな」

「・・・・・・」

「許可をくれんのなら勝手に見つける。壁や棚にきいてな」

 杜は護衛に目で合図を送った。たちまち銃声が鳴った。護衛たちがいっせいに発砲したのだ。

 弾丸がイザナギの腕、尻、腹を直撃した。衝撃でイザナギは椅子から転がりおちたが、すぐにムクリと立ち上がる。護衛のひとりが慌てて機銃を連射した。白煙が室内に充満し、イザナギの着物と靴は蜂の巣のようになった。

 だがイザナギはいつまでたっても死ぬ様子がない。それどころか、体からは血が一滴も流れていなかった。

 イザナギは仁王立ちしている。顔を見ると、琥珀色の瞳孔が広がって異様に光り、さっきまでとは別人のようになっていた。さしもの杜月笙も思わずぞっとし、凍りついたようになった。

 弾丸を使い果たした護衛たちは脅えた顔になっている。

「気はすんだか。わしは刃物を探す。よいな?」

「お待ちください」杜が呼びとめた。

「先生には心から敬服いたしました。ついては私の知っていることをお話しする決意を固めました」

 そういって頭をうやうやしく下げた。唯我独尊の杜月笙がこうした行動にでたのは、不死身の人間を恐れる以上になんらかの打算を働かせたからにちがいないが、イザナギは今の言葉をきくと目を細め、喜んだ声をだした。

「話す気になったか」

「はい。私には真犯人の心当たりがあります」

「だからそれは汝と佐助じゃろうが?」

「いいえ。先生は事件前、池津夫妻がフランス租界に出入りして問題を起こしていたことをご存じありませんね?」

「なに、池津夫妻が」

「こうなったら正直にいますが、私は阿片窟をいくつか経営しております。そのひとつに池津由美の夫・隆が何度も出入りしていました」

「なんじゃと」

「池津隆はただの商社員ではありません。日本軍は軍資金調達のため阿片を上海で大量にさばこうと計画し、イラン阿片の密輸入の担当者に池津を指名しています。そのため池津はライバルである我々青帮の動きを追っていたんです」

「それが事実なら、汝としては面白くないわな。縄張りが侵されぬよう池津隆を脅す行動にでたとしても、おかしくはない」

「いえ、ここで重要なのは池津由美の動きです。夫が阿片窟に出入りしていると知った妻は、裏切られたと思い、腹いせに夫の書類を盗んで、我々青帮に渡しました。夫はそのことを知って、とんでもない行動にでたとは考えられませんか?」

「ううむ、いまの話、そう簡単には信じられんな。第一事実なら、なぜ今までいわずにいた」

「商売に関わる話なものですから」

「まあいい。池津隆に確かめればわかることじゃ」

 そういうとイザナギは暇も乞わずに立ち去ろうとしたが、ふと思い出したようにいった。

「汝を見込んで、ひとつ聞きたいことがある」

「なんでしょうか」

「さっきここにきた女のことじゃが・・・・・・あの女に会うにはどこに行けばいいじゃろうか」

「ああ、蒋介石夫人のことですね。するとお二人はお知り合いではなかったのですか」

「女はどこに住んでおる」

「なんでしたら私がお引き合わせできますが。目的は?」

「汝には関係ないことじゃ」

 イザナギは宋美齢に天照大神の心霊が宿っていると感じた。天照大神はイザナギが左目を洗ったときに生まれた神である。

 初対面の宋美齢がイザナギを見て尋常でない驚きを示したのが、天照大神の心霊が宿っている証拠だ。娘・アマテラスまで一九三〇年代の上海に降りているとは思わなかった。それにしてもなぜ日本人ではなく、中国人の体に宿っているのか。イザナミと関係あるのか。会っていろいろ確かめねば・・・・・・。

「宋美齢の住所は? 汝はわしに敬服したといいながら、質問に答えぬのか」

「とんでもないことでございます。美齢夫人は上海ではたいていフランス租界、爾業路(ルート・ガルニエ)のお邸に滞在しておられるようですが」

「会えるよう計らってくれぬか?」

「わかりました。私がお二人をお引き合わせいたしましょう」

「約束じゃぞ」

「はい。日時が決まり次第、ご連絡いたします」

 イザナギは杜が約束をとりつけてくれるまで待てず、その日さっそくルート・ガルニエにむかい、蒋介石邸のベルを何度も鳴らした。だが宋美齢が出ることはなかった。

 神通力を使えば会えるだろうが、イザナギの力はこの上海ではなぜか思うようには働かないのだ。

 サッスーンハウスに入れたのはピックのおかげだった。イザナギをテーラーに変装させ、守衛や受付の人間を信用させる台詞を教えてくれたのだ。だが今回は事件と無関係であり、なにせ政府の大物だから、ピックはさすがにまずいといって力を貸してくれない。

 イザナギは無駄足を踏んで、蒋介石邸からとぼとぼと帰る途中、通りにサッスーン御用達のテーラーがあるのに気づき、この際は少しでも捜査を進めようとスペンサー紳士服店に寄った。

 そこで池津由美の遺体に縫いつけられていた待ち針と糸はその店のものと一致することを再確認した。

さらに思わぬ情報を得た。

 事件当日、池津由美らしき女が来店したという。女は血走った目でいきなり、「夫の注文を受けていないか」と聞いてきた。夫の名はTAKASHI・IKETSU。帳簿を調べてもなかったので、その旨を伝えると、「別名を使ってるかもしれない。サイズはこれこれこうですけど、一致する服がないか探してください」という。すごい剣幕で、断りきれずに探すと、該当する服が二着あった。一着はイギリス人、もう一着は中国人が注文したものだった。夫人は中国人の方をひったくって、

「まあ、こんな高そうなスーツを。これが証拠よ。夫はやっぱり私を騙してたんだわ。租界で中国名を名のって、私の知らない服を着ていかがわしい仕事をしてたのね。浮気もしてたかも。くやしいっ」

と叫ぶと、服を持ったまま店を出ていこうとした。あわてて止めると、「お金ならあげるから」といって紙幣を投げつけてきた。「困ります、うちのお客さんの服です」といっても無視して、タクシーに乗って行ってしまった。

「それが午後三時ごろのことです。服は仕立て中でしたから、うちの待ち針と糸がついていました」ということだ。

 服を持って帰った女が池津由美とするなら、家に帰って夫を責め、夫が逆上したはずみで妻を殺し、針と糸を使って処置したという可能性は否定できない。

 紳士服店を出たイザナギはその足をまっすぐ虹口にむけた。池津隆は勤務中だから、直接池津が働く会社の田嶋物流に行く。ところが不在で、三口物産にいることがわかった。

 三口物産は蘇州河沿いの大きなビルディングにある。日本が誇る大手商社の上海支店である。

 そこにもイザナギは咎められずに入った。租界ではいざ知らず、日本人社会では神ともてはやされている探偵である。人気は時に神通力になる。入れてもらえないのは日本軍の秘密機関ぐらいだ。

 さて社員の大歓迎をうけながら二階、三階とあがっていったイザナギは五階の応接室で物産社員と話しこんでいる田嶋物流社員池津隆との対面を果たした。

 池津隆は突然邪魔されて驚いたが、亡き妻の事件を捜査してもらっている立場上、イザナギをみると笑顔を見せた。

 だがイザナギは笑顔を返すかわりに、いきなりこういった。

「わしはこれまで最も有力と思われた容疑者二人に租界で会ってきた。佐助への疑いは依然として晴れぬし、杜も同様じゃ。しかしここへきて、その二人よりも有力な容疑者がにわかに浮かびあがってきた。それが池津由美の夫である汝じゃ」

 周りの社員が驚いてふりむいた。

「・・・・・・なぜですか」

「汝は妻に隠し事をしておったな」

 イザナギは針と糸をつきつけ、テーラーで聞いたことを話した。

「それで僕が犯人だと? なんてことを。僕はそんな店には行ってないし、そこに行った女性は妻ではないはず。なんでしたらそのテーラーにいって首実検してみますか」

 首実検の結果、池津隆には全店員とも見覚えがないとのことだった。事件当日奪われた服の持ち主である中国人客とも人相が一致しない。

「しかし汝は隠し事をしておった」

 イザナギは外に出ても、厳しい視線を池津隆から離さなかった。

「汝はただの商社員ではない。違法な仕事に手を染めておる」

 池津隆は目を丸くした。

「なにを・・・・・・」

 そういうと顔を真っ赤にそめて、怒鳴った。

「いくら何でもひどすぎます。無実の人間に罪をなすりつけるとは。先生は救世主ではなかったんですか? サッスーンと杜月笙を尋問しに行ったはずが、逆に洗脳をされてきたんじゃないですか」

「話をそらすでない」

「もういいです。もうイザナギなんかに捜査はたのまない」

 騒ぎを聞きつけてついてきた林弘明をはじめとする新聞記者たちがカメラのシャッターを切り、ペンを走らせる。

 翌日、各邦字新聞はこの顛末をこぞって書きたてた。

 期待が大きかったぶん、不満も大きかった。

一時のイザナギブームは急速に熱が冷めたようになった。

 その動きをさらに加速させたのが、それから数日後に起きた事件だった。

 池津の家がなくなったのである。

 夜が明けると、密勒路のほかの家はいつも通りに並んでいるのに、池津の家だけがスッポリ抜け落ちたように消えていた。

 近所の人は目を疑った。昨夜目立った物音をきかなかっただけに、自分の頭がおかしくなったかと思ったほどだった。

 池津の家があった土地は噴火口のように穴になっていた。さらにおかしなことには、朝まで雨は一滴も降らなかったにもかかわらず、穴には水がたっぷり満たされて池のようになっていたのだった。しかも水面は風がないのに波立っていた。

 いったいこの異常現象はどうして生じたのか。とうてい人間のしわざではない。人びとはおのずとイザナギに疑いの目をむけた。

 都合のいいことにイザナギ探偵には動機がある。

 探偵はそれまで池津隆への追及をやめていなかった。自首しろと迫ってもいたという。

 その池津隆が家といっしょに行方不明になったのだ。イザナギがやったのだと人びとが思いたくなるのも無理はなかった。

 新聞には〈迷探偵、同胞池津隆を犠牲にす〉〈イザナギは非情なる神? 同胞に私的制裁〉といった見出しがおどった。

 イザナギは弁明しなかった。ただ、池津隆とその家を消したのは自分ではないと主張した。

 ピックはイザナギの無実をあらゆる角度から説明しようと試みたが、なにせ外国人のいうことなので信用されず、秘書が外国人なのはイザナギが外国人寄りの証拠だなどといわれる始末だ。

 イザナギの人気は衰える一方、イザナギの名をつけた商品を売る店は一軒、また一軒と減っていく。

 そんななか大谷光瑞が出資した美術館が誕生し、完成披露宴が共同租界の華安大廈(チャイナ・ユナイテッド・アパートメント)で開かれることになった。

 招待客は日中の有力者で、日本側は村井総領事や田中隆吉駐在武官、林弘明記者ら、中国側は宋美齢、宋子文、杜月笙らをはじめ、官界、実業界、教育界、新聞界を代表する錚々たる面々が集まることになった。

 そのパーティーへの招待状がなぜかイザナギのもとにも届いた。差出人は大谷光瑞。

 『六三亭』でやりあった仲ゆえ、良からぬ魂胆があるにちがいないと思われる。

「断るべきよ。あの坊主、罠を用意してるに決まってる。池津だってあの坊主が先生の人気を落とすために消したかもしれないんだから。これ以上やられることないわ」

 とピックがいうと、

「こいつあ逆に挽回するチャンスかもしれねえぜ、先生」

 ティンクラーが口をはさんだ。

「わしも、そう思う」

 と、イザナギはうなずいて、招待状の参加の文字に丸をつけた。罠があるなら、その罠を利用して大谷光瑞に一泡ふかせてやるまでといった顔である。

 もっともイザナギには別の目的もあった。宋美齢に会うことだ。

 当日午後二時前、バブリング・ウェル・ロードのイタリア式建築、華安大廈の大理石の列柱前には、続々と高級自動車が寄せられた。

 イザナギはひとり徒歩できて、一時間も前から古代の服装で玄関付近をうろついていた。そのようすを取材にきている新聞記者たちがカメラにおさめる。

 大谷光瑞が見とがめて、なかからお付きの者をぞろぞろ引き連れて出てきて、イザナギになかに入るよう勧めたが、聞き入れる気配はない。

 と、一台のリムジンが到着し、後部座席から花柄の旗袍を着た女性が出てきた。高級な鞄に靴、宮女風に結いあげた髪型──まぎれもない宋美齢である。

 イザナギは駆け寄ったが、護衛が邪魔になった。大声で名を呼ぶと、美齢は一瞬イザナギを見てハッとなったが、すぐに無視して早足で外階段をのぼっていった。そのまま玄関に消えようというとき、

「イザナギ!」

 背後から呼びとめられた。美齢ではない。立派な日本語の発音で、聞き覚えのある女の声だった。

 イザナギはふりかえって階段から道路を見下ろし、声の主を探した。交差点の人ごみのなかに黄包車にのった黒い旗袍の女性がいる。中国人の格好をしているが、イザナミにちがいない。イザナギは反射的に階段を下り、そちらにむかった。人波をかきわけ、目的の黄包車に達すると、まぎれもなく懐かしい顔があった。イザナギは黒い旗袍の前に身をのりだし、せきこむようにいった。

「イザナミ、おまえはなぜ阿片窟から消えたのじゃ」

 すると黄包車の女は身を起こしてささやいた。

「イザナギ、お願いをきいて」

「なんじゃ。なんでもきくぞ」

「私たちが最初にどうやって子どもを作ったか、覚えてる?」

「もちろん覚えておる」

「それなら、いまここであの時と同じことをして」

「え、この黄包車でか?」

「車夫は私のいいなりだから大丈夫」

 女は車夫にしばらく停車するようにと命じてから、いった。

「人が多いからって躊躇するの? あなたの愛を証明してくれないの?」

「証明したら、今度こそ離れないと約束してくれるか?」

 女はうなずいた。

「約束する」

「ならば遠慮なく・・・・・・うっほほーい」

 イザナギは黄包車の踏み台にのぼり、女の服を脱がせはじめた。女は道行く人の視線のなかで見る間に裸にむかれた。

 すると、悲鳴があがった。

 イザナギは目と耳を疑った。悲鳴をあげているのは、愛する女だった。

「助けて、助けてー!」

 女はイザナギの体の下で叫んだ。

「なにをいってるのじゃ」

 イザナギは自分の唇で女の口を封じようと顔を近づけた。たちまち女はかぶりをふって叫んだ。

「この人でなしーっ」

 インド人巡査が飛んできた。イザナギを暴漢と勘違いし、棍棒を何度かふり下ろしたが全然効かない、女性から引きはがそうとしても物凄い力でかなわず、公共の場で婦女暴行が行われそうな気配なので応援を呼んだ。

