賢い犬ジェイク・シュナイダー

大澤めぐみ

賢い犬ジェイク・シュナイダー



 ジェイクが脱走したのは7月の終わりのことだった。



 父の仕事の都合で大阪から名古屋に引っ越すことになったのだけれど、中学三年生の僕は時期的に中途半端になってしまうから、先に父だけが名古屋に引っ越しをして、母と僕は僕が中学を卒業して高校に入学するタイミングで父のところに移る手はずになっていた。



 数カ月のこととはいえ、家族と離れてひとりで暮らすことになる父が寂しくないようにと、ジェイクは父が先に名古屋へ連れていくことになった。ジェイクはとても賢く、思いやりがあって優しい犬なので、ジェイクがいれば父もきっと、ひとりの夜でも寂しくないだろうと、家族の誰もがそう思った。


 ジェイクはゴールデンリトリバーっぽい雑種犬で、多くのゴールデンリトリバーがそうであるようにいつも笑っているような顔をしているのだけれど、多くのゴールデンリトリバーがそうであるように楽しそうな笑顔ではなく、ニヒルな含み笑いをしているような顔をしていた。あと、タテガミのように頭頂部分の毛だけが長かった。ちょっと特徴的な犬だ。


 ジェイクは僕によく懐いていたが、僕のことを自分の子供か手下のように理解していた節があった。僕がまだ赤ん坊の頃から家にいたので、僕の身体がすっかり大きくなった今でも、僕のことをチビ助だと思っているようなのだ。ジェイクにはそういう、一度こうと思い込んだらなかなか修正されない、ちょっと頑固なところがあった。



 僕が父の車に乗せられて名古屋に向かうジェイクに手を振った時、半端に開いた車の窓から顔を出していたジェイクが驚いたような表情をしていたのをよく覚えている。たぶん、僕と引き離されてしまうと思ったのだろう。もちろん、僕とジェイクは大阪と名古屋で引き離されてしまうわけだけれど、別に永遠の別れというわけじゃない。半年もすればまた一緒に暮らすことができるのだ。けれど、いくらジェイクが賢い犬でも、犬にそういった人間の事情を完全に察することは難しかっただろう。


 ジェイクはきっと、僕のことを心配してくれたのだ。あのチビ助が、俺と離れ離れになったら可哀想だと。ジェイクは父が多賀インターチェンジで休憩を取ろうと車の扉を開いた隙に、スルっと外に抜け出してそのまま脱走して行方不明になってしまった。家に電話を掛けてきた父はすっかり狼狽していて何を言っているのかよく分からず何度も訊き返して確認することになったので、僕と母がそういった事情をすっかり把握するまでに随分と時間がかかってしまった。そうこうしている間に、ジェイクの姿は多賀インターチェンジの周辺からは消えてしまっていた。


 父と母は随分と落ち込んだけれど、僕はそれほど落ち込んではいなかった。落ち込んでいたってジェイクは見つからないのだ。なるべく早く、とれる行動をとるべきだ。落ち込むのは、後からでもいくらでもできる。


 時代はSNS全盛である。僕は特徴的なジェイクのニヒル笑いの画像を添えて、SNSで情報提供を呼びかけた。善意の人がたくさん協力してくれたおかげで情報提供の呼びかけはあっという間に拡散され、やはりジェイクのニヒル笑いは特徴的なので、たくさんの情報が次々と集まった。



「長浜城の公園の木陰で寝ころんで休んでいるジェイクを見た」



 そういって送られてきたリプライに添えられていた画像は、たしかに木陰でゴロリと寝転がり上半身を起こしたジェイクだった。この特徴的なニヒル笑いを見間違えることはない。しかし、詳しい事情を訊くと撮影者がカメラを向けると立ち上がって脱兎のごとく逃げ出してしまったそうで、今の居場所は分からないということだった。



「湖北公園を歩いていたら湖からザバッと犬が上がってきて驚いた。ブルブルした後でニヒルな笑いを浮かべていた」



 またしても、添えられている画像は間違いなくジェイクだ。長いタテガミのような毛が水に濡れて顔に覆いかぶさっていてワイルドな感じだけれど、その特徴的なニヒル笑いは濡れたぐらいでは変わらない。ここでもまた、撮影者がカメラを向けるとダッと走って逃げてしまったらしい。しかし、ジェイクは彦根から湖北まで泳いで渡っていったのだろうか。僕はてっきり、逃げ出したジェイクは大阪の我が家を目指しているものだと思っていたけれど、ジェイクは大阪とはまるで反対方向に、どんどんと北上していっているようだ。



「氣比の松原でサーフィンに乗っている犬を見た。ワイルドな前髪のニヒルな顔をした犬だ」



 琵琶湖で泳ぎに目覚めたのだろうか。ジェイクは湖では飽き足らず海に乗り出したようだった。今回添えられていたのは動画ファイルで、サーフボードでダブルオーバーヘッドの波を乗りこなすジェイクの姿はとても勇ましかった。



「糸魚川の海岸で蟹と格闘している犬を見た。一昼夜にも及んだ決闘は引き分けに終わったが、ふたりの間には種族を超えた友情のようなものが芽生えたらしい。それは間違いなくお互いへのリスペクトだった」



 あまたの冒険を経て、ジェイクは上越へとたどり着いていた。旅の途中でさまざまな出会いがあり、無二の親友もできたようだ。



「大間崎の突堤で一匹で佇むニヒルな犬を見た。犬は一瞬の躊躇いを見せたが、意を決したようにザブンと海に飛び込むと北海道のほうへとどんどん泳いでいってしまった」



 ジェイクはとうとう本州を脱出したらしい。相変わらずジェイクの目撃情報は続々と届いていたけれど、誰もジェイクを捕まえることはできなかった。



「北海道のバックカントリーでスノーボードをしている犬を見た。前人未踏のまっさらな一面バーンにヤバいラインを描いていた。ナチュラルヒットで1080してた」



 その後ジェイクは北方四島を次々と泳いで渡り、アラスカからカナダへと入ったようだ。カナダでパラグライダーを覚え、アメリカ大陸を横断し、ヨーロッパへと渡って犬として史上初のパリダカールラリー走破を果たすころには、首にモンスターエナジーのバンダナを巻いていた。スポンサーがついたらしい。



 ジェイクの様子は民放の地上波でも時おり伺うことはできたけれど、スカパーではジェイクの特集番組まで組まれているらしい。僕は母にお願いして、ちゃんと受験勉強をすることを条件にスカパーに加入してもらった。



 居間のテレビに映し出されたジェイクは長いタテガミをドレッドにしていて、たくさんの雌犬を侍らせてイケイケな感じになってしまっていた。けれど、その瞳の奥にある純粋な好奇心と野心の炎は、間違いなくジェイクのものだった。ちょっとくらい見た目が派手になってモンスターエナジーのバンダナを首に巻いていたところで、ジェイクの本質はなにも変わってはいないということが、僕にはすぐに分かった。



 ジェイクは今、ブラジルの大湿原パンタナールを走るグレートレースに犬として初めて参戦するところだ。



 ジェイク頑張れ。ジェイク、頑張れ。



 番組が終わったので僕はテレビを消して、受験勉強に取り掛かった。



 ジェイク、頑張れ。ジェイク、頑張れ。

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賢い犬ジェイク・シュナイダー 大澤めぐみ @kinky12x08

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