結婚とはイバラの道だ ~パクチーの王様~



 月末、芽以は会社に行った。


 いよいよ、最後の朝だ。


 見慣れた受付からの景色。


 朝日に輝くガラス張りの玄関。


 初めて此処に緊張しながら立ったときのことを思い出す。


 すべてが懐かしく、涙が出そうだった。


 同期のみんなや職場のみんなが途中で来てくれて、それぞれ大きな花束をくれた。


 課長が笑って言ってきた。


「今度、パクチー食べに行くよ」


「ありがとうございます」


 同期が笑って言ってきた。


「パクチーは食べないけど、行くね」


「……ありがとう」


 その気持ち、ちょっとわかる、と思いながら、芽以は笑った。





「お店やっててよかったです」


 送別会は週末なので、今日はそのまま帰り、夜の営業を手伝った。


 逸人にそう言うと、なんでだ? と料理を出しながら、訊いてくる。


「だって、みんな、お店覗いてくれるって言ってるし。

 会社辞めても、またみんなに会える気がするから」

と言うと、


「……そうか。

 じゃあ、みんなが何度も来てくれる店にしないとな」

と目を伏せ、微笑む。


 はいっ、と言いながら、芽以が、


 ま、パクチー入れない方が誰でも何度でも来てくれそうだけど、と思っていると、逸人は逸人で、


「だが、男は来なくていいがな……」

となにを疑ってか言ってくる。


 いや、別に社内に私をいいなんて思ってる人、居ないと思いますけどね、と思いながら、芽以は料理を運んだ。





「お待たせしました」


 追加の料理を持って行った席は、男の人二人で呑んでいた席で、酒がかなり進んでいるようで、ちょっとやかましかった。


 楽しく呑んでくださるのはいいんだけど、周りのお客様がちょっとご迷惑そうだな、困ったな、と芽以は思っていた。


 此処、個室とかもあるといいんだけど、と思いながら、行こうとしたとき、

「あっ、ちょっと待って」

と片方の男が言い、芽以の手をつかんだ。


「ごめん。

 ワイン、さっきと同じ銘柄の追加ね」


 ま、まだ呑む気ですか、と思いながらも、

「あ、はい」

と行こうとしたが、男は手を離さない。


 困る芽以を面白がるように見て、笑っている。


「あのっ、は、離してください」

と小さな声で芽以は言った。


 お客様だしな~。

 あまり騒ぎ立てると他のお客様の迷惑になるしな~。


 なんとか静かに振りほどこうとしたのだが、男もその連れもニヤニヤしているだけだ。


 近くに居た常連の奥様が見兼ねたらしく、立ち上がったそのとき、誰かが男の頭から、水をかけた。


 大きなピッチャーを手にした逸人だった。


「おっ……」


 なんて言おうとしたんだろうな、と芽以は思った。


 お前、なにしやがる?


 俺はお客様だぞ?


 なんだったにせよ、彼のその言葉は口からは出なかった。


 逸人が張りのある声で、先制攻撃のように言い放ったからだ。


「お客様は神様ではない」


 先日、芽以に、

「タネは死んだ」

と言ったときと同じ口調だった。


「お客様は神様ではない。

 帰っていただいて結構だ」


 お、お客様は神様ではないかもしれませんが。


 なにやら、王様らしきものが此処に居るのですが……となにを語っても、説得力のある口調と態度の逸人をみなが見上げていた。


 王様だ。


 パクチーの王様だ。


「お客様は神様ではない。


 お客様はお客様だ。

 かしずくのではなく、大切にもてなしたい」


 友人をもてなすのと同じように、と逸人は言った。


 芽以は、なにも聞かずともしずかにココアを入れていた逸人を思い出していた。


「これ……っ」


 これが大切にもてなしてんのかっ、とずぶ濡れな男は言おうとしたようだ。


 だが、やはり、それも言えなかった。


 逸人がよく通る声で先に言ったからだ。


「友人なので、気に食わなければ、縁を切る」


 ……切るんだ、と泥酔した客ではなく、正気な客たちの方が凍りついたような顔をしていた。


 男はなにも反撃してきていないのに、更に逸人は言いつのる。


「さあ、SNSで拡散するがいい。

 ……丁寧におもてなしをするには、ちょっと客が多すぎると思ってたところだ」


 ひっ、と客たちが固まる。


 シェフ!