 周囲にはいつのまにすごい人だかりができていた。みな、暴漢があのイザナギ探偵だと気づいていた。「日本の神」と書かれた人が落ち目とはいえ、こんな異常な行動にでるとは、誰も開いた口がふさがらないようすだ。

 駆けつけた租界警察官たちは安全のため人びとを下がらせると、イザナギに銃をむけて「今すぐ女性から離れるように」と命じた。イザナギは従うどころか両手で女を愛撫しはじめた。

 華安大廈でも外の騒ぎを聞きつけたとみえて、パーティーの招待客たちがバルコニーや窓に集まって外を見物しているのが見える。

 黄包車の女性は泣きわめき、イザナギの下でもがいている。

「なあ、これは芝居じゃろう? 久々の交わりを盛り上げるための? わしは、おまえがした約束を信じておる」

 女の耳に接吻し、イザナギは褌をほどきはじめた。

 中国人警部がついに発砲した。弾丸はイザナギの尻を直撃した。が、弾丸は皮膚に当たっただけで、むなしく落ちた。警部は目を白黒させ、二度目の狙撃をしたが、結果は同じだった。弾丸はイザナギの皮膚を貫通せず、はね返っては落ちる。警官たちは躍起になって発砲をくりかえしたが、撃っても撃っても同じだった。

 そのあいだにイザナギは褌を脱ぎ、一物をとりだしている。人びとは、あっと叫んだ。

 そのとき大谷光瑞が華安大廈の玄関前にあらわれ、両手を虚空にかかげた。

 するとその瞬間不思議なことに、イザナギが見えない力に動かされでもしたように女の体から離れていった。抵抗しようとしても、体が引きずられるようになって、みるみる黄包車から遠ざかっていく。

 イザナギは睾丸がいつのまに二個とも糸にからめとられているのに気づいた。糸の先をたどると、大谷光瑞がいる。

 大谷光瑞は両手を虚空で動かしている。イザナギは光瑞を睨むと、睾丸の糸を器用にほどき、ふたたび女のもとへ走り出した。

 が、その瞬間睾丸はふたたびぎゅっと新たな糸にしめあげられた。イザナギはきっと横を睨んだ。

 すると大谷光瑞は両手をのばしたまま華安大廈の階段を下り、路上のイザナギのほうへむかってきた。

 群衆はタキシードの坊主の糸がイザナギを捕えているのに気づくと、おのずと道をひらいた。が、イザナギはそのあいだにふたたび糸をほどき、走りだした。

 しかし大谷光瑞がその前に立ちはだかった。

「おのれ生臭坊主め、仕返しのつもりか」

 イザナギがいった。そのとき中華民国財政部長宋子文の自動車が華安大廈に近づいてきた。巡査が一時的に交通規制をとき玄関まで誘導した。

 子文の自動車が、光瑞と対面するイザナギの脇をゆっくりと通りすぎていく。車窓には子文の、丸縁の眼鏡をかけた、三十代後半のエリート銀行員といった顔がみえた。その冷静そうな顔がイザナギを見た瞬間、ハッとなった。尋常でない驚きの表情をあらわしている。

 イザナギもなにかを感じとったとみえ、一瞬視線を光瑞から自動車に動かした。たちまちイザナギは子文以上の驚きをあらわし、今の状況も忘れて、

「スサノオ・・・・・・」

 と、つぶやいた。そのようすは宋美齢に会ったときにそっくりだった。

「スサノオじゃ。スサノオ!」

 叫んで自動車を追わんとするイザナギの睾丸をたちまち光瑞が引っぱった。

「往生際が悪うございますよ」光瑞は冷笑をうかべていった。

「ふん、糸ごとき。かような子供騙しで、わしに勝てると思うなよ」

「どうでっしゃろ」

 光瑞はニヤッと笑うと、サッと空中に両手ひらめかせた。

 するとイザナギのまわりに火炎がたった。

 人びとはあっと叫んだきり、息をひいた。

 炎はまたたく間に円を描いてイザナギを取り巻き、すっぽりと包んだ。光瑞がふたたび手を動かすと火が消えた。同時にイザナギも消えた。

 地面には、かわりに一匹の蜘蛛が這っていた。

 その蜘蛛を光瑞はヒョイとつまみあげて巾着のなかに入れ、紐をぎゅっと縛ると、あっけにとられている人びとにむかって、

「みなさん、暴漢は退治しました」

 にこりと笑っていうと、巾着を警官に差し出した。戸惑う中国人警部に、

「騙されたと思って、これを署に持って帰ってください。責任は私が持ちますから」

 意味ありげな言葉を残して黄包車の女のもとに行き、

「もう安心ですよ」

 と、中国語でいたわりの言葉をかけた。女はうなずいた。光瑞がイザナギをやりこめている間に旗袍を着ていたが、なおショックが抜けきれないといった顔をして恥ずかしげにうつむいている。

 それでも礼の言葉をきちんと述べ、光瑞の名を尋ねた。有名な仏僧と知ると、ふしぎな術を使ったのも納得がいくといった顔をして、今度あらためてお礼がしたいといい、自分の名前と住所を書いて渡した。光瑞はそれを見ると驚いた顔をして、

「ああ、あなたは梁澄芳さんでしたか。あの随筆家の」

 ことさら声を張りあげるようにしていった。うなずいた女は顔を赤くしている。

「これは失礼。つい声が大きくなってしまって。しかしイザナギはあなたをイザナミさんと呼んでましたけど、とんでもありませんねえ」

 警部が租界警察署に巾着を持ち帰って蜘蛛をとりだしてみると、信じられないことにたちまち大きくなって、イザナギに姿を変えた。イザナギは元の通り着物を着ていた。

この事件をきっかけに大谷光瑞の株は一気にあがった。ふしぎな力の備わった最強の仏僧として敬われ、特に在留邦人の間でそれまで以上に慕われるようになった。

 「救世主イザナギ」の称号は「救世主大谷光瑞」にとってかわった。

 もう誰もイザナギ探偵の名を口にする者はなかった。

 なにしろイザナギはあの日以来、犯罪者として牢屋に入っている。

 新聞はこれまで持ち上げていたのがウソのように、こぞってこき下ろした。

〈イザナギ詐欺師、暴かれた正体〉といった類の見出しが、あちこちに躍った。本物の神なら牢屋から出られるはずなのに、いつまでも警察のいいなりになっているのは神通力が使えない──つまり神でない証拠とされた。

 「探偵まがい」は日本の神の名を汚しているから、これ以上イザナギを名のるべきではないという警告めいた投書が当たり前のように掲載されるようになった。

「さんざんないわれようですよ、先生」

 ティンクラーが牢屋の格子越しにイザナギに話しかけた。外の様子を語ってきかせた後である。

「でも安心してください。俺がなんとかして先生をここから出してみせます。これでも警官っすからね。外野がうるさいんで多少手間暇かかるかもしれませんが、待っててくださいよ」

 周囲に目を配りながら小声でいう。

「ありがたい」

「先生には池津由美事件を解決してもらわなくちゃ。だいたいおかしいじゃねえすか、容疑者を日本人にしたとたん、先生が次々罠に嵌められて悪者扱いされるようになり牢屋に入れられたとなっちゃあ。裏で糸を弾いてるやつがいる」

「わしもそう思っておる。そいつがおそらく殺人犯じゃ。池津隆ではない。池津隆もそやつのために犠牲になったんじゃ。かといって杜月笙や佐助ではない。わしともあろうものが、なんたる見当違いをしておったんじゃ。犯人はおそらく──」

「大谷光瑞だと?」

「しかし・・・・・・あの生臭は本来あんな術が使えるはずがないんじゃが──」

「そいつに関して、俺あひとつ重要なことを、つきとめたんすがね」

「なんじゃ」

「俺は前にイザナミを知ってると先生にいいましたよね。実は今だからいいますが、そのイザナミを名のる女はバンド方面で野鶏(ヤーチー・・・街娼)をしてたんです。今年になって場所が変わったのか、やめたのか、見なかったんで先生に会わせられなかったんだが、その女をこの間見かけたんすよ」

「汝はわしが捕まった日は現場におらんかったから、黄包車の女は見なかったはず。すると、どこで見たのじゃ」

「ドイツ料理店です。上司と食事をとりに入ったところ偶然見かけたんですね。それが別人みたいに品のいい中国人マダムのなりをしてるから、はじめ目を疑いましたよ。しかも上司が『あれは先日路上でイザナギに犯されかけた女性随筆家の梁氏』だというじゃないですか」

「梁氏? あれはイザナミじゃ。なにが『犯され』じゃ。イザナミからわしに抱いてと迫ったのじゃ。それが料理店で上品に飯を食ってたと?」

「それがなんと大谷光瑞と一緒だったんです。二人ともかなり打ち解けた感じでした。事件の後に知った仲だという話でしたが、いやいや、ありゃもっと前からの知りあいっすよ。あいつら、共謀して先生に罠をかけたのかもしれねえ」

「なんじゃと!? それを聞いたら、こんなところでグズグズしとられん。早く出してくれ」

 三日後、ティンクラーがコネを使ってイザナギを牢屋から出した。

「この借りは返してもらいますよ」

「わかっとるて。ところで彦のやつはどうした。面会にも一度きたきりじゃが」

「ああ、ピックのやつ、忙しいらしいっす。なんでも上海ロシア歌劇団から声がかかったとかで、やっときたチャンスだから逃がすわけにはいかねえって稽古に精出してる最中で。先生には、よろしくいっとくように頼まれて、鍵を預かってきました」

「鍵?」

「虹口に帰ると文屋がうるせえだろうからって、フランス租界のあいつの別宅の鍵を貸してくれたんですよ。住所はこのメモに書いてあります」

「それはありがたい」イザナギはそういってメモを読んだとたんにしかめつらし、

「『私はしばらく帰れませんが、家にはなんでもそろってるので、自由に使ってゆっくりしてください』か。彦はこの家には帰らんのか。彦の力があれば、アマテラスとスサノオに楽に会える気がしたんじゃが──」

「アマチュアとスノー?」

「宋美齢と宋子文のことじゃ」

「宋美齢と宋子文? 大物すけど、事件に関係あるんすか?」

「いや、ちがうんじゃ、ただ、その、ちょっとな・・・・・・それより汝、イザナミをみつけてくれんか」

「それが探してるんすけど、居所をなかなか、つかめねえんで」

「そうか。となるとまずは大谷光瑞が犯人である証拠をつかまねばならんな」

 イザナギはいったんピックのアパートに帰ると、それから虹口にむかった。

 池津邸のあった場所は、あの日から変わらず池になったままだった。

 イザナギはティンクラーにいい含められたとおり特高刑事を名のって、近所に聞き込みを開始した。

 むかいの日本人主婦からの新たな目撃証言によると、あまり確信がなかったので事件直後はいわなかったが、池津邸が消える前の晩、池津邸の窓に池津隆ではない男が見えた気がしたという。来客があった感じでもないし、おかしいな、と感じたのを覚えているとのことだった。

 男は坊主頭で髭をはやし、首から数珠のようなものをぶらさげていたそうだ。

 それを聞いてイザナギは杜月笙邸から指輪を盗んだ男の特徴を思い出した。目撃者によると、その男は坊主頭で髭を生やしていた。数珠を下げていたかは不明だが、ひょっとしたら同一人物かもしれない。

 その男が杜月笙を犯人に仕立てあげ、池津隆を消したとすれば、真犯人なのはほぼ間違いない。しかもその男が大谷光瑞である可能性はきわめて高い。

 もっとも大谷光瑞は坊主頭ではない。髪は粋な西洋人さながらポマードで撫でつけてあり、髭も生やしていない。しかしあの髪がかつらで、坊主の男の髭が付け髭だったとしたら?

