第19話 カッコウの飛び立つ日

「ゆーいっ!」

 音楽室から校庭を見下ろしていたあたしに、佳那が声をかけてきた。

「なに?」

「なにじゃないよー。いつまでひとりで思いにふけってんの? そろそろ卒業式始まるよ」

 そう言いながら佳那はあたしの隣に立ち、一緒に雪の残る校庭を眺める。

「はぁー、さむー」

 だけど、外から吹き込む冷たい風に体を震わせ、すぐに窓を閉めた。


「ねえ、優衣。あんた、朋樹の告白、また断ったんだって?」

 窓を閉めると、佳那があたしに向かって言う。あたしは小さく苦笑いをして、佳那の前でうなずいた。

「もったいないなー、もう」

 そう言ってため息をついたあと、佳那は付け足す。

「あ、朋樹のことじゃないよ? あたしは優衣のことを言ってるの」

「え?」

「だって優衣さ、誰とも付き合わないうちにJKライフ終わっちゃったじゃない? もったいないよ、あんたモテるのに」

 あたしがモテる? あたしは自分がモテるなんて一度も思ったことない。あたしって人付き合いもよくないし、佳那みたいに素直に笑えないし。

「あたしなんてモテないよ」

「またまたー。優衣ってさ、見た目ほんわかしてるのに、実は芯が強いって言うか、ぶれないよね。そういうところを朋樹も好きなんだと思うし、あたしも優衣はすごいなって尊敬してたんだよ?」

「最後だからって、褒めすぎ」

「もっと褒めようか?」

 佳那がちょっと首をかしげて、いたずらっぽく笑う。あたしは小さく微笑んでから、バッグの中からチョコレートを取り出し、佳那にひとつあげた。キャンディーみたいに包んである、甘いミルクチョコレート。あたしは自分の分も口に入れて、また窓の外を見る。


 空は青く晴れ渡っていた。どこまでも広い空を、一羽の鳥が飛んでいた。

 ――鳥になれたら……。

 いつかの想いが、ふいに頭をよぎる。

 ――自由に飛んで行けるのに。

 口の中でチョコレートがとろりと溶ける。佳那が「そろそろ行こっ」と言って歩き出す。だけどあたしはその場を動くことができなかった。

「裕也……」

 誰もいない校庭の隅っこで、一匹の犬とじゃれあっている人影。その姿は遠くて小さいけれど、あたしにはわかった。裕也の姿が、あたしにはわかった。

「優衣? どこ行くの! 卒業式始まっちゃうよ!」

 音楽室を出ようとしていた佳那を押しのけ、あたしは廊下を走る。階段を駆け下り、上履きのまま玄関を飛び出した。


 雪の積もる山から吹き降ろす冷たい風が、あたしの頬を叩く。上着を着ていないあたしの体を、一瞬で冷えた空気が包み込む。

 だけどそんなことはどうでもよかった。あたしは広い校庭を、その人に向かって真っ直ぐ走り抜ける。

 白い息を吐きながら立ち止まった。しゃがみこんで、茶色い犬の頭をなでている背中が目の前に見える。やがて、あたしと同じように白い息を吐きながら、裕也が振り向いてつぶやいた。

「さっみーなぁ、ここ」

 あたしの大好きな、少しかすれた男の子の声。その声はあの頃と変わっていない。裕也は立ち上がると、黒くて長めの前髪を右手でかきあげて、あたしの前で笑った。


「来たよ」

「……うん」

 うなずいてあたしは、涙の笑顔を見せる。この町に来てから、どんなことがあっても泣かなかったのに。裕也が「泣くなよ」って言ったから、絶対泣かなかったのに。

 そしたら裕也が、あの頃よりも伸びたあたしの髪を、大きな手でくしゃっとなでた。

 これは夢かな? 夢かもしれないな。だって本当に裕也が来てくれるなんて、ありえないでしょ?

 校舎の窓からみんなが騒いでいる。きっと佳那は目を丸くしてあたしのことを見ているだろう。朋樹も見ているかもしれないな……ごめんね。


「なんか、腹減った」

 あたしの髪から手を離した裕也が、いたずらっぽい顔でそう言った。

「チョコレートなら、持ってるよ」

 あたしはポケットの中からふたつのチョコレートを取り出す。茶色い犬がしっぽを振って、くんくんにおいをかいでいる。

 いつからだろう。あたしがポケットにチョコレートをしのばせるようになったのは。いつ裕也に会ってもいいように、あたしのポケットにはいつもふたつ、チョコレートが入っていた。

 あたしはやっぱり、裕也の言葉を信じていたんだ。

「さんきゅっ」

 裕也は笑って、ひとつを口に放ると、もうひとつをあたしの手に握らせた。裕也の手の温かいぬくもりが、あたしの手を伝わって胸の奥に入り込む。

 あたしはそのチョコレートを口に入れて、空を見上げる。青く澄んだ空を、一羽の鳥がすうっと横切ってゆく。


 その日、裕也と食べたチョコレートは、今までで一番甘い味のするチョコレートだった。

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カッコウの飛び立つ日 水瀬さら @narumiyu

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