 私は来させてくださいっ、とみんなの顔には書いてあった。


 ……此処は、頑固な寿司屋か、と芽以は苦笑する。


 でも、常連のお客様たちは知っている。


 逸人さんがお客様が残したものを確認して、次に出すときは、なにも言わずに、その食材を減らしたりしていることを。


彬光あきみつくん」

と芽以は彬光を呼んだ。


「はいっ、芽以さんっ」

と彬光は水のたっぷり入ったピッチャーを持ってきた。


 更にかけろというのか、どんな店だ、と思いながら、芽以は、

「いや……タオル」

と小さく彬光に言った。





「さっき、騒ぎがあったんだって?

 早く来ればよかったー」


 閉店間際、店に寄った日向子が厨房を覗き、そんなことを言ってきた。


「阿呆か」

と言いながら、逸人は、


「なにか食べるのか?」

と訊いている。


「いや、今から出かけるから」


 なんとなく、誰とっ? と芽以は思ってしまった。


 この間、日向子が、

「私、ようやく、圭太の呪縛が解けたのよっ」

 などと抜かしていたからだ。


 だが、そんな芽以の顔を見て、日向子は笑う。


「やあね、圭太とよ。

 誰だと思ったの?」


 ……静さんだと思ってました、と思っていると、

「この間、呪縛が解けたって言ったのは、圭太に固執するのはやめようと思ったって意味よ。

 圭太と結婚するかはわからないけど、やっぱり圭太が好き。


 一生を共にしたいと思うのは圭太だから。


 ……今はね」


 その今はね、が気になるんですけどーと思いながら、じゃあ、と本当に時間つぶしに寄っただけだったらしい日向子が去っていくのを二人で見送った。


「いいんですか? あれ」

と言うと、


「いいんだろう」

と逸人は言う。


「なんだかんだで、日向子は圭太と一緒になるさ。

 ……あいつも俺と一緒で執念深いからな」


 ひい、と思いながら、

「あのー、静さんは」

と訊いた。


 そう言えば、最近見ないな、と気がついたのだ。


「静は今、自分の絵を買ってくれたとかいう未亡人が気になっているようだ」


 また突然、斜め上を行くなー、と思っていると、

「お前も日向子と圭太が一緒になってくれた方がいいだろ。

 そのために無理やり別れさせられたようなもんだから、あの二人がくっつかなかったら意味がわからんと思うだろうが」

と多少嫌味まじりに逸人が言ってくる。


「いえ。

 私は日向子さんには感謝しています。


 だって、日向子さんが圭太と結婚すると言ってくれなかったら、逸人さんが私と結婚してくれる未来もなかったと思うから」


 そう芽以が言うと、近くで誰かが笑った。


「聞いてないフリして聞いてるんですね」

と逸人がそちらを見て言う。


 身なりの良い、恰幅のいいおじさんがひとりで食事をしていた。


「逸人さんでも妬いたりするんですね」

と男は言う。


 ひとりお客様が残ってるのに、珍しく、私用でずっとしゃべってるなと思っていたのだが、どうやら、知り合いだったようだ。


 安藤というその男は、相馬の会社の重役だと芽以に名乗った。


「私が代表してお話に来ました。

 会社に戻られるつもりはないようですね」


 社長から聞きました、と安藤は言う。


 この間、相馬の家でした逸人の演説のことらしい。


「我々は圭太さんに難癖つけたいわけではありません。

 そして、我々の目は節穴ではありません。


 ……でも、我々が認めた貴方が、圭太さんでいいとおっしゃるのなら、それに従っても、大丈夫だということなのでしょうね」

と少し寂しそうに安藤は言った。


 圭太が社長になるのが嫌だというのではなく、単に、逸人の下で働いてみたいと思っただけのようだった。


 逸人は、安藤に向かい、頭を下げた。


「無礼なことを申し上げまして、申し訳ありませんでした。


 でも、圭太は……


 兄は必ずや、貴方がたの期待に応えられる社長となると思います。


 会社は圭太に。

 私の城は此処で充分です」

と言って、逸人は狭い店内を見回す。


「どうか、私を此処のあるじで居させてください」


 パクチーの王様は、そう臣下に願った。


 安藤は目を閉じ、わかりました、と微笑む。


 逸人には、安藤が圭太に難癖つけているわけではないことはわかっていたと思う。


 人の好意のわからぬ人ではないから。