 イザナギは胸を躍らせた。その足で『アルカディア』にむかった。

 同様の特徴を備えた男を殺人事件の晩に見かけた者がいないか、確かめると、なんと従業員のほとんどが、坊主で髭の男を見ていた。

 というのもその男は、当日厨房の下働きだったからである。数珠が服の下に隠されていたかは不明だが、その男は四十代から五十代の自称中国人で、臨時雇いで事件の一週間前に雇われ、当日は料理の手伝いのほか、厨房に食糧や酒が入った箱を運んだりしていたという。

 その男が真犯人なら、池津由美の死体は箱に入れて食糧や酒の箱に紛れこませて運んだことが考えられる。

 残念なことに男は事件後まもなくやめて所在が知れない。手がかりといえば、自称河北省からきたばかりで、北京人らしい北京語を話していたことぐらいだった。

 しかしとにかくその男の行方をつかむことだ。その男が誰だかわかれば、大谷光瑞を追いつめられるにちがいない。

 もっとも大谷光瑞が一時的にしろ、厨房の下働きをしたとは考えがたい。坊主男は光瑞の弟子かもしれない。それでも光瑞がやらせたなら光瑞が主犯ということだ。

 イザナギは張り切ってアルカディアをやめた男の追跡をはじめた。周辺はもとより上海のあらゆる歓楽街を変装して尋ねてまわった。

変装は以前ピックに教えてもらった要領でやった。長髪はかつらで隠し、モダンなスーツ、靴、鞄を身につけたのである。お蔭でどこでもイザナギと気づかれなかった。しかし労多くして収穫はなかった。

 神通力が使えればすぐ見つかるが、使えなかった。せっかく手がかりをみつけたと思ったが、坊主男の線はいったん諦めるしかなかった。

 それで思いきって正面からぶつかることにした。大谷光瑞に池津由美事件のあった夜、どこでなにをしていたか直接聞くことにしたのだ。事前に連絡はせず、光瑞がいるという寺にむかった。

 西本願寺別院は大谷光瑞の好みで、東京に造らせた築地本願寺同様、インド風の建築で上海にできたばかりだった。虹口は乍浦路、日本人旅館が並ぶ大通りで、イザナギの事務所からだと北四川路を北上して行くことになる。

 すでに夜で乍浦路には『東和劇場』、『虹口シネマ』、『第二歌舞伎座』の明かりが煌々と輝きだしていたが、イザナギはそこから離れた暗い路を北上していた。すこしでも静かな場所で、光瑞と会ったときに話すことを考えるためだった。

 クリークは運河で水上生活者の貧しい小船がいくつも停泊し、水面には捨てられた赤ん坊や人間の死体がぷかぷかと浮いている。平行する通りは電灯も窓もないような泥壁の家が並び、時折子どもや犬の鳴き声がきこえるぐらいで、あとは不気味なぐらい静かだった。

 すると突然、無頼漢どもが脇からあらわれ、イザナギに襲いかかってきた。暗くてよく見えなかったが、相手は五人近くいて、イザナギを袋叩きにしたあと、縄でしばり、クリークに放りこんで去っていった。

 翌朝、水上生活者の親切な妻が、生きた者がうかんでいるのに気づいて引きあげてくれるまで、イザナギは一晩中汚物まみれの冷たいどぶに浸かっていた。冬の寒さである。ただの人間だったら、朝には死んでいたかもしれない。

「すると先生を襲ったのは大谷光瑞の手下ですかね」

 話をきいてフランス租界のアパートにイザナギを見舞いにきたティンクラーがいった。

「中国語を使っていたが、日本人の浪人者という感じじゃったからな」

「バカなやつらだぜ、中国人のふりして捜査の邪魔をするたあ、殺人事件に関わってると自分でいってるようなもんだ。しかし光瑞のやつ、先生が事件当日のアリバイをたずねにくるって、よくわかりやしたね」

「油断のならないやつじゃ。認めたくはないが、妖しき術を使うだけのことはある」

「だけど、やられっ放しじゃないすか。どうにかなんないんすか」

 そこへ電話が鳴った。

「先生出てくださいよ」

「出るとは? その箱は鳴いておるようじゃが」

「電話ですよ。ピックから習ったでしょ? しょうがねえな」

 電話をとってすぐティンクラーは顔色を変えた。なにやら大声で二言三言わめき、受話器を置くなり、青い顔をイザナギにむけていった。

「ピックが誘拐された」

「なんじゃと」

「ピックを助けてほしければ事件の捜査から手を引けと。手を引いたとわかるまではピックを返せない、また捜査をしたらピックの命はないと脅されやした」

「電話をかけた人間がいったのか。何者じゃ」

「名のらなかったんすが、訛りの強い英語を話してた。たぶん日本人でしょう」

「大谷光瑞か、その手下じゃな。もう我慢できん」

 イザナギは満面を朱にそめて、こぶしを振りたてた。

「わしを怒らせるとどんなひどい目にあうか、思い知らせてやる。天罰じゃ、やつに天罰を与えるのじゃ」

 琥珀色の瞳孔を異様にひろげ、この世のものとは思えない光を発した。さすがのティンクラーもぞっとしつつ、

「でも先生は上海では神通力を発揮できねえんじゃ?」

「そうじゃが、希望はある。アマテラスとスサノオじゃ」

「え、またアマチュアとスノー? さっきは宋美齢と宋子文のことだとかいってやしたが、なんなんすか。先生、悪いことはいわねえ、今回はピックの命がかかってる。ここは俺にまかせてくだせえ。これでも警官です。敵の居所を必ずつかんでピックの野郎を救いだしてみせやすから」

「いや、わしにまかせてほしい。天狗、たのむ」

 アマテラスとスサノオはイザナギから生まれた神である。この二柱なら、この上海でも神通力を使えるかもしれなかった。

 イザナギはアマテラスの霊が宋美齢の体に、スサノオの霊が宋子文の体にのりうつっているのを感じていた。

「一日でもいい。まかせてくれ。わしがその間に解決できなかったら、警察の方で捜査をはじめてもよい」

「わかりやした、一日ですよ。今までどおり先生を信じてみましょう」

 イザナギはさっそくカルティエ・ペタンにむかった。

 ちょうど宋美齢と会う約束の日だったのである。杜月笙という男は律儀で、華安大廈以来のイザナギの落ちぶれようにもかかわらず、約束を守ってくれ、宋美齢との約束をとりつけてサニーカフェの個室まで予約してくれたのだった。サニーカフェはサニーホテル内にある。

 美齢と会えるのは十五分間だけとのことだった。

 美齢はイザナギの期待とはちがった。予想よりは好意的に接してはくれたのだが、特別な反応がなかったのだ。過去二回とちがって、美齢はイザナギをみても、なにも感じたようすがなかった。演技ではない。美齢は異国の珍客でも迎えるみたいに如才なくイザナギに接し、通りいっぺんの会話をした。それだけだった。

 一度試しにアマテラスの名を出してみたが、美齢はぽかんとしただけで、イザナギが日本の神だと説明しても何ら心を動かされたようすはなかった。

 アマテラスの霊は宋美齢の体から離れたのだろうか?

「あら、もうこんな時間。お会いできて光栄でしたわ、ミスター・イザナギ。また今度楽しいお話をお聞かせ下さいましね」

 立ち上がろうとする美齢にイザナギはいった。

「ところで、スサ──いや、宋子文氏は元気じゃろうか。できればお会いしたいのじゃが」

「元気ですが。兄のお知り合いでしたか」

「え、ま、そうじゃ」

「兄とは実はさっきここへくる途中で会いましたのよ。家族でサニーレストランに入るところでしたわ。歩いてすぐのところに住んでいるものですから、よく利用するのです。ではホテルマンに連絡してもらいましょうか」

「いや、それには及ばぬ」

 そういってイザナギは暇も乞わずに座席を飛びだした。宋美齢がだめなら、たよれるのは宋子文──スサノオしかいない。

「あら、お待ちになって、ミスター・イザナギ」

 美齢の声を後にイザナギはサニーレストランに飛びこみ、従業員の制止もきかず、家族で楽しげにテーブルを囲む宋子文を見いだした。

 子文はイザナギを見るとハッとして、次に脅えた顔になった。三人の子どもがどうしたのかと聞く。妻もけげんそうに二人の顔を見比べていたが、人目があるので、とっさにつくろうように愛想笑いをうかべて、

「はじめまして、イザナギさんでいらっしゃいますよね」

 と声をかけたが、イザナギは無視し、子文を見つめていった。

「久しぶりじゃのう」

 子文は目をそらした。眼鏡の奥の知的な目には、反応があらわれていた。

「あなた、この方をご存じでしたの」

「いや・・・・・・ちょっと外に行く。みんなは食事を続けていてくれ」

 そういって子文はレストランからロビーに出て行った。

「待て」イザナギは追いかけ、

「スサノオ」

 と呼んだ。子文は反射的に足をとめた。

「逃げるな。おまえはスサノオじゃな。なぜこの時代の上海におる」

 すると子文は父親を恐れる息子そのものの顔になり、声をふるわせていった。

「・・・・・・父さんに話すことはありません」

「質問にこたえるのじゃ。おまえはなぜ宋子文なる中国人にのりうつっておる?」

「宋子文といえばこの時代の中国の重要人物、アメリカの政治家と財団を味方につけて中国の金融界を動かす男ですからね」

 スサノオは目に冷たい光をうかべ、淡々とした口調になっていった。

「僕がのりうつるのに不足はありません。非常に刺激的な毎日が送れます」

「おまえは中国人に乗りうつって、その家族を自分のものにして生活することが楽しいのか」

「責めるんですか?」

 眼鏡の奥の目がスサノオ独特の荒く猛々しい光をおびた。

「僕がいたら、そんなに目障りですか。父さんはいつだって僕を批判する」

「まだそんなことをいっておるのか。おまえを追い出したときのことを、いまだ根に持っておるのか」

「どうして忘れられましょう。だから僕は日本が窮屈で上海にきたんじゃないですか。それなのに父さんは上海まできて文句をいう」

「ちがうのじゃ、スサノオ──」

「自分でもわかってます。たしかにあの当時の僕は無法者でした。でも今は変わったんです」

「わしは批判はしとらん。実はなスサノオ、わしはおまえの力を借りたいんじゃ。そこでじゃ、おまえに暴れん坊に戻ってもらいたい。勝手なようじゃが、それがわしらを救うことになる」

「なにをいってるんです」

「池津由美殺人事件は知っておるな。あれの真犯人をわしはほぼ突きとめた。しかし嫌がらせがひどくてな。今日ついに秘書の彦までが誘拐された。犯人はわしが捜査から手を引かねば、彦を殺すという」

「真犯人はだれなんですか」

「おまえだからいうが、おそらく大谷光瑞じゃ。やつは、どこで身につけたか、この頃急に妖しき術を操るようになった。それに勝つには、神通力が必要じゃ」

「犯人は大谷光瑞ですって?」

「本来ならわしの力で勝てるんじゃが、上海ではなぜか力が使えんのじゃ。そこでおまえじゃ。このとおり人間にのりうつれるんじゃから、上海でも神通力を使えるとみなしてよいな?」

「だとしても大谷光瑞には勝てませんよ」

「なにをいっておる。妖しき坊主といえど相手は人間じゃぞ」

「大谷光瑞には姉さんがのりうつっています」

「なんじゃと。アマテラスが?」

「そうです。天照大神──姉さんはついこの間まで宋美齢に取りついていましたが、何を思ったか、急に大谷光瑞に取りつきだしたんです。大谷光瑞に天照大神の力がついたら、どういうことになるか、おわかりでしょう」

「どうも信じられん。彦を誘拐したのはアマテラスということになる。娘がなぜ父親の邪魔をする? ──ううむ、わからん」

「直接会ってみれば、わかるのでは」

「それが簡単にはできんのじゃ。時間も限られておる。強硬策をとるよりほかない。だからおまえの力が要る。のうスサノオ、天の岩戸を再現してくれんか?」

「なんですって。姉さんを攻撃しろっていうんですか」

「アマテラスが大谷光瑞についてるなら、そういうことになるが、やむをえん。彦を救い、事件を解決するには、そうするしかないのじゃ」

「本気でいってるんですか? 人間のためにそこまでする必要が?」

「自分の家族を犠牲にしても人間のために尽くす。それが日本の神というものじゃ」

「でも僕は日本から追い出された神です。今になって協力を求められても困ります」

「おまえの母さんは立派じゃった。自分を犠牲にして多くの神を生み、日本を創生した。わしが上海にきたのはなあスサノオ、母さんに会うためじゃった。イザナミを探す気持ちがわしを上海へと運んだのじゃ」

「本当ですか? 母さんが上海にいるというのは・・・・・・」

「なんじゃ、相変わらず母さんの話になると目つきが変わるな。わしが上海で最初にイザナミを見たのは阿片窟じゃった」

「母さんが、阿片窟に?」

「もっといかがわしい商売をしてた時もあったそうじゃが、母さんの意志ではないはずじゃ。悪者に動かされてのことにちがいない」

「そんな・・・・・・」

「おまえは会ってないのか? 会いたいじゃろう。かつて母さん会いたさに国も治めず、青山が枯山になるまで泣き枯らしたおまえのことじゃ。その母さんが悪者といるときいたら、どうするな。救うにはお前の力が必要じゃぞ」

「・・・・・・救いたい。天の岩戸を再現すれば姉さんを攻撃することになるけど、姉さんとはもとから喧嘩ばかりだし。いまさらちょっとぐらい攻撃しても・・・・・・」

「そうじゃ、そうじゃ姉さんもわかってくれる。なにも殺すわけじゃないんじゃから」

「でもだめです」ふいに子文はふりきるようにいった。

「僕は決めたんですから。中国の指導者としての生活を楽しむと。だからどうか邪魔をしないでください」

「中国を治めるのがおまえの本望なのか?」

「放っといてください。上海にきてまで父さんに命令されたくはありません」

 子文は去っていった。


「これが大谷実験村です」

 大谷光瑞は田中少佐と甘粕大尉をはじめとする軍の参謀に得意げにいってみせた。

 ここは上海郊外。見渡す限り緑の田畑、牧場が広がり、農作業に従事する人や、牛や羊が散在している。

「ここでは完全に自給自足の生活を営んでおります。高度な産業国家となる予定の満州国とは形態が異なりますので参考になるかどうかはわかりませんが──」

「いや、王道楽土の理想を持つ点では同じです」

 甘粕が力強い目をしていった。

「そうおっしゃっていただけで光栄です。あちらにあるのは機織り工房ですが──」

 光瑞はふり返っていった。田畑と反対方向に車両車庫のような縦長の平屋の建物がある。

「昔ながらの機織り機で布を製作しております。これも日本文化を世界に浸透させんとする事業の一環でございます。そもそも機殿(はたどの)は日本神話では天照大神が神衣を織ったといわれる非常に神聖な場所でした。それゆえ私が選びました機織り娘たちは全員日本の私立女学校を卒業してまもない清純な少女ばかりでございます」

「それはけっこう」

 田中少佐は急に興味を示したようすでいった。

「なかなか美しい娘たちでございますので、実は一度ご覧いただこうと奥の会館に待たせてございます」

 光瑞は会館と称する大邸宅風の豪華な建物に一行を招じ入れた。

「いやあ、けっこう、けっこう」

 軍人たちは頬をゆるめて喜んだ。それもそのはず、十七、八のうら若き美少女たちが隣に座ってお酌をしてくれる。どの子も処女の体でたしかに純情そうなのだが、軍隊のお偉方を前に脅えるかと思いきや、意外にも物怖じしない。軍人が体に触ると、いやがるどころか一緒に笑い、色っぽい目つきをする。参謀たちは酒は入るし上機嫌で、

「この娘らはたまりませんな。猊下が教育したんですか」

「まあ、そないなところですわ」

 光瑞も酔って関西弁が出た。

「さすがは猊下、いよう、ニッポンの神」

 柴北少佐が調子にのって声を張り上げる。光瑞の顔は自然とほころんだが謙遜して、

「神はいいすぎですわ。私は一仏教徒でございます」

「いやいや仏教徒でも猊下こそ神ですよ神。イザナギを騙るやつがいたもんだから、猊下の凄さがよけいにわかりましたって」

「めっそうもございません」

「いや猊下、あいつを蜘蛛に変えた術にはつくづく恐れ入りましたよ。あのとき退治してくれて本当助かりました。なにせあいつはイザナギを騙る反戦分子だったんですからね」

「そのとおり」田中がうなずいていう。

「あいつは日本人は日本の国だけ守ってればいいなどと、ぬかしおった。反戦思想が広まったりしては、たまらん。しかし芽をつむにも、青帮通によれば銃撃しても傷一つつけられなかったとのこと。不死身とは信じがたいが、処分の仕方に困っていたところ、猊下が奇策でもって、あいつの力を少しずつ弱めてくださった」

「なあに、退治はまだ完了してません。せやけど、もう一歩ですわ」

「そうでしょうとも、ハッハ」

「ハッハッハッハ」

 会館に笑いが響き渡ったとき、玄関からドンドンと音がした。

「何の音や」

 まもなく門番の青年が駆け足で報告にやってきた。

「猊下、マヌエラと名のる女性が見えました」

「なんやて。マヌエラ?」

 マヌエラは有名なダンサーで、以前は虹口の日本人むけダンスホール『ブルーバード』で踊っていたこともあるから光瑞も知っていた。

「踊り子がなぜうちに?」

 光瑞は露骨に不審そうな顔をした。

「ご心配なく。私が行って追い返してきます」

 光瑞の一番のお気に入りの娘が立ちあがって玄関に行った。ひとしきり、やりあう声がしていたが、しばらくすると数人が踏みこんで廊下をずかずかと渡る足音が近づいてきた。

 宴会場の扉がサッと開いた。

「あっイザナギ・・・・・・それと君はマヌエラ」

 一同どよめいた。だれも気づかなかったが、イザナギを見た瞬間、光瑞は交合現場を父親にのぞかれた娘のような異様な狼狽の表情をその面上にあらわしていた。

「突然のご訪問失礼いたします」

 マヌエラが日本式に腰を折り曲げていった。

「私どもはこちらに話があって参りました。そこの大谷光瑞さんに直接お話しを伺いたいと思いまして」

 光瑞は冷静な表情をとり戻していたが、軍人は怒鳴った。

「おい、許可もなく侵入した上、猊下に無法な口をきくとは何事か。マヌエラだかマラだか知らないが、外人に魂を売った女は帰れ。そこの詐欺師も忘れずにつれて帰れよ」

 イザナギを目で指していった。マヌエラはまったくひるまず、

「いいえ、帰りません。私は高慢な白人の経営するクラブで英米仏人以外お断りといわれても、乗りこんでいって私の踊りを認めさせる女です」

「面白い。まあ用件をききましょう」

 光瑞はマヌエラのダンスで鍛えた体になめるような視線を這わせつついった。

「では遠慮なく。光瑞さん、あなたは池津由美事件のあった晩、どこで何をしていましたか?」

「いきなり直球できますな。そないなこと聞いてどうしはる」

 内心は動揺しているのか、関西弁が出た。

「私はご存じのように事件当日は死体発見現場にいあわせました。いたどころか現場は私の誕生日パーティーの会場で、キャプテン・ピックのプレゼントが死体にすり替えられていたんです。被害者と同じ日本人としても真犯人に捕まってほしいと願いました。

 でも警察さえ捜査できないのに一ダンサーがしゃしゃりでるわけにもいかず、いままではイザナギ探偵の捜査を陰ながら黙って見守ってるだけでした。

 そこに昨日ピックが誘拐されたときいて、もう引っ込んではいられなくなりました。捜査を中止しなければ殺すとイザナギ探偵を脅迫したそうですね。これ以上犯人の思い通りにさせるわけにはいきません。捕まえなくては。だから、答えてください。アリバイを」

「待て待て、あなたたちは私を真犯人だというのんですか」

「坊主、こたえるのが、そんなに嫌か。先日は汝を訪問しようとしたわしを手下に襲撃させおったな。今日という今日は逃さぬぞ」

 きっと光瑞を睥睨するイザナギを軍人が叱咤した。

「黙れっ、不敬者」

「まあ、そう怒鳴らないでください。イザナギはん、マヌエラはん、正直にいいましょう。誤解されそうなので躊躇してたんですが──」

 光瑞はひとつ大きく息を吸いこむと、隣の美しい少女を目で示して言った。

「実は事件のあった晩、私はこの秘書とともに、この会館の書斎におりました。そこで二人して香水をつくっておったんです」

「書斎で香水じゃと?」

「信じられないのもごもっともですが、嘘ではございません。花びらをピンセットでラードの上にならべ、花の匂いをラードにうつし、蒸留しておったのです。お望みでしたら、もっと詳しく述べますが」

「いや、けっこうじゃ。秘書さん、たしかですな?」

「はい」

 若い娘の目に嘘はないようだった。

「イザナギはん、私は犯人とちがいます。私は僧侶です。人を殺めるわけがありません」

「そうだ。動機だってない。面識のない善良な日本人主婦を殺して、猊下にとってなんの得がある」

 田中少佐が横から口を挟んだ。

「わしをひどい目にあわせた大谷光瑞のいうことを、簡単に信じられるか」

 イザナギは光瑞だけを見つめていった。

「汝はわしを蜘蛛に変えた。それができるなら、人を操って殺すぐらいわけないはずじゃ」

「それはちがいます、イザナギはん。あなたに色々と失礼なことをしたのは、このとおり、お詫びします。しかし蜘蛛の件は、あれは・・・・・・私の意志ではありません」

「今さら何をいう」

「言い逃れとちがいます。わかってください」

 光瑞はにわかに訴えるような目をした。その目にはイザナギにだけわかる特別な光があった。あれはアマテラス・・・・・・? やはりアマテラスはスサノオのいうように大谷光瑞にのりうつっている──? すぐにも確認したかったが、イザナギはあえて光瑞に対する態度を変えずにいった。

「汝は妖しい術を操る。池津の家を一晩で池に変えたのも、汝じゃろ。池津隆が真犯人を知ったので消したんじゃろう? それをわしがやったように見せかけおって」

「そう思われても仕方ありませんが、あれは私ではないのです」

 その瞬間、地響きのような音がして、床が揺れ、膳や皿がカタカタと鳴りだした。と、大広間の一隅の床がひび割れだし、ドリルでも走らせたように一直線、溝が走り、角にくると曲がって、またたく間に部屋を一周した。揺れがおさまり、気づいたら大広間の外縁は幅一メートルほどの堀に囲まれていた。実際どこから湧きだしたのか、穴には水が満々とたたえられていたのである。

 これには並みいる軍人たちも、さすがのマヌエラも肝をつぶし、声もでないようすだった。

「いったい何事じゃ」イザナギが立ち上がって溝に近づいて、

「これでも汝のしわざではないというのか?」

 光瑞に目をすえた。すると、いったん収まった揺れがふたたび始まり、部屋の隅に黒い靄のようなものが立ちこめ、声がした。

「また蜘蛛に変えられたいのかい?」

 光瑞の声ではない。低いしゃがれた女の声だった。見ると靄のなかから、ひとりの女の姿があらわれた。

「・・・・・・イザナミ!」

 イザナギは叫んだ。靄が薄れた。女は日本の着物をまとい、その手にひとりの男を抱えていた。

「・・・・・・彦!」

 イザナギは目を驚かした。ピックだった。うしろからイザナミに腕をまわされ、喉元に刃をあてられている。

「これはどういうことじゃ。イザナミ、わけを話してくれ」

「捜査から手を引かないと、こいつを殺す。わかったら、とっとと失せな。私は本気だよ。あんたとちがって上海でも神通力を使えるんだ。また蜘蛛にされたい?」

「どうして・・・・・・イザナミ、まさかおまえが犯人なのか?」

「私を犯人呼ばわりするとは、相変わらずひどい男だねえ」

「だっておまえは──」

「昔あんたに離縁を切り出されたとき、たしかに私は怒って『あんたの国の人間を毎日千人ずつ殺す』といった。だからってそれを本気にしたの。私とやり直したいといったのは、やっぱり嘘だったんだね」

「嘘ではない。わしはおまえを信じる。しかし犯人がそこの光瑞でもないとすれば、いったい誰なのじゃ」

「あんたの目は節穴だよ。池津家の隣に正体不明の隣人が住んでいたのを知らないとは。月の半分ほどしか帰らないが、いったん帰ると家からほとんど出ない。近所との付き合いがなく、気味悪がられている人間がいるのを」

「播磨とかいう英国人の差配のことか?」

「外人の名前を日本名に変えるのが好きね。その人はハリー・マンソンとは別の人間よ。ハリーの友人みたいだけどね」

「なぜ詳しいんじゃ」

「あんたが知らなすぎるのよ。まだ帰らないの?」

 イザナミは今にもピックの喉を切りそうに刃をあてた。

「やめろ、わかった、帰る。じゃが信じてくれ。わしはおまえを愛しておる」

「なにが愛してるよ。そんな女と仲良くしくさって」

 イザナミはマヌエラを睨んで、ヒステリーを起こしたように叫んだ。

「さっさと帰りやがれっ」

 マヌエラはかろうじで自分を抑え、

「悔しいけど、ここは従ったほうが賢明ね」

 とイザナギに耳打ちした。

「私たちは彼女に逆らえないのです。申しわけありませんが、今夜のところはお引き取りください」

 光瑞がイザナギを見つめていった。その目には悲しげな光があった。大谷光瑞にはなんとも不似合いな目だった。


 時刻はさかのぼって同じ日の夕刻、宋子文が襲われた。

 市街ではその日、激しい抗日デモが行われていた。子文が家にむかっているとき、デモの一団はフランス租界の子文邸に近い日本大使館邸前を歩いていた。それを知らずに通りかかった子文の自動車はたちまち群衆にかこまれ、窓ガラスをぶち壊された。

「私は国民政府の宋子文だ。勘ちがいしないでくれ」

 今にも引きずりだされそうになった子文が夢中で叫ぶと、

「そっちこそ勘ちがいするな」

 だれかが訛りのある上海語でいった。

「お前だから襲ったのがわからないのか」

 子文は耳を疑った。また杜月笙のしわざかと思ったが一瞬後、そうではないことがわかった。

 群衆のあいだから見覚えのある女が顔をのぞかせたのである。薄汚れた旗袍を着ていたが、それは忘れもしないイザナミの顔だった。

「か、母さん・・・・・・」

 スサノオは思わず子文になっていることを忘れて口走った。するとイザナミは割れた窓に顔を近づけた。イザナミはスサノオに気づいている。しかしその顔は氷のようだった。母は息子との再会に心を奪われたようすもなく冷たくいった。

「捜査から手をひけと、おまえからも父さんにいってくれ」

 父さんとはイザナギのことにちがいない。

「母さん、なぜこんなことを」

「今はいえない。頼んだよ、スサ──」

 声は途中で途切れた。

「母さん!」

 イザナミは群衆に押しのけられ、見えなくなった。

「母さんがあんなことをいうなんて、おかしい。きっと大谷光瑞に操られているんだ」

 スサノオの心は怒りでふくれあがった。

「くそ」

 いった瞬間、ずっと眠らせていたスサノオの本性が目覚めた。

「久々に暴れたくなったぜ」

 子文は割れた窓ガラスから飛び出した。拾った礫で群集を追い散らすと、素手で自動車を邸まで移動させ、驚く子どもを無視して叫んだ。

「光瑞の野郎、ただじゃおかねえぞっ」


 イザナギはその晩、密勒路に行き、池津家の隣人を調べた。その結果、イザナミのいっていたとおり、隣家に得体の知れない住人がいたことを知った。

 その住人は、その家を借りている中国人家族から屋根裏部屋を又借りして、月の半分だけ住んでいて、その間ほとんど引きこもっていたという。

 中国人の女中によると、差配のハリー・マンソンとだけは付き合いがあったようで、月に最低一度は男を訪問していたという。そういえば、二人が池津邸の方の壁をにらんで、なにやらささやきあっているのを見たことがあるともいった。

 その男は白人で、異常なことに家ではかつらをかぶり、外出する時にはそれを外して坊主になり、付け髭と数珠をぶらさげていたという。

「そいつは、まさに容疑者じゃ。で、今その男はどこかに出かけておるのか?」

「それが、ついこの間部屋を引き払ったようで。行き先はわかりません」

「それは残念じゃな。英語をしゃべってたとのことじゃが、そやつはイギリス人か。訛りはあったか?」

「英語はわかりませんが、スティーブンと名のっていました」

「それは英語の名じゃな。しかし偽名かもしれん」

 女中は問題の屋根裏部屋に入らせてくれた。手がかりとなるようなものは残されていなかったが、イザナギは壁を嗅ぐように撫でまわすと、にわかに目を輝かせて、

「真犯人がわかったぞ! 壁がここにいた人間を見せてくれた。スティーブンはやっぱり偽名じゃ。わしの知ってる人間じゃった」

 ひとり興奮していったが、落ちつきをとり戻すと、

「相手は手ごわい。犯人として追いつめるには証拠が必要じゃ。まずはこの部屋の壁ともう一度話をして、犯人の過去の動きをきくことじゃ。その情報をもとに播磨にゆさぶりをかけて、探りを入れるか」

 そのあとイザナギは播磨ことハリー・マンソンの家に行き、問題の男がイザナギの思った人間にちがいないことを確認した。さらにいくつかの情報を仕入れ、犯人の当日の動きにある程度の見当をつけた。

 それからまっすぐフランス租界のアパートに帰宅した。もう深夜だったが、イザナギはいきなり部屋じゅうをひっくり返しだした。絨毯から家具からなにもかもである。そして片っ端から物を撫で、なにやら問いかけ、かぶりをふるのだった。一晩中そんなことをしていたが、