 ……私の好意はあんまりわかってくれてないみたいだが。


 未だに圭太の方が好きだったんじゃないかとか、隙あらば、疑い始めるからな、と芽以が思ったとき、安藤が笑って言ってきた。


「いやあ、実は私、パクチー好きで。


 若いとき、出張でタイに行ってハマってしまったんですよ。


 逸人さんの作る料理気になって気になって」


 ほんとはずっと来たくて仕方なかったんです、と言う。


「いやあ、美味しかったです。

 私、パクチーの匂いを嗅ぐと懐かしくてですね。


 子どもの頃、田舎で育ったので。

 よくみんなで、指にカメムシの匂いつけて、鬼ごっこして遊んでたんですよー」


 ひっ、と芽以は息を呑んだ。


「好きな子をわざと追い回したりとかね」

と安藤は子どものように笑ったあとで、


「いや、ほんとに美味しかったです。

 また来ます」

と言う。


 逸人は、パクチーモヒートをご馳走すると言って、奥へと入っていった。


 芽以は安藤を見上げたあとで、

「ありがとうございます」

と頭を下げた。


 うん? と微笑んだまま、安藤がこちらを見下ろす。


「私、逸人さんが社長の器だと褒めてもらうより、今の一言の方が何倍も嬉しいです」


 そう笑顔で言うと、安藤は、

「……芽以さん。

 逸人さんは、いい奥さんをもらわれましたね」

と言ってくる。


 そういえば、この人、見たことがあると思っていたら、子どもの頃、圭太と逸人と庭で遊んでいたら、よくお菓子をくれていたおじさんだ、と気がついた。


「でもま、悪妻のほうが伸びる時もあります。

 そこに期待しましょうかね」

と安藤は、ニンマリ笑う。


 ……悪妻って、日向子さんのことだろうか。


 いや、そんなこともないような、とは思ったが。


 すぐに日向子のことだと思い当たってしまった時点で、自分も安藤と同罪だろう。





 閉店後、片付けをしている逸人は、なんたがすっきりしたような顔をしていた。


 会社の方がようやく落ち着きそうだと思ったからだろう。


「芽以」

 食洗機に入りきらなかった皿を洗いながら、逸人は言ってくる。


「さっき、お前は、俺は日向子のことがなければ、お前とは結婚しなかっただろうと言っていたが。


 もし、そうなっていたら、俺は誰とも結婚していない。


 子どもの頃から、結婚して誰かと暮らす未来を思ったときには、いつも頭の中に、お前が居たからな」


 お前はずっと圭太と居たのに、それでも―― と逸人は言った。


 水を止め、こちらを向く。


「芽以……」


 はい、と見上げると、

「結婚とはイバラの道だ」

と逸人は語り出す。


 俺の両親を見てるとよくわかる、と。


 いや、もっといい話はないのですか、と思っていると、逸人は、

「それでも俺はお前と一緒に年をとっていきたい。

 そして、長い人生の最後にお前と暮らした日々を振り返たい」


 そう言った。


 なんだろう。

 涙が出るな。


 自分の人生にこんな瞬間や、こんな感情が訪れる日が来るなんて思ってもみなかった。


 芽以は自分のエプロンを握りしめ、

「……逸人さん」

と消え入りそうな声で呼びかけた。


「大好きです」


 初めてハッキリ口に出して、そう言った気がする、と思った。


「生まれて初めて、好きだと言った相手が貴方でよかったです。


 でも、初めも、最後も、真ん中も。

 きっと、ずっと貴方だけです――」


 逸人が芽以の肩に手をやり、抱き寄せた。


 芽以は逸人の腕に触れ、その白いコックコートの胸に顔をうずめる。


「……すごくパクチーな匂いがします」

「嫌か?」


 脱いでこようか? と言う逸人を、

「いいえ。

 大好きです!」

と笑って見上げた。


 逸人がそっと唇を重ねてくる――。






 街の小さなパクチーのお店には、パクチー嫌いな王様と、やっぱりパクチー嫌いなその下僕が、今日も仲良く住んでいる――。






                             完







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パクチーの王様 櫻井彰斗(菱沼あゆ) @akito1

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