「あった、あったぞ!」

 明け方近く、歓喜の叫びをあげた。

「やっとみつけたわい」

 イザナギの手にはナイフがあった。それは玄関の靴箱の板のなかに挟まれていた。

「こんなところに隠しておったか。──うむ、これは遺体の刃型と一致する」

 そういうとイザナギは覚えたての電話を使ってティンクラーを呼びよせた。

 ティンクラーは話をきくと、早朝にもかかわらず、血相を変えてとんできた。

「犯人がピックってのは本当すか?」

「いかにも。これが証拠じゃ」

 ナイフを見たティンクラーはいった。

「本当かよ。あいつが誘拐されたっていうのは自作自演か」

「わしらの目を欺くために、やったのじゃ。光瑞を犯人に仕立てあげるにも有効じゃった」

「みごと騙されたな」

「さすが芸人じゃ。イザナミに刃物をつきつけられている時の顔など迫真の演技じゃった」

「まったく、詐欺師だとわかってたのに一杯くわされたぜ。凶器を隠してるアパートを先生に貸すとは思わないしなあ」

「灯台下暗しで盲点になるとでも思ったのじゃろう」

「しかしピックがなぜ池津由美を? 動機がまったくわからねえ。それにどこで殺し、どうやって池津家の寝室から布団を運びだし、死体をどう布団に縫いつけて『アルカディア』のステージに出したんだ?」

「全貌はまだつかめておらん」

「それだと勝てねえな。凶器だけじゃ、いい逃れできる。あいつを追いこむんなら、いま俺がいった疑問を解決しなきゃなんねえっすよ」

「わしもそう思ってる。これまで大谷光瑞と思いこんでたぶん、頭を切り替えて──」

 イザナギはそこまでいうとハッとなって、

「そうじゃ、光瑞といえばスサノオに知らせねば。もう光瑞を攻撃する必要はなくなったと。姉さんを敵にまわさなくてもよくなったと知れば、ほっとするじゃろう」

 そういっていきなり外に飛び出していった。

「おい先生、どこに行く。スサノオってなんのことだよ」

 ティンクラーは追いかけた。


 その日の朝、大谷実験村の人びとは目をむいた。

 一夜のうちに、すべての田の畔が壊れ、すべての溝が埋められていた。

 誰がやったのかと大騒ぎになった。夜中に匪賊が大勢できて荒らしたにしては、作物がひとつも盗まれていなかった。犯人の目的も正体もわからないだけに、みな、戦々恐々とした。

 大谷光瑞も驚いたようすで、その日は朝の祈祷にいつも以上に熱が入った。

 そのさまを秘かに見て嘲笑をうかべたのはスサノオの宋子文。

「ケッ、好きなだけ祈るがいいぜ。仏様が助けてくれるかな?」

 実は、田んぼ荒らしの犯人は、このスサノオだった。村人が寝静まってるうちに破壊しつくしてしまったのだった。

「国民政府の役人の皮をかぶった俺がやったとは、誰も想像しねえだろうな。ふふ、いい気味だぜ。神様は容赦しねえぞ」

 木魚を叩く光瑞と首を垂れる信者の背中を眺めながら、子文はその場にこっそり糞をした。

 人びとが異臭に顔をしかめてふりかえったときには、スサノオの姿はすでになく、まき散らされた糞だけが畳に残されていた。

「これは・・・・・・」光瑞は血の気を引かせた。

「ただごとではない。曲者が殿内に侵入した。誰か姿を見た者はないか?」

 答える者はなかった。

 光瑞は不安を抱えつつ機殿にむかった。秘書といっしょに機織り娘たちの仕事ぶりを見て回るのを朝の日課としていた。

「光瑞坊主め、鼻の下のばしやがって。あれに姉さんがのりうつっているとは信じたくねえ。でも機織りといえば姉さんなんだよな」

 スサノオの子文は独り言をいった。金縁の眼鏡を機殿の穴にあてて覗き見している。

「あの秘書、機織り娘出身なのか。いやに得意げに機織り機を使って指導してるじゃねえか」

 子文は機殿の屋根に穴をあけて、なかを覗いていた。しかも横に馬を一匹侍らせている。

「あれ、宋子文か?」

 ティンクラーが目を丸くしていった。今、大谷実験村に到着したのである。イザナギについて、わけもわからずここまでついてきたのだった。

「見てくださいよ、馬と屋根にいるやつ。宋子文に似てるけど錯覚すかね」

 イザナギは数メートル先の機殿を見上げるなり叫んだ。

「スサノオ!」

 スサノオはそのとき馬の首に腕を回し、悲鳴をあげる暇も与えずに絞め殺していた。

「おい、中止じゃ。アマテラスを攻撃する必要はなくなった」

 スサノオの子文は声に気づいて視線をむけた。

「あ、父さん・・・・・・なに? きこえねえよ。それより喜んでくれ。俺は昔に戻ったぜ。今から天の岩戸を再現してやる」

 そういうと死んだ馬の皮膚を馬鹿力で一気に引き剥がしはじめた。

ティンクラーが目をむいて怒鳴りだした。

「おい、なにやってる」

 刹那、スサノオはひん剥いた馬の皮を穴から落とし入れ、つづけて血の滴る馬の死体をそのなかへ落としこんだ。

 穴の真下には、秘書の娘がいた。その隣に光瑞がいたが、守る暇はなかった。気づいたら皮を剥がれた馬が落下していた。

 織り方を教えていた秘書は、驚きのあまり機織り機に使う板で陰部を突いて死んでしまった。

 機殿は悲鳴で沸きかえった。光瑞は青ざめた顔を屋根の穴にむけた。そこには笑いのとまらない宋子文の顔があった。光瑞はハッとして思わずつぶやいた。

「スサノオ・・・・・・」

「よ、姉ちゃん、久しぶり。驚いたか」

 宋子文が屋根から光瑞を「姉ちゃん」と呼んだのを見て、一同唖然とした。

「降りてきなさい。あんたは人を殺した」

「やだね。そいつが勝手に死んだんだ。それより、みんなに注意しといた方がいいぜ。同じ目にあう人がこれから増えるだろうってな」

「なにが狙い?」

「ただ暴れたくなっただけさ、気がすむまでね」

「昔に戻ったの」

「そうだ。今まで宋子文になりきってたが、本当の俺が蘇ったんだ」

「猊下、どういうことでしょうか。あれは宋子文氏のようですが」

 異変をききつけてやってきた日本人の警備員がいった。

「そこのおっさんも、聞くがいいや」

 宋子文は日本語が話せないはずなのに、達者な日本語が降ってくる。

「俺はこの大谷実験村をぶっつぶす。お次は西本願寺。大谷光瑞はそのうち上海にいられなくなるぜ」

「貴様、宋子文に似てるが別人だな。何者だ?」

 光瑞は警備員を制すると、子文を見上げながら、なにごとかを決意したようにいった。

「あんたは一度暴れだすと、誰にもとめられない。すでに人がひとり亡くなった。私にはその責任をとる必要がある」

「・・・・・・猊下?」

 光瑞は警備員を無視し、つづけた。

「覚悟はしていた。あんたと再会したときから、こんな時がくるだろうと」

「じゃ、光瑞ごと姿を消してくれるな?」

 スサノオが問うと、アマテラスは光瑞の血の気のない顔を縦にふった。そして秘書の死体を後に残し、機殿を出ていった。

「猊下、どちらへ?」

 弟子がとんできて呼びとめる。光瑞はふりかえり、人が変わったような顔をむけていった。

「梯子を用意してくれますか」

 弟子はきょとんとして、

「え、梯子?」

 いったい何に使うんです、といいそうになるのを堪えつつ、梯子を持ってきた。

「そこに立てて」

 光瑞は機殿のそばの、破壊された畦道をさしていった。

「そこ、ですか」

 まわりには田んぼのほか何もない。猊下は秘書を失って脳をおかしくされたのだろうかと、弟子は疑問に思ったが、とりあえずいわれたとおりに土の上に梯子を立てた。

「支えててね」

 光瑞は梯子を一段一段昇りはじめた。すると、

「待て、アマテラス」

 イザナギが飛んできていった。

「天の岩屋に行くつもりか?」

 アマテラスは足をとめ、イザナギを見下ろすと、体が大谷光瑞なのも忘れたように目に親愛の情をあらわしていった。

「・・・・・・父さん」

「ゆくな。ゆく必要はない」

「いいえ、これは私の宿命です。スサノオが暴れだしたからには、私は天の岩屋に入らねばならないのです」

「待て。悪いのはわしじゃ。スサノオに大谷光瑞が諸悪の根源と思わせ、おまえを襲わせた。しかし誤解じゃった。池津由美殺しの真犯人は別人じゃった」

「では真犯人がわかったんですか」

 光瑞はそうはいったが、真犯人が誰だかきこうとはしなかった。

「・・・・・・おまえ、知ってたのか?」

 アマテラスの光瑞はうなずいた。

「そうか。光瑞はもしかして犯人に操られていたのか?」

「それは、お答えできません」

「まあいい、犯人に直接きく。今、天狗がやつを会館まで捕えに行ったでな。もうすぐここに連れてくるじゃろう」

「それなら私はなおのこと、行かねばなりません」

「おい、何をいっておる。おまえに天の岩戸を閉められては困る。人間が暮らしていけなくなる」

 光瑞はもうふりかえらなかった。梯子の最後の一段までのぼりきると、天を仰ぎ見て、虚空に片足をかけ体重をのせようとした。

「早まるな」

 イザナギが叫んだときだった。

「おい待て、ピックの野郎、逃げるな」

 ティンクラーの怒鳴り声が聞こえたかと思うと、ピックとイザナミが走ってきた。二人は手をとりあい、イザナギをつき飛ばして梯子をのぼりだした。

「ちょっと誰、揺れるじゃないの」

 光瑞が上から抗議すると、

「アマテラス、黙りな。母さんのいうことを、きくんだよ」

 下からイザナミが叫んだ。

「なんです、母さん」

 光瑞は足をとめ、脅えたような顔を下にむけた。

「母さんとこの人を天の岩屋に連れていきなさい」

 イザナミはピックを示して厳然といった。

「そんな、無理です。特に人間は絶対に」

「許可は求めてない。おまえはさっさと天への階段を昇るんだよ。後に続くから」

「アマティ、お願いよ」

 ピックが口添えしてウインクした。するとイザナギが光瑞の弟子をどかして梯子をつかみ、

「おい彦! イザナミ! いったいなんの真似じゃ。降りてこい」

 そういって梯子を揺さぶった。

「ちょっと危ないじゃない。これだからイッギーはねえ」

 ピックが軽蔑するようにイザナギを睨みつけた。

「よくも・・・・・・人を欺いた悪人の分際で。ええい、落としてやる」

 イザナギは梯子を全力で揺さぶった。ところが、梯子はどうしたことか途中からビクともしなくなった。いくら力をこめても動かない。

「ふっふ、無力な男だねえ」イザナミが嘲笑った。

「神通力を使えればよかったけど、あいにく私が妨害してるからね」

「なに? わしが神通力を使えないのは、おまえのせいじゃったのか」

「あんたが上海にきたと聞いたとき、私の生活の邪魔をされたくないと思って、あんたの神通力を妨害するまじないをかけたのさ。一度じゃ効かないから何度かに分けてね。完璧には効かないけど、八割はあんたの力を奪えてるよ」

「そうじゃったのか・・・・・・」

 イザナギはショックを受けたようすで急に元気を失った。

「何も知らずに上海で私を探してたとは、まったくおめでたいよ」

「イザナミ・・・・・・なぜわしを敵視するのじゃ」

 イザナミはもはやふりかえらず、ピックの手をとり、アマテラスの背中を押して梯子から足を離し、目には見えない天への階段を昇っていく。

「待て、彦、汝だけは許されん」

 イザナギは無人になった梯子を昇り、天の階段にのぼろうと一か八か虚空に足をのばしたが、地上に落ちただけだった。

「くそう、アマテラス、彦を降ろすのじゃ。アマテラス、降りてこい。光瑞の体のまま行くことはなかろう。おい、父さんを裏切るのか」

「猊下、猊下・・・・・・」

 弟子が叫ぶ。

 三人の姿は上空にあがり、しだいに薄れ、ついに完全に消えた。

 するとにわかに天地が暗くなった。太陽はどこにいったのか、消えている。

「Oh, My God!」闇のなかからティンクラーの叫び声が聞こえた。

「こりゃいったい・・・・・・まだ朝の八時だよな。なんで急に真っ暗になったんだよ」

 さすがのイザナギも青ざめていった。

「これは大変なことになった・・・・・・」

 太陽が上海の空から消えた。

 大谷実験村の信者たちは、猊下といっしょに太陽が消えたというので恐れおののき、祈祷をはじめた。だが効果はなかった。

 午前九時、正午、午後三時・・・・・・太陽はいつまでたっても出てこない。

 上海じゅうの人が暗い空を見上げ、わめき騒いだ。

 世界の終わりかというに、同じ中国でも他の場所は明るいという。

上海の空だけ、太陽は翌朝になっても昇らなかった。夜はいつまでも続いた。上海人の不安と恐怖はピークに達した。街は大混乱。一日中電灯が必要な生活で、たださえ犯罪の多い上海で犯罪が激増。

 そのため英米仏日の列国は自国の居留民の保護を名目に軍を出動させた。黄浦江には各国の軍艦が続々と停泊し、物々しい雰囲気となった。

 上海は呪われている、ということになり、移動する人が後を絶たない。

 上海を救え、と中国の優秀な気象学者、天文学者が解明にあたっているが、なんら原因を見つけられていない。

 日本軍も独自に研究した。彼らは十二月十三日、太陽が消えた時刻と大谷光瑞が失踪した時刻が、ほぼ一致することに注目した。

 目撃者である光瑞の弟子によると、光瑞はキャプテン・ピックおよびイザナミを自称する女と梯子をのぼり、そのまま虚空に消えたという。

 とうてい信じがたい話であり、光瑞の弟子の精神状態が疑われたが、現に太陽が消えるという信じがたいことが起きている。

 日本軍はまず、光瑞の失踪前にあったという事件に目をとめた。

 当時実験村には予期せぬ闖入者が三人いたという。一人は国民政府財政部長の宋子文、もう一人はイザナギ、それと英人警官ティンクラーである。

 宋子文は機殿に馬の死骸をおとし入れ、光瑞の秘書を驚かして死なせた。ちなみに日本軍が後から国民政府に潜入しているスパイに探らせたところ、子文は実験村にいたことを否定している。

 しかし目撃者によると、イザナギは機殿の屋根の上にいた子文に親しげに「スサノオ」と呼びかけていた。また光瑞が梯子をのぼっているとき、「アマテラス、降りてこい。父さんを裏切るのか」といっていたという。

 この話をきいて日本軍人たちは日本神話を連想せずにはいられなかった。アマテラスがスサノオの乱暴を嫌って、天の岩屋に入り、岩戸を閉じてこもってしまい、そのため国中が常闇になって夜昼の区別もなくなった、というあれである。

 もっともイザナギが光瑞をアマテラスと呼んだとはいえ、大谷光瑞が天照大神なわけがないし、宋子文がスサノオなわけがない。それにいくら常闇が現実化しているといえども、日本神話がこの近代上海を舞台に現実化したとは考えられない。

 そこで日本軍人たちは、こんなふうにこじつけた。

 イザナギは中国側に懐柔され指嗾されて、日本軍および在留邦人を混乱に陥れるために、その特殊能力を活用して常闇を現出したのである、と。

 それはそれで荒唐無稽な見解だった。しかしイザナギをスケープ・ゴートにするにはじゅうぶんだった。

『六三亭』で「わしは戦には大反対じゃ。汝ら肝に銘じとけよ」と発言したイザナギを、タカ派の軍人たちは反戦派の危険分子とみなしていた。常闇に乗じて上海侵攻を決行せんと企てていた彼らは、この機会にイザナギを一挙に葬り去ろうと考え、

「裏切り者イザナギを追及せよ」

 と人びとを先導した。在留邦人たちはのせられて、光を浴びられない不満をイザナギにむけだした。

「イザナギさん、太陽を消したのはあなただという噂がありますが、どう思われますか」

 新聞記者たちがどこで聞きつけたか、フランス租界の仮住まいを見つけだしてイザナギが出てくると質問をあびせた。

「見当違いじゃよ」

「しかしあなたは伊耶那岐の命を自称しています。その名の通り、あなたは特殊な力を使えるという話ですが?」

「汝らは日本神話を信じるか」

「ええ、日本国民ですので」

「それなら、こういっても信じるか。わしとイザナミのほかに、この上海に降りた神がおった。アマテラスとスサノオじゃ。アマテラスは最初宋美齢に、その後大谷光瑞に、スサノオは宋子文にとりついておった。あの日、天地が闇に落ちたのは、天の岩戸の神話が再現されたからじゃと」

「それは・・・・・・かなり突飛なお話ですが、おっしゃる根拠は?」

「やっぱり信じられんのじゃな。しかし荒唐無稽に聞こえようとも事実じゃ。あの日、宋子文にとりついているスサノオが、アマテラスの光瑞に悪さをしたので、アマテラスがそれを嫌い、光瑞にとりついた体のまま天に逃げたのじゃ」

「地上を照らす神が隠れたゆえに、上海が真っ暗になったと?」

「そのとおり。しかし今回は天の岩屋に閉じこもったのはアマテラスだけではない。イザナミと彦もおる」

「キャプテン・ピックが? たしかお宅の秘書でしたが、なぜ?」

「今はもう秘書ではない。まだ発表しておらんかったが、彦は池津由美事件の真犯人じゃ」

「え、それは本当でしょうか。ピックが犯人という根拠は?」

「いまだ動機と殺人方法は謎じゃが、凶器が発見された。証人もおる。ピックはわしらの捜査の目をそらすため、イザナミの力を利用して別の人間を犯人と思わせていた。そしていよいよ正体がばれると、アマテラスの背中をおして、イザナミと天界に逃げたのじゃ」

「天界とは何かの比喩でしょうか。具体的にはどこのことですか?」

「天界は天界じゃ。信じた方が得じゃぞ。上海に光を戻したいのならばな」

「それはどういうことでしょうか。イザナギさんは上海に光を戻す方法ををご存じだと?」

「そうじゃなあ、上海に闇が落ちて以来考えておったが、やっぱりあの方法が一番じゃろう」

「どんな方法ですか? 教えてください」

「汝らは日本神話を信じるのじゃろ。それなら、おのずと思いつくはずじゃ。日本書記の天の岩戸のくだりに曰く、『八十万の神、天安河辺に会合ひて、其の祈るべき方を計らふ』と」

「つまり、八十万の神々が集まって御祈祷し、天宇受買(アメノウズメ)の命が踊って、天照大神の気を引いて天の岩戸を開けるようにしむける、ということをおっしゃってるのですか」

「そうじゃ。天の岩戸のくだりを再現することじゃ」

「しかし八十万の神々が上海にいるとは思えませんが?」

「わしの考えでは人間でも代わりは務まる。もっとも誰でもいいとは限らん。池津由美の死体を目撃した者どもが最も適任じゃ」

「事件発覚当時、『アルカディア』にいたメンバーのことでしょうか。彼らが八十万の神々の代わりになると?」

「わしが手を握ったからじゃ。事件直後にな。あのときわしはまだ上海に降りたばかりで人間と言葉を交わせるとは思っとらんでな。なにかのときに誰とも口をきけんでは困るから、わしは彼らの手をにぎり、声を出さずに天にこう告げた。この者どもをわしが上海にいる間、日本の神として登録する、と。あのころはまだわしの神通力は生きておったから可能じゃった」

「あなたが手を握ったら彼らが日本の神として天に認められたと?」

「そうじゃ。もっとも特別な力は何も与えとらん。ただわしと会話できるようにしただけじゃ。それでも神として登録されとるから、天の岩戸を再現するには適任じゃ」

「・・・・・・仮にそうだとしてもですね、現在彼らのほとんどは上海を離れています。常闇ではビジネスをしにくいというのでサッスーン氏は天津に、杜月笙氏は香港にいますが」

「じゃから新聞で呼びかける。実はそのために外に顔を出したのじゃ。よいか、こう書いてくれよ──、

『佐助、杜月笙、みな上海に戻れ。汝たちが必要じゃ。

マヌエラの誕生会をいつかやり直そうといったのを覚えておるな。

それを明後日の正午、パブリック・ガーデンで行うことにした。

野外じゃが電球で明るくし、マヌエラのダンスも見られる。

特別な贈り物はいらん。参加してくれればいいのじゃ。では待っておるぞ』」

 この記事を読んだ在留邦人はいい顔をしなかった。イザナギを悪者と決めつけていたこともあり、口々に批判した──、

「天の岩戸の再現だ? やつの存在と同じくらい荒唐無稽だ。秘書のピックが池津由美殺しの犯人だったんで、逃亡中なのを誤魔化してるだけだろ」

「杜月笙の力を借りようとはイザナギが中国側についてる証拠だ」

「パーティー参加を新聞で呼びかけるとは、なんのつもりだ。マヌエラもマヌエラだ。各国の軍艦が上海に集結しているこの非常時に毛唐に媚びようとは言語道断」

「イザナギは大和民族の恥」

 それでも問題の日の正午、こっそりパブリック・ガーデンを覗きにいった在留邦人は少なくなかった。イザナギはマヌエラの誕生日を祝い直すという名目のもと、毛唐を集めて奇跡を起こすかもしれない、と、虫がいいようだが、ひそかに期待したのである。

 相変わらず正午なのに夜のままだった。パブリック・ガーデンは黄浦江と蘇州河の合流地点にできた公園で、陽のある日はのんびりくつろぐ白人家族の姿が見うけられる、快い風と光と汽笛の音に満ちた場所であった。

 しかし今は暗い上に埠頭の物々しい雰囲気が伝わってくる。

 日本の軍艦と偵察機が午前四時から黄浦江上を警戒して動きまわっていた。

今日、日本軍には密命が下っていた。二人の人間の上陸を阻止せよ、というのである。一人は香港、一人は天津から船または飛行機に乗ってくるとされていた。

 日本特務は埠頭と飛行場に分散し、香港または天津経由の船および飛行機から降りる人間に目を光らせている。

 また沿岸にはいつでも出動できるよう一個中隊が闇に隠れて控えていた。

 しかし一般在留邦人には知らされていない。パブリック・ガーデンにつめかけた人たちはバンドはむしろふだんより明るい雰囲気だと感じていた。

 今日はなぜか、いつもは午後六時以降にならないとスイッチが入らない洋館群が正午だというのにすべてライトアップされている。

 なにより公園周辺には凄い人だかりができていた。まるで大花火大会の人出のよう。日本人だけでなく、あらゆる人種がいた。みな各国語の新聞でイザナギの記事を読み、在留邦人と同じことを期待してきたのである。人びとは目を輝かせてパブリック・ガーデンの音楽堂をみつめ、これから起きることをわくわくして待っている。

 音楽堂は電球にかこまれて煌々としている。しかし──、舞台はガランとしていた。

「先生、ギャラリーがすごいってのに参りましたね」

 ティンクラーが舞台裏でイザナギにこぼした。

「肝心の人らが誰もきてねえたあ」

 すると衣装準備中のマヌエラの声がテントから飛んできた。

「失礼ね、私はきてるわよ」

「あ、マヌエラさん、失礼しやした」

「いいのよ。私はただイザナギさんがせっかく準備してくれたのにムダになると思うと心苦しくて。やっぱり日本軍が邪魔してるの?」

「警察情報によると、軍艦と偵察機だけでなしに一個中隊まできてるってことですよ」

「サッスーンと杜月笙の上陸を阻止するためだけに? やりすぎじゃない。二人がきたくても、それじゃ上海に入れない」

「杜月笙の船は黄浦江まできたら、艀とうまく連絡をとってこっそり上陸できるかもしれねえが、サッスーンは飛行船でくるから目立ちすぎる」

「二人ともこぬか。連中が邪魔しとるか」

「連中ってのは、イザナギ不支持派の軍人たち──大谷光瑞を応援してたやつらっすよね」

「そうじゃ。中心人物はおそらく『六三亭』でわしにいい顔をしなかった田中隆吉少佐。やつらは常闇に乗じて上海を一挙に侵攻せんがため、上海に太陽を戻すのを阻止するつもりなのじゃ」

「くそ、俺に力があったら、英国軍でも動かして日本軍をどかすんだけどな。って日英戦争になっちゃうか」

 そのとき誰かが舞台裏に息せき切ってやってきた。日本語の新聞記者の腕章を見たティンクラーは一瞬で、

「取材ならお断りだぜ」

 とはねのけたが、その男の腕の下から鳥の鳴き声と羽音が聞こえたのに耳をとめると、ふりかえって目を笑わせ、

「おっ、林じゃねえか」

 といって、うれしそうに腕を相手の肩にまわした。

「いやあ、遅くなりました」

 今夜の招待客の一人、『アルカディア』にいたマヌエラファンの記者、林弘明は息を弾ませていった。

「適当な長鳴鳥(ながなきどり)がなかなか見つからなかったもので」

「ナクドナルド?」

 林は籠の鳥を示して、

「これのことですよ。日本語で鶏の異名です。鳴き声の長い東天紅、上海で飼っている所を見つけたはいいですが、使用目的をいってもなかなか信じてもらえず、許可をとるのに骨が折れました」

「金がかかっただろう。ご苦労だったな」

「林さん、私のプレゼントに鶏を持ってきてくれたの?」

 テントの声にイザナギがいう。

「ちがうんじゃ、マヌエラ」

「ま、一種のプレゼントですよ。ところで──」

 林はその場にいる顔を見わたしていった。

「やっぱり、これだけしか集まりませんか」

「しょうがねえよ」

 集合時間からもう四十分過ぎていた。そのとき、

「もうひとり、います」

 声がした。ふりかえると、いつのまに長身の背広を着た日本人がきていた。

「里見さん」

「遅れて申し訳ありません」

「きてくれて感激っす。例の文章、暗記するのに時間がかかりましたか」

「いえ、日本軍の様子を見てたものですから。イザナギさん、もう時間がありません。兵がこっちにむかっています」

「なんじゃと」

「日本軍は杜の船とサッスーンの乗った飛行船が上海にむかったという情報を入手し、埠頭と飛行場を見張ってましたが、両者が上海に到着したはずの時間を一時間以上過ぎても肝心の人物を発見できていない。それで二人が闇に乗じ日本軍の目を盗んでパブリック・ガーデンに入ったのではないかと疑いはじめ、こちらに押しかけてくることになったのです」

「それは大変じゃ。いつくる」

「もうすぐきます。時間がありません。日本軍に邪魔される前にこれだけのメンバーではじめるしかありません。日本軍も太陽が出たら暴走行為を慎む可能性があります」

「よし、はじめよう」

「しかしこの人数だけではじめて太陽が出なかったら? いたずらに日本軍の餌食になりますが」

 林記者がいった。

「いやなら、逃げるがよい」

 イザナギは決意を示し、マヌエラを呼んだ。マヌエラがテントから出ようとした瞬間だった。

 ザッ、ザッ、ザッという大勢の軍靴の音が近づいてきて──、

 いきなり悲鳴と銃声がきこえた。

 見ると、公園に軍隊が踏みこんでギャラリーを蹴散らしていた。反発して石を投げた中国人は撃たれた。人びとは悲鳴をあげて逃げまどう。日本人も惨劇に巻きこまれた。居留民を守るはずの日本陸戦隊がわき目もふらず、音楽堂を目指して進軍してくるのだ。

「ヤバいっすよ」

「仕方ありません、今回は中止しましょう。マヌエラを危険にさらすわけにはいかない」

「私なら心配いらないのに・・・・・・あ、これは本当ヤバいかも」

 無数の銃剣がむかってくる。中心には田中隆吉がいた。その隣には日本人警官。

「一旦逃げよう、急げ」

 ティンクラーがいい、一行は安全な場所に避難しようと走りだした。

「待て」

 イザナギがいった。

「わしが止める」

 イザナギは迫りつつある田中の軍隊に両手をかざし、全身の神経をそこに集めてパワーを送らんとした。

「うう・・・・・・」

 軍隊が影響をうけた様子はなかった。着実に近づいてくる。

「先生、神通力は無理だ。行こう」

「いや、わしはあきらめん。今でも神通力が使える時はある」

 二人が揉めている間に日本軍は音楽堂を包囲した。田中が合図すると、日本警官が口を開いた。

「全員、止まれ。貴様たち全員、池津由美事件の殺人容疑者として拘束する」

「な、なんだと? 今ごろ、よくもそんなことが。口実に事欠いて──おまえ租界警官だろ、どこの署だ?」

 ティンクラーは目をむいたが、日本人警官は冷酷そうな顔をびくとも動かさずにいった。

「全員抵抗をやめよ」

「断る」

 イザナギはきっぱりといった。すると田中が痺れをきらし、腕をふりたてて号令をかけた。

「突撃ーッ」

 一個中隊が呼応して音楽堂にむかって突撃を開始した。

「ヤーッ」

 刹那、銃剣を構えて突っこんでくる兵士たちが大砲をぶっ放されたみたいに、いっぺんに弾き飛ばされた。

 気づいたら、田中をはじめ一個中隊は全員大地に折り重なって倒れている。

 黄浦江上では日本の軍艦が沈没をはじめていた。偵察機は上海から遠ざかっていった。

「いったいなにが・・・・・・?」

 マヌエラファンはわけがわからず、目を白黒させた。

「もう邪魔させねえぞ」

 声がきこえた。

 いつのまにか、倒れた軍隊のうしろには一人の男が立っていた。

男は虚空にかかげた両手をおろし、肩で息をしていた。日本軍の軍服を着、金色の丸縁眼鏡をかけている。手に武器はなかったが、音楽堂の一行は全員かまえた。

男は音楽堂に近づいてきて、

「みんな、俺は味方だ。田中の中隊は俺が倒した」

 と、いった。その顔をみて、

「・・・・・・甘粕大尉」

 里見がいった。

「アマカス? 日本軍人が、なぜ」

 甘粕はティンクラーには見むきもせず、イザナギにいった。

「父さん、僕ですよ。僕が父さんの邪魔するやつらを蹴散らしてやったんです。軍艦も沈めましたし、飛行場付近で飛行船の邪魔をしていた偵察機も排除しましたので、もう安心です」

「スサノオ、おまえなのか? しかし宋子文にとりついておったはずじゃ──」

「宋子文の姿で日本軍を攻撃すると、中国側が戦争をしかけたと誤解され多数の犠牲者がでますから甘粕に変えたんです。日本軍人の姿なら内輪もめとして、もみ消されるだろうと思いまして。甘粕大尉にしたのは筋金入りの天皇崇拝主義者だから親しみを感じて」

「助かった」

 イザナギはそういって甘粕の肩を叩いた。

「イザナギさん、どういうことですか」林記者が口をはさんだ。

「甘粕大尉をスサノオと呼んだようですが」

「その話は長くなるから後で。先に儀式じゃ。なあスサノオ」

「僕からのお土産はあそこに用意しておきました」

 甘粕は音楽堂の脇を示した。そこにはいつのまにか、榊の木が寝かせられてあった。

「根こそぎとってきましたよ」

「むむ、あれは立派な──。スサノオ、父さんはおまえを誇りに思うぞ」

 甘粕の顔に照れたような笑みがうかんだ。

「僕はまだ、あっちでやることがありますので」

 振り返ると、スサノオの甘粕はすでに姿を消していた。

「おい、スサノオ!」

 そのとき、黒塗りの自動車が二台、音楽堂前に停まった。それぞれ運転手が後部座席の扉を開いた。降りてきた人間をみて、一同は目をみひらき、歓声をあげた。

「・・・・・・杜先生!」

「よく無事でこられましたね」

「なぜか甘粕大尉が手助けして道を切り開いてくれましたので。あれ、甘粕大尉は? ここにいると思ったのに」

「わしにもわからん」

「ところで儀式はまだはじめていませんね?」

 杜は音楽堂に駆け足でのぼるなりいった。

「ええ、これからです」林が答えた。

「もう少ししたらサッスーン氏が到着するでしょう。出番までには間に合うはずです」

「じゃあ、早くはじめてください。さっきの日本軍の攻撃をうけて、抗日団体が騒ぎだしています。イザナギ先生は日本軍の仲間だと思われたらしく標的になる恐れが」

「そりゃまずい。急がねえと」

「一難去ってまた一難か。みんな日光不足で不満がたまってますからね」

「しかしわしらは心をあわせて困難に立ちむかう。よいな?」

 イザナギがいうと、一同は目に力をこめて、うなずいた。

「では、はじめてくれい」

「よし、みんな手伝ってくれ」

 ティンクラーが榊の木を示して呼びかけた。男たちが集まった。

「私の出番はまだ?」

 マヌエラがテントからいった。

「もうちょっと待っててくれ。いまみんなで仕上げをする」

 男たちは榊の木を立たせ、イザナギが支え持つ。

「木に飾りをつけるなんて故郷のクリスマス以来だぜ」

 ティンクラーはそういって持参の鏡を榊の枝につるした。

「あとはみんな順番に」

 上の枝には里見甫が持参した勾玉の玉の緒をかけ、下の枝には杜月笙が麻や楮の皮のさらしたのを下げた。

 ひととおり飾りがつくと、みなでかがり火を焚いた。それから、

「林弘明、音を」

 イザナギがいうと、林記者が東天紅三羽を籠から出し、たがいに長鳴きをさせた。

 イザナギはうなずき、つづいて里見に合図を送った。

 里見は榊の木の前で頭を下げ、荘重な祝詞を唱えた。それが終わるとマヌエラがテントから出てきた。

「やっと私の出番ね」

 マヌエラはこの寒いというのに、ほとんど裸だった。まさにアメノウズメさながら、日影蔓をたすきにかけ、真拆の葛を頭飾りにし、笹の葉を束ねて手に持ち、桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りになったように踊りはじめた。

 男たちは盛りあがって、手拍子をとる。イザナギだけは冷静に榊の木を支え持っていた。

 するとマヌエラが踊りながら裳の紐を陰部に垂らした。それを見てイザナギはハッとしたが、ほかの男たちはどっと笑いだした。その声は天まで届かんばかりに鳴りひびいた。と、

「見よ」

 イザナギが天を指して叫んだ。

 暗黒の空に仄赤い入道雲のようなものが、うっすら浮かびあがり、徐々に赤い色が濃くなり赤黒くなっているのが見えた。

「天の岩戸じゃ・・・・・・」

 イザナギがいったが、マヌエラは足を踏み鳴らして踊りつづけた。陰部の下に揺れる紐をみて男たちは笑いをおさえきれずにいる。すると、

「うるさいっ」

 声がきこえた。一同は反射的に空を見上げた。その声はまさに上空から降ってきた。

 見ると、イザナギが天の岩戸と呼んだ上空の赤黒い岩のようなものがかすかに動いた。するとその岩と夜空のあいだにわずかな隙間ができて、雲間から太陽がのぞいたときのように、光が差し込んできた。

「おおっ、光。──続けろ、続けろ」

 イザナギがアドバイスし、マヌエラは踊りを続けた。すると岩戸が半分開いた。光が天地を半分照らすとともに、キャプテン・ピックの顔が岩戸の奥から覗き、またしても怒鳴り声が降ってきた。

「うるさいっ! 馬鹿どもが浮かれ騒ぎやがって。いい加減にしろ」

 イザナギはそれを聞くと、なぜか満足げにうなずいて、

「思ったとおりじゃわい」

 そう一人ごちてから、空をみあげ、声を張り上げてピックにいった。

「静かにしてほしかったら、アマテラスを出さんかい」

 すると岩戸のむこうからピックにかわって大谷光瑞が姿を見せ、

「いったい何事なの」

 そういって下を覗きこむようにした。

「おう、アマテラス。大谷光瑞にのりうつったままじゃから妙な感じゃの」

 イザナギがいうと、アマテラスの光瑞は答えていった。

「私が隠れているので下の世界は暗いと思いますのに、どうしてアメノウズメ──いえ、マヌエラは舞い遊び、みんなは笑っているのでしょう」

 ティンクラーが榊につるした大鏡を差し出して光瑞に見せた。光瑞はますます不思議そうな顔をし、体を少し出して下界を見下ろした。

 そのとき上空の南の方から、なにか光るものが近づいてきた。白い魚のような形をしている。飛行船だった。

「おい、見ろ!」ティンクラーが叫んだ。

「サッスーンだ」一同は夜空を見上げて歓声をあげた。

 飛行船の照明が、白地に青の『Sasson』の文字を夜空にうかびあがらせている。

 船体は徐々に天の岩戸に近づき、ついに到達した。

 サッスーンが飛行船の中から姿を見せ、地上にむかって手をふった。

 一同は手をふり返し、口笛を鳴らした。

するとアマテラスの光瑞が驚いて岩戸から身をのり出した。サッスーンはここぞとばかりに手をのばして光瑞の手をとり、岩屋から引き出そうとした。

 刹那、光瑞の体が後退した。

「こいつは戻らない」

 ピックがいった。光瑞の頭に拳銃をあてている。

「なんてことを」目をむくイザナギに、

「こいつは岩屋に残る。私の人生に光をあてると約束するまではね。上海が暗かろうが知ったことか」

「なにをいっておる。汝は池津由美を殺した罪を償わねばならん」

 イザナギは天を見上げて大音声を張り上げた。

「は? 殺したのは私じゃないわよ。凶器を発見したといってたけど、私が使ったんじゃない。証拠もなしに、いいがかりはやめて。容疑者を何回間違えれば気がすむの、ヘボ探偵」

「いや、今度こそ当たっておる。殺人犯は汝じゃ。播磨から聞いたぞ。汝は事件当日の午後四時ごろ、池津家に忍びこみ、窓に干してあった布団を誰も見ていないのを確認してから落とした。下にはトラックの荷台があった。池津家の前に停車していたトラックは布団を受けとめると、発車して郊外の小さな一軒家に移動した。運転手播磨は汝に頼まれ、布団をそこに運び入れた」

「嘘よ、私はそんなこと頼んでない。ハリーがその小さな家で勝手に殺したのよ」

「わしは布団のことしかいってないが、その家で殺しがあったと、なぜわかる?」

「・・・・・・」

「どうした、何もいえんじゃないか」

「私には動機がないわ。第一私には死んだ女を裸にしてエプロンを着せる趣味もなければ、死体を布団に縫いつける趣味もない。私が興味あるのは男の体よ、多少年齢を重ねてるぐらいが趣味」

 ピックはそういって光瑞の体を色っぽい目で眺めたが、イザナギは毅然としていった。

「動機ならはっきりしとる。謎は解けたのじゃ」

ピックは蒼然として、

「それ以上よけいなことをしゃべると、撃つよ」

 引き金に指をかけた。

「ピック、やめるんだ。光瑞が死んでしまう」

 サッスーンが叫んだ。刹那、拳銃がピックの手から落ちた。イザナギは岩戸を見上げた目を見開いていった。

「イザナミ・・・・・・」

 ピックの拳銃を後ろから奪ったのはイザナミだった。その顔が天の岩戸から覗いている。イザナミはピックを光瑞から引き離していった。

「帰りな。ここはあんたのいる場所じゃないよ」

「今さらなにを」

「悪いけど、あんたにはもう付きあえない。アマテラス、悪いけどあんたも行きなさい。イザナギ、今がチャンスだよ」

 イザナミはピックと光瑞の手をとり、岩戸の外へ差し出した。

「ありがとう」

 サッスーンはピックと光瑞の手をとって岩戸から引き出し、飛行船に乗せた。そして岩戸の前に注連縄を引き渡して、

「ここより内へはもう戻らないでください」

 と、お願いした。

 すると天地がふたたび明るくなった。

「光だ、光だ!」

 あちこちで歓喜の声があがった。太陽が一週間ぶりで空にあらわれた。陽光が燦々と降ってくる。上海の街は久しくみなかった光に包まれ、人びとは浮かれ騒いだ。今にも日本人を攻撃せんとしていた抗日団体員も武器を投げだして仲間と抱きあっている。

 マヌエラもはしゃいでアマテラスは呼び戻したというのに、また踊りだし、

「みんな素敵な誕生日プレゼントありがとう!」と叫びつつ、心のなかでいった。

「マヌエラは十月二日生まれということになってるけど、本当の私・山田妙子は今日十二月二十一日生まれだから本当に感激」

 パブリック・ガーデンに横倒しになっていた日本兵も眩しさに意識が戻ったとみえ、目を開けて太陽に気づくと笑顔になった。その体の脇をたくさんの上海市民が通りぬけ、はしゃいだようすで音楽堂に走ってきて、裸踊りをするマヌエラと、イザナギにむかって、

「万歳、万歳!」

 と両手をあげて叫びだした。

 飛行船はパブリック・ガーデンの芝生に着地し、サッスーンがピックと光瑞を連れて出てきた。

 ピックはティンクラーに手錠をはめられて、ひとり周りを恨めしそうに眺めている。

「おいピック、よくも俺たちを騙しやがったな」

 ピックはティンクラーを睨みつけ、

「お門違いよ。私には動機もない。さっき謎が解けたとかイザナギがいってたけどハッタリだったみたいだし、冤罪よ」

「太いやつめ。ハッタリなものか」

「じゃ、いってごらんなさいよ。私の動機って?」

「我々もぜひ聞きたいですね」

 一時は容疑者にされた杜、サッスーン、それに林記者、里見も顔を寄せた。

 イザナギはピックの顔を真っ向から見すえていった。

「汝は子どものころから音楽教育をうけとるな」

「だったら何よ」

「そういう人間はえてして繊細な耳を持つ。並の人間より音に敏感じゃ。つねに美しい音を求めてるゆえ、騒音雑音に対する耐性が低い。一度気に入らぬ音を耳にすると気になって仕方なくなり、我を失って怒りを爆発させることもあろう。ちょうどさっき、汝がわしらを怒鳴りつけたみたいにな」

「それが、殺人事件とどう関係あるのよ」

「池津由美はほぼ毎日布団を干して叩き、大きな音をたてていた。隣人の汝にはそれが耐えられなかった。汝は月の半分は一日中虹口の家にこもり、生活費稼ぎの手品を研究しておったからな。音に敏感な汝は手品のリズムを布団の音に狂わされたこともあったろう。汝は手品がうまくいかないのは音のせいだと思うようになり、池津由美への怒り、恨み、憎悪を募らせた。ある時ついに我慢できなくなり、『復讐』のために池津由美を殺し、死体に恥辱を与えた。じゃな?」

「ちがう」

「いいや、わしは知っておるのじゃぞ。事件当日、汝は池津家に忍び込んで布団をトラックに落としたあと、気づかれずに外に出ると、池津由美に電話をかけた。して『旦那が租界で阿片売買に携わっている』、『その証拠が租界のスペンサー紳士服店にある』等々と吹き込んだ。由美はいわれたとおりにテーラーに行き、夫のものと思われる男のスーツをひったくって出てきた。そこに待ち受けていた汝は、うまいことをいって由美を自動車にひっぱりこみ、郊外の小屋に連れていった。播磨は布団を運びこむという用を済ませていたので、もういなかった。小屋で二人きりになると、汝は由美の喉をナイフで一気にかき切り、呻き声もたてさせずに殺した。それから死体の服を脱がせはじめた。汝がわしに貸してくれたアパートから発見されたナイフが証拠じゃ」

「そんなナイフ、知らないわ。誰かが私をハメたのよ。もし私がやったなら凶器を残しておくわけがないでしょ」

「いいや汝がやったのじゃ。あのナイフはフランスの貴族のものじゃ。苦労して盗んだものゆえ捨てられなかったんじゃろう」

「デタラメよ! 第一私はゲイよ。恋敵でもない女を殺す趣味も、裸にさせる趣味もないんだから」

「いいや、汝が裸にしたのじゃ。楽しむためではなく死者を辱めるためにな。汝は日本人の主婦を毛嫌いしておる。恨みを晴らすためにも裸に割烹着を着せるという屈辱的な格好をさせたかったはずじゃ。じゃから死体を希望通りの格好にさせると、折り曲げて箱に入れ、布団を別の箱に入れ、アルカディアに運んだ。そこには汝が送りこんだ男が従業員として働いておった。ギャング団の手下で坊主頭に髭の中国人じゃ。その男の働きにより、汝の運んだ箱は、たくさんの食糧や酒の箱にまぎれて店内に運びこまれた」

「たいした想像力ですこと」

「想像ではない。別々に運び込まれた布団と死体が、店内でどうやって誰にも目撃されずに縫い合わされたかも、わしは知っておるのじゃ」

「へえ、それはよかった。私には関係ないけど」

「あの日、彦からマヌエラへの誕生日プレゼントと紹介されてステージに運びこまれた台には、はじめからケーキなぞのっていなかった。布団と死体がのせられていた。汝の手下によって」

「私には手下なんていないわよ。それにその従業員とやらが、もし本当にそんなことしてたら誰かに目撃されてるでしょ。その上誰にも見られずに死体を布団に縫いつけるなんて、さらにムリな話」

「どうしてムリだと汝にわかる?」

「え、それは・・・・・・」

「ほっほ、馬脚をあらわしとるぞ、彦。たしかに死体は、パーティーが始まったときには、縫われてはいなかった。しかしマヌエラのダンスが始まると同時に、汝は縫う作業をはじめたな?」

「なにをいってるの。私はずっと客席にいたのよ」

「それじゃから、わしも今まで悩んだ。汝が客席にいながらにして、いかにして死体を縫ったかが、わからなくてな。じゃがさっきマヌエラが踊っていたときのみなの動きを見て、答えがわかった」

「それはなんです?」みながのりだした。

「手拍子じゃ。中国人の坊主の男は台を舞台裏に用意し終えたあと、黒い糸をとおした針を一度だけ、死体の皮膚から布団へ、布団から死体の皮膚へと、くぐらせておいた。

 その針には穴が二つあった。一つには今いったとおり黒い糸が通っていた。もう一つには肉眼では捕えがたい、蜘蛛の糸にも似た透明で極細の糸が通っておった。その糸は非常に長く、客席に待機するピックの両手につながっていた。

 拍手するたびに、その動きが透明の糸を通して伝わり、離れた所にある針が自動的に動く仕組みになっていた。

 つまり手拍子をとるたびに、手の動きがミシンの役割を果たし、針が自動的に死体の皮膚を一針一針規則的に縫うように設定されていたのじゃ。

 彦はマヌエラの踊りにあわせて手拍子をとるふりをして、客席で死体装飾の最後の仕上げを行っておったのじゃ」

「あはは、荒唐無稽よ。第一そんな透明で丈夫な糸がこの世に存在するわけないじゃない」

「イザナミが持っておる。汝とイザナミは手を組んでいたのじゃろう?」

「なんの話だかサッパリよ。イザナミの居場所を知ってたら、先生に教えてたわ」

「嘘をつくな! もうわかっておる。イザナミが大谷光瑞を使って、あの糸でわしを捕えさせ、蜘蛛に変えたことも。わしに反発して池津家を大地ごと消して池に変えたことも。汝は汝でわしをギャング団の手下に襲わせてどぶ川に投げこみ、光瑞に誘拐されたふりをしてわしに捜査をやめろと脅迫しおった」

「それが本当だったら私って相当ひどい女ね」

「男の間違いじゃろ。汝の罪状は右にとどまらん。汝は他人に殺人の罪をなすりつけんがため、佐助邸、杜邸にしのびこみ、私物を盗みおった。しかも泥棒の正体が自分とばれぬよう、坊主と髭姿に変装。光瑞かと思われるような格好をしとった。万一光瑞でないとばれても、他人に罪を転嫁できるよう、手下に坊主と髭の格好をさせて『アルカディア』で働かせ、事件当日には死体を中に運び込ませたんじゃ」

「私が坊主と髭の変装をしたと?」

「これでも否定するか!」

 イザナギはピックの髪をつかみ、いきなり引っぱった。

「あっ・・・・・・」一同は息をのんだ。

 髪はいっぺんに剥がれた。ピックの頭はかつらだった。その下からはつるつるの坊主頭があらわれた。

「若いのに、全部抜けたか」

 イザナギがニヤニヤしていった。その瞬間、ピックは両手で顔を覆い、わめいた。

「ひどい、ひどい。馬鹿にして。そうよ、私が殺した。殺しちゃ悪い?」

「やっと崩れたか」

「日本軍だって共犯よ。私は中国侵略を推進する日本軍の連中や大谷光瑞の野望に巻き込まれただけよ」

「池津由美を殺すのが、日本軍の命令だったとでもいうのか。布団を叩く音がうるさかったから、やったんじゃろう?」

「たしかに、うるさかった。だってあの音ときたら──日本人ってバカだと思う。布団なんて叩いても、繊維を傷つけるだけなのに」

「そう思うなら、殺さなくても本人に一言注意すればすんだはずじゃ」

「あんなバカ、話す気もしなかった。ああ悔しい、こんなことなら、あのバカをやるのに貴重なナイフを使うんじゃなかった。でもあのナイフを手に入れた時、ジル・ド・レエ候(十五世紀の犯罪者)みたいに自分もこれで人を刺してみたいと思ったのを忘れられなくて」

「汝はそのように残酷で利己的な人間じゃ。じゃから、わしの捜査に協力するふりをして、わしや『アルカディア』にいた外国人を悪者にすることで、タカ派の軍人どもを味方につけ、自分の野望を満たそうとした」

「そうよ、私は芸能人として成功したいのよ。そのためには利用できるものは、なんでも利用するのよ」

「イザナミもか?」

「イザナミは連中の力になってたから知り合っただけ。賢い神よ。あんたとは正反対のワルでね」

「・・・・・・もう我慢ならん。天狗、さっさとこいつを連れていけ」

「合点だ。けど、どうやって連れてこう」

「私の自動車を使ってくれ」杜がいった。

「本当すか? 警官嫌いなのにいいんすか」

「ティンクラー警官は例外かもしれません」

「それじゃ、お言葉に甘えて。俺もマフィアの杜先生に対する考えが変わりやしたよ」

 ティンクラーは手錠をはめたピックを高級自動車に乗せて租界警察署まで連行する。

「しかしミスター、よく謎が解けましたね」

 サッスーンがいうと、ひと段落ついてホッとしたようすのイザナギが、冗談めかしていった。

「佐助、今日はよくきたな。わしを阿片窟に置き去りにした気まずさに天津に逃げたと思っておったぞ」

「あれはそんなつもりはなかったんです。実はピックに仕組まれまして──私はミスターのことはずっと忘れられませんでした。その意味はおわかりでしょう?」

 そう聞いてサッスーンはイザナギに妙な色目を使った。

「はて、どんな意味じゃ」

「本当に、わかりません?」

 サッスーンはいいながら腰をイザナギにすりよせた。

「いやですねえ、ミスター。私にはじめて会ったとき、光る物で威嚇しましたよね。あれを私が忘れられるとでも思ってるんですか」

「睾丸のことか。わしのは人間のとちがって光るからな、威嚇になると思って光らせて見せたのじゃ。効果があったじゃろ」

「ええ、十分すぎるくらいに。できればもう一度見せていただきたいんですけど・・・・・・」

 サッスーンは上目使いをした。

「なぜじゃ」

「そ、それは・・・・・・」

「もしかして汝もゲイか? その関係でピックと面識があったのか。ピックにたのまれて阿片窟にわしを連れて行ったのは、そういうわけか」

「もう、恥ずかしいです」

 サッスーンが頬をそめ、どさくさまぎれにイザナギに抱きついた。周りの連中がわざと咳払いする。

「お二人とも、いい雰囲気のとこ申しわけありませんが──」

 林記者が遠慮がちに口をはさんだ。

「いい雰囲気じゃと? とんでもない」

 イザナギはサッスーンを引き離す。

「わしはイザナミひとすじ」

「先生がなぜ謎を解けたか、答えを教えていただけませんか。あの糸のことなど、どうしてわかったのでしょう」

「それはな──」

 イザナギはみなにむかってニコリと笑っていった。

「わしがイザナギじゃからよ」

「あ、ちょっと待ってください」

 林がつっこもうとしたとき、イザナギはすでに歩きだしていた。

「わしは行かねばならん」

「どこへです」

「イザナミのいるところへじゃ」そういうと光瑞を見ていった。

「アマテラス、地上の光はまかせたぞ」

 光瑞はぽかんとし、目をしばたいていった。

「え。アマテラス? 今私にアマテラスいわはりました?」

 イザナギはハッとして、

「そうか、アマテラスはもう汝の体を離れたのか。おーい、アマテラスー、聞こえるか」

 虚空にむかって声をはりあげた。すると声が返ってきた。

「光はまかせてくださーい。私はこれからちょっとスサノオを探しに行きまーす」

 姿は見えなかった。だがイザナギは声の聞こえた方にむかって、

「よろしくなあ」

 と叫ぶと、飛行船に乗り込み、サッスーンを呼んだ。

「佐助、わしを岩戸に連れて行くのじゃ」

 返事もきかずに今度は天の岩戸を見上げて声を張り上げた。

「おーい、イザナミー! わしは今からそっちに行くぞう」

「イザナギさん、待ってください。別れのあいさつもなしに天へ行くつもりですか?」

 林が引きとめようとすると、イザナギはニコッと笑って言った。

「天狗にご苦労じゃったと伝えてくれ。みなの者、仲良くやれよ。戦争だけは回避せねばならんぞ。さ、佐助、船を出せ」

「了解です、ミスター」

 サッスーンはゲイでも英国紳士らしく涙をのんで従った。

 イザナギをのせた飛行船はみるみる上空に昇っていく。天の岩戸に近づくと、イザナギは待ちきれなくなったようすで自らドアを開けて足を出した。

「先生・・・・・・」杜が見上げて言った。

「イザナギさん・・・・・・」

里見、林が呼ぶなか、イザナギは脇目もふらずに天の岩戸に足をかけた。

「さようなら、ミスター!」

 サッスーンが操縦席から叫んだ。

 イザナギは半身を岩屋に差し入れた。その瞬間、

「おい、イザナミ、これは・・・・・・」

 驚きの声をあげたかと思うと、ふたたび外に顔をだしていった。

「佐助、ここに地上に帰るべき人がもう一人おったぞ!」

「だれですか」サッスーンが驚いて顔をあげた。

 イザナミは一人の男を天の岩戸の前に押し出した。

 それを見るなり、サッスーンはハッと息をのんだ。イザナギはイザナミにいった。

「この人はやっぱりおまえが隠しておったか」

「そうだよ、あんたを困らせるために私が一時地上から消したんだ」

「さあ、汝はもう自由の身じゃ」

 イザナギは男の背中を押した。男はふしぎそうにイザナギを見た。男は池津隆だった。

「汝を犯人扱いして悪かった。おまけにわしの妻のせいで、こんな目に」

 イザナギが謝ると、池津隆はいった。

「いえ、ここはけっこう快適でしたよ」

「見かけによらず太い男よ。妻を殺されて悲嘆にくれてるとばかり思ったら、仕事のことで頭がいっぱい。軍の阿片密輸の手伝いなんかやめろというに」

「しかしここにきて、自分の仕事について考えさせられましたよ。死んだ妻に泣かれたことも思い出して。自分は一会社員なのに、日本軍の資金集めにそこまで協力する必要があるのかと。天上にきてよかったです。妻には会えませんでしたが」

「会えるのは死んでからよ。あなたはまだ生きなさい」

「それでは、お世話になりました」

 池津隆は天の岩戸を出て、サッスーンに迎えられた。

やがて飛行船が地上に着地し、池津隆が降りてくると、マヌエラファンたちは歓声をあげて温かく迎えた──。

 そのようすを天から見下ろしてイザナギはイザナミにいう。

「おほほ、国籍の違う者同士が仲良く笑いあっておるわい。成功じゃな」

「どうかしら。戦争が回避できるとは限らない」

「しかしあの輪にいるのは上海の各国代表ともいえる者たちじゃ。何かあったときは、あの者たちが上海の同胞を動かして戦争回避へと舵をとってくれるかもしれん。なにはともあれ、わしらの上海での役目は終わったな」

 イザナギが意味ありげな目をむけると、イザナミは笑顔になっていった。

「私があんたに憎まれ口をきいたのは本気じゃないって、わかってたのね」

「おまえはあえて悪役を演じたのじゃろう。日本軍の邪魔をするために日本軍の懐に入る必要があった。池津隆をさらったのは、軍の資金源となる阿片密輸を滞らせることが目的じゃったのでは」

「当たりよ。もう一つ、あなたの誤った捜査から彼を守るためでもあったけど。よくわかったわね」

「わしらが、この時代の上海に降りた目的は同じ。じゃな?」

「そうね。戦争が起きなければ、きたかいがあるというもの。こうしてまたあなたと二人になれたし」

「それじゃ一緒に故国の空へと戻るとするか」

 二人は抱き合いながら上海を離れていった。


 しかしイザナギイザナミの願いにもかかわらず、そのあとひと月もせずに田中隆吉の謀略によって日中両軍は衝突し、上海で戦争が勃発することになる。

                                      了

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上海こじき 吉津安武 @xianglaoshe

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